山口県周防大島物語

山口県周防大島を中心とした「今昔物語」を発信します。
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大伴姓 屋代島大野家 関連年譜(AD1625年~1660年)

2023年01月16日 17時23分25秒 | 大伴姓屋代島大野家 関連年譜
西暦1625年
寛永2年 2月2日  上関教育委員会  第3回朝鮮通信使来朝、この日上関に入港す(復路) 。水先案内村上元武担当
寛永2年 3月18日  愛媛県編年史  地震の為道後温泉の沸出止まる。
寛永2年 4月2日  山口県史整理年表  輝元、陶工山村新兵衛を作允と称せしむ 【考証論断】
寛永2年 4月11日  山口県史整理年表  大阪城東西水堀の築造を助役。この日起工す 【考証論断】

寛永2年 4月27日  山口県史整理年表  輝元死す。七三。五月十三日平安古において火葬し四本松別邸の地に納骨後、
                  この地に一寺を建立し天樹院と号す。六月二日長井元房殉死す。 【江氏家譜】

寛永2年 6月11日  山口県史整理年表  村上元重に自刃を命ず 【考証論断】
寛永2年 8月13日  山口県史整理年表  検地成るをもって一門以下諸臣の知行替を行う 【考証論断】
寛永2年 8月    藩史大辞典     ○熊野権兵衛、防長両国の検地を終了する。
寛永2年      藩史大辞典     ○下松藩、石高四万十石となる。

寛永2年 8月23日  山口県史整理年表  知行替について諸郡へ人夫の徴用その他の郡中箇条を布達す 【考証論断】
寛永2年 8月28日  山口県史整理年表  給領地の物成につき布達す 【考証論断】
寛永2年 9月21日  山口県史整理年表  吉川広家死す。六四 【吉川家文書・家譜】

寛永2年 10月29日  大日本史料    中宮御所に行幸あらせらる、中和門院も亦、御幸あらせらる

寛永2年 11月22日  山口県史整理年表  秀就、陶工坂助八を高麗左衛門と称せしむ 【考証論断】

寛永2年      大龍寺大野是水覚書  ●御改めに付き所替え(配置転換)を村上両家は仰せつけられ、掃部(元武・図
                    書家)領地和田村は村上三郎兵衛様(一学家)へ渡し、代りに三郎兵衛様領地
                    内ノ入村を掃部様に渡り、家臣等も交互に入れ替わった。
                    この時、お寺も大龍寺と元正寺が入れ替わり、和田村大龍寺屋敷へ秀存
                   (和尚)へ移り、元正寺と申す。内ノ入元正寺屋舗へ揚雲和尚が移り、
                    これより大龍寺と申す。

寛永2年       毛利家寺社由来  ○大畠戒善寺の蓮誉松廓は無住大破の滝見山浄屋寺を再基、後大野直一寛永17年
                   逝去に伴い家屋敷の寄付を受け直一再興の開基  *【現在の等覚院】
寛永2年       周防大島町誌   ○大畠戒善寺の蓮誉松廓は屋代中善寺に入り禅宗を浄土宗に改め新緑山・
                   西蓮寺とする。
寛永2年      周防大島民俗誌   屋代の西蓮寺は浄土宗知恩院末である。古くは禅宗の無移寺であったが寛永二年
                  (1625)厳島光明院の蓮誉松廊と言うものを招いてその道場とし、浄土に
                  改宗し、寺名もそれまでの中善寺を西蓮寺と改めた。

寛永2年     山口県史整理年表  大組六組・江戸二組の制始まる 【草舎年表】
寛永2年    山口県史整理年表  下松町出火。周慶寺類焼す 【洞玄寺縁起】

寛永2年     心斎橋今昔年表  夏の陣で埋められた長堀川を再掘削し、本格的に開通。末吉橋の袂に屋敷を持って
                 いた、平野郷の豪商「末吉孫左衛門」も鰻谷の窪地を利用して長堀川の掘削に参加、
                 朱印船を通し大活躍。低地部は土盛をし「船場」「島之内」とし、建築敷地を作った

西暦1626年
寛永3年 春   大龍寺大野是水覚書  ●大龍寺揚運和尚は隠居したが大龍寺を元の元正寺と誤って伝えるため混乱する、
                 (大龍寺)はそのまま元正寺と成り、和田の寺は寺号を替えて照岩寺とするべし
                  となる。照岩様(景親)の十七回忌の時、照岩寺となった。

寛永3年 4月    山口県史整理年表  この月より八月まで旱魃 【岩邑年代記】
寛永3年 6月18日  山口県史整理年表  雲谷等益、法橋に敍せらる 【考証論断】
寛永3年 8月    山口県史整理年表  岩国錦見椎尾八幡宮造営 【岩邑年代記】
寛永3年 8月19日  山口県史整理年表  秀就、参内して左馬寮の御馬を賜わる 【考証論断】
寛永3年 9月17日  山口県史整理年表  平川正時に山代貢租の増徴を令す 【考証論断】
寛永3年 9月26日  山口県史整理年表  画家斎藤等順死す 【御家中系図】

寛永3年 12月4日  大日本史料     秀忠・家光、大沢基宿・吉良義弥を京都に遣し、皇子の降誕を賀し奉る、秀忠、
                  鬼切の太刀を、高仁親王に献ず

寛永3年 12月18日  大日本史料    高仁親王歩行始、中和門院御所に覲し給ふ
寛永3年      周防大島町誌   ○毛利家熊野藤兵衛検地により屋代は3556.881石で15年間で1200石
                  増加した。
寛永3年     心斎橋今昔年表   安井久兵衛は、道頓堀川の沿岸川八町の開発を進め、宗衛門町の遊所南地五花衛、
                  と上方歌舞伎の芝居興行が許され、道頓堀の繁栄のもとを作る

西暦1627年
寛永4年 2月28日  山口県史整理年表  秀就、佐波郡国分寺・法華寺および安楽寺の惣寺領中に禁制を出す 【考証論断】
寛永4年 3月13日  大日本史料     皇子高仁親王、御霊社に参詣せらる
寛永4年 4月28日  大日本史料     是より先、若宮に譲位あらせられんとし、内旨を幕府に下し給ふ、是日、秀忠、
                  勅使武家伝奏権大納言三条西実条・同権中納言中院通村を請じて奉答す
寛永4年 7月24日  大日本史料     内侍所に臨時御神楽を奏して、高仁親王の御平癒を祈らせらる、
寛永4年 9月7日   山口県史整理年表  諸郡代官に郡中百姓身上売買等についての法度を布達す 【考証論断】
寛永4年      山口県史整理年表  岩国今津に萩藩の蔵屋敷を創建 【岩邑年代記】


西暦1628年
寛永5年 春     山口県史整理年表  秀元、豊浦郡楢原村の妙栄寺を改めて泰雲院と号し、小早川隆景の香花寺となす
                   【長府毛利家乗】
寛永5年      山口県史整理年表  吉敷郡小郡所務代東条就類、台道・秋穂・鋳銭司・陶・名田島・嘉川の六ヵ村に
                   て新田を開発す。また長沢池を築く 【草舎年表】
寛永5年      山口県史整理年表  秀就、大阪城二ノ丸の修理を助役 【毛利氏四代実録】
寛永5年      山口県史整理年表  右田毛利元法、その邑右田に文武道場を創し、時観園と称す 【萩史料】

寛永5年      山口県史整理年表  佐波郡西浦潮合開作築立 【旧耕調査】
寛永5年 2月9日   山口県史整理年表   幕令により、諸士の随従士卒数を定む 【草舎年表】
寛永5年 3月28日  大日本史料     若宮、御病あり
寛永5年 5月    大日本史料     幕府、板倉重昌を大坂に遣し、大坂城修築助役の大名等を褒す、
寛永5年 5月3日   大日本史料    神竜院梵舜をして、山城吉田社に若宮の平癒を祈らしめらる、尋で、西洞院時慶を
                  して、同国平野社に亦、之を祈らしむ
寛永5年 6月3日   大日本史料    内侍所に御神楽を奏し、高仁親王の御平癒を祈らせらる
寛永5年 6月11日   大日本史料    高仁親王、薨じ給ふ

                 *(徳川家の血が天皇家に入ることを阻止せんとする動きは婚姻前よりありて
                   男児誕生にて暗殺の企てありとの風聞あり。首謀、中和門院、実務担当
                   中和門院の女房・備後の説あり。備後は元伊予・大津城主、大野直之の娘。)

寛永5年 6月14日   大日本史料    高仁親王薨去の報、江戸に達す、是日、常陸水戸城主徳川頼房等、登城す
寛永5年 6月16日   大日本史料    幕府、所司代板倉重宗に、故高仁親王の御葬儀のことを命ず、尋で、武家伝奏
                  権大納言三条西実条・同権中納言中院通村にも亦、之を令す、

寛永5年 8月9日   大日本史料    摂津麻田邑主青木重兼の父一重卒す、
寛永5年 8月16日  山口県史整理年表  松崎天満宮の造営遷宮につき、益田元祥より諸経費のことを社坊大専坊に達す
                  【大記録】
寛永5年 9月14日  山口県史整理年表  周防国分寺再興の綸旨を賜い、ついで造営に関し、先例により、諸国勧進を
                  許さる 【周防国分寺文書】
西暦1628年
寛永6年      山口県史整理年表  岩国海土路村に塩田を開く
寛永6年      山口県史整理年表 玖珂郡和木村の高洲新七開の開作のことにつき大竹村と紛争あり 【岩邑年代記】
寛永6年 2月28日  山口県史整理年表  阿武郡水谷の磯にて寄鯨あり。石州津和野藩飯ノ浦の漁民これを捕え、本藩と
                  津和野藩との間に国界の論争あり。ついに境界をたたら崎に定む 【大記録】
寛永6年 3月12日  山口県史整理年表  益田元祥、命により、人沙汰についての令条を定む 【毛利氏四代実録】

寛永6年 3月24日  愛媛県編年史6   元西園寺家の旗頭土居清良没する。84才

寛永6年 5月7日  大日本史料      御不予に依り、女一宮「興子内親王」に譲位あらせられんとす、久しく女帝の例
                   無きに依り、中和門院、之を公家衆に諮詢あらせらる

寛永6年 10月   山口県史整理年表  山口市中に舛座役・あい物座役・たな役を免許す 【毛利氏四代実録】

寛永6年 10月7日  大日本史料     中和門院と共に、中宮御所に行幸あらせらる、御口切の茶会あり

寛永6年 11月2日  村上図書伝書   村上図書元敬は父廣親の病死により、船手組頭に就任する。

寛永6年 11月5日  山口県史整理年表  秀就、陪臣への禁令五ヵ条を定む 【閥閲録】
寛永6年 11月7日  大日本史料    幕府、所司代板倉重宗をして、曼殊院良恕親王・権大納言日野資勝に請ひ、共に冷泉
                 為治・藤谷為賢の蔵書を検せしむ、
寛永6年 11月8日  大日本史料    俄に興子内親王に譲位あらせられ、太上天皇と称し給ひ、関白一条兼遐を摂政と
                 為し、内大臣三条西実条を院執事別当に、権大納言中御門宣衡を院執権に、権大納言
                西園寺公益を院御厩別当に補す、明日、中宮、使を江戸に遣し、之を幕府に急報し給ふ

寛永6年 11月9日  大日本史料   中宮を東福門院と号し奉る、仍りて、中宮職を罷む

寛永6年     心斎橋今昔年表  徳川の大坂城が再築され、天守閣が完成する。
                太閤贔屓の大坂人は、巨大石の石垣を見ても、太閤様の偉大さが更に光り輝く
                ものでした。

                新町を造成。
                内伏見町・阿波座・北天満・神崎・江口等の散在の遊女を集め、大坂唯一の公許の
                新町遊郭が完成。(現、西区新町一丁目付近=瓢箪町・
                佐渡島 町・越後町・新堀町・新京橋町を「五曲輪(くるわ)」といった。
                以後300年繁栄)

西暦1629年
寛永7年 3月1日  屋代大野系譜  ●56代大野直一 歿 二十六才 号快雲浄慶居士 【雅助文書⇒始めて寺山に葬る。】

寛永7年 5月8日  山口県史整理年表  三田尻村を藩の船倉として波戸を築かんとす。この日幕府これを許す 【考証論断】

寛永7年 7月3日  大日本史料     中和門院、病気にて崩じ給ふ
寛永7年 7月3日  大野大洲系譜    ●中和門院崩御、大野備後(中和門院女房)尼となる。月性院秋月栄春大姉

寛永7年 11月3日  大日本史料    秀忠・家光、年寄上野厩橋城主酒井忠世・同下総佐倉城主土井利勝及び板倉重昌等
                 を、武家伝奏内大臣三条西実条・同権大納言日野資勝の江戸の旅亭に遣し、禁中の
                 ことに就きて意見を問はしむ

寛永7年     心斎橋今昔年表   東横堀川の東の瓦屋町で寺島宗右衛門により、瓦焼きが有名。
                 「寺島屋旧記」には徳川家から北接の空堀窪地46,000坪を拝領。大坂城、都の禁裏、
                  諸社寺、江戸御用として高津瓦を回送する

西暦1630年
寛永8年 8月    山口県史整理年表  徳山毛利就隆、下松に館邸を造営す 【徳山藩史稿】
寛永8年 8月    藩史大辞典     ○下松藩、下松舘邸竣工する。
寛永8年 10月    山口県史整理年表  山代宰判において紙・楮の貢納制度を創む 【防長造紙史研究】
寛永8年 10月5日  山口県史整理年表  秀就、昨春以来秀元と不和。この日秀元、後見役を辞し藩政を秀就に還す
                   【考証論断】

西暦1631年
寛永9年 忠     赤穂資料      父・長重が亡くなると、長男・長直が家督【笠間】を相続する
寛永9年      寛政重修諸家譜   浅野長直、笠間浅野家相続する。
寛永9年      山口県史整理年表  安芸大竹村民、鼻操川に石垣を築く。これより川口埋まり、河水周防和木村に
                   浸入す。和木村民これに抗議す 【玖珂郡誌】
寛永9年      山口県史整理年表  秀就、国分寺の方丈・仏殿・二の門・大庫裡等を再建 【防府の今昔】

寛永9年 1月      心斎橋今昔年表  2代目徳川秀忠が死去

寛永9年 6月16日   山口県史整理年表  肥後加藤忠広改易につき、士卒二千五百人・馬百疋を乗すべき送船を当月中に
                   大阪に廻漕すべき幕命あり 【考証論断】
寛永9年 8月23日   山口県史整理年表  益田元祥当職役を退く。物成米銀、その他を後任宍道元兼に引継ぐ
                   【考証論断】

寛永9年      大龍寺大野是水覚書  ●台風があって、照岩寺は今の西浄寺屋敷にあった。台風で倒壊し小屋架けして
                    いる処に矢野与右衛門と云う牢人が来て其の跡屋敷へ照岩寺は移り、現在に
                    至っています。

寛永9年 9月1日   山口県史整理年表   雑賀元相に諸郡巡見使を命ず 【考証論断】
寛永9年 9月10日   山口県史整理年表   秀就、東勤に先立ち、家中ならびに郡中諸事・品定・訴訟等三篇の法度を
                    公布す 【考証論断】
寛永9年 9月16日   山口県史整理年表   秀就、松崎天満宮に詣で、連歌を興行す 【防府の今昔】
寛永9年 10月11日  大日本史料       武家伝奏前内大臣三条西実条・同権大納言日野資勝、禁中諸所の修理を
                     所司代板倉重宗に命ず、

西暦1632年
寛永10年 1月12日  藩史大辞典      ○毛利秀就、就隆への分知を幕府に願い出る。
寛永10年 2月4日  山口県史整理年表   三田尻町人五十君清助宅を御用宿とし、地料銀ならびに諸役を免除し、かつ、
                    普請用材木を給す 【考証論断】
寛永10年 2月16日  山口県史整理年表   幕命により武具を改め、また軍役を十八才より六十五才までと定む
                    【草舎年表】

寛永10年 5~6月  山口県史整理年表   五~六月頃、幕府巡見使市橋長政・村越正重・拓植正時防長両国を巡見。
                    この時石州鹿足郡吉賀村と玖珂郡山代大野村と国境の争論起こる
寛永10年 6月   山口県史整理年表   寛永二年の熊野検地以来、凶作打続き百姓困窮す。この度幕府巡見使通行に
                    つき、郡奉行両名廻郡、百姓に示論して愁訴を抑止す 【草舎年表】
寛永10年 7月2日  山口県史整理年表   秀就、江戸城修理について銅一万斤・緑青十斤を進献す 【公儀所日乗】

寛永10年 8月14日  山口県史整理年表  幕府、切支丹宗徒を検す。阿武郡明木の駅の仁左衛門を信者たるにより
                    火刑に処す 【公儀所日乗】
寛永10年 9月8日  山口県史整理年表  阿武郡大谷村において切支丹宗徒八人を火刑に処す。その他同郡福井・明木、
                   大津郡井上、吉敷郡山口にも宗徒あり。みな捕えて火刑に処す 【大和日記】

西暦1633年
寛永11年     山口県史整理年表  秀就、江戸半蔵門の普請を助役 【草舎年表】
寛永11年    山口県史整理年表  長府藩、寛永二年の熊野検地に準拠して、領内の石高を検す。八万三千十一石余
                   【長府毛利家乗】
寛永11年 3月19日  藩史大辞典    ○下松藩、幕府就隆への分知を公認し、諸侯の列に加える。
寛永11年 3月19日  毛利家系譜    ○毛利日向守就隆 周防国都濃郡下松に住居す。
寛永11年 4月29日  山口県史整理年表  萩古萩町火災。百三十三戸を焼く 【郡方年表】

寛永11年 6月10日  山口県史整理年表  知行百石につき苧麻二十目を賦課す 【大和日記】

寛永11年     龍心寺現住談    ○大竜寺(片山極楽寺跡)火災のため現、石井(ニ尊院跡)へ移る。 
 
寛永11年 7月4日  大野家聞書     ○大野仁右衛門尉 尾首 弥六郎 卒去85才、没落後立石村の居す、此面人
                    蔵人直利男、加賀守直幸の孫なり。

寛永11年 閏7月16日  山口県史整理年表  幕府、諸大名の知行朱印改を行う。秀就、二条城において防長両国一円知行
                     の朱印状を受く 【公儀所日乗】
寛永11年 7月18日  山口県史整理年表  秀就、参内して天皇および仙洞御所に御太刀折紙御馬代を献ず

寛永11年 12月3日  上川大野系譜   ■大野朝直の子 直幸の嫡男 直利 卆去 88歳 尾首城主 
                   願誠寺伝通山休意大居士

寛永11年    彦根藩侍中由緒帳  大野清兵衛家二代一利は子供とともに召出し、供役、母衣役となる。

寛永11年    心斎橋今昔年表  3代将軍 徳川家光 が大坂を視察。

                  民活により新生「大坂」に改造されたお礼として、11,000石にのぼる地子(固定資産
                  税)の永久免除と関所税を撤廃、楽市楽座の自由営業を 認めて統制しないとする
                  優遇政策を施行し、太閤贔屓の緩和政策とした。それは、大坂を『天下の台所』
                  つまり経済の中心地にする為の政策でした。

西暦1634年
寛永12年 6月    山口県史整理年表  幕府参勤交代の制を定む 【新撰雑彙】
寛永12年 6月    心斎橋今昔年表   参勤交代制を定める。大坂城の運河が完成し、水運による物資交易が活発化。
                  鰻谷に住友銅吹所が完成。西横堀の南北炭屋町にも 銅吹所が集り、大坂は全国
                  最大の銅工場地となる

寛永12年 6月25日  山口県史整理年表  幕府、諸国金銀銭米通用の状況を問う。防長両国は丁銀のみ通用のことを答申す
                   【福間帳】
寛永12年 7月25日  山口県史整理年表  防長両国大風洪水。萩城下の被害甚大 【小箱旧記抜書】
寛永12年 8月13日  山口県史整理年表  防長両国大風洪水 【小箱旧記抜書】
寛永12年 10月3日  山口県史整理年表  秀就幕府へ銅一万斤を献ず 【福間帳】

寛永12年 12月25日  屋代大野系譜   ●大野兵庫助直政歿(友田治兵衛)85歳大竜寺に葬る後正福寺に移る。
                   (大乗院)法庵宗如居士、

寛永12年      周防大島民族誌  小松の妙善寺は真宗。古くは真言宗の光照寺というのがあったがその焼け跡へ
                  天正十八年再興されて妙善寺と改め寛永十一年に改宗せらる。

西暦1635年
寛永13年 1月8日  山口県史整理年表  秀就江戸城の普請を助役。この日鍬初 【福間帳】
寛永13年 2月9日  山口県史整理年表  去年中、切支丹宗門改を行い、両国内一人も宗門の者なき旨を幕府に報告す
                  【福間帳】
寛永13年 3月26日  山口県史整理年表  江戸麻布邸を受領す 【福間帳】

寛永13年 4月9日  山口県史整理年表  玖珂郡小瀬川渡・御庄川渡・岩国横山渡の掟を定む 【岩邑年代記】
寛永13年 5月20日  山口県史整理年表  秀就、秀元と不和のためかねて幕府より和平の周旋あり、この日表面落着す
                   【福間帳】

寛永13年 6月    心斎橋今昔年表   寛永通宝による統一通貨経済になり、大坂では「商工士農」の新序列制度を
                   作った。大坂には三大卸市場「雑喉場ざこば魚市、天満青物市、堂島米市」
                   があり、全国の米取引市場の堂島、諸藩の蔵屋敷並ぶ中之島一帯は、米の相場
                   が決められた事から「天下の台所」と呼ばれました

寛永13年 9月    山口県史整理年表  朝鮮信使来朝。幕命により領内通行に際し往還ともに接待す 【福間帳】

西暦1636年
寛永14年     山口県史整理年表  幕府島原城主松原三弥を萩藩に預け、これを平安寺に置く。
                   ついで十五年五月二十七日江戸へ送致す 【福間帳】
寛永14年 1月    山口県史整理年表  幕命により美祢郡赤村にて寛永通宝を鋳造す 【桑原文書】
寛永14年 2月8日   山口県史整理年表  朝鮮信使の帰途を上関にて饗応す 【岩邑年代記】
寛永14年 3月20日  山口県史整理年表  吉見右京進に毛利の称号を与え二千石の地を加増す 【毛利氏四代実録】

寛永14年    大龍寺由緒書(兼助版)  ○大竜寺(片山極楽寺跡)火災より宝物・旧記・本尊に至るまで焼失する。  
寛永14年 7月25日   大野家譜上田本   ○大野直昌男直清(直綱)、上川村今生芳にて卒。

寛永14年 9月10日  山口県史整理年表  振舞、その他品定の法度十七ヵ条を公布す 【右田毛利家什書】

寛永14年 11月    山口県史整理年表  肥前島原の乱起る。乃美元宣・国司就正等出陣す 【島原陣記】
寛永14年 12月    山口県史整理年表  細川侯、雲谷家の画工一人を所望す 【毛利氏四代実録】
寛永14年 12月26日  山口県史整理年表  大阪奉行よりの達により各地代官に島原の落人の究明を命ず
                   【毛利氏四代実録】

西暦1637年
寛永15年 1月6日   藩史大辞典    ○下松藩、毛利就隆初めて下松の舘邸に入る。

寛永15年      屋代大野系譜   ◎今元家初代助左衛門直光長男助左衛門直秀誕生*
寛永15年      山口県史整理年表  萩光源寺建立 【もりのしげり】
寛永15年 2月2日   山口県史整理年表  家中武具定ならびに普請役定の法を布く 【毛利家文書】
寛永15年 2月4日   山口県史整理年表  九州出陣の松平信綱より兵粮米借用の申込あり。よって五・六日の両日米二千
                    石を小郡港にて船積し、九州有馬へ廻漕す 【福間帳】

寛永15年 2月28日  山口県史整理年表  島原城落城につき三月初旬陣払い。乃美元宣・国司就正等帰国す 【島原陣記】
寛永15年 3月19日  山口県史整理年表  岩国領往還道作りの割当を定む
寛永15年 5月    山口県史整理年表  幕令により藩内古城址の石垣を破壊す 【有故雑文】
寛永15年 6月    山口県史整理年表  藩内を捜索し切支丹宗徒を捕う。また諸士に誓紙を出さしむ 【有故雑文】
寛永15年 6月15日  山口県史整理年表  徳山毛利就隆はじめて下松館邸に入る 【徳山略記】

寛永15年      筑前大野家譜   筑前大野家本家直生は島原の乱で戦死した、子の直正、直幸を弔うため寺を
           建立、当初松月庵後浄土宗正願寺となる (*現在、北九州市折尾に在り)

西暦1637年寛永16年       山口県史整理年表  山口高嶺城を廃す 【もりのしげり】
寛永16年       山口県史整理年表  阿武川に橋本大橋を架す 【渡辺年表】
寛永16年 6月1日    山口県史整理年表  江戸の諸費年々増加し財政逼迫す。よって永続の策を議す 【大記録】
寛永16年 7月     心斎橋今昔年表    鎖国状態に入る
寛永16年 8月11日   山口県史整理年表  江戸城本丸火災。閏十一月十八日その造営につき緑青二千斤・紙千間を進上
                    【公儀所日乗】

寛永16年 9月17日  山口県史整理年表  岩国横山渡橋の番人掟を定む 【岩国沿革志】
寛永16年 10月21日  山口県史整理年表  松崎天満宮の屋根葺替成就。近日遷宮につき連歌を興行せんとし、その費を
                   大専坊に給す 【公儀所日乗】
寛永16年 11月    山口県史整理年表  長門国に銀を産す 【公儀所日乗】
寛永16年 閏11月12日  山口県史整理年表  秀就、酒井和泉守の請により、等益・等与筆の屏風各一双を進呈
                    【公儀所日乗】

寛永16年 11月21日  山口県史整理年表  雲谷等与、法橋に敍せらる 【閥閲録】
寛永16年 11月27日  山口県史整理年表  秀就碁打等哲・等智・宗雲・勝七(宗雲の子)等上方に往くにより、各銀子二枚
                   を授く。ついで十一月二十一日、本因坊に銀子五枚を贈る 【公儀所日乗】
寛永16年 閏11月29日  山口県史整理年表  この頃悪銭多く通用す。幕府鋳銭の諸藩の命じて、厳に偽造を究明せしむ
                     【公儀所日乗】

西暦1638年
寛永17年       山口県史整理年表  玖珂郡小瀬より玖珂までの道筋に並木松を植う 【岩邑年代記】

寛永17年 1月     屋代今元系譜  ◎今元家初代助左衛門直光次男助左衛門(二代目河原十右衛門)誕生

寛永17年 2月     山口県史整理年表  大寧寺・竜文寺・瑠璃光寺の三ヵ寺確執あり 【毛利氏四代実録】
寛永17年 2月22日   山口県史整理年表  深川大寧寺焼く 【春田日記】

寛永17年 3月1日    毛利家寺社由来  ○大野直一(直房嫡子)26歳で逝去したため是水屋敷を浄屋寺(現等覚院)
                    に寄付し浄土宗に帰依、竹之内屋敷に移る。
寛永17年       毛利家寺社由来  ○大畠戒善寺の蓮誉松廓は無住大破の滝見山浄屋寺を再基、後大野直一寛永17
                    年逝去に伴い家屋敷の寄付を受け直一再興の開基

寛永17年 6月     山口県史整理年表  玖珂郡和木村と安芸大竹村との間に論地あり 【岩邑年代記】
寛永17年 7月5日    山口県史整理年表  長崎上使、切支丹宗禁制のため、近国の領主を小倉に会す。秀就の名代とし
                     て毛利元清・志道就幸出席す 【毛利氏四代実録】
寛永17年 9月7日    山口県史整理年表  岩国領紙貢納の仕法を定む 【証記抜萃】
寛永17年 11月22日   山口県史整理年表  幕府、寛永の新銭過剰につき、新銭鋳造中の長藩他七藩に令し、自今鋳造を
                     停止せしむ 【毛利氏四代実録】

西暦1639年
寛永18年       山口県史整理年表  両国稔らず 【毛利氏四代実録】
寛永18年       山口県史整理年表  岩国紙二百丸をはじめて大阪へ運送す 【岩邑年代記】
寛永18年 1月1日    山口県史整理年表  秀就諸事法度数十ヵ条を出す 【毛利氏四代実録】
寛永18年 7月13日    山口県史整理年表  萩津浦大島近海に明国の商船漂着す。この日長崎奉行に報知し、
                     ついで長崎に廻送 【毛利氏四代実録】

寛永18年 8月11日    屋代大野系譜  ●徳山大野初代直広歿 四十九才 号月秋道海居士 葬八代村ノ内福正寺山
寛永18年 8月11日    萩藩附録大野  ●徳山大野初代直広歿於徳山

寛永18年 9月4-5日   山口県史整理年表  両国大風。萩城各所および田畠の損害多し 【毛利氏四代実録】
寛永18年 10月     山口県史整理年表  両国の一里塚を改む 【証記抜萃】
寛永18年 12月29日   山口県史整理年表  藩医土生玄昌幕府に仕え禄五百石を受く 【毛利氏四代実録】

西暦1640年
寛永19年        山口県史整理年表  佐波郡宮市兄部氏の宅を本陣と定む 【防府の今昔】
寛永19年        山口県史整理年表  長府藩清末開作の石高を定む 【長府毛利家乗】

寛永19年        山口県史整理年表  岩国に痘瘡流行す 【岩邑年代記】

寛永19年        福岡市黒田記念室  大野吉勝長男、大野忠右衛門貞勝誕生

寛永19年 2月7日    山口県史整理年表  上関御茶屋の修理ならびに増築につき幕府の許可を受く 【毛利氏四代実録】
寛永19年 6月1日    山口県史整理年表  秀就、毛利元法等に軍役ならびに藩政につき十二ヵ条の令条を授く
                    【毛利氏四代実録】
寛永19年 7月3日    山口県史整理年表  この年飢饉につき、心得方十一ヵ条を頒ち、諸芸人・絹布販売者・唐津焼
                    物・五穀類および他国の酒造を両国内に入るを禁ず 【毛利氏四代実録】

寛永19年 9月19日  北九州市八幡西区HP  大野勘右衛門は寛永19年9月19日に84歳で没し、
                     その墓は松月院の傍らに建てられた。

寛永19年 9月     山口県史整理年表  対馬守宗義成帰国の途次上関に泊す。秀就、朝鮮信使来朝について、上関・
                    下関における迎接の諸事を商議せしむ 【毛利氏四代実録】
寛永19年 9月     山口県史整理年表  佐波郡国分寺本堂一宇を建立す
寛永19年 12月24日  山口県史整理年表  幕命により両国内の農家三十戸・男女百七十八人を肥前天草・島原に移す
                   【小箱旧記抜書】

西暦1641年
寛永20年      山口県史整理年表  この頃より都濃郡須万村紙上納となる 【徳山略記】

寛永20年       山口県史整理年表  岩国領検地。給地を組替う 【岩邑年代記】
寛永20年 2月1日   山口県史整理年表  秀就切支丹宗停止の令条五ヵ条を頒つ 【毛利氏四代実録】

寛永20年 2月2日   大野家聞書   ○大野内蔵介 立石尾首 卒去す。忠左衛門と云う。直昌没後は立石村に住居す、

寛永20年 2月5日   山口県史整理年表  幕府諸侯の江戸における買米を停む。よって各国元より廻米す
                    【毛利十一代史】
寛永20年 2月21日  山口県史整理年表  陶工坂高麗左衛門死す。五八 【坂家譜】
寛永20年 3月9日   山口県史整理年表  秀就、江戸城二・三の丸普請について銅一万斤あてを進上す
                   【毛利氏四代実録】
寛永20年 4月    山口県史整理年表  江湖会に関し吉敷郡泰雲寺・大津郡大寧寺および関東曹洞宗の三ヵ寺との間に
                    争論あり 【毛利氏四代実録】

寛永20年 9月7日  山口県史整理年表  秀就毛利就方を名代とし即位を賀す 【毛利氏四代実録】
寛永20年 9月18日  山口県史整理年表  朝鮮信使馬関に到着す。秀就、饗応人として毛利就方・乃美就宣を馬関、毛利
                    元宣・福原元房を上関へ派す 【毛利氏四代実録】

寛永20年 10月23日  屋代大野系譜  ●55代直房前妻 大島四郎右衛門女歿 四十九才 号逝忌安■■大姉 葬岡町

寛永20年 12月28日  山口県史整理年表  田租の見取法を廃しはじめて春定法を施行。また畠方も石貫に定む
                    【毛利氏四代実録】

寛永20年       屋代今元系譜  ◎今元本家二代目直秀婦 ミネ(片山新六女)誕生
寛永20年   大龍寺由緒書(兼助版) ○焼失した大竜寺(片山極楽寺跡)石井の二尊院屋敷に再建する
                  (現龍心寺の所)。 
 
寛永20年   新羅之記録      ●松前景廣、松前藩の歴史書を編纂する。*(函館河野氏の記録カ)


西暦1642年
寛永21年 2月14日   山口県史整理年表  画家雲谷等益死す。五四 【閥閲録】
寛永21年 6月23日   山口県史整理年表  三田尻船廠を拡張し、石垣築造を幕府に申請。この日許可さる 【福間帳】
寛永21年 7月3日   山口県史整理年表  前江戸当役阿曽沼就春罪あり、大津郡津黄村毛利就頼の知行所において自刃
                    せしむ 【考証論断】
寛永21年 7月13日   山口県史整理年表  長門大寧寺と周防瑠璃光寺と争論あり。十二月十二日落着す 【福間帳】
寛永21年 夏     山口県史整理年表  岩国領中山村と萩領三丘村と境界の争論あり
寛永21年      山口県史整理年表  徳山藩、領内大向・大道理・川曲・四熊・上村の五ヵ村に、藩用紙の上納を
                    命ず 【徳山毛利家記録類纂】

寛永21年     山口県史整理年表  玖珂郡和木村の用水不足のため瀬田村より長さ八百三十間の用水溝を掘る
                   【岩邑年代記】

寛永21年 9月11日  屋代大野系譜    ●54代大野直政後妻継子歿 号明庵壽鏡大姉

寛永21年 10月17日  山口県史整理年表  当職児玉元恒財政整理の意見書を上る 【有故雑文】
寛永21年 11月20日  山口県史整理年表  秀就、財政逼迫につき、一門・老中・寄組以下に財政整理についての意見書を
                    徴す。翌二年正月までに諸士よりこれを提出す 【無尽集】
寛永21年 12月    山口県史整理年表  朝鮮国の漁船三艘大津郡向津具浦に漂着。長崎へ廻送す 【福間帳】
寛永21年 12月16日  山口県史整理年表  幕府諸国の絵図調達を命ず 【福間帳】

寛永12月16日   改元・出典「尚書」 しょうほう・1年号三帝の例なし改元による(後光明天皇-5年間)
                                     【勘申者 菅原知長】

西暦1644年
正保2年       藩史大辞典   ○下松藩、大向ほか五村に藩用紙の上納を命ずる。「五箇村紙請紙仕法」とよぶ。
正保2年 3月7日    山口県史整理年表  皮屋役を山口垣ノ内吉左衛門に命ず 【御書附其外後規要集】
正保2年 5月     心斎橋今昔年表   宮本武蔵(62歳)死す

正保2年 忠 6月22日  赤穂浪士HP  ○赤穂藩主池田輝興発狂して妻(黒田長政女)を殺し断絶、代りに常陸国笠間から
                 浅野長直移封さる。
正保2年 6月22日   寛政重修諸家譜  浅野長直、赤穂転封さる。
正保2年 忠 6月22日  赤穂資料    浅野長直(35歳)は播州赤穂5万石に移り、赤穂浅野家の祖となる。

正保2年 7月27日   山口県史整理年表  大風あり。厚狭郡藤曲沖にて福原氏の家士等幕府長崎上使新見正重の難船を
                   救う 【福間帳】
正保2年 忠 8月   赤穂資料   新参家老大野九郎兵衛と近藤正純・奥野将監が連名して、大坂・高砂の町人に対して、
               赤穂東浜における塩田開発の条件を出す。 *(伊予大野家よりの仕官カ)

正保2年 9月14日  山口県史整理年表  入牢その他の刑典十一ヵ条を公布す 【考証論断】
正保2年 11月    山口県史整理年表  両国の一里塚を改む 【考証論断】

西暦1645年
正保3年     山口県史整理年表  藩政改革につき、相当の人員整理行わる 【草舎年表】
正保3年     山口県史整理年表  画師助左衛門、幕府に呈出のため防長両国絵図を製す 【公儀所日乗】
正保3年     山口県史整理年表  佐波郡宗金開作ならびに泥江開作築立 【風土注進案】
正保3年     山口県史整理年表  藩士の歩戻り開作を許す
正保3年     山口県史整理年表  楮桑茶漆等の栽培を奨励す

正保3年 2月6日  屋代大野系譜   ●55代直房弟直嘉室(池田源兵衛女) 歿 号花愙壽栄大姉
正保3年 忠    赤穂浪士HP    ○赤穂藩主浅野長直は近藤三郎右衛門正純を赤穂城の築城奉行に任命する。

正保3年 6月14日  山口県史整理年表  益田元堯財政の整理、世子の教育、家中粛正の三カ条その他の改革意見を上申す
                   【毛利家文書】
正保3年 7月29日  山口県史整理年表  藩政改革について幕府に内議す 【公儀所日乗】
正保3年 11月12日  山口県史整理年表  申請中の萩城修理許可あり 【公儀所日乗】
正保3年 11月16日  山口県史整理年表  秀就、藩政改革につき、留守居・大年寄・組頭・当職等重職の職権に関する
                   黒印令状を出す 【考証論断】

正保3年 11月16日  山口県史整理年表  財政改革のため、諸士の知行二歩を収公し、八百石以下は給地を藩に収め、
                   浮米をもって給すべき旨の黒印令状を出す 【考証論断】
正保3年 12月1日  山口県史整理年表  防長両国の真宗寺院を先規の如く興正寺の末寺となし、萩清光寺をして両国内同
                   派の僧侶を督せしむ 【興門跡御由緒】
正保3年 12月13日  山口県史整理年表  秀就、藩政改革につき黒印令状五通を出す。また老臣連署の法令三通を出す
正保3年 12月16日  山口県史整理年表  東大寺領佐波郡国衙八町の地を収公し、現米百石を給す 【考証論断】


西暦1646年
正保4年       山口県史整理年表  阿武郡奈古村ほうめき銀山成立す 【徳山略記】
正保4年       山口県史整理年表  佐波郡伊佐江野村開作築立
正保4年 1月11日   山口県史整理年表  鋳工長左衛門に郡司讃岐の姓名を授く 【考証論断】
正保4年 1月18日   山口県史整理年表  御細工人石川六左衛門・同孫右衛門・高橋与三右衛門・井上五郎兵衛・五十部
                   次郎右衛門に世子儀仗の槍二十本の製作を命ず 【考証論断】
正保4年 2月24日   山口県史整理年表  幕府、諸藩証人(人質)の交替法を定む 【考証論断】

正保4年 11月16日   山口県史整理年表  朝鮮漁船一隻、豊浦郡角島に漂着す 【考証論断】
正保4年 12月     山口県史整理年表  都濃郡矢地村の白魚税高を二石と定む 【徳山毛利家記録類纂】

西暦1648年
慶安元年 閏1月16日  山口県史整理年表  吉川氏疱瘡遠慮規則を制定す 【岩国旧記】

慶安   2月15日   改元・出典「周易」 けいあん・御慎改元による(後光明天皇-5年間)【勘申者 菅原為適】

慶安元年 2月2日   屋代大野系譜    ●55代直房妹オショク夫嶋伝左衛門 歿 四十八才 号梅山■■居士
慶安元年 2月     山口県史整理年表  徳山藩、領内本街道に一里塚六ヵ所を創設 【徳山毛利家記録類纂】
慶安元年 2月13日   山口県史整理年表  氷上山恒例の妙見会に童舞を廃し、はじめて能を興行す
慶安元年 4月     山口県史整理年表  岩国錦見村・川西村・大内迫に新に屋敷割を行う 【岩邑年代記】
慶安元年 6月15日   毛利家系譜    ○毛利日向守就隆 周防国都濃郡野上庄(徳山)住居を移すことを許される。
慶安元年 6月15日  山口県史整理年表  徳山毛利就隆、居館を下松より野上に移すことを許さる 【徳山毛利家記録類纂】

慶安元年 忠 6月17日  赤穂浪士HP   ○赤穂城の築城許可が下り浅野長直は築城を開始する。
慶安元年 閏6月   山口県史整理年表  再び古城址の石垣を壊つ 【有故雑文】
慶安元年 9月    山口県史整理年表  徳山藩大阪蔵屋敷として立売堀屋敷を購入す 【徳山藩史稿】
慶安元年 9月12日  山口県史整理年表  萩弘法渡口に番所を建つ
慶安元年 10月17日  山口県史整理年表  明年江戸城西の丸営繕につき、国産の銅一万斤・緑青千斤進上の目録を呈出す
                   【福間帳】

慶安元年 10月27日  山口県史整理年表  北上川改修の功労者川村重吉(萩出身)死す 【東北産業経済史】

慶安元年 11月2日  大西町河野正岡系図   正岡太郎左衛門室(黒川桃女)卒 
                     龍花院殿松雲妙貞真尼公 78(2)歳於筑前福岡卒、
                     子南明禅師菩提寺建立周布郡一本松村 龍華院

         * 伝承によると「予章記」「河野系図」は得能弥太郎が安芸国から伊予へ持ち帰り黒川通廣未亡人
           妙寿尼の元で病死し同尼に託しさらに娘の桃女に託し、其の子南明に渡り、原本が朽ちたので、
           書き直したのが「長福寺本河野系図」とされる。実は筆耕生に命じ書き直したともいわれる。

西暦1649年
慶安2年     山口県史整理年表  岩国今津の萩蔵屋敷増築 【岩邑年代記】
慶安2年 2月26日  山口県史整理年表  秀就、六組頭および御船手組頭より申請の陣中諸事法度十七ヵ条を公布す
                  【浦主計家譜】

慶安2年 4月9日  屋代大野系譜  ●55代直房弟直嘉後室(近藤長左衛門女) 歿 号月光妙屴大姉 岩国日光寺に葬る

慶安2年 4月10日  山口県史整理年表  秀就、異船長崎来港に備え、国老以下重臣に軍事諸事の令条六ヵ条を下す
                  【閥閲録】

慶安2年 7月17日  村上図書家譜録  ○一洞院(村上元武.55歳)卒
慶安2年 7月17日  大龍寺由緒書(兼助版) ○一洞院(村上元武.55歳)葬式の堂主を大野直房弟 久国天良和尚が勤め
                     る。一洞院殿前能州傑舟宗英居士

慶安2年 9月    山口県史整理年表  岩国紺屋九郎右衛門・近藤長左衛門、切支丹宗門容疑にて捕えらる 【証記抜萃】
慶安2年 10月20日  山口県史整理年表  桜田門の造営を助役。この日吉辰につき起工 【毛利氏四代実録】
慶安2年 10月22日  山口県史整理年表  徳山藩の野上館邸落成す 【徳山藩史稿】

慶安2年      貝原益軒風土記   福岡・金竜寺福岡に移築する【貝原益軒・風土記】


西暦1650年
慶安3年      山口県史整理年表  防長両国内を十八行政区に分ち、その一区を宰判といい、首長を所務代官とい
                   う。この頃この制度ほぼ整う。宰判の名称・管区は時に変更あるも 概ね次の
        【宰判制度始】    如し。当島・浜崎・奥阿武・前大津・先大津・美祢・吉田・船木・山口・小郡・
                   三田尻・徳地・上関・大島・熊毛・都濃・前山代 【もりのしげり】

慶安3年      山口県史整理年表  吉敷郡小郡古開作・名田島開作(慶三開作)築立 【風土注進案】
慶安3年      山口県史整理年表  徳山浜崎に猟人町成立す 【徳山毛利家記録類纂】
慶安3年 2月19日   山口県史整理年表  吉川氏江戸見附普請手伝の人数派遣 【岩邑年代記】
慶安3年 3月     山口県史整理年表  杉山灰吹銀を綱広の御納戸銀として幕府に呈す 【草舎年表】
慶安3年 3月7日    山口県史整理年表  剣道片山流の開祖片山久安死す。七六 【防長歴史暦】
慶安3年 3月28日   山口県史整理年表  朝鮮漁船阿武郡相嶋に漂着 【毛利氏四代実録】

慶安3年 6月10日   山口県史整理年表  徳山藩主毛利就隆はじめて野上館邸に入る 【徳山藩史稿】

慶安3年 6月15日   藩史大辞典     ○毛利日向守就隆 野上を徳山と改称する(徳山藩)。

慶安3年 6月24日   山口県史整理年表  東大寺領国衙土居八丁の地の代りに改めて毎年現米三百五十石を給す
                   【毛利氏四代実録】
慶安3年 7月18日   山口県史整理年表  阿武郡小畑浦に唐船一艘漂着す 【毛利氏四代実録】
慶安3年 7月25日   山口県史整理年表  萩古萩火災あり。浜崎に及ぶ 【桑原文書】
慶安3年 8月25日   山口県史整理年表  岩国横山館において連歌興行 【御取次所日記】
慶安3年 9月28日   山口県史整理年表  野上を徳山と改称す 【徳山毛利家記録類纂】

慶安3年 10月5日   屋代大野系譜   ●55代直房妹オシホ 大浜九郎左衛門妻歿 号天祐理情禅定尼

慶安3年 閏10月3日  山口県史整理年表  長府毛利秀元死す。七二 【長府毛利家乗】
慶安3年 閏10月9日  山口県史整理年表  萩城の修理を幕府に申請。十日許可あり 【毛利氏四代実録】

慶安3年    大野覚右衛門直佳書簡  高井政生氏蔵 大野家譜(原本無題)を桜井久治郎氏謄写したものの一部
                   (S43?) 大野直子氏提供

一、直昌息男大野九郎兵衛、其子 七郎兵衛、其子天野屋九郎兵衛ト申、大坂ニ罷有、只今ハ町人ニ相成、
  直之子ハ大野半右衛門ト申、松山ノ城 加藤左馬之助ニ五百石領相努罷存、其子 菅田吉右衛門ハ土井遠江守殿ニ
  六百石ニ有付、東筑前守嫡子蔵太夫、次男法師寿慶、蔵太夫嫡ハ大野冶左衛門、其子 本川村庄屋佐冶兵衛、
  喜土家(城戸)ハ立石村嘉右衛門、古田村 新右衛門、何モ立石村、古田村庄屋相勤候、
  大野蔵之大輔孫、大野五郎右衛門 松平隠岐守殿ニ四百石ニ有付相勤、尾崎家ハ大瀬組屋弥右衛門ト申者候
  職家悪数不便成事也、他ニ子供無之候

一、我等先祖ハ近江守弓四人張引馬太刀打達者戦軍之節、前度手柄有之、長曾我部ト合戦之砌高名有数事、

一、中川村庄屋又兵衛、我等之兄也、又兵衛嫡子中川村庄屋仁兵衛甥也、親仁兵衛、中川村庄屋浪人致、兄
  又兵衛ハ中川村庄屋被仰付、我等、露ノ峯村庄屋被仰付相勤、兄、又兵衛義ハ以前節目公辺ニモ被思召、
  大洲掘ノ内迄馬御免、

一、親、仁兵衛弟、弥右衛門ト申者、幼少時諸国打廻リ、奥州仙台ニテ四百石ニ有付居申所、一家ヲ懐度、当時
  御服迄小田ヘ罷越申、兄仁兵衛色々指適、依之小田上川村ニ庄屋無之侭、弥右衛門義上川村庄屋
  被仰付代々相勤来リ候、

一、大野近江守嫡子、大野仁兵衛二男大野孫右衛門、

一、大野仁兵衛嫡子、中川村大野又兵衛、露野峯村大野覚右衛門、右ノ別レ書加者也。

                   大野仁兵衛次男
                  大野覚右衛門  直佳   花押
     慶安三康寅歳
       河野孫太郎殿
      同姓弥之兵衛殿


西暦1651年
慶安4年     山口県史整理年表  徳山藩、領内を検地、高五万四百石余を得て三つ五歩成とし藩士の領地を収公して
                  禄米を支給す 【徳山毛利家記録類纂】
慶安4年     山口県史整理年表  阿武郡大井黒川村にて麻田某自力の山野開作百四十石成る 【風土注進案】
慶安4年     山口県史整理年表  岩国領田帳・屋敷帳を改訂す 【享保増補村記】
慶安4年     山口県史整理年表  この頃佐波郡西浦開作築立
慶安4年 1月5日  山口県史整理年表  秀就萩城にて死す。五七 【福間帳】
慶安4年 1月6日  山口県史整理年表  小川就克・信常就実・山名就行・祖式就好・村上就正・秀就に殉死。ついで九日
                  梨羽就云十二日久保宗久また殉死 【江氏家譜】

慶安4年 1月6日  山口県史整理年表  切支丹宗信奉の疑により、黒瀬平兵衛・河野孫右衛門を江戸に送致すべき幕命あり
                   【福間帳】
慶安4年 5月9日  山口県史整理年表  岩崎想左衛門、都濃郡漢陽寺隧道(潮音洞)の掘鑿を計画。承応三年成る
                  【閥閲録】
慶安4年 5月25日  山口県史整理年表  幕府殉死の禁令を発す 【毛利十一代史】
慶安4年 6月21日  山口県史整理年表  錦川洪水 【御取次所日記】

慶安4年 7月    山口県史整理年表  長門の浪人宇野九郎右衛門および萩町人熊谷紹味の子池永六郎左衛門由井正雪に
                   従いて駿府に自殺す。長門の人熊谷三郎兵衛もまた由井正雪の徒となりしが
                   江戸にて自殺す。 【庭の落葉】

慶安4年 8月    心斎橋今昔年表   徳川家綱が4代目将軍となる

慶安4年 11月6日  山口県史整理年表  足軽以下木履使用を禁ず 【毛利十一代史】
慶安4年 12月   山口県史整理年表  慶安元年以来吉敷郡陶・鋳銭司・大道・小郡・嘉川・岐波に開作地百八町五反、
                  高千三百七十八石成る 【井上譜録】
慶安4年 12月26日  山口県史整理年表  幕府の国目付斎藤左源太・山田清太夫萩城に着す 【毛利十一代史】
慶安4年      周防大島町誌   ○毛利家、三田尻・大島・玖珂等の行政区域としての十八宰判を置く
慶安4年      藩史大辞典    ○徳山藩、給領地を収公し、浮米化する。
慶安4年       藩史大辞典   ○徳山藩、領内検地により五万四七五石余となる。

西暦1652年
承應元年 *     山口県史整理年表  吉敷郡小郡仁保津開作一部成立 【小郡町史】
承應元年 *     山口県史整理年表  徳山藩、大津島の牧馬を百姓に与え、田畠を開拓す 【徳山毛利家記録類纂】
承應元年 *     山口県史整理年表  徳山藩城下の屋敷割を行う 【徳山略記】
承應元年 *     山口県史整理年表  山代半紙二万丸を大阪に輸出す
承應元年 * 6月9日  山口県史整理年表  萩城の絵図を幕府に提出す
承應元年 * 7月13日  山口県史整理年表  豊浦郡六連島に外国商船漂着す 【毛利十一代史】
承應元年 * 7月28日  山口県史整理年表  幕命により切支丹船究の箇条を頒つ 【毛利十一代史】

承應元年 * 7月28日  山口県史整理年表  他国酒他国米の購入を禁ず
承應元年 * 8月2日  山口県史整理年表  大津郡向津具浦に泉州安海の商船漂着す 【毛利十一代史】

承応   9月18日  改元・出典「晋書」 じょうおう・徳川家綱将軍就任改元による(後光明天皇-4年間)
          【勘申者 菅原知長】

承應元年 9月25日  屋代大野系譜   ●55代直房弟直嘉 歿 五十三才 号帳譽万弓居士

承應元年 10月3日  山口県史整理年表  長府毛利光広下山神上寺に高ニ百二十四石余を寄附す 【長府毛利家乗】
承應元年 11月1日  山口県史整理年表  郡奉行巡回し郡中に箇条書を頒つ 【大記録】
承應元年 12月13日  山口県史整理年表  江戸・京都・大阪・長崎における藩債の償還方法を定む 【毛利十一代史】

承應元年 12月   赤穂浪士HP  ○赤穂藩江戸藩邸へ山鹿素行1000石で仕える(万治3年9月まで9年10ケ月)
                 この年長直塩屋新田100町開発する。

西暦1653年
承應2年 1月    屋代今元系譜  ◎今元家初代助左衛門直光長女ナミ(三代目小林庄兵衛妻)誕生

承應2年      山口県史整理年表  徳山藩家中法度等を定む 【徳山毛利家記録類纂】
承應2年      山口県史整理年表  玖珂郡和木村与三地開作築立 【岩邑年代記】
承應2年 2月7日   山口県史整理年表  石州津和野藩と人沙汰に関して協定し、その箇条を一門以下の諸士に頒つ
                  【毛利十一代史】
承應2年 3月26日  山口県史整理年表  幕府の国目付石川弥左衛門・石丸石見守萩に来る 【江氏家譜】
承應2年 5月    山口県史整理年表  従来の大組六組に江戸組両組を加え、八組とす 【草舎年表】

承應2年 7月2日  山口県史整理年表  長府毛利光広死す。三八。十月十二日、嫡子綱元家督相続 【長府毛利家乗】
承應2年 8月1日  山口県史整理年表  諸士の跡目相続に関する規則を布く 【萩史料】
承應2年 8月5日  山口県史整理年表  大暴風雨。指月城破損し、両国内の人家多く倒る 【渡辺年表】
承應2年 9月11日  山口県史整理年表  諸士在郷居住に関する条目を頒つ 【毛利十一代史】
承應2年 9月15日  山口県史整理年表  御納戸銀貸付仕法八ヵ条を定む 【大記録】

承應2年 10月12日  山口県史整理年表  長府毛利綱元、祖父秀元の遺志により叔父元知に清末等一万石の地を分つ。
                   清末藩成立す 【長府毛利家乗】

承應2年 11月13日  山口県史整理年表  当職堅田安房、人を諸郡に派し、郡中の見分をなさしむ 【大記録】
承應3年 春      山口県史整理年表  萩大照院起工。明暦二年落成す 【草舎年表】

西暦1654年
承應3年       山口県史整理年表  都濃郡鹿野開作四十町歩築立 【都濃郡誌】
承應3年       山口県史整理年表  徳山新宮浜へ寄鯨・海豚来着す 【徳山藩史稿】
承應3年 3月29日   山口県史整理年表  清末毛利元知封地の受領証を長府藩に納む 【長府毛利家乗】
承應3年 4月16日   山口県史整理年表  国内鉄砲制禁の村ならび川網禁止の場所を布告す 【毛利十一代史】

承應3年 6月     山口県史整理年表  綱広三田尻に別邸を設く 【もりのしげり】
承應3年 6月     山口県史整理年表  両国所々に高札場を置く 【もりのしげり】
承應3年 6月19日   山口県史整理年表  幕府の国目付能勢小十郎・水野藤右衛門入国 【毛利十一代史】
承應3年 8月1日    山口県史整理年表  諸士の跡目に関し黒印の令条を頒つ 【毛利十一代史】
承應3年 11月28日   山口県史整理年表  画家三谷盛直死す。七八 【防長人物誌】

承應3年 12月12日   山口県史整理年表  大島郡戸津に死鯨漂着す。室積浦漁船と分配について争う 【大記録】

承應3年 12月19日   山口県史整理年表  岩国錦見出火。二百二十九軒焼失す 【岩邑年代記】

西暦1655年
明暦   4月13日  改元・出典「漢書」 めいれき・代始改元による(後西天皇-4年間)【勘申者 菅原為庸】

明暦元年      山口県史整理年表  萩浜崎の北国問屋松本忠兵衛泉州堺より住吉社を勧請す 【毛利十一代史】
明暦元年 5月24日   山口県史整理年表  御所落成。画工雲谷等爾および等与その壁に画く 【毛利十一代史】
明暦元年 8月4日   山口県史整理年表  朝鮮信使来朝。この日赤間関に着す 【毛利十一代史】

明暦元年      心斎橋今昔年表  水帳の制定により、心斎橋の近くには「安堂寺町1~5丁目・塩町1~4丁目・長堀
                  心斎町・長堀十丁目・長堀治郎兵衛町・長堀茂左衛門町・ 横堀伏見町・南新町・
                  木挽町南之丁・木挽町中之丁・南木挽町北之丁・菊屋町・鰻谷1~3・7丁目・
                  大宝寺町・南笠屋町・道仁町」等の町名が誕生しています

西暦1656年
明暦2年      山口県史整理年表  玖珂郡和木村・安芸大竹両村と貝取論争あり 【岩邑年代記】
明暦2年 2月22日  山口県史整理年表  郡奉行児玉伝右衛門廻郡し百姓等に郡中の諸事を尋問す 【大記録】
明暦2年 3月27日  山口県史整理年表  将軍疱瘡を病む。藩医小川宗順召されて診療す 【毛利十一代史】
明暦2年 8月    山口県史整理年表  大津郡大風あり 【大記録】
明暦2年 8月5日   大日本史料     幕府、板倉重宗を下総に移封し、関宿城主と為す
明暦2年 10月   山口県史整理年表  諸士へ屋敷配当につき粟屋就貞・国重又右衛門に屋敷割掛りを命ず 【故事年表】

明暦2年 10月   山口県史整理年表  大照院落成す 【萩史料】

西暦1657年
明暦3年     山口県史整理年表  量を改定す 【大記録】
明暦3年     山口県史整理年表   徳山新宮浜にて大鯨を捕え銀十貫目を上納す 【徳山毛利家記録類纂】
明暦3年     山口県史整理年表   徳山山藩士耕作の田畠を本主の百姓に返付せしむ 【徳山略記】
明暦3年 1月18日  山口県史整理年表  江戸市中大火。萩藩江戸桜田邸類焼す 【柿並年表】
明暦3年 2月   山口県史整理年表   宇都宮由的(遯菴)「岩邑紀行」を著作

明暦3年 2月2日  山口県史整理年表  去年凶作。米価騰貴につき国内穀類の出津を禁ず 【毛利十一代史】
明暦3年 3月28日  山口県史整理年表  大津郡代官に寄鯨ならびに突鯨の運上規定を頒つ 【毛利十一代史】
明暦3年 5月    山口県史整理年表  当役榎本就時、江戸邸内に宝蔵を建て、軍用金積立の法を設く 【もりのしげり】
明暦3年 8月3日   山口県史整理年表  阿武郡見島に朝鮮船漂着す 【毛利十一代史】
明暦3年 9月    山口県史整理年表  道路を修し幅員を二間とす 【大記録】
明暦3年 9月16日  山口県史整理年表  岩国横山・錦見間の架橋成り渡初めを行う 【岩邑年代記】

明暦3年      心斎橋今昔年表   新町の遊廓には、当初は西入口しかなく、船場の人達が遊びに行くのが不便だ
                  と、東の大門を開く

西暦1658年
万治元年 2月21日  山口県史整理年表  三田尻本町火災あり。船廠に飛火し関船十五隻・運送船八隻を焼く
                   【古来火事記】
万治元年 6月10日  山口県史整理年表  藩士召抱えの若党・中間・小者の刀脇差寸法を定む 【毛利十一代史】

万治   7月23日  改元・出典「史記」 まんじ・江戸大火改元による(後西天皇-4年間)【勘申者 菅原豊長】

万治元年     毛利藩万治制法  ○毛利藩の「万治制法」によると地名の最小単位はホノギではなく「名(みょう)」
                  とある。
万治元年 9月4日  山口県史整理年表  綱広初入国、この日萩に入城 【毛利十一代史】
万治元年 9月10日  山口県史整理年表  徳山城下に時鐘を始む 【徳山藩史稿】
万治元年 9月13日  山口県史整理年表  切支丹宗門究に関し、五人組にて誓書を提出せしむ 【毛利十一代史】
万治元年 10月14日  山口県史整理年表  益田元堯死す。六四 【毛利十一代史】
万治元年 11月10日  山口県史整理年表  明暦三年起工の御座船住吉丸・橋船二隻・左右隼丸の五隻竣工す
                  【防府の今昔】

万治元年 閏12月3日  山口県史整理年表  凶作につき造酒の石数減少の幕命あり。二十八日萩町奉行町内の酒屋の軒数、
                    造石数および減少による節約石数等を上申す 【毛利十一代史】
万治元年 閏12月15日  山口県史整理年表  外科医永田意卜を徴用す 【毛利十一代史】
万治元年 閏12月22日  山口県史整理年表  山口大火。士屋敷三十八軒・寺三宇・町家三百一軒を焼く 【古来火事記】
万治元年 閏12月27日  山口県史整理年表  凶作。米価騰貴す。萩町年寄役に米を下附して、窮民に廉売せしむ
                    【大記録】

西暦1659年
万治2年       屋代今元系譜    ◎今元本家三代目直就誕生

万治2年      山口県史整理年表  厚狭郡埴生村に毎年蝗害あり。大唐米を種作せしむ 【大記録】
万治2年      山口県史整理年表  熊毛郡平生開作、慶安四年より着手し、この年築立 【風土注進案】
万治2年      山口県史整理年表  玖珂郡和木村安芸大竹村と貝取論争あり 【岩邑年代記】

万治2年 1月15日  赤穂浪士HP     ○赤穂城内で大石蔵之助良雄誕生(幼名松之丞)。

万治2年 2月    山口県史整理年表  江戸番手の給米銀の規定を定む 【毛利十一代史】
万治2年 3月    山口県史整理年表  郡奉行諸郡を巡視す 【大記録】
万治2年 3月11日  山口県史整理年表  萩田町火災。諸士宅十四・町家百三十六軒・寺六宇を焼く 【大記録】
万治2年 4月    山口県史整理年表  米価騰貴につき雇夫の賃銭を改む 【大記録】
万治2年 5月    山口県史整理年表  都濃郡洪水あり 【大記録】
万治2年 5月19日  山口県史整理年表  錦川洪水。横山・錦見間の橋流失 【御取次所日記】

万治2年 8月28日   屋代大野系譜   ●55代直房弟 久国天良大和尚禅師 仙化 六十八才

万治2年 9月16日  山口県史整理年表  長門見島に朝鮮漁船漂着す 【毛利十一代史】
万治2年 11月   山口県史整理年表  佐波郡大崎村の庄屋佐波川に渡船を設けんことを請う。翌年二月これを許可し、
                  渡船賃を定む 【防府の今昔】
万治2年 11月    山口県史整理年表  足軽以下に高木履の外は木履の使用を許可す 【柿並年表】
万治2年 11月15日  山口県史整理年表  普請奉行・道奉行に令し、町続きの農民所有地を諸士或は町人の宅地となしたる
                   分は悉く侍屋敷となさしむ 【毛利十一代史】

万治2年 12月    山口県史整理年表  旱魃畠作皆無につき諸民救済の法を講ず。また他国へ穀類の出津を禁ず
                   【大記録】

西暦1660年
万治3年      屋代今元系譜   ◎今元本家三代目直就婦 マサ誕生
万治3年      山口県史整理年表  徳山藩領内を再び検地す。高五万五千五百石となる 【徳山藩史稿】
万治3年 2月     山口県史整理年表  萩地において喧嘩その外異変のとき警備のための諸口搦番の条書を頒つ
                   【毛利十一代史】

万治3年 4月28日   大洲大野系譜   ●大野直昌の惣領、直常没、78歳 號 天徳院殿圭厳常白大居士
                   (大坂・平野町天野屋九兵衛の養子)
万治3年 4月28日  大野系譜讃岐屋本  ●大野直昌の惣領、直常没、78歳 號 天徳院殿圭厳常白大居士・大坂九条村
                    竹林寺に葬る(大坂・平野町天野屋九兵衛の養子)

万治3年 7月18日  大洲大野系譜    ●中和門院の女房(大野備後)卒 87歳 葬・大坂下寺町 大蓮寺

万治3年       天野屋利兵衛傳  ●大野直昌の惣領、直常(天野屋仁斉)の孫、後の義商、天野屋利兵衛直之誕生
                           *(大石内蔵助の一歳年下となる)

万治3年 7月21日  山口県史整理年表  長府町出火。三十余戸を焼く 【長府毛利家乗】
万治3年 9月14日  山口県史整理年表  制法三十三ヶ条・諸寺法度・社家法度・町方条令・郡中制法・人沙汰条令・所務
                   代御箇条等二十八篇(万治制法)を頒つ 【大記録】
万治3年 11月28日  山口県史整理年表  正保三年の二歩減還付につき、その等級方法等の条書を頒つ 【毛利十一代史】
万治3年 12月23日  山口県史整理年表  香川正矩死す。四八 【御家中系図】
万治3年 12月28日  山口県史整理年表  大阪土佐堀一丁目に蔵屋敷を設く 【毛利十一代史】

大伴姓 屋代島大野家 関連年譜(AD1604~1624年)

2023年01月16日 07時24分58秒 | 大伴姓屋代島大野家 関連年譜
西暦1604
慶長9年 2月3日  山口県史整理年表  輝元、城地として三田尻・山口・萩の三地を相し、幕府の指揮を請う。この日
                  萩の指月山に築城の栽可あり 【考証論断】
慶長9年 2月3日   藩史大辞典     ○萩藩、萩の指月山に築城の許可を得る。
慶長9年 3月20日  大日本史料     福岡城主黒田長政の父如水伏見に卒す、
慶長9年 3月20日  大日本史料     黒田長政、父如水の遺物、北条本吾妻鏡を徳川秀忠に献ず、

慶長9年 6月1日  山口県史整理年表  輝元、萩指月城の工を起す 【大日本史料】
慶長9年 6月1日  藩史大辞典     ○萩藩、萩の指月城の起工する。
慶長9年 7月5日  山口県史整理年表  広家、出雲・隠岐の既収租米一万二千二百六十一石余を出雲富田城主堀尾忠氏に
                  返済す 【吉川家文書・家譜】
慶長9年 8月6日   山口県史整理年表  輝元、山口より伏見に上り家康に謁し、八月帰還す 【江氏家譜】

慶長9年      大龍寺大野是水覚書  ○村上武吉卒、法名、覚甫元正
慶長9年 8月22日  北畠正系譜図     ○村上武吉卒、72歳、大仙寺殿覚甫元正居士
慶長9年 8月    周防大島町誌     ○村上武吉、和田の邸で逝去、外入大竜寺に墓。(大竜寺は屋代に移り其の後
                    に元正寺がある。)壽72歳 没日が違う?
慶長9年 10月12日  東和町史      ○村上武吉、和田で逝去、大竜寺に葬り戒名 覚甫元正居士、現元正寺に墓が
                    残っている。 没日が違う?

慶長9年 11月11日  山口県史整理年表  萩城未完成なるも、この日吉辰、輝元山口よりこれに移る 【江氏家譜】
慶長9年 12月    山口県史整理年表  吉見広長、江戸に出奔、家康に仕えんことを請う。家康許さず 【吉見家譜】

慶長9年      屋代大野系譜     ●55代大野(友田)直房 徳川家康の世になるを以って大野姓に復帰する。

慶長9年      山口県史整理年表  輝元萩城内に妙悟寺を建立す 【もりのしげり】
慶長9年      黒田家譜      ○黒田長政は井上周防守に命じて黒崎城を築城させる。

西暦1605年
慶長10年             ●大龍寺和尚 益翁は陽雲和尚に大龍寺跡を譲り、外ノ入の日清寺に隠居する。

慶長10年  大龍寺大野是水覚書    ●村上武吉 前年に逝去、菩提寺を創設の処、今の元正寺屋敷、その節は良禅院
                   と申すが幸い空いていたので住持は大野宗如(直政)の弟、実清蔵主(峯雲周
                   高)、その節は由宇村の浄土寺に居た、是は後宝様とも云う。
                   武吉菩提寺の住持を要請するに、自分は西家の者であるから東家は嫌と申して
                   就任しないので、(大龍寺和尚)陽雲も納得せず、景親公より大野宗如(直政)
                   に異見をし、東家に成る岩照寺に出仕せよとの内意により、(大野)宗如は色々
                   説得し、弟坊主に了解してもらった。
                  そうして、大龍寺、陽雲永播和尚より血脈を下しおかれる。峯雲周高座元禅
                   滋師と言う。
                   これより大龍寺より和尚同道して、内ノ入良禅院へ入院され、始めて御菩提が
                   建てられ、それより元正寺と云う。

慶長10年 4月  心斎橋今昔年表   秀忠(27歳)が2代目征夷大将軍に任命。 「伏見城」が再興される。
慶長10年 4月22日  山口県史整理年表  輝元、伏見に上って家康に謁し、翌日入洛して秀忠に謁す。それぞれ将軍職
                    交代の賀を述ぶ 【考証論断】
慶長10年 7月2日  山口県史整理年表  熊谷元直・天野元信等しばしば主命に抗し、また耶蘇教を奉ず。この日輝元、
                   元直・元信等を誅し、その党数人を追放す 【考証論断】
慶長10年 7月2日  藩史大辞典     ○萩藩、輝元、築城を延引させた罪により、熊谷元直、天野元信を誅す。
慶長10年 8月2日  山口県史整理年表  幕命により両国の石高(二十九万八千四百八十石余)・
                   物成(二十一万七千八百九十石余)を報告す 【考証論断】
慶長10年 12月13日  山口県史整理年表  輝元江戸城の修築を助役す。福原広俊・益田元祥を総奉行となす。
                    吉川広家もまた助役す 【毛利家文書】
慶長10年 12月14日  山口県史整理年表  熊谷・天野の党誅伐について、諸士八百二十余人、連署起請文を輝元に呈す

西暦1606年
慶長11年 忠      赤穂資料     浅野長政は幸長とは別に、隠居料・真壁5万石を与えらる
慶長11年 忠      赤穂資料     父の浅野長政が亡くなると、長重は常陸真壁5万石を相続する。

慶長11年 1月20日  萩藩閥閲録巻167  石崎勘左衛門勝太郎、沖家室に移住し開拓を始める。後に参勤交代時の
                    御座船の世話をしこれより庄屋となる。
慶長11年 9月    心斎橋今昔年表    江戸城本丸殿が完成し秀忠入城

西暦1607年
慶長12年 3月23日  山口県史整理年表  第1回朝鮮通信使来朝、この日赤間関に入港す往路 【梅槎録】 
                     水先案内村上景親
慶長12年 3月28日  上関教育委員会   第1回朝鮮通信使来朝、この日上関に入港す(往路) 。水先案内村上景親
慶長12年 閏4月10日  山口県史整理年表  輝元駿府城の本丸修理を助役す。福原広俊・井原元以に総奉行を命ず。
                     秀元・;広家もまた助役を命ぜらる 【駿府記】
慶長12年 6月15日   上関教育委員会   第1回朝鮮通信使来朝、この日上関に入港す(復路) 。水先案内村上景親
慶長12年 8月18日   山口県史整理年表  三井元信・蔵田元連防長両国の検地に着手す 【三井家譜】

慶長12年 10月4日   大日本史料      秀忠の第五女「和子」生る

慶長12年 12月    山口県史整理年表   江戸桜田邸の造営成る 【考証論断】

西暦1608年
慶長13年 1月11日   大野寿慶文書

         「大野家家紋」は本家は二引を上に分家は二引を下にすると云う、日野林彦四郎宛の書簡【大洲隋筆】

          大野家の紋ニハ、木瓜を下ニ付、二ツ引りようを上ニ
          付ル也、右四人の衆へも、紋御ゆるしニても、此衆ハ            大野紀伊守利直
         もっこうを上ニ付て2ツ引りょうを下ニ付る也。                ↓
          鞍覆傘袋ニも御ゆるしと書付有之、幡之紋ニも、             東大野家
         名乗字ニも、此四人ハ惣領ヲ次者ニ壱人ツツ               東筑前守直房
         名乗ルと書付置也、御陣寄せ又ハ惣領遠行抔ノ時               ↓
          持かたニも、この四人の内ハ年増次第ニ上座ト               【太田赤岩城主】
          書付置也、                               東筑前守七郎直勝
          同名も東ハ治郎、尾首ハ三郎、尾崎ハ四郎、                 ↓
          城戸ハ五郎、今窪ハ六郎と名付記シ置也。                 【本川村蟄居】
          其外女子婿タル処、婿孫子ノ方ニ仕付先も、宇和川            東内蔵大夫直氏(寿慶)
          倉川、宇津、立花、山六郷は同名と成シ、東兵部               ↓
         少輔介、大野紀伊守名代三年上京して、小林大膳              東冶左衛門直方
         と申者を、公方様御前ニて打取申時、東筑前守と               ↓
         受領披成下、大野家の名を上ケ申事ニて候、                東・大野左冶兵衛
          文書ニ見へ申候、御尋候間大形書見せ申候、                 本川村庄屋
         余人ヘ御見せ候事堅御無用ニ候。    以上

          慶長十三年戌申正月十一日
                         大野寿慶(花押)

          日野林彦四郎殿 参


慶長13年 2月12日  山口県史整理年表  旧臘駿府城炎上。幕府再築の助役を諸大名に命ず。この日秀就、井原元以を
                    助役総奉行とす 【考証論断】
慶長13年 6月    山口県史整理年表  萩城竣工 【萩史料】
慶長13年 7月17日  山口県史整理年表  将軍秀忠、松平忠直の妹を養女として秀就にめあわす 【考証論断】
慶長13年 9月13日  山口県史整理年表  秀就、将軍秀忠より松平氏の称号を受く。ついで秀就、駿府城に至り家康に
                    謁しこれを謝す 【考証論断】

慶長13年     山口県史整理年表  岩国城竣工す 【岩邑年代記】
慶長13年     藩史大辞典     ○岩国城竣工。

西暦1609年
慶長14年 3月22日  山口県史整理年表  輝元山口高嶺城に禁制を掲ぐ 【考証論断】
慶長14年 3月29日  山口県史整理年表  山代検地に反対せる庄屋北野孫右衛門等十一名を山代本郷引地峠にて斬首し
                    物川の渡りに梟す 【山代誌】
慶長14年 3月29日   藩史大辞典    ○萩藩、検地に反対する山城一揆を鎮圧し、庄屋ら十一名を斬首する。

慶長14年 5月    山口県史整理年表  輝元丹波篠山城の営繕を助役。井原元以を総奉行となす 【考証論断】
慶長14年 10月2日  山口県史整理年表  輝元、土貢物成等の令条を定む 【三井家譜】
慶長14年 10月22日  山口県史整理年表  三井元延に命じ諸士の所領を検地せしむ 【考証論断】

西暦1610年
慶長15年 2月    山口県史整理年表  秀就、家康の命により、名古屋の築城工事を助役す 【考証論断】
慶長15年     周防大島町誌  ○毛利家による三井・蔵田検地の結果、屋代・小松開作の石高は2384.39石。
                  大島町計6367.91石とある。

慶長15年 2月9日  東和町史    ○村上景親逝去 元信が跡を継ぎお船手組頭を命ぜられ1618年三田尻に移る。

慶長15年  大龍寺大野是水覚書  ○村上元吉の弟、景親逝去 法名、照岩浄光。
慶長15年  大龍寺大野是水覚書  ○村上元吉の弟、景親逝去 法名、照岩浄光、揚雲和尚は焼香(引導)する。おたけ
                 様も焼香す。内ノ入の墓あり。
慶長15年 3月11日  東和町史   ○村上武吉後室(来嶋通康の二女)逝去、大竜寺に葬り戒名 華岳正春禅定尼、
                 墓は吉武の背後に残っている。
慶長15年      東和町史   ○村上元武 萩に召しだされ翌年より三田尻に住むようになり田屋を屋代の川地に
                 移した。

慶長15年  山口県史整理年表  三井元信・蔵田元連、防長両国の検地を完了。現検高五十三万九千二百八十六石七斗
                八升五合 【検地帳】
慶長15年  藩史大辞典     ○防長両国検地。53万9286石の内、岩国領石高4万5千石。
慶長15年 8月23日  山口県史整理年表  三井元信・蔵田元連、去年両国納租の出納簿を提出す 【考証論断】

慶長15年    筑前名所図会   黒田長政公の家臣、高橋伊里は金龍寺の壇越となり高祖邑より寺を福岡へ移設する。
                 筑前大野家はこれ以降菩提寺とする。

西暦1611年
慶長16年 忠   赤穂資料       父の浅野長政が亡くなると、長重は常陸真壁5万石を相続
慶長16年 3月   心斎橋今昔年表   豊臣秀頼(19歳=身長約190cm)が家康の招きで二条城にて会見


慶長16年 6月28日  山口県史整理年表  水軍を両組となし、村上元武・粟屋元時をその組頭とし三田尻に任せしむ。
                    輝元、隊士の名簿を授け、水軍の条令を公布す 【防府の今昔】

慶長16年      東和町史      ○毛利藩は村上勝太郎を2124石で船手組組頭とする。根拠地を三田尻に
                    移す。よって組員は屋敷を移す。【村上家文書】
慶長16年      東和町史      ○船手組根拠地が三田尻になり属するものは移住し知行地大島には田屋を置き
                    家臣(陪臣)に治めさせた。

慶長16年 7月4日  山口県史整理年表   輝元、井原元歳に郡中条目を授け、所務代に布達せしむ 【考証論断】
慶長16年 7月27日  山口県史整理年表   芸州境大竹川洪水。堤防和木村に決潰す。これを新川と名付く 【玖珂郡誌】
慶長16年 9月29日  山口県史整理年表   輝元の二男就隆、駿府にて家康に謁す。ついで江戸城にて秀忠に謁し日向杜
                     を受領す 【考証論断】
慶長16年 12月3日  山口県史整理年表   春日社を萩の総鎮守となす 【萩史料】

慶長16年 12月26日  山口県史整理年表  秀就はじめて江戸より帰国し、この日萩城に入る 【考証論断】

慶長16年   分限帳給人行衛覚書  ○村上家家臣大嶋四郎右衛門 老役(家老)を仰せつかる。大野直房前妻の岳父


西暦1612年
慶長17年 9月15日  山口県史整理年表  三井元信に命じ諸士の借財返済を督責せしむ 【考証論断】
慶長17年 10月5日  山口県史整理年表  吉川広家、新豊院および平野玄碩に命じ什書を整理せしむ 【吉川家文書・家譜】
慶長17年 11月    山口県史整理年表  秀就両国内を初巡視す 【萩史料】
慶長17年 12月    山口県史整理年表  秀就萩を発し再び江戸へ赴く 【江氏家譜】

慶長17年 12月13日  山口県史整理年表  広家の二男彦次郎、吉見広頼の女と婚約し、広頼の隠居料千百石余の地を
                   領知す 【考証論断】
慶長17年      山口県史整理年表  秀就、江戸舟入場の築造工事を助役 【考証論断】
慶長17年      山口県史整理年表  岩国今津新開(中の開)・室木新開(向繩・中繩・前繩)築立

慶長17年      心斎橋今昔年表   安井治兵衛(成安道頓=河内久宝寺の郷士で築城に功労があり、城南に土地を
                   賜り、生涯秀吉の心酔者)が、梅津川を利用して、東横堀川と木津川を結ぶ
                 「南堀川(道頓堀川)」の開削に着工し7割は出来上がっていた
                    【道頓堀誕生】

西暦1613年
慶長18年      山口県史整理年表  閣老本多正純の意見により両国の石高を三十六万九千四百十一石三斗一升五合と
                   幕府に上申す。これより公称石高となる。
                 内、長府領高四万七千八百二石六斗四合、岩国領高三万七千百二十九石二斗三升
                   【草舎年表】

慶長18年      山口県史整理年表  吉見広頼死す。七二 【吉見家譜】
慶長18年 2月1日   山口県史整理年表  勅諚により毛利家の伝奏を勧修寺家に復す 【考証論断】
慶長18年 5月13日  山口県史整理年表  防府松崎天満宮に禁制を掲ぐ 【考証論断】

慶長18年 7月13日  山口県史整理年表  弓頭・鉄砲頭・幟頭所管の武器を検査す 【考証論断】
慶長18年 8月5日   山口県史整理年表  これよりさき、柳沢元政、その領所山口献珠院に豊臣秀吉の墓を設け霊牌を
                   安置す。この日更に十五万石の地を寄附し寺号を俊竜寺と改めんことを請う。
                   輝元、これを許す 【考証論断】
慶長18年 忠 8月25日   赤穂資料    浅野幸長が亡くなると、弟の浅野長晟が和歌山を相続

慶長18年 9月3日    山口県史整理年表  田畠開作の鍬下年限を三ヵ年とす 【閥閲録】
慶長18年 12月29日  山口県史整理年表  輝元、朝廷に銀を献じて、歳暮を賀す(年頭・歳暮の進献恒例となる)
                   【毛利家文書】

慶長18年      屋代今元系譜    ◎今元本家初代直光婦 ナカ(森庄兵衛長女)誕生
慶長18年      屋代大野系譜    ●55代直房前妻 大島四郎右衛門女入嫁

慶長18年    彦根藩侍中由緒帳   大野清兵衛家初代利盛は生国は伊予でこの年彦根に来て松居清満方に居り、
                   大阪冬の陣の節小屋拝領を願い出、伊井直孝に陣場で対面した。

西暦1614年
慶長19年 忠 1月   赤穂資料     家康は(73歳)は、秀忠(29歳)のために、大掃除を決意する、
慶長19年 3月   山口県史整理年表   山口一坂に銀山を開発す 【考証論断】
慶長19年 3月8日  大日本史料     勅使広橋兼勝、三条西実条、及び広橋兼賢、日野光慶等、駿府に至り、是日家康
                   を見て孫女入内の命を伝へ、また、家康、太政大臣若くは准三后宣下の内旨を
                   告ぐ、家康、進官を辞す

慶長19年 忠 5月   赤穂資料      方広寺鐘銘事件が起こる。

慶長19年 9月6日  山口県史整理年表   秀就、江戸城の石垣修理を助役。この日功成る 【考証論断】
慶長19年 9月7日  山口県史整理年表   秀就西国諸大名とともに誓書を幕府に出す 【考証論断】
慶長19年 10月   山口県史整理年表   家康大阪を攻む。輝元幕命により領内の船溜および領海通過の船舶を検す
                   【考証論断】

         彦根藩侍中由緒帳   大野清兵衛家初代利盛は大阪冬の陣の節小屋拝領を願い出、伊井直孝に陣場で
                   対面した。仲介は松井清勝、帰陣後、新知100石賜う

慶長19年 忠 11月   赤穂資料     家康は冬の陣の包囲網を完成させ、浅野長重は東北の守りを固める。
慶長19年 忠 11月   赤穂資料     浅野長晟は物資の搬入ルートの砦(木津川と尻無川の合流地域)を攻略する。

慶長19年 11月10日  山口県史整理年表  輝元、大阪出陣につき、益田元祥・山田元宗を萩城に留守居せしむ
                   【考証論断】
慶長19年 11月11日  山口県史整理年表  輝元就隆を伴い、萩城を出発。吉川広家これに従う。江戸にある秀就および
                    長府藩主秀元、また大阪に会すべきの幕命を受く 【考証論断】
慶長19年 11月12日  藩史大辞典     ○吉川広家、岩国を発して大坂へ出馬する。

慶長19年 11月15日  心斎橋今昔年表   大坂冬の陣。

    徳川軍は城の南、茶臼山(現一心寺)に本陣。不落の名城として有名な大坂城は、東と北には急流な川があり攻撃は
    出来ない。 西から攻めると坂と沢を昇る事になり難しい。南には寺町があり、墓石が邪魔して前に進みにくい。
    しかも、城の周囲には、開削された堀が回らされ 攻めあぐね、堀の一つ一つ埋め戻し、ついに、三の丸、二の丸
    も埋めて12/20休戦に持ちこんだのです。

慶長19年 11月17日  山口県史整理年表  輝元兵庫に着船 【考証論断】
慶長19年 11月20日  山口県史整理年表  秀就江戸桜田邸を出発 【考証論断】
慶長19年 11月20日  山口県史整理年表  輝元陣中に病む。家康、秀就の西上を待って帰国、国事を処置すべきを命ず
                    【考証論断】

慶長19年 11月23日  山口県史整理年表  家康、毛利氏に命じて堰を江口に築き淀川を塞がしめ、また伝法に船橋を架せ
                    しむ。この日、輝元、吉川広家・毛利元景を遣し江口川堰の工事を督せしむ
                    【考証論断】
慶長19年 12月5日  山口県史整理年表  輝元、長府領内の廻船を三田尻に集結せしむ 【考証論断】

慶長19年 12月5日  大坂の陣絵巻    大坂冬の陣で井伊直孝軍四千人(大野利盛含む)は真田幸村、後藤基次らに
                   攻められ撤退を余儀なくされる(真田丸の戦い)

慶長19年 12月6日  山口県史整理年表  秀就、秀元とともに茶臼山に到り家康に謁し、また西宮に到り輝元に対面す
                    【考証論断】
慶長19年 12月10日  山口県史整理年表  輝元、帰国の途につき、十八日三田尻に帰着す 【考証論断】

慶長19年 12月20日  山口県史整理年表  東西両軍和議成る 【駿府記】
慶長19年 忠 12月   赤穂資料      大坂方は外堀を埋めることを認め、講和が成立する。

慶長19年 12月22日  山口県史整理年表  広家隠居し、広正家督を嗣ぐ。広正幼少のため広家なお政務を見る
                   【吉川家文書・家譜】
慶長19年 12月22日  藩史大辞典     ○吉川広家、隠居、広正家督を継ぐ。広正幼少のためなお国事をあずかる。
慶長19年 12月28日  山口県史整理年表  秀就大阪城の外堀埋立工事を助役す 【考証論断】

慶長19年      屋代村の史跡    慶長十九年大坂の役に、屋代村寺町惣左衛門は、義憤やるかたなく長子新助、
                   次男孫四郎を連れ豊臣方に参加入場し、 惣左衛門は弓大大将として三百八十七
                   石、新助は百八十七石、孫四郎は百七十五石で召し抱えられて、幼主、秀頼の
                   為、奮戦したが、遂に豊臣方敗北となり、かろうじて帰国、新助は谷と改姓
                  (日良居村に子孫現存)、孫四郎は本村、 高橋家を継いだ。この英雄が高橋通孝
                   氏の祖である。

                   注)右は谷家の文書に拠るものであるが高橋家の系図では寺町惣兵衛で、
                     孫四郎は孫助とある。

                   注)2023年現在、此の高橋家の当主は四郎氏であり、彼は和田の村上一学家の
                     直孫でもある。兄が現在、能島村上家当主であり、時期当主は長男家嫡男
                     とされます。高橋家の旧姓は寺町姓であり、伊予河野家分流でもある。

西暦1615年
慶長20年 忠 2月   赤穂資料    京都所司代は徳川家康に大坂方が浪人を大量募集と報告する。
慶長20年 忠 3月   赤穂資料    家康は浪人追放か豊臣秀頼の大和国替の二者択一を迫る。
慶長20年 忠 3月   赤穂資料    大坂方は豊臣秀頼の大和国替を拒否する
元和元年 * 3月   心斎橋今昔年表  家康、太政大臣となる
元和元年 * 3月15日  大日本史料   秀頼の使青木一重、秀頼の母浅井氏の使常高院、二位局、大蔵卿、正永尼駿府に
                 抵り、家康に謁す、

慶長20年 4月   心斎橋今昔年表  大坂夏の陣。成安道頓が戦死
元和元年 * 4月2日  大日本史料   家康、秀頼の使者青木一重、及び女使を帰し、名古屋に在りて、其到着を待たしむ、
慶長20年 忠 4月6日  赤穂資料   家康は諸大名に出陣を命令する
慶長20年 4月7日  山口県史整理年表  和議破れて家康・秀忠再び大阪城を攻む。この日家康、毛利・島津・大村・細川等
                  西国の大名に大阪出陣の準備を命ず 【譜牒余録】

元和元年 * 4月10日  大日本史料  家康名古屋に抵る、大坂の四女使及び青木一重等謁見す、家康、大坂未だ浪士を放た
                ず、秀頼及び母浅井氏の意猶ほ解けざるの風説あるを語り、常光院、二位局をして、
                大坂に帰りて旨を致さしむ、又大蔵卿局、正永尼、及び一重をして、京都に在りて、
                其上京を待たしむ

元和元年 4月24日  大日本史料  家康。常高院、二位局に三ケ条の書を付して、大坂に還らしむ、大蔵卿、正永尼も亦
                大坂に還らしめ、青木一重を京都に留む、
慶長20年 忠 4月28日  赤穂資料  浅野長晟は5000の兵を率いて、和歌山城を出発する。
慶長20年 忠 4月28日  赤穂資料  塙団右衛門軍は浅野長晟を叩くため出撃する。
慶長20年 忠 4月29日  赤穂資料  浅野長晟は、緒戦で、塙団右衛門軍を撃破し、団右衛門を殺害する。

慶長20年 5月2日   藩史大辞典   ○吉川広正、岩国を発して大坂へ出馬する。
慶長20年 5月3日  山口県史整理年表  秀元長府を発し、この日兵庫に着す。四日秀就、三田尻を発し上阪す。吉川広正
                  は二日岩国を発す 【長府毛利家乗】

慶長20年 忠 5月6日   赤穂資料  小松山の戦いで、大坂方の後藤又兵衛が自害する。

慶長20年 5月6日  大坂の陣絵巻  大坂夏の陣に参加した大野忠太夫直載は豊臣方として後藤又兵衛基次隊に属し亀田
                大隈組と河内道明寺村で徳川方堀、松重らに攻められ討死す。

慶長20年 5月6日  心斎橋今昔年表  秀頼、淀君が自害

慶長20年 忠 5月7日   赤穂資料  浅野長重らは大坂城に突入する。
慶長20年 忠 5月7日   赤穂資料  真田幸村が家康を追い詰め、長重らがこの窮地を救いしました
慶長20年 忠 5月7日   赤穂資料  台所頭が徳川方に内応して、城内の台所に放火し、大坂城が落城
慶長20年 忠 5月7日   赤穂資料  千姫の脱出を条件に、秀頼と淀君の助命を懇願し、千姫は脱出

慶長20年 5月7日  山口県史整理年表  大阪城陥り、豊臣氏亡ぶ 【駿府記】

慶長20年 5月8日  心斎橋今昔年表  大坂城 落城。

                 物資の集散と経済の中心地の大坂は、幕府の資金源であり、畿内以西を監視する
                 軍事上においても全国最重要地。家康と将軍秀忠は、夏の陣にて戦功第一の亀山
                 城主で家康の娘、亀姫の子「松平忠明」(伊勢亀山5万石の領主で亀山城を改修した
                 優秀な都市開発家)を翌日より大坂城の城主に任命。
                 忠明の任は、太閤贔屓の大坂を一新する大改革であった。
                まず、盗賊が横行する無法状況の治安を回復、離散町人を呼び戻す事から着手。
                 当初は戦いで半壊の家を修繕した藁葺き家で、畑を耕す暮しだったが、
                 河川の改修や新田開発による新都市計画と、戦火で荒れ果てた市街の復興と再編
                 に、伏見の町人を招き、工事が始まると、雇用も増大し、大坂の町は復興の波に
                 乗る。
                 中断していた秀吉の改革原案を基に、東船場、島之内の街路を80mの碁盤目に整備
                 し、散在する寺院を、小橋村・天満村・高津村に整理、墓地も数カ所に統合する 。

慶長20年 忠 5月8日   赤穂資料   淀君は秀頼・大野治長ら20人と自害し、豊臣家が滅亡する。

慶長20年 5月21日  山口県史整理年表  輝元の臣佐野道可、大阪に籠城す。京都附近に遁れ、この日山城大藪村に自殺す
                   【閥閲録】

慶長20年 5月26日  心斎橋今昔年表  秀頼の子国松(8歳)処刑され、豊臣家滅亡。

慶長20年 6月13日  藩史大辞典   ○萩藩、一国一城の令により鴻峯(山口)・横山(岩国)・串崎(長府)城を
                 破却する。
慶長20年 * 6月14日  山口県史整理年表  幕府、諸大名に令して、大阪の残党を追捕せしむ 【大日本史料】
元和元年 * 閏6月   山口県史整理年表  三井就延に命じて荒廃田を検す 【三井家譜】
元和元年 * 閏6月13日  山口県史整理年表  幕府、一国一城の令を発す。山口高嶺・岩国横山・長府串崎三城を破却す
                    【大日本史料】

元和 7月13日  改元・げんな・代始改元による(後水尾天皇-10年間)【勘申者 菅原為経】

元和元年 9月21日  山口県史整理年表   江戸桜田邸焼失す 【大日本史料】
元和元年 10月9日  藩史大辞典      ○吉川広家、岩国城の天守閣その他の破却を指令する。
元和元年 10月19日  山口県史整理年表  佐野道可の子内藤元珍・粟屋元豊に自刃を命ず 【毛利氏四代実録】
元和元年 11月    山口県史整理年表   秀就参勤のため江戸へ赴く 【故事年表】

元和元年      貝原益軒・風土記   一国一城制により黒崎城は破却される。

         元和元年(1615)の「一国一城令」により黒崎城は惜しくも破棄されてしまいますが、井上氏は同区
         の陣ノ原というところに屋敷を構え、家臣達もその周辺を中心とした西区や東区及び中間市一帯に居住
         しています

         その頃の家臣名を「筑前吉木旧記」によって書き出すと・・

         大村六兵衛・原田百助・同専右衛門・岡田作兵衛・井上八兵衛・同権右衛門・中西四郎兵衛・
          野依忠右衛門・岡村七郎兵衛・疋田小平太・同小三太

         大野五郎太夫・同勘右衛門・同十左衛門・同左馬右衛門・      *【伊予大野家子孫】

          上月藤左衛門・川越瀬兵衛・富田仁左衛門・高橋八郎左衛門・久芳与三左衛門・
         長瀬五郎右衛門・篠川弥吉・三輪左近右衛門・島津惣兵衛・梶原次郎兵衛・・
          ・らの名前が挙げられます。

        しかし、承応年間に起こったいわゆる「井上崩れ」によって、井上氏一族は福岡の地を追われ、
         その家臣達の多くもそれぞれの領地やその周辺で帰農してしまいます

元和元年     福岡県史   黒崎城破却により城主井上周防之房は陣原へ移住し、現在、舎月庵
               (北九州市八幡西区陣原4丁目)として残る。

               大野三兄弟も井上周防の与力として同道し折尾近辺に住む。

元和元年     今元雅助文書   ◎56代大野直一 誕生

元和元年    心斎橋今昔年表  新城主は、中断の道頓堀川(南堀川)は、安井九兵衛(成安道ト=道頓の従兄弟)は久宝寺
               (八尾)の農民を動員して再掘、東西横堀川を結び、更に西流の木津川に合流(約3km)
                11月に竣工する。
                新城の敷地内は、旧本丸と旧二の丸とし、「三の丸(1.5㎡)を開放して、新市街地」を開
                く。しかし、余りの広大な土地の為、人手が不足。そこで、忠明は、四散の町民を呼び
                戻し、再度伏見から23余の町民を町ぐるみ集団移住させ、上町や天満に寺や墓地を集
                め「寺町」を、又、玉造、船場(伏見町・呉服町、京町堀、長堀川沿い)にも移住させ、
                船場の発展に大活躍させたのです。
               この頃に、勘四郎町(現、南船場3丁目=御堂筋の佐野屋筋西・安堂寺町付近)に大坂
                芝居の発祥の小屋や水茶屋が数軒あり、贔屓役者を 目当てに船場の「旦はん」や「御寮は
                ん」、「いとはん」や「こいさん」達でとても賑やかでした。(勘四郎町は、平野郷の有力
                町人「末吉勘四郎」に由来)


西暦1616年
元和2年 忠 1月   赤穂資料   和歌山城主の浅野長晟は、徳川家康の三女振姫と結婚しました

元和2年 1月  愛媛県面河村誌 六
 
       大味川六人衆

     大除城落城後、幕下の希城の城主・将卒の多くは牢人として知己をたより、あるいは逃れて郡内の村々に
     移り、百姓の生活に入った後年、大味川村の開祖と称せられた六人衆も、大除城大野一家とかかわりのある者で
     ある。六人衆の記録で最も古いものと考えられるものは次のものである

    ……前略……中川善之助殿ノ申ケルハ、斯落人ト成ル上者、共許モ百姓相営可申様噂有之、弥五右衛門被申出
       候ハ、田畑給リ候得者百姓仕度与申ケタニ付、我隠居地半分遣ジテ生ケ渓与申所工住居仕ケル、此時之百姓
       分、中川善之助、菅内蔵之丞、中 川新左右衛門、高岡市右衛門、同弟八左衛門杯、是ハ大味川邑二住居二
       而、役儀相勤ル也、若山二菅内蔵之丞、同苗(加藤)長 助、此時之六人衆ト申也……中略……
       右之通、無相違故、子孫為心得、記置者也

        元和二丙辰歳
                         正月穀旦
        中川新左衛門
                           清房
                               (本組中川清愛所蔵・元和二年=一六一六)

   中川善之助ー中川清政、豊後国竹田より伊予国に来り、大除城主大野直昌の家臣となるという 。大除城落城
    後、嫡子中川善之助、昼野へ来り東屋敷に居を構える。
    菅内蔵之丞直俊ー笹ヶ峠の合戦で討死した菅内蔵之丞道氏の縁者。直俊の祖父菅式部介高善は 初め浮穴郡
    拝志郷花山城によったと伝えるが、文中三年小笠原兵庫頭政長ら七千余騎攻め来り、花山城を退き昼野に逃れ
    若山城を築いたという。
   高岡市右衛門ー豊後大友氏に仕えた高岡図書の子市右衛門は、諸所を流転して伊予に来り、久万山に入り大野家
    の家老(勘定奉行)となったと伝える。
    別に大味川六人衆由来記(中村小野義直所蔵・高岡家系図)には次のように記載してある。
   先ず第一に、中川善之助昼野に来りて、東屋に小屋を建て、百姓を営みしが、親友の間柄である高岡市右衛門を
    説き、菅弥五衛門を伴い帰り浪人となる
   上は、百姓にならん事を懇請す。ここで、三氏一致協力して、開拓を進む。やがて市右衛門の弟、高岡八左衛
    門、菅内蔵之丞の義弟菅(加藤)長助の 三氏来り、一同相談して、大味川開発の先駆者として、それぞれの土地
    を与えられ次の如く配置した。

      中川善之助    一八三番地第一東屋(高岡寿典住)
      高岡市右衛門   一八一番地 中屋(高岡輝若住)
      菅弥五衛門    一九〇番地 伊加谷(菅清三郎住)
      高岡八左衛門    九八番地(中川宗義住)
      菅内蔵之丞    一二一番地中吉(菅福定住)
      中川新左衛門   一三六番地(中川清愛畑)
      菅(加藤)長助  一四八番地 土居(加藤孝昭住)

    なお六人衆の墓地は次のとおりである。
      中川善之助   昼野   高岡市右衛門   昼野
      高岡八左衛門  本組   菅(加藤)長助  若山
      中川新左衛門       菅 弥五衛門   不明
      菅内蔵之丞   不明

   六人衆余聞

     (い) 高岡市右衛門の一族に大力無双なる者あり、昼野高岡家の墓所に在る大きな川石は、面河川から一人で
        担ぎ上げしものとか。

     (ろ) 菅(加藤)長助の最後は哀れである。長助は戦陣で飛んで来る弓の矢を手でつかむほどの胆力と腕力の
        持ち主、大坂冬の陣に出陣、 出陣の条件として、庄屋菅内蔵之丞が無事帰って来たら若干の土地を与え
        ると約束したが、その約束を破棄すべく謀略をしかけたという。土佐、椿山の弓の名人なる者が一役買っ
        て出た。歳は不詳であるが、旧暦七月七日山畑へ蕎麦蒔に行っていた長助を不意打したのである。一矢、
        二矢長助は鍬で払って防戦したが一之進の放った管矢は長助の胸を刺しついに倒れた。当時地区の人々は
        罪・咎もなき長助の不憫さを思い、祠を建ててねんごろに葬った。今も長助大権現さまとして、毎年旧歴
        七月七日の命日には香花を供えお祭りをしている。

     (は) 高岡市右衛門の愛刀は栃原高岡ヨシエ所蔵、その銘は
        常陸守源宗重  寛文十年八月
       長さ四七・七センチ、今から約三〇〇年前の作である。

     (に) 高岡八左衛門の墓所は、本組の旧庄屋屋敷跡にある。今でも毎歳旧暦九月十五日、中秋の名月の宵、高岡
        一族は盛大に追悼のお祭りを行っている。

     (ほ) 本組成窪の集落を東西に横切る石垣が通っている。農道工事のため一部破壊されたが、六人衆時代石垣の
        上部が中川家、下部が高岡家の土地であったという。

     (へ) 本組庄屋屋敷から、南、面河川に向かって境界を入れ、東部を高岡家、西部を松岡家に分け、その線に
        木炭を敷いた。近年その木炭がところどころで掘り出される。

     (と) 中川善之助が所蔵していた、父清政の宝物は、善之助屋敷の後山、ロノ林に一社を建立し、中川家の守護
        神として、毎年初穂を献上し、お祭りをした。
       それは日の丸の金の扇子とか。そのために、善之助はわが屋敷を東向きに造って東屋と称し、この土地
        も、日の丸にあやかって「昼野々」の地名にしたとか。
       今そこには社はないが、宝物を埋めた石積の場所が往時そのままに残っている。

     (ち) 若山に番所屋敷があった。ちょうど菅内蔵之丞屋敷の下手、六人衆時代の関所ともいう。あるいは若山
       (草原)銅山との関係があったかも知れぬ。九耕第一一七番地(菅胤美住)

    大味川六人衆と密接なかかわりのあるものに、摂州高槻五万石の城主、松岡伯耆守吉則の嫡孫、
      松岡市兵衛吉滋がある。

   「中予大味川邑百性根本書」(本組松岡正人所蔵)の末尾には、次のように記されている。
                  伝来の一巻を嘉永五年土佐国佐川の安並という者が書き写したものとある。

     右一巻逐一相違無之処依而元和元年右末孫之面々打寄厚吟味ヲ以相糺誌之可為者也
       元和元丙辰之歳
         正月良辰
     右一巻土陽左川之産筆工安並恒俊之主謹而可為識之者也
        追 加
     伝来之一巻并松岡市兵衛添書、年暦重紙面汚失之形ニ相成、両章共再改代可為者 
         安並恒俊誌
       嘉永五年壬
         子季春穀旦

    松岡家の先祖は、相州鎌倉松ヶ岡より出て、常陸国松ヶ岡に転住し、松岡伯耆守吉則の時に摂州高槻五万石の
      城主となったとある。
    慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の戦いで弟松岡縫殿吉興とともに滅亡、嫡男の松岡堅物は播州三ヶ月城主、
     一万石に取り立てられたが遂に流浪、堅物の長男松岡市兵衛吉滋は四国路に渡り、大除城落城後の大野家の
     落人を尋ね中川善之助に行き会い、大味川邑庄屋菅弥五衛門宅に逗留し、やがて庄屋所の帳書を勤めるように
     なった。庄屋菅弥五衛門病気のため死亡、高岡市右衛門・中川孫右衛門・菅(加藤)長助ら相寄り協議の結果、
    松岡市兵衛庄屋に取り立てられ、菅行野メドに居を構えた。

                 (耕第一一一番地付近、松岡明畑)
     人品骨柄才智万民秀
    天晴之生質博学者不申及軽輩之者ニ無之故何分一村之庄屋取立可申旨右連衆之面々再打寄熟談……

   これは、松岡市兵衛の人物評である。大味川六人衆を中心として、市兵衛吉滋もかつての城主たりし才覚を
    じゅうぶんに発揮して、大味川開拓に貢献したといえる。
   承応三年秋のころ、市兵衛の弟市三郎・同彦三郎、摂州高槻より、大味川に移り住む。現在の松岡姓の者は、
    これらの人々の末裔である。
   ただ惜しむらくは、市兵衛の末路は不明である。菅弥五衛門の末孫所蔵の松岡市兵衛の位牌は、

     実相院円龍大居士           貞享年中、月日不詳
                (ただし市兵衛妻女の墓所は本組にある。)

   字笠方の梅ヶ市は、戦死者の遺骸の埋替地(うめかえち)から転じた地名であろうといわれている。
    天正十年(一五六二)のころ、土佐の長宗我部軍が久万山に侵入し、大除城による大野氏との激戦で生じた
    戦死者の死体がここに後日、埋め替えられたのを、文字の不吉を忌み、梅ヶ市としたと伝える。
    また妙には石田三成の墓と伝えるものがある。関ヶ原戦から逃れた三成の遺臣がこの地に住んだのであろうか


元和2年 秋    山口県史整理年表  両国大風水。田畠の被害夥し。輝元、三井元信・志道保久に命じ、諸郡を廻在して
                  これを検せしむ 【三井家譜】
元和2年      山口県史整理年表  秀就、大阪城の修理を命ぜらる
元和2年 3月21日  山口県史整理年表  秀就、禁裡造営につき納金のため、領内高百石につき、七匁八分八厘あての
                  出銀を命ず 【考証論断】

元和2年 4月8日  南明禅師長福寺    正岡常元・黒川桃女の子、、南明禅師安芸国(福島正則配下)で生まれる。幼名
                   岩松丸

元和2年 4月17日  山口県史整理年表  家康駿府城にて死す。深川大寧寺・山口氷上山興隆寺にこれを祀る
                  【風土注進案】
元和2年 4月17日  心斎橋今昔年表  家康(75歳)が駿府城で没す。久能山に葬られる

元和2年 8月8日  山口県史整理年表  幕府、切支丹宗を禁ず 【大日本史料】

元和2年     心斎橋今昔年表   大坂を10ヶ町に分割。三津寺村の低湿地帯は、道頓堀川の開削土砂を島之内東部、
                 下難波、西高津村に土盛し「島之内」「難波」「高津」を造成。
                その為、三津寺村は消滅する。焦土になっていた大坂城下町の西のはずれは、芦の
                 葉が茂る沼沢地(現,西区新町一丁目付近)。そこに遊郭の設立を申請したのは木村
                 又次郎。その本人に、開拓が命じられる


西暦1617年
元和3年 4月26日  山口県史整理年表  吉川広家、家中律・郡中制法・租法・刑法その他百八十カ条を自書して、広正・
                  就頼の二子に示す 【吉川家文書・家譜】
元和3年 4月28日  山口県史整理年表  秀就、弟就隆に都濃郡の内三万石を分知す 【徳山藩史稿】
元和3年 4月28日  藩史大辞典     ○毛利輝元(宗瑞)、次男秀就と連名で都濃郡の地3万石余を分知する
                  (下松藩後徳山藩)。

元和3年 6月14日  山口県史整理年表  輝元、山口祇園社を重修し、この日上棟す 【考証論断】
元和3年 7月13日  山口県史整理年表  輝元、原九郎右衛門尉をして、山口一ノ坂銀山を管せしむ 【考証論断】
元和3年 8月    山口県史整理年表  朝鮮信使来朝、下関を通行す 【考証論断】
元和3年 8月    山口県史整理年表  幕府、津和野城主坂崎出羽守を改易す。検使柳生又右衛門等萩および三田尻に檄を
                  飛ばし、家士の逃亡するものを留置せしむ 【考証論断】

元和3年 8月11日  上関教育委員会   第2回朝鮮通信使来朝、この日上関に入港す(往路) 。水先案内村上元武担当

元和3年 8月16日  山口県史整理年表  吉川広正、上京して将軍秀忠に謁し、九月十九日帰国 【吉川家文書・家譜】
元和3年 9月5日  山口県史整理年表  岩国領六つ物成の税法を制定し、諸給地の組替を行う 【岩国沿革志】
元和3年 9月5日  藩史大辞典     ○岩国藩石高公称三万七一二九石余。六物成税制を施行する。
元和3年 9月15日  山口県史整理年表  秀就、秀忠に従い上洛し、ついで帰国この日萩城に入る 【考証論断】

元和3年 9月23日  上関教育委員会   第2回朝鮮通信使来朝、この日上関に入港す(復路) 。水先案内村上元武担当

元和3年 12月14日  山口県史整理年表  出奔中の吉見広長前非を悔いて帰参す 【考証論断】
元和3年      心斎橋今昔年表    伏見の一部の町人は京町堀、江戸堀に再移住して「京町堀川、江戸堀川」を
                   完成し、下船場が発展する

元和3年     大野直喬書簡   高井政生氏蔵   大野家譜(原本無題)を桜井久治郎氏謄写したものの一部
                         (S43?) 大野直子提供

   一、我等先祖ハ大野近江守領分ハ、宇和北ノ川ヨリ三庄郷迄、二万石領ス、
    直昌牢去ノ節、宇津城明渡シ申シ、中川ト申所ニ牢去ス、
    然ニ戸田民部殿ヨリ、慶長二丁酉歳、諸村々庄屋御改、我等ニ中川村庄屋被仰付、
    先祖ノ義殺知小得共無是非事ユエ早速晴ニモ不仕候得共、隋世習又ハ領主被仰付、
    代官所ヨリ委ク被申候ニ付、御清致相勤来候、
    我等親、仁兵衛ハ近江守嫡男也、二十五歳大代家城落去ヨリ天正十五丁亥歳、
    親、仁兵衛申聞、右廉書相談申、大野家門又ハ家臣ノ面々ハ籠居ニテ罷有侭
    相応ノ事有之候得ハ、イク相尋出可被申、扨、又其方身ノ上公辺村方取納所ニ
    一巻残シ置、ヨクヨク身ノ上全可被相勤候、以上

     大野近江守孫
      大野又兵衛尉    直喬      花押

    元和三年丁巳年
       同姓仁兵衛殿


西暦1618年
元和4年 1月11日  山口県史整理年表  榎本元吉に御蔵入代官職(後の当職役)を命ず 【考証論断】
元和4年 2月3日  山口県史整理年表  輝元、元吉に命じて、離散の百姓を究明して、その本所に帰往せしむ 【閥閲録】
元和4年 5月3日  山口県史整理年表  雲谷等顔死す。七二 【雲谷家譜】
元和4年 6月21日  大日本史料   ○京都所司代板倉勝重、伝奏広橋兼勝を訪ひ、秀忠の女、和子入内のことを議す。
元和4年 8月25日  山口県史整理年表  輝元、吉見広長を萩平安古の邸に攻めてこれを誅す 【閥閲録】

元和4年 8月25日  藩史大辞典    ○萩藩、輝元、吉見広長を萩で誅す。

元和4年 9月    大日本史料   幕府、秀忠の女和子入内に依り、小堀政一、五味豊直を女御御殿造営の奉行と為す

元和4年 9月5日   大日本史料  右大臣近衛信尋に勅し、伊勢津城主藤堂高虎と謀り、秀忠の女和子入内のことを幕府に
                議せしめ給ふ、
元和4年 9月17日  山口県史整理年表  明後年、江戸城修理助役の準備とし、二百人を伊豆国に遣し進上の石を切らしむ
                   【周布文書】
元和4年 11月3日  山口県史整理年表  毛利就隆はじめて領地下松に赴く 【徳山略記】

元和4年 12月25日  山口県史整理年表  山口古熊天神を今の地に遷し、重修してこの日上棟す 【もりのしげり】

元和4年      彦根藩侍中由緒帳  大野清兵衛家初代利盛は新知100石に50石加増、都合150石となる。

元和4年      山口県史整理年表  船手組頭粟屋元時を免じ、村上元武をその後任として、三田尻に在勤せしむ
                   【防府の今昔】
元和4年     大島郷土会報    ○村上元武は御船組で三田尻に住んだが、屋代で200石を加増されたので屋代に
                   田屋を作った。
元和4年      大島郷土会報    ○村上元武は大竜寺を内入から屋代に移した。(後の竜心寺)
元和4年      東和町史      ○村上景親逝去の跡、元信が継ぎお船手組頭を命ぜられ三田尻に移る。よって
                   田屋を和田に置いた。


西暦1619年
元和5年 6月12日  山口県史整理年表  幕府、広島城主福島正則を改易す。秀就、幕命により岩国を警戒し、広正を先鋒
                  として出馬せしむ。秀元広島へ赴く 【毛利氏四代実録】
元和5年 忠 8月   赤穂資料      浅野長晟は、福島正則の改易後、広島城主となる。
元和5年 8月    山口県史整理年表  幕使土井利勝萩城に来る 【草舎年表】
元和5年 8月25日  山口県史整理年表  輝元京都に到り、この日二条城にて秀忠に謁す。ついで帰国す 【福原家文書】

元和5年 9月1日  山口県史整理年表  明年大阪普請につき、伊豆にある人数を摂津三陰に差出すべきを命ず
                 【毛利氏四代実録】
元和5年 9月    大日本史料   幕府、書院番頭板倉重宗を京都所司代に補す、尋で、京都所司代板倉勝重を罷む、
                勝重、家を重宗に譲りて隠居す

元和5年    心斎橋今昔年表  功績を残した忠明は、わずか4年間で、大坂の町の戦災復興と市街地改造をほぼ完了し
                て、幕府の直轄地とし、大和郡山城主に転出する。(その後の城主は置かず)

  (1)大坂は、大名ににらみを利かす「幕府権力の象徴」と「経済首都」の二面性を持った町となる。
  (2)江戸期の町は、都市の基礎単位で、自治権を持った共同体。従って、伏見からの大移動は、単に人口が増え
      ただけではなく、町人自治を可能にしたのです。
  (3)幕府は、城代や東西町奉行を置く一方、大幅な自治権を大坂に与えたのです。
   (4)初代城代は、伏見城代を廃止して内藤信正が着任。伏見町人は大坂への移住を命じられる。
  (5)その後の「大坂城代」は5~6万石の譜代大名が順次選定。
  (6)市中の行政司法を司る「大坂町奉行」を置き、与力(30騎)・同心(50人)・定番・大番・加番 をもって、
      城内警備に当る。

  「大坂三郷」の誕生

   船場・下船場 と称した地域名を解消し現、本町筋を境に「北組」「南組」に分割。旧三の丸を「伏見組」(17世紀中頃
   に「北組」「南組」に編入) とし、大川以北に「天満組」が生れ、急速に市中が拡張。
   各郷の代表者「惣年寄(お堀の開発や川口の砂州を開拓等の功労者)」は町奉行との接点として民生を推進しました。
   9月 将軍 秀忠 来城。城の再建の基本方針は、太閤に勝る幕府の強大力を見せつける「池の深さ、石垣の高さ」を
   誇る様にと指示がある。 西横堀川が完成。島之内、南船場、西船場の開発が始まる。
   長堀川は、伏見町人の三栖清兵衛・池田屋次郎兵衛・伊丹屋平右衛門・岡田新三(美濃屋心斎)ら4名で開削が始ま
   る。

 「八百八橋」(お堀の開発により、多数の橋が架けられる)

   公儀橋(公費で架橋)=鴫野橋・京橋・野田橋・備前島橋・天満橋・天神橋・難波橋・高麗橋・本町橋・農人橋・長堀橋・
             日本橋 がある。
   町橋(有力町人が架橋)=淀屋橋・心斎橋 が代表格。

 「惣会所」

  お上のお達しを「惣年寄」が町年寄に伝え、「町年寄」は各町の町会所に持ち帰り町民に伝えた。
   江戸~大坂間に菱垣廻船が就航し、多くの商品が大坂に運ばれる。

元和5年     大日本史料   摂津麻田邑主青木一重致仕す、養子重兼嗣ぐ
元和5年      大日本史料 (合叙)一重、養子正重を廃すること

西暦1620年
元和6年  大龍寺大野是水覚書  ○(村上武吉の菩提寺元正寺)住持、峯雲周高は六ケ年住持を勤め、この年に入寂、
                 年も若く、寺継続の約束もなくて、廣島から。秀存と申す出家が 大龍寺にきて、
                 周高の跡を望んだので、各家老(村上家)と揚雲が談合して元正寺に入れた。

元和6年      山口県史整理年表  秀就大阪城修築を助役す 【考証論断】
元和6年      山口県史整理年表  萩江向に伊予八幡宮を勧請す 【もりのしげり】
元和6年 1月26日  山口県史整理年表  輝元、坪井惣兵衛等に種米貸付その他作付に関する令条を授く 【考証論断】

元和6年 2月21日  大日本史料  伊勢津城主藤堂高虎上洛し、秀忠の女和子入内のことを斡旋す、
元和6年 3月   心斎橋今昔年表  家光は、大坂城の再築を始める。
                秀吉の大坂城の旧城を西国北国の諸大名を動員し、徹底的に破壊。土盛をして石垣も
                埋め、その上に新設計の徳川の大坂城を修築が始まる。

元和6年 3月19日  大日本史料  幕府、秀忠の女和子入内の日時を定め、是日、之を諸大名に告げ、且祝儀進上等のこと
               を停む
元和6年 3月23日  山口県史整理年表  秀就、江戸城修築のため、割石三千五百・角石四十七を進上す。この日秀忠これ
                  を謝す 【考証論断】
元和6年 3月25日  山口県史整理年表  輝元、松崎天満宮に詣で、連歌を興行す 【防府の今昔】
元和6年 4月22日   大日本史料   ○京都所司代板倉重宗、関白九条忠栄を訪ひ、秀忠の女、和子入内のことを議す。

元和6年 5月    山口県史整理年表  和木村と安芸大竹村と流木論争あり 【岩邑年代記】

元和6年 5月8日   大日本史料   秀忠の女和子、京都に之く、是日、江戸を発す、酒井忠世、土井利勝、松平
                「大河内」正久「正綱」等扈従す

元和6年 5月13日  山口県史整理年表  和智某に、厚狭郡鴨庄開作地四十五石を与う 【毛利氏四代実録】
元和6年 5月20日   大日本史料   秀忠の女和子、将に入内せんとするを以て、左大史壬生孝亮に命じて、女御牛車の
                 宣旨に関する旧記を調査せしめ給ふ、尋で、関白九条忠栄、前関白鷹司信房等、
                 女御の宣旨に就きて、内議する所あり

元和6年 5月21日  山口県史整理年表  防長洪水。錦川横山堤防決潰その他損害多し 【岩邑年代記】
元和6年 5月28日   大日本史料   秀忠の女和子、京都に着し、二条城に入る

元和6年 6月2日   大日本史料   御生母近衛前子を三宮に准じ、院号を上りて、中和門院といふ
                           *大津・大野直之の娘、備後、中和門院の女房となる。

元和6年 6月2日   大日本史料   徳川和子を従三位に叙す
元和6年 6月5日   大日本史料   中和門院御幸始日時定、即日、入内御幸あらせらる
元和6年 6月5日   大日本史料   徳川和子入内日時定
元和6年 6月8日   大日本史料   徳川和子の疾に依り、其入内を延期す
元和6年 6月12日   大日本史料  関白九条忠栄「幸家」等、二条城に抵り、酒井忠世、土井利勝等と、徳川和子入内の
                ことを議す

元和6年 6月18日   大日本史料  従三位徳川和子入内す、禁裏及び女院御所に進献あり、また公家衆に物を賜ふ
元和6年 6月25日   大日本史料  幕府年寄酒井忠世、土井利勝、参内して、女御徳川氏の入内を賀し奉る、尋で、
                忠世、利勝に御剣を賜ふ、中和門院及び女御もまた物を賜ふ、諸大名も亦相前後して、
                入内を賀し奉る。 (*大津・大野直之の娘、備後、中和門院の女房)

元和6年 7月2日  山口県史整理年表  毛利元景、逼迫により知行千石を質物として、京・大阪にて借財せんことを請う。
                  秀就これを許す 【考証論断】
元和6年 8月2日  山口県史整理年表  三井就延、渡辺広洪水による被害地を検査す 【三井家譜】
元和6年 8月18日   大日本史料   中和門院の御使岩倉具尭、江戸に之く
元和6年 8月20日   大日本史料   秀忠、中和門院に、御料二千石を献ず
                 (*大津・大野直之の娘、備後、中和門院の女房)

元和6年 8月28日  山口県史整理年表  秀就、山代所務代平川正時に、租税の徴収ならびに民政につき、十一ヵ条の法令
                  を授く 【考証論断】


西暦1621年
元和7年 1月24日  山口県史整理年表  秀就、蔵入地の作付・土手川普請・蔵目喜山以下の諸鉱山、山口・俵山の湯、
                   山口はい吹座その他の租税取立てに関する条規を領つ 【考証論断】
元和7年 4月24日   大日本史料   伊予松山城主加藤嘉明の嫡子明成、江戸に之く、是日、京都を過り、権大納言日野
                  資勝を訪ふ

元和7年 7月9日   山口県史整理年表  徳山毛利就隆、長府毛利秀元の女松菊をめとる 【徳藩年表】
元和7年 10月    山口県史整理年表  萩南明寺本堂を再建す 【考証論断】
元和7年 10月7日   藩史大辞典   ○下松藩、年貢上納につき領内へ布告する。
元和7年 11月3日  山口県史整理年表  輝元、秀就に廿一ヵ条の訓諭書を授く 【考証論断】

元和7年 12月2日  山口県史整理年表  徳山藩、都濃郡末武村以下一万五千ハ百十九石を上地し、同郡富田村等において
                   同高の替地を受く 【毛利家文書】
元和7年 12月2日  藩史大辞典    ○下松藩1万6千石の上地をし、富田、福川、矢地、佐波郡富海等にほぼ同等の替地
                  を受ける。

西暦1622年
元和8年 忠    赤穂資料      浅野長重は常陸真壁より笠間に移り、笠間城主となる。

元和8年 7月26日  山口県史整理年表  平川正時の貢租を増徴せしを賞す 【考証論断】
元和8年 7月26日  山口県史整理年表  秀就、阿武・美祢両郡の検地について、三井就延に令条を授く 【三井家譜】
元和8年 8月13日  山口県史整理年表  長門一宮・二宮両社の上葺成就し、この日遷宮す 【考証論断】

元和8年      東和町史    ○村上元武は大竜寺を内入から屋代に移した。(後の竜心寺)元の大竜寺跡は元正寺
                  として今にいたる。
元和8年  大龍寺由緒書(兼助本)  ○和田大龍寺の住持揚雲の時、寺を屋代村片山の極楽寺屋敷に引移した。
                  (*片山極楽寺跡の二代目大龍寺は中片山寺山墓地と旧森田邸の間の現畑地。)

元和8年   周防大島民俗誌    村上武吉は、安芸竹原を去って、屋代島に来れり、島内和田に住していたが、その
                 孫、元武に至って、屋代に移り、武吉を葬る、大龍寺も元和八年屋代に移された。
                 かくして村上総本家は屋代村の領主として二千石を食み、毛利藩船手組組頭たり。

元和8年 12月1日  藩史大辞典  ○下松藩、毛利就隆「家臣法度」を制定する。
元和8年 12月28日  毛利家系譜  ○毛利日向守就隆 従五位下日向守に任ず。
元和8年      藩史大辞典  ○下松藩、毛利就隆、知行地の物成を四ツ成とする。

元和8年    山口県史整理年表  幕府、羽州山形城主最上氏を改易し、その家老氏家親定を秀就に預く。その子
                 彦十郎、秀就に仕う 【考証論断】
元和8年    山口県史整理年表  徳山藩物成を四つ成に改む 【徳山藩史稿】

元和8年   心斎橋今昔年表   長堀川(伏見川とも呼ぶ)が完成。長堀の両側は、農地から市街地に転換され、長堀心斎
                町、長堀清兵衛町、長堀治郎兵衛町、長堀平右衛門町という開発町人名の町が出来る。
                浪華長塹心斎橋記よると「心斎橋」は、岡田心斎 (長堀心斎町在住=京都伏見生・1575
                年(天正3)~1634年(寛永11)9月5日・58歳没) によって架橋。
                当時の木橋は、長さ18間(約35m) 幅2間半(約4m)だった

西暦1623年
元和9年 1月  山口県史整理年表  明人陳元贇、萩に来り輝元に謁し、この月「長門国誌」を編す 【長門国誌】
元和9年 7月  心斎橋今昔年表   徳川家光が三代目将軍となる。伏見城は廃城となる。
元和9年 8月19日  大日本史料   中和門院、落飾あらせらる *中和門院仏門へ

元和9年 9月1日   大日本史料   山城吉田社をして、女御徳川和子の御平産を祈らしめらる
元和9年 10月  山口県史整理年表  吉川広家、通津に退隠す 【岩邑年代記】
元和9年 10月  心斎橋今昔年表  幕府は西国大名に大坂城の石垣修築を命じる。特に城門の巨石を運び込まれる~寛永6
                年まで)
元和9年 10月3日  大日本史料   中和門院、禁中に御幸あり
元和9年 10月4日  大日本史料   女御徳川和子、着帯の儀あり

元和9年 11月6日  山口県史整理年表  輝元、藩政を長府毛利秀元に依頼し、この日萩城の四本松邸に隠居す 【無尽集】
元和9年 11月21日  山口県史整理年表  秀就、毛利元倶・福原元俊・児玉景唯・山田元宗等に国政改革の令状を授く
                  【考証論断】

元和9年      細川藩分限帳   村上長岡景則(廣世 共景 利共)の子村上景信は細川藩2000石賜う
                  (*後の屋代・羽越村上家)

西暦1624年
元和10年 2月9日  大日本史料  中和門院と共に女御徳川和子の御所に行幸あらせらる

寛永 2月30日  改元・出典「毛詩朱子注」 かんえい・甲子改元による(後水尾天皇-21年間)【勘申者 菅原長維】

寛永元年     心斎橋今昔年表  島之内、南船場、西船場の造成が完了。
寛永元年      心斎橋今昔年表  江戸~大坂間に菱垣廻船が就航し、多くの商品が大坂に運ばれる

寛永元年 2月    山口県史整理年表  秀就大阪城の修理を助役。この頃工事始まる 【考証論断】
寛永元年 3月25日   大日本史料    女御徳川和子と共に、中和門院御所に行幸あらせらる、御遊あり、

寛永元年 7月23日  山口県史整理年表  秀就、益田元祥・清水景治に郡中諸掟を授け毎郡一人の首長を定め農桑を勧課
                   し、人情の善悪および貢租の収納を記して提出を命ず 【考証論断】
寛永元年 10月2日  山口県史整理年表  大阪城修理再助役について、大津島の石を三田尻御船手中をして運送せしむ。
                   この日乃美兵部等、加子の因窮と海上の風波を理由とし、来春を期して差上す
                   べきことを願出ず 【大記録】
寛永元年      山口県史整理年表  朝鮮信使来聘赤間関において饗す 【草舎年表】
寛永元年 11月4日  上関教育委員会   第3回朝鮮通信使来朝、この日上関に入港す(往路) 。水先案内村上元武担当

寛永元年 11月28日   大日本史料  女御徳川和子を立てて、中宮と為し、中宮職を置き、権大納言三条西実条をして、
                 中宮大夫を、権中納言中院通村をして、同権大夫を兼ねしむ

寛永元年 12月24日  山口県史整理年表  熊野藤兵衛に命じて防長両国を検地せしむ。翌年八月成り、現検高五つ成を
                   もって、両国合計六十五万八千二百九十九石三斗三升一合を得。
                   内、長府藩八万三千十一石余。下松藩四万十石余。岩国領六万一石余
                   【熊野譜録】

寛永元年      大坂竹林寺    ○後大野直常(平川町天野屋九兵衛)の菩提寺大阪九条邑竹林寺創建される。
                    (*大坂天野屋の菩提寺・直常は大野直昌の跡取り・実内政の胤)

寛永元年     山口県史整理年表  岩国室木今津新開(大開)築立 【享保増補村記】

大伴姓 屋代島大野家 関連年譜(AD1598年~1603年)

2023年01月15日 13時16分46秒 | 大伴姓屋代島大野家 関連年譜
西暦1598年
慶長3年     心斎橋今昔年表  「第二期改造計画・大坂町の中屋敷替」(~翌年3月)
                  大坂城の三の丸造成工事と、大規模な城下町の改造を行う。
               「大坂の城下町」
                 上町台(生玉・玉造・渡辺等)には、武家屋敷(龍造寺町・安国寺坂・順慶町等)が並
                  び、青物市場(京橋南詰)や魚市場(京橋北詰)が賑わう。
                「船場の城下町」
                  三の丸の西に広がる難波潟の芦原を造成。そこは、古代からの難波宮や飛鳥に訪 
                  れる三韓「高句麗=高麗橋・新羅・百済=久太良(くだら)町」の 使節が上陸する着船
                  場の地点で、土佐堀・東堀・西堀・長堀に囲まれた「船場の城下町」を形成する。
                  この船場には、碁盤目の街区「東西に約4間(7.2m)の通り、南北に約3間(5.4m)の
                  筋」を配し、大阪城へ向う直線道路が整然としていた。そこに堺、伏見、平野、
                  阿波、土佐、近江、北陸から材木商や大工、医者、薬種商等の商人や職人を移住。
                  惣構内の上町からは、町家や寺院の移転が命じられ、家屋は檜の木造二階建てに
                  統一され、「太閤下水」も完備していた。
                 「下船場(現、西区)の城下町」
                  西横堀川以西には、阿波座、土佐座が出来、各地の特産品が販売。
                 「他の城下町」
                  紀州に移転の本願寺の宗主を呼び「天満」に移住させる。
                  津村に「北御堂」を、難波村には「南御堂」を建設。

慶長3年 1月7日  大日本史料  秀吉、豊前中津の黒田長政に米五千石を與へ、朝鮮に築城せしむ
慶長3年 1月10日  大日本史料  是より先、秀吉、陸奥會津の蒲生秀隆(秀行)を下野宇都宮に移し、是日、陸奥會津に
                越後春日山の上杉景勝を封ず、又、越後を檢地せしめ、藏入分と為す
慶長3年 1月17日  大日本史料  秀吉、慶尚道蔚山の急を聞き、毛利輝元・増田長盛等をして、之を赴援せしむ、
                尋で、之を停む
慶長3年 1月17日  大日本史料  秀吉、柳澤元政に長門赤繪堂銀山の公用請取状を與ふ

慶長3年 1月21日  大日本史料  秀吉、徳川家康に答へ、殻蠣を贈りしを謝す
慶長3年 1月22日  大日本史料  秀吉、豊前小倉の毛利吉成を慶尚道西生浦に移し、肥前唐津の寺澤正成を釜山に置き、
                毛利秀元・宇喜多秀家をして、正成を助けしむ
慶長3年 1月25日  大日本史料  秀吉、安藝廣島の毛利輝元の將完戸元次等の慶尚道蔚山役の戦功を褒す
慶長3年 1月25日  大日本史料  秀吉、大和郡山の増田長盛をして、加賀二郡及び越前を檢地せしむ、是日、長盛、
                これ等を伊豫板島の藤堂高虎に報ず

慶長3年 1月26日  大日本史料  宇喜多秀家・毛利秀元等、慶尚道蔚山・順天・梁山の三城を棄て、加藤清正を同道西生
                浦に、小西行長を同道泗川に、島津義弘を同道固城に、黒田長政を同道機張に、宗義智
               を唐島(巨濟島)に移らしめんとす、行長・義智、肯ぜず、是日、秀家等之を秀吉に報ず
慶長3年 1月27日  大日本史料  秀吉、慶尚道蔚山城に於て斥候を用ひざりしを聞き、諸將を戒責す
慶長3年 1月27日  大日本史料  秀吉、常陸牛久の由良國繁に久牛の地等を加増す、
慶長3年 1月28日  大日本史料  秀吉、山城醍醐寺三寶院の塔婆を修理す、是日、釿始
慶長3年 1月    大日本史料  秀吉、寺澤正成をして、兵粮を朝鮮在陣の諸將に給せしむ

慶長3年 2月8日  大日本史料  秀吉、福田牛介をして、知行を安堵せしむ、
慶長3年 2月9日  大日本史料  秀吉、山城醍醐寺三寶院に詣す、
慶長3年 3月2日  大日本史料  秀吉、後藤徳乗を金子吹座と爲す
慶長3年 3月3日  大日本史料  秀吉、山城醍醐寺三寶院に詣す
慶長3年 3月5日  大日本史料  是より先、秀吉、山城醍醐寺三寶院の塔婆を修理す、是日、其五重塔、工竣る、
慶長3年 3月13日  大日本史料  是より先、宇喜多秀家等、慶尚道蔚山・順天を棄て、釜山の近地に移らんことを秀吉に
               請ふ、是日、秀吉、黒田長政をして、梁山を去り、同道加徳浦を守らしむ

慶長3年 3月13日  大日本史料  秀吉、宇喜多秀家・毛利秀元・蜂須賀家政等に歸國を命ず
慶長3年 3月15日  大日本史料  秀吉、子秀頼等と櫻花を山城醍醐寺三寶院に觀る、
慶長3年 3月17日  大日本史料  秀吉、南海島に禁制を下す
慶長3年 3月18日  大日本史料  秀吉、兵粮・弾薬等を朝鮮在陣の諸將に給す
慶長3年 3月21日  大日本史料  秀吉、伊勢宇治・山田等に諸役を免除し、皇大神宮の萓葺を勤めしむ
慶長3年 3月23日  大日本史料  秀吉、参内せんとし果さず

慶長3年 3月27日  大日本史料  是より先、秀吉、近臣木下吉隆を故豊臣秀次のことに坐し薩摩に流す是日、自殺せしむ
慶長3年 3月    大日本史料  秀吉、宇喜多秀家に預けし宇都宮國綱をして、朝鮮に出兵せしむ、
慶長3年 4月2日  大日本史料  秀吉、越前の堀秀治・同直政・村上忠勝・溝口秀勝等を越後に移す、又小早川秀秋の封筑
               前等を收め、越前を與へ、近江佐和山の石田三成をして藏入分筑前等の代官を兼ねしむ
慶長3年 4月2日  大日本史料  秀吉、堀直政を越後の藏入分代官と為す
慶長3年 4月6日  大日本史料  秀吉、戒火の令を下す

慶長3年 4月10日  大日本史料  秀吉、徳川家康の山城伏見の亭に臨む
慶長3年 4月12日  大日本史料  秀吉、山城醍醐寺三寶院の修造を觀る
慶長3年 4月13日  大日本史料  秀吉、鐵及び碇を安藝廣島の毛利輝元に徴す
慶長3年 4月14日  大日本史料  秀吉、加賀能美郡に於ける堀秀治・村上忠勝の封を丹羽長重に與へ同國小松に移らしむ
慶長3年 4月15日  大日本史料  秀吉・秀頼父子、山城伏見より上京す、徳川家康、之に從ふ
慶長3年 4月15日  大日本史料  秀吉の奉行石田三成、越後藤井村の堰の條規を定む
慶長3年 4月18日  大日本史料  秀吉・秀頼父子、参内して、白銀等を獻じ、歳首を賀し奉る

慶長3年 4月20日  大日本史料  秀吉、陸奥岩手山の伊達政宗の、甲斐府中の淺野長吉(長政)・長慶(幸長)父子を
                慶尚道蔚山城に救援せしを褒す
慶長3年 4月26日  大日本史料  秀吉、山城伏見城舟入學問所に移る
慶長3年 5月3日  大日本史料  秀吉、伊豫松前の加藤重勝(嘉明)の永年の戦功を賞し、所領を加増す、
慶長3年 5月5日  大日本史料  秀吉の奉行石田三成、陸奥會津より歸京す、
慶長3年 5月8日  大日本史料  秀吉、攝津有馬に浴せんとし果さず
慶長3年 5月20日  大日本史料  秀吉、子秀頼の意に背きし侍女を處分すべき旨を答ふ

慶長3年 5月22日  大日本史料  秀吉、豊前中津の黒田長政を慶尚道西生浦に、豊前小倉の毛利吉成を釜山に移し、肥前
                唐津の寺澤正成をして、丸山を守らしめ、讃岐高松の生駒近規等をして帰國せしむ
慶長3年 5月22日  大日本史料  薩摩鹿兒島の島津龍伯(義久)、秀吉の奉行石田三成と議し島津氏算用所の條規を定む
慶長3年 5月    大日本史料  秀吉、山城清凉寺を再興せんとす、仍りて所司代前田玄以、同寺に禁制を下す
慶長3年 6月1日   大日本史料  秀吉の筑前及び筑後の地の藏入分代官石田三成、大坂を發し下國す
慶長3年 6月8日  大日本史料   是より先、秀吉、陸奥より一切經二部を徴す、是日、山城伏見城に著す、尋で、秀吉、
                之を醍醐寺三寶院及び紀伊金剛峯寺に寄進せんとす

慶長3年 6月16日  大日本史料  秀吉、紀伊金剛峯寺應其(興山)の請に依り、同寺金堂を山城伏見に移さんとし、
                是日、出でて其普請を督す
慶長3年 6月17日  大日本史料  秀吉、其の病を問ひ、併せて自身の病状の革れること等を告ぐ
慶長3年 6月22日  大日本史料  秀吉、伊豫板島の藤堂高虎・淡路洲本の脇坂安治の朝鮮に於ける戦功を賞し、所領を
                加増す、
慶長3年 6月27日  大日本史料  臨時御神樂を内侍所に奏し、秀吉の平癒を祈らしめらる
慶長3年 6月27日  大日本史料  秀吉の藏入分代官近江觀音寺、同國舟見村の年貢につきて定む

慶長3年 6月27日  大日本史料  京都相國寺承兌(西笑)、越後春日山の上杉景勝に秀吉の病状、加藤清正の朝鮮との
                和睦を扱ふこと等を報ず
慶長3年 6月    大日本史料  前田利家、山城伏見に赴き、秀吉の病を候す、
慶長3年 7月1日  大日本史料  秀吉室北政所杉原氏の奏請に依り、臨時御神樂を内侍所に奏し、秀吉の平癒を祈らせらる
慶長3年 7月5日  大日本史料  秀吉の藏入分筑前の地の代官石田三成、同國筥崎宮松原に違亂を為す者の不法を禁ず、
慶長3年 7月8日  大日本史料  豊臣秀頼の奏請に依り、臨時御神樂を内侍所に奏し、秀吉の平癒を祈らせらる

慶長3年 7月8日  大日本史料  秀吉室北政所杉原氏、北斗曼荼羅供を山城醍醐寺三寶院に修し、尋で、陸奥岩手山の伊達
               政宗も亦、聖天浴油供を同院に修し、并に秀吉の平癒を祈る
慶長3年 7月11日  大日本史料  山城醍醐寺理性院堯助をして、太元護摩法を禁中に修し、秀吉の平癒を祷らしめらる
慶長3年 7月11日  大日本史料  權大納言西園寺實益・同勸修寺晴豊等を、大神宮及び畿内の神社・佛寺に遣し、秀吉の
                平癒を祷らせらる
慶長3年 7月11日  大日本史料  豊臣秀頼、秀吉の平癒を尾張津島社に祈る

慶長3年 7月15日  大日本史料  秀吉、諸大名をして、子秀頼に忠節を誓はしむ、諸大名、前田利家の山城伏見の亭に
                於て、誓書を徳川家康及び利家に致す、
慶長3年 7月16日  大日本史料  秀吉、大隅帖佐の島津義弘の領内より唐人の油蠣工を徴し、其國役を免除す
慶長3年 7月20日  大日本史料  秀吉の奉行長束正家等、越前の検地を了し帰京す
慶長3年 7月24日  大日本史料  秀吉、甲斐府中の淺野長吉(長政)に近江神崎郡の地五千石を加増し、藏入分神崎郡の
                地の代官と爲す
慶長3年 7月25日  大日本史料  秀吉、死期を覺り、白銀千枚を獻ず、又、諸大名等にも金銀・刀劔を與ふ

慶長3年 7月26日  大日本史料  秀吉、伊勢上野の分部光嘉に同國の地を加増す
慶長3年 7月28日  大日本史料  秀吉、服部土佐守等に所領を給す
慶長3年 8月1日  大日本史料  秀吉、能を山城伏見に興行す、又、安藝廣島の毛利輝元をして、子松壽丸(秀就)を上洛
               せしめ、又養子秀元を出雲・石見に、出雲富田の吉川廣家に小早川隆景の遺領備後を
               加へしむ、
慶長3年 8月4日  大日本史料  秀吉、信濃河中島の田丸直昌に同國更科郡の地等を宛行ふ
慶長3年 8月5日  大日本史料  秀吉、山城伏見并に大坂城番及び秀頼伺候の衆を定む

慶長3年 8月5日  大日本史料  秀吉、山城康徳寺に地を寄進す
慶長3年 8月5日  大日本史料  秀吉、子秀頼を徳川家康・前田利家等五人の年寄衆に托す、家康・利家、石田三成等の
               五奉行と誓書を交換す、
慶長3年 8月5日  山口県史整理年表  秀吉病み、輝元等五大老に後事を遣託す 【毛利氏四代実録】
慶長3年 8月6日  大日本史料  秀吉、徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家を枕頭に招き、日本の將來、中國の
               置目等を托す
慶長3年 8月7日  大日本史料  秀吉、淺野長吉(長政)等五奉行をして、姻戚の縁を結ばしむ

慶長3年 8月8日  大日本史料  秀吉、近江大津の京極高次に同國蒲生郡の地を宛行ふ
慶長3年 8月8日  大日本史料  秀吉、山城醍醐寺三寶院に寺領千石餘を寄進す
慶長3年 8月9日  大日本史料  秀吉、山城稲荷社をして、病平癒を祈らしむ、
慶長3年 8月10日  大日本史料  徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・毛利輝元等豊臣氏の年寄衆、秀吉の病中は仕置を
                改めざること等を定む
慶長3年 8月11日  大日本史料  秀吉の室北政所杉原氏の母朝日局歿す、
慶長3年 8月14日  大日本史料  秀吉、大坂城番の部署を定む、

慶長3年 8月15日  大日本史料  伊勢龜山の岡本良勝卒す、秀吉、岡本次郎兵衞入道等をして、誓書を進めしむ
慶長3年 8月17日  大日本史料  秀吉、善光寺如來を信濃に復す
慶長3年 8月18日  大日本史料  太政大臣從一位豊臣秀吉薨ず、子秀頼嗣ぐ

慶長3年 8月18日  伊予中世年表  ○秀吉 伏見城で 歿 62歳
慶長3年 8月18日  心斎橋今昔年表  秀吉伏見城で病死(61歳)。朝鮮出兵の諸将を召還させる

慶長3年      伊予中世年表  ○能島村上の元吉・景親兄弟は安芸の竹原に移った。

慶長3年 8月25日  大日本史料  徳川家康及び前田利家、秀吉の喪を秘して徳永壽昌・宮木豊盛を朝鮮に遣し、諸將をし
               て和を講じ、軍を歸さしむ
慶長3年 9月8日  大日本史料  所司代前田玄以、故豊臣秀吉の朱印状に任せて、山城偏照心院をして、寺領を安堵せし
               め、諸役を免除す
慶長3年 9月14日  大日本史料  是より先、淡路船越景直、秀吉の譴を蒙り、陸奥三戸の南部利直に預けらる、是日、
                徳川家康、之を召還す
慶長3年 11月25日  大日本史料 徳川家康、増田長盛の山城伏見の亭を訪ふ、明日、長宗我部元親を訪ふ【言經卿記】

西暦1599年
慶長4年    心斎橋今昔年表  天満の堀川を開削。天満に町家を、船場、島之内の砂州を開拓。
                天満、船場を城下に組入れる。

慶長4年 1月10日  大日本史料  豊臣秀頼、父秀吉の遺命に依り、山城伏見城より大坂城に移る、
慶長4年 1月14日  大日本史料  是より先、故豊臣秀吉、青木一矩の知行越前府中分を藏入領と為す、是日、豊臣氏の
                奉行石田三成・上杉景勝、府中大井村の百姓に條規を與ふ
慶長4年 1月19日  大日本史料  是より先、徳川家康、伊達政宗・福島正則・蜂須賀一茂(家政)と婚を約す、是日、
                前田利家・宇喜多秀家・毛利輝元・上杉景勝等、家康及び政宗等に、豊臣秀吉の
                遺命に背きしを責む

慶長4年 1月    大日本史料  豊前中津の黒田長政の父同如水(孝高)、茶湯の法を定む
慶長4年 3月5日  大日本史料  所司代前田玄以、豊臣秀吉の遺命に依り、其墓所山城阿彌陀峯に大社を創建せんことを
               奏請す
慶長4年 閏3月13日  大日本史料  土佐浦戸の長宗我部元親、同國岩村の春田五郎に令して、他國衆の爲めに種子島筒を
                 製するを禁ず【蠹簡集】

慶長4年 閏3月13日  萩市史   家康は秀吉の遺命を無視して、秀吉の伏見城に入る【坂坂卜斎覚書】
慶長4年 閏3月21日  山口県史整理年表  輝元、天下のことに関し、徳川家康と誓書を交換す 【考証論断】
慶長4年 閏3月21日  萩市史   輝元は豊臣秀頼に対し疎意の無い事、家康には表裏別心無く兄弟の思いをなすことを
                約束【毛利家文書「輝元起請文案」】
慶長4年 閏3月23日  大日本史料  豐臣氏の五奉行、豐後高田の竹中隆重・因幡鳥取の宮部長熙をして、故豐臣秀吉の
                 制を守り、妻子を山城伏見に置き、役に大坂に從はしむ
慶長4年 春      大日本史料  土佐浦戸の長宗我部元親、三男津野親忠を同國岩村の某寺に幽す
                【土佐國群書類從所收津野氏家系考證】

慶長4年 4月13日  萩市史    輝元は家康に長男松壽丸(秀就)袴着の儀を依頼する【毛利家文書「家康書状」】
慶長4年 4月17日  萩藩閥閲録  安藝廣島の毛利輝元、村上景親に知行を宛行ふ
慶長4年 4月23日  大日本史料  土佐浦戸の長宗我部元親上京し、豐臣秀頼に大坂城に謁す【土佐國編年紀事略】
慶長4年 4月24日  広島県文書館  村上武吉ら、毛利輝元に忠誠を誓う。(第二回特別展説明)
慶長4年 4月25日  大日本史料  豐臣秀吉の後室杉原氏、山城豐國社に詣で、千僧會に臨む
慶長4年 4月29日  大日本史料  豐臣秀頼、白銀千枚を獻じ、亡父秀吉の贈號を謝し奉る

慶長4年 5月11日  大日本史料  豐臣氏の年寄衆、前田玄以等の、豐臣秀吉の遺法に違背する家臣の成敗に容喙せざる
                ことを誓ふ

慶長4年 5月19日  長元記   ○長曾我部元親 山城国伏見で病死、61歳。

慶長4年 6月4日  大日本史料  安藝廣島の毛利輝元の養子秀元、徳川家康に通ぜしこと無き旨を安國寺惠瓊に誓ふ
慶長4年 6月15日  萩市史   輝元は松壽丸出生以前に養子の約束のあった毛利秀元に長門一国・吉敷郡および穂田元清
               遣領を与える。家康これを斡旋。【毛利輝元卿伝】
慶長4年 6月15日  山口県史整理年表  輝元、秀元に長門一国・吉敷郡および穂田元清遣領合計十七万七千八百五十六石
                   余を分知す 【長府毛利家乗】
慶長4年 6月30日  大日本史料  是より先、豐前中津の黒田長政、肥後人吉の相良頼房、竝に朝鮮より歸國す、是日、
                徳川家康の將井伊直政、好誼を通ず

慶長4年 7月29日  大日本史料  徳川家康、豐前中津の黒田長政に五奉行との和解成りしことを報ず、
慶長4年 8月21日  大日本史料  花を立てさせらる、又、豐臣秀吉の後室杉原氏(高臺院)に薫香を賜ふ
慶長4年 9月3日  大日本史料  豐前中津の黒田如水(孝高)の京都の亭に連歌會あり

慶長4年 9月8日  大野家聞書  ○大野仁右衛門尉 尾首 元服。弥六郎 没落後立石村の居す。

慶長4年 忠 9月9日  赤穂市資料  徳川家康暗殺計画が露見し、浅野長政も連座の疑い
慶長4年 9月26日   大日本史料  豐臣秀吉の後室杉原氏、大坂城西丸を出でて京都に移る
慶長4年 忠 10月   赤穂市資料  家康により浅野長政は甲斐に蟄居。長政は家督を幸長へ
慶長4年 10月11日  大日本史料  豐臣秀吉後室杉原氏の奏請に依り、内侍所に臨時御神樂あり
慶長4年 10月15日  大日本史料  御日待、豐臣秀吉後室杉原氏、白鳥及び物を獻ず、
慶長4年 11月20日  大日本史料  是より先、故豐臣秀吉の千僧會を妙法院に修するや、妙覺寺前住持日奥等、不受不施の
                説を唱へ、召に應ぜずして、臨みし僧徒を謗り、 訴へらる、是日、徳川家康、之を裁
                し、日奥を流罪に處す

西暦1600年
慶長5年    寛政重修諸家譜  黒田長政福岡へ転封される。

慶長5年    筑前大野家文書  黒田氏筑前入国に伴い御牧郡則松村に移住する。
                    *これは上司の黒崎移住の措置ならん
慶長5年    屋代今元系譜   ◎今元家初代助左衛門直光(大野隆直四男)誕生*

慶長5年    岩邑年代記1   従四位下侍従蔵人頭(吉川)広家公、雲州富田在城、40才
慶長5年 1月   赤穂資料    人質の浅野長重は徳川秀忠の小姓となる
慶長5年 1月8日  大日本史料   豐臣秀吉後室杉原氏、山城豐國社に詣づ、
慶長5年 2月18日  大日本史料  豐臣秀吉の後室杉原氏、山城豐國社に詣で、湯立神樂を修す、
慶長5年 6月6日  大日本史料  徳川家康、下總多胡の保科正直の女を養ひ、豐前中津の黒田長政に嫁せしむ
慶長5年 毛 6月18日  萩市史  家康は会津の上杉景勝を討伐するため伏見城を出発。輝元は援軍として吉川広家を
                大将、安国寺恵瓊を副将にする【坂坂卜斎覚書】

慶長5年 7月11日  山口県史整理年表  石田三成徳川家康を除かんとして兵を挙ぐ 【義演准后日記】
慶長5年 7月12日  山口県史整理年表  三成、前田玄以・増田長盛・長束正家三奉行をして輝元を大阪に招かしむ
                  【吉川家文書・家譜】
慶長5年 7月12日  大日本史料   大谷吉繼・増田長盛・安國寺惠瓊等、石田三成に近江佐和山に會し、安藝廣島の毛利
                 輝元を主將に迎へんことを議す、又、長盛、變を徳川家康に報ず
慶長5年 7月13日  大日本史料   是より先、毛利輝元・吉川廣家、安國寺惠瓊をして、徳川家康の軍に從はしむ、
                 廣家、伯耆米子に城き、恵瓊、大坂に在り、是日、廣家、播磨明石に著す
                 恵瓊、使を遣して、明日、廣家を大坂に迎へ、家康の東下に乗じ、石田三成・大谷
                 吉繼等の兵を起し、上杉景勝と東西夾撃の策を告ぐ、廣家、之に應ぜず 椙杜元縁を
                 安藝廣島に遣して、輝元の出陣を止む

慶長5年 7月14日  萩市史    安国寺恵瓊と吉川広家が大坂で対談。恵瓊は家康が秀吉の遺言による誓約に背いたこと
                を詰って、西軍側に味方することを力説したが、広家は周囲の 状況から見て、家康の
                強大さを説いてこれに反対。恵瓊は切腹の覚悟であると言ったが、広家は毛利家万歳の
                為、輝元公の身上に恵瓊は替えられない として譲らなかった。
                【吉川家文書「広家覚書案」】

慶長5年 7月17日  山口県史整理年表  輝元広島城に在り。世子秀就を伴い、海路、兵を率いて大阪城西の丸に入り西軍
                   に党す 【義演准后日記】
慶長5年 7月17日  大日本史料   黒田如水(孝高)、其子同長政の封豐前中津に在りて、居城を修築す、是日、石田
                 三成の擧兵の接し、兵備を修む
慶長5年 7月17日  大日本史料  是より先、石田三成、安國寺惠瓊をして、薩摩鹿兒島の島津忠恆の父同惟新(義弘)に
                説き、豐臣氏の爲めに擧兵せしむ、惟新、之を郤け、 徳川家康の山城伏見城に據らん
                とす、城將鳥居元忠・内藤家長等、之を拒み、是日、惟新の將新納旅庵を撃つに依り、
                惟新、三成に應ず

慶長5年 7月17日  大日本史料  豐前中津の黒田長政の母・肥後隈本の加藤清正の室、并に大坂より密に逃れて歸る、
                石田三成、池田照政(輝政)・藤堂高虎・有馬豐氏・加藤茂勝(嘉明)等の室を
                監せしむ
慶長5年 7月22日  大日本史料  是より先、筑前名島の小早川秀秋、徳川家康に通ず、石田三成、之を疑ひ、山城伏見城
                を攻めしむ、秀秋、密に豐臣秀吉後室杉原氏(高臺院)と圖り、是日、城を攻む、
慶長5年 7月24日  大日本史料  徳川家康、下野小山に著す、山城伏見城守將鳥居元忠の急使に接し、諸將を召集して、
                去就を問ふ、黒田長政・福島正則等の諸將、誓書を致す、 家康、結城秀康を會津口の
                將と爲す、尋で、正則等、西上す

慶長5年 忠 7月24日  赤穂資料  家康「三成挙兵の確報」を得る
慶長5年 7月29日  山口県史整理年表  佐波広忠・村上元吉・同景親等阿波国猪山城を収む 【閥閲録】
慶長5年 7月29日  大日本史料  豐臣氏の奉行前田玄以・増田長盛・長束正家連署の徳川家康罪條書、下野小山の營に達
               するに依り、家康、黒田長政に之を告げ、又、奥平貞治をして、之を先發の諸將に
               告げしむ
慶長5年 8月  心斎橋今昔年表  西軍は、関ケ原の前哨戦により、家康の留守役の鳥居元忠が預る「伏見城」を炎上
                させ落城。

慶長5年 忠 8月  赤穂資料   家康は浅野長政に2通・幸長に5通の手紙作戦
慶長5年 8月1日  大日本史料  豐前中津の黒田長政の父同如水(孝高)、大坂に在る吉川廣家に、毛利輝元の大坂入城を
               賀し、九州・四國諸將等の人質は、輝元の之を預り、長政の質は、廣家の預らんことを
               求む
慶長5年 8月2日  大日本史料  毛利輝元、山城豐國社に神樂を奏す、豐臣秀吉後室杉原氏、之に詣づ
慶長5年 8月5日  山口県史整理年表  秀元・元康・秀包・吉川広家・宍戸元次・福原広俊等家康の伏見城の攻撃に参戦す
               【閥閲録】【吉川家文書「広家覚書案」】

慶長5年 8月5日  大日本史料  是より先、西軍、大坂・伊勢・美濃・近江・北國の守備を定む、是日、石田三成、近江
               佐和山城に歸る、毛利秀元・吉川廣家、近江瀬田の守備を、熊谷直盛、 垣見一直・相良
               頼房・秋月種長・高橋元種等に委ね、長束正家・安國寺惠瓊と尾張に移らんとし、伊勢に
               入り、秀元・廣家は同國關に、正家・惠瓊は同國椋本に陣す

慶長5年 8月17日  大日本史料  是より先、吉川廣家、黒田長政に頼り、使者を江戸に遣し、毛利輝元の西軍に應ぜし
                ことを辯疏す、是日、長政、廣家に徳川家康の答書を送る
慶長5年 8月23日  大日本史料  黒田長政・藤堂高虎・田中吉政・堀尾忠氏・桑山重晴・戸川達安等、木曽川を渡り、
                守兵を破り追撃して、呂久川に至る、石田三成・小西行長、島津惟新(義弘)
                と呂久川下流の佐渡に会して軍議す、三成逃れて美濃大垣に入る、明日、東軍、呂久
                川を渡り、進みて同国赤坂に至り、牙営を同国岡山に設け、徳川家康の西上を待つ

慶長5年 8月24日  萩藩市史  吉川広家等は徳川方に属する伊勢国津城を攻撃したが、味方の損害も多く、ために旧知の
               黒田長政を通じて徳川方と講和を図る。【広家自筆書状案】
慶長5年 忠 8月24日  赤穂資料  幸長ら岐阜城攻略。三成の大垣~岐阜城防御線崩壊
慶長5年 8月25日  大日本史料  豐前中津の黒田長政の父同如水(孝高)、徳川家康に應じて擧兵せんとす、是日、家康
                の監軍井伊直政、之に答ふ
慶長5年 8月25日  山口県史整理年表  吉川広家等、伊勢国安濃津城の攻略に参戦す 【閥閲録】
慶長5年 8月27日  山口県史整理年表  宍戸元真・村上元吉等、伊予国松崎城を攻む 【閥閲録】

慶長5年      屋代大野系譜  ●村上元吉公予州出陣の時十三歳で直政に随行し陣所で敵黒田九兵衛の士と闘い
                 鑓で瀕死傷を受ける。
慶長5年      屋代今元系譜 ◎河野家再興の為加藤嘉明を三ケ浜に攻め敗戦して豊臣に追及され隆景・輝元の助命
                 により八代島に逃れる

慶長5年 8月28日  大日本史料  徳川秀忠、上野松井田に著陣す、黒田長政・一柳直盛に、信濃上田の眞田昌幸を降し
               て、西上せんことを告ぐ

慶長5年 9月  心斎橋今昔年表  西横堀川は、長瀬七郎右衛門によって開削、また、阿波堀川を掘下げ、下船場(西区の船
                場)を造成する
慶長5年 9月1日  大日本史料  徳川家康、福島正則・藤堂高虎・黒田長政・田中吉政・一柳直盛をして陣地を固守せしむ
慶長5年 9月3日  大日本史料  加賀金澤の前田利長、黒田長政・藤堂高虎に美濃合渡の戰捷を賀し、丹羽長重の居城同國
               小松を攻めんとするを告ぐ
慶長5年 9月3日  大日本史料  豐前中津の黒田長政の父同如水(孝高)、吉川廣家に、東軍に屬せんことを勸む
慶長5年 9月4日  大日本史料  徳川秀忠、淺野幸長・黒田長政、加藤茂勝(嘉明)・本多忠勝に、美濃岐阜の戰功を褒す
慶長5年 9月5日  大日本史料  豐前中津の黒田長政の父同如水(孝高)、美濃岐阜城攻略を肥後隈本の加藤清正に報ず

慶長5年 9月9日  大日本史料  豐臣秀吉後室杉原氏(高臺院)、山城豐國社に詣ず、
慶長5年 9月9日  大日本史料  大友吉統、長門より豐後立石に著岸し、西軍に應ず、同國杵築の守將松井康之、急を豐前
               中津の黒田長政の父同如水(孝高)・肥後隈本の加藤清正に告ぐ

慶長5年 9月10日  細川忠興軍功記

   1. 九月十日頃に伊勢口より毛利殿人数土佐長曾我部長束大蔵秀頼様御弓鉄炮衆此人数都合 三萬にて南宮山へ押上け陣
    取申候其時忠興公左馬殿御両人様、長範松之塚之近所へ物見 御座候て人数押上け申候以後山之下足懸能御乗込被
    成可申と忠興公被仰候其時歩之御供 ハ大槻才兵衛吉住半四郎二人被召連候事

  1. 大垣之城水攻に成可申由西尾豊後殿被申に付豊後殿承水堰上け早町江水上け申時分村腰 茂助殿江戸より上使に赤坂
    へ着被申茂助殿被申ハ水御仕懸候儀可、有御待候左様に成候て 御威勢無之急度御出馬被成候様に可仕と被申に付
    水堰止候頃九月三日四日にて可有御 座候事

  1. 九月十三日に家康公岐阜へ被成御着明十四日御在陣之御衆十四日之未明青野原へ御押出 被成候事

  1. 家康公御本陣ハ福島殿御陣屋へ御入被成候金森法印ハ忠興公御陣屋へ御入候事 

  1. 青野原之御衆十四日之五つ時分に御本陣へ御目見に御出被成候然ハ中村式部少殿之衆大 垣近邊へ刈田に出申候を
   大垣より追拂申候式部少殿衆取合 大垣之者追込申引取申候へハ 大垣より付申候追拂引取候得ハ又つけ申候故敵分
   れ成兼申候家康公御覧被成被仰候は主 なし候故敵わかれ不仕候井伊兵部殿本多少書殿へ御出候て敵わかれ仕候と可
   申旨被仰付 御両人御乗出し被成内に敵わかれ仕候故御両人も御本陣へ御帰 之由是ハ忠興様御物語承 申候事

  1. 明日之御働如何可被仰付と何も被得其意候へ共無別に候合戦にて候可有其心得と被仰出 候被得其意候て暫御咄之内
   に式部少殿衆御前へ被召出明日之合戦被成候間大垣之押御頼 被成旨式部殿舎弟彦左衛門一栄へ被仰付候彦左衛門御
   請申立可申と仕候時薮内匠御幕之 外に居申候御幕を打上け彦左衛門待可申と太閤之御代先手仕式部少と世間に知れ
   申候も 皆共かせき申故にて御座候式部少こそ相果申候皆共罷在候上ハ先手可被仰付と如何にも 目高に急度申上候
   色々御挨拶御座候へハ主なしにて御座候間如何様に成共不苦候と申様 體無心元様に忠興公思召兵部殿へ被仰候は主
   なし無紛候兎角御あいづけ被成可然と被仰 候と玄蕃殿へ御物語被成候を承り申候事

  1. 赤坂御本陣より御帰之時長範松へ何も御あかり被成南宮山之様體御覧被成候處山より壹 人走り下申に付何ものそ捕 
   参候得と各被仰に付何も一両人被遣候忠興公より吉住半四 郎大槻才兵衛参候吉川所より黒田殿へ参候と申に付黒田
   殿何れに御座候と申召れ参候彼 者口上吉川申候を毛利身體如前に被仰調被下候ハヽ明日手切之合戦仕可掛御目と申
   越に 付則黒田殿赤坂へ被成御出右之趣被仰上候得ハ如申越に仕候ハヽ毛利身體如前に可被仰 付と被仰候に付黒田殿
   右之通御返事事被成候事

  1. 十四日之夜未明に御小屋之外より御陣替と見へ申候と申上候何と御合点不参候と被仰候 得ハ左馬殿昇色めき申と答 
   申候其内に福島殿より御出候へと御使に付其儘御出被成候間 私共隼人左馬允に知と申候両人玄蕃殿申遣候其外之衆
   へも申觸に付何も小屋之前へ出申 北の方より御馬乗立玄蕃々々と 高聲にて御乗付被成御人数小屋之前に御立候小屋
   場より 四五十間程先に少塚在之候其塚之所へ御側之鉄炮召れ左馬允可参と隼人御供に可参と 被 仰扨玄蕃殿へ被仰候
   ハ大夫殿所へ御乗付被成候へハ大夫殿小手招被成候加様之時そヽめ き候へハ下々気違物にと高々と被申候へと被仰
   候へハ大夫殿被仰候ハ吉川所より黒田所 へ申越候ハ昨日ハ御身方可仕と申候へ共今夜治部少大垣より関原へ廻り各
   え仕懸申候昨 日之首尾にて御座候間御敵仕間敷候御味方ハ不成と申越由大夫殿被仰候忠興公さつと済 候仕掛けする
   合戦請すかハ只取たる物候急小屋所之前に人数被立候へと被仰候と玄蕃 へ被仰候ハヽ又先手へ御座候御人数も頓て
   垂井の宿之方へ押申候へハ忠興公先より御乗 戻被成候て御人数丸ケ御乗廻被成候て伊吹山へ續申山際江御押被成候
   て又黒田殿備へ御 乗付被成合戦初申迄ハ左馬殿出雲殿黒田殿忠興公御一所にて敵味方之位御見合被成候事

  1. 合戦初申前廣に黒田殿所より下へ御下り被成候て御座候所へ田中兵部殿乗付越中殿合戦 初可申と被申忠興公いやは
   やきと被仰候得ハいや初候はんと彼申に付銘々之人数にて候 間其方次第と被仰候へハ合戦の習勝事も有負事も在一
   番合戦我か初候御手前後日之證據に届申候と被申候忠興公被仰候ハ是程之勝たる合戦にわごれハ虚空もなき事と被申
   と被 仰候其儘乗戻被り申候供之侍一人参候か越中様如被仰御勝之合戦にて御座有と申候田中 殿乗返し供之侍いかり
   いかり人数之所へ参貝を吹立かヽらせ被申候忠興公被仰候は長掛 り仕候間皷立可申と被仰候あんおことく二度被立
   申候二度目之時忠興公、 御乗込被成候事

  1. 合戦初申様體に付玄蕃殿御人数山より御引下被成二三町敵方へ押申候處に入江平内御使 に被遣御人数懸り可申旨に
   付我人馬次第乗込申候向に立申候敵共敗軍仕候故悪敷馬に乗 申者不任心手に合兼申候私儀者仕合能候て隼人見届被
   申候に付其晩御羽織被為拝領番差 物被召上申候事

  1. 其晩ハ御弁当参着仕候故其日手に合申衆御食一杓子つ被下候御自分も御手に御合被成 候故御機嫌能被為成御座候事

  1. 明十六日佐和山江押寄申候得ハ筑前中納言秀秋殿被仰付候間残諸勢ハ上方口へ押可申旨 に付其晩ハ鏡之宿に御陣被
   成候明十八日之朝佐和山、落去仕候其晩家康公八幡山に御陣被 成に付忠興公御目見に八幡山へ御座候て首尾能御仕
   廻被成其晩勢田へ夜に入御着被成候 事

  1. 明十九日は追分之上の野に御陣被成候處に田邊より森三右衛門十九日之日入時分に追分 之御陣所へ戻り申候幽齋様
   従禁中御曖被成前田主膳秀利、御迎に田邊へ被参昨日十八日之 晩ハ檜木山に御泊り被成候其晩亀山へ御着被成筈に
   御座候然ハさぎ山之道別生駒殿御人 数貳千計居申候不審に、存由申上候我ハ敵待に気付申候幽齋様を大坂へ引立参
   者に候行懸 りに御追落可被成候と被仰早御出被成に付御人数も俄に拵へ罷出申候粟田口へ、 罷出申候粟田口へ押出
   三條 之橋を渡り大宮通り堅木原へ夜半計に押詰申候得ハ前田主膳家老小池清左衛門松田小右 衛門両人堅木原へ御迎
   に罷出申候幽齋様昨晩亀山へ御入被成候主膳ハ二の丸へ罷出申候 主膳身體之儀如何様に成共任御意申候段申上候忠
   興公被仰候ハ主膳儀御請取可被成候心 安存候得と御意に付難有奉存と申上候て両人之者御案内者に御先へ乗申候其
   時何れも大 息つき申候事

 1. 馬堀へ夜七つ時分御着候幽齋様御乗物に召馬堀へ御出迎御対面被遊候主膳ハ日の出に御 目見に被出候忠興公被仰に
   は今晩大津へ家康公御着被成候間主膳御供被仕候御前被仰調 如前々身體相済其晩亀山へ主膳も被帰候事

  1. 谷出羽殿藤堂三河殿川勝右兵衛殿此御衆之身體も相済申候福智山へ御働之時右四人可被 召連旨被仰出候事

  1. 九月廿二日に亀山を御出陣にて同廿三日に生野へ被成御着候其時出羽殿藤堂殿川勝殿御 目見と御身體相済申御禮被
   仰候御人数も被召連候事

  1. 前田主膳殿ハ亀山より人数被召連御人数之跡を押申候事

1. 生野へ御着之晩京之町人蓮池と申者荒木山城と別て之知人にて御座候故山城殿へ申越候 ハ小野木ハ田邊より直に大坂
  へ参留守にて御座候留守居共と談合仕城渡申才覚可仕と申 候如何可有御座と得御意申候留守之所へ御仕懸候てハ無詮
  候間才覚仕候得其内ハ生野に 可有御逗留候一左右次第 御押寄可被成とて被成御待候山城に被仰候在所之者召連出候へ
   と被仰付候奉得其意と御請申候扨二三日過蓮池所より小野木夜前大坂より戻り申候  最前 之才覚成不申と申に付明廿
  七日に福知山へ御押寄候時生野ヨリ一里程御押出被成候へハ福 知山目之下見申候其所に忠興様御座候て御人数通申候を
   御覧被成候出羽殿藤堂殿川勝殿 御先手にて福知山之町口へ押被申候木下右衛門殿二番手にて御座候是も町口へ御押
  候事

1. 御旗本ハ山之手へ御押寄可被成と思召道筋様體物見に左馬允大學被遺両人戻り申候て御 人数山之手へ御押被成候前田
  主膳も山之手へ押被申候 山城御在所之者五六百召連福知山 より南之谷へ押出申候鉄炮百挺馬乗貳十人計昇十本殊外見
  事に御座候忠興様御機嫌能御 座候事

1. 福知山要害能御座候仕寄に可被成候其趣玄蕃殿へ被仰付候て忠興様ハ其日福知山より川 船に召田邊へ御座候て光壽院
  様御子息様達に御対面被成一両日過田邊より大阪へ御座候 て内府様へ御目見御悦被仰上候て又福知山へ被成御座候仕
  寄之様御好に違申に付玄蕃殿 御いかり被成候玄蕃殿被仰候は 如御好仕寄付可申と奉存候得共横矢御座候故只是分に付
   申候と御請に候忠興様今夜仕寄御付候て御見可被成候尤俵五千俵拵可申と被仰出日暮に土俵出来申候たましの御甲計
  召其儘仕寄場へ御座候横矢之方にハ幕を御張被成候思召儘 仕寄付申候其夜沼田藤左衛門ハ打死被仕候西郡大炊手負申
  候御鉄炮衆四五人も手負申候 事

  1. 忠興様仕寄御付被成候所塀之手二三十間合不申藪たヽみにて御座候故是より御乗こませ 可被成と初より思召候故彌
   右のことく仕寄付申越城中より此所専に囲ひ申に付又城より 三丁程引除帰り志ヽかき御詰被成候て位御覧被成候處
   に内府様山岡道阿彌に被仰付候ハ 越中殿城乗破被申候者人数損可申候是程太平に成人損を不入事と思召候間道阿彌
   罷越小 野木に下城仕とらせ其以後腹切と可申旨被仰出道阿彌被参候て小野木縫殿下城仕 丹波亀 山にて切腹仕候事

  1. 福知山城に残置申道具目録に小野木判形させ忠興様御取被成候事

  1. 小野木下城仕候同日に田邊へ御座候て夫より大坂へ被成御越福知山御城代之儀費仰上候 事

  1. 家康様被仰出候は丹後亡國に成申候て丹波奥三郡所務可被成旨忠興公へ被仰渡飯川豊前 殿左馬允両人にて福知山へ
   年貢納させ申候福知山之城本丸に左馬允被召置候二の丸は豊 前殿被召置候事

  1. 秀忠様会津表御仕廻被成十月之末に大坂へ被成御上着岐阜関原にて御働被成御大名衆へ 褒美被為成候事

  1. 忠興公へハ利休所持仕候名物之尻に睦の御茶入被為拝領候御口上具に書付不申候事

  1. 十一月之中旬之頃御國分け御座候て忠興様豊前へ御下相究り申に付丹波奥三郡之物成不 残在々へ御返し被成候事

   1、福知山之城ハ有馬玄蕃豊氏殿へ小野木目録前にて豊前殿左馬允両人にて引渡し申候事

  1. 忠興様十二月之初丹波御発足被成豊前中津へ同廿六日に御下着被成候事 寛文四年三月七日  牧丞大夫

慶長5年 9月12日  大日本史料  是より先、近江・伊勢の西軍、美濃に入るに依り、石田三成、東軍と戰はんとす、長束
                正家・安國寺惠瓊、從はず、三成、諸將の反覆測り難きを憂へ、是日、大坂に在る増田
                長盛に軍情を報じ、叛將の質を誅せんことを求む、其使者、東軍に捕へらる
慶長5年 9月13日  山口県史整理年表  元康・秀包等近江国大津城を攻略す 【閥閲録】

慶長5年 9月13日  大日本史料   豐後杵築の守將松井康之・有吉立行、豐前中津の黒田長政の父同如水(孝高)の先鋒
                 井上之房等と共に、大友吉統と 豐後石垣原に戰ひ、之を破る

慶長5年 9月13日  筑前大野家文書  筑前大野三兄弟奮戦 【豐後石垣原に戰ひ】

慶長5年 忠 9月13日  赤穂資料  小早川秀秋は佐和山城より進軍して高宮に布陣する
慶長5年 9月14日  大日本史料  是より先、小早川秀秋、東軍に通じ、近江石部に留りて、兵を進めず、石田三成、之を
                疑ひ、美濃に入らしむ、黒田長政、秀秋の老臣平岡頼勝に説き、東軍に應ぜしむ、
                是日、徳川家康の將井伊直政・本多忠勝、頼勝等に誓書を與ふ

慶長5年 9月14日  萩市史   合戦の前日、吉川広家は毛利軍と徳川軍の単独講和図ろうとして、黒田長政に連絡した。
               その結果、家康の武将、井伊直政と本田忠勝は 吉川広家と福原広俊に対し、血判の起請
               文を出して次の三カ条を誓約した。
               【毛利家安堵の空起請文】*これを信じた吉川、小早川の関ケ原の裏切りで毛利家は
                           防長二国に押し込められ、恨みは明治維新の原動力となった。

       毛利家文書   起請文の事
        井伊本多連署起請文

     一、輝元に対し、聊か以て内府(家康)御如在有る間敷く候事
     一、御両人別て内府に対せられ御忠節の上は、以来、内府御如在存ぜられ間敷候事
     一、御忠節相究め候ば、内府直の墨付、輝元へ取り候て進ずべきの事
      付り、御分国の事、申すに及ばず只今の如く相違有る間敷き事
       右の三ケ条、両人請取り申し候事、若偽り申すに於ては、忝くも、梵天釈天、四大天王、
       惣じて日本国中大小神祇、別て八幡大菩薩、熊野三所権現、賀茂・春日・北野天満
       大自在天神・愛宕大権現御罰を蒙るべき者也、仍て起請文件の如し

      慶長五年九月十四日               本多中務大輔 忠勝  血判
                             井伊兵部少輔 直政  血判
      吉川侍従(広家)殿
      福原式部少輔(広俊)殿


慶長5年 9月14日  大日本史料  是より先、西軍、京極高次を近江大津城に圍む、豐臣秀吉の後室杉原氏(高臺院)・
                豐臣秀頼の生母淺井氏(淀殿)・紀伊金剛峯寺應其(興山)等の勸めに依り、是日、
                高次、城を致して、山城宇治に退く、尋で、關ヶ原の戰捷を聞き、薙髪して、高野山
                に入る、
慶長5年 9月14日  山口県史整理年表  東西両軍関ケ原に陣す。広家、和議を講ぜんとして東軍に策す
                  【吉川家文書・家譜】
慶長5年 9月14日  赤穂資料   家康は偽情報(一気に大坂城を攻める)を三成に流す

慶長5年 9月14日  赤穂資料   三成は大垣城を出て関ヶ原へ対陣する
慶長5年 9月14日  赤穂資料   秀秋は高宮より突如松尾山に進軍する
慶長5年 9月14日  伊予中世年表  ○毛利輝元、吉川広家の画策により、毛利家不戦の書状を家康に送り、これに対し
                 家康合戦後の本領安堵の書状到達した。*(これは立場が逆)
慶長5年     周防大島町誌  ○村上元吉 伊予加藤嘉明が徳川方として出征した留守を狙って城明け渡しの交渉を
                成立させる。(*建前は戦いではなく朱印状による城明け渡しの儀である。)

慶長5年 9月15日  伊予中世年表  ○関が原の合戦始まる
慶長5年 9月15日  山口県史整理年表  関ケ原の役。西軍敗る 【近衛家文書】
慶長5年 9月15日  大日本史料   長宗我部盛親・長束正家・安國寺惠瓊等、美濃南宮山に陣す、關ヶ原の敗戰を聞き、
                 敗走す、惠瓊、毛利秀元の軍に屬し、密に京都に入る、
慶長5年 9月15日  大日本史料  是より先、大友吉統、殘兵五百餘人と豐後立石の險に據る、黒田如水(孝高)、老臣
            母里友信をして、義統に説きて降らしむ、是日、 義統、降る、如水、之を居城豐前中津に送る

慶長5年 9月15日  大野家譜上田本  ○大野直昌男直清、小早川秀秋の陣営にあり。同年秀秋断滅後帰郷する。

慶長5年 9月15日  藩史大辞典   ○関が原の合戦。吉川広家 家康と和を講ず。

慶長5年 9月16日  北畠正統譜図  ○村上元吉 卒、戒名、相玄寺殿實翁宗真居士。
慶長5年   大龍寺大野是水覚書  ○掃部頭村上元吉 卒、戒名、實翁宗真。

慶長5年 9月16日  村上系譜(東大) 村上元吉は伊予三津浜で戦死する。

      元吉一同予州三津忠死之面々

    一朝智入信士   馬場 六太夫
    千山智億信士   團 與一
     大観了圓信士   大塚 大炊助
     越山智州信士   番匠 式部
     高山忠海信士   馬場 九郎右衛門
     山翁道海信士   和智 孫兵衛
    天嵓吹心信士   大島 傳兵衛
     宗圓利心信士   村上 宗四郎
     寛山元花信士   高橋 半右衛門

慶長5年 9月16日  大日本史料  黒田如水(孝高)豐後實相寺山の營を撤し、松井康之等と、康之の守城同國杵築に入る
慶長5年 9月16日  大日本史料  豐前中津の黒田長政の父同如水(孝高)、藤堂高虎に、豐後の戰状を告げ、且、男長政
                の爲めに宇喜多秀家の地を請ひ、 加藤清正と共に豐後・豐前を與へられんことを求む

慶長5年 9月17日  大日本史料  徳川家康、福島正則・黒田長政をして、大阪城に在る毛利輝元に、陽に本領安堵の旨を
                告げしむ、輝元、之を喜ぶ

慶長5年 9月17日  周防大島町誌  ○村上元吉、伊予古三津の民家で夜、佃十成の一味に襲われあい果てる。壽48歳
慶長5年 9月17日  小松邑史   ○平岡善兵衛(直房)は荏原城に立て篭もり、19日久米村如来寺に出張して加藤勢と
                 戦い、黒田九兵衛飛松兵助らを打取り、河野家再興を図ったが加藤氏の軍に敗れた。
慶長5年 9月17日  萩藩曽根家譜  平岡善平衛直房の舅、曽根高房は正木城で討死する。

慶長5年 9月18日  大日本史料  徳川家康、近江八幡山に著す、福島正則・黒田長政に、毛利氏の處分、小早川秀秋に
                備前を與ふること、安國寺惠瓊を生捕ること、 及び大坂に進軍すべきこと等を指令す
                  (*小早川秀秋に家康は裏切りの恩賞を与える。)

慶長5年 9月18日  大日本史料  豐前中津の黒田長政の父同如水(孝高)、熊谷直盛の居城豐後安岐を降し、尋で、垣見
               一直の居城同國富來を圍み、之を諭降し、老臣栗山利安をして、毛利高政の佐伯・角牟
               禮・日隈の三城を攻略せしむ、

慶長5年 9月19日  大日本史料  小早川秀秋、入京し、豐臣秀吉後室杉原氏(高臺院)を、准后勸修寺氏の御所に訪ふ
慶長5年 9月20日  大日本史料  徳川秀忠、黒田長政に答へ、其勞を謝す

慶長5年 9月20日  高縄神社由緒

 慶長庚子之秋 加藤左厩喜明濃州関原在陣之時旧主前兵部侍郎養息河野太郎率 完戸 村上 曽根 能島 己下一族
(正岡重陳 書出) 押渡興居島攻撃松前城 此時當社累代之祠官前吏部侍郎馳加南郷平岡一揆雖立篭荏原城 被曳智
 姓 頻発之運當 手終敗績矣 吏退蟄新宮頗為要害干敗九月廿日夜至人定松前翔将中嶋某 天与日記云真前軍将佃次郎兵
 衛率数百騎攻来 放火新宮折説魔風飛瓦礫余焰散干八方総社凡七十末社神蔵神部政所坊舎十二院 商民数百悉為灰燼矣

 【 水里ソ洄録】
 「慶長五年ノ秋 當国松前ノ城主加藤佐馬助殿関ヶ原在陣也 茲ニ前ノ屋形河野兵部大夫通直ノ
 養息河野太郎殿 実芸州宍戸安芸守ノ男子 此ノ虚ニ乗ジテ討入ル 完戸 村上 曽根 能島
 己下一族兵船数船ニ取乗テ當国興居島ニ押渡ル 又、當国普代ノ一族所々ヨリ一揆与力シテ
 本意ヲ遂ント評定ス 中ニモ平岡孫右衛門尉兄弟 久米 浮穴両郡ノ諸牢人ヲ相催シ荏原城ニ楯籠リ
 此時 正岡式部大夫 并 横山城主南彦四郎通具 共ニ軍慮ヲ尽シ戦カヲ励スト云ドモ終ニ素意ヲ
 開事不能 式部大夫ハ退テ新宮ノ館ニ蟄ス 
 同九月廿日ノ夜 人定ノ頃松前ヨリ佃次郎兵衛ト云人 数百人押来リ新宮ニ放火シ一時ニ攻崩ス
 式部罪ヲ難遁終ニ白刃ニ伏メ落命ス 此時ニ至リテ数代相伝ノ神宝什物皆灰燼ト成テ失タリ
 弟出雲守モ鉄砲傷ヲ蒙リ 其ノ弟 正岡孫右衛門 相助テ遊退 當国大洲御家中ニ鈴木忠右衛門ト申ス
 伯父アリシヲ相頼リ 暫ク郡内ト申ト所ニ蟄居ス 其後新宮氏人御社建立ノ時 出雲守罷帰職事可勤トアリシカ
 共ニ公儀ヲ憚リ殊ニ病身ナレバ弟孫右衛門ヲ神職トシ 再 宮内村ニ帰参シ若狭守ト名ヲ改ラル
 出雲守は慶長十年二月當郡小川村ヘ帰リ 暫ク 外父玉井四郎左衛門ト云人ノ方ニ住シ
 其後 河野善応寺村ヘ隠居セラル」

慶長5年    筑前大野家文書  大野直生、豊後の陣(千石原の戦い)で大友義統の侍大将小田原鑑信とその家臣を打
                ち捕えた功により五百石を賜る。

慶長5年    黒田御用記    大野直生の弟、直成(氏重)は浪人以後禅門の姿になり豊前に趣き黒田孝高の連歌の
                相手となり千石原の戦いの功により七百石を賜う。

慶長5年 9月22日  大日本史料  毛利輝元、徳川氏との和成り、其本領を安堵せしめられしを喜び、井伊直政・本多忠勝
                及び福島正則・黒田長政に誓書を致し、大坂城西丸を去らんことを告ぐ
                【江氏家譜・黒田文書】
慶長5年 9月22日  山口県史整理年表  輝元、家康と和す。ついで大阪城を出でて伏見木津に移る 【江氏家譜】
慶長5年 9月23日  大日本史料  徳川家康、池田照政(輝政)・福島正則・黒田長政・淺野幸長等をして、大坂城西丸を
                收めしむ

慶長5年 9月23日  大日本史料  所司代奥平信昌の兵、安國寺惠瓊を京都に捕ふ、
慶長5年 9月23日  大日本史料  豐前中津の黒田長政の父同如水(孝高)、肥後隈本の加藤清正と謀りて、共に立花親成
               (宗茂)の筑後柳河城を攻めんことを約す

慶長5年 9月23日  黒田三藩分限帳
       【慶長七年所役人知行割 同九年知行書附、筑前国御拝領諸役人知行割、長政公御代慶長七壬寅年迄】

      能島衆   弐百五拾石   庄林 七平衛
            百五拾石   賀藤 孫四郎
            百六十石   宮田 與次平衛
           百六拾弐石   浦上 駒之助
            百六十石   賀藤 源三郎
           百七拾六石   野間 源一郎
           百七拾四石   野間 又 六
         百五拾九石五斗   西 三郎左衛門
           百四拾五石   林 助次郎
           百壱石五斗   野間 彦右衛門
           百七十四石   下嶋 次郎太夫
           百六拾弐石   高瀬 又右衛門
           百六拾弐石   野間 五兵衛
           百参拾五石   松田 源右衛門
           百参拾五石   浦上 新兵衛
           百参拾五石   青木 理兵衛
           百参拾五石   磯村 市兵衛
           百石六斗    久田 鶴松  (弥左衛門倅也)
        八拾五石五斗壱合   山田 彦三郎
          九十四石五斗   浦上 勝七

       右能島衆慶長五庚子九月十三日豊後佐賀関飛久浦ニテ
       薩摩船二艘火打取ル働ニ同九月二十三日加増也

慶長5年 9月26日  大日本史料  是より先、豐前中津の黒田長政の父同如水(孝高)、豐後竹田の中川秀成の、大友吉統
                に黨せしを徳川家康に訴ふ、秀成、太田一吉の同國 臼杵城を攻めて疑を解かんとし、
                是日、大坂に在る中川重祐等を召還す
慶長5年 9月28日  大日本史料  徳川家康、豐前中津の黒田長政の父同如水(孝高)の軍功を褒し、又、肥前平戸の松浦
                宗静(鎭信)・同國大村の大村喜前の西軍に應ぜざりしを褒す

慶長5年 9月28日  大日本史料  是より先、豐前中津の黒田長政の父同如水(孝高)、豐後杵築の守將松井康之・肥後隈
                本の加藤清正に、美濃關ヶ原の戰捷を報じ、共に毛利輝元の分國を攻めんことを勸む、
                是日、清正、之を辭す、明日、清正、更に之に答へ、毛利輝元の徳川氏に降り、筑後
                柳河の立花親成(宗茂)等の大坂より歸國せしを告ぐ

慶長5年 9月  分限帳給人行衛覚書  ○村上武吉・元武 大野直政・是水親子竹原崩れで退き上関深浦の浜で翌年正月まで
                  待機した。

慶長5年 10月  山口県史整理年表  輝元、隠退薙髪し宗端と称す。秀就幼少のため、なお国政を聴く 【毛利家文書】
慶長5年 10月1日  大日本史料  徳川家康、石田三成・小西行長・安國寺惠瓊を京都六條河原に斬り、長束正家の首級を
                併せて三條橋に梟す

慶長5年 10月5日  大日本史料  徳川家康、豐前中津の黒田長政の父同如水(孝高)の、大友吉統を捕へし、戰功を褒す
慶長5年 10月6日  大日本史料  豐前中津の黒田長政の父同如水(孝高)、同國小倉の毛利吉成の屬城香春嶽を降し、
                是日、小倉城に逼る、吉成、城を致す

慶長5年 10月10日  山口県史整理年表  輝元父子家康より改めて周防長門両国を受領す 【毛利家文書】
慶長5年 10月10日  藩史大辞典    ○毛利輝元・秀就親子、周防、長門両国を受領する。

慶長5年 10月20日  大日本史料  是より先、肥前佐賀の鍋島直茂・勝茂父子、毛利秀包の筑後久留米城を收め、立花
                親成(宗茂)の邑同國城島に陣し、是日、親成の將小野鎭幸等と、同國江上に戰ひて
                之を破る、尋で、豐前中津の黒田長政の父同如水(孝高)・肥後隈本の加藤清正、
                親成をして、城を致さしむ、

慶長5年 11月2日  山口県史整理年表  秀元を長府(高三万六千二百石)、広家を岩国(高三万石余)に分封す。その他
                  一門以下諸士に知行を配付す 【検地帳石高書抜】

慶長5年 11月12日  藩史大辞典  ○秀元を長府に、吉川広家を周防国玖珂郡・大島郡の内にて三万余石を受領。
慶長5年 11月3日   小松邑史   宇野又八郎は加藤嘉明より先の河野残党が芸州衆と組み正木で蜂起した時、加藤勢に
                 組みしたことの感状を貰う。
慶長5年 11月17日  大日本史料  黒田長政、大坂を發し、其封筑前に入り、名島に鎭す
慶長5年 11月    大日本史料  筑前名島の黒田長政の父同如水(孝高)、大友吉統を從へて大坂に至り、徳川家康に
                謁す

慶長5年 12月23日  大日本史料  是より先、黒田長政、其封筑前に入る、是日、島津維新(義弘)に、徳川家康の老臣
                井伊直政に頼り、罪を家康に謝せんことを勸む

慶長5年 12月   藩史大辞典  ○萩藩、防長両国を検地し、石高二九万八四八〇石余となる。

慶長5年 12月  周防大島町誌  ○関が原の戦い後、村上武吉一族は上関深浦で越年し、翌6年屋代島安下庄に
                上陸する。
慶長5年 12月  山口県史整理年表  兼重元続・蔵田就貞、防長両国の石高を検す。総高二十九万八千四百八十石二斗
                  三合 【検地帳石高書抜】

慶長5年 忠    赤穂資料     関ヶ原の戦いによる改易91大名440万石(浪人が11万人発生)

慶長5年 忠    赤穂資料     関ヶ原戦後、浅野長政の子・幸長は和歌山37万6000石相続
慶長5年     大日本史料    徳川家康、豐臣秀吉の後室杉原氏(高臺院)に河内の地一萬六千石を與ふ、


西暦1601年
慶長6年 忠    赤穂資料     徳川家康は浅野長重に下野真岡藩2万石を与える
慶長6年 忠    赤穂資料     関ヶ原の戦功により、福島正則は、広島50万石に移る。

慶長6年    山口県史整理年表  諸士の知行高を従来の五分の一に定め功あるものは増し、罪あるものは減ず
                【考証論断】
慶長6年    伊予中世年表   ○関が原の戦いの時、能島・因島村上氏は加藤嘉明の松前城を攻めたが壊滅的な敗戦と
                なり能島村上は屋代島に移る
慶長6年    伊予中世年表   ○因島村上は三原を去り長州に移った。

慶長6年   伊予中世年表   ○久留島(村上・来島)康親は関が原の戦いで西軍であったが東軍に移ったため、
                豊後国玖珠郡森に転封される。
慶長6年    東和町史    ○毛利藩は船手組を再編成し浦景継を組頭に命じ上関・室津を与え上関と下松が根拠地と
               なった。
慶長6年   大龍寺由緒書(兼助版) ○能島村上菩提寺「海印寺」を大島郡内ノ入村今の元正寺(付箋良禅院)屋敷に
                  移し寺領20石武吉寄付する。

慶長6年 正月  屋代今元系譜  ◎大野直政その他一族は村上元吉の子元武(5歳)をつれ安下庄に着く。武吉は元正寺の
                所に住む。

慶長6年 2月14日  山口県史整理年表  毛利輝元、三上元安に安芸備後両国、和智勝久に備中の既収租米返弁の事務を
                   命ず 【考証論断】
慶長6年 3月11日  大日本史料   筑前名島の黒田長政、同國筥崎八幡宮をして、社領を安堵せしむ

慶長6年 3月26日  萩藩閥閲録巻4  小早川秀包、赤間関にて35歳で卒 大寧寺に葬る

慶長6年 3月   周防大島町誌   ○村上武吉、屋代村、島末、浅内(光市浅江か?)の千五百石の知行を受け和田に
                  居を構えた。
慶長6年 3月  分限帳給人行衛覚書 ○村上武吉、屋代村、島末、浅内(光市浅江か?)の千五百石の知行の内、
                 (返納分五百石除き)を受け和田に居を構えた。

慶長6年 5月25日  大日本史料  是より先、豐前中津の長岡忠興、筑前名島の黒田長政と其舊封豐前の年貢に就きて相論
                し、徳川家康に訴ふ、土佐浦戸の山内一豐・攝津茨木の片桐且元の調停に依り、忠興・
                長政、和解す、是日、忠興、家康に謁し、尋で、歸國す、

慶長6年     大日本史料   筑前名島の黒田長政、同國福崎に城き、福岡城と稱す、

慶長6年 6月  藩史大辞典  ○吉川広家、京都から玖珂郡由宇村へ着、横山・川西・錦見に家中屋敷割、錦見に
               町割をなす。
慶長6年 7月19日  山口県史整理年表  山口町長谷川恵休の勤功を賞し町屋敷表十間の地を与う 【考証論断】
慶長6年 8月    山口県史整理年表  広家京都よりはじめて玖珂郡由宇村に入る 【吉川家文書・家譜】

慶長6年 9月   分限帳給人行衛覚書  ○村上武吉家老 東右近出奔 代わりに大濱内記が家老に昇格する。

慶長6年 10月  山口県史整理年表  吉川氏、横山・錦見・川西に家中屋敷割を行い錦見に町家の地割を行う
                 【岩邑年代記】
慶長6年 10月22日  山口県史整理年表  秀就、伏見を発し江戸に至り芝天徳寺に仮寓す 【草舎年表】
慶長6年 11月22日  山口県史整理年表  輝元、徳川氏の優招を斥け節義を守りたるをもって、益田元祥に千石の地を
                   加増す 【考証論断】
慶長6年 閏11月27日  山口県史整理年表  輝元関ケ原の役以来節義を守りたるを賞し、岩室坊勢祐に千石の地を与う
                    【考証論断】

西暦1602年
慶長7年 忠      赤穂資料     浅野長重の子・長重は松平家清の娘(家康の養女)と結婚
慶長7年 春     山口県史整理年表  広家岩国横山に居館を普請す 【藩中譜家古文書纂】
慶長7年      山口県史整理年表  広家岩国入城 【岩邑年代記】
慶長7年      毛利家系譜     ○毛利日向守就隆 山城国伏見で誕生。
慶長7年     山口県史整理年表  秀元長府雄山城(松崎)を築いてこれに移る 【長府毛利家乗】
慶長7年     山口県史整理年表  長府藩、府中において松明・くわえ煙管・煙草の裸火を禁止す

慶長7年 正月   天徳寺文書     加藤嘉明 勝山へ城(松山城)築城を開始する。
慶長7年 1月    大日本史料     筑前福岡の黒田長政の父同如水(孝高)、茶堂の條規を定む
慶長7年 1月29日  山口県史整理年表  福島家への租米返還ほぼ成る 【考証論断】
慶長7年 6月   心斎橋今昔年表    「伏見城」は、家康により復旧工事が始まる
慶長7年 6月1日  山口県史整理年表  輝元伏見城の修理を助役、益田元祥を普請奉行とす。吉川広家等もまた助役す
                  【考証論断】

慶長7年 10月18日  山口県史整理年表  小早川秀秋死す。二三。嗣子なく家断絶す 【草舎年表】
慶長7年       日本全史     ○小早川家嗣子なく断絶する。

慶長7年      伊予中世年表   ○加藤嘉明 松山城の建設を始める。

慶長7年      大野家譜上田本  ○大野直昌男直清(直綱)、藤堂高虎と対面し上川村の村主となる。

慶長7年  大龍寺由緒書(兼助版)  ○能島村上菩提寺内入の「海印寺」を武吉祖父村上山城守隆勝戒名大龍寺殿智山
                  元榮大居士に因み「海印山大龍寺」と改名す。

西暦1603年
慶長8年   天徳寺文書   ○河野家衰退により荒廃した多幸山天徳寺を加藤嘉明により再興。「江西山 天徳寺」と
              山号改名する。中興開山は臨在宗東海派南源薫和尚。
慶長8年    天徳寺文書   慶長8年冬至の日、妙心寺龍泉庵にて「南山霞抄」を輯録
慶長8年   山口県史整理年表  岩国領在方年貢法を定む 【岩邑年代記】
慶長8年   山口県史整理年表  広家岩国横山々上に城を築く 【岩邑年代記】

慶長8年   福岡県史   井上周防之房は黒崎城を築き、地名を黒崎とする。【黒崎誕生】

慶長8年   ウイキ  慶長8年(1603年)加藤嘉明は本拠地を正木から勝山に移し、これを機に地名を松山と改名した。

慶長8年 忠 2月  赤穂資料     徳川家康(62歳)は征夷大将軍に就任しました
慶長8年 2月   心斎橋今昔年表  江戸幕府が伏見で開かれる
慶長8年 5月7日  山口県史整理年表  輝元参勤し芝天徳寺の仮寓に入る 【考証論断】
慶長8年 5月23日  山口県史整理年表  輝元江戸を発し六月九日伏見に帰着す 【考証論断】
慶長8年 7月   心斎橋今昔年表  徳川秀忠の子、千姫(7歳)が秀頼(11歳)に嫁ぐ
慶長8年 8月6日  山口県史整理年表  幕府より江戸桜田の邸地を受領、この日新邸成り毛利秀就芝天徳寺よりこれに移る
                  【考証論断】

慶長8年 8月15日  山口県史整理年表  二宮俊実死す。八五
慶長8年 8月21日  山口県史整理年表  輝元、家康より帰国築城の命を受く 【考証論断】
慶長8年 9月21日  山口県史整理年表  輝元、伏見を発し帰国の途につく。十月四日海路小郡に着し、ついで山口糸米の
                  覚皇寺に仮寓す 【江氏家譜】

慶長8年 10月   天徳寺文書    加藤嘉明 正木・湯築両城を移築して松山城を造り同城に移った。城を松山と名付け
                 これより地名を松山と言う

慶長8年 10月18日  山口県史整理年表  毛利宗休に命じその領邑熊毛郡三丘に城を築かしむ 【考証論断】

大伴姓 屋代島大野家 関連年譜(AD1594年~1597年)

2023年01月14日 11時20分32秒 | 大伴姓屋代島大野家 関連年譜
西暦1594年
文禄3年 1月1日  大日本史料  秀吉、大坂城に、秀次、聚樂亭に、各諸將の賀を受く
文禄2年 1月3日  大日本史料  秀吉、大坂城を拾丸(秀頼)に與へんとし、山城伏見に城く、是日、佐久間政實等を普請
               奉行と爲し、諸將をして、工を助けしむ
文禄3年 1月3日  大日本史料  秀吉、朝鮮在陣の松浦宗静(鎭信)をして出征中の者及び留守居の者を誌して報告せしむ
文禄3年 1月16日  大日本史料  秀吉、明との和議の輙く成らざるに依り、朝鮮在陣の諸將をして、交代せしめ、守備を
               嚴にせしめ、目附を遣すこと、兵粮を送ること等を令す、

文禄3年 1月17日  大日本史料  秀吉、加藤貞泰に美濃厚見郡等四萬石の地を宛行ふ、
文禄3年 1月20日  大日本史料  是より先、明遊撃沈惟敬、慶尚道熊川に小西行長に會し、秀吉の降表無くば、封貢を許
               さざるべきを告ぐ、仍りて、相議して、之を假作す、是日、惟敬、之を持ちて遼東に向ふ 
文禄3年 1月21日  大日本史料  秀吉の側室京極氏、大坂城西丸に移り、西丸殿と稱す
文禄3年 1月25日  大日本史料  是より先、秀吉、諸將をして、船舶を造らしむ、是日、薩摩鹿兒島の島津龍伯(義久)
               をして、其建造せる十艘を青木一矩・寺澤正成に渡さしむ

文禄3年 1月27日  大日本史料  秀吉、慶尚道熊川の島津義弘をして、守備を嚴にし、来年に備へ、敵の半弓に對し、
               半切楯を準備せしむ
文禄3年 1月27日  大日本史料  徳川家康、江戸城を修築せんとす、秀吉の山城伏見城の普請に依り、之を止む
文禄3年 1月28日  大日本史料  秀吉、美濃部四郎三郎を遣して、松浦宗静(鎭信)の朝鮮在陣の勞を犒ひ、速に兵粮を
               送るべきこと等を告ぐ
文禄3年 1月28日  大日本史料  秀吉、島津義弘に小袖を與へ、朝鮮在陣の勞を犒ふ
文禄3年 1月28日  大日本史料  秀次、大坂に赴き、秀吉に見ゆ

文禄3年 2月5日  大日本史料  豐前中津の黒田長政の父同如水(孝高)、朝鮮に病むに依り、秀次、之を慰問す、尋で、
               醫師を遣す
文禄3年 2月6日  大日本史料  明副總兵劉綎等、秀吉の求むるは通婚・割地の兩件にして、沈惟敬の持参せる表文は偽作
               なるを、朝鮮王李昖に馳報す
文禄3年 2月13日  大日本史料  秀吉室北政所杉原氏等、山城伏見城山里の茶亭に花を觀る
文禄3年 2月14日  大日本史料  秀吉、山城伏見城に入る
文禄3年 2月16日  大日本史料  秀次、秀吉に山城伏見城に見ゆ

文禄3年 2月20日  大日本史料  秀吉、加藤茂勝(嘉明)に朝鮮の戦功を賞し、淡路岩屋の地を加増す、又、茂勝
              (嘉明)を藏入分同國岩屋の地を加増す、又、茂勝(嘉明)を藏入分同國岩屋の代官と爲す
文禄3年 2月21日  大日本史料  秀吉、秀次を山城伏見城山里の茶亭に招き、茶會を興行す、又、秀吉、大坂に歸り、
               秀次、聚樂亭に歸る、
文禄3年 2月27日  大日本史料  秀吉、秀次と花を大和吉野に觀て、吉水院に館す、公家衆・諸將、之に從う
文禄3年 2月30日  大日本史料  秀吉、肥前平戸の松浦宗静(鎭信)の朝鮮在陣の勞を犒ひ、警固を嚴にせしむ

文禄3年 2月    大日本史料  秀吉、下總古河の足利頼氏をして、兄國朝の遺跡を相續せしむ
文禄3年 3月2日  大日本史料  秀吉、大和吉野より紀伊高野山に、秀次、羽柴秀保の大和郡山城に向ふ
文禄3年 3月3日  大日本史料  秀吉、紀伊金剛峯寺に詣す、明日、大政所(天瑞院)の位牌所に法會を修し、青巖寺に
               館す、尋で、能を興行す、
文禄3年 3月6日  大日本史料  秀吉、大坂城に歸る、
文禄3年 3月7日  大日本史料  秀吉、山城伏見城の普請を始めしむ
文禄3年 3月15日  大日本史料  秀吉、大坂城に能を興行し、新曲五番を演ず、

文禄3年 3月17日  大日本史料  秀吉、山城伏見城の普請に臨む
文禄3年 3月18日  大日本史料  秀吉、側室蒲生氏(三條局)の能衣裳を贈りしを謝し、近く参會すべき旨を告ぐ
文禄3年 3月19日  大日本史料  薩摩鹿兒島の島津忠恆、山城伏見に至りて、秀吉に謁す、尋で、秀次に聚樂亭に謁す
文禄3年 3月20日  大日本史料  秀吉、山城淀城を毀たしむ
文禄3年 3月20日  大日本史料  秀吉、側室蒲生氏(三條局)に、速に山城伏見城に迎ふべきことを告ぐ
文禄3年 3月21日  大日本史料  秀吉、伊藤丹後守に播磨山國村等を、水原龜介に丹波の替地として、播磨妙樂寺村の地
               を宛行ふ、

文禄3年 3月22日  大日本史料  秀次、秀吉に虎頭を進む、
文禄3年 3月28日  大日本史料  秀吉、茶屋四郎二郎・龜屋榮任を菓子奉行と爲す
文禄2年 3月  心斎橋今昔年表  秀吉は、伏見城に移住
文禄3年 4月1日  大日本史料   秀吉、山城伏見城より京都の施藥院全宗の亭に臨む
文禄3年 4月3日  大日本史料   秀吉、蒲生氏郷の邑陸奥會津・耶麻等十郡の地を檢地せしむ
文禄3年 4月8日  大日本史料   秀吉、加賀金澤の前田利家の京都の亭に臨む、能あり
文禄3年 4月11日  大日本史料   秀吉、参内して、能を興行す、

文禄3年 4月14日  大日本史料  秀吉、陸奥會津の蒲生氏郷のの山城伏見の亭に臨む
文禄3年 4月15日  大日本史料  秀吉の奏請に依り、前左大臣近衞信輔(信尹)を薩摩に遷す、
文禄3年 4月17日  大日本史料  秀吉、大坂の銀吹二十人を改定す
文禄3年 4月20日  大日本史料  秀吉、備前岡山の宇喜多秀家の山城伏見の亭に臨む
文禄3年 4月22日  大日本史料  秀吉の側室京極氏(西丸殿)、攝津有馬に湯治す
文禄3年 4月27日  大日本史料  秀次、大坂城に秀吉に謁す
文禄3年 4月29日  大日本史料  秀吉、攝津有馬に湯治す
文禄3年 4月30日  大日本史料  慶尚道西生浦の加藤清正、秀吉に、朝鮮の状況を報ず

文禄3年 4月    大日本史料  秀吉、諸寺をして、其宗派の學問を勵精せしめ、女犯・肉食等の破戒は住持長老・弟子
               同宿をして、互に監視せしむ、
文禄3年 4月    大日本史料  徳川家康の家臣永井直勝を、右近大夫に任じ、從五位下に敍す、秀吉、之に豐臣氏を授く
文禄3年 5月1日  大日本史料  秀吉、前豐後府内の大友吉統等の罪科を、宇喜多秀家等朝鮮在陣の諸將に告ぐ
文禄3年 5月1日  大日本史料  秀吉、島津義弘の朝鮮在陣の勞を犒ふ
文禄3年 5月1日  大日本史料  朝鮮釜山の天野一正、秀吉に衣服を予減られ死を社史、近況を方図秀吉、肥前平戸の松浦
               宗静(鎭信)をして、秀吉に衣服を予減られ死を近況を方図鮮より逃れ歸り、或は之を
               蔵匿する者を捕へ、殺さしむ、

文禄3年 5月12日  大日本史料  秀吉、攝津有馬より大坂に歸る
文禄3年 6月1日  大日本史料   秀吉、今井兵部を藏入分攝津闕郡我孫子村等の代官と爲す
文禄3年 6月2日  大日本史料   秀吉、山城伏見城の普請奉行徳川家康の將松平家忠の勞を賞す
文禄3年 6月2日  大日本史料   秀吉、島津義弘に馬を與へて、朝鮮在陣の勞を犒ふ、
文禄3年 6月3日  大日本史料   秀吉、山城伏見城の普請を視る
文禄3年 6月5日  大日本史料   秀吉、小出吉政に播磨の地二萬餘石を宛行ふ
文禄3年 6月7日  大日本史料   秀吉、子拾丸(秀頼)に答へ、速に山城伏見より大坂に歸り、面子を土産に與ふべき
                旨を述ぶ

文禄3年 6月12日  大日本史料  是より先、秀吉、薩摩鹿兒島の島津龍伯(義久)をして、明國に通信せしむ、是日、
                明王朱翊鈞、答書を送る、
文禄3年 6月18日  大日本史料  秀吉、大坂に歸る
文禄3年 7月3日  大日本史料  秀吉、山城伏見城の普請を視る
文禄3年 7月16日  大日本史料  秀吉の近臣石田三成、薩摩の檢地奉行に條規を與ふ、
文禄3年 7月20日  大日本史料  和泉堺の商人菜屋助右衞門、呂宗より歸り、唐傘・麝香・眞壺等を秀吉に進む

文禄3年 7月22日  大日本史料  秀吉、大政所(天瑞院)三囘忌の爲めに塔を東寺に建つ
文禄3年 8月5日  大日本史料  秀吉、千人斬十六人を捕へ、之を處刑す
文禄3年 8月5日  大日本史料  是より先、秀吉、新に朝鮮出兵の軍役を、百石に五人と定む、是日、朝鮮在陣の島津
              義弘、其人數の未だ渡海せざることを、石田三成に告ぐ
文禄3年 8月10日  大日本史料  秀吉、伊木忠次をして山城伏見城作事入用米を三河吉田の池田照政(輝政)に渡さしむ
文禄3年 8月21日  大日本史料  秀吉、相國寺承兌(西笑)をして、豊臣氏の爲めに山城伏見に寺(豊光寺)を建立せし
               めんとし、諸大名をして、之に勸進せしむ、

文禄3年 8月23日  大日本史料  秀吉、聚樂亭に行かんとし、之を延引す
文禄3年 8月23日  大日本史料  是より先、秀吉、山城伏見城内に瀧の座敷を作る、是日、大和多聞山の不用の古塔を同
               城に移建せんとし、同國郡山の羽柴秀保をして、其工を督せしむ
文禄3年 8月24日  大日本史料  秀吉、巨盗を捕へ、是日、之を三條河原に刑す、
文禄3年 8月25日  大日本史料  是より先、秀吉、薩摩鹿兒島の島津忠恆の、父義弘の軍に朝鮮に從はんとするを許す、
               是日、忠恆、肥前名護屋に出陣す、
文禄3年 9月9日  大日本史料  秀次、山城伏見に至る、又、秀吉、徳川家康の伏見の亭に臨む

文禄3年 9月14日  大日本史料  秀吉、奉行石田三成をして、薩摩・大隅・日向を檢地せしむ
文禄3年 9月18日  大日本史料  秀吉、山城伏見城瀧の座敷に茶會を催す、
文禄3年 9月21日  大日本史料  是より先、秀吉、伊勢を檢地す、是日、同國多気・渡會二郡の地を大神宮に寄進し、
               同國の地を徳川家康・遠江掛川の山内一豊等に宛行ふ、
文禄3年 9月23日  大日本史料  秀吉、朝鮮釜山の島津義弘をして、守備を嚴にせしむ
文禄3年 9月    大日本史料  秀吉、安藝廣島の毛利輝元の養子秀元を朝鮮より召還し、故羽柴秀長の女をして、
               之に嫁せしむ
文禄3年 秋     大日本史料  山城伏見城竣り、秀吉、之に移る、

文禄2年 10月6日  上蔵院過去帳
           ○河野通直母、春松院殿天遊永寿(春禅院没、永寿大方) 完戸(宍戸)喜左衛門建立。

文禄3年 10月13日  大日本史料  秀吉の近臣増田長盛、正直屋宗與に攝津兵庫の地子錢及び諸座公事錢の算用状を與ふ
文禄3年 10月17日  大日本史料  是より先、秀吉、片桐直倫(旦元)をして、攝津を檢地せしめ、是日、諸社寺に地を
                寄進し、伊東長實等に地を加増す
文禄3年 10月18日  大日本史料  秀次、秀吉室北政所を聚樂亭に饗す
文禄3年 10月20日  大日本史料  秀吉、聚樂亭に臨む、徳川家康等之に從ふ
文禄3年 10月28日  大日本史料  秀吉、越後春日山の上杉景勝の京都の亭に臨む
文禄3年 10月30日  大日本史料  秀吉、常陸水戸の佐竹義宣の京都の亭に臨む

文禄3年 10月    大日本史料  秀吉、加賀金澤の前田利家をして、宇治川に堤防を築かしむ、
文禄3年 10月    大日本史料  秀吉、奉行石田三成をして、常陸を檢地せしむ、
文禄3年 11月1日  大日本史料  是より先、秀吉、相國寺承兌(西笑)をして、山城伏見城中に方丈を建てしむ、是日、
               石川光吉をして、藏入分近江の地の代官同國觀音寺に檜木を渡付せしむ
文禄3年 11月1日  大日本史料  小西行長、加藤清正の示せる講和の條件は、秀吉の意にあらざることを、慶尚道右兵使
               金應瑞に告ぐ
文禄3年 11月11日  大日本史料  秀吉、肥前平戸の松浦宗静(鎭信)の父同道可(隆信)の、孔雀を進めしを謝す
文禄3年 11月13日  大日本史料  是より先、秀吉、猶子羽柴秀俊を小早川隆景の嗣子と爲す、是日、秀俊、備後三原城
                に入る、
文禄3年 11月16日  大日本史料  是より先、秀吉、伊勢を檢地す、是日、同國宮川以内の地は檢地せざる旨を宇治惣中・
                山田惣中・大湊惣中に告ぐ
文禄3年 11月17日  大日本史料  秀吉、朝鮮唐島(巨濟島)の島津忠豐の、名鷹を進めしを謝す、

文禄3年 11月25日  大日本史料  秀吉、徳川家康の山城伏見の亭に臨む、
文禄3年 11月30日  大日本史料  秀吉、入京す、徳川家康、之に從ふ
文禄3年 11月    大日本史料  秀吉、攝津善福寺等に米を寄進するに依り、織田常眞(信雄)、之を同寺に告ぐ、
文禄3年 12月2日  大日本史料  是より先、秀吉、片桐直倫(旦元)をして、河内を檢地せしめ、是日、末吉勘兵衞を同
               國の藏入分代官と爲す、又北條氏規等に同國の地を宛行ひ、譽田八幡宮等に地を寄進す、
文禄3年 12月3日  大日本史料  秀吉、伊勢安濃津の大寶院に、同國一志郡の地を寄進す

文禄3年 12月4日  大日本史料  秀吉、吉川廣家の、鷹を朝鮮より進めしを謝す、
文禄3年 12月10日  大日本史料  秀吉、藏入分攝津有馬湯山の代官同國善福寺に年貢等を督徴す
文禄3年 12月11日  大日本史料  秀吉の奉行石田三成・長束正家・増田長盛、若狭組屋甚四郎に、京都にて賣却せる
                呂宋壺七箇の代金の請取状を與ふ、
文禄3年 12月20日  大日本史料  是より先、秀吉の子拾丸(秀頼)、大坂城より山城伏見城に移る、是日、秀吉の近臣
                木下吉隆、之等を朝鮮在陣の吉川廣家に報ず

文禄3年 12月20日  大日本史料  明王朱翊鈞、重ねて、小西行長の將内藤如安を引見し、又、諸臣をして、秀吉の出兵の
                名目等十一事を詰問せしむ、尋で、秀吉を日本國王に封ずるの議を定め、李宗城を册封
                日本正使と爲す
文禄3年 12月21日  大日本史料  秀吉、朝鮮在陣の吉川廣家の勞を犒ひ、速に兵粮船數艘を遣すべきこと、明後年は
                出兵すべきことを告ぐ、
文禄3年 12月25日  大日本史料  秀吉、朝鮮在陣の島津義弘及び吉川廣家をして、養生の爲め、鹽漬の虎肉を送らしむ、
文禄3年 12月26日  大日本史料  秀吉、朝鮮釜山の島津義弘の物を進めて、歳暮を賀せるを謝す、
文禄3年 12月27日  大日本史料  秀吉、徳川家康の女(北條氏直後室)をして三河吉田の池田照政(輝政)に嫁せしむ、

文禄3年    心斎橋今昔年表  大坂城の外周惣構が完成 (延長308町=約13㎞)

        北は大川(旧淀川) 東は猫間川(平野川) 西は東横堀川を開削、南は空堀を開削し外周を形成。
         (現、大阪城敷地の3倍) 
        この大工事は、遠近諸国から無類の石材や木材が舟で次々と運ばれ、段取りが悪いと、所領没収の
        厳罰が下されるので大名は必死で、付近の水上には、遠路から何日もかけ運んだ1000艘の運搬船が
        ひしめき合い、巨石を川に落としてしまう事もありました

文禄3年             秀吉、諸國を檢地せしむ、

文禄3年      伊予中山町誌   (一) 太閤検地

      中山町の現在の大字にあたる江戸時代の村は、太閤検地による村切りによって確定した。豊臣秀吉の検地
       はそれまでの戦国大名や織田信長が実施した指出検地とは根本的に違っており、指出検地が土地台帳の提出
       だけで済んだのに対して、土地の測量を実際に行う(直接検地)点が最大の相違点であった。

       太閤検地の基準は、秀吉による日本統一が進行するにつれて整備され、文禄三年(一五九四)には、
       ほぼその大綱ができあがった。その概要は次のとおりである。

       ①間竿の統一………一間=六尺三寸とした
        ②一反は三百歩……従来は一反=三百六十歩
       ③桝の統一…………不統一であった桝を京桝に統一
        ④検地帳記載基準…検地帳に記載する地目を田・畑・屋敷の三種類とし、地位は上・中・下・下々
                  耕作者(年貢負担者)を記載
       ⑤石盛の実施………土地の生産力を査定、石高表示
       ⑥村切りの実施……太閤検地の特色。村境を確定

      村の規模は集落の実態に合わせたから極端に大きな村があるかと思えば、非常に小さな村もあった

文禄3年      大日本史料  秀吉、耶蘇教徒數人を京都・大坂に捕へて、肥前長崎に送り、之を刑す
文禄3年     大日本史料  比律賓諸島長官の使節、山城伏見城に秀吉に謁し、答書を呈す

西暦1595年
文禄4年      心斎橋今昔年表  伏見大地震により伏見城が崩壊、再普請を開始
文禄4年 1月3日  大日本史料  秀吉、甲斐府中の淺野長繼(幸長)等の普請奉行をして、信濃・甲斐・上野の人數を徴
                し、上野草津温泉に座所を建てしむ
文禄4年 1月7日  大日本史料  伊賀上野の筒井定次、山城伏見城に至り、秀吉に歳首を賀し、尋で、秀次に聚樂亭に謁す
文禄4年 1月14日  大日本史料  秀吉、日向飫肥の伊東祐兵の、朝鮮にて狩獲せる虎を進めしを謝す

文禄4年 1月16日  大日本史料  秀吉、朝鮮在陣の吉川廣家に、肥前唐津の寺澤正成の報告に依り、本年は出撃せざるこ
                と、兵粮三萬石を送りしこと等を告げ、城邊を耕し、兵粮に充てしむ
文禄4年 1月20日  大日本史料  秀吉、伊勢員辨郡の地五千石を瀧川雄利に加増す、
文禄4年 1月28日  大日本史料  秀吉、美濃部四郎三郎・山城小才次を朝鮮に遣し、毛利元康の在陣の勞を犒ふ
文禄4年 2月1日  大日本史料  大阪城中盗あり、秀吉の金子を盗む、
文禄4年 2月2日  大日本史料  秀吉、陸奥會津の蒲生氏郷の進めし桑木の鐵子を、叡覽に供す

文禄4年 2月8日  大日本史料  秀吉、蒲生秀隆(秀行)をして、亡父氏郷の封を襲がしめ、老臣を誡飾し、上杉景勝・
               佐竹義宣・最上義光・伊達政宗に命じ、秀行を輔けしむ、秀次も亦、秀隆をして、
               其封を安堵せしむ、
文禄4年 2月14日  大日本史料  鍋島勝茂を信濃守と爲し、從五位下に敍す、秀吉、之に豊臣姓を授け、其父肥前佐賀の
                同直茂に亭地を山城伏見に與ふ、
文禄4年 2月14日  大日本史料  日向飫肥の伊東祐兵、朝鮮に於て虎を狩獲す、尋で、之を秀吉に進む、
文禄4年 2月16日  大日本史料  秀吉、大坂より山城伏見城に入る
文禄4年 2月16日  大日本史料  山中長俊、秀吉の命を吉川廣家に傳へ、朝鮮在陣の勞を犒ひ、來年は援軍を出すべきこ
                と等を告ぐ、

文禄4年 2月24日  大日本史料  秀吉、茶屋四郎次郎に公事錢の皆濟状を與ふ
文禄4年 2月27日  大日本史料  秀吉の、御衣下賜を請ふを聽す
文禄4年 2月27日  大日本史料  秀吉、子拾丸(秀頼)に敍爵せられんことを奏請す、
文禄4年 2月28日  大日本史料  秀吉、富田一白(知信)に知行二萬石を加増す
文禄4年 3月2日  大日本史料  秀吉・拾丸(秀頼)父子に、太刀・馬を賜ひ、山城伏見移徙を賀せしめらる、明日、
               公家衆、秀吉に之を賀す、
文禄4年 3月6日  大日本史料  秀吉、加賀金澤の前田利家に近江高島郡の地を加増す

文禄4年 3月7日  大日本史料  秀吉、入京し、前田利家の亭に臨む、尋で、又、之に臨む
文禄4年 3月8日  大日本史料  秀吉、聚樂亭に臨む
文禄4年 3月10日  大日本史料  秀吉、般舟三昧院に地を京都に與へ、山城伏見より之に移らしむ
文禄4年 3月10日  大日本史料  是より先、秀吉、養生の爲め虎肉を朝鮮在陣の諸將に徴す、是日、島津義弘、慶尚道
                昌原に狩し、二虎を獲て鹽漬し、之を進む、尋で、秀吉、義弘を褒し、虎狩を停む、
文禄4年 3月17日  大日本史料  秀吉、参内せんとし、雨天に依り中止す、
文禄4年 3月25日  大日本史料  秀吉、山城伏見より京都に入る

文禄4年 3月27日  大日本史料  秀吉、参内して、太刀・白鳥及び綿を獻ず
文禄4年 3月28日  大日本史料  秀吉、徳川家康の京都の亭に臨む
文禄4年 4月3日  大日本史料  秀吉、因幡鹿野の龜井茲矩をして、伯耆日野山の銀を採掘し運上せしむ
文禄4年 4月6日  大日本史料  秀吉、大坂城に能を張行す
文禄4年 4月8日  大日本史料  秀吉、子拾丸(秀頼)病むに依り、大坂より山城伏見城に入る
文禄4年 4月12日  大日本史料  秀吉、薩摩の檢地終るに依り、島津義弘をして、朝鮮唐島(巨濟島)より歸國せしめ、
                其子忠恆をして、唐島を守らしむ

文禄4年 4月19日  大日本史料  秀吉、信濃飯田の京極高知に四萬石を加増す
文禄4年 4月21日  大日本史料  秀吉、山城伏見より大坂に歸る
文禄4年 4月22日  大日本史料  秀吉、吉川廣家の、慶尚道釜山より豹を進めしを褒す
文禄4年 4月26日  大日本史料  秀吉、薩摩出水郡の地一萬石を、對馬府中の宗義智に加増す
文禄4年 4月28日  大日本史料  明の遊撃沈惟敬等、慶尚道釜山に小西行長に會す、行長、明の朝服を著して之を迎へ、
                諸將と議して、秀吉に謁し、撤兵の令を請はんとし、尋で、歸國す
文禄4年 4月    大日本史料  秀吉、畿内及び近江・美濃に、櫻樹を徴し、山城伏見及び向島に移植し、京都土居の
                枯竹を、其柵に宛てしむ

文禄4年 5月1日  大日本史料  秀吉、吉川廣家に帷を與へ、朝鮮在陣の勞を犒ふ、尋で、秀吉、廣家の端午節供の祝儀物
               を贈れるを謝す
文禄4年 5月5日  大日本史料  秀吉、象戯馬の王將を改めて、大將と爲さんことを請ふ
文禄4年 5月5日  大日本史料  秀吉、判金小判座二十七名を定め、其條規を下す
文禄4年 5月12日  大日本史料  秀吉の藏入分近江の地の代官石田三成、同國上平寺をして、寺領を安堵せしめ、
                山林の竹木伐採を禁ず
文禄4年 5月19日  大日本史料  秀吉、其使者美濃部四郎三郎等、朝鮮より歸國するに依り、慶尚道釜山の吉川廣家・
                毛利元康の在陣の勞を犒ひ、藏米を新米と交換せしむ

文禄4年 5月20日  大日本史料  秀吉・秀次、江戸の徳川家康に答へ、後會を約す
文禄4年 5月21日  大日本史料  秀次、山城伏見の亭に能を張る、秀吉及び北政所杉原氏、之に臨む
文禄4年 5月22日  大日本史料  秀吉、小西行長・大谷吉繼等に、重ねて、明との和議七箇條を示す、又、明及び朝鮮と
                の和親成らんとするに依り、朝鮮在陣の諸將に處置を命ず
文禄4年 5月24日  大日本史料  秀吉、伊豫今治の福島正則等を城米奉行と爲し、慶尚道釜山に遣す、仍りて、吉川廣家
                をして、其命に從ひ、古米を入換へしむ
文禄4年 5月29日  大日本史料  秀吉、甲斐府中の淺野長吉(長政)・長繼(幸長)父子をして、蒲生秀隆(秀行)の居
                城陸奥會津の若松等七城を殘し、邑内の諸城を破却せしむ

文禄4年 6月2日  大日本史料  秀吉、日向佐土原の島津豊久の朝鮮在陣の勞を犒ひ、道服等を與ふ
文禄4年 6月3日  大日本史料  是より先、秀吉、陸奥會津の蒲生秀隆(秀行)の呈出せる知行目録等を疑ひ、秀隆を近江
               二萬石に移さんとす、是日、秀吉、越後春日山の上杉景勝・安藝廣島の毛利輝元の意見を
               徴す

文禄4年 6月6日  村上図書家文書  小早川隆景書状

(山口県文書館)  (押紙)(朱書) 「文禄四年 才次郎、号元武ト」(元吉嫡男)

(宮窪町誌)    若子誕生誠珎重候、於吾等大慶之至候、仍為御祝儀、太刀一腰金覆輪
         馬一匹令進之候 長久可申談之条、本望候、猶使者可申述候、恐惶謹言
          六月六日    隆景 (花押)
         村上掃部守(元吉)殿 御宿所

        (奥ウハ書) 「小早川左衛門佐 隆景
                       村上掃部頭殿  御宿所 」

          注 ①巻子仕立てで、「毛利家小早川家より御書」と題簽が付されている。

文禄4年 6月8日  大日本史料  秀吉、近江水口の増田長盛を大和に移し、郡山城を與ふ、又長束正家に近江水口を與ふ
文禄4年 6月18日  大日本史料  加賀金澤の前田利家、秀吉の不興を受けし、甲斐府中の淺野長繼(幸長)を能登津向に
                置かんとし、三輪藤兵衞をして、其準備を爲さしむ
文禄4年 6月19日  大日本史料  秀吉、常陸を檢地し、同國水戸の佐竹義宣に五十四萬五千八百石の朱印状を與ふ、
文禄4年 6月19日  大日本史料  秀吉、新庄東玉齋(直忠)に伊勢安濃郡の地を加増す、又、故羽柴秀保の近臣藤堂高虎
                を藏入分伊豫宇和郡の代官と爲す
文禄4年 6月29日  大日本史料  秀吉、薩摩・大隅及び日向諸縣郡を檢地し、是日、五十五萬九千石餘を島津義弘に與
                ふ、又、其十萬石を兄同龍伯(義久)の藏入分と爲し、日向都城等八萬石を伊集院幸侃
               (忠棟)に、一萬石を島津以久に與ふ

文禄4年 6月    大日本史料  朝鮮禮曹司李榮春・尹起辛等、書を秀吉に呈し、加藤清正の恩を謝し、其生祠を設けん
                ことを告ぐ、秀吉、其書を清正の朝鮮西生浦の陣に遺り、之を褒す
文禄4年 7月  心斎橋今昔年表  秀次を高野山に追放し自殺。諸大名に血判起請文を提出させる
文禄4年 7月3日  大日本史料  是より先、秀次、其行跡修まらず、石田三成、秀吉に讒講して謀反と爲す、是日、秀吉、
               三成・増田長盛等を聚樂亭に遣し、之を詰問す、
文禄4年 7月5日  大日本史料  安藝廣島の毛利輝元、秀次に進めし誓書案文を秀吉に呈す
文禄4年 7月6日  大日本史料  秀吉、山城龍安寺に地を寄進す

文禄4年 7月8日  大日本史料  秀吉、前田玄以等を聚樂亭に遣し、秀次を山城伏見に召致し、木下大膳亮の亭に留め、
               其關白、左大臣の官職を褫ひ、紀伊高野山に逐ふ
文禄4年 7月10日  大日本史料  秀吉、朝鮮在陣の吉川廣家・島津忠恆・立花親成(宗茂)に、秀次のことを告げ、動揺
                することなからしむ
文禄4年 7月11日 大日本史料  秀吉、秀次の子女・妻妾を移して所司代前田玄以の丹波龜山城に錮す
文禄4年 7月12日 大日本史料  秀吉、所司代前田玄以をして、秀次の、謀反を企つるに依り、紀伊高野山に放ちしことを
               奏せしむ

文禄4年 7月12日  大日本史料  秀吉、駿河府中の中村一氏を同國に於ける藏入分代官と爲す
文禄4年 7月12日  大日本史料  石田三成・増田長盛、秀吉の子拾丸(秀頼)に忠誠を誓ふ
文禄4年 7月13日  大日本史料  蒲生秀隆(秀行)、始めて陸奥會津城に入る、淺野長吉(長政)、秀吉の命に依り同行
                す、尋で、長吉、京都に歸る
文禄4年 7月15日  大日本史料  秀吉、福島正則・福原直高・池田秀氏を紀伊高野山に遣し、秀次をして、自殺せしむ
文禄4年 7月15日  大日本史料  秀吉、但馬出石の前野長康・長重父子・渡瀬重詮・服部春安・一柳右近將監等を捕へ、
                尋で、之を殺す、

文禄4年 7月15日  大日本史料  秀吉、富田一白(知信)を伊勢安濃津城に封じ、五萬石を與へ、内二萬石を子信高に
                給せしむ
文禄4年 7月15日  大日本史料  秀吉、遠江掛川の山内一豐に同國の地八千石、同國府中の中村一氏に五千石、讃岐高松
                の生駒近規に五千石を加増す
文禄4年 7月20日  大日本史料  秀吉、加賀金澤の前田利家を拾丸(秀頼)の傅と爲す、是日、利家、誓約す
文禄4年 7月21日  大日本史料  秀吉、伊豫松前の加藤茂勝(嘉明)に伊豫の地を與へ、同國の藏入分代官と爲す
文禄4年 7月22日  大日本史料  是より先、秀吉、高田小兵衞を紀伊高野山に遣し、故羽柴秀保の近臣藤堂高虎をして、
                再び出仕せしむ、尋で、生駒近規をして之を諭さしめ、伊豫板島七萬石を與ふ

文禄4年 7月24日  大日本史料  徳川家康、秀吉の報に依り、山城伏見に著す
文禄4年 7月25日  大日本史料  秀吉、奏請して、右大臣菊亭晴季を越後に流す
文禄4年 7月29日  大日本史料  秀吉、故豊臣秀次の子女・妻妾を丹波龜山城より移して、美濃松木の徳永壽昌の京都の
                亭に錮す
文禄4年 7月    大日本史料  石田三成、故豊臣秀次のことに就きて、丹後宮津の長岡忠興を秀吉に讒誣す、忠興の
                老臣松井康之、徳川家康に頼り、其難を免る
文禄4年 7月    大日本史料  石田三成、甲斐府中の淺野長繼(幸長)を秀吉に讒誣し、殺さんとす、秀吉、前田利家
               の諌に依り、之を能登津向に謫す

文禄4年 7月    大日本史料  秀吉、出羽山形の最上義光を京都の亭に錮す、又、伊達政宗、陸奥岩手山より上京し、
               大坂の施樂院全宗の亭に入り、命を待つ
文禄4年 7月    大日本史料  徳川家康・毛利輝元・小早川隆景、秀吉・拾丸(秀頼)父子に異心なきを誓ふ
文禄4年 8月2日  大日本史料  秀吉、故豊臣秀次の子女・妻妾三十餘人を京都三條磧に殺さしむ
文禄4年 8月2日  赤穂市資料  関白豊臣秀次謀反事件に連座して、浅野長政失脚
文禄4年 8月2日  大日本史料  秀吉、法度六條を定む、明日、九條を追加す、
文禄4年 8月3日  大日本史料  秀吉、播磨龍野の小出吉政に、前野長康の遺領但馬の地五萬三千石餘を加増す、明日、
               寺西正勝等に美濃の地等を加増す、

文禄4年 8月3日  大日本史料  秀吉、尾張小松寺等をして、寺領を安堵せしむ
文禄4年 8月3日  大日本史料  秀吉の奉行長束正家・増田長盛・前田玄以、藏入分の算用等につきて私曲なき旨を誓ふ
文禄4年 8月7日  大日本史料  秀吉、近臣片桐直倫(且元)等に所領を加増す
文禄4年 8月8日  大日本史料  秀吉、尾張津島社等に同國東野村の地等を寄進し、伊勢松坂の古田重勝等に尾張の地
               を宛行ふ
文禄4年 8月8日  大日本史料  秀吉、三河岡崎の田中吉政等に同國西尾三萬石等を加増す
文禄4年 8月8日  大日本史料  秀吉、近江朽木の朽木元綱に、同國高島郡の地九千石餘を加増す

文禄4年 8月8日  大日本史料  秀吉の奉行石田三成・増田長盛・長束正家・前田玄以、故豊臣秀次の、雀部淡路の妻子に
               與へし金子三枚を、紀伊金剛峯寺應其(興山)より請取る、
文禄4年 8月17日  大日本史料  秀吉、木下家定に播磨姫路二萬五千石を與へ、片桐直倫(且元)等に地を加増す
文禄4年 8月17日  大日本史料  是より先、秀吉、増田長盛に大和郡山城を與ふ、是日、秀吉、同國の檢地を行ふ
文禄4年 8月21日  大日本史料  秀吉、播磨を檢地し、其他を大隅帖佐の島津義弘に加増し、又、薩摩・大隅に於ける
                其將士の所領を入換へしむ
文禄4年 8月21日  大日本史料  秀吉、豊前中津の黒田長政の父如水(孝高)に播磨の地を加増す、又、同國斑鳩寺をし
                て、寺領を安堵せしむ

文禄4年 8月22日  大日本史料  秀吉、山城伏見城に入る、明日、家康、京都より伏見に行く
文禄4年 8月24日  大日本史料  是より先、秀吉、故豊臣秀次のことに就き、所司代前田玄以等を大坂に遣し、伊達政宗
                を詰問せしめ、之を流し、子秀宗をして嗣がしめんとす、其讒言に依るを知り、其罪を
                赦す、是日、政宗の老臣、誓書を呈出す
文禄4年 8月24日  大日本史料  秀吉、子拾丸(秀頼)の傳前田利家に越中新川郡を加増し、故豊臣秀次の山城伏見亭を
                與ふ、是日、利家、之に移る
文禄4年 8月26日  大日本史料  秀吉、尾張犬山の石川光吉をして、山城伏見川端の長屋の用材を、大坂に於て今井兵部
                に渡付せしむ

文禄4年 8月28日  大日本史料  秀吉、肥前平戸の松浦宗静(鎭信)の朝鮮在陣の勞を犒ふ
文禄4年 8月    大日本史料  秀吉、聚樂亭を毀つ
文禄4年 8月    大日本史料  秀吉、有馬豊氏に遠江横須賀三萬石を與ふ
文禄4年 8月    大日本史料  秀吉、石田三成を近江佐和山に封ず
文禄4年 9月8日  大日本史料  秀吉、紀伊高野山の大塔を造營す
文禄4年 9月8日  大日本史料  伊達政宗、秀吉に山城伏見に謁す

文禄4年 9月15日  大日本史料  土佐浦戸の長宗我部元親、同國を檢地す
               【山内家所藏土佐國土佐之郡大高坂外新塩田御檢地帳】
文禄4年 9月17日  大日本史料  秀吉、故浅井長政の女達子をして、徳川秀忠に嫁せしむ
文禄4年 9月21日  大日本史料  秀吉、聖護院道澄を山城方廣寺大佛殿住持と爲し、寺領一萬石を寄進す
文禄4年 9月22日  大日本史料  是より先、秀吉、大和を檢地す、是日、興福寺等に寺領目録等を與ふ
文禄4年 9月22日  大日本史料  秀吉、片桐貞隆に尾張の替地として、伊勢一志郡の地を宛行ふ、

文禄4年 9月23日  大日本史料  秀吉、日向佐土原の島津忠豐の朝鮮在陣の勞を犒ひ、守備を嚴にせしむ
文禄4年 9月24日  大日本史料  是より先、秀吉、日蓮宗門徒をして、山城方廣寺大佛殿の法會に出仕せしむ、山城
                妙覺寺日奥、出仕を肯ぜず、是日、所司代前田玄以、日蓮宗の諸寺に出仕を督促す
文禄4年 9月25日  大日本史料  秀吉、父母の法會を山城方廣寺大佛殿經堂に修す
文禄4年 10月2日  大日本史料  秀吉、山城青蓮院・大覺寺・龍安寺・泉涌寺・三千院・京都相國寺に丹波に於ける寺領
                の替地を寄進す、

文禄4年 10月2日  屋代島大野系譜  大野直秀、こと、隆直没(於筑前黒崎)。
                       【屋代島大野系譜】・・・・・→筑前黒崎発生は慶長8年以降

文禄4年     筑前大野家文書  ○大野直吉【村上】嫡子生直は小早川秀秋が隆景の後を襲った時、生直兄弟は豊前
                 中津に至り黒田孝高に仕える。黒田氏筑前入国に伴い御牧郡則松村に移住する。

文禄4年 10月2日  大日本史料  秀吉、前關白一條内基等に知行目録を與ふ
文禄4年 10月5日  大日本史料  秀吉、玄澄を伊勢龍光寺住持と爲す
文禄4年 10月8日  大日本史料  是より先、秀吉、伊豫今治の福島正則を故豊臣秀次の藏入分尾張清須に移す、是日、
                正則、大神宮に地を寄進す、
文禄4年 10月15日  大日本史料  吉川廣家、朝鮮より歸り、秀吉に山城伏見城に謁す、尋で、出雲富田に歸る、
文禄4年 10月20日  大日本史料  秀吉、養女備前岡山の宇喜多秀家室羽柴氏の病むに依り、山城稲荷社社人をして、
                野狐を祈禳せしむ

文禄4年 10月25日  大日本史料  是より先、秀吉の養女備前岡山の宇喜多秀家室羽柴氏の病む、是日、秀吉の請に
                依り、内侍所に御神樂を奏す
文禄4年 10月28日  大日本史料  秀吉、近江朽木の朽木元綱を同國高島郡の藏入分代官と爲す
文禄4年 11月2日   大日本史料  秀吉、新庄東玉齋(直忠)に近江栗太郡の地を加増す
文禄4年 11月2日   大日本史料  秀吉、山城伏見より京都に入る、徳川家康、之に從ふ
文禄4年 11月8日   大日本史料  秀吉、病むに依り参内を止め、山城伏見に歸る
文禄4年 11月17日   大日本史料  清凉殿に不動法を修して、秀吉の病平癒を祈らしめらる、又、諸社をして、
                 祈禳せしめらる

文禄4年 11月17日  大日本史料  秀吉、近江三井寺を破毀せんとす
文禄4年 11月26日  大日本史料  内侍所に御神樂を奏し、秀吉の病平癒を祈らしめらる
文禄4年 11月28日  大日本史料  秀吉、權大納言中山親綱の丹波の所領の替地として、扶持米を給す
文禄4年 11月28日  大日本史料  安藝廣島の毛利輝元、家臣兒玉元兼の、貞宗・正宗の脇差を秀吉に進めしを賞し、
                知行百石を加増す
文禄4年 12月1日  大日本史料  秀吉、筑前を檢地し、是日、五萬石餘を小早川隆景等に與ふ、又、筥崎八幡宮等に地を
                寄進す
文禄4年 12月1日  大日本史料  秀吉、筑後を檢地し、是日、筑紫廣門等に同國上妻郡の地等を宛行ふ

文禄4年 12月1日  大日本史料  秀吉、肥前を檢地し、是日、鍋島直茂に知行目録を與ふ
文禄4年 12月6日  大日本史料  明の遊撃沈惟敬、良馬二百餘頭を秀吉に贈らんとし、之を肥前名護屋に輸送す
文禄4年 12月10日  大日本史料  秀吉の奏請に依り、丹羽長重を参議に任じ、從三位に敍す、秀吉、長重をして、
                加賀松任より同國小松に移らしむ、
文禄4年 12月18日  大日本史料  秀吉、山城伏見より大坂城に入る
文禄4年 12月20日  大日本史料  秀吉、肥前平戸の松浦宗静(鎭信)の朝鮮在陣の勞を犒ふ

文禄4年 12月22日  大日本史料  秀吉の病に依り、安藝廣島の毛利輝元の養子秀元、奏請して、御神樂を内侍所に奏す
文禄4年      大日本史料  秀吉、近江八幡山の京極高次を同國大津城主と爲す
文禄4年       大日本史料  秀吉、桑山重晴に和泉の地一萬石を加増す
文禄4年       大日本史料  秀吉、大和新庄直頼を攝津高槻城に移す
文禄4年      伊予中世年表  ○加藤嘉明,正木(松前)城主として伊予に入部。
文禄5年 1月2日    大日本史料  秀吉、山城伏見城の拾丸(秀頼)の、爪刀を進めて歳首を賀せしに答ふ

西暦1596年
慶長元年 * 1月3日  大日本史料  是より先、對馬府中の宗義智の家臣柳川調信、朝鮮に至りて、小西行長に、速に明使の
                渡海のこと、朝鮮王子等の來りて謝せんことを 求むる秀吉の命を告ぐ、是日、行長・
                明の遊撃沈惟敬、慶尚道釜山を發して、肥前名護屋に向ふ
慶長元年 * 1月14日  大日本史料  是より先、秀吉、島津氏の所領を檢地し、其家臣の知行地を入換ふ、是日、朝鮮在陣
                の島津忠恆、本國の伊集院久治をして動揺することなからしむ、尋で、又、東郷重虎・
                喜入忠政等にも之を告ぐ

慶長元年 * 1月16日  大日本史料  秀吉、安藝廣島の毛利輝元・備後三原の小早川隆景、出雲富田の吉川廣家及び東國の
                諸大名に課して、淀川の堤を築かしむ、
慶長元年 * 1月16日  大日本史料  秀吉、唐島(巨濟島)の島津忠恆に小袖を與へて、朝鮮在陣の勞を犒ふ
慶長元年 * 1月23日  大日本史料  秀吉の奉行長束正家・石田三成・増田長盛・前田玄以、秀吉の子拾丸(秀頼)に
                 忠誠を誓ふ
慶長元年 * 1月29日  大日本史料  秀吉、千僧會を山城方廣寺大佛殿に修す
慶長元年 * 2月10日  大日本史料  陸奥岩手山の伊達政宗、秀吉に大坂城に謁す
慶長元年 * 2月14日  大日本史料  秀吉、大坂城に病む、是日、山城伏見城に移る

慶長元年 * 2月24日  大日本史料  秀吉、遠江光明寺に同國二俣山東の地を寄進す
慶長元年 * 2月    大日本史料  秀吉、諸大名に課して、山城伏見の向島に伏見城の支城を築く
慶長元年 * 2月    大日本史料  秀吉、明の使節を迎へんとし、諸大名をして、武者揃の準備を爲さしむ

慶長元年 * 3月2日  大野家聞書  ○大野内蔵介 立石尾首 元服す。忠左衛門と云う。直昌没後は立石村に住居す、
                母は禅智院。

慶長元年 * 3月11日  大日本史料 秀吉、志賀小左衞門に豊後太井莊の地を宛行ふ
慶長元年 * 3月11日  山口県史整理年表  輝元、防府国分寺仁王門を重建す 【毛利氏四代実録】
慶長元年 * 3月21日  山口県史整理年表  輝元、飯田元種に厚狭郡厚東村内の地を与え、その賦役七端帆一艘と定め、
                   この日検地認証せしむ 【毛利氏四代実録】
慶長元年 * 3月23日  山口県史整理年表  輝元、三浦元氏領地安堵の評判を与う 【毛利氏四代実録】

慶長元年 * 4月7日   大日本史料  秀吉、大坂城より山城伏見城に歸る
慶長元年 * 4月23日  大日本史料  秀吉、尾張瑞泉寺に地を寄進し、諸役を免除す
慶長元年 * 4月27日  大日本史料 秀吉、土佐浦戸の長宗我部元親の山城伏見の亭に臨む【成就院文書】
慶長元年 * 4月29日  大日本史料  秀吉、前左大臣近衞信輔(信尹)・前右大臣菊亭晴季を赦されんことを奏請す
慶長元年 * 4月    大日本史料  陸奥岩手山の伊達政宗の子同兵五郎を侍從に任じ、從五位下に敍す、秀吉、之に偏諱
                を與へ秀宗と稱せしむ
慶長元年 * 5月6日  大日本史料  秀吉、京都に入る、尋で、拾丸(秀頼)、上京す

慶長元年 * 5月13日  大日本史料  秀吉、拾丸(秀頼)と共に参内す、徳川家康・前田利家等、之に從ふ
慶長元年 * 5月15日  大日本史料  秀吉、能を興行し、叡覽に供す、尋で、秀吉・拾丸(秀頼)、山城伏見に歸る
慶長元年 * 5月15日  大日本史料  秀吉、河野藤左衞門尉等をして、尾張國中に地に鳥を捕獲し、進上せしむ
慶長元年 * 5月25日  大日本史料  勅使を山城伏見城に遣して、秀吉に歳首を賀せしめらる、公家衆・諸大名等、
                秀吉に之を賀す
慶長元年 * 5月28日  大日本史料  秀吉、朝鮮在陣の諸將を召還せんとす、是日、之を中止す
慶長元年 * 6月8日   大日本史料  秀吉、山城伏見城に能を興行す、庶人の見物を許す

慶長元年 * 6月27日  大日本史料  明の册封日本副使沈惟敬、山城伏見城に、秀吉に謁す、尋で、大坂に歸る
慶長元年 * 7月5日  大日本史料  秀吉、明の册封日本正使楊方亨に武者揃を觀せしめんとし、諸大名に其準備を命ず
慶長元年 * 7月20日  山口県史整理年表  輝元禁誡十一ヵ条を頒布す。また僕従進退の処置三事を令す
                   【毛利氏四代実録】
慶長元年 * 7月25日  大日本史料  秀吉・徳川家康、上京す、尋で、山城伏見に歸る
慶長元年 * 7月27日  大日本史料  秀吉、寺西正勝に上山城の地を、加藤茂勝(嘉明)に河内の地等を加増す、

文禄5年 7月28日  小早川隆景書簡   河野通直母、永寿の葬儀の模様

     宮原大方殿御菩提の爲、竹原下の村に於て貳町四段の新開の事、彼の御家來衆去る春普請し築調せられ、
     則ち當寺へ寄進に候、榮壽(河野通直母)御遺物の餘り、殘りて裁判候と雖も其の志神妙に候、然る間永代
     のほか綺無く公役無きニ長生寺領に爲すべくの條、大方・通直親子の御弔い彌々御馳走肝要に候

慶長元年 * 7月29日   大日本史料  秀吉、伊勢專修寺に同國一身田村の地を寄進す
慶長元年 * 閏7月11日  大日本史料  秀吉、徳川秀忠の山城伏見の亭に臨む、徳川家康、之に會す
慶長元年 * 閏7月13日  大日本史料  徳川家康、秀吉を省す
慶長元年 * 閏7月13日  大日本史料  是より先、肥後隈本の加藤清正、秀吉の譴を蒙り、山城伏見の亭に屏居す、是日、
                  地震に依り、清正、馳せて秀吉に候す、明日、秀吉、清正を赦す
慶長元年 * 閏7月14日  大日本史料  秀吉、明の册封使に示さんとする武者揃を中止す

慶長元年 * 閏7月14日  大日本史料  山城伏見の支城向島、築城中に破壊す、是日、秀吉、更に地を木幡山に卜す
慶長元年 * 閏7月22日  大日本史料  是より先、甲斐府中の淺野長繼(幸長)、謫せられて能登に在り、是日、秀吉、
                 之を赦す
慶長元年 * 閏7月28日  大日本史料   秀吉、金春安照に大和坊城村を加増し五百石を給す
慶長元年 * 8月8日  山口県史整理年表  輝元、井原元以に備後・安芸・周防において千百石を知行せしむ
                  【毛利氏四代実録】
慶長元年 * 8月9日    大日本史料   秀吉、大坂城修築の大工三百人を安藝廣島の毛利輝元に課す
慶長元年 * 8月20日    大日本史料  秀吉、徳川家康の山城伏見の亭に臨む

慶長元年 * 8月27日  大日本史料   秀吉、石川備後に、山城伏見城普請の人夫の食米を給す
慶長元年 * 8月29日  大日本史料   明の册封日本正使楊邦亨、朝鮮通信使黄愼等、大坂に著す、秀吉、對馬府中の宗義
                 智の老臣柳川調信をして、黄愼等を責めしめ、明使と共に見るを許さず
慶長元年 * 9月1日  大日本史料   秀吉、明の册封日本正使楊邦亨・副使沈惟敬を大坂城に引見し、誥命・勅諭・金印・
                 冠服を受く、明日、秀吉、册封使を饗し、相國寺承兌(西笑)をして、誥勅を読まし
                 む、秀吉、明の違約を怒り、册封使を追還し、徳川家康等の諌止を郤けて、朝鮮出兵
                 を決す、

慶長元年 * 9月2日  山口県史整理年表  秀吉、明使楊万亭・沈惟敬と会見す。輝元・小早川秀秋・吉川広家等列席す。
                   和議破る 【毛利氏四代実録】
慶長元年 * 9月6日   大日本史料  是より先、西班牙商船サン・フェリペ號、土佐浦戸に漂著す、秀吉、貨物を大坂に輸
                 漕せしむ、是日、浦戸の長宗我部元親の子同盛親、之を令す、 尋で、秀吉の奉行
              増田長盛、阿波・淡路・紀伊等の諸浦に令し、輸漕船を造る人夫等を供給せしむ【蠧簡集】

慶長元年 * 9月7日  大日本史料  秀吉、肥前佐賀の鍋島直茂に朝鮮より歸國を命ず
慶長元年 * 9月7日  大日本史料  秀吉、出雲富田の吉川廣家を、伯耆日野銀山の代官と爲す
慶長元年 * 9月7日  大日本史料  秀吉、奉行増田長盛をして、明の册封日本正使楊方亨等に金銀等を贈らしむ
慶長元年 * 9月9日  山口県史整理年表  輝元沿海の令十二条を発布す。降松・赤間関等に官船の用に供する水手を定め、
                   玖珂郡・熊毛郡・都濃郡・佐波郡等近郷より、藤・藁・竹を出さしむ。
                   また都濃郡黒髪山の伐木を禁ず 【毛利氏四代実録】

慶長元年 * 9月10日  大日本史料  秀吉、朝鮮唐島(巨濟島)の島津忠恆をして、慶尚道の四城に儲蓄せし兵粮を諸軍に
                分配せしむ
慶長元年 * 9月13日  大日本史料  是より先、秀吉、諸將に朝鮮出陣を命ず、是日、唐島(巨濟島)の島津忠恆、父同
                義弘の渡海を待ちて歸國せんとす
慶長元年 * 9月15日  大日本史料  前左大臣近衞信輔(信尹)、秀吉の奏請に依り、勅勘を赦され、薩摩より京都に
                歸る、
慶長元年 * 9月28日  山口県史整理年表  朝鮮再征に決し、軍装をなさしむ 【毛利氏四代実録】

慶長元年 * 9月    大日本史料  大隅富隈の島津龍伯(義久)、琉球王尚寧に秀吉の病を報じ、益、進物を致さんこと
                を命ず
慶長元年 * 10月1日  大日本史料  秀吉、山城妙法院に知行目録を與ふ
慶長元年 * 10月10日  大日本史料  秀吉、近江園城寺の僧の、勘當人の家財を隠匿せしものを追放す
慶長元年 * 10月    大日本史料  秀吉、山城木幡山の工事を巡視し、紙衣を諸大名に與へ、伊達政宗には彩飾の衣を
                 與ふ、政宗、秀吉に船一艘を進む、

慶長 10月27日  改元・出典「毛詩」 けいちょう・天災改元による(後陽成天皇-20年間)【勘申者 菅原為経】

慶長元年 11月11日  大日本史料  秀吉の奉行増田長盛・長束正家・石田三成・前田玄以、肥後に於ける秀吉の藏入分代官
                加藤清正に去年分の年貢を督徴す、
慶長元年 11月15日  大日本史料  秀吉、耶蘇教徒を處刑す、尋で、之を肥前長崎に送り磔殺す
慶長元年 11月    大日本史料  秀吉、大坂城に移る
慶長元年 12月3日  大日本史料  秀吉、延暦寺に地を寄進す
慶長元年 12月10日  大日本史料  秀吉、西班牙商船の舶載せし緞子等を獻ず

慶長元年 12月17日  大日本史料  秀吉の子拾丸、元服して秀頼と稱す、是日、勅使を大坂に遣し、秀吉・秀頼父子に
                物を賜ふ、攝家・親王等も之に物を贈る

慶長元年 12月21日  大日本史料  朝鮮通信使黄愼・副使朴弘長、歸國して、秀吉の出兵せんとすることを報ず
慶長元年 12月28日  大日本史料  秀吉、大神宮に齋宮領の出米分を寄進す

慶長元年       芳闕嵐史   四条家秘蔵の太平記の底本とされる「鳳闕乱諍」を日野中納言の執事前大和大椽蔵人
                介宗信が写本する。これを更に妙心寺の僧南源(1565~1622)、が慶長元年(1596)
                写し、鳳闕乱諍の字議が不穏として「芳闕嵐史」と改題して松山の天徳寺に伝来した
                秘本である。

慶長元年 冬至   天徳寺文書  慶長元年丙申(1597年)冬至日妙心寺玉鳳院にて「芳闕嵐史」を写す

西暦1597年
慶長2年 1月1日  大日本史料  秀吉、山城伏見より大坂に赴く
慶長2年 1月7日  大日本史料  秀吉、伊勢安濃津の富田一白(知信)に同國安濃郡の地を加増す
慶長2年 1月29日  大日本史料  秀吉の奉行前田玄以・増田長盛・長束正家、攝津闕郡の藏入分代官今井兵部に藏米算用
                状を與ふ、
慶長2年 2月20日  大日本史料  秀吉、朝鮮出征の諸將の部署を定む、尋で、其條規を下す
慶長2年 2月21日  大日本史料  秀吉、守藤(集雲)を東福寺住持と爲す
慶長2年 2月21日  大日本史料  秀吉、朝鮮出兵に就きての條規を豊後直入郡の熊谷直盛等に與ふ
慶長2年 2月24日  大日本史料  秀吉、山城伏見城に茶會を催す、

慶長2年 2月29日  山口県史整理年表  秀吉、諸将を朝鮮に向わしむ。総軍十四万数千。毛利秀元、三万を率いて八番隊
                  に属す 【毛利氏四代実録】
慶長2年 3月1日  大日本史料   秀吉、皇大神宮に伊勢野尻郷を寄進す
慶長2年 3月1日  大日本史料   秀吉・秀頼父子、山城北野社に釣燈籠を寄進す
慶長2年 3月7日  大日本史料   秀吉、五人組・十人組の制を定む
慶長2年 3月8日  大日本史料   秀吉、山城醍醐寺三寶院に櫻花を賞す、三寶院門跡義演・徳川家康等、之に陪す、又、
                秀吉、同寺の寺規を定む
慶長2年 3月9日  大日本史料   秀吉、大坂に赴く

慶長2年 3月11日  大日本史料  秀吉、大隅帖佐の島津義弘の室廣瀬氏等を山城伏見に招致す是日、廣瀬氏、帖佐を發す
慶長2年 3月13日  大日本史料  備前岡山の宇喜多秀家室羽柴氏、大坂に病む、秀吉、曲直瀬正琳をして、之を診せしむ
慶長2年 3月21日  大日本史料  秀吉、大坂より山城伏見に著す
慶長2年 3月27日  大日本史料  秀吉、山城醍醐寺に禁制を下す、
慶長2年 3月29日  大日本史料  秀吉、伏見城の工を督す
慶長2年 4月2日  大日本史料  秀吉、加賀金澤の前田利家の山城伏見の亭に臨む
慶長2年 4月4日  大日本史料  秀吉、大坂に赴く
慶長2年 4月6日  大日本史料  肥前佐賀の鍋島直茂、朝鮮より歸り、秀吉に大阪城に謁す、秀吉、之を饗す
慶長2年 4月12日  大日本史料 秀吉、諸國の麦年貢を三分一と定め、給人をして、之を在所に儲藏せしむ

慶長2年 4月20日  大日本史料  秀吉、山城伏見城中の掟を定む
慶長2年 4月24日  大日本史料  秀吉、上京す
慶長2年 4月26日  大日本史料  秀吉、京都に新亭を造る、是日、繩張あり
慶長2年 4月27日  大日本史料  秀吉、参内して、歳首を賀し奉る、徳川家康・前田利家等、之に從ふ、秀吉及び家康・
                利家に宴を清凉殿に賜ふ
慶長2年 4月28日  大日本史料  秀吉、山城伏見に歸る
慶長2年 5月1日  大日本史料  秀吉、越前府中の青木一矩の山城伏見の亭に臨む
慶長2年 5月1日  大日本史料  秀吉、朝鮮唐島(巨濟島)を對馬府中の宗義智に加封す

慶長2年 5月1日  大日本史料  秀吉、子秀頼の、端午節供の祝儀物を進めしに答ふ
慶長2年 5月4日  大日本史料  山城伏見城の天守竣る、是日、秀吉、之に移る
慶長2年 5月6日  大日本史料  秀吉、大坂に赴く
慶長2年 5月9日  大日本史料  肥前佐賀の鍋島直茂、大坂に在り、秀吉を玉造の亭に迎へ、之を饗す
慶長2年 5月11日  大日本史料  秀吉、肥前佐賀の鍋島直茂等を山城伏見城山里茶亭に饗す、尋で、直茂、朝鮮に出征す
慶長2年 5月16日  大日本史料  明の經理楊鎬、秀吉の朝鮮出兵を難じ、撤兵を求む

慶長2年 5月17日  大日本史料  勅使を秀吉の山城伏見城に遣し、歳首及び其移徙を賀せしめらる
慶長2年 5月17日  山口県史整理年表  輝元、秀元とともに長府赤間関において軍勢を点検するにより、書を椙杜元縁に
                   与え、定員不足なきよう準備せしむ 【毛利氏四代実録】
慶長2年 5月20日  大日本史料  秀吉、山城伏見城に能を興行す
慶長2年 5月22日  大日本史料  秀吉、上京す
慶長2年 5月29日  大日本史料  秀吉、山城妙法院に臨み、諸宗の論義を聽く
慶長2年 5月30日  大日本史料  秀吉、伊勢上野の分部光嘉に、同國安藝郡の地を加増す

慶長2年 5月    大日本史料  秀吉、禁裏を京都相國寺中に造營せんとすとの風聞あり
慶長2年 6月8日   大日本史料  秀吉、瀧川彦次郎に美濃河邊村の地を加増す

慶長2年 6月12日  山口県史整理年表  隆景備後三原城にて死す。六五。
                   遣臣村上武吉・同元吉去って輝元に帰し、大島郡に在り 【毛利氏四代実録】

慶長2年 6月13日  大日本史料  秀吉、朝鮮王李昖の、王子を送らず、又、大臣を遣して、通好せざるを怒り、小早川
                秀秋を大將と為し、小西行長・加藤清正を先鋒として、先づ全羅道より北上を謀らし
                む、是日、李昖、陽に和平を示し、軍備を整ふ
慶長2年 6月25日  大日本史料  秀吉、上京す
慶長2年 6月27日  大日本史料  秀吉、諸門跡を請じて、山城伏見向島に遊ぶ
慶長2年 6月    大日本史料  秀吉、大和比蘇寺の塔を山城伏見城に移建す

慶長2年 7月1日  大日本史料  秀吉、柳澤元政に、備中・備後・出雲・石見・安藝・長門・周防に於ける銀山公用の
               請取状を與ふ

慶長2年 7月1日  萩藩閥閲録1-565  

          請取 新銀山御公用事
         合銀子千枚者
         右備中国・備後国・出雲国・石見国・安芸国・
          長門国・周防国・七ケ国、當年分内且納也
          慶長弐年丁酉七月朔日    秀吉公 御朱印

          やなぎさわ(元敬)

慶長2年 7月7日  山口県史整理年表  豊後臼杵の太田一吉、土佐浦戸の長宗我部元親等と、慶尚道釜山に著陣す
慶長2年 7月9日  大日本史料    穂田元清死す。四七 【毛利氏四代実録】
慶長2年 7月10日  大日本史料   秀吉、朝鮮在陣の諸將をして、全羅道に進撃せしむ
慶長2年 7月13日  大日本史料   秀吉、徳川家康の山城伏見の亭に臨む
慶長2年 7月18日  大日本史料   秀吉、善光寺如来を甲斐より移し、山城方廣寺大佛殿に安置す
慶長2年 7月24日  大日本史料   呂宋國、秀吉に、黒象一隻并に銀器を遺る
慶長2年 7月27日  大日本史料   秀吉、山城伏見城に能を張行し、呂宋國使を饗す

慶長2年 7月27日  大日本史料  秀吉、明兵の朝鮮に出軍せば、渡海せんとし、安藝廣島の毛利輝元をして、其分國中の
                備後鞆等に早船・早馬を常備し、速報せしむ
慶長2年 8月4日  大日本史料  大泥國、秀吉に物を贈る
慶長2年 8月4日  大日本史料  秀吉、安藝廣島の毛利輝元をして、肥前名護屋又は筑前博多に赴き、朝鮮の動静を
               報ぜしむ
慶長2年 8月10日  大日本史料  秀吉、對馬府中の宗義智等に、明軍の京城より出撃せば、親ら渡海すべきこと、大坂・
               名護屋間に早船・次船・次馬を常備せること等を告ぐ、尋で、藤堂高虎にも、之を報ず

慶長2年 8月16日  山口県史整理年表  毛利輝元・加藤清正・鍋島直茂・黒田長政・長宗我部元親等、全羅道黄石山城を
                   攻めて、之を陥る
慶長2年 8月17日  大日本史料  是より先、朝鮮在陣の黒田長政、秀吉の命に依り同國人の鼻を切りて秀吉に送る、
                是日、秀吉の近臣熊谷直盛等、重ねて、其請取状を與ふ
慶長2年 8月26日  大日本史料  秀吉、上京す
慶長2年 8月28日  大日本史料  秀吉、山城伏見に歸る
慶長2年 9月13日  大日本史料  秀吉、故足利義昭の遺臣一色民部大輔に知行目録を與ふ

慶長2年 9月16日  大日本史料  宇喜多秀家・小西行長・島津義弘等、忠清道より全羅道井邑に歸る、是日、秀家等、
                守備すべき地等を定め、之を秀吉の近臣前田玄以等に報ず
慶長2年 9月21日  大日本史料  輝元山口の商人内海氏に居屋敷および町屋敷を安堵す 【毛利氏四代実録】
慶長2年 9月24日  大日本史料  秀吉、越前敦賀の大谷吉繼の山城伏見の亭に臨む
慶長2年 9月25日  大日本史料  秀吉、山城伏見より上京す
慶長2年 9月26日  大日本史料  秀吉・秀頼父子及び徳川家康、山城伏見より上京す、秀吉の亭竣るに依り、秀頼、
               之に移る

慶長2年 9月28日  大日本史料  秀吉・秀頼父子、参内す、秀頼を從四位下に敍し、左近衞権少將に任ず、又結城秀康・
                前田利長を竝に参議・從四位下に任敍す
慶長2年 9月28日  大日本史料  是より先、秀吉、朝鮮在陣の諸將に令し、敵の鼻を切りて首級に代へしむ、仍りて、
                山城善光寺の前に塚を築き、之を埋め、是日、紀伊高野山興山(應其)等をして、
                施餓鬼を修せしむ、
慶長2年 9月30日  大日本史料  秀吉・徳川家康、山城伏見に歸る
慶長2年 10月4日  大日本史料  相國寺承兌(西笑)、福澤直陳の朝鮮唐島(巨濟島)にて獲し書籍を秀吉に講ず

慶長2年 10月4日  山口県史整理年表  土佐浦戸の長宗我部元親、全羅道古阜・羅州を從へ、竹島に歸る
慶長2年 10月5日  大日本史料  是より先、安藝廣島の毛利輝元、朝鮮に渡海せんとし壹岐に著す、是日、秀吉、
                之に歸國を命ず
慶長2年 10月6日  大日本史料  秀吉・徳川家康、上京す
慶長2年 10月7日  大日本史料  是より先、秀吉、下野宇都宮の宇都宮國綱の封を攻め、國綱を備前岡山の宇喜多秀家に
               預く、是日、常陸水戸の佐竹義宣、之を同國太田城の父同義重に報ず
慶長2年 10月8日  大日本史料  秀吉、徳川家康、山城伏見に歸る

慶長2年 10月9日  山口県史整理年表  輝元冷泉元満の朝鮮における功を賞す 【毛利氏四代実録】
慶長2年 10月10日  大日本史料  秀吉、上京す
慶長2年 10月12日  大日本史料  秀吉、山城伏見に歸る
慶長2年 10月20日  大日本史料  秀吉、信濃飯田の京極高知の山城伏見の亭に臨む
慶長2年 10月22日  大日本史料  秀吉・秀頼父子、加賀金澤の前田利家の山城伏見の亭に臨む
慶長2年 10月24日  大日本史料  秀吉、奉行増田長盛をして、安房を檢地せしむ
慶長2年 10月26日  大日本史料  秀吉、陸奥岩手山の伊達政宗の山城伏見の亭に臨む
慶長2年 10月26日  大日本史料  秀吉、原田右衞門に薩摩の藏入分の地を與ふ

慶長2年 10月26日  大日本史料  是より先、秀吉、茶亭を山城伏見に築き、相國寺承兌(西笑)をして、同城内學問所
                記を作らしむ、是日、承兌、其草稿を進む
慶長2年 10月27日  大日本史料  秀吉、近江大津の京極高次の山城伏見の亭に臨む、病みて歸る
慶長2年 10月    大日本史料  秀吉、施樂院全宗の請に依り、延暦寺及び日吉社に山城上坂本を寄進す、全宗、
                之を同寺に通報す
慶長2年 11月5日  大日本史料  秀吉、茶器を和泉堺より買得す
慶長2年 11月12日  大日本史料  是より先、秀吉、相國寺承兌(西笑)に太平御覽を與ふ、徳川家康、其闕くる二十五冊
                を補寫して、是日、之を與ふ、

慶長2年 11月13日  大日本史料  秀吉、文梨小壺を徳川家康に、富士茄子の茶壺を前田利家に與ふ、
慶長2年 11月17日  大日本史料  秀吉、蒲生秀郷遺愛の墨蹟を相國寺承兌(西笑)に與ふ
慶長2年 12月1日  大日本史料  秀吉、觀世身愛をして、觀世座を、金剛勝吉をして、金剛座を安堵せしむ
慶長2年 12月2日  大日本史料  秀吉、秀頼に答へ、近く相見ゆべき旨を告ぐ
慶長2年 12月4日  大日本史料  秀吉、筑前名島の小早川秀秋に朝鮮より帰國を命ず
慶長2年 12月7日  大日本史料  是より先、南蠻船、薩摩に難破す、是日、秀吉、船中の道具を相國寺承兌(西笑)等に
                與ふ

慶長2年 12月8日  大日本史料  秀吉、側室淺井氏に答へ、近く参會せんことを告ぐ
慶長2年 12月8日  大日本史料  秀吉、竹田定加等の、病中に缺番せるに依り罰す
慶長2年 12月22日  伊予中世年表  明軍、蔚山を囲む。吉川広家奮戦してこれを破る 【閥閲録】
慶長2年 12月23日  大日本史料  安藝廣島の毛利輝元、秀吉に山城伏見に謁す

慶長2年 12月28日  萩藩閥閲録1-565  

            請取中国新かな山銀子之事
           合弐千枚者  ひんこ、ひっ中、いつも、いわミ、あき、なかと、
           すわう七ケ国分也、但慶長弐年分也
            慶長弐年十廿月廿八日    秀吉公 御朱印

            やな木 けんもつ(柳沢元敬)

慶長2年              ○来島(村上)通総も朝鮮水軍の李舜臣と戦い戦死した。

慶長2年     心斎橋今昔年表   「伏見城」が完成。 第二次朝鮮侵略(慶長の役)。
慶長2年     大日本史料     秀吉、比律賓諸島長官の使節を大坂に引見し、答書を與へ、耶蘇教布教の禁止を
                  求む

大伴姓 屋代島大野家 関連年譜(AD1592年~1593年)

2023年01月12日 16時41分34秒 | 大伴姓屋代島大野家 関連年譜
西暦1952年
1592  文禄元年 * 4月9日  八幡藪事件河野党の墓 郷土史家三原市宮崎信昭著

  「文禄元[1592]年四月九日、豊臣秀吉が朝鮮征伐に関わり九州への往路三原通過のとき、河野家に関る者が襲撃を
    計画したが秀吉は危うく難を逃れた。
   安芸五龍山城主宍戸備前守通軌、以下士三百、場所は備後御調八幡宮近くの藪に隠れていたが、事は道中警護の
    毛利側に洩れて誅伐される。河野氏族処刑の跡墓地と伝承される石塔類は約二十基。石塔には刻字がない。通軌は
    子の通昭であったとも考えられる。
     通昭の子通許は禍を恐れ母方の姓築山と名乗った。通昭は広島浅野家に仕える」と。

   「御調八幡宮と八幡荘」 竹原図書館

  「豊臣秀吉參拜 文禄元[1592]年秀吉三原城に入る。此時の通路、三成より山中通りなりしという。三原滞在中
     八幡神社に參拜する、 時に河野通直の養子甲立五龍山城主宍戸備前守孫通軌、秀吉のため河野家所領没収せら
     れしを恨み、一族得能備後和田左衛門、栗山因幡、土居兵庫父子、松末美濃以下剛勇の士三百人八幡の藪中に
     潜伏し狙撃せんとせしも不幸にして露顯し誅に伏し、河野家遂に没せりと傳う」。

   「御調八幡宮襲撃の遺臣」【伊予温故録続・海南漂萍秘録】

     河野但馬守通軌 得能備後守通慶 戒能藤兵衛尉通次(系図・夭死) 和田左衛門尉通繁 南山城守通具 平岡
     遠江守通倚(系図・5/6没)大野山城守直昌(系図~1589/7/27) 土居兵庫頭通建 土居右京通真 松末美濃守
     通為 枝松太郎通栄 大内加賀守通恭 井門宗左衛門尉義安 仙波大炊介貞高 佐伯河内守惟之 大西弾正通秀
     黒川肥前守通廣 井上三郎左衛門通重 (18名)
       *大野直昌や平岡通倚はこの時,死んでいないからこの記述は変?

   「竹原志料」

    廣陵府の城東南十餘里、賀茂郡竹原不老山春秋院長生寺は小早川隆景建つ所にして、所は河野伊豫守越智通直を
    葬る處也、昔は天正十三年、豊臣秀吉在洛の日召しむ。通直は州の巨魁也、且つ招きに應ぜず。己にして金子城に
    據り以て秀吉を拒まんとす、是を以て秋七月、秀吉、小早川隆景・吉川元長に攻めしむ、之盡く以て方面之故也、
    乃りて至る黒田勘兵衛尉孝高を遣し徃きて守攻を判ず、殊力彼此勢を異にす、
    通直利あらず城を棄てて走り来り竹原村山田の土井に隠れ以て時の運を俟つなり、自後、左京太夫通宣の子通昭
    を城州芥川に遣り秀吉に計らんと欲るは数々なり、然りと雖も一て餘燼をあばき、?(火扁に爵・かがり火)火争
    光(しゃっかそうこう)し難きの間、終に其志を遂ぐること無く、天正十五年七月十四日、少くして山田に病卒す
    る、歳二十四、是に於て隆景其の顛連(てんれん)を愍みて告る無し。且つ悼む。
    河野有親墳を営み寺を建つ。謚して長生寺殿月谿宗圓大居士と曰う、不老以て其の山春秋と名づけ以て其の院に
    命じて寺を長生と称すは便ち其の謚号也、…嗟夫れ人事代謝有り、往来して古きを作すは通直をして驕勇巳に鳥有
    と成る。堂々の大閤も亦安きか、其の存する所は僅か姓字のみ、是古く人をして情う所同じ也、我况河野に於て亦
    同じく其没せしむ也、眷々なりや、斯る事は獨り以有る也、今茲に元禄癸未(十六[1703]年)公事を以て竹原に到
    り官暇、諸寺旁く遺塵を訪ね聊か一二を記し以て意の成るを嘱す

   元禄十六癸未[1703]仲夏日作者は姓名無し本府の官吏を恐れ此に至りて記する所なり」

    伊予温故録 続 【海南漂萍秘録】に云う、牛福丸家を継ぎて河野伊予守兼兵部大輔通直と云う。天正十三年九月
    九日太閤秀吉の為に伊予国を没収せられたるにより 毛利輝元、吉川元春、小早川隆景の招に応じ安芸沼田本庄に
    蟄居、毛利の吹挙により内府へ哀訴嘆願幾重も運ぶと雖も遂に許容なくして断絶す。茲に毛利家評議して、河野通
    直の母は春禅院と號して毛利元就の孫女なればこの血筋を以て河野の家を継興さしめんと河野の家に相談ありける
    が、いづれも故障なきを以て五龍山の城主完戸安芸守元家が孫にあたる安芸守隆家には毛利元就の女を配し生ませ
    し子、一男三女あり。長男を完戸左衛門佐元秀と云、長女を伊予の太守河野刑部大輔通宣室、二女を吉川治部少輔
    元長室、三女を毛利中納言輝元室なり。又、完戸元秀の長男備前守元継は備中鬼身の城主なりしがその弟、但馬守
    景好を以て河野通直の養子として伊予受領の事を愁訴すると雖も、更に内府聴許せざるを以て通直始め、但馬守通
    軌(完戸景好諱を改む)、春禅院殿(但馬守通軌の義祖母、実は叔母なり)

    浮穴舘得能備後守通慶、戒能藤平衛通次 南山城守通具 平岡遠江守通倚 河野壱岐守通資 和田左衛門尉通繁
    松末美濃守通為 松枝太郎左衛門尉通(光)栄【御一門三十二将】【御寄合衆八将手勢五騎、但し先祖ヨリ御陣ノ
    節ハ半役相勤来ル)】

    大野山城守直昌 土居兵庫介通建 土居左京亮通真 井門宗左衛門義安 栗上因幡守通宗 久枝肥前守通(宣)
    盛垣生加賀守盛周 正岡右近太夫通経(経政) 三好長門守秀義 三善内蔵助秀勝 大内伊賀守信恭 名加石見守
    通時 仙波大炊介貞高 佐伯河内守惟之 戒能備前守通盛 大西弾正通秀 宇野隼人正通 為 宇野民部誠機 
    忽那新左衛門尉通恭 桑原摂津入道宗信 長谷部主殿介 黒川肥前守通定 黒川美濃守(通博) 櫛部肥後守
   (兼武) 武田備後丞 芥川兵庫介 永井二郎四郎 今井三郎左衛門尉 安藤美濃 日野中務 高橋美濃太郎 
    寺川丹後太郎、金子備後太郎 越智信濃太郎 藤田山城 一條修理三郎 高橋伊賀 徳永修理 鹽出紀伊守 
   工藤兵部少輔 難波江内蔵介 近藤長門 松本三河 黒瀬飛騨 桑村治部少輔 稲井右京 日吉左馬 山内若狭 
   上田信濃 行本但馬 杉谷遠江 玉井右京 飯塚兵部太郎 久米采女正 石川備中介 戸田四郎左衛門 松木新太郎 
   白石若狭 秦備前 丹民部少輔 菅善兵衛尉 岸主水 岡田九郎左衛門 宇高大炊 小野上野 加地三郎左衛門 
   野田将監 横尾山城 真鍋兵部 河上但馬太郎 今村筑後 鳫田治部少輔 大西備中太郎 岡大和 田中佐渡
  武田近江 日朝阿波 相原主馬 岡彦左衛門 立花左京 橋三河 三宅美濃 中川山城 得能刑部少輔 正岡紀伊
   白石三郎太夫 森山伊豆  越智駿河太郎 越智右衛門尉 別府修理太夫 門磨左衛門 岡部十郎左衛門 栗山将監 
   檜垣四郎左衛門 原筑後太郎 村上監物 重見美濃太郎 日高孫七郎 原四郎兵衛 村上掃部介(元吉) 曾根兵庫
   介 福角三郎太夫 渡部土佐 村上三郎左衛門 矢野豊前 長野兵庫 富田豊後 五十嵐小文吾 高尾田右衛門尉 
   神野左馬介 池原近江太郎 二神豊前 大祝六郎丸 田坂大和 重見孫四郎 渡邊河内 柳原右京亮 今岡民部太郎
   田中治部 松浦伊豆 日高右馬 徳本七郎左衛門 杉因幡 脇出兵庫正吉 金神二郎 新田大炊介 新田右衛門太郎
   堀兵庫 大江多治部 大舘左馬介 里見孫太郎 三宅備前 鳥山新右衛門 宇都宮三河 酒井新左衛門 岩松三郎右
   衛門  一井玄蕃 中城宮内 堀之内弾正 兒島三郎 波多次郎右衛門 小山田小太郎 畑外記 栗生七郎太郎 
   大田上総 亘理新左衛門 舟田将監 林勘解由 林忠左衛門 篠塚右馬充 川端太郎右衛門 山本十郎左衛門 
   包木将監 越智筑後 望月五郎左衛門 久枝四郎左衛門 乃美新左衛門 江田九郎左衛門 睦月三郎 因島治部少輔 
   因島蔵人助 村上播磨 得居播磨 徳威修理充 井上三郎左衛門 森山伊勢  岡田次郎左衛門 重見采女 井上掃
   部 村上信濃 村上内蔵太郎 伊藤日向 伊藤左衛門 土肥三郎左衛門 平岡大和 日吉六郎左衛門 
  和田山城 錦織左馬介 大原主膳 小原周防 栗原治部 小原主殿 木原刑部 尾崎新左衛門 由並修理亮 
   大野下野太郎 宇都三河 明間兵部 玉井主馬 魚成上総 上地筑前 中尾采女 三善左衛門 熊右兵衛 
   竹林院兵衛太郎 河原渕式部太郎 北川安芸  熊崎左兵衛 法花津播磨太郎 高山修理 松丸三河 柴常陸 
   西原美作 立山修理 大塚源十郎 白岩左近 永山伯耆 相伴伊豆  紀長門 黒瀬入道秀山 津島三郎太郎 
   今城左衛門太郎 南方摂津太郎 土居肥後太郎 八塚右衛門介 丹下内匠 小川宮内 伊方大学助
  立川小六郎 篠原右膳 主布神太夫 甲曾加賀 御手洗伊豆 平塚丹後 御庄長門 平城越中 勸修寺左馬介 
  芳賀下総 平岡丹後 松岡美濃 重岡隼人正 高橋右京亮 宇津上野 二宮式部 二宮越前 武内河内 矢野監物 
  中條太朗 常盤井右衛門 高市式部栗田若狭 

  明神清右衛門 山之内肥後 尾首掃部 舟草五兵衛 舟草出羽太郎 梅木但馬太郎 菅新左衛門 越智帯刀  
 渡部左馬 梅木右馬 重頭数馬 佐伯十兵衛 佐伯和泉 中川主膳 菅内蔵充 立林雅樂 山下金兵衛 
  鶴原三郎兵衛 鳥越左門 石田武兵衛 露口清左衛門 大塚又兵衛 山口豊前 平岡左近 正岡右京 西原弥兵衛 
  熊権兵衛 土居下野  日野肥後 大野近江 東筑前 安持備前 大野九郎兵衛 小倉丹後 尾崎七郎 宮田右京
  鶴沢右衛門太郎 城戸六郎  日下八兵衛 鎌田甚六 武市近江 川崎左衛門 荒川大学 
     *上記は大野家一族郎党の羅列である。

  浅井十郎 安部伊勢 浅海常陸 原内記 原外記 曾根七郎左衛門
 土居式部太郎 近澤左兵衛 日土靱負 亀井万右衛門 吉澤善兵衛 溝口喜兵衛(以上宇和・喜多・浮穴山方衆也)
 得居右馬介 井出若狭 野間兵庫介 江戸左近太郎 井出神兵衛 持田右京(進・充) 桑原左京 逸見源太夫 
  高山 雅樂充 白石五郎 大野因幡(守)
  鈴木治部(丞) 鈴木掃部(頭) 松友(鈴木)神三郎 佐川玄蕃 森弥九郎 大瀧道三 進藤帯刀 
  江戸織部 崎山四郎左衛門(尉) 一色左衛門(尉) 関谷縫之介
  関屋大隅 須山外記 高木左衛門 津地亀雄 藤田右膳 大野因幡 鈴木治部 佐鳥小膳 佐川采女 高野五郎兵衛 
  枝松太郎 
  別府宮内少輔 家木出雲 近藤主水 桧垣式部 斎藤豊前 宮崎刑部 大政豊前 高木摂津 遠藤太郎右衛門 
  須山左膳 五百木大学
  野本主殿 森川豊後 池内太郎右衛門 富久八郎 富岡刑部 (以上温泉衆)
  松浦藤右衛門 高松美濃 栗田右衛門 福角隼人 井上与三右衛門 澤田総次郎 松原左衛門 中西左膳 
  尾賀部主水 東但馬入道
  久保左衛門 西畑大炊 小淵右近 前川八郎右衛門 北川大之進 和気左兵衛 光宗彦左衛門 安田八郎右衛門
  (尉) 光宗三郎兵衛(尉)
  伊臺左衛門 光宗平七郎 志津川彦六郎 松岡五郎 福角七郎兵衛(尉) 出所源内 矢野九兵衛(尉)
  中西左京 (充) 高橋新兵衛 門屋丹後
  大内梅雪 田村豊後 宮山兵庫 高部七郎 沼田大膳 中西大隅 清水佐渡 井上采女 田所蔵人充 福泉太郎 
  松本下総 野中長門
  内藤主馬 柳原大炊太郎 籠田武太夫 乗松能登(以上和気衆)
  國弘源左衛門 末房総五郎 宮脇新左衛門 吉原新右衛門 武任備前 若野修理 友近式部 井門大和 
  井門九郎右衛門 行元又四郎
  大森孫次郎 大森安房 鴨池新左衛門 野元式部 富岡相模 作道右衛門 高田若狭太郎 高田三河 
  尾越助右衛門  尾越四郎右衛門
  得居兵庫 浅海和泉 玉井備後 宇佐美藤三 二神隼人 二神孫右衛門 二神新左衛門 二神修理 二神和泉 
  一色越後 忽那四郎左衛門
 忽那豊前 西久左衛門 法花津四郎左衛門 寺町志摩 武市左門 丹下九郎兵衛 栗上左衛門 那加石見太郎 
  重松豊後 村上左衛門五郎
  栗山右近 宇佐美伊賀 得居弥一郎 作道四郎兵衛 長野四郎左衛門 小川右衛門四郎 難波内蔵介 柳原殿 
  別府七郎左衛門尉
  北條近江 宮内右衛門 (以上風早衆)

  村上弾正 工藤伊勢 末永常陸 木谷孫四郎 生口孫三郎 財満新左衛門 財満内蔵太夫 波頭長門 
   世良左衛門五良 久我兵衛五郎
  磯兼左近太夫 千種三郎 柚山権守 北畠大膳 得居縫殿介 白井縫殿介 今岡杢之介 黒川十郎左衛門 
  大舘大蔵 神野郷右衛門
  小田七九郎 安田軍次郎 片岡丈左衛門 富加見左内 瓜生作左衛門 山田左内 長島八郎 戸島権平次 
  長岡半兵衛 長井兵部 
 大沼太郎 早川帯刀 秋山丹左衛門 糸﨑逸平 高井左源太 伊奈権右衛門 松田源八郎 上林八左衛門 
  高淵藤次郎 桑名紋左衛門
 工藤五左衛門 飯田長兵衛 高木源吾 高橋藤馬 卜部九郎左衛門 出房杢左衛門 三崎太郎 弓山石見 
  田坂源太夫 垣生兵庫
 村山越後 八木左衛門太郎 矢野上総 (以上上野間衆)

 島越中 中川間左衛門太夫 村上三郎兵衛(景親) 村上五郎兵衛 高橋五郎兵衛 高橋九郎次郎 鳥生九郎太郎
  野間五郎右衛門 鳥生修理
  島修理太郎 今岡民部大輔 今岡治部 東左近 東條兵衛 岩城左衛門太夫 白石隼人 小笠原主馬 高大寺右馬介
  武田真三郎
  目見田左馬 高山左近 宮原三郎右衛門 高山和泉 高橋次郎 伊崎又次郎 久万出雲 町田彦九郎 正岡備中 
  中川三郎右衛門
 得重石見 向井筑前 門真三郎兵衛 正岡右衛門 正岡九郎三郎 中川藤左衛門 北美濃 中西左衛門 
  門真六郎兵衛 長野越中
  別宮神太夫 柳瀬小隼人 黒部出雲 安部陸奥 小笠原豊前 松浦摂津 菅式部 井出宮内 越智神太夫 三島大祝 
   越智左近太夫
  鴨部太郎左衛門 国分寺法師憲隆 高野旗寺大法師賢範 永井斎宮 芥川新左衛門 (以上越智衆)

  桑原三郎兵衛 丹壬川摂津太郎 桑村左京充 矢野民部 日見田宮内 稲井左衛門 牧備前 近藤永壽 杉原衛士 
  藤原五郎右衛門 
  武田多門 大澤新太郎 鎌田監物 渡邊四郎兵衛 高瀬左衛門 越智兵庫 (以上桑村衆)

  佐伯甲賀 桑島四郎左衛門 宗加部左近 宗加部修理 久米五郎左衛門 兼藤日向 垂水彦三郎 白坂三郎兵衛 
  野口四郎太夫 今井玄蕃
  玉井又十郎 安養寺法印玄昭 (以上周布衆)

  伊藤近江 工藤上野 鹽出太郎左衛門 石川源太郎 真鍋孫太郎 近藤長門太郎 難波江藤太夫 石川織部 
  光増飛騨次郎 寺川小太郎
  藤田大隅太郎 松木三河太郎 下山九郎 小野中務 藤田堯山法師 高橋丹後太郎 波多六郎 渡部丹後 大西木工
  有岡左京
  日吉六郎左衛門 堀池右馬 木原左衛門 那加多主馬 中村兵衛太郎 堀池九郎次郎 久保主計 佐伯弾右衛門 
  玉井武蔵 玉井将監
  志津川修理 堀池雅樂 平井左衛門 海垣太郎兵衛 姫池善太兵衛 田中左織 山内九郎三郎 久阿弥 今井宗悦 
  東倉市正 松木源右衛門
 武智九郎兵衛 永井三郎左衛門 野中信濃 野中次郎 桑村源太夫 森定越後 寺町加賀 奥村豊前 仙波左馬介
  重松三郎右衛門
 萩山内膳 池田左京 岡田将監 浮穴新左衛門 得能主殿 徳威大膳太夫 白石斎宮 日吉豊前 土岐大膳
  由井刑部 高井伊豆
  武井織部 宮崎宮内 柏谷采女 武智紀伊 徳威蔵人 浮州三郎 牛淵美作 田窪備前 石井彦左衛門 拝志備中
  定力玄蕃 
 花山大学 井門美作 野間左膳 玉井新太夫 山内兵庫 土居左衛門 杉原与市 東藤内蔵 武市与三左衛門 
  平野左京 小倉式部
  小原右衛門太郎 平岡上野介 水口大炊介 錦織勘解由左衛門 武昌修理 白潟弥左衛門 大西監物 和田九郎
  大熊刑部 田中隼人
 宇和川傳左衛門 北方備中 武田兵庫 大平新左衛門 野口下総 上野兵庫 樫尾四郎兵衛 森平内左衛門 
  江戸平左衛門 南方新蔵人
  山崎勘解由 森讃岐 相原土佐 戒能伊織 合田高阿弥 玉井肥前 久味式部 岸宗左衛門 原大蔵 久保田修理 
  堀内民部 久保源左衛門
  土岐山城 森伊豆 浅井新左衛門 寺町弥六左衛門 高野宮内 田井武蔵充 白石左衛門 大久万刑部 白石新太夫
  石崎与市
  定力左衛門 奴田新太夫 高市遠江 大森彦兵衛 小森次郎太夫 正田若狭 澤田修理 越智山城 土岐荒五郎 
  筋違七郎 高井小太郎
  城戸近江 豊鳥源左衛門 小山清左衛門 舟田左衛門六郎 都築隼人 宮内式部 合田弥八郎 田合弾正 安長能登
  垣生治部右衛門
  栗山将監 高松五郎三郎 佐川備中 高市大炊 向井信阿弥 向井五郎左衛門 小泉八郎 岡田五郎兵衛 高市治部
  中根右京 中根修理
 土居大和 武市与左衛門 土居右京 大竹九郎太夫 山崎六郎兵衛 寺町兵庫太郎 黒田入道無心 大政右衛門 
  寺町豊前 中淵彦三郎
 松前大学 奇崎舎人 出淵左衛門太郎 中村河内 灘太郎左衛門 森本右馬充 仙波右近 鵜川蔵人 吾河清太夫 
  弓達太郎左衛門
  高尾尾張 菊澤肥後 宇都宮彦兵衛 村瀬壱岐 木村近江 隅田隆庵 神前左京 向井長門 木村七郎入道専斎 
  関谷安房 大政越前
 大久保右衛門太夫 友近大学 秀野越前 光野権兵衛 都筑治部 森山小太郎 内藤帯刀 日野式部 
  兒島七郎左衛門 重松遠江 
 多賀谷図書 安永左馬 富田豊前 大内蔵人 宮脇新兵衛 富岡飛騨 小笠原長門太郎 石崎大膳 松末采女 
  山内日向 藤田佐渡
  立花次郎左衛門 林河内 八束小隼人 水口杢之進 井口内蔵助 武智豊後 二宮掃部 田久保式部 中村帯刀 
  別府大学 稲葉越後
  真木主馬 豊田玄蕃 渡部源兵衛 飯尾出雲 佐々木斎官 安宅将監 矢野下野 舟田勘解由 中川図書 東條七郎 
  野田備中 野本左門
  丹下伊豆 河本民部 兒島長門 日野式部 近藤下野 松本右近 遠藤六郎 鳥生主税 日吉次郎 御手洗主水 
  間島太郎 小林右衛門助   
 小野左京 門田兵衛太郎 真名部伯耆 柳瀬次郎左衛門 広瀬和泉 天瀬勘解由 三浦隼人 麻生兵部 法泉寺寛燃
  長還寺快燃房
  重光雅樂 豊田左衛門九郎 柿本弥三兵衛 吉久四郎左衛門 河江三郎兵衛 柴生四郎太夫 山前権太夫 池田越後
  中子三郎右衛門
  兵頭将監 田村修理 小田刑部 高須丹後 高須賀太郎右衛門 那加田弾正 森川豊後 森山兵庫 森戸新右衛門 
  森岡兵衛助 森田刑部
  森尾主水 森谷太郎兵衛 森下出羽 森本勘太夫 森江淡路 森塚新九郎 森村新兵衛 森中四郎兵衛 
  森藤源左衛門 森坂刑部
 森脇文五右衛門 森埼貞右衛門 森前若狭 郷田大炊介 土肥三郎左衛門 太田四郎左衛門 郷田大炊介 安藤民部
  浅川主水 垂水武蔵介 
  河内兵庫充 廣藤新左衛門 近藤右近 伊藤左近 斎藤求馬 加藤主馬 遠藤内蔵 進藤監物 首藤帯刀 安藤主膳
  後藤兵部 
 尾藤右衛門四郎 工藤又左衛門 大藤太郎右衛門 武藤図書 佐藤兵右衛門 江藤帯刀左衛門 波藤右衛門 
  高藤十郎左衛門
 河内兵部 河内主水 河合采女 河島右衛門太夫 河端太郎左衛門 川邊刑部 河崎主膳 河田実河内衛士 
  河上越後 河本左京    
  河井十左衛門 河築右京充 河東勘解由左衛門 河中土佐 河西八郎右衛門 河北小隼人 川越左馬充 伊座掃部
  小群三郎 八倉飛騨
 石井九郎左衛門 井上若狭 樋口次郎左衛門 津吉亀丸 保志岡隼人 吉藤多門

 等恩顧の士道前道後の各所の寺院に密会評議して各郡より選抜の武士三百人を芸州沼田本郷に送り毛利、完戸二氏へ
  も密告し一隊は船に乗り、竹原湾の要所に備え一隊は竹原珍海山藪八幡藪中に潜伏して秀吉の至をまつ。

    注)【この文は伊予の武士たちの名簿をいたづらに書きならべ、三原を竹原とし、通直を生存していると書いた
        混乱文である】(呑舟)

天正20年 4月11日  大日本史料  秀吉、安芸広島に著す、毛利秀元、之を饗す
天正20年 4月19日  大日本史料  秀吉、豊前小倉に著す、又藤堂高虎、九鬼嘉隆、脇坂安治、加藤嘉明をして、紀伊、
                備前の警固船を率ゐ、朝鮮に赴かしむ
天正20年 4月21日  大日本史料  秀吉、筑前名島に著す、尋で、鍋島直茂の、小西行長、宗義智等の勝利を報ずるに答
                へ、百姓等を還住せしむべき旨を命ず
天正20年 4月21日  大日本史料  秀吉、水軍の将脇坂安治をして、福島正則等の軍に加はしらむ

天正20年 4月24日  大日本史料  秀吉、長岡忠興に答報し、羽柴秀勝と諮り、秀吉の本営を壱岐勝本に築くを褒す、尋
                で、秀吉、秀勝をして、渡海せしめ、忠興をして対馬に屯せしむ
天正20年 4月25日  大日本史料  秀吉、肥前名護屋の本営に著す
天正20年 4月26日  大日本史料  秀吉、朝鮮出兵の諸将に命じ、民政に留意せしむ、又同国の上陸地より京城に至る秀吉
                の宿泊所を整備せしむ
天正20年 4月26日  大日本史料  秀吉、毛利輝元、小早川隆景、鍋島直茂等をして、持船の一部を出し、対馬、釜山間の
                輸送に宛てしむ

天正20年 4月28日  大日本史料  秀吉、鍋島直茂をして、船六十艘を出し、対馬、釜山間の渡航の用に供せしむ
文禄元年 * 4月28日  大日本史料  秀吉、連りに捷報に接し、渡海せんとす、寺澤正成、安国寺恵瓊を朝鮮に遣し、諸将
                をして、船舶を肥前名護屋に回漕せしむ
天正20年 5月2日  大日本史料  呂宋群島長官ゴメス・ペレス・ダス・マリニヤス、秀吉の入貢を促せるに答書す
天正20年 5月3日  大日本史料  秀吉、在韓の役夫の、逃れ帰る者を罰すべきことを令す
天正20年 5月4日  大日本史料  島津龍伯(義久、)秀吉の肥前名護屋本陣に赴かんとし、分国中に條令を頒つ、
天正20年 5月5日  大日本史料  秀吉、朝鮮に於ける其宿所の供膳のことを定め、之を毛利輝元、宇喜多秀家、
                小早川隆景に令す

天正20年 5月16日  大日本史料  秀吉、渡海せんとし、朝鮮在陣の諸将をして、其準備を為さしむ
天正20年 5月18日  大日本史料  秀吉、明国に入らんとし、同国及び朝鮮の処置、並に出兵の準備等を秀次に命ず、
文禄元年 * 5月20日  大日本史料  毛利輝元、朝鮮釜山より慶尚道星州に著す、尋で、安国寺恵瓊、来著して、釜山、
                 京城間の秀吉の行営築造等の命を伝ふ
天正20年 5月28日  大日本史料  秀吉、大坂城の黄金茶室を肥前名護屋に移し、是日、茶会を催す
天正20年 5月29日  大日本史料  秀吉、朝鮮に往還する船舶の條規を定む
天正20年 5月29日  大日本史料  秀吉、淡路の高来善三郎をして、其船を対馬豊崎に回漕し、九鬼嘉隆等に渡さしむ

天正20年 6月1日  大日本史料  是より先、加藤清正、小西行長、黒田長政、京畿道開城を発し、黄海道寶山驛に到り
               て、進撃の路次等を定む、是日、清正、之を秀吉に報ず
天正20年 6月2日  大日本史料  秀吉、将に朝鮮に向ひて乗船せんとす、徳川家康、前田利家等の諫止に依り延引す、是
                日、之を朝鮮の相良頼房(長毎)等に通報す、
天正20年 6月3日  大日本史料  秀吉、朝鮮に在る軍の編成を改め、諸将を諭し、明国に進撃せしむ
天正20年 6月3日  大日本史料  秀吉、増田長盛、石田三成、大谷吉継、長谷川秀一、木村常陸介、前野長泰、加藤光泰
                等を朝鮮に遣し、民政に努めしむ
天正20年 6月7日  大日本史料  秀吉の明国への行幸奏請を勅許あらせらる、尋で、京都所司代前田玄以、勅命に依り、
                公家衆に、行幸の儀式等に就きての諸家の記録を録上せしむ

文禄元年 * 6月7日  大日本史料  是より先、秀吉、朝鮮に在る諸軍に通事を附し、又韓国人に日本語を学ばしむ、是日、
                安国寺恵瓊、これ等を朝鮮より安芸安国寺に通報す
天正20年 6月11日  大日本史料  徳川家康、秀吉の命に依り、留守役の林茂右衛門に大船の建造を命ず
天正20年 6月13日  大日本史料  秀吉、宇喜多秀家の明国に進まんことを請ふを止め、毛利輝元等をして、先発せしむ
天正20年 6月18日  大日本史料  秀吉、肥前塚崎温泉に禁制を下す、

天正20年 6月19日  村上図書家文書  ○惣国検地終了後の能島村上家の所領は六、七七五石となっている。

    毛利家八箇国分限帳 ○能島家所領の6、775石の内訳はおよそ下記のようである。

    元吉 村上掃部 長門大津郡 3807石余
    景親 村上三郎兵衛 長門大津郡 235石余
             周防熊毛郡 129石余
             玖珂郡   34石余
            大島郡   228石余
    景広 村上八郎左衛門  長門大津郡 51石余
                    計4、484石

天正20年 6月20日  大日本史料  秀吉、来年三月渡海すべきこと等を大政所(天瑞院)に報ず、
天正20年 6月21日  大日本史料  秀吉、山城長福寺を諸山に列す、
天正20年 6月24日  大日本史料  是より先、加藤清正、鍋島直茂、相良頼房(長毎、)咸鏡道安邊を経て同道咸興に到
                る、朝鮮王子の逃れて北境に在るを聞き、清正、 頼房と共に之を追はんとす、是日、
                之を秀吉に報ず
天正20年 6月24日  大日本史料  鍋島直茂、加藤清正に頼りて、明国に於て所領を宛行はれんことを秀吉に請ふ
天正20年 6月    大日本史料  秀次、秀吉の渡海の陣備を定む
天正20年 7月4日   大日本史料  秀吉、九州地方の刀駆を令す、是日、之を免除せられし筑前筥崎宮座主某礼物を進む
天正20年 7月5日   大日本史料  伊達政宗、肥前名護屋より在国の秋保弾正忠に秀吉の渡海延引等を報ず

文禄元年 * 7月7日  大日本史料  小早川隆景、毛利秀包、吉川広家、立花宗茂、筑紫広門等、朝鮮京城より全羅道を経略
                せんとす、安国寺恵瓊と軍を合せ、是日、李福男等を同道熊峠に撃破す
天正20年 7月15日  大日本史料  秀吉、藤堂高虎を朝鮮に遣し、治安の確保に努むべき旨を諸将に令せしむ
天正20年 7月16日  大日本史料  秀吉、水軍の諸将に命じて、根據地等を整備せしむ
天正20年 7月18日  大日本史料  是より先、秀吉、島津歳久の無礼と、その故梅北国兼の叛乱に党する由の讒を信じ、
                同龍伯(義久)をして、之を殺さしむ、是日、歳久、自殺す、

天正20年 7月19日  山口県史整理年表  秀吉、毛利秀元等と海路小倉を出発し東上の途次赤間関大迫門において座礁す。
                 秀元端舟を出して秀吉の難を救う 【考証論断】
天正20年 7月22日  大日本史料  秀吉、生母大政所(天瑞院)の病に依り、徳川家康、前田利家をして、肥前名護屋を
                守らしめ、京都に還る、是日、大政所薨ず、
天正20年 7月25日  大日本史料  是より先、肥前有浦大和守、秀吉を同国唐津の茶屋に饗す、又秀吉、同国名護屋の行営
                を修理せしむ、是日、浅野長吉(長政、)大和守に用材等を徴す、

天正20年 7月26日  大日本史料  秀吉、三河吉田(豊橋)の池田照政(輝政)の大船建造の労を褒し大筒等を鋳造せしむ
天正20年 7月26日  大日本史料  島津龍伯(義久、)琉球王尚寧の、秀吉の命ぜし兵糧等を送らざることを責む
天正20年 7月29日  大日本史料  秀吉、肥前名護屋より大坂に到る
天正20年 7月29日  大日本史料  島津龍伯(義久、)秀吉の命に依り、一王雅楽助に所領を宛行ふ
天正20年 8月3日  山口県史整理年表  朝鮮出陣中の輝元、当春より疾あり。秀吉その報を得て医師曲直瀬道三を朝鮮に
                  遣し、かつ帰朝して療養せしむ 【閥閲録】

天正20年 8月4日   大日本史料  秀吉、大政所(天瑞院)追善の為め、青巌寺を高野山に創建す
文禄元年 * 8月7日   大日本史料  秀吉の使者黒田孝高、朝鮮京城に著するに依り、宇喜多秀家、諸将を会す
文禄元年 * 8月14日  大日本史料  秀吉、島津龍伯(義久)及び同義弘の近年沽却せる蔵納分を勘落せしめ、又薩摩国内
                 の寺社領を検地せしむ
文禄元年 * 8月15日  大日本史料  秀吉、黒田孝高の、朝鮮京城に疾むに依り、帰朝せしむ
文禄元年 * 8月18日  大日本史料  趙憲、小早川隆景、立花統虎、安国寺恵瓊を全羅道錦山に攻めて敗死す
天正20年 8月20日  大日本史料  秀吉、大坂より伏見に赴き、居城の普請縄打を命ず
天正20年 9月5日  大日本史料  秀吉、公家、門跡に米を頒つ、

天正20年 9月10日  大日本史料  是より先、秀吉の肥前名護屋に出陣するを止めさせらる、是日、秀吉、勅答し、
                之を延引す、
天正20年 9月18日  大日本史料  秀吉、大坂より入京し、是日、参内す
天正20年 9月19日  大日本史料  秀吉、方広寺大仏の経営を視る
天正20年 9月22日  大日本史料  是より先、下野佐野房綱、富田信高の弟信吉を養子と為す、是日、秀吉、信吉をして
                所領を安堵せしむ
天正20年 9月22日  大日本史料  秀吉、在韓の十六人の上使をして、釜山と京城との連絡を維持せしめ、又同国の物成の
                半額を諸将に与へ、半額は儲備せしむ

天正20年 9月23日  大日本史料  秀吉、京都より大坂に帰る、
天正20年 9月24日  大日本史料  毛利輝元、慶尚道開寧に疾む、是日、秀吉、曲直瀬道三を遣し、之を療治せしむ
               【小早川文書】
天正20年 10月1日  大日本史料  秀吉、大坂より肥前名護屋に出陣す、
天正20年 10月6日  大日本史料  秀吉、溝口秀勝をして、摂津大坂城の山里の数寄屋を肥前名護屋の行営に海上より
                運搬せしむ
天正20年 10月10日  大日本史料  秀吉、造船のことに就きて、秀次等に下命す、
天正20年 10月20日  大日本史料  是より先、加藤清正、咸鏡道会寧より豆満江を渡り、兀良哈を略し、旋りて、同道鏡
                城より朝鮮の二王子と共に安邊に帰城す、是日、清正、この戦況及び平安道等に鎮する
                小西行長等の民政等を秀吉に報ず、

天正20年 10月24日  大日本史料  右衛門大夫従五位下中川秀政、江原道水原城に在り、是日、遊猟の途次、敵に襲はれ
                て卒す、尋で秀吉、弟秀成をして、遺跡を相続せしむ
天正20年 10月28日  大日本史料  秀吉、吉川広家の、朝鮮より鷹を贈るに答ふ
天正20年 10月30日  大日本史料  秀吉、筑前博多の神谷宗湛亭の茶会に臨む
天正20年 11月1日   大日本史料  秀吉、熊谷平二郎、垣見彌五郎を朝鮮に遣し、来年三月渡海すべき旨を告げ、諸将を
                 して、陣地を固守し、一揆に備へしむ
文禄元年 * 11月6日  大日本史料 秀吉、長宗我部元親の留守役に命じ、造船の材木を肥前名護屋に送り、寺澤定政に
                渡さしむ【香宗我部文書】

文禄元年 11月10日  大日本史料  秀吉、加藤清正をして、朝鮮釜山より京城及び平壌に到る連絡を確保せしめ、明国の
                援軍の平壌に来攻せば助勢せしむ、又船舶を悉く日本に回漕せしむ
文禄元年 11月10日  大日本史料  秀吉、朝鮮在陣の吉川広家、加藤光泰をして、釜山より京城に到る連絡を確保せし
                 め、兵船を日本に回漕せしめ、又之に鉄砲及び玉薬の割付を与ふ
文禄元年 11月10日  大日本史料  秀吉、朝鮮在陣の脇坂安治に敵船と交戦するを禁じ、兵船を日本に回漕せしむ
文禄元年 11月17日  大日本史料  秀吉、肥前名護屋の行営に、大坂城より運ばしめたる山里の座敷開を行ふ
文禄元年 11月24日  大日本史料  本願寺門跡大僧正光佐(顕如)寂す、尋で、秀吉、光佐の子光寿(教如)をして、
                 嗣がしむ

天正20年 11月29日  山口県史整理年表  秀吉、輝元に命じて、技芸ある鮮人を送致せしむ 【毛利家文書】
天正20年 12月5日  大日本史料  秀吉、毛利秀元に命じ、安芸広島に在国して、大船を建造せしむ

西暦1592年
文禄 12月8日  改元・出典「杜氏通典」 ぶんろく・代始改元による(後陽成天皇-5年間)【勘申者 菅原盛長】

文禄元年 12月11日  大日本史料  是より先、秀吉、山城伏見の地に居城を築かんとす、是日、京都所司代前田玄以をし
                 て、大工と共に肥前名護屋に来らしむ
文禄元年 12月12日  山口縣文化史年票  秀吉、赤間関奉行に令して名護屋へ急ぎ物を逓送せしむ。爾後しばしば逓送の
                   ことあり 【風土注進案】
文禄元年 12月13日  大日本史料  秀吉、石川康長をして、亡父数正の封信濃松本を嗣がしむ
文禄元年 12月21日  大日本史料  秀吉、慶尚道機張城守将亀井真矩(茲矩)の、狩猟せる虎及び秀次の進めし日向産の
                鷹の獲りし白鳥を秀次に送り、叡覧に供せんとすること等を京都所司代前田玄以に命
                ず、又、秀吉、真矩の労を褒し、守備を厳重にせしむ

文禄元年  12月27日  大日本史料  秀吉、吉川広家の母を京都に招致し、毛利輝元の室と同居せしむ
文禄元年     心斎橋今昔年表  第一次朝鮮侵略(文禄の役)。大政所病死。貿易船制度を制定。大名や商人が勝手な
                 貿易をする海賊を取締り、貿易船と区別する証明書を発行する。
文禄元年     心斎橋今昔年表  徳川家康は、この政策を継承、朱印状を発行し「朱印船」と証しました。
文禄元年     心斎橋今昔年表  秀吉は、「伏見城」の築城を開始

文禄元年     東和町史   ○秀吉朝鮮征伐のため筑前名護屋に下るとき村上一族は長門大津郡加原に住居を移した。

文禄元年   伊予中世年表  ○朝鮮の役、来島氏は七百名を動員。能島・因島村上は筑前に転封された小早川氏に含まれ
               動員される。
文禄元年    伊予中世年表  ○能島村上の元吉・景親兄弟は福岡より、因島村上氏は因島より出兵した。
文禄元年    伊予中世年表  ○能島村上親子は、朝鮮国慶尚道開寧に戦い、敵を撃滅した。

西暦1593年
文禄2年 1月3日  大日本史料  公家衆、参内して歳首を賀し奉る、秀吉の獻ぜし白鳥を料理せしめ、之を公家衆に賜ふ、
文禄2年 1月3日  大日本史料  秀吉、郡十右衞門尉等を鍋島直茂・波多信時・松浦宗静(鎭信)・大村喜前・有馬晴信・
               五島純玄の肥前の領邑に遣し、朝鮮より私用にて歸著せし船に兵粮を積荷せんとする隻數
               を報告せしめ、積荷なき船は肥前名護屋に於て米を積ましむ
文禄2年 1月5日  大日本史料  秀吉、蝦夷松前の蛎崎慶廣をして、諸國より來航する船頭・商人等の、同國人に非違を爲
               すを禁ぜしめ、舊に依り、船役を徴收せしむ、尋で、北國より大坂に至る宿驛等をして、
               毎度慶廣の進むる巣鷹を遞送せしむ、慶廣、肥前名護屋より歸國す

文禄2年 1月7日  大日本史料  秀吉、朝鮮在陣の藤堂高虎に、三月を期して渡海せんとするを報じ、海陸共に出撃するを
               停め、船を肥前名護屋に廻漕せしむ
文禄2年 1月11日  大日本史料  朝鮮京城の増田長盛・大谷吉繼・石田三成・加藤光泰・前野長泰、秀吉に軍状を報じ、
               兵粮を急送せんことを請ふ
文禄2年 1月13日  大日本史料  秀吉、紀伊粉河の藤堂高虎をして、速に櫓木四百を調送せしむ
文禄2年 1月15日  大日本史料  秀吉、紀伊金剛峯寺をして、丹生・高野兩明神に於て勝利の祈祷を行はしむ
文禄2年 1月16日  大日本史料  秀吉、日向肥飫の伊東祐兵の朝鮮在陣の軍勞を犒ふ

文禄2年 1月21日  大日本史料  朝鮮京城の日本軍三奉行増田長盛・石田三成・大谷吉繼、平安道平壤の敗報に接し、
               退守の計を定め、安國寺惠瓊を京畿道開城に遣し、小早川隆景に撤退を求む、是日、
               隆景、毛利秀包・黒田長政と京城に退く、尋で、明の提督李如松、開城府に入る
文禄2年 1月26日  山口県史整理年表  隆景・吉川広家等明将李如松を碧蹄館に破る 【考証論断】
文禄2年 1月26日  大日本史料  秀吉、朝鮮釜山の宮部長熙に、来る三月に渡海すべきを告げ、速に船舶を肥前名護屋に
                廻漕せしめ、兵粮の殘高を報ぜしむ
文禄2年 2月1日  大日本史料  秀吉、信濃河中島より苧千貫目を肥前名護屋に徴す

文禄2年 2月5日  大日本史料  秀吉、速に朝鮮に渡海せんとし、伯耆羽衣石の南條元續をして、同國にある船舶を肥前
               名護屋に廻漕せしむ
文禄2年 2月5日  大日本史料  朝鮮に往来する船頭等、多く病死するに依り、秀吉、出雲富田の吉川廣家等の留守居をし
               て、六十歳以下十五歳以上の船頭等を、悉く肥前名護屋に送らしむ
文禄2年 2月8日  大日本史料  秀吉、咸鏡道の加藤清正の鶴・鱈・鮭及び弓を進めしを謝し、三月を期し、親征すべきに
               依り、船舶を悉く肥前名護屋に廻漕せしむ、明日、淺野長吉(長政)を伊豫今治の福島正
               則の領邑等に遣し船舶の獲得に努め、又兵粮の蓄積に意を用ひしむ

文禄2年 2月9日  大日本史料  秀吉、慶尚道釜山の宮部長熙等をして釜山より京城に至る要地を確保し、築城せしむ
文禄2年 2月9日  大日本史料  秀吉の近臣木下吉隆、秀次の近臣駒井重勝に、肥前名護屋城本丸の能舞臺の出来すべきこ
               と、小西行長の慶尚道釜山に歸著せしこと、及び能の道具・面を送り届くべきこと等を
               令達す
文禄2年 2月10日  大日本史料  是より先、前左大臣近衞信輔(信尹)、朝鮮に赴かんとし、肥前名護屋に在り、是日、
                勅を秀吉に下して、之を止めしめらる、
文禄2年 2月11日  大日本史料  秀吉、江川酒・女能等を肥前名護屋に徴し、四端帆の船一艘を之に給す
文禄2年 2月14日  大日本史料  秀吉、肥前名護屋在陣衆の逃走するを禁ずるに依り、常陸水戸の佐竹義宣の留守居をし
                て、領内に人留番所を設け、高札を立てしむ、

文禄2年 2月15日  大日本史料  秀吉の室北政所杉原氏、肥前名護屋に使者を遣すに依り、安藝廣島の毛利輝元の留守
               居、長門赤間關の奉行をして、繼夫を仕立てしむ、
文禄2年 2月16日  大日本史料  秀吉、平安道平壤の敗報を受け、黒田如水(孝高)・淺野長吉(長政)を朝鮮に遣し、
               宇喜多秀家等に善後策を指示す、仍ち加藤清正・鍋島直茂をして、咸鏡道を去り、清正は
               京城・開城の間に、黒田長政及び小西行長は開城に陣し、小早川隆景は京城に鎭し、
               秀家は遊軍を統べ、島津義弘をして、舊地江原道金化に據らしむ
文禄2年 2月16日  大日本史料  秀吉、慶尚道釜山の宮部長熙に、京城より来れる使者を送届くべきことを命じ、淺野長
               吉(長政)・黒田如水(孝高)を増派せし旨を告ぐ

文禄2年 2月18日  大日本史料  秀吉、鍋島直茂をして、宇喜多秀家に協力せしめ、又諸將の船舶を悉く肥前名護屋に廻
                漕せしめ、直茂に兵粮・人數を重ねて送るべき旨を告ぐ
文禄2年 2月27日  大日本史料  秀吉、京都及び奈良の醫師を肥前名護屋に徴用す、之を朝鮮に送る、
文禄2年 2月27日  大日本史料  宇喜多秀家以下朝鮮在陣の諸將、私意を棄てて、秀吉の爲めに盡すべきことを誓ふ
文禄2年 2月28日  大日本史料  秀吉、朝鮮在陣の小早川隆景の軍情を報告せざるを責め、之を怠ることなからしむ
文禄2年 2月28日  大日本史料  秀吉、藤堂高虎の敵船の来襲を郤けしを褒し、慶尚道釜山港に淺野長吉(長政)・長繼
               (幸長)父子を遣すを告げ、船手のことに懈怠なからしむ

文禄2年 3月3日  大日本史料  是より先、秀吉、熊谷直盛等を朝鮮に遣し、諸將に近く自ら渡海すべき旨を告げしむ、是
               日、宇喜多秀家等の諸將、同國京城の兵粮欠乏し、雜粥を食しつつあること、釜山の兵粮
               のこと等を秀吉に報ず
文禄2年 3月6日  山口県史整理年表  輝元、隆景・毛利元康の碧蹄館における戦功を賞し、かつ隆景の咳気を見舞う
                  【毛利氏四代実録】
文禄2年 3月8日  大日本史料  秀吉、加藤光泰の子貞泰の、甲斐より木綿の道服等を肥前名護屋に送りて起居を候せしに
               答ふ
文禄2年 3月10日  大日本史料  秀吉、朝鮮に於ける諸將の陣立を定む

文禄2年 3月15日  大日本史料  是より先、秀吉、黒田如水(孝高)・淺野長吉(長政)・同長繼父子・伊達政宗をし
                て、朝鮮に出陣せしむ、是日、如水等、肥前名護屋を發す、
文禄2年 3月18日  大日本史料  秀吉、鍋島直茂をして、慶尚道釜山浦に在る兵粮を諸城に配分せしめ、兵粮・彈藥等を
                筑前博多に於て支給す
文禄2年 3月19日  大日本史料  是より先、秀吉、毛利輝元の朝鮮に病むに依り、養子秀元をして、出陣せしむ、是日、
                小早川隆景に命じ、輝元をして、慶尚道釜山に退かしめ、立花宗虎等をして、京城に
                鎭せしむ

文禄2年 3月23日  大日本史料  淺野長吉(長政)・藤堂高虎・脇坂安治・加藤重勝(嘉明)等、敵船来襲せば、海陸よ
               り防戦すべきこと、法度に背き喧嘩せざること、秀吉の恩を忘れざること等を約す
文禄2年 3月    大日本史料  秀吉、肥前名護屋より大坂城の北政所杉原氏に答へ、養女宇喜多秀家の室羽柴氏の、
               南御方と改めしことを喜ぶ
文禄2年 3月    大日本史料  安藝廣島の毛利輝元の將蜷川新三郎、朝鮮に出陣るすに依り、安國寺惠瓊に人數の書出
               を呈出す
文禄2年 4月2日   大日本史料  秀吉、肥前名護屋より繼飛脚一人を大坂に出す
文禄2年 4月7日   大日本史料  前田利家、秀吉より明使接待を命ぜらるるに依り、槍柄に施す金箔を能登國中に徴す
文禄2年 4月14日   大日本史料  秀吉、秀次に朝鮮の近状を報ず、

文禄2年 4月15日  大日本史料  秀吉、秀次の、能道具を肥前名護屋の陣中に送れるを謝し、面は返却する旨を告ぐ、
文禄2年 4月16日  大日本史料  秀吉、朝鮮京城に鎭する加藤清正等の軍勞を犒ひ、明國の返答により、来年は出兵すべ
                き旨を告げ、普請等を怠ることなからしむ、尋で、毛利秀元に之を令す
文禄2年 4月18日  大日本史料  是より先、明の遊撃沈惟敬、同國提督李如松の命を受け、小西行長等と會し、講和使の
               近く来るべきを告げ、前約に從ひて速に朝鮮の二王子李琿・李等を還付し、質將一人を留
               めて撤歸渡海せんことを要む、加藤清正・鍋島直茂等、肯ぜず、又、明の經路宋應昌等、
               講和使に扮して京城に至り、和議を勸む、宇喜多秀家・小西行長・石田三成等、小早川隆
               景等と諮り、兵粮の乏しきに依り、秀吉に報じ暫く休戦す、是日、秀家等、京城を撤す

文禄2年 4月20日  大日本史料  比律賓諸島長官ゴメス・ペレス・ダス・マリニャス、秀吉に答書を認め、尋で、耶蘇會
                宣教師パードレ・フライ・ペドロ・バプチスタ等を使として、出發せしむ
文禄2年 4月22日  大日本史料  秀吉、越前北袋銀山代官山中長俊に銀子請取状を與ふ
文禄2年 4月28日  大日本史料  秀吉、大隅栗野の島津義弘の、朝鮮にて狩獲せし虎を進むるを謝す、
文禄2年 5月1日  大日本史料  秀吉、熊谷直盛・水野久右衞門を朝鮮に遣し、明との講和の要旨を慶尚道梁山の淺野長吉
              (長政)等に示し、又諸將の守る地區を定む、
文禄2年 5月1日  大日本史料  秀吉、松浦宗静(鎭信)・加藤茂勝(嘉明)毛利輝元・小早川隆景・伊東祐兵の朝鮮在陣
               の勞を犒ふ、

文禄2年 5月1日  大日本史料  秀吉、大友吉統の、黄海道鳳山より逃走せし罪を糺して、其封豐後を收め藏入分と爲し、
               吉統を毛利輝元に預け、其子義乗に五百人扶持を與へ、加藤清正に屬せしむ、又、薩摩
               出水の島津忠辰、肥前波多信時の封を收め、忠辰を小西行長に、信時を黒田長政に預く、
文禄2年 5月3日  大日本史料  秀吉、島津忠豐の、朝鮮より狩獲せる鴨を進めしを謝す

文禄2年 5月13日  伊予一色HP  一色右馬三郎重之公は代官となっていたた次男の武士重次、 嫡男の武士重直らと共に
                周敷郡周敷村三谷城主の荒井藤四郎考宣(ナリアキラ)を討った
                秀吉の朝鮮出兵の軍費の為か、新領主による過酷な年貢の取立てがあったようで、
                一揆を企てた三谷城の荒井氏を攻め滅ぼした。道前一揆である)

文禄2年 5月14日  大日本史料  朝鮮唐島(巨濟島)の蜂須賀家政・戸田勝隆等、増田長盛・石田三成等の、明の使節を
               伴ひて歸國せし後の情況を秀吉の近臣長束正家等に質す
文禄2年 5月15日  大日本史料  相國寺承兌(西笑)、秀吉の命に依りて、肥前名護屋に下向す
文禄2年 5月15日  大日本史料  石田三成・小西行長等、明使謝用梓・徐一貫と共に肥前名護屋に著す、秀吉、徳川家
                康・前田利家等に命じて、之を館せしむ
文禄2年 5月19日  大日本史料  秀吉、加藤清正及び島津忠豐の朝鮮在陣の勞を犒ひ、在番衆・兵粮等に就きて誡む、尋
               で、荒川助八郎等に之を誡む

文禄2年 5月20日  大日本史料  秀吉、重ねて、朝鮮に在る諸將の守備する地を示定す、又、小早川隆景をして、自由に
                意見を上申せしむ
文禄2年 5月20日  大日本史料  本願寺光壽(教如)、肥前名護屋に下り、母如春の、家傳の寶物を讓與せざるを秀吉に
                訴ふ、
文禄2年 5月21日  大日本史料  天下一鏡屋をして、秀吉の獻ぜし銅鏡を磨かしめらる
文禄2年 5月21日  大日本史料  秀吉、對馬府中の宗義智に現米一萬石を與ふ
文禄2年 5月22日  大日本史料  秀吉、北政所杉原氏に答へ、明の講和使の来朝のことを告げ、側室淺井氏(淀殿)の
                懐胎せしを喜ぶ

文禄2年 5月23日  大日本史料  秀吉、明の遊撃沈惟敬に和議の延引を報じ、是日、謝用梓・徐一貫及び惟敬を延見し、
               厚く之を饗す
文禄2年 5月24日  大日本史料  秀吉、鍋島直茂等をして、慶尚道金海の城に蓄ふる、米の保管に留意せしむ
文禄2年 6月2日   大日本史料  是より先、秀吉、小西行長・石田三成等を慶尚道釜山に遣し、宇喜多秀家に朝鮮の二王
               子李琿・李の送還及び同道晉州攻略の命を傳へしむ、是日、琿・、加藤清正の家臣加藤右
               馬に厚遇を謝す
文禄2年 6月8日  大日本史料  是より先、淺野長吉(長政)・伊達政宗、慶尚道金海に鎭す、政宗、敵兵の来襲を撃ちて
               郤く、是日、秀吉、之を褒す
文禄2年 6月11日  大日本史料  秀吉、明の使節謝用梓・徐一貫を肥前名護屋の陣中に饗し、茶會を催す

文禄2年 6月11日  大日本史料  是より先、秀吉、山口宗永を豐後に遣す、是日、宗永、同國戸次郷の高橋左近に勸農等
               の條規を與へ、逃散せる者を、速に還住せしむ、
文禄2年 6月20日  大日本史料  秀吉、日向飫肥の伊東祐兵の留守居をして、藏入分豐後より逃散せる百姓を隠匿するこ
               となからしむ、又、薩摩鹿兒島の島津龍伯(義久)其分國中の留守居に之を命ず、
文禄2年 6月23日  大日本史料  秀吉、肥前名護屋の陣中の瓜畠に諸將と振賣商人の行裝を爲し、軍勞を慰す
文禄2年 6月28日  大日本史料  是より先、秀吉、秀次をして、明との和議七箇條を奏せしめ、是日、之を明使謝用梓・
                徐一貫に示す、

文禄2年 6月29日  大日本史料  是より先、秀吉、宇喜多秀家・加藤清正・毛利秀元等をして、慶尚道晉州城を攻めし
               む、是日、城陥る
文禄2年 7月1日  大日本史料  秀吉の舟奉行、肥前名護屋に滞陣する常陸水戸の佐竹義宣に舟の渡付を求む
文禄2年 7月5日  大日本史料  秀吉、陸奥會津の田丸直息に、明國の勅使の来れること等を報ず、
文禄2年 7月10日  大日本史料  秀吉、鍋島直茂の、慶尚道金海より縫工二人を送れるを褒す
文禄2年 7月10日  大日本史料  秀吉、日向飫肥の伊東祐兵の朝鮮在陣を犒ひ、全羅道の攻略を命ず、
文禄2年 7月12日  大日本史料  秀吉、島津忠豐の朝鮮より生絹帷子を贈れるを謝す
文禄2年 7月13日  大日本史料  秀吉、小早川隆景の老齢を慮り、軍事を立花統虎(宗茂)及び毛利秀包に托して、慶尚
                道熊川より歸國せしむ、隆景、敢て歸らず、尋で、秀吉、之を促す

文禄2年 7月20日  大日本史料  秀吉、慶尚道晉州牧使徐禮元・兵使崔慶會等の首を京都聚樂町に梟せしむ
文禄2年 7月22日  大日本史料  秀吉、奉行石田三成・増田長盛・大谷吉繼をして、越後を檢地せしむ
文禄2年 7月22日  大日本史料  大和郡山の羽柴秀保の留守居秀吉の母大政所(天瑞院)の周忌法會を同國新襌院に修す
文禄2年 7月26日  大日本史料  秀吉、徳川家康の將榊原康政の、在陣を見舞ひ物を贈れるを謝し、講和のことを報ず
文禄2年 7月27日  大日本史料  秀吉、朝鮮加徳島の小早川隆景・同唐島(巨濟島)の島津義弘・慶尚道釜山の毛利秀
                元・同金海の鍋島直茂に、軍器・兵粮等を送り、守備を嚴せしむ

文禄2年 8月3日  大日本史料  秀吉の子生る、尋で、秀吉、之を拾丸(秀頼)と稱せしむ、
文禄2年 8月3日  心斎橋今昔年表  淀君、秀頼を誕生

文禄2年 8月6日  大日本史料  秀吉、慶尚道釜山の毛利輝元に武具・兵粮等を與へ、木炭を生産して冬期に備ふべきこと
               及び水夫の休養等を令す
文禄2年 8月6日  大日本史料  是より先、秀吉、毛利輝元の朝鮮に在りて病むに依り、歸國せしむ、是日、小早川隆景に
               も歸國を命ず、尋で、輝元、歸國す
文禄2年 8月6日  山口県史整理年表  秀吉、重ねて隆景に書を遣し、病気療養のため輝元・隆景速やかに帰朝せんことを
               促す 【毛利氏四代実録】
文禄2年 8月7日  大日本史料  秀吉、朝鮮加徳島の小早川隆景、慶尚道東莱城の吉川廣家、唐島(巨濟島)の島津義弘等
               に條規を下し、他の家中の者の城内に入るを禁ず

文禄2年 8月10日  大日本史料  秀吉、脇坂安治の朝鮮唐島(巨濟島)に於て、敵船を討取る功を褒す
文禄2年 8月13日  大日本史料  是より先、秀吉、諸將を朝鮮より歸國せしむ、是日、其船舶の條規を定む
文禄2年 8月13日  大日本史料  肥前名護屋の秀吉の陣中に能あり
文禄2年 8月16日  大日本史料  是より先、吉川廣家、慶尚道東莱城に病む、是日、秀吉、之に歸國を命ず
文禄2年 8月20日  大日本史料  秀吉、山城妙法院に寺領目録を與ふ、
文禄2年 8月23日  大日本史料  秀吉、島津忠豐の朝鮮より鹿皮を贈れるを褒す
文禄2年 8月25日  大日本史料  秀吉、肥前名護屋より大坂に歸著す

文禄2年 8月25日  大日本史料  秀吉、徳永壽昌等を朝鮮慶尚道金海に遣して、肥前佐賀の鍋島直茂の在陣の勞を犒ふ
文禄2年 9月1日   大日本史料  越前北莊の堀秀治、秀吉の命に依り、同國舟橋村の百姓をして、金津・長崎・北莊に至
                る傳馬役を勤めしむ
文禄2年 9月2日  大日本史料  秀吉、赤井忠家に播磨の地を宛行ふ、
文禄2年 9月4日  大日本史料  秀吉、山城伏見に至り、秀次を引見して戒告す、
文禄2年 9月5日  大日本史料  秀吉、近江大津に赴く
文禄2年 9月5日  大日本史料  是より先、秀吉、山城伏見築城の人足を諸將に徴し、一萬石に二十四人と定む、是日、
               武藏江戸城の徳川家康の留守居、其命を承く

文禄2年 9月10日  大日本史料  秀吉、慶尚道金海の鍋島直茂をして、貯蔵する米を新米と交換せしむ
文禄2年 9月13日  大日本史料  秀吉、知恩院・建仁寺に山城の地を寄進す
文禄2年 9月16日  大日本史料  秀吉、日向飫肥の伊東祐兵をして、領邑中の鶴・白鳥・雁・鴨等をして、狩獲して
                進めしむ
文禄2年 9月17日  大日本史料  權大納言中山親綱、公家衆を招きて、秀吉より贈られし博多酒を饗す
文禄2年 9月17日  大日本史料  毛利友重、秀吉の近臣山中長俊に朝鮮の状況等を報ず
文禄2年 9月18日  大日本史料  是より先、秀吉、朝鮮在陣の東國の諸將をして、歸國せしむ、是日、伊達政宗、肥前
                名護屋に歸る

文禄2年 9月23日  大日本史料  秀吉、和議の未だ成らざるに依り、朝鮮在陣の加藤清正・吉川廣家・鍋島直茂等をし
                て、居城を修築し、警戒せしむ、
文禄2年 9月25日  大日本史料  是より先、石田三成・増田長盛・大谷吉繼、肥前名護屋に歸る、是日、三成、大隅栗野
               の島津義弘の老臣伊集院幸侃(忠棟)に、秀吉に頼りて、島津忠恆を、父義弘の嗣子と
               爲さんことを勸む
文禄2年 9月27日  大日本史料  秀吉、攝津有馬に浴す
文禄2年 閏9月3日  大日本史料  秀吉、越後春日山の上杉景勝の初鮭を進めしを謝す

文禄2年 閏9月4日  大日本史料  秀次、伊豆熱海より、攝津有馬に湯治する秀吉夫妻の起居を候し、又、大坂の拾丸
               (秀頼)を音問す
文禄2年 閏9月5日  大日本史料  秀吉の近臣長束正家等、吉川廣家に答へて、慶尚道東莱に於て養生することを認め、其
               母及び室等の大坂より出雲富田に歸國せしこと等を報ず、
文禄2年 閏9月7日  大日本史料  秀吉、攝津有馬より大坂に歸る、
文禄2年 閏9月7日  大日本史料  秀吉、陸奥會津の蒲生氏郷に二千石の地を加増す、
文禄2年 閏9月7日  大日本史料  秀吉、攝津西宮の西蓮寺に地を寄進す、
文禄2年 閏9月9日  大日本史料  秀吉、朝鮮在陣の吉川廣家の病平癒を慶し、尚養生に努めしむ
文禄2年 閏9月9日  大日本史料  秀次の近臣木村常陸介等、朝鮮より歸りて秀吉に謁す、淺野長吉(長政)も亦、
                大坂に歸る

文禄2年 閏9月9日  大日本史料  秀吉の近臣木下吉隆、秀次の近臣駒井重勝に、秀吉の近く京都に入らんとするを告げ、
                其準備を爲さしめ、併せて大坂の近況を報ず、
文禄2年 閏9月11日  大日本史料  美濃郡上の稲葉貞通等、朝鮮より歸りて秀吉に謁す
文禄2年 閏9月12日  大日本史料  秀吉、松浦秀任に千石、杉原長房に三千石の知行を加増す
文禄2年 閏9月13日  大日本史料  秀吉、大坂城中に能を見る
文禄2年 閏9月13日  大日本史料  秀吉、伊豆熱海入湯中の秀次をして、養生に努めしむ

文禄2年 閏9月13日  大日本史料  是より先、秀吉、豐後を檢地せしむ、是日、其四十二萬石を諸將に頒つ、仍ち大野郡
                五萬三千二百石餘を太田政之に、直入郡三萬二千九百八十石余を熊谷一直に、大分郡
                五萬七千九百ニ十九石を早川長政に、海士部郡四萬四千八百石の内二萬八千石を
                垣見一直に與へ、其他は藏入分と爲し、宮部繼潤をして、之を管せしむ、

文禄2年 閏9月16日  大日本史料  秀吉、本願寺光壽(教如)の失行を責め、門跡を弟光昭(准如)に讓らしむ、尋で、
                秀吉、勅許を経て光昭に同寺御影堂留守職を宛行ふ
文禄2年 閏9月16日  大日本史料  秀吉、金剛勝吉・寶生道奇に各千石、金春安照に四百石、觀世身愛に二百石の知行米
                 を與ふ、
文禄2年 閏9月16日  大日本史料  是より先、秀吉、柾板を木曽山より伐採す、是日、秀次の藏入分近江・美濃等に令し
                 て、之を駄送せしむ、
文禄2年 閏9月16日  大日本史料  丹後宮津の長岡忠興、因幡鳥取の宮部長熙等、朝鮮より歸り、秀吉に謁す
文禄2年 閏9月17日  大日本史料  信濃飯田の毛利秀頼卒す、尋で、秀吉、其封を分ち、一萬石を其子某に與へ、九萬石
                 を京極高知に與ふ、又、高知、侍從に任じ、從四位下に敍せらる

文禄2年 閏9月17日  大日本史料  秀吉、和泉旭蓮社境内の寄宿を禁じ、鹽風呂の諸役を免除す
文禄2年 閏9月18日  大日本史料  秀吉、有浦宗珊に肥前有浦の地を加増す
文禄2年 閏9月19日  大日本史料  秀吉、尾張中島郡の坂井利貞等に同國津島の地を加増す、
文禄2年 閏9月20日  大日本史料  秀吉、山城伏見城に入る
文禄2年 閏9月20日  大日本史料  秀吉、生母大政所(天瑞院)の仏事を山城大徳寺に修す、
文禄2年 閏9月20日  大日本史料  是より先、伊達政宗、京都に歸る、是日、其家臣黒木宗元等に之を告げ、又、陸奥
                 岩手山より鷹を送らしむ、尋で、政宗、山城伏見城に秀吉に謁す

文禄2年 閏9月22日  大日本史料  秀吉、徳川家康・前田利家等を山城伏見城に招じて、茶會を興行す
文禄2年 閏9月26日  大日本史料  是より先、秀吉、肥前名護屋の陣中より逃亡せる者を召仕ふことを禁ず、是日、出雲
                富田の吉川廣家等をして、逃亡せる家来を捕へ、又、國許に用事あらば切手を出さしむ
文禄2年 閏9月28日  大日本史料  秀吉、入京し、前田利家亭に館す
文禄2年 10月1日   大日本史料  秀吉、子拾丸(秀頼)と秀次の女某との嫁娶を約せんとす
文禄2年 10月2日   大日本史料  秀吉、徳川家康亭の茶會に臨む、又、淺野長吉(長政)亭に臨む、能あり
文禄2年 10月3日   大日本史料  秀吉の近臣山中長俊を山城守に任じ、從五位下に敍す、又、同木下吉隆を大膳大夫に
                 任じ、從五位下に敍す、

文禄2年 10月3日  大日本史料  秀吉、参内す、又、施藥院全宗亭に臨み、其肥前名護屋にて求めし茶壷を召上ぐ
文禄2年 10月5日  大日本史料  禁中能あり、秀吉及び徳川家康・前田利家等、之を演ず
文禄2年 10月8日  大日本史料  秀吉、施藥院全宗亭に臨む
文禄2年 10月15日  大日本史料  秀吉、親王・公家衆を饗す
文禄2年 10月17日  大日本史料  秀吉、所司代前田玄以の亭に能を張行す
文禄2年 10月19日  大日本史料  秀吉、近江大津に赴く
文禄2年 10月21日  大日本史料  秀吉、側室淺井氏(淀殿)の侍女の醜行あるものを、大坂に刑す、

文禄2年 10月23日  大日本史料  秀吉、美濃岐阜の織田秀信の母に、同國赤島村の地を宛行ふ
文禄2年 10月23日  大日本史料  秀吉、藏入分近江の代官新庄東玉齋(直忠)に、同國坂田郡柏原の地を加増す、
                尋で、東玉齋をして、藏入分の年貢を皆濟せしむ
文禄2年 10月27日  大日本史料  秀次、山城伏見城に秀吉に謁す
文禄2年 10月28日  大日本史料  秀吉、慶尚道金海の鍋島直茂をして、貯蔵する米を新米と入替へしむ、
文禄2年 11月3日  大日本史料  秀吉、美濃加賀島の梅寺をして、其寺領を安堵せしむ
文禄2年 11月4日  大日本史料  秀吉、加藤清正・島津忠豐の朝鮮に於ける軍勞を犒ひ、清正に小袖等を與ふ

文禄2年 11月4日  大日本史料  秀吉、侍女某の非行を怒り、之を京都三條河原に刑す
文禄2年 11月5日  大日本史料  秀吉、原田孫七郎を高山國に遣し、其入貢を督促せしむ
文禄2年 11月5日  大日本史料  秀吉、大坂城中茶湯の條規を定む
文禄2年 11月6日  大日本史料  秀吉、大坂城中の結番の條規の追加を定む
文禄2年 11月10日  大日本史料  秀吉、吉川廣家・鍋島直茂・加藤茂勝(嘉明)・松浦宗静(鎭信)等の朝鮮在陣の
                勞を犒ふ、
文禄2年 11月11日  大日本史料  秀吉、慶尚道金海に鎭する鍋島直茂の勞を犒ひ、狩獲せる虎の皮・頭・肉・膽を取揃へ
                て進めしを謝す

文禄2年 11月11日  大日本史料  秀吉、丹後宮津の長岡忠興の老臣松井康之に山城の地を宛行ふ、
文禄2年 11月15日  大日本史料  秀吉、藏入分近江の地の代官同國觀音寺に年貢請取状を與ふ
文禄2年 11月18日  大日本史料  秀吉、山城伏見に至る、秀次、来り謁す、又、秀吉、尾張に放鷹す
文禄2年 11月20日  大日本史料  秀吉、淺野長吉(長政)の封若狭を收めて、甲斐を與へ、其子長繼(幸長)をして、
                十六萬石を領し、長吉をして、五萬五千石を領せしむ、又、其一萬石を蔵入分と爲す
文禄2年 11月24日  大日本史料  秀次、使を尾張に遣し、秀吉の起居を候す、
文禄2年 11月28日  大日本史料  秀吉、奈良興福寺薪能を興行す、同國郡山の羽柴秀保、之を觀る、
文禄2年 11月29日  大日本史料  秀吉、朝鮮在陣の島津義弘及び伊東祐兵等をして、捕虜の細工及び裁縫に巧なる者を
                京都に送らしむ、
文禄2年 12月2日  大日本史料  秀次、秀吉の藏入分尾張八郡を檢地せしむ
文禄2年 12月11日  大日本史料  秀吉、尾張より山城伏見に歸る、狩獲せる鶴・雁等を秀次に遺る
文禄2年 12月12日  大日本史料  秀吉、諸國に陰陽師を徴す
文禄2年 12月13日  大日本史料  島津忠恆、薩摩鹿兒島より大坂に至り、秀吉に謁せんとす、尋で、和泉堺に留り、
                其時期を待つ
文禄2年 12月14日  大日本史料  秀吉、山城伏見より大坂に歸る、
文禄2年 12月14日  大日本史料  秀吉、朝鮮在陣の松浦宗静(鎭信)の狩獲せる虎を進めしを謝す
文禄2年 12月15日  大日本史料  陰陽師有昌、秀吉に明年の新暦を進む

文禄2年 12月16日  大日本史料  秀吉、秀次に朝鮮の鱈二十尾を遺る
文禄2年 12月20日  大日本史料  秀吉、朝鮮在陣の諸將をして多人數は三分一を、小勢は半分を交代して、歸國せしむ
文禄2年 12月26日  大日本史料  秀次、物を秀吉に進めて、歳暮を賀す
文禄2年 12月27日  大日本史料  秀吉、朝鮮在陣の島津忠豐の、物を遺りて歳暮を賀せしを謝す、
文禄2年 12月29日  大日本史料  秀吉病む

文禄2年      大日本史料  薩摩鹿兒島の島津龍伯(義久)、秀吉の命に依り、琉球王尚寧の、兵粮を遺るを
                謝し、尚、之を求む、尋で、尚寧、之を拒絶す
文禄2年      大日本史料  秀吉、小出吉政に播磨龍野城を與ふ、
文禄2年      大日本史料  秀吉、比律賓諸島長官に答へ、重ねて、入貢を促す

文禄2年     伊予中世年表  ○来島(村上)通之も朝鮮水軍の李舜臣と戦い戦死した。