「古文書に表れたる大島・屋代島の名」
一、【日本書紀】 「諸册二神生大洲(オオシマ)」
二、【古事記】 「生大島」
三、【東大寺正倉院文書】 周防國正税帳、 「大島郡、天平九年定正税壱拾萬玖秤肆伯拾玖束伍把五分、」
四、【今昔物語】 「今昔周防國大島の郡(こほり)に基燈と云う聖人有けり・・・略」
五、【吾妻鏡】 「大島者平家謀反之時、新中納言構城居住 云々」
六、【忽那一族軍忠次第】 「周防国屋代嶋大将忠院殿」
七、【忽那島開発記】 「興国三年四月十八日右凶徒退治為勲功之賞、至社島(ヤシロジマ)四方領家職云々」
八、【村上文書】 「屋代嶋」
九、【村上家蔵 厳島合戦図】 「付右御感ニ御弓箭勝利ノ上防州矢代島可被遣通被仰渡候」
十、【屋代生産風土記】 「他国より八代嶋と唱ふ」・・・文字を屋代とは文政初年の頃にて俗に書き来たり誤りにて・・。
十一、【倭名鈔】 「三郷 屋代 三敷、務理、」
源三・注)筆者は古文書に表れる大島、屋代島を抜粋してしている。文中に屋代との表記は文政初年(1818年)以降から
と結論付けているが、これは紹介文書から矛盾する結論である。
【忽那家軍忠次第】(1330年代以降に成立)にはもう屋代島と記録されている。
同時代とされる伊予河野家の顛末を書いた「予章記」も南北朝の兵乱の中で「屋代島の中子氏が河野通堯を
屋代島和田に受け入れた」と記録します。
上記の旧記を大まかな成立順に並び変えると、
① 古事記 (712年以降~)
② 日本書紀 (720年以降~)
③ 東大寺文書 (727~776年)
④ 和名鈔 (935年頃)
⑤ 今昔物語 (1120年代以降~)
⑥ 吾妻鏡 (1180~1266年)
⑦ 忽那一族軍忠次第 (1330年代以降)
⑧ 忽那島開発記 (1330年以降)
⑨ 村上文書 (戦国時代)
⑩ 厳島合戦図 (1555年以降)
⑪ 屋代生産風土記 (不詳)
流れから見ると大島が最初で途中から八代、社、屋代(ヤシロ)等に変化していったもようである。
ただ、大島と称する島は全国に数多くあり、周防長門だけも五か所あるので屋代島の方が区別
しやすかったのではないだろうか?
しかし現在でも地図では周防大島と屋代島が併記されているものも多い。
一、【日本書紀】 「諸册二神生大洲(オオシマ)」
二、【古事記】 「生大島」
三、【東大寺正倉院文書】 周防國正税帳、 「大島郡、天平九年定正税壱拾萬玖秤肆伯拾玖束伍把五分、」
四、【今昔物語】 「今昔周防國大島の郡(こほり)に基燈と云う聖人有けり・・・略」
五、【吾妻鏡】 「大島者平家謀反之時、新中納言構城居住 云々」
六、【忽那一族軍忠次第】 「周防国屋代嶋大将忠院殿」
七、【忽那島開発記】 「興国三年四月十八日右凶徒退治為勲功之賞、至社島(ヤシロジマ)四方領家職云々」
八、【村上文書】 「屋代嶋」
九、【村上家蔵 厳島合戦図】 「付右御感ニ御弓箭勝利ノ上防州矢代島可被遣通被仰渡候」
十、【屋代生産風土記】 「他国より八代嶋と唱ふ」・・・文字を屋代とは文政初年の頃にて俗に書き来たり誤りにて・・。
十一、【倭名鈔】 「三郷 屋代 三敷、務理、」
源三・注)筆者は古文書に表れる大島、屋代島を抜粋してしている。文中に屋代との表記は文政初年(1818年)以降から
と結論付けているが、これは紹介文書から矛盾する結論である。
【忽那家軍忠次第】(1330年代以降に成立)にはもう屋代島と記録されている。
同時代とされる伊予河野家の顛末を書いた「予章記」も南北朝の兵乱の中で「屋代島の中子氏が河野通堯を
屋代島和田に受け入れた」と記録します。
上記の旧記を大まかな成立順に並び変えると、
① 古事記 (712年以降~)
② 日本書紀 (720年以降~)
③ 東大寺文書 (727~776年)
④ 和名鈔 (935年頃)
⑤ 今昔物語 (1120年代以降~)
⑥ 吾妻鏡 (1180~1266年)
⑦ 忽那一族軍忠次第 (1330年代以降)
⑧ 忽那島開発記 (1330年以降)
⑨ 村上文書 (戦国時代)
⑩ 厳島合戦図 (1555年以降)
⑪ 屋代生産風土記 (不詳)
流れから見ると大島が最初で途中から八代、社、屋代(ヤシロ)等に変化していったもようである。
ただ、大島と称する島は全国に数多くあり、周防長門だけも五か所あるので屋代島の方が区別
しやすかったのではないだろうか?
しかし現在でも地図では周防大島と屋代島が併記されているものも多い。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます