山口県周防大島物語

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河野氏の家紋

2022年07月28日 07時46分40秒 | 伊予河野家と屋代島(周防大島)
家門の認識は実際はビジュアルに見ないと混乱しますね。

河野家家紋は色んな呼び方があり現物を見ないとよく分からない場合が多いのです。
別紋の州浜紋と一鱗紋を除けば二つの折敷と中の三の形の組み合わせでしかありません。

①折敷は原則二種類
 イ)古来の折敷の形の角が取れていない□か◇の形

   当方はこちらを折敷と表現しています。
   河野家の古い時代の物と思っています。
   根拠としては、河野通有が元寇との戦いで使用したのはこちらの紋で現在「三島神紋流れ幡」として
   大山積神社(三島社)宝物館に重要文化財として現存します。よって当時の大山祇神社神文は現在の
   ものと違って古紋となります。この形が古い時代の河野家家紋であることは道後湯築城博物館も同じ
   認識で復元の幟を立てていますので、現在の全国の河野関係者が湯築城を訪問した最初の自家の紋と
   違うので驚くことも多いのです。
   また、ご案内の見聞諸家紋は日本最古の家紋帖で足利義政が東軍の見分けをつけるために編集させた
   と伝えられます。こちらも河野家はこの◇三紋ですから間違いないです。
   見聞諸家紋は1469年前後に作られたとされます。
   「太平記」の通遠討死の描写に「傍折敷三文字」とあるのが不思議です。
   「太平記」は1371年頃の編纂なので「折敷」でないと変なのですが、引用本の太平記がいつの転写か
   が不明なのでなんとも言えません。印刷技術の無い時代ですので後世何度も何度転写されていますので
   本来の原本に有ったか否か不明です。

 ロ)古来の折敷が進化し角(隅)がとれた変形八角形

 当方はこちらが「傍折敷」と表現しています。
 別に角切とも隅切とも表現されます。

 こちらが現在一番ポピュラーです。

折敷は「御食(おしき・をしき)の訛ったもので本来は神に供え物(食物)を捧げる為の盆が始まりとされ
これらは平安時代から見られますが、当時はまだ正四角形の折敷でした。後に技術が発達し、変形八角形の
形になったとされます。私は「傍」を角切ありの意味で解釈していますが、本来「傍」はかたわらの意味で
「へり」の意味と思います。供え物が落ちないように「へり」につい立てを立てたとの意味と思います。

②折敷の中の三の文字は時代により変遷します。

 イ)一番古いのは毛筆で書いた三文字で一番シンプルです。
   わたしはこれを「漢数字三」と表現します。
   折敷が◇時代はすべてこれです。

 ロ)次が三の字の真ん中の一が少し短めになってデザイン化されたものです。

 ハ)他に三の字の一の長さがすべて同じものでこれを「算木の三」と表現しています。

   こちらは河野家関係の寺の瓦に使われている場合が多く見分ける為に河野家寺紋と呼ぶ場合が
   あります。理由は簡単なのです。毛筆の三では手製で同じ瓦を沢山焼くのが難しかったのでしょう。
   瓦が伊予に普及するのは室町後期とされます。現在、窯場で一番有名なのは伊予菊間瓦です。
   この瓦はいぶし銀色で最高級の瓦です。この菊間瓦が普及したのは上方から瓦の版型(親版)の
   技法が伝わってからです。所謂、現在の「金型」です。この親型を作る時に作りやすい算木三を
   採用したものと思われます。第二次大戦後の吹き替え工事ではどのようなデザインも作れますので
   間違ったデザインを採用している寺もあります。例として牛福通直の菩提寺竹原長生寺は屋根の
   葺き替えをしていますが「縮三文字」に変更してしまっています。
   天正16年に牛福通直の弔いの為、母親が高野山に登り通直の慰霊塔を建てますがこちらは漢字の三
   で建立されています。

 ニ)三が揺れか縮か

   揺れも縮も基本的には同じです。
   この形は戦国期以降からの使用と思われます。

   江戸期以降現在に至るまでこれを正紋と認識している河野家子孫が多いのはこの為です。

   「揺れ」「縮」の論拠は後世の作であろう河野家「予章記」に
    「白村江の戦いの時、舟の舳先に掲げた家紋の三の字が波に映り、揺らいで見えた為」と
   語りますが、この時代に幕紋を押し立てていく戦はありませんし家紋の概念もありませんから
   後世の作話ですが、子孫たちはそれを信じそれなりに家紋を作成していったのでしょう。

   大山祇神社の神紋を家紋にする前は、河野家は「州浜紋」と思われます。

   また「一鱗紋」の併用は北条家から養子を貰ってからの使用紋と思われます。

河野家が折敷三文字紋にこだわるのは「予章記」や「予陽河野家譜」に書かれる、
「鎌倉で宴会の折、源頼朝から家来の中で三番に重要な人物であるとして、酒を折敷にのせ三番目に頂いた
 とする」記述ですが、これは後世の挿入です。これ以前に大山祇神社神紋は「折敷三文字紋」です。

ちなみにこの鎌倉の宴会は材木座海岸でしたと河野文書は書きますが、ピクニック風ですが、実態は材木座にあった
河野通信邸での宴会と思われます。宴会はあったのでしょうが河野が鎌倉政権のNO3とは考えられません。
この材木座の河野鎌倉屋敷を探していますがまだ見つかりません。だれが知りませんかね?




> の部分は、「傍」の字の入力間違いかと存じますが如何でございましょう。

この表現は栃木県の越智姓系図に書かれているのであればと云う意味です。

現在の家紋屋は「傍折敷」も「折敷」も同じと説明していますので話がややこしいのです。

太平記の傍折敷も栃木県越智姓系図の傍折敷も、実態は◇かもしれません。そうすると所謂「折敷」ですね。

よって栃木の系図にある「傍折敷三文字」紋を伝承してる家が現存しているので、現物が見たいな、と思いました。

> 大山祇社のご神紋、正確を期す呼び名としては「隅立て折敷に揺れ三文字紋」といったところでございましょうか(苦笑)。

前述したように現在の大山祇神社の神紋は「隅立て折敷に揺れ三文字紋」ですが、宝物館には
大山祇神社神紋が染められた流れ幡が秘蔵されています。この幡は河野六郎対馬守通有が元寇の勝利を
記念して奉納されたとされます。
以前大山祇神社の社務所の電話して昔はは「◇三文字紋」ですよね?と聞いたら
有史以来「隅立て折敷に揺れ三文字紋」の意味の返答がありました。
「このレベルの神官ではだめなので電話は切りました」

「自分の所の宝物館の神紋を見ろよな!」と思いました((笑)


●屋代様

お世話になっております。
ご解説と「傍折敷」の件のご説明ありがとうございます。
確かに家紋の話でビジュアルが無いと混乱しますね。
と云う訳で、画像を無料で使用できるサイトから家紋の画像を拝借し
屋代様のご投稿に引用形式ですが追加させていただきました。
イメージと異なるようでしたらその点はご容赦ください。


>>50
> 家門の認識は実際はビジュアルに見ないと混乱しますね。
>
> 河野家家紋は色んな呼び方があり現物を見ないとよく分からない場合が多いのです。
> 別紋の州浜紋と一鱗紋を除けば二つの折敷と中の三の形の組み合わせでしかありません。
>
> ①折敷は原則二種類
>  イ)古来の折敷の形の角が取れていない□か◇の形
   
>
>    当方はこちらを折敷と表現しています。
>    河野家の古い時代の物と思っています。
>    根拠としては、河野通有が元寇との戦いで使用したのはこちらの紋で現在「三島神紋流れ幡」として
>    大山積神社(三島社)宝物館に重要文化財として現存します。よって当時の大山祇神社神文は現在の
>    ものと違って古紋となります。この形が古い時代の河野家家紋であることは道後湯築城博物館も同じ
>    認識で復元の幟を立てていますので、現在の全国の河野関係者が湯築城を訪問した最初の自家の紋と
>    違うので驚くことも多いのです。
>    また、ご案内の見聞諸家紋は日本最古の家紋帖で足利義政が東軍の見分けをつけるために編集させた
>    と伝えられます。こちらも河野家はこの◇三紋ですから間違いないです。
>    見聞諸家紋は1469年前後に作られたとされます。
>    「太平記」の通遠討死の描写に「傍折敷三文字」とあるのが不思議です。
>    「太平記」は1371年頃の編纂なので「折敷」でないと変なのですが、引用本の太平記がいつの転写か
>    が不明なのでなんとも言えません。印刷技術の無い時代ですので後世何度も何度転写されていますので
>    本来の原本に有ったか否か不明です。
>
>  ロ)古来の折敷が進化し角(隅)がとれた変形八角形
 
>
>  当方はこちらが「傍折敷」と表現しています。
>  別に角切とも隅切とも表現されます。
>
>  こちらが現在一番ポピュラーです。
>
> 折敷は「御食(おしき・をしき)の訛ったもので本来は神に供え物(食物)を捧げる為の盆が始まりとされ
> これらは平安時代から見られますが、当時はまだ正四角形の折敷でした。後に技術が発達し、変形八角形の
> 形になったとされます。私は「傍」を角切ありの意味で解釈していますが、本来「傍」はかたわらの意味で
> 「へり」の意味と思います。供え物が落ちないように「へり」につい立てを立てたとの意味と思います。
>
> ②折敷の中の三の文字は時代により変遷します。
>
>  イ)一番古いのは毛筆で書いた三文字で一番シンプルです。
>    わたしはこれを「漢数字三」と表現します。
>    折敷が◇時代はすべてこれです。
 
>
>  ロ)次が三の字の真ん中の一が少し短めになってデザイン化されたものです。
 

>
>  ハ)他に三の字の一の長さがすべて同じものでこれを「算木の三」と表現しています。
 
>
>    こちらは河野家関係の寺の瓦に使われている場合が多く見分ける為に河野家寺紋と呼ぶ場合が
>    あります。理由は簡単なのです。毛筆の三では手製で同じ瓦を沢山焼くのが難しかったのでしょう。
>    瓦が伊予に普及するのは室町後期とされます。現在、窯場で一番有名なのは伊予菊間瓦です。
>    この瓦はいぶし銀色で最高級の瓦です。この菊間瓦が普及したのは上方から瓦の版型(親版)の
>    技法が伝わってからです。所謂、現在の「金型」です。この親型を作る時に作りやすい算木三を
>    採用したものと思われます。第二次大戦後の吹き替え工事ではどのようなデザインも作れますので
>    間違ったデザインを採用している寺もあります。例として牛福通直の菩提寺竹原長生寺は屋根の
>    葺き替えをしていますが「縮三文字」に変更してしまっています。
>    天正16年に牛福通直の弔いの為、母親が高野山に登り通直の慰霊塔を建てますがこちらは漢字の三
>    で建立されています。
>
>
>  ニ)三が揺れか縮か
>
>    揺れも縮も基本的には同じです。
>    この形は戦国期以降からの使用と思われます。
  
>
>    江戸期以降現在に至るまでこれを正紋と認識している河野家子孫が多いのはこの為です。
>
>    「揺れ」「縮」の論拠は後世の作であろう河野家「予章記」に
>     「白村江の戦いの時、舟の舳先に掲げた家紋の三の字が波に映り、揺らいで見えた為」と
>    語りますが、この時代に幕紋を押し立てていく戦はありませんし家紋の概念もありませんから
>    後世の作話ですが、子孫たちはそれを信じそれなりに家紋を作成していったのでしょう。
>
>    大山祇神社の神紋を家紋にする前は、河野家は「州浜紋」と思われます。
>
>    また「一鱗紋」の併用は北条家から養子を貰ってからの使用紋と思われます。
  
>
>
> 河野家が折敷三文字紋にこだわるのは「予章記」や「予陽河野家譜」に書かれる、
> 「鎌倉で宴会の折、源頼朝から家来の中で三番に重要な人物であるとして、酒を折敷にのせ三番目に頂いた
>  とする」記述ですが、これは後世の挿入です。これ以前に大山祇神社神紋は「折敷三文字紋」です。
>
> ちなみにこの鎌倉の宴会は材木座海岸でしたと河野文書は書きますが、ピクニック風ですが、実態は材木座にあった
> 河野通信邸での宴会と思われます。宴会はあったのでしょうが河野が鎌倉政権のNO3とは考えられません。
> この材木座の河野鎌倉屋敷を探していますがまだ見つかりません。だれが知りませんかね?


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