塩は基本的には海水を煮詰めて作るだけですね。
天平時代の木簡も周防国大嶋郡から塩を都に送ったときの「送り状」あります。
「周防国屋代郷□□□調塩三□ 」とあり、この木簡は平城京址出土木簡として
千葉県佐倉市の国立民族学博物館に展示されていますのでご覧ください。
多くの大嶋郡関係の木簡が23点も見つかったのは長屋王家から出土しています。大嶋郡は大量な製塩を都に
送っていたとおもわれます。一送り状で三斗とありますので、60Kg程度あったのではないでしょうか。
これらの木簡から、この時期の大島郡は長屋王家の封土とされるゆえんです。
これらの時代は「玉藻刈る」製塩ですから、海水を濃い塩水にするのに、藻を何度も溜めた甕に浸して塩分濃度を上げていきます。
江戸期以降はこれが「入り浜式」の塩分濃度を揚げる技術が確立し、飛躍的な生産量を確保します。
この製塩法はNHKの朝ドラで能登で砂の上に海水を撒いている場面がその一部です。この撒く人を長州では「浜子」と呼んでおり
今日のような猛暑の中でふんどし一丁で撒き続けますから、相当きつい肉体労働です。身体にだけは自信がある若者は手っとり早い
就職口でした。表面に塩が濃く付着した砂だけをかき集め、海水に浸して、最高度の濃塩水にしたものを煮詰めていきますので
24時間の作業です。ですから、火が途絶えることはありません。周防大島は藩政時代はこの塩田用の薪の山は指定されていて一年で一山刈り尽くされ
ますので。燃料、天日干し用の塩田、24時間生産体制の維持するシステムが必要になり、藩の専売事業となっていきます。
こららを明治期に引き継いだのが「専売公社」となり、大嶋では小松開作の「塩釜神社」の隣に支店がありました。
大正、昭和になって「入り浜式」より生産性の高い「流下式製塩」が全国の塩田に広がります。
これは高さ15M位のやぐらを建てそのやぐらに竹の枝をびっしりと逆に組み、一番上に海水を均等に流し、しずくが一番下まで
落ちる間に天日により水分を蒸発させる技術です。これをくりかえしますと、入り浜式以上に濃い塩水が得られます。
現在この方式を小規模稼働させて製塩しているのが「伯田の塩」ですが、人気の割に生産量が伴わないので「外塩」を混ぜて
いたのがばれて、「ブランド力」をなくしました。
流下式は古来の干満の差を利用する製法ではないので、大潮、小潮に関係なく継続生産が可能となりました。
近代になって流下式に切り替えることができたのは、薪の代わりに九州の炭鉱の石炭が手に入りやすくなったのと、やぐらの上まで
海水を揚げるための動力(モーター)が使えるようになったからです。江戸時代の樽廻船は一挙に石炭を運び始め、帆船は動力つきの
機帆船となり海運日本の礎となりました。
屋代源三
天平時代の木簡も周防国大嶋郡から塩を都に送ったときの「送り状」あります。
「周防国屋代郷□□□調塩三□ 」とあり、この木簡は平城京址出土木簡として
千葉県佐倉市の国立民族学博物館に展示されていますのでご覧ください。
多くの大嶋郡関係の木簡が23点も見つかったのは長屋王家から出土しています。大嶋郡は大量な製塩を都に
送っていたとおもわれます。一送り状で三斗とありますので、60Kg程度あったのではないでしょうか。
これらの木簡から、この時期の大島郡は長屋王家の封土とされるゆえんです。
これらの時代は「玉藻刈る」製塩ですから、海水を濃い塩水にするのに、藻を何度も溜めた甕に浸して塩分濃度を上げていきます。
江戸期以降はこれが「入り浜式」の塩分濃度を揚げる技術が確立し、飛躍的な生産量を確保します。
この製塩法はNHKの朝ドラで能登で砂の上に海水を撒いている場面がその一部です。この撒く人を長州では「浜子」と呼んでおり
今日のような猛暑の中でふんどし一丁で撒き続けますから、相当きつい肉体労働です。身体にだけは自信がある若者は手っとり早い
就職口でした。表面に塩が濃く付着した砂だけをかき集め、海水に浸して、最高度の濃塩水にしたものを煮詰めていきますので
24時間の作業です。ですから、火が途絶えることはありません。周防大島は藩政時代はこの塩田用の薪の山は指定されていて一年で一山刈り尽くされ
ますので。燃料、天日干し用の塩田、24時間生産体制の維持するシステムが必要になり、藩の専売事業となっていきます。
こららを明治期に引き継いだのが「専売公社」となり、大嶋では小松開作の「塩釜神社」の隣に支店がありました。
大正、昭和になって「入り浜式」より生産性の高い「流下式製塩」が全国の塩田に広がります。
これは高さ15M位のやぐらを建てそのやぐらに竹の枝をびっしりと逆に組み、一番上に海水を均等に流し、しずくが一番下まで
落ちる間に天日により水分を蒸発させる技術です。これをくりかえしますと、入り浜式以上に濃い塩水が得られます。
現在この方式を小規模稼働させて製塩しているのが「伯田の塩」ですが、人気の割に生産量が伴わないので「外塩」を混ぜて
いたのがばれて、「ブランド力」をなくしました。
流下式は古来の干満の差を利用する製法ではないので、大潮、小潮に関係なく継続生産が可能となりました。
近代になって流下式に切り替えることができたのは、薪の代わりに九州の炭鉱の石炭が手に入りやすくなったのと、やぐらの上まで
海水を揚げるための動力(モーター)が使えるようになったからです。江戸時代の樽廻船は一挙に石炭を運び始め、帆船は動力つきの
機帆船となり海運日本の礎となりました。
屋代源三
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