屋代源三様
仰せのように松山藩の分限帳を調べましたところ、
作成年代で数種ある分限帳に、継続的に記載のある友近姓の系統が三家あり
藩に召抱えられた最も古い記録は「貞享三年(1686)於松山」となっております。
また、改正原戸籍については、
松山で取得した謄本により初代戸主(私の曽祖父)とその父親(高祖父)の名が判明し
愛媛県行政資料の内、明治六年(1873)「禄高帳(旧八藩)」にて高祖父の名を確認。
しかし困ったことに、各分限帳に記載されている名前は、家老職などを除き全て通称のみですし
国立公文書館デジタルアーカイブで確認した明治二年の松山藩「旧禄高人別帳」、これに友近姓の者が
三名記載されていますが通称のみで、高祖父の通称が不明なため関係が確定出来ず・・・
この状態が2年ほど続いております。
スレッドの趣旨からずれた話を長々と失礼いたしました。
屋代源三様
おはようございます。また投稿が長くなりますことご容赦下さい。
通称と実名ですが、例えで申しますと、正岡子規の正岡家も松山藩士でしたが
子規の父・正岡隼太の「隼太」は通称で実名・諱は「常尚」です。
松山藩の分限帳では、全ての藩士がその姓と通称のみで記されています。
(家老職を務める家格の者の場合、姓と通称と実名の全てを記している例もあります)
仮に、作成年代の異なる分限帳それぞれに「正岡隼太」と載っていたとしても
実名が分かりませんと「常尚」と同一人物なのか、親なのか祖父なのか、
関係を特定することができません。
拙宅の場合は、戸籍謄本で天保九年(1838)生まれの高祖父とその父の実名が判明し
明治六年(1873)の「禄高帳」で高祖父の家禄奉還の記録を実名で確認出来ましたが
何兵衛・何衛門といった通称が不明なため、安政六年(1859)頃の分限帳に記載のある
友近姓の者三名との関係が特定出来ないという訳でございます。
曾祖父が明治中頃に東京に移住した事もあって、先の大戦の東京空襲で
古い記録は消失。今となっては松山の菩提寺も分からぬ有様です。
壬申戸籍が入手出来れば・・・と妄想を巡らす次第でございます。(苦笑)
長々と失礼いたしました。
【松山藩 友近氏】
なるほど、通り名とか官途名の意味ですね。
確かに通り名は代々、嫡長男が踏襲していきますし、官途名も代々同名を叙任する傾向が
江戸期には多いですね。
逆に家を特定できる、メリットもあります。
幕末に松山藩に友近氏が三家あるならもう見つけたも同然ではないでしょうか?
幕末の久松松平家家中であるなら長い藩政ですので、三家は同根の可能性が高いですね。
すなわち三家とも貴家の一門の可能性がありますね。
所謂、本家と分家の関係ですね。
藩の分限帳に乗っているのであれば直臣と思われますので松山城下に住んでいたと考えられます。
なら幕末の松山城下の家臣団住居図も参考になるかもしれません。
また、由緒ある武家の系列のようですから、現在も家紋と宗派は引き継いでいると思われますのでこちらからもアプローチできます。
まず三家を全て調べることですね。
資料は伊予史談会にあると思われます。
又、久松松平家の家臣の一員であるなら、貴家の本貫の地は三河地方かもしれませんね。
壬申戸籍がは法務省の倉庫の一角で長い眠りについているとされます。
一応閉鎖されて100年後に公開されるとの話がありますが、究極の個人情報ですので、公開非公開は
その時の政治マターですね。
有名人のデッチ上げた由緒が表に出ますのでゴシップ紙は喜ぶでしょうね。
●屋代源三様
友近姓の者が松山藩に召抱えられた最初の記録は貞享三年(1686)となっておりました。
久松松平家古参の家臣という事では無さそうですし、屋代様がご紹介して下さった
「戦国期の伊予の武士たち」の中に友近姓の者がいた事も併せて考えますと
友近姓の本貫の地は、やはり伊予かなと云う気がいたします。
また、ご教示下さった「幕末の松山城下の家臣団住居図」についてでございますが、
松山藩には年代の異なる住居図が何点かございます。今後の調査の最重要課題と思っております。
ところで先の投稿で友近神社について触れましたが、この神社の屋根瓦の紋が
「折敷に三文字」で、三の字が波打った様な形状でした。(別サイトの画像をご参照下さい)
http://hizou.30maps.com/files/node201308/1376577655_15.jpg
「折敷に三文字」の紋は河野氏の家紋と知りましたが、家臣でも同じ家紋を用いられるのか
そのあたりも調査してみようと思っております。
ちなみに現在の拙宅の家紋は「丸に梅鉢」で、拝領したと云う口碑がございます。
●友近神社の折敷三文字紋のいわれは調べ無いと分かりませんが、考えられるのは、
①友近神社は元々、河野家の勧請したもの。
②友近氏は河野家の分れの可能性。
③昭和の修復で本来の社紋が分からないので河野通直家臣の伝承があるのでとりあえず河野家家紋にした。
等が考えられます。
友近神社の祭神とされる友近忠吉は河野家通字の「通」を使用していませんので河野家一門とは
考えにくいですね。
忠吉の子孫である、友近国重さんに直接聞くか、神主に聞かないと分かりませんね。
又、貴家に「忠」の通字を使用する習慣がありますかね?
まず、家を特定する必要がありますね。
県の松山藩資料に、
友近吉太夫・吉太郎
友近新五兵衛・忠成
友近武介
友近弥一兵衛
が見られますが、該当する人はいませんか?
友近神社の祭神が先祖であれば、子孫が現住していますから連絡をとればすみますね。
河野通直は複数いますが和気郡司とありますので、伝承が正しいなら一番古い通直でしょうね。
又、和気郡安城寺に神社がありますので、和気郡史等の郷土資料に当たるのも良いでしょうね。
●屋代源三様
友近神社の折敷三文字紋のいわれ、ご高察の①と②については、
友近忠吉が「河野分限録」などの史料に出てくるような有力家臣ではありませんので
河野家が社を勧請するような功績が有ったとは思えませんし、河野家の分かれとも
考え難いように思います。従って③の様な経緯が真相ではないかと思いますが、
仰せのように国重氏や神職の方に伺ってみなくてはなりませんね。
ただ一つ、ひょっとして忠吉が大山祇神社を氏神としていた?と余計な妄想が浮かび・・・(苦笑)。
> 又、貴家に「忠」の通字を使用する習慣がありますかね?
先の投稿で、松山で取得した戸籍謄本で高祖父とその父の名前が判明したと書きましたが、
高祖父の父が「忠明」、高祖父は「忠照」と申します。その高祖父は「侍は終わった」と
長男の曾祖父から三男までの名前に「忠」の字は用いなかったそうですが、晩年に生まれた
四男と孫には「忠誠」「忠正」と名付けています。現在親族に「忠」が付く者はおりません。
> まず、家を特定する必要がありますね。
> 県の松山藩資料に、
> 友近吉太夫・吉太郎
> 友近新五兵衛・忠成
> 友近武介
> 友近弥一兵衛
上の名前は「松山叢談」に出てくる者たちですね。
これも先の投稿で書きましたが、作成年代が異なる分限帳に継続的に記録されているのが
「弥一兵衛」「武介」「新五兵衛」の家系で、左記の順に松山藩に召抱えられています。
『松山歴俸略記』という史料で、弥一兵衛家の分家が新五兵衛家と判明していますが、
弥一兵衛家と武介家の関係は不明です。しかし、いずれも馬役として仕えておりましたので
血縁関係にあったのではないかと推測しております。
なお、家禄奉還の記録と我が家の口碑から、弥一兵衛が先祖らしいのですが断定できません。
> 河野通直は複数いますが和気郡司とありますので、伝承が正しいなら一番古い通直でしょうね。
「河野通直」を名乗った人物が複数いたこと、知りませんでした。
ネットで俄か勉強しましたところ、一番古い通直と云うのは「河野通堯」のことでよろしいでしょうか?
他に「河野通宣」も二人いたようですし、河野氏についてももっと調べないといけませんね。
長文、ご容赦下さい。
仰せのように松山藩の分限帳を調べましたところ、
作成年代で数種ある分限帳に、継続的に記載のある友近姓の系統が三家あり
藩に召抱えられた最も古い記録は「貞享三年(1686)於松山」となっております。
また、改正原戸籍については、
松山で取得した謄本により初代戸主(私の曽祖父)とその父親(高祖父)の名が判明し
愛媛県行政資料の内、明治六年(1873)「禄高帳(旧八藩)」にて高祖父の名を確認。
しかし困ったことに、各分限帳に記載されている名前は、家老職などを除き全て通称のみですし
国立公文書館デジタルアーカイブで確認した明治二年の松山藩「旧禄高人別帳」、これに友近姓の者が
三名記載されていますが通称のみで、高祖父の通称が不明なため関係が確定出来ず・・・
この状態が2年ほど続いております。
スレッドの趣旨からずれた話を長々と失礼いたしました。
屋代源三様
おはようございます。また投稿が長くなりますことご容赦下さい。
通称と実名ですが、例えで申しますと、正岡子規の正岡家も松山藩士でしたが
子規の父・正岡隼太の「隼太」は通称で実名・諱は「常尚」です。
松山藩の分限帳では、全ての藩士がその姓と通称のみで記されています。
(家老職を務める家格の者の場合、姓と通称と実名の全てを記している例もあります)
仮に、作成年代の異なる分限帳それぞれに「正岡隼太」と載っていたとしても
実名が分かりませんと「常尚」と同一人物なのか、親なのか祖父なのか、
関係を特定することができません。
拙宅の場合は、戸籍謄本で天保九年(1838)生まれの高祖父とその父の実名が判明し
明治六年(1873)の「禄高帳」で高祖父の家禄奉還の記録を実名で確認出来ましたが
何兵衛・何衛門といった通称が不明なため、安政六年(1859)頃の分限帳に記載のある
友近姓の者三名との関係が特定出来ないという訳でございます。
曾祖父が明治中頃に東京に移住した事もあって、先の大戦の東京空襲で
古い記録は消失。今となっては松山の菩提寺も分からぬ有様です。
壬申戸籍が入手出来れば・・・と妄想を巡らす次第でございます。(苦笑)
長々と失礼いたしました。
【松山藩 友近氏】
なるほど、通り名とか官途名の意味ですね。
確かに通り名は代々、嫡長男が踏襲していきますし、官途名も代々同名を叙任する傾向が
江戸期には多いですね。
逆に家を特定できる、メリットもあります。
幕末に松山藩に友近氏が三家あるならもう見つけたも同然ではないでしょうか?
幕末の久松松平家家中であるなら長い藩政ですので、三家は同根の可能性が高いですね。
すなわち三家とも貴家の一門の可能性がありますね。
所謂、本家と分家の関係ですね。
藩の分限帳に乗っているのであれば直臣と思われますので松山城下に住んでいたと考えられます。
なら幕末の松山城下の家臣団住居図も参考になるかもしれません。
また、由緒ある武家の系列のようですから、現在も家紋と宗派は引き継いでいると思われますのでこちらからもアプローチできます。
まず三家を全て調べることですね。
資料は伊予史談会にあると思われます。
又、久松松平家の家臣の一員であるなら、貴家の本貫の地は三河地方かもしれませんね。
壬申戸籍がは法務省の倉庫の一角で長い眠りについているとされます。
一応閉鎖されて100年後に公開されるとの話がありますが、究極の個人情報ですので、公開非公開は
その時の政治マターですね。
有名人のデッチ上げた由緒が表に出ますのでゴシップ紙は喜ぶでしょうね。
●屋代源三様
友近姓の者が松山藩に召抱えられた最初の記録は貞享三年(1686)となっておりました。
久松松平家古参の家臣という事では無さそうですし、屋代様がご紹介して下さった
「戦国期の伊予の武士たち」の中に友近姓の者がいた事も併せて考えますと
友近姓の本貫の地は、やはり伊予かなと云う気がいたします。
また、ご教示下さった「幕末の松山城下の家臣団住居図」についてでございますが、
松山藩には年代の異なる住居図が何点かございます。今後の調査の最重要課題と思っております。
ところで先の投稿で友近神社について触れましたが、この神社の屋根瓦の紋が
「折敷に三文字」で、三の字が波打った様な形状でした。(別サイトの画像をご参照下さい)
http://hizou.30maps.com/files/node201308/1376577655_15.jpg
「折敷に三文字」の紋は河野氏の家紋と知りましたが、家臣でも同じ家紋を用いられるのか
そのあたりも調査してみようと思っております。
ちなみに現在の拙宅の家紋は「丸に梅鉢」で、拝領したと云う口碑がございます。
●友近神社の折敷三文字紋のいわれは調べ無いと分かりませんが、考えられるのは、
①友近神社は元々、河野家の勧請したもの。
②友近氏は河野家の分れの可能性。
③昭和の修復で本来の社紋が分からないので河野通直家臣の伝承があるのでとりあえず河野家家紋にした。
等が考えられます。
友近神社の祭神とされる友近忠吉は河野家通字の「通」を使用していませんので河野家一門とは
考えにくいですね。
忠吉の子孫である、友近国重さんに直接聞くか、神主に聞かないと分かりませんね。
又、貴家に「忠」の通字を使用する習慣がありますかね?
まず、家を特定する必要がありますね。
県の松山藩資料に、
友近吉太夫・吉太郎
友近新五兵衛・忠成
友近武介
友近弥一兵衛
が見られますが、該当する人はいませんか?
友近神社の祭神が先祖であれば、子孫が現住していますから連絡をとればすみますね。
河野通直は複数いますが和気郡司とありますので、伝承が正しいなら一番古い通直でしょうね。
又、和気郡安城寺に神社がありますので、和気郡史等の郷土資料に当たるのも良いでしょうね。
●屋代源三様
友近神社の折敷三文字紋のいわれ、ご高察の①と②については、
友近忠吉が「河野分限録」などの史料に出てくるような有力家臣ではありませんので
河野家が社を勧請するような功績が有ったとは思えませんし、河野家の分かれとも
考え難いように思います。従って③の様な経緯が真相ではないかと思いますが、
仰せのように国重氏や神職の方に伺ってみなくてはなりませんね。
ただ一つ、ひょっとして忠吉が大山祇神社を氏神としていた?と余計な妄想が浮かび・・・(苦笑)。
> 又、貴家に「忠」の通字を使用する習慣がありますかね?
先の投稿で、松山で取得した戸籍謄本で高祖父とその父の名前が判明したと書きましたが、
高祖父の父が「忠明」、高祖父は「忠照」と申します。その高祖父は「侍は終わった」と
長男の曾祖父から三男までの名前に「忠」の字は用いなかったそうですが、晩年に生まれた
四男と孫には「忠誠」「忠正」と名付けています。現在親族に「忠」が付く者はおりません。
> まず、家を特定する必要がありますね。
> 県の松山藩資料に、
> 友近吉太夫・吉太郎
> 友近新五兵衛・忠成
> 友近武介
> 友近弥一兵衛
上の名前は「松山叢談」に出てくる者たちですね。
これも先の投稿で書きましたが、作成年代が異なる分限帳に継続的に記録されているのが
「弥一兵衛」「武介」「新五兵衛」の家系で、左記の順に松山藩に召抱えられています。
『松山歴俸略記』という史料で、弥一兵衛家の分家が新五兵衛家と判明していますが、
弥一兵衛家と武介家の関係は不明です。しかし、いずれも馬役として仕えておりましたので
血縁関係にあったのではないかと推測しております。
なお、家禄奉還の記録と我が家の口碑から、弥一兵衛が先祖らしいのですが断定できません。
> 河野通直は複数いますが和気郡司とありますので、伝承が正しいなら一番古い通直でしょうね。
「河野通直」を名乗った人物が複数いたこと、知りませんでした。
ネットで俄か勉強しましたところ、一番古い通直と云うのは「河野通堯」のことでよろしいでしょうか?
他に「河野通宣」も二人いたようですし、河野氏についてももっと調べないといけませんね。
長文、ご容赦下さい。
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