友近様
高須賀氏の情報提供有り難うございます。
野田高須賀氏は大坂夏の陣で豊臣方で敗軍となり、下総野田へ流れて来たとの伝承を持っている家です。
野田市史等はキッコーマンの創始者が大坂夏の陣で敗北した人が野田に来て醤油業を始めたと書いていましたので
キッコーマン本社に電話した確認したら、信州からとかの答えでした。これは創業家三家(高梨・茂木・堀切家)
のうちの高梨家についての説明だったのですね。茂木家とは気がつきませんでした。
茂木家は美濃土岐家の分流、江戸崎土岐家の分家萬木(真木)土岐氏でした。土岐頼春の弟が、真木とは知りません
でした。
この真木氏が大坂夏の陣に於いて高須賀氏と共に戦い、千葉県野田に流れてきたことが分ればと思います。
この高須賀氏が伊予の高須賀氏の誰の子かが分らないのです。
伊予の高須賀氏は系図上は二つに分かれており、
一つは【伊予木曽義仲流高須賀系図】 1223年通久石井郷交換入府
高須賀義詮 ┬ 高須賀紀伊守高光
紀伊那智城主 │ 河野通久仕、久米郡朝日山城
│ 小松邑史 朝日山城堀口堯ノ後胤の城
今一つは、【伊予新田流高須賀系図】
堀口備後守堯氏 ┬ 高須賀次郎作(衛)堯寧
初住紀州熊野 弘安年中(1278~1288)
寛元2年(1244)航和気郡堀江甫 住久米郡川上野口郷
康元年中(1256~1257) 久米郡余戸郷野々口邑?
住久米郡熊畑邑 延暦23年川之内と野々口に分離
弘長年中(1261~1264)
道前と道後之中山布船野城主
川上村松瀬村に在り堀口堯氏居城
故有民間に下る。
高須賀高祖云々
参軒屋船野城主 堀口堯氏(新田一族)
野口郷に住み高須賀氏となり
【川上村のおもかげ】
となっていますが、1615年当時の伊予高須賀家で豊臣方で大坂に戦いに行った人がいるか史料を探しています。
豊臣恩顧の臣は伊予にも多く、伊予一色氏も豊臣家応援に出発しています。
尚、伊予の土岐家については以前調べたことがあります。
●【忽那氏】
屋代源三様
別スレッドにも投稿させていただきましたように、google書籍記検索を試したところ
近藤安太郎氏の『系図研究の基礎知識 家系に見る日本の歴史』第二巻に次のような記述が。
温泉(ゆの)郡はのちに「おんせん」郡と読まれるようになった。
建武年間(1334-)河野通盛が高縄山城から道後の湯月城に移り、
その守護所ともなって、以後ここで勢威を振るった。
戦国時代に桑原郷の泰山城・本山城に忽那氏一族がおり、
水軍の拠点となっていた。友近氏というのもその族と思われる。 ※以下省略
愚生の頭では、どう読んでも「友近は忽那氏の族類」としか解釈できません(苦笑)
意外な記述に驚いております。
それから、泰山城・本山城の所在が桑原郷というのも首を傾げます。
近藤氏がどのような史料を元にされたのかが非常に気になるところでございます。
●友近様
近藤安太郎氏がどの様な出典から、
「友近氏というのもその族と思われる」と推定したのかが分からないとなんとも言えませんね。
ただ何らかの伝承記述があったのではないかと思われます。
一応、気になりましたので忽那文書を流し読みいたしましたが、友近名を見出すことは
できませんでした。
泰山城・本山城は忽那島にある筈なので、昔、桑原郷と呼ばれていた時期があるか否かは
分かりません。温泉郡で桑原郷は桑原村の旧名とはされますが、こちらは嶋ではありません。
近藤氏の著書を深堀する必要がありそうですね。
友近氏が忽那氏の縁族である可能性はあると思います。
これが証明されれば、元祖初代は藤原鎌足となりますね。
屋代様
お世話になっております。
この投稿、「屋代島 友澤家」スレッド№46 http://8241.teacup.com/kyoudo/bbs/t50/46
の屋代様への返信とさせていただくのですが、スレッドの趣旨からそれるように思いまして
こちらに投稿させていただきます。
愚生の中で少々混乱を来しておりまして、先にも申しましたが、友近神社の紋につきまして
ご教示いただいた後、河野氏の「折敷三文字紋」について愚生なりにネット検索などで調べました。
ネットの情報により、太平記の中で河野七郎通遠が討たれる場面に
『鎧の笠符をみるに、其紋、傍折敷に三文字を書て着たりけり』
とある事、『見聞諸家紋』と云う最古とされる家紋集に河野氏の紋がある事を知りました。
国立国会図書館デジタルコレクション - 絵本太平記. 9,10
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/878042/14
見聞諸家紋 - 国文学研究資料館
https://goo.gl/QZaghY
これらの情報により、河野氏の古い家紋は◇に三文字の「傍折敷三文字紋」、
大山祇神社の神紋に代表される🛑角形に三文字の「折敷三文字紋」は新しい紋と認識しております。
故に
> 河野通有が元寇の役に持って行ったのは◇に漢字の三の所謂、「折敷三文字紋」です。
> よって系図に書かれているように変形八角形に三の「傍折敷三文字紋」では四国を離島した時期が
の部分は、「傍」の字の入力間違いかと存じますが如何でございましょう。
🛑角形の「折敷紋」、同じ形状で「隅切角」と云うのもあるようですが、
個別の名称も、元の資料によって様々ですし、文字の形状から「波」「揺れ」「縮」「三木(さんぎ)」
とあるのもご承知の通りでございますね。河野氏の系図もさることながら家紋も奥が深いと
感じている次第でございます。
https://goo.gl/vhShCS
https://goo.gl/pvHabe
https://goo.gl/osSNMA
大山祇社のご神紋、正確を期す呼び名としては「隅立て折敷に揺れ三文字紋」といったところでございましょうか(苦笑)
●
高須賀氏の情報提供有り難うございます。
野田高須賀氏は大坂夏の陣で豊臣方で敗軍となり、下総野田へ流れて来たとの伝承を持っている家です。
野田市史等はキッコーマンの創始者が大坂夏の陣で敗北した人が野田に来て醤油業を始めたと書いていましたので
キッコーマン本社に電話した確認したら、信州からとかの答えでした。これは創業家三家(高梨・茂木・堀切家)
のうちの高梨家についての説明だったのですね。茂木家とは気がつきませんでした。
茂木家は美濃土岐家の分流、江戸崎土岐家の分家萬木(真木)土岐氏でした。土岐頼春の弟が、真木とは知りません
でした。
この真木氏が大坂夏の陣に於いて高須賀氏と共に戦い、千葉県野田に流れてきたことが分ればと思います。
この高須賀氏が伊予の高須賀氏の誰の子かが分らないのです。
伊予の高須賀氏は系図上は二つに分かれており、
一つは【伊予木曽義仲流高須賀系図】 1223年通久石井郷交換入府
高須賀義詮 ┬ 高須賀紀伊守高光
紀伊那智城主 │ 河野通久仕、久米郡朝日山城
│ 小松邑史 朝日山城堀口堯ノ後胤の城
今一つは、【伊予新田流高須賀系図】
堀口備後守堯氏 ┬ 高須賀次郎作(衛)堯寧
初住紀州熊野 弘安年中(1278~1288)
寛元2年(1244)航和気郡堀江甫 住久米郡川上野口郷
康元年中(1256~1257) 久米郡余戸郷野々口邑?
住久米郡熊畑邑 延暦23年川之内と野々口に分離
弘長年中(1261~1264)
道前と道後之中山布船野城主
川上村松瀬村に在り堀口堯氏居城
故有民間に下る。
高須賀高祖云々
参軒屋船野城主 堀口堯氏(新田一族)
野口郷に住み高須賀氏となり
【川上村のおもかげ】
となっていますが、1615年当時の伊予高須賀家で豊臣方で大坂に戦いに行った人がいるか史料を探しています。
豊臣恩顧の臣は伊予にも多く、伊予一色氏も豊臣家応援に出発しています。
尚、伊予の土岐家については以前調べたことがあります。
●【忽那氏】
屋代源三様
別スレッドにも投稿させていただきましたように、google書籍記検索を試したところ
近藤安太郎氏の『系図研究の基礎知識 家系に見る日本の歴史』第二巻に次のような記述が。
温泉(ゆの)郡はのちに「おんせん」郡と読まれるようになった。
建武年間(1334-)河野通盛が高縄山城から道後の湯月城に移り、
その守護所ともなって、以後ここで勢威を振るった。
戦国時代に桑原郷の泰山城・本山城に忽那氏一族がおり、
水軍の拠点となっていた。友近氏というのもその族と思われる。 ※以下省略
愚生の頭では、どう読んでも「友近は忽那氏の族類」としか解釈できません(苦笑)
意外な記述に驚いております。
それから、泰山城・本山城の所在が桑原郷というのも首を傾げます。
近藤氏がどのような史料を元にされたのかが非常に気になるところでございます。
●友近様
近藤安太郎氏がどの様な出典から、
「友近氏というのもその族と思われる」と推定したのかが分からないとなんとも言えませんね。
ただ何らかの伝承記述があったのではないかと思われます。
一応、気になりましたので忽那文書を流し読みいたしましたが、友近名を見出すことは
できませんでした。
泰山城・本山城は忽那島にある筈なので、昔、桑原郷と呼ばれていた時期があるか否かは
分かりません。温泉郡で桑原郷は桑原村の旧名とはされますが、こちらは嶋ではありません。
近藤氏の著書を深堀する必要がありそうですね。
友近氏が忽那氏の縁族である可能性はあると思います。
これが証明されれば、元祖初代は藤原鎌足となりますね。
屋代様
お世話になっております。
この投稿、「屋代島 友澤家」スレッド№46 http://8241.teacup.com/kyoudo/bbs/t50/46
の屋代様への返信とさせていただくのですが、スレッドの趣旨からそれるように思いまして
こちらに投稿させていただきます。
愚生の中で少々混乱を来しておりまして、先にも申しましたが、友近神社の紋につきまして
ご教示いただいた後、河野氏の「折敷三文字紋」について愚生なりにネット検索などで調べました。
ネットの情報により、太平記の中で河野七郎通遠が討たれる場面に
『鎧の笠符をみるに、其紋、傍折敷に三文字を書て着たりけり』
とある事、『見聞諸家紋』と云う最古とされる家紋集に河野氏の紋がある事を知りました。
国立国会図書館デジタルコレクション - 絵本太平記. 9,10
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/878042/14
見聞諸家紋 - 国文学研究資料館
https://goo.gl/QZaghY
これらの情報により、河野氏の古い家紋は◇に三文字の「傍折敷三文字紋」、
大山祇神社の神紋に代表される🛑角形に三文字の「折敷三文字紋」は新しい紋と認識しております。
故に
> 河野通有が元寇の役に持って行ったのは◇に漢字の三の所謂、「折敷三文字紋」です。
> よって系図に書かれているように変形八角形に三の「傍折敷三文字紋」では四国を離島した時期が
の部分は、「傍」の字の入力間違いかと存じますが如何でございましょう。
🛑角形の「折敷紋」、同じ形状で「隅切角」と云うのもあるようですが、
個別の名称も、元の資料によって様々ですし、文字の形状から「波」「揺れ」「縮」「三木(さんぎ)」
とあるのもご承知の通りでございますね。河野氏の系図もさることながら家紋も奥が深いと
感じている次第でございます。
https://goo.gl/vhShCS
https://goo.gl/pvHabe
https://goo.gl/osSNMA
大山祇社のご神紋、正確を期す呼び名としては「隅立て折敷に揺れ三文字紋」といったところでございましょうか(苦笑)
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