山口県周防大島物語

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周防大島発祥の地 屋代村の史蹟 1

2023年12月16日 08時25分17秒 | 周防大島発祥の地 屋代村の史蹟
 小松町史から遅れること三年、昭和十四年、隣接の大島郡最大の村であり周防大島の中心地と
されていた、屋代村長、藤山康一氏は役場公刊として「大島発祥の地 屋代村の史蹟」を発刊する。
現在と違い当時の認識での編纂であるので、現在の史実とは異なる場合があります。
この点は(源三・注)として付記します。また旧大島町誌とは異なる発見があるのも面白い
ですね。著作の指導は江戸期に周防・長門の三大金持ちとされる開作の矢田部家の輿一氏の
史料によるものが多いです。


 【表紙】       大島発祥の地
                   屋代村の史蹟


【本文】
 
 「屋代の名の起源二説」 

 一、栗田寛郷名同唱考に「屋代は神を祭る為に神霊をませ奉る家代の意にて、即ち社(やしろ)
   なりと見ゆ。按るに屋代郷は大多満流別の宮につきての名なるべし。屋代・蒲野村・小松・
   沖浦に亘る古郷域なり。屋代村を本郷とす」

 二、屋代生産風土記及び志度石神社由来書に「八社拓かせ玉ひしが故に近辺を八社村と云うを
   いつの頃よりか言い誤りてヤシロ村と云い、文字を改めて八代と書す。・・・・諸人は
   屋代村を島元と云い、他国よりは本島を八代村とト唱う。後世屋代とせしは後、世俗に書き
   たるなり」と。


源三・注)現在は二、の説の採用が多い。二、志度石神社由来は「昔むかし、八人の天女が舞い降りた
     ことから八の社を祀ったことが八社(やしろ)の始まり」とします。この流れを組むのが志度
     石神社で、一の鳥居から本宮までの道のりは現代でも大島郡最大の領域である。この領域の
     一部に神領と云う巨大な部落がある。
     一、の大多満流別の宮は現在の小松瀬戸の大多麻流神社のことで往古は現在の飯の山の
     山頂付近にあったものを現在の地に遷座したとされます。名の大多満流別は古代の国造
     時代の人の名であろうと推察する。多分、大島国造時代の国造の名ではないかと思われます。
     志度石神社と大多満流神社のどちらが古いかはよく分かりませんが、國造時代の大多満流神社
     の方が古いのではと思われます。その後に志度石神社が創建されたと考えます。
     大島國が周防大島のどこまで支配していたかは今後の研究にまちますが、旧大島町の大半で
     あったと思われます。和名鈔に出る「屋代郷」でこの時代では屋代を記します。
     周防大島の旧社に小松の志駄岸八幡宮がありますが、こちらは由緒によると親社は
     宇佐八幡宮で宇佐八幡宮創建の翌年に東屋代の日見峠(ひみたお)に分祀したとされます。
     旧大島町を古くは「島元」、久賀、安下庄を「島中」旧東和町を「島末」とするのは
     「島末庄」が発生したあたりの時代からの呼称と思われます。旧橘町は「安下庄」として
     現在も名が残り、庄時代は久賀は庄ではなく「保」とされます。郷土の宮本常一先生は
     「保」を湊、浦の意味と解釈していますが、長野県にも「保」がありますので港を意味
     するものではないと思われます。歴史好きな皆さんと考えていきましょう。

 

  


 


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