山口県周防大島物語

山口県周防大島を中心とした「今昔物語」を発信します。
(興味のある話題のカテゴリーを古い順に見て下さい。)

Re: 戦国期の伊予の武士たち

2022年07月28日 07時38分15秒 | 伊予河野家と屋代島(周防大島)
友近さん江

愛媛県訪問準備万端ですね。
県立図書館へのレファレンスも済んだことでしょうね。

もし時間があれば愛媛県歴史文化博物館へも足を伸ばされることをお勧めします。
県立図書館は司書はいますが学芸員はいません。
その点歴史文化博物館は学芸員が充実しています。
友近さん所望のテーマは学芸課長藤田正氏か、専門学芸員の山内治朋氏の領域かと思われます。
事前に目的を告げればレファレンスには応じてくれるでしょう。

ついでと言っては何ですが、伊予高須賀家の系譜はないか、時間があれば聞いて頂けませんか?
伊予史談会会長高須賀康生氏も同族と思われるのですが、遠祖がはっきりしないのです。
このブログの読者である高須賀氏が探索していますがイマイチはっきりしないのです。

いろいろと勉強されているようですね。
伊予河野氏ですと、景浦先生の「河野氏の研究」をベースにした方がよいでしょうね。
川岡先生は伊予中世史に於ける河野氏が専門ですね。

【中世伊予の山方領主と河野氏権力】は古いですがよく知っています。
私は山方領主の大野家探索もテーマの一つです。大野家は元来河野家の配下ではなく中央政府の被官である
とするのが私の主張です。

【永禄期の南伊予の戦乱をめぐる一考察】【 永禄期の河野氏権力と芸州 -小早川氏による検使の派遣】
こちらは、伊予河野家と伊予宇都宮家との戦いの話ですね。
伊予河野家の背後には、毛利家があり、宇都宮家大野家(菅田家)の背後には、伊予を狙う長曾我部元親
がいますね。名門一条家を乗っ取った長曾我部と一条家と婚姻関係のある豊後の大友家もからみややこしい
戦いです。文中の来島衆大野の表現があるのが気になりました。来島衆に大野と云う人はいないと思うの
ですが。宇都宮家家老大野直之(菅田直之)と河野家筆頭家老大野直昌は敵味方に分かれていますが兄弟です。
直昌の兄の子が「能島家家頼分限帳」に出てくる友田治兵衛こと、大野兵庫直政です。大野直之は負けたので
子孫は長曾我部をたより土佐に逃げ、江戸期は庄屋となり現在まで続いています。直政の子孫も、直昌(ナオシゲ)
の子孫も現存しています。

【天徳寺所蔵「伊予国造家 越智姓河野氏系譜」について (川岡 勉・田中 弘道)】
こちらも有名な論文ですね。
ただこの系図は後世色んな河野家系図を猟収して作成されたものと思っています。
時代考証が合わないものが散見されます。
越智直(あたえ)姓や越智宿祢(すくね)姓の混乱が多く見られます。直と宿祢では格が全く違いますし
この制度制定時期と合わないのも散見されます。また神別と皇別が混乱しています。
ニギハヤヒ元祖は神別ですが、河野系図に多く見られる孝霊天皇元祖では皇別となりますので、色んな系図
の寄せ集めとされる所以です。ただ部分部分では検証に値するものも含まれていると思っています。
田中 弘道氏の論説は少しくせがありますので。

【 越智郡司越智氏から伊予国在庁河野氏への転形─『権記』長保二年(一〇〇〇)十二月九日条を中心に】─…下向井龍彦

こちらは初めて見ました。
個々の出典は知っていますが、少し推論が多い気がします。
河野家の出自は越智家との結論を導こうとしていますが、少し無理がありますね。
国造家越智(小千)はニギハヤヒ系ですので神別となります。しかしながら河野系図は皇別を標榜します。
皇別に対して神別を分けますので混在すること自体が矛盾となります。
相撲人越智氏も在京越智氏もましてや大和越智氏も同族としていますが、少し無理がありますね。
河野親経以前の系譜はやはり変です。新居系図を論拠としていますが、この系図もよく分からないのです。
天徳寺の国造家河野系譜はこちらに似ています。
どちらの系図も伊予大野家は越智河野家の分流と書いていますが、伊予大野家は大伴家の流れです。
一部の大野系図が元祖を大友皇子(天智天皇)としてしまい顰蹙を買っていますが、大伴を大友と誤認した
系図転写時の誤りとみています。

系図は一次史料とはなりませんのでいづれの場合も注意が必要ですね。


●屋代源三様

詳細なご解説をいただき恐縮です。
仰せのように景浦勉先生の著作物で勉強致したいのですが、古書やネットオークション等で
探して見つけ出しても、碩学の先生の本は高価でなかなか手が出せずにおります。(苦笑)

> ついでと言っては何ですが、伊予高須賀家の系譜はないか、時間があれば聞いて頂けませんか?
当日の調べ物の進み具合で何とも申し上げられませんが、司書さんに確認してみます。

「南北朝時代の屋代島」スレッドの屋代様と高須賀様のご投稿を拝見しました。
少々ネット検索を致しましたところ、埼玉県幸手市に「高須賀」という地名がございました。
野田市とは江戸川を挟んだ隣り合わせですので、幸手にも手掛かりがある様な気が致します。
なお、戦国期の幸手にも一色氏の一族が居住していたとの事です。

余談ですが、愛知県特に尾張地区には「高須賀」地名が多数ございます。

 愛知県名古屋市中村区高須賀町
 愛知県一宮市大毛字高須賀
 愛知県一宮市上祖父江字高須賀
 愛知県稲沢市祖父江町甲新田高須賀
 愛知県稲沢市稲島町高須賀
 愛知県あま市二ツ寺東高須賀


●友近様へ

景浦先生の「河野氏の研究」は最近まで「正岡子規記念館」が通販で定価で販売していましたので簡単に手に
入ると思っていましたが、該当HPを見たら在庫がないようですね。残念!
復刻すればよいのですが、版元の伊予史料集成刊行会がどうするかですね。
結構需要があるので復刻すると思うのですが、松山の中古書店ではまだ安いかもしれませんね。
萩藩や長州の明治維新書籍を次々と復刻してくれる「マツノ書店」のような所があれば助かるのですがね。

高須賀氏について

該当の高須賀さんは千葉県野田の出身です。
野田市の歴史館や、高須賀本家菩提寺、分家菩提寺にも調査に行って見ましたが近世の史料のみで
中世のことは分りませんでした。高須賀さんは野田に来る前は伊予に居て、伊予高須賀家の流れで
あるとの想定で調べていますが、伊予高須賀家は二流あって、かつ野田高須賀家との関連が未だ
はっきりしていません。
野田市を本拠とするキッコーマン(亀甲萬)醤油の創業家らと高須賀家は同列に野田史には残りますので
野田高須賀家の探索はキッコーマン本社社史編纂室も創業家の出自がわかるかもと注目しています。
あの有名な日本一の醤油メーカーの創業家の出自が分からないのが社史編纂室も苦労していると言ってました。
キッコーマン醤油は和歌山湯浅醤油の流れと思っていましたが、そうではなくてそれすらも分らないとしていました。
創業家は信州から来たとの伝承ですが詳細は不明とされていました。高須賀氏らと伊予から来た可能性も捨て
切れないとも言っていましたね。もっともキッコーマン醤油は三家の合同会社ですのでそれぞれを調べる必要は
あるのですが。キッコーマン醤油はしょっぱいので所謂、「下り物」ではなく「下らない物」の一つとされます。

幸手の一色さんは元々本家ですね。一色の名は愛知県の一色に赴任したので一色とされていますね。
一色家は名門ですので、全国に広がっていますね。伊予の一色氏とは交流がありますので一色大系図も頂戴
致しました。とても興味深い系図です。美濃土岐家や斎藤家、明智光秀家にも連なる系図ですので中世史では
欠かすことのできない家でもあります。足利一族ですから当たり前ですが・・・。


●屋代源三様

しばらく出張しておりまして、出先のネット接続の環境が芳しくなく、十分な検索が出来ず
帰宅後改めて高須賀氏関連につきまして調べてみました。
野田高須賀氏とキッコーマン創業家の関連、特に大坂の陣関係で①と②を確認致しました。
キッコーマン茂木家の先祖は美濃土岐氏の出とあり、伊予高須賀氏の祖とされる新田氏流堀口氏の
一族で美濃に居住した流れがやはり土岐氏と関係している様ですので、調べたものが③の
『美濃国諸家系譜』の堀口氏系図です。残念ながら手掛かりはございませんでした。

美濃堀口氏が拠点とした西美濃とも称される岐阜県西部に、竹中半兵衛が出た竹中氏がございますが
紀州に転じた子孫の系図があるようで、伊予高須賀氏の祖が紀州から伊予に渡ったとの事ですから
美濃堀口氏も含め他家で西美濃から紀州に移住した事象はなかったかと探ってみましたが、
結果はゼロでした。

伊予と美濃は、土岐氏や河野氏系稲葉氏などの関係もあり、高須賀氏も含めて今後も継続して
勉強したいと思っております。


①MOMOA - 茂木本家美術館 - 美術館について - 茂木本家について
http://www.momoa.jp/about2.html

②異説 醤油の「むらさき」4「キッコーマンと妙見」
http://yagasane.web.fc2.com/imurasaki4.html

③美濃国諸家系譜
https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/200/2075/796/6/0740?m=all&n=20
https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/1101/0541?m=all&s=0541


最新の画像もっと見る

コメントを投稿