山口県周防大島物語

山口県周防大島を中心とした「今昔物語」を発信します。
(興味のある話題のカテゴリーを古い順に見て下さい。)

沖家室沖で自衛艦航行不能

2023年01月12日 07時43分37秒 | 談論風発?(与太話))
正月早々、周防大島沖で自衛艦「いなづま」航行不能とのニュースが流れました。

久々の周防大島ニュースで何事かと見ていると、定期メンテナンスでドックに入っていた
艦が母港に戻る前のテスト航海中に事故を起こしたとか。

事故を起こした場所を「船舶航海MAP」で確認したら、沖屋室島と大水無島の間の海域でした。
今日現在も同じ位置に停泊していることをGPSがMAPに知らせています。

船頭部分に損傷とスクリューの羽の一部が無いとか。
この船は吃水8Mなので、近くの浅瀬の岩礁に接触したのでしょうね。
(当初、防衛省は吃水は12Mと発表しましたが。後日、8Mに訂正しました。自艦のスペックも
 きちんと把握していない体たらくです。情けない)

この程度の艦ならシャフトが数十センチでしょうから、現在漏れてる油はシャフト内の
潤滑油でしょうから、油漏れはそんなに心配することはないでしょう。

江戸時代から沖屋室島から大水無瀬島、小水無瀬島の間は浅瀬岩礁が多く、この地帯を漁場と
する沖家室漁民は注意をすると若者に教えた場所です。
今は大水無瀬は今は無人島ですが江戸期は人が住んでいて、沖家室や地家室から船で通っていました
ので、数メートル下の岩礁を見ながら操船していた場所ですから危険です。

海上自衛隊呉基地の艦ですので、自分の庭で転んで怪我したことになります。

オバカとしか言いようがありません。海図(チャート)は有った筈ですので、何故この海域に
入りこんだが不明です。数百トンの船でも入らない瀬の多い場所です。

操船した航海士が未熟かシロウートに近い人だったのでしょうね。

これでは防衛予算を倍増しても「大丈夫かいな?」と言われかねません。

大伴姓 屋代島大野家 関連年譜(AD1950年~1952年)

2023年01月11日 09時44分19秒 | 大伴姓屋代島大野家 関連年譜
西暦1590年
天正18年 1月1日  大日本史料  秀吉、参内して、歳首を賀す、又仙洞御所に参賀す【御湯殿上日記】
天正18年 1月5日  大日本史料  秀吉、大坂に下向す
天正18年 1月8日  大日本史料  是より先、肥前龍造寺政家、退老す、子長法師丸(高房、)幼きに依り、鍋島直茂をし
                て、国事を摂せしめ、長法師丸を養子と為さしむ、是日、秀吉、藤八郎、直茂及び其子
                伊勢松(勝茂)をして、各其所領を安堵せしむ、尋で、直茂をして、龍造寺氏の家督を
                相続せしめ、政家に隠居分として同国佐賀郡大俣を与へ、長法師丸を政家の嗣子と為す

天正18年 1月9日  大日本史料  秀吉、大坂より帰京す
天正18年 1月9日  大日本史料  秀吉、上杉景勝に答書し、重ねて、北條氏征伐のこと等を告げ、景勝をして、戦功を励
                ましむ、明日、又信濃上田の真田昌幸に出馬の時期を告ぐ
天正18年 1月13日  大日本史料  是より先、蘆名義広の将山内氏勝、河原田盛継、陸奥水窪、大塩城等に據りて、伊達
                政宗に抗し、援を秀吉に請ふ、是日、石田三成、秀吉の命を奉じて、之に答へ、同城を
                堅守して、小田原出陣を待たしむ、
天正18年 1月13日  大日本史料  徳川家康の子秀忠上京す、尋で秀吉に、聚楽亭に謁す
天正18年 1月20日  大日本史料  是より先、伊達政宗、遠藤不入齋を京都に遣し、前田利家、浅野長吉(長政)に頼り
                て、秀吉に、陸奥会津攻略のことを弁疏せしむ、是日、木村清久、浅野長継等、政宗に
                勧めて秀吉の小田原出陣に会せしむ、尋で、政宗、其将原田左馬助に、秀吉に謁せんと
                する意を告ぐ

天正18年 1月21日  大日本史料  秀吉、織田信雄の女を養ひ、徳川秀忠に嫁せしむ、是日、其儀を聚楽亭に行ふ、尋
                 で、秀忠、駿府に帰る
天正18年 1月21日  大日本史料  秀吉、浅野長吉(長政)の亭に臨む
天正18年 1月21日  大日本史料  秀吉、徳川家康を東海道の先鋒と為す、是日、家康、諸将を会して、軍議す
天正18年 1月23日  大日本史料  是より先、秀吉、下野宇都宮国綱をして、忠節を致さしむ、是日、国綱及び其将芳賀
                高継、常陸佐竹義宣に、陸奥より帰陣し、秀吉の小田原出陣に会せんことを勧む
天正18年 1月28日  大日本史料  秀吉、毛利輝元に命じて、水軍を出陣せしむ、是日、輝元、冷泉元満をして、其準備
                 を為さしむ

天正18年 1月    大日本史料  秀吉、増田長盛をして、賀茂川に三條橋を架せしむ、
天正18年 2月2日  大日本史料   田利家、秀吉の命に依り、加賀、能登、越中の兵を率ゐて上野に入らんとし、是日、
                伊達政宗に、下野に出陣して、戦功を励まんことを慫慂す
天正18年 2月3日  大日本史料  秀吉、大坂に下向す
天正18年 2月4日  大日本史料  徳川家康、出羽最上義光の上京して、秀吉に謁せんとするを停め、其小田原出陣を待ち
                て来謁せしむ
天正18年 2月5日  大日本史料  秀吉、本願寺々内の家地子を興正寺佐超(顕尊)に宛行ひ、益田少将を其代官と為す、
                又本願寺に同寺町屋敷の地子を宛行ふ

天正18年 2月8日  大日本史料  秀吉、子鶴松と共に大坂より帰京す、
天正18年 2月14日  大日本史料  秀吉、高倉永孝をして、東征の衣服を撰定せしむ
天正18年 2月17日  大日本史料  秀吉、東征せんとし、其沿道の諸宿をして、伝馬を出さしむ、是日、尾張清洲城守将
                小早川隆景に之を命ず、又浅野長吉(長政)及び
天正18年           長束政家に相模小田原の陣所のことを命ず
天正18年 2月18日  大日本史料  秀吉、羽柴秀次の出征の時期を告ぐるに答へ、駿河三枚橋城に著陣せば、之を報じ、
                又徳川家康と議らしめ、軽挙を戒む、
天正18年 2月26日  大日本史料  是より先、徳川家康、秀吉の為めに、諸将に課して、諸宿に茶亭を作る、是日、駿河
                 吉原の茶屋竣工す、

天正18年     山口県史整理年表  輝元、秀吉の命により、分国の検地を行う 【福原家文書】
天正18年 2月27日  大日本史料  脇坂安治、九鬼嘉隆、加藤嘉明、長宗我部元親、水軍を率ゐ、遠江今切湊を経て、
                 駿河清水港に著す【脇坂文書】
天正18年 2月28日  大日本史料  聖護院道澄をして、秀吉の戦捷を祈らしめらる、又勧修寺晴豊を遣して、馬及び太刀
                を秀吉に賜ふ、上皇も亦、物を賜ふ
天正18年 2月28日  大日本史料  是より先、秀吉、島津義弘に命じ、琉球王尚寧をして、来聘せしむ、仍りて、尚寧の
                使者、来朝し国書を呈す、是日、秀吉、之に答書を与ふ

天正18年 2/30   大日本史料  秀吉、讃岐塩飽島を検地し、同島の船方をして、其地を安堵せしむ、
天正18年 3月1日  大日本史料  秀吉、兵を率ゐて京都を発す、四足門前の仮楼に御して、其行装を叡覧あらせらる
天正18年 3月4日  大日本史料  秀吉、近江柏原に在り、脇坂安治をして、九鬼嘉隆と議り、戦功を励ましむ
天正18年 3月6日  大日本史料  秀吉、尾張清洲に在り、羽柴秀次の、遠江蒲原に著陣するを聞き、之を戒め、
                徳川家康、織田信雄と議し、陣地を堅守せしむ
天正18年 3月7日  大日本史料  秀吉、肥前後藤善次郎に所領を宛行ふ
天正18年 3月10日  大日本史料  秀吉、三河吉田に著陣す、明日、軍を進めんとす、徳川家康の将伊奈忠次の進言を
                容れ、之を止む

天正18年 3月10日  大日本史料  出羽角館の戸澤盛安、秀吉の東征を聞き、兵を率ゐて来謁す、秀吉、之に同国仙北三
                郡を与へ、中村一氏に属し、伊豆山中城を攻めしむ
天正18年 3月12日  大日本史料  秀吉、吉川広家をして、尾張星崎城を守らしむ、是日、広家、之に入る
天正18年 3月14日  大日本史料  徳川家康、松平家忠をして、駿河吉原に秀吉の陣屋を作らしむ
天正18年 3月~7月  心斎橋今昔年表  秀吉小田原攻めにて北条氏滅亡
天正18年 3月16日  大日本史料  上皇、諸社をして、秀吉の戦捷を祈らしめんとし、権右少弁甘露寺経遠を召して、
                仰下さる、権大納言勧修寺晴豊、右大臣菊亭晴季と議して、其違例を上皇に奏す

天正18年 3月16日  大日本史料  是より先、信濃田之口城の依田昌朝、同国小諸城依田(松平)康国の父信蕃に逐はれ
                て、相模小田原に奔り、北條氏に頼る、又信濃相木に據り、北條氏直に応ず、康国、
                弟康貞と撃ちて之を逐ふ、是日、徳川家康、秀吉に之を報ず
天正18年 3月16日  大日本史料  大友吉統、豊後柞原八幡宮に豊前黒田孝高の非道を停められんことを祈請す
天正18年 3月17日  大日本史料  秀吉、刀二千振を作らしむ、仍りて、是日、奈良の白銀師、鞘師を京都に徴用す
天正18年 3月19日  大日本史料  秀吉、駿府に入城す、

天正18年 3月20日  大日本史料  徳川家康、駿河長久保より駿府城に到りて、秀吉に謁し、之を饗す、
天正18年 3月22日  大日本史料  出羽最上義光、徳川家康に頼りて、秀吉に鷹を進む、是日、家康、之に答ふ、
天正18年 3月23日  大日本史料  秀吉、駿河清見寺に到る、徳川家康、天野康景をして、之を饗せしむ
天正18年 3月25日  大日本史料  是より先、常陸佐竹義宣、陸奥白河より帰国して、秀吉を援け、相模小田原に出陣せ
                んとし、之を下野宇都宮国綱に議る、是日、 国綱の将芳賀高継、義宣の同族東義久
                に、国綱の同意せることを報ず
天正18年 3月25日  大日本史料  北條氏直の将小関加兵衛、秀吉の水軍と伊豆巌殿に戦ふ、

天正18年 3月26日  大日本史料  秀吉、駿河吉原に著陣す、
天正18年 3月26日  大日本史料  伊達政宗、秀吉に謁せんとし、陸奥相馬口の守将大町三河守、中島宗求等をして、留
                守中の守備を厳にせしむ、尋で、葛西晴信も亦、三田刑部少輔に之を依頼す
天正18年 3月27日  大日本史料  秀吉、駿河の三枚橋城に著す、織田信雄、徳川家康、並に之を迎ふ、
天正18年 3月27日  大日本史料  是より先、秀吉、北條氏直の臣石巻康敬、妙音院某を駿河沼津に拘置せしむ、是日、
                康敬を相模小田原に放還し、某を磔殺す
天正18年 3月27日  大日本史料  是より先、最上義光、秀吉の東征を陸奥津軽為信に報ず、是日、為信、秀吉に駿河
                沼津に謁す、秀吉、為信をして、其所領を安堵せしむ、

天正18年 3月27日  大日本史料  下野大田原城大田原綱清の子晴清、秀吉に来謁す、秀吉、之を賞し備前守を称せしむ
天正18年 3月28日  大日本史料  秀吉、徳川家康と共に伊豆山中城の地形を巡視し、長窪城に入り、織田信雄をして、
                同国韮山城を攻めしむ、蜂須賀家政、福島正則、長岡忠興、蒲生氏郷、中川秀政、
                森忠政、戸田勝重等をして、之に属せしむ、又羽柴秀次をして、中村一氏、田中吉政、
                堀尾吉直(吉晴、) 山内一豊、一柳直末等を率ゐて、山中城を攻めしむ、なほ家康を
                小田原口の先鋒と為し、元山中の間道より進ましむ

天正18年 4月1日  大日本史料  秀吉、軍を進めて、箱根山に陣す、又惟住長重、堀秀政等をして、日金山の間道よ
                 り、小田原に進ましむ、宮城野、湯本、竹浦を守る北條氏の兵、小田原に敗走す、
天正18年 4月1日  大日本史料  上杉景勝、前田利家等と共に上野に入る、是日、秀吉、之に戦況を告げ、同国の諸城を
                攻略せしむ、
天正18年 4月1日  大日本史料  秀吉、下野黒羽の大関晴増に答へて、戦況を報じ、速に来謁せしむ
天正18年 4月1日  大日本史料  脇坂安治、九鬼嘉隆、加藤嘉明、長宗我部元親、水軍を率ゐて清水正令を伊豆下田城に
                攻む、又家康の水軍向井正綱、同国田子の壘を攻め、本多重次、同国阿蘭の砦を陥る、
                尋で、正令、降る【寛永諸家系図伝】

天正18年 4月2日  大日本史料  秀吉、尾張星崎城守将吉川広家を三河岡崎城に移し、小早川隆景をして、尾張清洲城に
                居らしめ、兼ねて星崎城を守らしむ
天正18年 4月2日  大日本史料  下野黒羽の大関晴増、常陸佐竹義宣に、速に秀吉に来謁せんことを慫慂す
天正18年 4月2日  大日本史料  秀吉、陣を相模湯本に移し、諸将を会して、労を犒ふ
天正18年 4月2日  大日本史料  秀吉、尾張星崎城守将吉川広家を三河岡崎城に移し、小早川隆景をして、尾張清洲城に
                居らしめ、兼ねて星崎城を守らしむ
天正18年 4月3日  大日本史料  秀吉、軍を湯本より小田原に進ましむ、明日、諸将をして、小田原城を長囲せしめ、又
                海上を警固せしむ

天正18年 4月4日  大日本史料  秀吉、本願寺光佐(顕如)の音問に答へ、小田原の戦況を報ず、尋で、又之を報ず
天正18年 4月4日  大日本史料  徳川家康、秀吉の命に依り、子同秀忠を駿府より招く、
天正18年 4月5日  大日本史料  是より先、徳川家康、秀吉の命に依り、榊原康政をして、其兵を酒匂口に伏せ、小田原
                城に入る者を捕へしむ、是日、康政の将伊藤雁助、鈴木藤九郎等、大須賀忠政の兵等
                と、山岸主悦助を擒ふ、秀吉、之を釈し、火を城中に放ち内応せしむ、城兵、疑ひて
                之を囚ふ
天正18年 4月5日  大日本史料  北條氏政父子、秀吉を箱根に邀へ撃たんとす、老臣松田憲秀、之を諫止し、秀吉に
                通ず、是日、秀吉、石垣山に牙営を築く

天正18年 4月5日  大日本史料  秀吉、福島正則、蜂須賀家政に命じ、伊豆韮山城を長囲せしめ、織田信雄、蒲生氏郷、
                長岡忠興をして、小田原城を囲ましむ
天正18年 4月7日  大日本史料  是より先、前田利家、上杉景勝、真田昌幸等、信濃を経て、上野に入り、松井田城を囲
                む、是日、秀吉、命じて付城を築かしめ、利家、景勝、昌幸を小田原に招致せること等
                を鍋島直茂に報ず、
天正18年 4月8日  大日本史料  下野皆川広照、兵百余人を率ゐ小田原城を出でゝ降る、秀吉、広照をして、徳川家康に
                属せしむ

天正18年 4月10日  大日本史料  秀吉の臣施薬院全宗、伊達政宗に、小田原の戦況を告げ、其来謁を慫慂す
天正18年 4月12日  大日本史料  秀吉、加藤清正及び伊東祐兵に答書し、戦況を報ず、
天正18年 4月13日  大日本史料  秀吉、室杉原氏(高台院)に答書し、戦況等を報じ、側室浅井氏(淀殿)を下向せし
                 めんことを需む
天正18年 4月15日  大日本史料  徳川家康、織田信雄と共に北條氏に内通すとの風説あり、是日、秀吉、家康及び信雄
                 の営を訪ふ
天正18年 4月15日  大日本史料  秀吉、信濃上田城の真田昌幸父子に答へ、小田原城の情況を報ず

天正18年 4月17日  大日本史料  上皇、妙法院常胤法親王を召して、護摩法を修し、秀吉の戦捷を祈らしめらる
天正18年 4月18日  大日本史料  秀吉、肥後人吉の相良頼房(長毎)に答書し、戦況を報ず
天正18年 4月20日  大日本史料  秀吉の母大政所(天瑞院)の奏請に依り、内侍所臨時御神楽あり
天正18年 4月20日  大日本史料  浅野長吉(長政、)前田利家等、伊達政宗に陸奥会津を還付し、秀吉に小田原に謁せ
                んことを慫慂す、尋で、政宗の将守屋意成、小関重安、利家の陣中より政宗に之を勧む
天正18年 4月21日  大日本史料  是より先、徳川家康、秀吉の命に依り、本多忠勝等をして、相模玉縄城の北條氏勝を
                 諭降せしむ、是日、氏勝、秀吉に謁す
天正18年 4月22日  大日本史料  前田利家、大道寺政繁を従へて、相模小田原に到り、秀吉に謁す

天正18年 4月23日  大日本史料  聖護院道澄をして、金剛童子法を清涼殿に修し、秀吉の戦捷を祈らしむ
天正18年 4月23日  大日本史料  是より先、佐竹義宣、秀吉の命に依り、常陸及び両総の諸城を攻略す、是日、
                下野壬生、鹿沼両城を攻む
天正18年 4月24日  大日本史料  興福寺、秀吉の春日社に寄進する鹿を神苑に放つ
天正18年 4月24日  山口県史整理年表  輝元、賀屋五右衛門尉に岩国の地を給し、警固船のことに尽力せしむ
                   【毛利氏四代実録】

天正18年 4月26日  大日本史料  秀吉、徳川家康と議し、浅野長吉(長政、)木村常陸介及び家康の将本多忠勝、鳥居
                 元忠、平岩親吉をして武蔵、両総等の諸城を攻めしむ是日、長吉等、相模鎌倉に入る
天正18年 4月27日  大日本史料  秀吉、上杉景勝に答書し、上野松井田の地下人等を還住せしめ、又、人身売買を
                厳禁せしむ
天正18年 4月28日  大日本史料  下総結城晴朝、秀吉の動静を下野宇都宮国綱に報ず、明日、又、之を佐竹義宣に報ず
天正18年 4月    大日本史料  秀吉、紀伊青岸渡寺に鰐口を寄進す、母大政所(天瑞院)及び羽柴秀長等も亦、
                之を寄進す

天正18年 5月1日  大日本史料  秀吉、伊豆修禅寺をして、同寺の修造に努めしめ、又門前の百姓を還住せしむ
天正18年 5月2日  大日本史料  権大納言勧修寺晴豊、同中山親綱を小田原に遣して、秀吉に宸翰及び物を賜ひ、其労を
                犒はせらる、是日、晴豊等、京都を発す
天正18年 5月2日  大日本史料  前田利家、伊達政宗に、関東の状勢を告げて、秀吉に来謁せんことを慫慂す
天正18年 5月3日  大日本史料  秀吉、山城清水寺成就院の、祈祷巻数を贈るを謝す
天正18年 5月4日  大日本史料  秀吉の生母大政所(天瑞院、)大和春日社に参詣す、
天正18年 5月7日  大日本史料  秀吉、小早川隆景を尾張清洲より招き、小田原城攻略の策を諮ひ、長囲するに決し、是
                日、側室浅井氏(淀殿)を招致す、

天正18年 5月11日  大日本史料  秀吉、上部宗次郎に、伊勢多気郡の地を宛行ふ、
天正18年 5月13日  大日本史料  秀吉、加藤清正の、物を進めて端午節供を賀するを謝し、関東の状況を報ず
天正18年 5月13日  大日本史料  秀吉、前田利家及び上杉景勝等をして、速に北條氏邦の武蔵鉢形城を攻略せしむ、
                 尋で、利家等、之を囲む
天正18年 5月14日  大日本史料  秀吉の将片桐直倫(且元、)相模底倉に禁制を下す、尋で、同国大平台村に之を下す
天正18年 5月15日  大日本史料  秀吉、豊前中津の黒田長政に、関東の情勢を報ず、又下野那須資晴に答へて、小田原
                 の形勢を告げ、速に来謁せしむ

天正18年 5月16日  大日本史料  石田三成、岩城常隆に答書し、相模小田原攻囲の状を告げ、速に秀吉に来謁せしむ、
天正18年 5月17日  大日本史料  徳川家康の将鳥居元忠、其所領の大豆百俵を秀吉に進む、是日、長束正家、之に其請
                 取状を与ふ
天正18年 5月20日  大日本史料  秀吉、加藤清正の、起居を候するに答へ、相模小田原の近況を報ず
天正18年 5月20日  大日本史料  秀吉、浅野長吉(長政、)木村常陸介等の、大兵を擁して、房総の小城を攻撃するを
                 譴責し、速に前田利家等を援けて、武蔵鉢形城を攻めしむ
天正18年 5月20日  大日本史料  秀吉の生母大政所(天瑞院、)奈良より聚楽亭に帰る、

天正18年 5月22日  大日本史料  秀吉、美濃清水城の稲葉重通をして、兵糧米を相模小田原に運送せしむ
天正18年 5月24日  大日本史料  是より先、下総結城の結城晴朝、好を秀吉に通じ、其子を養嗣子と為さんことを請
                 ふ、秀吉、養子羽柴秀康を与ふることを約す、是日、晴朝、相模小田原に来謁す、
天正18年 5月27日  大日本史料  佐竹義宣、宇都宮国綱、東義久、太田道誉(資正)と共に相模小田原に抵り、秀吉に
                 謁す、秀吉、義宣、国綱をして、武蔵鉢形城を攻めしむ
天正18年 5月27日  大日本史料  長岡忠興、池田照政(輝政、)長谷川秀一、秀吉の命に依り、武蔵岩槻城攻略の状況
                 等を北條氏政に告げ、之を威嚇す

天正18年 5月27日  大日本史料  石田三成、秀吉の命に依り、陸奥田村宗顕の来謁を促す、是日、宗顕の将田村聖休、
                 橋本顕徳、之を伊達政宗の同族同成實に報ず、
天正18年 5月27日  大日本史料  左衛門督侍従従四位下堀秀政、相模小田原早川口の営中に卒す、尋で、秀吉、秀政の
                 子秀治をして、家督を相続せしむ
天正18年 5月29日  大日本史料  秀吉、相模小田原の陣中に茶会を催す
天正18年 6月5日  大日本史料  伊達政宗、相模小田原に著す、秀吉、之を同国底倉山中に宿せしめ、前田利家、
                浅野長吉(長政)を武蔵鉢形城の陣中より召還す

天正18年 6月5日  大日本史料  秀吉、筑後勝尾の筑紫広門の起居を候するに答へ相模小田原及び関東諸城の戦状を報ず
天正18年 6月6日  大日本史料  伊達政宗、陸奥岩城の岩城常隆に、速に相模小田原に来り、秀吉に謁せんことを慫慂す
天正18年 6月7日  大日本史料  秀吉、前田利家、浅野長吉(長政、)施楽院全宗等をして、伊達政宗に、陸奥会津を攻
                略し、又佐竹、相馬の諸氏と戦ふの非違を詰責せしむ、尋で、秀吉、会津を収公す
天正18年 6月7日  大日本史料  秀吉、加藤清正の起居を候するに答へ、相模小田原及び関東の戦況を報ず
天正18年 6月7日  大日本史料  是より先、福島正則、蜂須賀家政等、北條氏規を伊豆韮山城に攻む、是日、徳川家康、
                氏規に説き、速に下城し氏政、氏直父子の為めに罪を秀吉に謝せしむ

天正18年 6月8日  大日本史料  北條氏直の将松田憲秀、小田原城中より秀吉に内応す、秀吉、之に伊豆、相模を宛行ふ
                ことを約す
天正18年 6月9日  大日本史料  秀吉、伊達政宗を陣中に引見す、明日、又之を饗す、尋で、其帰国を許し、木村清久、
                浅野正勝をして、之と同行し、陸奥会津の黒川城を収めしむ
天正18年 6月11日  大日本史料  秀吉の奏請に依り、飛鳥井雅庸に北御所を賜ふ
天正18年 6月12日  大日本史料  秀吉、石田三成に武蔵忍城及び同国岩槻城攻略のこと等を命ず
天正18年 6月12日  大日本史料  陸奥岩城の岩城常隆、相模小田原に赴き、秀吉に謁す、
天正18年 6月13日  大日本史料  秀吉、黒田長政の、起居を候するに答へ、相模小田原及び関東諸城の戦況を報ず

天正18年 6月16日  大日本史料  是より先、松田憲秀、長子笠原新六郎と謀り、秀吉に内通し、池田、長岡、堀等諸氏
                 の兵を小田原城内に入れんとす、憲秀の秀治、之を氏直に告ぐ、是日、氏直、憲秀を
                 囚へ、新六郎を誅す
天正18年 6月16日  大日本史料  出羽角館城の戸澤盛安、相模小田原の陣中に卒す、弟光盛、家督を継ぐ、尋で、
                 秀吉、光盛をして、其本領を安堵せしむ、
天正18年 6月16日  大日本史料  北條氏直、天野主殿助に、秀吉を破りて後に、其私領内に徳政を許すことを約す
天正18年 6月20日  大日本史料  秀吉、蔵入分豊後の百姓の、薩摩、大隅、日向に逃散するに依り、島津龍伯(義久)
                 に命じて、之を還住せしむ

天正18年 6月24日  大日本史料  羽柴雄利、黒田孝高、秀吉の命に依り、小田原城井細田口の守将太田氏房を勧め、氏
                政父子に和議を説かしむ、北條氏規も亦、伊豆韮山より小田原に来りて和議に賛同す
天正18年 6月25日  大日本史料  徳川家康、秀吉の命を承け、本多忠勝、平岩親吉をして、相模筑井城を攻略せしむ、
                 是日、忠勝等、之を陥る
天正18年 6月26日  大日本史料  秀吉、相模石垣山の陣営成るに依り、之に徙る、是日、諸陣に令し、鉄砲を齋射し
                 て、小田原城兵を威嚇せしむ
天正18年 6月26日  大日本史料  伊達政宗、秀吉の命を奉じ、相馬義胤を伐たんとし、諸将に令して其準備を為さし
                む、又箭部下野守及び白河義親の将河東田重清等に命じ、速に陸奥大里城を攻略せしむ

天正18年 6月28日  大日本史料  秀吉、武蔵江戸を徳川家康の城地と定む【天正日記】
天正18年 6月29日  大日本史料  斯波義近、北條氏政、同氏直父子の助命を秀吉に請ふ、秀吉、之を卻く
天正18年 7月2日  大日本史料  秀吉、奥羽を征せんとす、仍りて、西川八右衛門等を遣し、道路、橋梁を修築せしむ
天正18年 7月2日  大日本史料  秀吉、伊豆韮山城の兵を相模小田原に移す
天正18年 7月5日  大日本史料  北條氏直、相模小田原城を出で、羽柴雄利、黒田孝高に頼り、自殺して父氏政以下の死
                を宥さんことを秀吉に請ふ、秀吉、之に感じ、
天正18年 7月5日  大日本史料  秀吉、浅野長吉(長政)を陸奥に遣す、是日、長吉、武蔵岩槻に著し、之を陸奥白河
                義親に告ぐ

天正18年 7月6日  大日本史料  秀吉、片桐直倫(且元、)脇坂安治及び家康の将榊原康政等をして、相模小田原城を
                収公せしむ
天正18年 7月6日  大日本史料  秀吉、上杉景勝、前田利長をして、相模小田原に会せしむ、是日、之を停め、武蔵忍城
                に赴援せしむ
天正18年 7月6日  大日本史料  陸奥南部信直の将津軽為信背き、信直の同族九戸政實、之に応ず、是日、信直、子利直
                と共に秀吉に謁し、為信、政實を訴へ、之を討たんことを請ふ、秀吉、為信の来謁する
                を以て許さず
天正18年 7月7日  大日本史料  秀吉、下野小山秀綱の、相模小田原の陣に会せざるに依り、其領地を没収す

天正18年 7月8日  大日本史料  広橋兼勝、飛鳥井雅庸、吉田兼治、相模小田原に下向し、秀吉の陣を訪ふ、是日、
                京都を発す
天正18年 7月10日  大日本史料  秀吉、側室浅井氏(淀殿)を山城淀城に還す、是日、三河岡崎城守将吉川広家等に
                 路次の用意を命ず
天正18年 7月11日  大日本史料  秀吉、北條氏政及び弟同氏照を田村安清の家に自殺せしむ
天正18年 7月11日  大日本史料  陸奥八戸直栄、相模小田原に到りて、秀吉に謁す、仍りて、紀伊高野山遍照光院、
                愛染王供を修し、是日、其巻数を直栄に遺る

天正18年 7月12日  大日本史料  秀吉、室杉原氏(高台院)に答へ、鶴松等の生御魂祝を贈るを謝し、戦況等を報ず
天正18年 7月12日  大日本史料  秀吉、北條氏直の、徳川家康の女婿たるに依り、助命して、之を紀伊高野山に放つ、
                尋で、氏直、相模小田原を発す、北條氏規、同氏勝等、従ふ
天正18年 7月13日  大日本史料  秀吉、相模小田原城に入る、徳川家康の領国三河、遠江、駿河、甲斐、信濃を収め、
                 北條氏の故地関東八国を与へ、別に近江、伊勢等の地十一万石を給す
天正18年 7月13日  大日本史料  秀吉、徳川家康の故地三河、遠江、駿河、甲斐、信濃を織田信雄に給す、信雄、旧に
                 依り、尾張、伊勢を領せんことを請ふ、秀吉、之を下野那須に放ち、佐竹義宣に預
                 く、尋で、秀吉、信雄の旧地尾張及び北伊勢五郡を羽柴秀次に与へ、信雄の臣羽柴
                 雄利を直臣と為し、同国神戸の地を安堵せしめ、木造長政に地を与へ、織田秀信の
                 後見と為し三河、甲斐、信濃を諸将に頒ち与ふ、尋で京極高次を近江八幡山に封ず

天正18年 7月13日  大日本史料  伊達政宗、陸奥会津の黒川城を秀吉に致して、出羽米澤に退く、是日、之を
                 田村宗顕に告ぐ
天正18年 7月14日  大日本史料  徳川家康、太田氏房及び其将伊達与兵衛、野本将監の妻子の、領国内に居住するを許
                 し、之を黒田孝高、羽柴雄利に告ぐ
天正18年 7月15日  大日本史料  秀吉、小早川隆景、吉川広家に命じ、金子三千枚及び荷物を聚楽亭に輸送せしめ、
                 又役夫百人を備へしむ
天正18年 7月16日  大日本史料  秀吉、北條氏政、同氏照の首級を京都一條戻橋に梟せしむ

天正18年 7月16日  大日本史料  是より先、浅野長吉(長政、)石田三成、真田昌幸等、佐竹、宇都宮等諸氏の兵を率
                 ゐて、成田長氏の兵を武蔵忍城に囲む、秀吉、長氏に命じ、城兵を諭さしむ、是日、
                 同城陥る
天正18年 7月17日  大日本史料  秀吉の奏請に依り、紫宸殿を延暦寺に賜ふ
天正18年 7月17日  大日本史料  秀吉、陸奥、出羽を征せんとし、相模小田原を発す、
天正18年 7月20日  大日本史料  秀吉、武蔵江戸を発し、陸奥に出陣す
天正18年 7月20日  大日本史料  秀吉の将木村清久、伊達政宗に、陸奥黒川城中の秀吉館舎の竣るを告げ、政宗をし
                 て、白河、会津間の道路、橋梁、館舎を修築せしめ、又糧米を進めしむ

天正18年 7月22日  大日本史料  左京大夫従四位下岩城常隆、相模鎌倉の星谷に卒す、尋で、秀吉、佐竹義重の子能化
                 丸をして、常隆の家督を相続せしむ、能化丸、名を貞隆を改む
天正18年 7月26日  大日本史料  秀吉、下野宇都宮に著陣す、陸奥、出羽の置目を議せんとし、伊達政宗、最上義光を
                 召致す
天正18年 7月26日  大日本史料  秀吉、徳川家康の将本多忠勝に、佐藤忠信の冑を与ふ
天正18年 7月27日  大日本史料  秀吉、南部信直をして、陸奥南部の地七郡を安堵せしめ、其妻子を在京せしめ、其領
                 内を検地せしむ、又家臣等の居城を毀ち、其人質を同国三戸城に置かしむ
                 晴朝、家督を秀康に譲り、江戸重通の女を養ひて、之に配す

天正18年 7月30日  大日本史料 是より先、長宗我部元親、蜂須賀家政、生駒近規等、富士山麓に、大仏殿の用材を得
                て、其運搬道路のこと等を秀吉に報ず、是日、秀吉、之を褒し又奥羽両国の状況を告ぐ
                【伊予古文】
天正18年 8月1日  大日本史料  是より先、上野金山の由良国繁、弟長尾顕長と共に小田原に入城す、国繁の母赤井氏、
                前田利家等の上野に入るを聞き、孫貞繁をして、之に会せしむ、是日、秀吉、赤井氏に
                常陸牛久の地を宛行ふ
天正18年 8月1日  大日本史料  秀吉、佐竹義重をして、其邑を安堵せしむ、又其妻子を人質として、上京せしむるに依
                り、之に伝馬、人足を給す

天正18年 8月1日  大日本史料  秀吉、上杉景勝に命じ、木村常陸介、大谷吉継と議し、出羽を検地せしむ
天正18年 8月2日  大日本史料  陸奥白河義親、秀吉に謁せんとし出発す、伊達政宗の、奥羽征討の命を奉ずるに依り、
                其軍に会す、是日、秀吉、之を褒す
天正18年 8月4日  大日本史料  織田信雄、徳川家康に頼りて秀吉の意を解かんことを請ふ、是日、家康、信雄の臣曽我
                尚祐に、秀吉の意の和ぎしことを報ず
天正18年 8月6日  大日本史料  秀吉、陸奥白河に著す、明日、同国長沼に進む

天正18年 8月9日  大日本史料  秀吉、陸奥会津の黒川城に入る、尋で、大崎義隆、葛西晴信、石川昭光、白河義親の、
                相模小田原に参陣せざるを責めて、其邑を没収し、義隆、晴信の邑を木村吉清、同清久
                父子に与へ、伊勢松坂の蒲生氏郷を会津に封ず、又陸奥を検地せんとし、片桐直倫
               (且元)等に其條規を与ふ
天正18年 8月10日  大日本史料  秀吉、陸奥石川兵蔵に百姓の武具所持禁止等の條規を頒つ、
天正18年 8月11日  大日本史料  秀吉、陸奥、出羽の状況及び伊達政宗の室田村氏、最上義光の妻子等を人質として、
                上京せしめしことを島津龍伯(義久)に報ず

天正18年 8月12日  大日本史料  秀吉、陸奥黒川城を発す、尋で、下野宇都宮を経て駿河に旋る
天正18年 8月13日  大日本史料  石田三成等、秀吉の命に依り、陸奥石川昭光の罪を宥し、其妻を人質として、同国
                白河に送らしむ、又其領内の年貢の三分一を徴用し、兵糧に宛て、三分二を安堵せしむ
天正18年 8月16日  大日本史料  秀吉の生母大政所(天瑞院)及び室杉原氏(高台院)に物を賜ふ
天正18年 8月18日  大日本史料  秀吉、吉川広家をして、分国中の刀駆を行はしむ
天正18年 8月19日  大日本史料  秀吉、白河義親をして、陸奥会津に在城せしむ是日、宇喜多秀家、義親に其命を伝ふ
天正18年 8月20日  大日本史料  秀吉、駿河清見寺に著す

天正18年 8月21日  大日本史料  島津龍伯(義久、)琉球王尚寧に、秀吉の関東平定を報じ、速に方物、楽工を献じ、
                 之を賀せんことを促す、
天正18年 8月22日  大日本史料  秀吉、御生母准三宮勧修寺氏に山城山科の地二百石を献ず
天正18年 8月22日  大日本史料  秀吉、駿河大宮の浅間社等をして、同社領等を安堵せしむ、又同国瑞龍寺の門前諸役
                 を免除し、同寺をして、其寺領を安堵せしめ、徳川家康室故豊臣氏(旭姫)菩提の為
                 めに地を寄進す
天正18年 8月22日  大日本史料  秀吉、帰京の後、相模鶴岡八幡宮を造営せんとし、之を同宮社家等に約す、

天正18年 8月22日  大日本史料  秀吉、駿府に小西行長、森吉成を招き、明国出兵の準備を議す、是日、山中長俊、
                 之を増田長盛に報ず
天正18年 8月22日  大日本史料  出羽米澤の町民、逃散す、仍りて、是日、徳永寿尊、秀吉の命に依り、伊達政宗をし
                 て、之を鎮撫し還住せしむ
天正18年 8月22日  大日本史料  吉川広家、秀吉を三河岡崎城に饗せんとし、是日、之を招請す
天正18年 8月23日  大日本史料  秀吉、遠江掛川に著す、藤堂高虎の、物を進めて起居を候するを謝す
天正18年 8月27日  大日本史料  秀吉、尾張清洲町に禁制を下す

天正18年 8月27日  大日本史料  是より先、下野佐野城佐野宗綱の遺臣等、北條氏政の弟同氏忠を請ひて、家督を相続
                 せしむ、宗綱の弟天徳寺寶衍、京都より帰国し、秀吉に頼りて、佐野城を奪ふ、
                 是日、寶衍、之を三浦元政に報ず
天正18年 8月30日  大日本史料  三河岡崎の田中吉政、秀吉の朱印状に任せ、坂井利貞をして、知行分尾張北島郷の
                 地を安堵せしむ

天正18年 8月  心斎橋今昔年表   東北地方を平定し、全国統一

天正18年 9月1日  大日本史料  秀吉、京都に凱旋す、
天正18年 9月4日  大日本史料  秀吉、諸将の末だ凱旋せざるに依り、参内せざることを奏す、
天正18年 9月7日  大日本史料  秀吉、近江今枝勘右衛門等に所領を宛行ふ
天正18年 9月15日  大日本史料  秀吉、禁裏造営を巡検す、
天正18年 9月16日  大日本史料  秀吉、新御所に遷御あらせらるゝを待ちて、朝鮮の使臣を従へ参内せんとし、是日、
                 菊亭晴季等をして、之を奏せしむ
天正18年 9月18日  大日本史料  毛利輝元、秀吉を其亭に饗す、明日、又廷臣、諸将を饗す、尋で帰国す、

天正18年 9月19日  大日本史料  秀吉、上杉景勝をして、出羽秋田を検地せしめ、其年貢の額を定む
天正18年 9月20日  大日本史料  秀吉、故足利義明の孫国朝を、本宗足利義氏の遺女某に配し、其名跡を相続せしめ、
                 是日、某に下総古河の地を宛行ふ
天正18年 9月23日  大日本史料  秀吉、聚楽亭に茶会を催す、尋で、毛利輝元、加藤清正、之を催す
天正18年 9月24日  大日本史料 羽柴秀次、黒田孝高及び大澤二郎左衛門等に所領を加ふ
天正18年 9月25日  大日本史料  秀吉、摂津有馬に湯治す、

天正18年 10月2日  大日本史料  是より先、秀吉、田村宗顕の邑を没収す、仍りて、浅野長吉(長政、)伊達政宗をし
                 て、宗顕の旧城陸奥三春を収めしむ、是日、政宗、宗顕の家臣をして、出羽米澤に移
                 らしむ、尋で、宗顕、政宗の言を斥け、上京して、秀吉に陳ぜんとし途に卒す
天正18年 10月14日  大日本史料  秀吉、摂津有馬より大坂城に帰る
天正18年 10月16日  大日本史料  本願寺光佐(顕如、)秀吉を其亭に饗す
天正18年 10月17日  大日本史料  秀吉、片桐直倫(且元)をして、和泉に於ける蔵入分の年貢を運上せしむ
天正18年 10月19日  大日本史料  秀吉、大和郡山に之き、羽柴秀長の病を問ふ、又春日社に米五千石を寄進し、
                 其平癒を祈る、

天正18年 10月22日  大日本史料  秀吉の奏請に依り、諸社をして羽柴秀長の病平癒を祈らしめらる
天正18年 10月22日  大日本史料  是より先、秀吉、下野那須資晴の相模小田原に来謁せざるに依り、其封を奪ふ、
                 是日、資晴の子藤王丸に下野那須の地を宛行ふ
天正18年 11月3日  大日本史料  秀吉、東征より旋りて初めて参内し、銀三百枚を献ず、尋で、之を廷臣に頒ち賜ふ
天正18年 11月3日  大日本史料  是より先、木村清久の将陸奥古河城の関大夫等、一揆の為め同国黒川に殺さる、仍り
                て、政宗、浅野正勝及び鬼庭石見をして、 之を秀吉に報ぜしめんとし、是日、石見を
                 招致す

天正18年 11月4日  大日本史料  秀吉、堀秀治に越前、加賀の地十六万石を加増す
天正18年 11月5日  大日本史料  秀吉、水野和泉守に所領を宛行ふ
天正18年 11月7日  大日本史料  秀吉、朝鮮正使黄允吉、副使金誠一、従事官許筬等を聚楽亭に引見し、国書を受く、
                 尋で、之に答書を与ふ、允吉等の、其改作を請ふを聴かず
天正18年 11月19日  大日本史料  大神宮以下十一社に勅使を遣し、秀吉の子鶴松の疾平癒を祈らしめらる
天正18年 11月21日  大日本史料  内侍所に千返楽を奏して、秀吉の子鶴松の疾平癒を祈らせらる

天正18年 11月24日  大日本史料  蒲生氏郷、秀吉に伊達政宗の異心あることを注進す
天正18年 11月26日  大日本史料  蒲生氏郷、木村吉清、浅野正勝の弁明を聞き、伊達政宗に対し、意稍解く、是日、
                 之を秀吉に報じ、又政宗に告ぐ
天正18年 11月27日  大日本史料  伊達政宗、白河義親の軍状を問ふに答へ、秀吉に忠節を致さしむ、
天正18年 11月30日  大日本史料  秀吉、島津龍伯(義久、)同義弘に暇を給し、帰国せしむ
天正18年 12月3日  大日本史料  秀吉、丹波亀山の羽柴秀勝を甲斐に移封す、是日、秀勝、同国大泉寺の諸役を免除す

天正18年 12月5日  大日本史料  秀吉、近江の蔵入分代官太田牛一等に命じ、牢人を追払はしむ、
天正18年 12月7日  大日本史料  秀吉、陸奥相馬誠胤をして、其邑を安堵せしむ
天正18年 12月15日  大日本史料  秀吉、蒲生氏郷の報に依り、徳川家康及び羽柴秀次をして、之を救援せしむ、尋
                 で、氏郷の誤報を怒り、家康等を途に召還す、是日、富田一白(知信、)和久宗是、
                 並に伊達政宗に之を報ず
天正18年 12月18日  大日本史料  秀吉、下野大田原の大田原晴清をして継飛脚二十人を備へ、文書の遞送に當らしむ

天正18年 12月18日  大日本史料  羽柴秀次、下野宇都宮に陣す、是日、秀吉、秀次をして、徳川家康と聯絡し、蒲生
                 氏郷を救援せしむ、又兵糧を準備せしむ
天正18年 12月20日  大日本史料  秀吉、明後年肥前名護屋に出陣せんとし、立花宗茂等に其準備を命ず
天正18年 12月25日  大日本史料  秀吉、藤堂高虎に知行を加ふ、
天正18年 12月26日  大日本史料  秀吉、遠江方広寺等に地を寄進す
天正18年 12月27日  大日本史料  秀吉、徳川家康の将榊原康政の報に依り、家康及び羽柴秀次をして、蒲生氏郷を
                 赴援せしむ

天正18年 12月29日  大日本史料  秀吉の奏請に依り、徳川秀忠を侍従に任じ、従四位下に叙す、

天正18年      大分県の歴史  黒田孝高が豊前中津城を(現中津市)築城する。

                *今元が行橋市今元なら今元家初代直光慶長3年誕生と系図にあるが天正3年の誤記と
                 すれば13歳の元服時の天正15年今元の地名を採ったとすれば父親が伝兵衛隆直で
                 あることと矛盾せず、すべて氷解する。後に故あって直政の許に帰ったのであろう。
                 「屋代大野系図に隆直の筑前黒崎や黒田藩士として残る大野三兄弟の情報も今元直光
                 によりもたらされた可能性がある。

天正18年     伊予一色HP  天正18年(1590年)、摂津麻田藩青木一重の代官となっていた武士重之公は、
                 命により 古城に居た周敷郡北条村の地頭越智勘左衛門を討って移り住み、そこを
                「三ツ屋」と称した。

天正18年   周防大島民族誌  小松の妙善寺は真宗。古くは真言宗の光照寺というのがあったがその焼け跡へ天正
                十八年再興されて妙善寺と改め寛永十一年に改宗せらる。

西暦1591年
天正19年 1月2日  大日本史料  千宗易(利休、)陸奥二本松滞陣の長岡忠興の老臣松井康之に答へ、同国の一揆に
                就きての秀吉の対策等を報ず
天正19年 1月3日  大日本史料  諸大名、秀吉に歳首を賀す
天正19年 1月8日  大日本史料  秀吉、山城淀に遊猟し、鳥を献ず
天正19年 1月10日  大日本史料  是より先、石田三成、秀吉の命に依り、陸奥に下向し、是日、相馬に著す、蒲生氏郷
                の、同国名生城を出るを聞きて帰京す
天正19年 1月12日  大日本史料  秀吉、参内して、歳首を賀す、

天正19年 1月14日  大日本史料  勧修寺晴豊を秀吉の聚楽亭に遣して太刀、馬代を賜ふ、上皇も亦、中山親綱を遣して
                 之を賜ふ
天正19年 1月17日  大日本史料  秀吉、出羽戸澤九郎に同国仙北の地を宛行ふ
天正19年 1月18日  大日本史料  是より先、秀吉、陽光院の六宮(智仁)の御所を造営す是日、同宮、之に遷徙せらる
天正19年 1月19日  大日本史料  秀吉、尾張に遊猟せんとす、子鶴松の病に依りて止む
天正19年 1月20日  大日本史料  是より先、伊達政宗、一揆を勦滅して自ら弁ぜんとし、兵を徴す、是日、秀吉の命に
                 依り、出兵を停む、

天正19年 1月     大日本史料  秀吉、出羽安東(秋田)實季に同国秋田郡の地を宛行ふ、
天正19年 閏1月5日  大日本史料  秀吉、本願寺光佐(顕如)に京都六條の地を与へ、和泉貝塚より之に移居せしむ、
天正19年 閏1月8日  大日本史料  是より先、大友府蘭(宗麟、)大村理専(純忠、)有馬鎮貴(晴信、)羅馬法皇
                  グレゴリオ十三世に使節を派遣す、耶蘇会宣教師アレッサンドロ・バリニヤーニ、
                  使節と同行して来朝し、是日、共に秀吉に聚楽亭に謁し、印度副王の書を呈す、

天正19年 閏1月10日  大日本史料  秀吉、尾張清洲に遊猟す、
天正19年 閏1月11日  大日本史料  秀吉、和泉の小出吉政に知行を加ふ、
天正19年 閏1月23日  大日本史料  伊達政宗、遠江浜松城に著す、是日、前田利家に懇情を謝し、秀吉に取成を依頼す
天正19年 閏1月27日  大日本史料  伊達政宗、尾張清洲に著す、是日、秀吉、之を引見す
天正19年 閏1月     大日本史料  秀吉、京都六町町を大名屋敷と為し、廷臣に替屋敷を与ふ
天正19年 2月1日     大日本史料  秀吉、阿子田新右衛門に美濃黒坪村の地等を宛行ふ
天正19年 2月3日     大日本史料  秀吉、尾張清洲より帰京す、
天正19年 2月9日     大日本史料  秀吉、陸奥葛西、大崎両氏の乱を糾して、木村吉清父子の封を奪ひ、其地を伊達
                   政宗に与へ、同国田村、塩松(四本松)等の地を直領と為す、是日、伊達政宗、
                   之を浅野長吉(長政)に報ず、

天正19年 2月28日  大日本史料  是より先、秀吉、千宗易(利休)を和泉堺に追放し、其寿像を一條戻橋に梟す、
                 是日、宗易をして、自殺せしむ、
天正19年 3月4日  大日本史料   是より先、秀吉、禁裏を造営す、是日、内侍所御辛櫃の緘縢を改む
天正19年 3月13日  大日本史料  秀吉、諸国を検地し、新に諸大名に朱印状を頒つ、是日、毛利輝元に之を与ふ、
天正19年 3月15日  大日本史料  秀吉、山城宇治に赴き、茶摘を見る、伊達政宗、之に従ふ
天正19年 3月17日  大日本史料  秀吉、山城宇治より帰京す
天正19年 3月25日  大日本史料  秀吉、誓願寺をして、小川今小路より京極に徙らしむ

天正19年 3月   大日本史料  宗義智、朝鮮信使を伴ひて対馬に帰り、柳川調信等をして、之を送りて朝鮮に赴き、
                秀吉の意を諭さしむ、朝鮮王李昖聴かず、

天正19年 3月  山口縣文化史年票  秀吉、輝元所領安芸・周防・長門・石見・出雲・備後・隠岐・伯耆三郡備中国の
                  検地高百十二万石を安堵す 【毛利氏四代実録】

天正19年 4月4日  大日本史料  秀吉、庶民の濫に禁中に出入するを禁止す
天正19年 4月5日  大日本史料  是より先、秀吉、羽柴秀勝を甲斐より美濃に移封し、加藤光泰に甲斐を与ふ、是日、
                光泰、同国長禅寺に禁制を下す、尋で、国内に條規を頒つ、
天正19年 4月13日  大日本史料  陸奥南部信直、子利直及び北信愛をして、上京し、九戸政實の乱を秀吉に訴へしむ
天正19年 4月21日  大日本史料  是より先、秀吉、伊達政宗をして、帰国し大崎、葛西両氏の余党を勦せしむ、是日、
                羽柴秀次、政宗の之を報ずるに答ふ

天正19年 4月23日  大日本史料  秀吉、下野那須資景に五千石を加増し、又服部土佐守等に近江の地を与ふ、
天正19年 4月27日  大日本史料  秀吉、石川備後守等に丹波伊原村等を加封す
天正19年 4月    大日本史料  明国福建省の商人陳申、琉球に在り、秀吉の征明の挙を聞き、琉球長史鄭迵と謀り、
                 潜に本国に帰り、之を告ぐ
天正19年 5月4日   大日本史料  秀吉、吉田又作等に所領を宛行ふ
天正19年 5月14日  大日本史料  秀吉、徳川家康の相模鶴岡八幡宮を造営せんとするを認む、
天正19年 5月20日  大日本史料  大仏殿立柱、上棟、秀吉、之に臨む

天正19年 5月   大日本史料  秀吉の使僧玄蘇、宗義智の臣柳川調信、朝鮮王李昖の答書を齎して帰国す
天正19年 6月4日  大日本史料  秀吉、徳川家康をして、蒲生氏郷と伊達政宗との知行割を裁定せしむ、
天正19年 6月9日  大日本史料  秀吉、菊桐の紋章の使用を禁ず、
天正19年 6月9日  大日本史料  陸奥南部利直、上京して、秀吉に謁す
天正19年 6月20日  大日本史料  秀吉、陸奥葛西、大崎両氏の余党及び九戸政實の乱を平定せんとし、徳川家康、
                羽柴秀次を大将と為し、伊達政宗、蒲生氏郷をして、 同国二本松より、佐竹義宣、
                宇都宮国綱をして、同国相馬口より進ましめ、石田三成をして、其軍を監せしむ、又
                上杉景勝をして、同国最上口より進ましめ、大谷吉隆をして、之を監せしむ

天正19年 6月   大日本史料  対馬宗義智、秀吉の命に依り、朝鮮釜山に赴き、国王李昖に、明をして和親を請はしめ
               んことを図らしむ、李昖聴かず、義智、帰りて秀吉に謁し、朝鮮の地図を進む、

天正19年 7月1日  上蔵院河野氏過去帳
                 道安禅定門霊位   豫州越智勘兵衛殿  天正十九年辛卯七月朔日

天正19年 7月1日  大日本史料  秀吉、近江大津より帰京す、
天正19年 7月25日  大日本史料  秀吉、印度副王に返書し、耶蘇教の布教を禁止する旨を伝へ、貿易を求む
天正19年 7月27日  大日本史料  秀吉、山城淀に之く
天正19年 7月29日  大日本史料  秀吉、禁中に納むる地図を全国に徴す、
天正19年 7月    大日本史料  朝鮮王李昖、秀吉の襲寇を恐れ、全羅、慶尚両道の城邑を増築、修備せしむ
天正19年 8月1日   大日本史料  秀吉、信濃蘆田の蘆田(松平)康寛に命じ、佐竹義重及び妻子の上京に就き、領中の
                伝馬、人足を出さしむ

天正19年     大野家譜上田本  ○大野直昌男直清、元服する。
天正19年 8月5日  大日本史料    秀吉の子鶴松夭す
天正19年 8月5日  心斎橋今昔年表  豊臣鶴松病死。
天正19年 8月6日  大日本史料    秀吉、承兌(西笑)等を東福寺に招き、明国出兵の意を告げ、供奉を命ず
天正19年 8月7日  大日本史料    秀吉、清水寺に遊び、又摂津有馬に湯治す
天正19年 8月9日  大日本史料    秀吉、有馬重則に摂津、播磨両国の地を加増す

天正19年 8月13日  大日本史料   加藤清正、肥後の留守居同喜左衛門等に、秀吉の明年明国出兵のこと及び肥前名護
                  屋に築城のこと等を報ず、尋で、石田正澄、之を肥後相良頼房(長毎)に報ず、
天正19年 8月18日  大日本史料   秀吉、摂津有馬より大坂に帰る、尋で入京す
天正19年 8月21日  大日本史料   秀吉、奉公人、侍、中間、小者等及び百姓に就きての條規を定め、其転職を禁ず
天正19年 8月21日  大日本史料   琉球王尚寧、島津龍伯(義久)に、秀吉の関東平定を賀し方物を贈る、

天正19年 8月24日  大日本史料   是より先、秀吉、北條氏直を紀伊高野山より河内天野に移す、尋で、其罪を赦し、
                  知行を宛行ふ、是日、氏直、金剛峯寺高室院に秀吉の明国出兵のことを告ぐ、
                 明日、山上強右衛門尉に関東及び河内の地を宛行ふ
天正19年 8月24日  大日本史料  秀吉、蔵入分及び代官の知行所に、他領より米銭を貸付くることを禁ず
天正19年 9月3日  大日本史料  秀吉、松浦宗信(鎮信、)有馬晴信、大村嘉前、五島純玄をして、壱岐勝本及び対馬国
                府の清水山に築かしむ
天正19年 9月7日  大日本史料  秀吉、富士山村山池の西坊をして、富士浅間社領の年貢、参銭等を安堵せしむ

天正19年 9月7日  大日本史料  是より先、伊達政宗、陸奥水澤、江刺に代官を置き、南部邊境に備ふ、是日、秀吉の
                軍監大谷吉隆、之を承認す
天正19年 9月8日  大日本史料  浅野長吉(長政、)秀吉の命を承け、陸奥和賀、稗貫、志和三郡を南部信直に増封し、
                是日、軍を旋す、尋で、信直、釆邑を部下に与ふ
天正19年 9月16日  大日本史料  秀吉、明国出兵の時期を定め、諸将をして、其準備を為さしむ
天正19年 9月18日  大日本史料  鹿苑院瑞保(有節、)足利昌山(義昭)を山城真木島に訪ね、秀吉の明国出兵のこと
                等を語る

天正19年 9月21日  大日本史料  秀吉、田邊与左衛門尉に其所領丹波氷上郡の地の替地を宛行ふ
天正19年 9月23日  大日本史料  秀吉、伊達政宗を出羽米澤より陸奥大崎、葛西に移し、米澤等を蒲生氏郷に与ふ、
                是日、政宗、同国岩手澤城に移る
天正19年 9月23日  大日本史料  秀吉、御話衆の結番を定む
天正19年 9月25日  大日本史料  明商許儀後、朱均旺、郭国安等、帰化して薩摩に在り、秀吉の明国出兵の挙を聞き、
                 之を福建省巡撫に報ず
天正19年 9月26日  大日本史料  秀吉、大坂に之く、

天正19年 初秋  大野家譜上田本  ○大野直昌男直清、亡父3回忌に芸州に渡り、彼の地より武者修行して九州を
                 徘徊する。

天正19年 10月2日  大日本史料  秀吉、島津龍伯(義久、)同義弘兄弟の在国中に於ける人質の制を定む、

天正19年 10月2日  屋代大野系譜  ●大野隆直歿、号露山珍居士

天正19年 10月10日  大日本史料  秀吉、鎮西の諸大名をして、肥前名護屋に築かしむ、加藤清正等、之を監す、
                 是日、普請始あり
天正19年 10月10日  大日本史料  秀吉、軍船を造るに依り、大仏殿の工事を中止し、之を興山(応其)に命ず
天正19年 10月12日  大日本史料  秀吉、大坂より帰京す
天正19年 10月18日  大日本史料  秀吉、吉田兼見をして、太平記巻二十九を書写せしむ
天正19年 10月21日  大日本史料  秀吉、織田信長の後室小倉氏(鍋)に近江の地を宛行ふ、

天正19年 10月24日  大日本史料  是より先、秀吉、琉球王尚寧をして、朝鮮出兵に会せしむ、是日、島津龍伯
                 (義久、)尚寧に兵糧を徴し、其出兵の期を定む
天正19年 10月24日  大日本史料  秀吉、金剛峯寺の非法を赦し、條目を下す
天正19年 10月30日  大日本史料  是より先、秀吉、奈良の金商人の米銭を貸借し、暴利を得るに依り、之を棄破す、
                 是日、更に其首魁を捕ふ
天正19年 11月3日  大日本史料  秀吉、美濃、尾張に遊猟す、是日、京都を発す
天正19年 11月4日  大日本史料  右京大夫従五位下北條氏直、大坂に卒す、尋で、秀吉、氏直の叔父同氏規をして、
                 家督を継がしめ、河内狭山の地を宛行ふ

天正19年 11月9日  山口県史整理年表  輝元、三浦元忠に周防国所々において、一万六千数百石を給す 【三浦文書】
天正19年 11月11日  山口県史整理年表  輝元、賀屋五右衛門尉に能美島・玖珂郡余田・吉敷郡秋穂等の内にて地を
                    給し、七端帆の兵船一艘を供せしむ 【毛利氏四代実録】
天正19年 11月19日  山口県史整理年表  輝元、弘九郎左衛門尉に玖珂郡の内柱島その他の地を給し七端帆の兵船一艘を
                    供せしむ 【閥閲録】

天正19年 12月5日  大日本史料  是より先、秀吉、朝鮮に出兵せんとし、山内一豊及び松下重綱をして、軍船を遠江川
                 尻に作らしむ、是日、秀吉、之を督促す
天正19年 12月14日  大日本史料  秀吉、島津龍伯(義久)に、質子を徴す
天正19年 12月16日  大日本史料  秀吉の狩猟より帰京する行装を叡覧あらせらる、秀吉、鳥獣を頒ち献ず、

天正19年 12月16日  山口県史整理年表  輝元、内藤隆春をして佐波川大渡りに架橋せしむ。また朝鮮出陣後は、留守
                    を専一にし、防長において異変の事あらば急報せしめ、綾木役の半を加う
                     【毛利氏四代実録】

天正19年 12月20日  大日本史料  羽柴秀次、秀吉の掟に依違せざることを誓ふ

天正19年 12月25日  大日本史料  秀吉、大坂に下向す、尋で、入京す、
天正19年 12月27日  大日本史料  関白秀吉、左大臣近衛信輔(信尹)を並に罷む、内大臣羽柴秀次を関白と為し、
                 左大臣に任ず

天正19年 12月27日  心斎橋今昔年表  秀吉関白を秀次に譲り「太閤」を名乗る

西暦1952年
天正20年 1月5日  大日本史料  秀吉、朝鮮を経て、明国に出兵せんとし、諸将に出陣を命ず、又禁制を下す
天正20年 1月5日  大日本史料  秀吉、出征せんとし、肥前名護屋に到る宿驛及び供膳を定め、又出軍途次の諸将に
               掟書を下す
天正20年 1月7日  大日本史料  秀吉、前田利家に出陣を命じ、子利長をして、留守せしむ、是日、利長、近藤掃部助等
               に其準備を命ず

天正20年 1月7日  山口県史整理年表  秀吉九州下向につき輝元に令し、宿毎に馬五十疋を集めしめ、十九日更に各川に
                  渡船を用意せしむ 【毛利家文書】
天正20年 1月14日  大日本史料  秀吉、出征せんとするに依り、諸大名の質子を大坂城に送らしむ、是日、毛利輝元、
                之を内藤周竹に伝ふ
天正20年 1月18日  大日本史料  秀吉、小西行長及び宗義智の献策に依り、之を朝鮮に遣し、帰服を勧めしむ、仍りて、
                諸将をして、壱岐、対馬に待機せしむ、
天正20年 1月19日  大日本史料  秀吉、琉球王尚寧に朝鮮出兵を命ず

天正20年 1月24日  大日本史料  秀吉、三月一日を期して、肥前名護屋の本営に出陣せんとし、毛利輝元、小早川隆景等
                をして、海陸の夫馬及び渡舟を準備せしむ
天正20年 1月24日  大日本史料  秀吉、米穀蓄蔵の為め、筑前博多津内の倉庫を明置くべきことを島井宗室及び神谷宗湛
                に命ず
天正20年 1月29日  大日本史料  前田利長、秀吉の乗艦の用に供する為め、銅及び金箔を領内より徴す
天正20年 1月    大日本史料  秀吉、壱岐及び高麗に禁制を下す、
天正20年 2月18日  大日本史料  秀吉、伊賀筒井定次の京都の亭に臨む、

天正20年 2月25日  大日本史料  日向伊東祐兵、秀吉の命に依り、嫡子祐慶を大坂城に送りて質と為す、
天正20年 2月27日  大日本史料  秀吉、小西行長及び宗義智を朝鮮に遣すに依り、加藤清正をして、同国の近島に、九州
                の諸将をして対馬に、四国の諸将をして、壱岐に待機せしむ、尋で、重ねて之を令す
天正20年 3月1日  大日本史料  秀吉、目を病むに依り、出師の期日を十日と定め、寺澤正成を肥前名護屋に遣す、
               又毛利輝元に命じ、中国の諸将をして、壱岐に航せしむ
天正20年 3月8日  大日本史料 長宗我部元親、土佐より出陣す【福富半右衛門親政覚書】

天正20年 3月10日  大日本史料  秀吉、道路の混雑を慮り、出征を二十日に延引す
天正20年 3月上旬  山口県史整理年表  輝元、朝鮮征伐のため広島を出発す 【考証論断】
天正20年 3月13日  大日本史料  秀吉、朝鮮の返報を待たずして進撃を命じ、諸将の部署を定む、又肥前名護屋在陣の
                諸将及び水軍のことを定む
天正20年 3月13日  大日本史料  秀吉、洛中町民に米等四千石を貸付け、其利息を以て橋梁を修造せしむ

天正20年 3月13日  萩藩閥閲録巻10-4  
             秀吉、輝元に令して十五万余人を九班に分って出陣せしむ 【毛利家文書・堅田安房】

    高麗エ罷渡御人数事
      一番
    一、五千人  羽柴対馬侍従(宗義智) 一、七千人  小西摂津守(行長)
    一、三千人  松浦刑部卿法印(鎮信) 一、七千人  有馬修理大夫(春信)
    一、千人  大村新八郎(喜前) 一、七百人  五嶋大和守(純玄)
       合壱万八千七百人

      二番
    一、壱万人  加藤主計頭(清正) 一、壱万弐千人  鍋島加賀守(直茂)
    一、八百人  相良宮内大輔(長毎)    合弐万二千八百人

      三番
    一、五千人  黒田甲斐守(長政) 一、六千人  羽柴豊後侍従(大友義統)
      合壱万一千人

      四番
    一、弐千人  毛利壱岐守(吉成) 一、壱万人  羽柴薩摩侍従(島津義弘)
    一、弐千人  高橋九郎(元種)
     穐月三郎(種長)
    伊藤民部大輔(伊東祐兵)
    嶋津又七郎(豊久)    合壱万四千人

      五番
   一、四千八百人  福嶋左衛門太夫(正則) 一、三千九百人  戸田民部少輔(勝隆)
    一、三千人  羽柴土佐侍従(長曾我部元親) 一、七千弐百人  蜂須賀阿波守(家政)
    一、五千五百人  生駒雅樂頭(親政) 一、七百人  来島兄弟(通之、通総)
      合弐万五千人

      六番
    一、壱万人  羽柴筑前侍従(小早川隆景) 一、千五百人  羽柴久留米侍従(小早川秀包)
    一、弐千五百人  羽柴柳川侍従(立花宗茂) 一、八百人  高橋主膳(直次)
    一、九百人  筑紫上野介(広門)    合壱万五千七百人

      七番    八番
    一、三万人  安芸宰相(毛利輝元) 一、壱万人  対馬在陣  備前宰相(宇喜多秀家)

      九番
    一、八千人  壱岐在陣  岐阜宰相(織田秀信) 一、三千五百人  壱岐在陣  丹後少将(細川忠興)
      合壱万千五百人
                    都合拾五万八千七百人

天正20年 3月20日  大日本史料  秀吉、羽柴秀勝に丹波の地を宛行ふ
天正20年 3月26日  大日本史料  秀吉の出陣を歓送あらせらる
天正20年 3月28日  大日本史料  秀吉、島津龍伯(義久)等に、朝鮮より回漕せる船舶の積荷なきものは、肥前名護屋に
                回船せしむべきこと等を命ず

文禄元年 4月    大日本史料  福島正則、中川秀政、戸田勝隆、長宗我部元親、蜂須賀家政、生駒近規、来島通之、
                同通総、宇喜多秀家等、朝鮮釜山浦に入港す、尋で、京城に入る【中川家譜覚書】

文禄元年 4月8日  伊予中世年表  ○三原八幡藪事件(秀吉暗殺未遂事件)朝鮮出兵の指揮のため下向中の秀吉を河野家
                遺臣らが御調八幡で暗殺計画露見

文禄元年 4月   伊予中世年表  ○雲龍閣襲撃事件(秀吉暗殺未遂事件)三原雲龍閣暗殺計画露見。河野通軌・平岡
                通倚・大野直昌ら河野家遺臣による。

天正20年 4月7日  秀吉九州下向記

   七日  晴、岡山ヲ御立チアッテ備中ノ矢掛ニ御着陣、岡山ヨリ四里、神辺川ヨリ矢掛ヘ三里、河辺川より西ハ
      毛利領分也。
     河辺ヨリ名護屋マデ毎一里塚を築、一里ハ三十六町也、河辺川水出船渡也、船数廿五六艘、乗馬ハ川ヲ
      渡ス。
  八日  早天ニ細雨、午時晴、備後ノ杉原ノ三寶寺ニ御着陣、矢掛ヨリ七里、神辺ヨリ一里半、。
 九日  夜中細雨、早旦ヨリ晴、三原ヘ御着陣、小早川居城、三寶寺ヨリ八里。

     (四月七日、備中矢掛宿泊→四月八日、備後杉原村三寶寺泊、→四月九日、十日、備後三原城滞在)

大伴姓 屋代島大野家 関連年譜(AD1587年~1589年)

2023年01月09日 10時54分01秒 | 大伴姓屋代島大野家 関連年譜
西暦1587年
天正15年      寛政重修諸家譜  ○黒田孝高、豊前中津城へ転封さる。 
              *(これは中津城ではなく行橋市南部の馬ケ岳城である、中津城築城は天正18年頃である
天正15年 正月   大野家聞書  ○河野 大野家の城々責落さる。
天正15年 1月1日  大日本史料  秀吉、諸将の参賀を大坂城に受く
天正15年 1月1日  大日本史料  秀吉、親ら島津氏を討たんとし、諸将の部署を定む、尋で、軍令を設け、路次に下す
天正15年 1月3日  大日本史料  秀吉、佐伯惟定の、豊後栂牟礼籠城の功を褒し、尚守備を厳にせしむ
天正15年 1月3日  大日本史料  秀吉、大坂城に茶会を催す
天正15年 1月9日  大日本史料  秀吉、入京す、明日、雉子を献ず
天正15年 1月17日  大日本史料  秀吉、佐伯惟定並に志賀親次等の豊後に於ける防戦の功を褒し、且九州出陣の
                近きことを告ぐ

天正15年 1月19日  大日本史料  島津義久、書を羽柴秀長及び石田三成に遺り、秀吉に抗する意なきことを弁疏す
天正15年 1月23日  大日本史料  秀吉、龍造寺政家、原田信種等の、款を通ずるを賞し、其所領を安堵せしめ、
                 且戦功を励ましむ
天正15年 1月25日  大日本史料  秀吉、書を小早川隆景、吉川元長、黒田孝高及び松浦鎮信に与へ、先鋒宇喜多秀家の
                 九州出陣を告ぐ
天正15年 1月   大日本史料  秀吉、安芸厳島社に禁制を下す
天正15年 2月3日  大日本史料  秀吉、長宗我部元親に其子信親の戦死を弔し、豊後臼杵城守備の功を褒す【武家事紀】
天正15年 2月6日  大日本史料  秀吉、長宗我部元親に其子信親の戦死を弔し、豊後臼杵城守備の功を褒す、
天正15年 2月6日  大日本史料  秀吉、参内して、白鳥、太刀及び馬代を献じ、歳首を賀す

天正15年 2月7日  大日本史料  廷臣等、聚楽亭に於て、秀吉に歳首を賀す、
天正15年 2月7日  大野家聞書  ○大野仁右衛門尉 尾首城に生る、千達丸と云う。
天正15年 2月8日  大日本史料  秀吉、再び出馬の期を黒田孝高に伝へ、宇喜多秀家等の著陣を待ちて、兵を豊後に
                出さんことを命ず
天正15年 2月8日  大日本史料  秀吉、小出秀政に播磨高砂の地を宛行ふ
天正15年 2月8日  大日本史料  秀吉、近江大津に之く
天正15年 2月13日  大日本史料  秀吉、大坂に帰る

天正15年 2月14日  大日本史料  秀吉、脇坂安治の、糧食を豊後臼杵城に輸せし功を褒す
天正15年 2月16日  大日本史料  是より先、前権中納言山科言経、秀吉に頼りて、勅勘を宥されんことを請ふ、是日、
                 秀吉、京都の奉行前田玄以をして、重ねて、之を奏聞せしむ
天正15年 2月18日  大日本史料  黒田孝高及び小早川隆景、筑後の五條鎮定に、近く秀吉の先鋒の豊前に著陣すべきこ
                 とを告げ、以て忠節を励ましむ
天正15年 2月22日  大日本史料  秀吉、黒田孝高等の、秋月宗誾(種實)を攻めんとするを停め、守備を堅くして、
                 島津氏の軍と対峙せしめ、羽柴秀長の著陣を待たしむ

天正15年 2月25日  大日本史料  秀吉、大坂城に茶会を催す、
天正15年 3月1日  大日本史料  秀吉、薩摩の島津氏を撃たんとし、親ら将兵を帥ヰて、大坂を発す、なほ羽柴秀次、
                前田利家をして、京都を守らしむ
天正15年 3月5日  大日本史料  秀吉、備前片上に著陣す、乃ち黒田孝高の書状に答へ、豊前表に於ける島津義久の兵に
                対する策略に違算なからしめ、併せて筑紫広門等の軍功を褒す
天正15年 3月6日  大日本史料  秀吉、備前岡山に抵る、乃ち書を小早川隆景、加藤嘉明等に与へ、之を報ず
                【小早川隆景書状】
天正15年 3月12日  大日本史料  秀吉、備後赤坂に抵る、足利義昭、出でヽ之を迎ふ

天正15年 3月13日  大日本史料  諸社寺をして、秀吉の戦勝を祈らしめ給ふ
天正15年 3月15日  大日本史料  秀吉、備後三原を発し、安芸四日市に著陣す
天正15年 3月15日  大日本史料  是より先、秀吉、一色昭秀及び興山(応其)をして、島津義珍(義弘)に和議を勧め
                しむ、義珍、聴かず、是日、豊後府内を去り、尋で、同国松尾城に入る、
天正15年 3月16日  大日本史料  秀吉、安芸海田に抵る、命を羽柴秀長に伝へ、羽柴秀勝をして、豊前小倉に據りて、
                門司を阨せしめ、宇喜多、宮部、毛利、小早川、吉川及び黒田、蜂須賀、脇坂の諸将を
                して、適所に陣し、島津氏の兵を牽制せしむ

天正15年 3月17日  大日本史料  秀吉、安芸廿日市に著陣す、翌日、厳島に遊び、厳島社に米穀を寄進し、且大願寺
                 経堂の建立を命じ、其資を寄進す
天正15年 3月18日  大日本史料  信濃松本の小笠原貞慶、上田の真田昌幸等、秀吉の命に従ひ、駿府に於て、徳川家康
                 に見ゆ
天正15年 3月19日  大日本史料  秀吉、周防永興寺に抵る、安国寺恵瓊等を、黒田孝高の許に遣せることを蜂須賀家政
                に報ず、尋で、書を孝高に与へ、秋月宗誾(種實)を降さんとするの意を告ぐ
天正15年 3月20日  大日本史料  黒田孝高、筑後の五條鎮定に、豊後に於ける上方勢の戦捷を報じ、龍造寺政家と議
                し、肥後に進むべき準備を為さしむ

天正15年 3月24日  大日本史料  権大納言広橋兼勝を遣し、秀吉の西征の労を犒はせ給ふ
天正15年 3月25日  大日本史料  秀吉、長門赤間関に著陣す、尋で、羽柴秀長等をして、日向口より薩摩に入らしめ、
                 親ら筑前より肥後路を経て薩摩に赴かんとし、更に諸将の部署を定む
天正15年 3月29日  大日本史料  秀吉、豊前小倉を経て、同国馬嶽城に入る
天正15年 3月29日  大日本史料  是より先、羽柴秀長、黒田孝高、小早川隆景等と共に日向に入り、県城を囲む、
                是日、守将土持久綱、同国佐土原に敗走す
天正15年 4月1日  大日本史料  秀吉、筑前の秋月宗誾(種實)を攻めんとし、豊前板原に陣を移し、兵を遣して、宗誾
                の将熊井久重を、同国巌石城に攻めしむ、羽柴秀勝、蒲生賦秀(氏郷、)前田利勝
                (利長、)秀吉に請ひて急攻し、之を陥る

天正15年 4月3日  大日本史料  秀吉、筑前尾熊に陣を進む、是日、秋月宗誾(種實)父子、浅野長吉(長政)等に頼り
                   て降り、其女を質とし、名器楢柴等を進む、又豊前彦山僧徒、秀吉に降る
天正15年 4月3日  大日本史料  秀吉、九州に於ける戦況を奏聞す
天正15年 4月5日  大日本史料  立花統虎、筑前秋月城に於て、秀吉に謁す
天正15年 4月8日  大日本史料  秀吉の近臣木下吉種、九州に於ける戦況を京都の留守役中村一氏等に報ず
天正15年 4月9日  大日本史料  秀吉、諸将に令して陣立を改む
天正15年 4月10日  大日本史料  秀吉、筑前秋月を発し、筑後高良山に到る、翌日、肥前の龍造寺政家、来謁す
天正15年 4月11日  大日本史料  秀吉、肥後南関に進む

天正15年 4月13日  大日本史料  秀吉の捷報、京都に達す
天正15年 4月13日  大日本史料  秀吉、肥後高瀬に進む、同国隈本(熊本)の城久基、城を出でヽ降る、
天正15年 4月16日  大日本史料  秀吉、肥後隈本(熊本)城に入る、其先鋒、同国木山に入る
天正15年 4月17日  大日本史料  秀吉の先鋒、肥後宇土に入る、名和顕孝、城を致して降る
天正15年 4月17日  大日本史料  是より先、島津氏の属将肥後谷山の松浦筑前守、秀吉に内応して、国内の諸氏を煽動
                す、是日、新納忠元、伊集院久信等、攻めて、谷山城を陥る、尋で、又肥前高来の有馬
                氏、兵船に乗じ、肥後八代を侵す

天正15年 4月18日  大日本史料  秀吉、肥後隈荘に進む、島津忠永、同国高田城を棄てヽ遁る、新納忠元等、同国関城
                より出で、島津征久、町田久倍等と八代に会し、共に同国求麻に奔る
天正15年 4月19日  大日本史料  秀吉、肥後八代に入る、翌日、同国願行寺に禁制を下す、又毛利輝元に戦況を報ず
天正15年 4月21日  大日本史料  島津義久、興山(応其、)一色昭秀等の勧めを容れ、伊集院忠棟を質と為し、羽柴
                秀長に頼りて、秀吉に降る
天正15年 4月25日  大日本史料  秀吉、肥後田浦を経て、同国佐敷に抵る、相良頼房、来り謁す、
天正15年 4月27日  大日本史料  秀吉、肥後水俣を発し、薩摩出水に進む、島津忠永、迎へ降る、

天正15年 4月28日  大日本史料  秀吉、水軍の将小西行長、加藤嘉明、脇坂安治、九鬼嘉隆をして、桂忠昉を薩摩平佐
                城に攻めしむ、尋で、忠昉、島津義久の命に依り、城を致して降る
天正15年 4月29日  大日本史料  秀吉、豊後岡の志賀親次をして、兵を率ヰて日向に抵り、羽柴秀長の軍に会せしむ
天正15年 5月1日  大日本史料  秀吉、薩摩出水より同国阿久根に進む、乃ち毛利輝元、小早川隆景、吉川元長をして、
                羽柴秀長と議し、驛路の禁制等を下さしむ
天正15年 5月1日  大日本史料  是より先、島津義久、秀吉の、薩摩川内に入ると聞き、諸将を日向都於郡に会し、その
                去就を議す、是日、義久、鹿児島に帰り、羽柴秀長、営を日向野尻に進む

天正15年 5月3日  大日本史料  秀吉、牙営を薩摩川内の泰平寺に築き、同国阿久根より高城を経て之に徙る、羽柴秀長
                の報に依り、島津義久の降を知る、仍りて、義久を赦し、諸兵の進軍を停む
天正15年 5月3日  大日本史料  秀吉、羽柴秀長をして、日向、大隅の諸将の質子を収めしめ、日向を大友宗滴(宗麟)
                に、其一郡を伊東祐兵に、豊後を大友義統(吉統)に、大隅を長宗我部元親に、其一郡
                を伊集院忠棟に与へんことを告げしむ、又毛利、小早川、吉川、黒田の諸将をして、
                薩摩泰平寺に会せしめ、秀長等と共に、日向、大隅、豊前、豊後等に於ける諸城の修築
                又は破却を議せしむ、尋で、宗滴、元親並に受封を辞す【武家事紀】

天正15年 5月7日  大日本史料  是より先、島津義珍(義弘、)同歳久、同征久等と謀り、陰に日向飯野城等に籠らんと
                す、是日、義珍、義久の近臣本田親貞をして、義久の秀吉に降らんとするを止めしむ
天正15年 5月8日  大日本史料  島津義久、薙髪して龍伯と号し、薩摩泰平寺に抵り、秀吉に謁して罪を謝す、尋で、
                秀吉、龍伯の所領薩摩を安堵せしめ、其質を収む
天正15年 5月  心斎橋今昔年表  秀吉九州平定
天正15年 5月15日  大日本史料  秀吉、書を加須屋武則に遺り、島津龍伯降伏のこと、並に戦後の経営等に就きて報ず
天正15年 5月18日  大日本史料  秀吉、帰京の途に就き、薩摩泰平寺を発し、同国平佐に著す
天正15年 5月20日  大日本史料  秀吉、薩摩平佐より山崎に抵る、

天正15年 5月22日  大日本史料  秀吉、薩摩鶴田に陣す、島津義珍(義弘、)迎へ謁す
天正15年 5月25日  大日本史料  秀吉、大隅を島津義珍(義弘)に、日向諸県郡を其子久保に与ふ、翌日、島津家久、
                 同征久をして、並に其邑を安堵せしむ
天正15年 5月26日  大日本史料  是より先、秀吉、大隅曽木に陣す、同国大口の新納忠元、菱刈の伊地知重康等と謀り
               て挑戦せんとす、島津龍伯(義久)等、之を諭して、降らしむ、是日、忠元、秀吉に謁す
天正15年 5月29日  大日本史料  秀吉、肥後八代に旋る、相良頼房(長毎、)迎へ謁す、阿蘇惟賢も亦、同国矢部城を
                致して降る、又、秀吉、其室杉原氏(高台院)に返書し、九州平定の状を報ず

天正15年 5月30日  大日本史料  秀吉、肥後一国を佐々成政に与へ、相良頼房(長毎)をして、之に属し、其邑求麻郡
                を安堵せしむ
天正15年 5月  大分県の歴史  大友宗麟が津久見にて死去する。58歳
天正15年 6月1日  大日本史料  秀吉、肥後隈本(熊本)城に著す、翌日、加須屋武則、片桐直倫(且元)に命じて、
                筑後川渡過の準備を為さしむ
天正15年 6月2日  大日本史料  秀吉、小代下総守に肥後の地を宛行ふ
天正15年 6月3日  大日本史料  是より先、長岡玄旨(幽齋、)秀吉の軍に従はんとして、丹後を発す、是日、筑前姪浜
                に抵り、秀吉を迎ふ

天正15年 6月7日  大日本史料  秀吉、筑前筥崎に旋る、尋で、毛利輝元等の諸将を会し、九州諸大名の封域を定む、
                乃ち、筑前一国及び筑後、肥前各二郡を小早川隆景に筑後三郡を同秀包に、肥前四郡を
                龍造寺政家に、豊前六郡を黒田孝高に、同二郡を森吉成に与へ、且、肥前、筑後、日向
                の地を割きて、立花統虎以下の諸将を之に移し、松浦道可(隆信)をして、その所領
                壱岐を、宗一鴎(義調)をして、対馬を安堵せしむ
天正15年 6月11日  大日本史料  秀吉、筑前博多町を再興せしむ
天正15年 6月14日  大日本史料  伊勢専修寺堯真をして、其住持職を安堵せしめ、旧に依り、秀吉の下知に任せ、
                諸国の末寺、門徒を管掌せしめ給ふ

天正15年 6月15日  大日本史料  島津龍伯(義久、)秀吉に従ひ上京せんとし、弟義珍(義弘)をして、国事を監せし
                め、薩摩鹿児島を発す
天正15年 6月15日  大日本史料  秀吉、対馬の宗一鴎(義調)をして、朝鮮国王の来朝を促し、遅滞あらば、即時同国
                に出兵すべき旨を告げしむ
天正15年 6月18日  大日本史料  秀吉、筑前筥崎八幡宮に遷宮料米を寄進す
天正15年 6月19日  大日本史料  秀吉、耶蘇教の弊害を認め、之を制禁し、且、二十日を限りて宣教師を国外に追放す
                べきことを告ぐ
天正15年 6月  心斎橋今昔年表  秀吉キリスト教禁教令発布

天正15年 6月27日  小早川隆景書状  ○伊予から九州への国替えを村上元吉に伝える。(小早川隆景→村上元吉)

天正15年 6月25日  大日本史料  島津龍伯(義久、)筑前筥崎に抵り、秀吉に謁す
天正15年 6月26日  大日本史料  秀吉、筑前筥崎の陣営に茶会を催す、島津龍伯(義久、)之に陪す、
天正15年 6月27日  大日本史料  秀吉、連歌会を催す

天正15年 6月   大分県の歴史  播磨の黒田官兵衛孝高(よしたか)が秀吉から豊前六郡を与えられる。孝高は福岡県
                行橋市南部の馬ケ丘城に居を構える。この時大野隆直とその養嗣子たちも黒田家に仕官
                し行橋市今元に住んでか?今元の起源の可能性あり。

天正15年 7月2日  大日本史料  秀吉、筑前筥崎を発し、是日、長門赤間関に旋る、翌日、毛利輝元、太刀、馬及び重寶
                を進めて、之を饗す
天正15年 7月   大日本史料  黒田孝高、豊前に入国し、條規三條を頒つ

天正15年  筑前大野家文書  ○大野直吉【村上】は安国寺恵慶が伊豫より筑前鞍手郡内転封の時、一緒に同地に
                移動する。
天正15年  大洲大野系譜   ○大野直昌の子、後の正智院誕生・直常同母とあるから宇都宮朝子と直昌との女となり、
                兄直常とは異父兄妹。
天正15年  大野系譜讃岐屋本 ○大野直昌の子、後の正智院誕生・直常同母とあるから宇都宮朝子と直昌との女となり、
                兄直常とは異父兄妹。

天正15年  上川大野系譜   ■隆景の使者来たりて云うに、近々太閤九州に進発あり、両家共当国一所に於て扶助する
               こと能わず、早々中国に立し退かるべし、彼の地に於て扶助すべし云々、因って茲に妻、
               子供、家臣佐伯十兵衛、日野九郎右衛門供をして芸州竹原、山田村に立退く、
               竹原下山田村、今は下野村。

天正15年  大野家譜上田本  ○隆景の使者来たりて云うに、近々太閤九州に進発あり、両家共当国一所に於て扶助する
               こと能わず、早々中国に立し退かるべし、彼の地に於て扶助すべし云々、因って茲に妻、
               子供、家臣佐伯十兵衛、日野九郎右衛門供をして芸州竹原、山田村に立退く、
               竹原下山田村、今は下野村。

天正15年 7月8日  大日本史料  秀吉、毛利輝元及び小早川隆景をして中国の処置に遺憾なきを期せしむ(毛利家文書)

天正15年 7月8日  萩藩閥閲録1-242  

            此間直雖被仰聞候、重而安国寺(恵慶)被差下候、
            中国之分別、此節無油断可申付事肝要候
           但両人可為覚悟次第候、猶任口上候也

          (天正十五年)七月八日     (太閤様)御朱印
            毛利右馬頭(輝元)とのへ
            小早川左衛門佐(隆景)とのへ

天正15年 7月9日  TAKUBO HP  ○秀吉九州からの帰途、毛利の饗応の後竹原通過する・
天正15年 7月9日  TAKUBO HP  ○河野通直急ぎ竹原へ渡海する。お家再興の懇願か?

天正15年 7月9日  萩藩附録河野通恒  天正十五年七月九日父通直芸州竹原庄に於て秀吉の爲生害、故を以て家門斷絶
                  *7/9日の秀吉への再興嘆願を拒否されて竹原に帰り通直は自殺した記録。
                  「予陽河野家譜」は病死とするが病死ではなく自殺である。

天正15年 7月9日  久万町誌  ○河野・大野再興の望みを断たれ河野通直は隆景が筑前に移封されるや勧めにより安芸国
               竹原に直昌と落去。 *是は予陽河野家譜を出典としているので誤り。

天正15年 7月10日  大日本史料  秀吉、備前岡山に還る

天正15年 7月12日  閥閲録輝元書簡  ○河野通直母「五もし」急ぎ竹原へ渡海する。

          毛利輝元から神保就俊宛書状「閥閲録」に

          五もし御事無事に三津浦御渡候由先以可然候、
           其方心遣之段推量候、何とやうにも此節可心付事肝要候、…
         (天正十一[1583])七月十二日       輝元御判 

       *この書状は(天正十一[1583])と考えられていたが、河野勢でなく毛利勢によってしかも隆景から
         の前もった指示もなく、
       「何とやうにも此節心付ける可き事肝要に候」程の思いで保護され伊予三津浦を出る必要は、
         天正十五年の隆景九州移封時の 混乱期をおいて他に無いから、この書状は(天正十五[1587])
         七月十二日であると読む。ここに言う「五もし」とは誰か。
       「五もし」とは一般に女のことであるが此処では河野通直の母であると考える。
         *この急な渡海(湯月から竹原へ)は通直、自殺(自害)の報を受けてでのものであろう。

天正15年 7月13日  小早川隆景書状  ○河野家惣領 通直 逝去。号 長生寺殿月渓公大禅定門
天正15年 7月14日  予陽河野家譜   ○河野家惣領 通直 逝去。号 長生寺殿月渓公大禅定門
                   *是は通直葬儀を母親(五もし)が行った日であろう。

天正15年 7月14日  上蔵院河野氏過去帳  長生寺殿前豫州太守月渓宗圓大居士尊儀
                     豫刕奉為河野通直公御母儀御建立 
                     天正十五年丁亥七月十四日卒 
                     天正十六年四月二十六日建立
                   *これは母親が翌年に高野山に詣で建立し、現在奥の院入り口にある。
                    自らも「天遊栄寿」の逆襲(生前戒名)を得ている。

天正15年 7月14日  大野家聞書  ○河野伊豫守通直逝去 長生寺殿予州太守月■宗圓大禅定門 九月十五日 
                 行年二十四歳。 *没日誤り
天正15年 7月14日  大日本史料  伊予河野通直、安芸竹原に客死す【阿波国古文書、善応寺本河野家譜】
天正15年 7月14日  大日本史料  秀吉、備前片上より海路を大坂城に凱旋す、勅使勧修寺晴豊、之を迎ふ
天正15年 7月21日  大日本史料  本願寺光佐(顕如、)光寿(教如)等と共に秀吉に謁す、尋で、上野草津に湯治す

天正15年 7月24日  小早川隆景書状 ○武吉・元吉の7/13の書状を7/24日に見て突然の国替えに伊予衆を迎へにやったが
                  留守で、三原に関白(秀吉)と中納言を接待予定が遅れて。ご立腹であった。
                  しかる所に通直が死んだとか母(大方)が慌てて竹原に駆けつけたとか・・・・
                  (隆景→武吉・元吉)

           「去る(天正十五[1587]年七月)十三日の御状、今日廿四到來、披見候、何ケ度申候ても不慮の
             御國替、一入旁く御心遣い是非に及ばず候、(周防の)八代嶋御逗留先、以て然るべく存じ
             候、御休息肝要に存じ候、我等事、九州の聞合わせ仰付けられ候間、年内罷り上るべき事ハ
             定まらず候、 當時(筑前の)立花普請の取亂し、御察し有るべく候、藤四郎(小早川秀包)
             事は、筑後のくるめ(久留米)と申す所迄差下され、在宅の躰に候間、 以爰何篇御分別有る
             べく候、仍ってゆつき(伊予湯月)御仕出(通直母)、(安芸の)竹原へふと御渡海候て、
             留守の儀に候へは、 御不如意、是非及ばずの由、昨今追々御到來候、是自り進み候御迎衆
             は、与州え直ちに罷り越し、諸城に渡る様、荷物以下の裁判に忘却致し、一両人罷り居り候、
             留守の者共ハ、(備後の)三原に、関白(豊臣秀吉)殿・中納言(豊臣秀長)殿御一獻の支度
             等に万事取亂れ候、竹原え付心申す事も延引候て、御腹立有るべく御察し候、尤に候々、
             然る處、(河野)通直御死去、言語に及ばざる次第に候、さてさて是非無き御事迄に候、
             大方の御朦氣、彼是以て此節の儀、罷上り候ても申度き心中候へ共、他國の栖み仕る様子
             候条、其段も相叶わず、心中計り候の處、以ての外の御述懐、余儀無き候間、申すべく候も
             之無く候て罷り居り候、折節は御勇成され候て然るべく候、通直御座無く候共、御心付けられ
             候て參られ候は祝着申すべく候、御進退ニこそ御氣遣りの砌り候間、雖推量致し候、申す事の
             候、随て輝元吉田歸陳(陣)候間、 早々御使者差越され候て、八代・能美に御父子三人御住
             宅の条、彌憑み思召すの通、仰せ遣らるべき事肝要に候、何れも其許取静められ候は、
            ふと御下向は何篇の儀申談ずべく候、猶期に後音候、恐々謹言

            (天正十五[1587]年)七月廿四日   武吉 元吉 御返報     左衞門佐隆景御判  

        注)この文章により9日の秀吉の三原での接待、通直の死、通直母が慌てて渡海した様子が分る。
          この時、屋代島(山口県周防大島和田)にいた村上武吉に7/9通直生害の急報に隆景宛に7/13日に
          手紙を出したことが分る。通直死が7/14日でない証左と云える。

天正15年 7月25日  大日本史料  秀吉、大坂より京都聚楽亭に入る
天正15年 7月27日  大日本史料  秀吉の奏請に依り、木下貞基、南條元続を並に従五位下に叙す、尋で、水野忠重等を
                 従五位下に叙す
天正15年 7月29日  大日本史料  秀吉、参内して物を献じ、西征の状を奏す
天正15年    伊予中世年表  ○能島村上氏は、屋代島・江田島など7千石で竹原に移った。
天正15年     伊予中世年表  ○因島村上氏は、因島をでて竹原、そして鞆に移った。
天正15年 8月1日  大日本史料  廷臣等、聚楽亭に抵りて、秀吉に八朔を賀す

天正15年 8月1日  山口県史整理年表  輝元、村上武吉父子に書を遣し、小早川隆景、伊予国替えにより所領の上地とな
                   るを慰諭す。ついで隆景、武吉に筑前・筑後の内三千五百石を与え、
                   輝元大津郡および防州にて一万石を与う 【村上文書】
天正15年 8月5日  大日本史料  徳川家康、入京して、秀吉の凱旋を賀す、秀吉、之を近江大津に迎へ、是日、共に
                京都に入る
天正15年 8月10日  大日本史料  秀吉、生駒近規に讃岐の地を与ふ
天正15年 8月14日  大日本史料  秀吉、大坂城に帰る
天正15年 8月27日  大日本史料  秀吉の室杉原氏(高台院、)参内せんとし、物を献ず
天正15年 8月28日  大日本史料  秀吉、入京す

天正15年 8月   予陽河野家譜  △得能通義所蔵の予陽河野家譜末尾に編纂期日を記入してあるが、うたがわしい。
                 (景浦 勉) *予陽河野家譜は1670年前後の南明禅師の編纂であろう。呑舟
天正15年 9月4日  大日本史料  秀吉、近江大津に之く
天正15年 9月5日  大日本史料  秀吉、浅野長吉(長政)に若狭を与ふ、又福島正則に伊予宇摩郡の地を宛行ふ、尋で、
                又長吉に近江下坂本等の地を宛行ふ
天正15年 9月5日  京都大学所蔵記録  秀吉伊予五郡十一万三千二百石を福島正則に与える。

          被宛行伊予国内領地方之事
           一 一万八千九百七十八石三斗 宇摩郡
           一 二万六千八百四十石九斗 新居郡
           一 一万九千七百四十二石八斗 周敷郡
           一 一万四千四百二十一石弐斗 桑村郡
           一 三万三千三百十六石一斗 越智郡
             合十一万三千二百石之事可領知也、
          天正十五年九月五日          秀吉朱印
           福島左衛門太夫殿

天正15年 9月7日  大日本史料  秀吉、小早川隆景、黒田孝高等の肥後の変を報ずるに答へ、出兵して、佐々成政を
                援けんことを命ず、尋で、小早川秀包(元総)を将と為し、筑後、肥前の諸将を率ヰて
                肥後に入らしめ、隆景をして、筑後久留米城を守らしむ、又毛利輝元をして、筑前立花
                城に出陣せしむ
天正15年 9月7日  大日本史料  秀吉、書を島津龍伯(義久)に遺り、重陽の祝儀物を進むるに対し、謝意を陳ぶ
天正15年 9月10日  大日本史料  秀吉、入京す
天正15年 9月10日  大日本史料  伊達政宗、馬を秀吉に進む
天正15年 9月13日  大日本史料  京都内野の聚楽亭の造営竣る、是日、秀吉、大坂城より之に徙る

天正15年 9月15日  予陽河野家譜  ○河野通直(伊予守)竹原で没し嗣子もなく河野家は滅亡する。珍海山に葬る。
                  号長生寺殿前予州刺使月渓園公大禅定門(没日誤り)
天正15年 9月16日  大日本史料  廷臣等、秀吉の聚楽亭移徙を賀す
天正15年 9月19日  大日本史料  是より先、小早川隆景、筑後久留米に陣を移し、同秀包(元総、)肥後南関に入る、
                是日、秀吉、書を隆景及び秀包に遺り、其軍労を慰す、尋で、龍造寺、立花、筑紫、
                鍋島の諸将にも書を与へ、隆景等の指揮を受けんことを命ず
天正15年 9月24日  大日本史料  秀吉、播磨の地を木下家定及び林与平治に、和泉の地を小出吉政に、河内の地を
                黒田孝高の妻子に宛行ふ

天正15年 9月25日  大日本史料  秀吉、島津義弘を日向の鷹巣奉行と為す
天正15年 10月1日  北野神社文書  秀吉、貴賎を北野に会し、大茶会を催す、
天正15年 10月  心斎橋今昔年表  京都の北野神社で、秀吉主催の大茶会を開催
天正15年 10月2日  大日本史料  秀吉、丹波の地を加藤清正等に宛行ふ
天正15年 10月2日  大日本史料  是より先、豊前の諸氏、肥後の乱に乗じ、兵を挙ぐ、是日、黒田孝高、豊前姫隈城を
                攻めて、如法寺親武、緒方惟種を斬り、同城を降す
天正15年 10月2日  大日本史料  是より先、上杉景勝の臣畠山義春、出奔して秀吉に仕ふ、是日、秀吉、之に河内の地
                を宛行ふ

天正15年 10月5日  大日本史料  秀吉の生母大政所(天瑞院)疾む
天正15年 10月9日  大日本史料  立花統虎、佐々成政を援け、肥後山鹿城の附城に兵糧を輸す、隈部親安の兵、山鹿城
                より出で、之を要撃して克たず、尋で、秀吉、統虎の戦功を褒す
天正15年 10月13日  大日本史料  是より先、秀吉、龍造寺政家の将西郷信尚の肥前諫早城を收め、之を龍造寺家晴に
                与ふ、既にして、信尚、肥後の乱に乗じ、兵を挙げて同城を復す、家晴、乃ち兵を肥後
                より班して、之を攻む、是日、秀吉、書を政家に与へ、毛利輝元と議りて善処すべきこ
                とを命ず、尋で、家晴、諫早城を攻略す

天正15年 10月14日  大日本史料  秀吉、島津龍伯(義久)に在京料として、一万石の地を宛行ふ
天正15年 10月14日  大日本史料  浅野長吉(長政、)石田三成、増田長盛、秀吉の旨を承け、安国寺恵瓊及び小早川
                 秀包等に佐々成政の罪科数條を示し、毛利輝元の指揮に従ひて、一揆の鎮定に力む
                 べきことを命ず
天正15年 10月18日  大日本史料  秀吉、上杉景勝の、九州平定を賀するに答ふ、
天正15年 10月21日  大日本史料  秀吉、島津氏の臣伊集院忠棟を薩摩に還し、命を島津義弘に伝へ、肥後の乱を
                 討たしむ
天正15年 10月21日  大日本史料  秀吉、小早川隆景をして、毛利輝元の著陣を待ちて、之と軍議せしむ、又安国寺恵
                 瓊をして、隆景と心を協せ、松浦道可(隆信、)大村嘉前、波多信時、有馬久賢
                (晴信、)草野家清、宇久玄純の軍を統率せしむ

天正15年  10月25日  大日本史料  是より先、吉川広家、森吉成を助け、豊岩石城を攻めて、之を陥る、是日、
                 広家、之を秀吉に報ず
天正15年 10月28日  大日本史料  是より先、上杉景勝、越後の新発田、五十公野両城を陥れ、新発田因幡守、
                五十公野道如齋を斬る、是日、之を秀吉に報ず
天正15年 11月4日  大日本史料  秀吉、入京す
天正15年 11月25日  大日本史料  秀吉、連歌会を催す
天正15年 11月26日  大日本史料  安国寺恵瓊、島津氏の将新納忠元に答書し、肥後の形勢を報じ、其出兵を促す
天正15年 12月4日  大日本史料  秀吉、尾藤甚右衛門の伊勢朝熊山に潜むを聞き、兵を遣し、之を囲み、同山を火く

天正15年 12月6日  大日本史料  秀吉、大坂に之く
天正15年 12月6日  大日本史料  小早川隆景、龍造寺氏等の兵を併せ率ヰ、肥後田中城を陥れ、和仁親實、邊春親行等
                を斬り、之を秀吉に報ず、尋で、秀吉、書を遺りて、 其功を褒し、なほ残党の鎮定に
                力めしむ、
天正15年 12月12日  大日本史料  野中左京等、豊前長岩、雁股、犬丸の諸城に據り、同国鬼ヶ城の城井鎮房に応ず、
                黒田長政、犬丸城を攻めて、之を陥れ、是日、之を秀吉に報ず尋で、秀吉、馬を長政に
                与へて、其戦功を賞す
天正15年 12月15日  大日本史料  安国寺恵瓊、肥後山鹿城の隈部親安、有動兼元等を誘降し、之を筑後柳河に錮す
天正15年 12月19日  大日本史料  秀吉、廷臣に嘱して、源氏物語を書写せしむ

天正15年 12月22日  大日本史料  秀吉、讃岐の内に蔵入領を定め、生駒近規を其代官と為し、残高等を近規に宛行ふ
天正15年 12月28日  大日本史料  北條氏直、秀吉の出陣に備へ、大須賀尾張守をして、戦備を修めしむ
天正15年 12月28日  大日本史料  黒田孝高、森吉成、吉川広家等、豊前賀来、福島両城を略し、是日、之を秀吉に
                 報ず、尋で、秀吉、其戦功を褒す
天正15年 12月29日  大日本史料  秀吉、年貢米一万石を讃岐蔵入領の代官生駒近規に預く
天正15年     周防大島町誌  ○小早川隆景筑前移封に能島村上も移り武吉は三千五百石、輝元から大津郡と南前で
                 1万石を給せられる。

天正15年    大野家譜上田本  ○大野直昌男直清、父直昌落去の節9歳、太田上川村に蟄居する。
天正15年     屋代大野系譜  ●橘城主大野直澄嫡子直範、落城後尾崎の鼻にすむがその後行方しれず。

天正15年     伊予中世年表  ○福島正則伊予を拝領し湯月城は廃城となる。戸田勝隆、宇和・喜多の領主として
                 大洲、地蔵ケ嶽城にはいる。
天正15年     伊予中世年表  ○秀吉四国平定後の村上氏、来島村上は鹿島城の1万4千石の城主として風早・野間
                 を統治する。
天正15年  高野山永寿供養塔  ○通直母(五龍山、宍戸隆家の女)は通直没後出家し永寿と名乗る。

西暦1588年
天正16年 1月6日  大日本史料  秀吉、大坂より入京す
天正16年 1月13日  大日本史料  前征夷大将軍権大納言足利義昭、出家して昌山と号し、是日、秀吉と共に参内す、
                尋で、昌山を三宮に准ず
天正16年 1月15日  大日本史料  秀吉の聚楽亭行幸に就きて、准后勧修寺氏等に、供奉の資を賜ふ
天正16年 1月16日  大日本史料  秀吉の生母大政所(天瑞院、)大和春日社に詣す
天正16年 1月19日  大日本史料  秀吉、長岡玄旨(幽齋)の亭に臨む
天正16年 1月19日  大日本史料  秀吉、書を小早川隆景等に与へて、肥後の一揆鎮定の功を褒し、検使として浅野長吉
                (長政)等を遣すべきことを告ぐ

天正16年 1月20日  大日本史料  秀吉、肥前松浦鎮信の、太刀並に銀子を贈りて歳首を賀するに答ふ
天正16年 1月25日  大日本史料  秀吉、聚楽亭に於て和歌会を催す
天正16年 2月11日  大日本史料  秀吉、島津義弘をして、肥後より帰陣せしむ
天正16年 2月20日  大日本史料  是より先、佐々成政、私に秀吉に謁して罪を謝せんとし、大坂に向ふ、秀吉、之を
                摂津尼崎に幽居せしめ、浅野長吉(長政)等の報を俟ちて其罪を断ぜんとす、是日、
                秀吉、之を小早川隆景に報ず
天正16年 2月20日  大日本史料  秀吉、龍造寺政家に命じて、兵糧米を肥後隈本(熊本)に輸せしむ
天正16年 2月24日  大日本史料  秀吉、山城淀に築く、仍りて、是日、羽柴秀次の将宮部宗治、領邑近江の地の
                   人夫を徴す

天正16年 2月25日  大日本史料  藤堂高虎、盗を捕ふ、是日、秀吉、之を褒す
天正16年 2月25日  大日本史料  秀吉、小早川隆景をして、筑前名島に城かしむ、是日、普請始あり
天正16年 3月7日  大日本史料  秀吉の奏請に依り、大友義統(吉統)に昇殿を聴し、是日、之を従五位下に叙す、
                義統、参内して太刀、白銀を献ず
天正16年 3月19日  大日本史料  秀吉、両替屋久兵衛を金銀鑑識、両替の年寄と為す
天正16年 3月20日  大日本史料  秀吉、生母大政所(天瑞院)の為めに、摂津四天王寺観音堂に地を寄進す
天正16年 3月22日  大日本史料  秀吉、大坂より入京す、徳川家康、之を東寺に迎ふ
天正16年 3月23日  大日本史料  秀吉、織田信雄に上京を促し、又鷹匠を需む

天正16年 3月29日  大日本史料  秀吉、徳川家康と共に、京都近郊に放鷹す
天正16年 4月2日  大日本史料  秀吉、肥前長崎を蔵入領と定め、鍋島信生(直茂)を其代官と為す
天正16年 4月2日  大日本史料  島津義弘、太刀及び金を秀吉に進め、肥後の平定を賀す、是日、秀吉、書を義弘に
                与へて、之に答ふ
天正16年 4月3日  大日本史料  秀吉、徳川家康に茶器及び米二千俵を贈る
天正16年 4月5日  大日本史料  秀吉、伊達政宗に鷹を求む、尋で、政宗、之を贈る
天正16年 4月6日  大日本史料  富田一白(知信、)秀吉の命を承け、陸奥白河義親に、九州の平定を告げ、関奥諸大名
                の、好を秀吉に通ぜんことを求む

天正16年 4月7日  大日本史料  是より先、秀吉、蜂須賀家政、加藤清正、福島正則、生駒近規等に命じて、肥後の地を
                検せしむ、是日、清正、正則、吉川広家に其状況を報ず、尋で、家政、近規も亦、
                之を報ず
天正16年 4月14日  大日本史料  秀吉の聚楽亭に行幸あらせらる、秀吉、文武の諸臣を率ゐて奉迎し、饗宴を張り、
                物を献ず
天正16年 4月15日  大日本史料  秀吉、京都の地子銀五千五百三十両余を御料所に、地子米八百石を上皇及び陽光院の
                六宮(智仁)に献じ、近江八千石の地を親王及び廷臣に頒つ、又右大臣織田信雄、権大
                納言徳川家康等をして、御料所等を違乱せざること及び秀吉の命に違背せざることを
                誓はしむ

天正16年 4月16日  大日本史料  聚楽亭に和歌御会あり、秀吉、准后勧修寺氏等に御料所を献ず
天正16年 4月17日  大日本史料  聚楽亭に於て、舞楽を叡覧あらせらる、秀吉生母大政所(天瑞院)及び室杉原氏
                (高台院、)並に物を献ず、上皇、和歌を秀吉に賜ふ
天正16年 4月18日  大日本史料  羽柴秀次、吉川広家に、肥後平定の労を犒ひ、其上京を促す、翌日、秀吉も亦、
                其労を慰す
天正16年 4月19日  大日本史料  秀吉の室杉原氏(高台院)を従一位に、従三位羽柴秀次を従二位に叙す
天正16年 4月20日  大日本史料  御衣、砂金等を上皇に献じ給ふ、又、秀吉、和歌を献じて、聚楽行幸を謝し奉る、
                尋で、御返歌を賜ふ

天正16年 4月21日  大日本史料  秀吉、京都近郊に放鷹す
天正16年 4月21日  大日本史料  秀吉の臣大村由己、聚楽行幸記を草せんとし、之を山科言経に諮る、尋で、成る
天正16年 4月25日  大日本史料  秀吉、蘇鉄を献ず、是日、大坂に之く
天正16年 4月26日  上蔵院河野氏過去帳

              長生寺殿前豫州太守月渓宗圓大居士尊儀 豫刕奉為河野通直公御母儀御建立 
              天正十五年丁亥七月十四日卒 天正十六年四月二十六日建立
             奥院常燈明         同銘   御施主同人 同日取次一心院谷蓮華定院
             奥院御石塔         同銘   御施同人  同日御建立
             天遊永壽          逆修   御施主同人為御自身
             奥院常燈明         同銘   御施主同人 同日建立
             奥院御石塔         同銘   御施同人  同日御建立

天正16年 5月8日  大日本史料  上杉景勝、上京し、是日、秀吉に謁す
天正16年 5月15日  大日本史料  是より先、秀吉、京都東山に大仏殿を建立す、是日、居礎の儀あり、
天正16年 5月18日  大日本史料  浅野長吉(長政、)戸田勝隆、秀吉の直領肥前長崎の條規を定む、尋で、
                其地子を免除す
天正16年 5月26日  大日本史料  是より先、秀吉、肥後の検地を蜂須賀家政等に命ず、是日、家政、同国菊池郡の
                南福寺をして、薬師領を安堵せしむ
天正16年 閏5月10日  大日本史料  秀吉室杉原氏(高台院、)大坂に下らんとす、是日、准后勧修寺氏等、之に餞す
天正16年 閏5月13日  大日本史料  秀吉室杉原氏(高台院)の請に依り、大政所(天瑞院)の病平癒の為め、内侍所に
                 臨時御神楽あり

天正16年 閏5月14日  大日本史料  秀吉、陸奥守佐々成政を摂津尼崎に自殺せしめ、其罪状を諸大名に告ぐ
天正16年 閏5月15日  大日本史料  秀吉、肥後を二分し、之を加藤清正及び小西行長に与へ、清正を隈本(熊本)に、
                  行長を宇土に鎮せしむ
天正16年 閏5月15日  大日本史料  秀吉、書を松浦鎮信に遺り、肥後に於ける普請監督の労を犒ふ
天正16年 閏5月19日  大日本史料  千宗易(利休)等、秀吉の命に依り、茶器のことを筑前博多の島井宗室に命ず
天正16年 閏5月22日  山口県史整理年表  吉見正頼、萩に死す。七六 【毛利氏四代実録】
天正16年 閏5月24日  大日本史料  島津義弘、秀吉の命に依りて入京す、是日、和泉堺に著す
天正16年 6月1日   山口県史整理年表  輝元、将軍足利義昭帰洛の費用を防長両国より出すべき旨を冷泉元満に命ず
                    【毛利氏四代実録】

天正16年 6月4日  大日本史料  島津義弘、大坂に於て秀吉に謁す
天正16年 6月7日  大日本史料  秀吉生母大政所(天瑞院、)瓜を献ず
天正16年 6月15日  大日本史料  秀吉、上杉景勝に近江蒲生、野洲、高島三郡の地一万石を与へ、在京の資に宛てしむ
天正16年 6月15日  大日本史料  是より先、肥前深堀の深堀純賢、其邑を経て長崎に入港する商船に私に礼物を徴す、
                是日、秀吉、令して其邑を没し、居城を撤せしむ 尋で、純賢の罪を免じ、筑前の
                地を給す
天正16年 6月21日  大日本史料  秀吉の生母大政所(天瑞院)疾む、是日、秀吉、奏請して、内侍所に臨時の御神楽を
                催し、又京畿の諸社寺に命じて、平癒を祈らしむ

天正16年 7月5日  大日本史料  秀吉、島津龍伯(義久)に摂津、播磨の地一万石を与へ、在京の資に宛てしむ、又、
                同義弘に豊臣姓、羽柴氏を授く
天正16年 7月5日  大日本史料  秀吉、大仏殿造営の人夫を諸大名に課し、其月番を定む
天正16年 7月8日  山口県史整理年表  秀吉、隆景に書を与え、農民の武具を没収し大仏鋳造に資せしむ
               【毛利氏四代実録】
天正16年    今元雅助文書  ○55代大野直房誕生(逆算?)
天正16年    屋代大野系譜  ○55代大野直房誕生 直政領地芸州能美島庄屋山井源兵衛宅にて誕生
天正16年    上川大野系譜  ■大野朝直の子 直幸の嫡男 直利の代 上家成る

天正16年    伊予中世年表  ○福島正則が伊予を拝領。
天正16年 7月8日  大日本史料  秀吉、令して、諸国百姓の武具を所持するを禁じ、諸大名をして、之を徴せしむ
天正16年 7月8日  心斎橋今昔年表  刀狩令を発布。
天正16年 7月8日  大日本史料  秀吉、諸国の地頭、代官に命じて、船頭、猟師の、重ねて、海賊を行ふことを禁じ、
                誓紙を徴す【海賊禁止令】
天正16年 7月8日  早稲田大学所蔵文書  ○秀吉は刀狩令と同時期に「海賊禁止令」を発布する・

         定
       一、諸国海上において賊船の儀、固く御停止成さるる処、この度、備後・伊予両国の間伊津喜島にて
         盗船仕まつるの族これある由聞こし召され、曲事に思し召し事、
      一、国々浦々船頭・猟師、いづれも舟つかい候もの、其所の地頭・代官として速く相改め向後、
         聊か以て海賊仕まつるまじき由誓紙申しつけ、連判をさせ、其の国主取集め上げ申すべき事、
      一、自今以後、給人・領主由(油)断を致し、海賊の輩これあるにおいては、御成敗を加えられ曲事
         の在所知行以下、末代召し上げらるべき事、

         天正十六年七月八日       (秀吉 朱印)

天正16年 7月21日  大日本史料  秀吉、生母大政所(天瑞院)の寿像を作り、予め位牌堂を建立す
天正16年 7月24日  大日本史料  毛利輝元、小早川隆景、吉川広家、並に入京し、是日、聚楽亭に於て、秀吉に謁す、
                秀吉、之に豊臣姓、羽柴氏を授く
天正16年 7月26日  大日本史料  毛利氏の臣堅田元慶、渡邊長、粟屋元貞、口羽春良、国司元蔵、穂田元清、福原元俊
                等を並に従五位下に叙す、秀吉、之に豊臣の姓を与ふ
天正16年 7月28日  大日本史料  秀吉、参内し、越後布を献ず、毛利輝元、島津義弘、龍造寺政家、立花統虎、
                小早川隆景等も亦、参内す
天正16年 7月30日  大日本史料  羽柴秀長、聚楽亭内に猿楽を催し、毛利輝元、小早川隆景等を饗す、秀吉、之に臨む

天正16年 8月1日  大日本史料  毛利輝元、小早川隆景、吉川広家、聚楽亭に於て秀吉に謁し、八朔を賀す
天正16年 8月2日  大日本史料  秀吉、加藤清正及び小西行長に命じ肥後に売得せられたる豊後の百姓を其国に返さしむ
天正16年 8月2日  大日本史料  羽柴秀次、毛利輝元、小早川隆景、吉川広家等を其亭に饗す、秀吉、又之に臨む
天正16年 8月3日  大日本史料  秀吉、毛利輝元等を伴ひ、大仏殿に詣す、
天正16年 8月4日  大日本史料  秀吉、加藤清正に命じて、肥後の地を八代の衆等に頒与せしむ
天正16年 8月5日  大日本史料  秀吉、日向諸県郡の地を島津義弘に加へ、同国都於郡の地を同豊久に宛行ふ

天正16年 8月10日  大日本史料  秀吉、龍造寺政家に命じ、臨時に肥後の諸城を守らしむ
天正16年 8月10日  大日本史料  秀吉生母大政所(天瑞院、)大坂に之く、
天正16年 8月11日  大日本史料  秀吉、毛利輝元等を従へ、重ねて、大仏殿に詣す
天正16年 8月12日  大日本史料  秀吉、島津義弘に命じ、使を琉球王尚永に遣し、入貢を促さしむ
天正16年 8月12日  大日本史料  秀吉、豊前の長野鎮展、原田五郎、筑後の草野鎮永等を肥後に移し、肥後の城十郎
                 太郎、名和顕孝を筑前に移す
天正16年 8月15日  大日本史料  秀吉、聚楽亭に於て、観月の宴を催す
天正16年 8月16日  大日本史料  秀吉、近江大津に之く

天正16年 8月19日  大日本史料  秀吉、近江大津より京都に帰る
天正16年 8月22日  大日本史料  北條氏直、徳川家康の斡旋に依り、同族北條氏規をして、秀吉に使し、
                 和議を講ぜしむ
天正16年 8月27日  大日本史料  毛利輝元等、暇乞の為め、聚楽亭に抵りて、秀吉に謁す、尋で、参内す
天正16年 8月27日  大日本史料  島津龍伯(義久、)秀吉に異心なき旨を誓ふ
天正16年 8月27日  大日本史料  秀吉、草野鎮永の子某を肥後に移し、其旧領肥前の地を収めて、蔵入領と為し、
                鍋島信生(直茂)を其代官と定む
天正16年 9月1日  大日本史料  秀吉、肥前の松浦鎮信に命じて、長崎より上送の荷物を回漕せしむ
天正16年 9月4日  大日本史料  秀吉、大徳寺宗陳(古渓)を筑前に流す、是日、千宗易(利休、)聚楽亭の屋敷に
                送別の茶会を催す

天正16年 9月7日  大日本史料  秀吉、大坂に之く

天正16年 9月8日  小早川文書  ○海賊禁止令の第一条は能島と疑った秀吉は小早川隆景に下記のような詰問状を送る。

    能島のこと、此中海賊仕るの由聞こし召され候。言語道断の曲事是非なき次第に候間
    成敗の儀此の方より仰せつけらるべく候といへども、其方持分候間、急度申し付けらるべく候、
    但し申し分これ有らば、村上掃部早々大坂へ罷り上がり、申しあぐべく候、其方として
    成敗成らず候はば、御人数遣はされ仰せ付けらるべく候也。
       九月八日            (秀吉 朱印)
     小早川左衛門左(隆景)どのへ

天正16年 9月9日  大日本史料  毛利輝元等、秀吉に大坂城に謁し、重陽の節供を賀す
天正16年 9月10日  大日本史料  秀吉、宇喜多秀家の亭に臨む、毛利輝元等、之に陪す、又、輝元等、足利昌山
               (義昭)の亭に候す、
天正16年 9月10日  大日本史料  島津以久、大隅清水城を子同彰久に譲り、同国上井城に移る、是日、秀吉、以久を
                して、本知を安堵せしむ
天正16年 9月17日  大日本史料  秀吉、在京の飯米料として、河内讃良郡の地を加藤清正に宛行ふ
天正16年 9月20日  大日本史料  伊達政宗、秀吉に鷹一双を進め、馬一匹を羽柴秀次に贈る
天正16年 9月21日  大日本史料  秀吉、摂津平野の末吉利方に商売の諸役を免除す
天正16年 10月7日  大日本史料  秀吉、河内より大坂に帰る

天正16年 10月14日  大日本史料  陸奥会津の蘆名義広、其臣金上盛備を遣し、秀吉を音問す
天正16年 10月17日  大日本史料  秀吉、伊達政宗に物を贈る、是日、其使、出羽米澤に到る
天正16年 10月19日  大日本史料  秀吉、宇喜多秀家の姉を養女と為し、吉川広家に嫁せしむ、是日、婚儀成る
天正16年 10月26日  大日本史料  是より先、秀吉、徳川家康に嘱し、伊達、最上、佐竹、蘆名、岩城、相馬諸氏の
                 和合を図らしむ、是日、家康、書を伊達政宗に遺り、和議の調ふを祝す

天正16年 11月15日  高野山小早川供養塔  小早川隆景は高野山奥の院に夫婦の逆修(生前)供養塔を建てる。

         (隆景) 天正十六年 (隆景正室)
           芸州小早川 芸州小早川
          【梵字】為泰岳□ 士カ 【梵字】為月渓信女
           隆景逆修 御内方逆修
           十一月十五日 十一月十五日
         *(目印→井伊家の墓塔群の前を、一の橋(入り口)側に戻るように移動した箇所)

天正16年11月25日  大日本史料  秀吉、島津龍伯(義久)に巣鷹を徴す、仍りて、龍伯、松浦鎮信に、高麗産
                 の雛鷹を求む
天正16年 11月27日  大日本史料  秀吉、摂津茨木に之く、翌日、帰京す
天正16年 12月11日  大日本史料  伊達政宗、秀吉及び前田利家に物を贈る、是日、利家、之を謝す
天正16年 12月15日  大日本史料  秀吉、遊女を禁ず
天正16年 12月25日  大日本史料  伊達政宗、歳暮の礼物を秀吉に進む、島津義弘も亦、之を進む、是日、秀吉、
                 之に答ふ
天正16年     東和町史   ○毛利輝元 安芸吉田から広島に出て築城くを始る。この時の主な材木は浮島の
                      ものを伐採した。

天正16年      総合地方史年表  ○両遠藤氏加茂郡に転じ、稲葉貞通郡上を領す。
天正16年 冬    大日本史料  長宗我部元親、土佐大高坂に築き、豊岡より之に徙る【土佐国編年記事略】
天正16年     大日本史料  長宗我部元親、土佐の地を検す【土佐国古文叢】

西暦1589年
天正17年 1月1日  大日本史料  廷臣、諸将、大坂城に抵り、秀吉に歳首を賀す
天正17年 1月2日  大日本史料  秀吉、斯波義近、長谷川秀一、小早川隆景、島津義弘等を大坂城内山里茶亭に饗す
天正17年 1月7日  大日本史料  鍋島信生を加賀守に任じ、従五位下に叙す、秀吉、之に豊臣姓、羽柴氏を授く、
                信生、名を直茂と改む
天正17年 1月10日  大日本史料  秀吉、大坂より入京す

天正17年 1月14日  大日本史料  秀吉、参内して、歳首を賀し奉る
天正17年 1月16日  大日本史料  京畿の諸住持、聚楽亭に抵り、秀吉に歳首を賀す
天正17年 1月23日  大日本史料  秀吉、大仏殿建立の木材及び刀剣を島津義弘に徴し、又琉球入貢、明国勘合符調製、
                海賊船禁止等のことに就き督促す、是日、義弘其臣伊地知増也に之を伝へ、更に遅滞な
                きを期せしむ
天正17年 2月22日  山口県史整理年表  輝元あらたに神領五ヵ村(広島)に築城せんとしてその地を卜す
                   【毛利氏四代実録】
天正17年 2月29日  大日本史料  秀吉、京都より大坂に帰る

天正17年 3月9日  大日本史料  秀吉、福島正則に命じ、大政所(天瑞院)病平癒立願の米を山城鞍馬寺に渡さしむ
天正17年 3月13日  大日本史料  秀吉、大坂より上京す
天正17年 3月15日  大日本史料  徳川家康の将内藤政長を左馬助に任じ、従五位下に叙す、秀吉、之に豊臣の姓を授く
天正17年 3月17日  大日本史料  秀吉、禁裏造営を始め、羽柴秀次をして、之を監せしむ
天正17年 3月19日  山口県史整理年表  輝元、雑賀満寿丸に厚東郡吉見村の内を給す 【毛利氏四代実録】
天正17年 3月24日  大日本史料  秀吉、石田三成をして、蘆名義広の入京を促さしむ
天正17年 4月19日  大日本史料  是より先、佐竹義重、伊達、蘆名諸氏争乱の状況を秀吉に報ず、是日、秀吉、
                書を義重に遺り、其調停を図らしむ

天正17年 5月3日  山口県史整理年表  輝元検田改定を行い諸士に配地す。その後しばしば配地を行う 【閥閲録】
天正17年 5月4日  大日本史料  秀吉、大坂に帰る
天正17年 5月15日  大日本史料  黒田孝高老し、子長政嗣ぐ
天正17年    寛政重修諸家譜  ○黒田長政 黒田家相続
天正17年 5月17日  大日本史料  秀吉、大坂より京都に上る
天正17年 5月27日  大日本史料  秀吉の子(鶴松、)山城淀城に生る、翌日、之に太刀を賜ふ、
天正17年 5月  心斎橋今昔年表  淀殿、鶴松を生む。朝鮮と国交始める
天正17年 5月28日  大日本史料  是より先、秀吉、島津龍伯(義久)をして、琉球王尚寧の入貢を促さしむ、是日、
                尚寧、天龍寺桃庵等をして、来聘せしむ、尋で、龍伯、桃庵等を伴ひて入京し、
                聚楽亭に於て、秀吉に謁す

天正17年 6月5日  大日本史料  是より先、秀吉、妙音院某及び一鴎軒宗虎を相模小田原に遣し、北條氏政、同氏直父子
                の上京を促す、是日、氏直、妙音院某等に、氏政の来る十二月に上京すべき旨を告ぐ
天正17年 6月16日  大日本史料  秀吉、大坂に帰る
天正17年 6月16日  大日本史料  伊達政宗、蘆名義広の陸奥黒川城を攻略せることを秀吉に報ず
天正17年 7月4日  大日本史料  秀吉、伊達政宗の、蘆名義広を逐ふを詰責し、速に兵を収めんことを命ず、又、上杉
                景勝、佐竹義重に命じ、義広を援け、政宗を伐たしむ、
天正17年 7月13日  大日本史料  秀吉、富田一白(知信、)前田利家等に命じ、書を伊達政宗に遺り、政宗の陸奥
                会津侵略に就きて、弁疏せんことを促さしむ

天正17年 7月18日  大日本史料  秀吉、大徳寺宗陳(古渓)の罪を赦し、筑前より帰京せしむ、是日、同国名島の
                小早川隆景、之を伝ふ
天正17年 7月21日  大日本史料  是より先、秀吉、北條氏直の上京を促し、真田昌幸の所領上野沼田を之に与へんこと
                を約す、是日、富田一白(知信、)津田隼人正を信濃上田城に遣し、昌幸を諭さしむ
天正17年 7月23日  大日本史料  秀吉、大坂に帰る

天正17年 7月27日  上川大野系譜  ■大野直昌竹原第で60才で卒、葬る東光山薬師寺裏 法名永称院殿直真宗昌大居士
天正17年 7月27日  大野家譜上田本 ○大野直昌竹原第で60才で卒、葬る東光山薬師寺裏 法名永称院殿直真宗昌大居士
天正17年 7月27日  久万町誌 ○大野直昌、安芸国竹原で歿、62歳、東光山薬師寺に葬る。号永称院殿直真宗昌大居士 
               後に施主大野和五郎直尚、位牌再調整。

天正17年 8月2日  大日本史料  秀吉、陸奥南部信直の請に依り、越後上杉景勝をして、上京の路次を開かしむ、
                是日、之を信直に告ぐ
天正17年 8月5日  大日本史料  秀吉、京都に入る
天正17年 8月10日  大日本史料  秀吉、大坂に帰る
天正17年 8月17日  大日本史料  伊達政宗、遠藤不入齋等を上京せしめ、陸奥会津侵略に就きて秀吉に陳弁せしむ
天正17年 8月19日  大日本史料  秀吉、京都に上る
天正17年 8月26日  大和越智氏伝記 ○越智玄番頭家栄(利之)は秀吉の意を受けた筒井順慶にそそのかされた家臣の
                 ため卒(雲龍院殿天外宗範禅定門)*家栄は文明3年にも居る。
天正17年 8月26日  大和越智氏伝記 ○秀吉、大和越智氏家名断絶のため筒井順慶をして家栄嫡子市之助(13歳)を切腹
                 させる。(開善院殿樹岳宗鐵大童子)、後、越智氏は次男へ継ぐ

天正17年 8月27日  大野家聞書  ○大野直昌歿、61歳、号永称院殿前予州太守直真宗昌大禅定門

天正17年 9月1日  大日本史料  秀吉、京都に入る
天正17年 9月1日  大日本史料  秀吉、諸大名に令して、其妻子を在京せしむ
天正17年 9月3日  大日本史料  秀吉、一文字刀を紛失する咎に依り、浅野長吉(長政)の甥等を誅す、尋で、
                尊教院順源等を磔殺す
天正17年 9月11日  大日本史料  秀吉、大坂に帰る
天正17年 9月13日  大日本史料  秀吉の子鶴松、山城淀城より大坂城に移る、是日、之に太刀を賜ふ
天正17年 9月15日  大日本史料  秀吉、西川八左衛門尉に近江蒲生郡の地を宛行ふ
天正17年 9月25日  大日本史料  秀吉、浅野長吉(長政)を京都所司代と為し、前田玄以を扶けしむ
天正17年 9月28日  大日本史料  是より先、佐竹義宣、上杉景勝と謀り、河原田盛継等を援けて、蘆名義広の復帰を図
                る、仍りて、是日、秀吉、景勝に書を遺り、義広を復帰せしめんとするを告げ、国境の
                守備を厳にせんことを命ず

天正17年 10月1日  大日本史料  秀吉、長谷川宗仁を伏見代官と為す
天正17年 10月3日  大日本史料  秀吉、肥前平戸領民の、明国進物船の荷物を掠奪するを聞き、平戸の松浦道可
               (隆信)に命じて、其首魁等を捕へて、上送せしむ
天正17年 10月3日  大日本史料  上杉景勝の将須田満親、同長實、上京して、秀吉に謁す、是日、満親等、信濃高杜社
                に報賽し、蒼鷹を寄進す
天正17年 10月5日  大日本史料  秀吉の臣富田一白(知信、)伊達政宗の臣片倉景綱に、最上義光、岩城常隆の上京せ
                んとする旨を告げ、政宗の上京を促さしむ
天正17年 10月8日  大日本史料  秀吉、丹波亀山の羽柴秀勝の、領知の加増を需むるを怒りて、其所領を奪ふ、是日、
                蜂屋頼隆の遺領越前の地を給す

天正17年 10月14日  大日本史料  秀吉、山城清水寺僧侶の横領せる同寺本堂の賽銭を没収し、之を同寺造営費に
                 宛てしむ
天正17年 11月10日  大日本史料  富田一白(知信、)浅野長吉(長政)等、伊達政宗に、速に上京し秀吉に弁疏せん
                 ことを促す
天正17年 11月15日  大日本史料  秀吉、美濃の地を伊木忠次等に宛行ふ、尋で、同国南宮社をして其社領を安堵せしむ
天正17年 11月22日  大日本史料  秀吉、諸国の地を検す、是日、洛中の検地を始む
天正17年 11月24日  大日本史料  是より先、北條氏の兵、真田昌幸の属城上野名呉桃を奪ふ、秀吉、北條氏の違約せる
                を怒りて、討伐を決意し、其理由を草し、是日、徳川家康をして、之を相模小田原に
                伝達せしむ、尚諸大名に令して、小田原出陣の準備を為さしむ

天正17年 12月2日  大日本史料  加藤清正、秀吉に大坂城に謁せんとし、肥後隈本(熊本)を発す、尋で、秀吉、清正
                の戦功を賞し、又、之に朝鮮出兵の準備を命ず
天正17年 12月4日  大日本史料  秀吉、北條氏を討たんとす、仍りて、書を小早川隆景及び吉川広家に遺り、明年二月
                に入京せしめ、隆景をして、尾張清洲城を、広家をして、同国星崎城を守らしむ、
天正17年 12月7日  大日本史料  北條氏直、書を富田一白(知信)及び津田隼人正に遺り、秀吉の母大政所(天瑞院)
                を質と為さば、父氏政を上京せしむべき旨を告ぐ
天正17年 12月8日  大日本史料  秀吉、亀井真矩(茲矩)に因幡気多郡を宮部継潤に因幡の地及び但馬二方郡を宛行ふ
天正17年 12月9日  大日本史料  是より先、徳川家康、秀吉の書状を北條氏直に伝達す、是日、同氏政、氏直父子、
                家康に答書して、和解を斡旋せんことを請ふ

天正17年 12月10日  大日本史料  徳川家康、上京し、是日、秀吉に聚楽亭に謁し、北條氏討伐のことを議す
天正17年 12月16日  大日本史料  大友吉統、上京して、是日、秀吉に謁す
天正17年 12月26日  大日本史料  是より先、秀吉、蘆名義広を陸奥会津に復帰せしめんとするの意を佐竹義宣に伝
                 ふ、是日、義宣、秀吉の将石田三成、同増田長盛に復書し、上杉景勝をして、速に
                 会津に出兵せしめんことを請ふ、又書を景勝の将直江兼続に遺り、其出兵を請ふ
天正17年 12月  大日本史料  秀吉、本願寺光佐(顕如)に大坂の旧地を与へ、其租を免除す

天正17年     大日本史料  秀吉、重ねて、宗義智等を、朝鮮王李昖に遣し、其来聘を促す、李昖之を諾す

天正17年  大野家譜讃岐屋本  ○大野直昌歿後惣領熊王丸(直常)は松山へ還り天徳寺に寄宿、後大野家出入りの町人
                天野屋九兵衛に連れられ大坂へ行く。後養子。【大坂大野天野屋初

大伴姓 屋代島大野家 関連年譜(AD1585年~1586年)

2023年01月08日 14時46分25秒 | 大伴姓屋代島大野家 関連年譜
西暦1585年
天正13年 1月3日  大日本史料  是より先、羽柴秀吉、伊勢大神宮に遷宮の用途を上り、入目の注文を徴す、是日、
              秀吉、注文の至れるに答ふ、尋で、稲葉重執・牧村政吉を遣して、出納のことを督せしむ、
天正13年 1月3日  大日本史料  本願寺光佐、顕如、使を羽柴秀吉に遣し天正13年 て、歳首を賀す、尋で、秀吉の養子
               於義伊秀康にも亦、歳首を賀す
天正13年 1月12日  大日本史料  羽柴秀吉、池田照政輝政の老臣伊木忠次に書を与へ、照政をして、美濃大垣より、
               同国岐阜に徙らしむ
天正13年 1月17日  大日本史料  佐竹義重、徳川家康に書を遺りて、羽柴秀吉との媾和を賀す、尋で、義重の属将多賀谷
                重経も亦、家康の臣大久保忠隣に書を遺りて、之を賀す
天正13年 1月17日  大日本史料  羽柴秀吉、毛利輝元の質小早川秀包元総に暇を与へて、帰国せしむ、是日、黒田孝高・
                蜂須賀正勝、之を輝元の臣井上春忠に報じ、 且備前の処分並に紀伊雑賀及び四国出兵
               に就きて、秀吉の意を伝ふ、

天正13年 1月22日  大日本史料  羽柴秀吉、摂津有馬に浴す、
天正13年 1月28日  大日本史料  是より先、羽柴秀吉、弟秀長を名代として、織田信雄を訪はしむ、是日、秀吉、
                信雄の老臣飯田半兵衛尉の之に尽力せるを褒す
天正13年 1月  心斎橋今昔年表  毛利輝元・上杉景勝が、秀吉の臣従となる

天正13年 2月2日  大日本史料  羽柴秀吉、肴并に馬糧の調達を、伊勢神戸の生駒近規に命ず、是日、近規の臣
               小森政秀、其過書を出す
天正13年 2月5日  大日本史料  羽柴秀吉の室浅野氏、摂津阿弥陀寺に、薬師堂建立の費用を寄進す
天正13年 2月10日  大日本史料  吉川元春及び備後甲山の山内隆通をして、泉涌寺舎利殿再興に奉加せしめ給ふ
天正13年 2月10日  大日本史料  羽柴秀吉、織田信雄の上洛に就き、石清水八幡宮惣中をして、路次を普請せしむ

天正13年 2月11日  大日本史料  毛利輝元、羽柴秀吉の意に従ひて、伊予来島の村上通昌の帰国を許す、是日、
                小早川隆景、同国能島の村上武吉・元吉父子に誓書を与へて、
     萩藩閥閲録1-573  疏意なき旨を述ぶ、尋で、乃美宗勝も亦、之に誓書を遺る

        来嶋通昌事、従羽(秀吉)筑披申下之条、請付申迄候、自然従彼方於企再乱者、
        任最前申談首尾、御親子三人不捨申引立申候、若於此旨偽者、
       (牛王)日本国中大小神祇、別而厳島両大明神・三嶋大明神・八幡大菩薩・
        天満大自在天神・可罷蒙御罰者也、仍起請文如件

        天正十三年二月十一日      小早川左衛門佐 隆景 御判
         村上大和守(武吉)殿  村上掃部(元吉)殿

天正13年 2月13日  大日本史料  羽柴秀吉、三月二十一日を期して、紀伊に出馬すべき旨を、小早川隆景に報じ、領内の
             警固船を悉く和泉岸和田に集結せしむ、又、一柳末安にも之を報じ、大坂附近に著陣せしむ
天正13年 2月14日  大日本史料  羽柴秀吉、徳川家康の臣本多重次に物を遺りて、其子仙千代重成の、家康の次子於
                     義伊秀康に従ひて、大坂に抵れるを賞す
天正13年 2月18日  小早川家文書  羽柴秀吉、小早川秀包元総に河内の内一万石を与ふ、是日、秀包大坂より安芸に帰る
天正13年 2月20日  大日本史料  安芸新荘の吉川元春・同元長父子、二宮長実をして、兄春実の遺跡を安堵せしむ、
                尋で、元春、父俊実の所領を知行せしむ、
天正13年 2月24日  大日本史料  前田利家、羽柴秀吉の命に依り、越中出馬に就きて、船舶の領外に航するを禁ず
天正13年 2月26日  大日本史料  吉川元春、秋上良忠に、出雲伊奘諾・伊奘冉神魂社・六所三社の神主職及び別火職等を
                安堵す

天正13年 2月26日  大日本史料  羽柴秀吉、山城枇杷荘の地を片桐貞隆に充行ふ
天正13年 2月28日  大日本史料  羽柴秀吉、大坂より入京す
天正13年 3月1日  大日本史料  羽柴秀吉、近江の新庄蔵人をして、池田照政運送の船鎖を、同国伊香郡中之河内に
               逓送せしむ
天正13年 3月1日  大日本史料  小早川隆景、児玉就英及び粟屋元種に、羽柴秀吉の紀伊雑賀出兵の期日を告げ、来る十
               日を期して、警固船を率ゐて出帆せしむ、尋で、毛利輝元も亦、冷泉元満等に之を命ず
天正13年 3月3日  大日本史料  羽柴秀吉、仙洞御所の普請を視る
天正13年 3月5日  大日本史料  羽柴秀吉、京都より丹波亀山に之く

天正13年 3月5日  萩藩閥閲録巻11-1  
 
   今朝もっ風雨一入之故不申談候、浦 図書 一、(伊予)曽根・恵良・
   しらされ三ケ所之儀も破却ニ相澄、道具以下當城エ可取越候、御思案之旨候も可承候
  一、祖母谷瀧之城下次戒是も一所相縮度候、何を抱何を可相捨候哉、思召所承引合可致儀定候
  一、當城大津せり本尊興居嶋・賀嶋・来島・小湊・櫛邊・壬生川、是も十ケ所之事ニ候、肝要之 
     持所たに相抱候へもあい々々の儀もさえミ不入事候、第一領地も有間敷候条、持くさし候て
     役ニ立間敷候、十ケ所も二万貫餘之儀ならでハ成間敷候
   一、普請配ハ道後之奉行衆と昨今以来申談よきほと相調候、明後日白井日取ニて候間可相始候
   一、度々申候西園寺御抱之城、領地之やりかへ曾而不相聞咲止之儀候、多分久 又左可相心得候条被遂内談
    候て(西園寺)公廣於御着を、則相すめ時分之儀候間、此節普請等被申付度事候
   一、得居事、彼地無合鮎候も可為無理遣候哉、今之分も菊間も無落着不可然躰候、従是可申談候条、雨あかり
    路次も如形候ハ々今夕明朝之間可有御登城候    恐惶謹言

    (天正一三カ)    三月五日                  隆景    御判
     「乃   兵  参                      隆景」
天正13年 3月7日  大日本史料  羽柴秀吉、前田利家に答へて、近く越中に出馬すべき旨を報じ、且、之を上杉景勝に
               伝へしむ
天正13年 3月8日  大日本史料  羽柴秀吉、茶湯を紫野大徳寺に催す
天正13年 3月9日  大日本史料  羽柴秀吉の正室杉原氏高台院の侍女幸蔵主、和泉貝塚に之き、本願寺を訪ふ
天正13年 3月10日  大日本史料  伊予能嶋の村上元吉、長門下関の問藤太郎に、紋幕を遣す
天正13年 3月10日  大日本史料  内大臣近衛信輔を罷め、権大納言羽柴秀吉を内大臣に任じ、正二位に叙す、尋で、
               信輔を左大臣に任ず

天正13年 3月10日  大日本史料  羽柴秀吉、賀茂別雷社並に北野社境内の竹木の伐採を禁じ、又、大徳寺・東寺及び遍照
                心院をして、旧に依り、寺領を安堵せしむ
天正13年 3月12日  大日本史料  羽柴秀吉、京都より近江坂本に之く
天正13年 3月12日  大日本史料  伊予能島の村上元吉、筑前立花の戸次道雪鑑連・同統虎父子に書を遺る、是日、統虎、
                元吉に道雪の筑後出陣を告げ、重ねて返書すべきを答ふ、
天正13年 3月15日  大日本史料  是より先、羽柴秀吉、安国寺恵瓊瑤甫・宮木宗賦を豊後に遣して、大友宗麟義鎮宗滴に
                茶入を求め、又、島津義久に鷹を求む、是日、恵瓊、豊後より秀吉の書状を義久に遺る

天正13年 3月16日  大野家譜上田本  ○大野直周、元親と公広の合戦の時三百余騎を引率して公広に加勢する。通直、
                  直昌も加勢する。

天正13年 3月17日  大日本史料  毛利輝元、紀伊雑賀に警固船を派遣す、小早川秀包、元総、之に従ふ、是日、羽柴秀
                吉、小早川隆景及び秀包に書を遺りて、毛利氏の水軍をして、中村一氏・仙石秀久・
                九鬼嘉隆等と協力せしむ
天正13年 3月19日  大日本史料  山城・近江の百姓、検地の為め逃散す、是日、羽柴秀吉、片桐貞隆・宮木豊盛・森吉政
                等に命じて、未進の年貢を猶予し、百姓をして、還住せしむ
天正13年 3月19日  大日本史料  羽柴秀吉、加藤清正に河内錦郡の内四百三十四石の地を加増す
天正13年 3月20日  大日本史料  佐竹義重、羽柴秀吉に書を遺りて、好を修す

天正13年 3月21日  大日本史料  羽柴秀吉、紀伊を征す、是日、和泉畠中・千石堀等を抜く、尋で、積善寺・澤等を
                攻略し、進んで紀伊に入りて、根来雑賀の一揆を降す
天正13年 3月22日  大日本史料  綸旨を諸社寺に下して、羽柴秀吉の紀伊出陣の為め祈らしめ給ふ
天正13年 3月25日  大日本史料  羽柴秀吉、仙石秀久・中村一氏・九鬼嘉隆・小西行長等を遣して、紀伊奥郡を徇へし
                む、同国小松原の湯川直春服さず、屡秀吉の兵と戦ふ、是日、秀吉、紀伊征伐の状況を
                小早川隆景に報ず

天正13年 3月25日  大野家譜上田本  ○長宗我部元親、忍び本国に帰る。
天正13年 3月    大日本史料    羽柴秀吉、延暦寺西塔再建の為めに壱万貫を寄進す
天正13年 3月    大日本史料    羽柴秀吉、旧に依り、禁裏六町町に諸役・徳政・寄宿等を免除す
天正13年 春頃    伊予年表    ○ついに河野氏は元親に屈服した。
                   *(これは長曾我部側資料でありこの時期河野氏は支配権は維持している。
天正13年 4月2日  大日本史料  羽柴秀吉、上杉景勝に来月越中に出馬すべき旨を報ず、是日、景勝、之に答へて、前田
               利家と協力すべきを述べ、且、織田信雄・徳川家康との媾和を賀す
天正13年 4月3日  大日本史料  本願寺光佐、顕如、光寿教如及び興正寺佐超顕尊を紀伊雑賀に遣して、羽柴秀吉を
               見舞はしむ

天正13年 4月10日  大日本史料  羽柴秀吉、紀伊金剛峯寺に迫りて、寺領以下、宗祖空海の定むる所に従はしめ、
               僧徒を戒飭す、金剛峯寺、其節度に服す
天正13年 4月14日  大日本史料  羽柴秀吉、小早川隆景に答へて、和泉・紀伊両国の平定を告げ、近く四国に
                出馬すべきことを報ず
天正13年 4月16日  大日本史料  島津義久の弟同忠平、義弘、吉川元春に答へて、龍造寺政家と和睦を報じ、以後政家と
                好を厚くすべき旨を述ぶ、尋で、義久も亦元春に答ふ、
天正13年 4月17日  大日本史料  織田信雄、紀伊雑賀に羽柴秀吉を見舞ふ、尋で、秀吉の養子義伊秀康も亦雑賀に之く
天正13年 4月17日  大日本史料  毛利輝元、羽柴秀吉の四国征伐に従ひて、伊予に出兵せんとし、湯浅将宗をして、
                出兵の用意をせしむ、尋で、児玉就光に出船の準備を命ず

天正13年 4月17日  山口県史整理年表  秀吉の四国征伐に伊予渡海五月二日と決定す。輝元下松船出帆準備を下知す。
                   延期して六月二十七日、隆景・吉川元長出陣す 【閥閲録】
天正13年       周防大島町誌    ○秀吉の四国征伐の時、来島の村上通総が先導。為に河野通直は先祖伝来の
                    封土を失う。
天正13年 4月22日  大日本史料     是より先、羽柴秀吉、紀伊太田を攻囲す、是日、城陥る、尋で、秀吉凱旋す
天正13年 5月1日   大日本史料    吉川元春、子同元長をして、出雲・伯耆・石見の諸氏を率ゐて、羽柴秀吉の四国
                  征伐に従はしめんとす、是日、元春父子、湯原春綱・同元綱・小川元政をして、
                  出陣の用意を為さしむ

天正13年 5月4日   大日本史料   羽柴秀吉、摂津中島渡辺の地を本願寺に与へ、和泉貝塚より移らしむ、仍りて、
                 本願寺、伽藍の造営を始め、近江の末寺門徒をして之に尽力せしむ
天正13年 5月4日  大日本史料    羽柴秀吉、来月三日四国に出馬せんとし、黒田孝高をして、淡路に航せしめ、一柳
                 末安をして、播磨明石に著陣せしむ
天正13年 5月7日  大日本史料    是より先、前田利家の能登七尾の守将前田安勝、越中宇波村の百姓に、越中侵入の
                 際力を致さんことを求む、是日、利家、安勝に羽柴秀吉の出馬近きとこを報じ、
                 宿所を造作せしむ

天正13年 5月8日  大日本史料   羽柴秀吉、和泉岸和田の守将中村一氏に、近江甲賀を与へ、同国水口に移らしむ
天正13年 5月8日  大日本史料   是より先、羽柴秀吉、和泉・紀伊を弟秀長に与へ、城を紀伊岡山和歌山に築かしむ、
                是日、秀長に四国出馬を命じ、和泉堺以南の紀泉両国の船を徴せしむ
天正13年 5月9日  大日本史料   羽柴惟住丹羽長重、大坂に之きて羽柴秀吉に謁す、是日、溝口秀勝・上田勘右衛門尉
                をして、所領を安堵せしめ、秀吉の証判を受く
天正13年 5月10日  大日本史料  羽柴秀吉、大坂より上洛す、是日、淀に抵る
天正13年 5月13日  大日本史料  羽柴秀吉、浅野長吉をして、近江高島郡の所領の内を以て、留守居の者に扶持せしむ
天正13年 5月15日  大日本史料  誠仁親王、青蓮院尊朝法親王に、大和多武峯妙楽寺の為め、羽柴秀吉の尽力を求めんこ
                とを勧め給ふ

天正13年 5月18日  大日本史料  前田利家、羽柴秀吉の命に依り上洛せんとし、是日、能登七尾の守将富田重政に之を告
                ぐ、尋で、加賀大聖寺の溝口秀勝、利家上洛の途次、其居城に憩はんことを請ふ
天正13年 5月18日  大日本史料 長宗我部元親、羽柴秀吉の軍を防がんが為め、阿波岩倉に著陣す【木屋平文書】
天正13年 5月20日  大日本史料  羽柴秀吉、四国出馬の期日を来月十六日に延べ、一柳末安・斎村赤松広英・加藤茂勝・
                津田小八郎等をして、播磨明石より渡海せしむ
天正13年 5月24日  大日本史料  羽柴秀吉、近江坂本に疾む、是日、諸社寺に勅して其平癒を祈らしめ、且勅使を差遣し
               て病を問はしめ給ふ、誠仁親王も亦書を秀吉に賜ひて、四国出馬を停めさせらる

天正13年 5月28日  大日本史料  羽柴秀吉、越中富山の佐々成政を征せんとし、越前敦賀の蜂屋頼隆をして、其領国の
               道路・橋梁を整へしむ
天正13年 5月    大日本史料  羽柴秀吉、脇坂安治を伊賀より摂津に移し、能勢郡の地一万石を与ふ、
天正13年 6月2日  大日本史料  伊予来島の村上通総通昌、近江坂本に於て、羽柴秀吉に対面す、秀吉、来る四国出兵に
               際し、通総の、水軍を出さんことを求む
天正13年 6月2日  大日本史料  羽柴秀吉、山内一豊に若狭西方郡を与へ、同国高浜に居らしむ、尋で、生駒近規に近江
               高島郡の内二万三千五百石を与ふ

天正13年 6月6日  大日本史料  前田利家、京都より帰国す、是日、能登の青木善四郎・大屋助兵衛に、羽柴秀吉の越中
               出馬近きを告げ、警備を厳にせしむ
天正13年 6月8日  大日本史料  毛利輝元、羽柴秀吉の命に依り、諸将士をして、来る十六日を期して四国に出陣せしむ
天正13年 6月11日  大日本史料  綸旨を賜ひて、紀伊金剛峯寺をして寺領を安堵せしむ、尋で、羽柴秀吉、同寺に大和
               宇智郡・紀伊伊都郡の内三千石を還付し、別に米一万石を寄せて、 金堂の再建を命ず、
               又応其木食をして一山を支配せしむ

天正13年 6月11日  大日本史料  織田信雄、徳川家康に、羽柴秀吉の佐々成政を征すること近きにあるを告げ、
               人質を尾張清須に出すべきことを勧む
天正13年 6月14日  大日本史料  羽柴秀吉、病癒えて近江坂本より大坂に帰る、是日、本願寺光佐、顕如、興正寺佐超顕
                尊を遣して、秀吉を見舞はしむ、尋で、光寿、教如、大坂に之き、寺地の寄進を謝す

天正13年 6月15日  大日本史料  佐竹義重・宇都宮国綱、及び結城晴朝の老臣水谷勝俊、書を羽柴秀吉に遺りて、好を修
                す、是日、秀吉、義重等に紀伊四国等の平定を報じ、近く佐々成政を伐ち、関東に赴き
                て、義重等の為め尽力すべき旨を告ぐ
天正13年 6月16日  大日本史料  羽柴秀吉、弟秀長をして、諸軍を率ゐて、四国に渡海せしむ、尋で、来月三日、自ら出
                馬せんとして、石井明石与次兵衛・梶原弥介に、船を播磨明石に集結すべきことを命ず
天正13年 6月18日  大日本史料  羽柴秀吉、小早川隆景に、長宗我部元親の和議を斥けて、其証人を返せし旨を報じ、
                伊予を与ふべきことを約す

天正13年 6月18日  小早川hp  ○秀吉から隆景は35万石を与えれるが、自分は毛利の臣下であることを理由に一旦
                毛利輝元に与えられそれを賜る形にした。
天正13年 6月25日  大日本史料  羽柴秀吉、上杉景勝に、近く越中に出馬して、佐々成政を討滅し、共に小田原征伐の
                策を議せんことを告ぐ
天正13年 6月25日  大日本史料  千宗易、羽柴秀吉出陣の際は上洛すべき旨を川端道喜に報ず
天正13年 6月   小早川hp  ○羽柴秀吉、長曽我部追討の援軍を毛利に頼み小早川隆景・吉川元長らと共に伊豫に
               上陸し長宗我部を降伏させた。
天正13年    上川大野系譜 
          ■秀吉公より河野当家追討の御沙汰、隆景に御内意有り、言上して曰く、
          先年御下知違背の儀は、毛利家と河野は重縁のため、余儀なきことにて、
          又 大野と毛利とは曽て神文の約有り、其節某は御敵なりしも今は君に属し、
          河野 大野も今に至りては、何ら御下知に背く可きや。河野は王公の出にて
          数代伊予の主となり、今更滅亡させることは、微臣の嘆きは、言語に尽くし難し、
         希くは、河野、大野に一所賜りて、御家人に召し加えられ度き旨云々 、
          この時殿下仰せられるに、河野、大野の弓矢を踏み
         潰すに手間入るべからず、彼の国は足下に任す旨、仰せられて御退座云々。

天正13年    大野家譜上田本
         ○秀吉公より河野当家追討の御沙汰、隆景に御内意有り、言上して曰く、
          先年御下知違背の儀は、毛利家と河野は重縁のため、余儀なきことにて、
          又 大野と毛利とは曽て神文の約有り、其節某は御敵なりしも今は君に属し、
          河野 大野も今に至りては、何ら御下知に背く可きや。河野は王公の出にて
          数代伊予の主となり、今更滅亡させることは、微臣の嘆きは、言語に尽くし難し、
         希くは、河野、大野に一所賜りて、御家人に召し加えられ度き旨云々 、
          この時殿下仰せられるに、河野、大野の弓矢を踏み潰すに手間入るべからず、
          彼の国は足下に任す旨、仰せられて御退座云々。

天正13年    上川大野系譜
           ■当国征伐の為、小早川左衛門太夫隆景大将となり、備中、備後勢来陣し、上伊予諸城は悉く
          落去せり、其の時隆景の使者来たりて云う、河野通直は大津に出張し、直昌は国境に出陣して、
          若し元親、山方より討入らば、合戦して遂うべき旨指揮有り、隆景は大津城を攻め、
          菅田隼人介直之と土佐勢共篭城せるを合戦して、遂に落去せしむ。然るに元親は土佐一国を賜る、
         干戈止み之に因り、直昌大除城に帰城す。隆景上阪し、早速平定したることに御感有り、
          当国の過半を隆景に賜う、この時、隆景安国寺を以て雖願して云う、今度伊予国征伐之刻、
          河野は大津に出張し、大野は国境に出陣し,両家は微臣に志を通じて、御味方に属したる者、
          御免の儀再三言上有りと雖も、先年、春禅院の過言深く御愠りあり、之を止むるに人無く、
         当国の過半を隆景に賜い、河野当家は猶在城すると雖も、隆景の扶助する所なり。

天正13年   大野家譜上田本
           ○当国征伐の為、小早川左衛門太夫隆景大将となり、備中、備後勢来陣し、上伊予諸城は悉く
          落去せり、其の時隆景の使者来たりて云う、河野通直は大津に出張し、直昌は国境に出陣して、
          若し元親、山方より討入らば、合戦して遂うべき旨指揮有り、隆景は大津城を攻め、
          菅田隼人介直之と土佐勢共篭城せるを合戦して、遂に落去せしむ。然るに元親は土佐一国を賜る、
         干戈止み之に因り、直昌大除城に帰城す。隆景上阪し、早速平定したることに御感有り、
          当国の過半を隆景に賜う、この時、隆景安国寺を以て雖願して云う、今度伊予国征伐之刻、
          河野は大津に出張し、大野は国境に出陣し,両家は微臣に志を通じて、御味方に属したる者、
          御免の儀再三言上有りと雖も、先年、春禅院の過言深く御愠りあり、之を止むるに人無く、
         当国の過半を隆景に賜い、河野当家は猶在城すると雖も、隆景の扶助する所なり。

天正13年    周防大島町誌  ○秀吉四国征伐の総大将は小早川隆景でこの年から能島村上は小早川氏に臣礼をとる。
天正13年   伊予中世年表   ○来島通総・得居道久は小早川の軍に従う。
天正13年    伊予中世年表   ○毛利勢、小早川隆景、豊臣秀吉の命により伊予に侵攻。
天正13年   久万町誌     ○伊予平定の功により小早川隆景は秀吉から伊予の内35万石を安堵された。
天正13年    伊予中世年表  ○金子城(新居浜)高尾城(西条)主、金子元宅は激戦敗死する。
天正13年   伊予中世年表   ○鷺森城主、桑原泰国、落城敗死。近見山城主、重見通俊も落城敗死。日高山城の
               重見通晴も落城敗死。

天正13年   伊予中世年表   ○仏殿城、高峠城、雨ノ城、高仙山城、鷹ケ森城は落城。仙波氏の守る伊福城落城。
天正13年   伊予中世年表   ○横山城落城、城主南通具は逃走。村上武吉は国分山城を戦うことなく開城する。

天正13年   予陽河野家譜  ○大野直之は豊臣秀吉の四国征伐の将小早川隆景の三万余騎の進軍により曽根宣高と
              共に捕らえられた。

天正13年   伊予中世年表  ○小早川隆景の軍により、雄甲城、雌甲城、高穴城主二神一族敗死。
天正13年   伊予中世年表  ○忽那島の忽那氏滅亡
天正13年 7月  総合地方史年表  ○稲葉一鉄は神戸山王三重塔を上葺する。
天正13年 7月2日  大日本史料  羽柴秀吉、宮木豊盛の報に対へて、明三日四国出馬の意を伝へ、渡海のことに
               遺漏なからしむ
天正13年 7月2日  大日本史料  羽柴秀吉、伊達政宗の臣遠藤基信の書に答へて、伊達氏の好を織田信長と修せし旨を認
               め、且備中高松攻略、明智・柴田両氏討滅、和泉紀伊平定等、歴戦の功績を報ず
天正13年 7月2日  大日本史料  羽柴秀吉、高野山金剛峯寺金堂の用材を大和芳野郷に徴す

天正13年 7月5日  大日本史料  前田利家、能登石動山の守将青木善四郎・大屋助兵衛の書に答へ、重ねて、近日羽柴
               秀吉の江中に出兵すべき旨を告げ、なほ佐々成政に対する防備に油断なからしむ
天正13年 7月6日  大日本史料  羽柴秀吉、弟同秀長の請に仍り、再び四国出馬を延期す、是日、秀吉、之を淡路福良著
               陣の日根野弘就等に告げ、諸事に就きて遺漏なからしむ
天正13年 7月7日  大日本史料  羽柴秀吉、入京す

天正13年 7月7日  古田村大野系譜  ○大野直之は橘一族に討たれる。

天正13年 7月8日  大日本史料   青蓮院尊朝法親王、羽柴秀吉をして、大和多武峯妙楽寺領継目安堵の朱印状を下附せ
                しめんが為め、京都の奉行前田玄以に其斡旋を求め給ふ
天正13年 7月10日  大日本史料  羽柴秀吉の御伽衆大村由己、梅庵、本願寺光寿教如の所望に仍り、自作の軍記
                三番を読む
天正13年 7月11日  大日本史料  是より先、左大臣近衛信輔、関白二条昭実と関白職を争ふ、是日、昭実を罷め、内大臣
               羽柴秀吉を関白に任じ、従一位に叙し、平姓を改めて藤原氏と為す、又信輔及び菊亭晴季
               を并に従一位に叙す
天正13年 7月11日  心斎橋今昔年表  秀吉関白となる
天正13年 7月12日  大日本史料  秀吉、織田信長の日蓮宗僧徒より徴せし誓紙を破棄す、尋で、京都の奉行前田玄以をし
                て頂妙寺日珖等の逼塞を解かしむ

天正13年 7月13日  大日本史料  綸旨を伊勢専修寺堯真に下して、旧に仍り、同寺住持職及び諸国に於ける末寺門徒を
                安堵せしめ給ふ、尋で、秀吉、綸旨を奉じて、之に安堵状を与ふ
天正13年 7月15日  大日本史料  関白羽柴秀吉、親王・摂家、門跡間の座次争論を裁決す
天正13年 7月16日  大日本史料  上杉景勝、秀吉と約して佐々成政を挟撃せんとす、是日、景勝、嶋倉早介・龍口藤兵衛
                尉及び池浦喜右衛門に地を給し、越中境の城に入らしむ

天正13年 7月17日  大日本史料  秀吉、前田利家に越中出馬の意を伝へ、先備の目録を交付す
天正13年 7月17日  大日本史料  是より先、小早川隆景・吉川元長等、伊予に入り、長宗我部元親の党を同国丸山・高尾
                両城に囲む、元親の兵救援して克たず、是日、高尾城陥り、 城将金子元宅之に死す、
                尋で、同国高峠・生子山等の塁潰ゆ、仍りて隆景等、進みて同国仏殿城に迫り、又阿波
                に在る羽柴秀長等と連繋を固む【萩藩閥閲録】

天正13年 7月17日  大日本史料  長宗我部元親、金子元宅に近況を伝へ、且近隣の情報を求め、尽力せしむ【金子文書】
天正13年 7月18日  大日本史料  秀吉、五摂家に所領を与ふ
天正13年 7月19日  大日本史料  是より先、羽柴秀長・同秀次、諸軍を率ひて阿波に入り、長宗我部元親の属城同国木津
                城及び牛岐城を抜き、進みて一宮城並に脇城を囲む、又宇喜多秀家の軍、讃岐より阿波
                に進む、是日、秀長、一宮城攻囲の状況を小早川隆景に報ず、尋で、秀次も亦、脇城攻
                囲の状況を隆景に 報ず【顕如上人貝塚御座所日記】

天正13年 7月21日  大日本史料  秀吉、大坂に帰る

天正13年 7月23日  萩藩閥閲録1-533  

           予州之儀高尾落去、数人而討果付而、両郡無残所退散候
           桂 勘右衛門  讃岐境ニ佛殿一城相残条、急度可仕懸之由候、
           然を長宗我部(元親)陣所五三里之間由候間、土州衆手合候、
           左候条少成共人数可差渡由、被申越候間、
          當城番衆之儀、可被罷渡之通申、可得其意候、残衆中相賦、
           在番肝要候、猶此者可申聞候、謹言

         (天正十三年)七月廿三日    輝元 御判
           桂 平四郎殿  兼重左衛門尉(元続)殿

天正13年 7月27日  大日本史料  秀吉、越中勝興寺佐廉顕幸に、同国出馬の時期を告げ、同寺並に瑞泉寺に従軍すべき
                ことを命ず、又勝興寺並に千光寺に禁制を下す
天正13年 7月27日  大日本史料  秀吉、山崎片家・多賀常則・池田秀氏等の阿波脇城攻囲の労を褒す
天正13年 7月29日  TAKUBO   ○小早川隆景の勧告に従い湯築城を開城する。
天正13年 7月29日  久万町誌  ○怒涛の小早川軍は伊予勢全軍籠城の本城湯築城を十重二十重に囲み一ケ月に渡り
                攻防戦するも落ちず。
天正13年 7月29日  大日本史料  秀吉、宮木豊盛をして、阿波一宮・脇両城攻囲の軍に米を渡付せしむ、
天正13年 8月1日  大日本史料  秀吉、太田三楽斎資正に答へて、佐々成政征伐、並に関東出馬等の予定を報ず
天正13年 8月4日  大日本史料  秀吉、森吉政・祖父江久助をして、四国より凱旋の将兵の渡海に就き、遺漏なからしむ
天正13年 8月5日  大日本史料  織田信雄、佐々成政に書を遺りて、秀吉に降らんことを慫慂す
天正13年 8月6日  大日本史料 是より先、長宗我部元親、羽柴秀長に頼りて降る、是日、秀長、小早川隆景に、秀吉の、
               元親の降を納れ、土佐一国を与へたるを報じ、且、隆景の 伊予領知に尽力すべきことを
               約す、尋で、秀吉、隆景に伊予を与へ、又、四国に諸将を分封す【土佐国蠹簡集】

天正13年 8月7日  大日本史料  前田利家、能登石動山の守将大屋助兵衛・青木善四郎等に、秀吉の兵の越前に入りしこ
               とを告げ、佐々成政に対し、警戒を怠ることなからしむ
天正13年 8月8日  大日本史料  秀吉、越中富山城の佐々成政を征せんとして、京都を発す、
天正13年 8月8日  大日本史料  秀吉、近江観音寺賢珍をして、仙洞御所作事の用途を、京都の奉行前田玄以に計ひ
               渡さしむ

天正13年 8月14日  大日本史料  是より先、島津義久、秀吉の九州出兵に備へ、日向の諸士に其方途を議せしむ、是日、
                同国佐土原の島津家久、上井覚兼・吉利久金等と計策を議す、尋で、家久、覚兼等を
                伴ひて同国臼杵郡に赴き、大友義統の将の策動せる情況を探る
天正13年 8月26日  大日本史料  是より先、秀吉、越中に入り富山城に逼る、是日、佐々成政薙髪して降る、尋で、
                秀吉、越中を成政並に前田利家の子利勝に班ち、又、金森長近をして、飛騨の三木
                姉小路自綱父子を伐たしむ

天正13年 8月28日  大日本史料  秀吉、加藤茂勝に、知行の替地として、播磨神東郡の地を与ふ
天正13年 8月30日  大日本史料  園城寺をして、秀吉の佐々成政征討を祈らしめらる、尋で、石清水八幡社並に春日社に
                も、之を祈らしめらる
天正13年 8月    大日本史料  秀吉、脇坂安治の所領摂津能勢壱万石を改め、大和高取弐万石を与ふ
天正13年 閏8月  山口県史整理年表  秀吉、四国平定後、隆景に伊予三十五万石、来島通総・安国寺恵瓊等にも分封す
                 【閥閲録】

天正13年 閏8月   大日本史料   大和興福寺・法隆寺并に春日社、秀吉に所領の指出を呈す
天正13年 閏8月1日  大日本史料  本願寺光寿教如、秀吉の北国出陣見舞のため、加賀に下る、
天正13年 閏8月1日  大日本史料  是より先、秀吉、金森長近の斡旋に依り、越中聞名寺をして、其の寺内を安堵せし
                む、是日、長近、其の旨を聞名寺に報ず
天正13年 閏8月11日  大日本史料  秀吉、諸公家・諸門跡等をして、其の知行を安堵せしむ
天正13年 閏8月12日  大日本史料  是より先、上杉景勝、越中に秀吉に会せんとして、同国境に抵り、果さずして還る、
                 是日、景勝、越後春日山に帰陣せることを、同国三条城将甘糟長重に報ず

天正13年 閏8月13日  大日本史料  是より先、秀吉、越前北荘の丹羽長重を若狭に移す、是日、近江佐和山の堀秀政を
                 北荘に封じ、溝口秀勝・村上頼勝をして与力せしむ
天正13年 閏8月13日  大日本史料  秀吉、丹羽長重の弟宮松長正に、越前の内五百石の地を与ふ
天正13年 閏8月14日  大日本史料  秀吉、野辺四郎右衛門尉を、越前国中の蝋燭司に任ず
天正13年 閏8月18日  大日本史料  秀吉、筒井定次を大和より伊賀へ移し、大和を羽柴秀長に与ふ、尋で、定次、
                 伊賀に入る
天正13年 閏8月18日  萩藩閥閲録1-187 秀吉から蜂須賀正勝・黒田孝高宛に「予州の諸城を請取れば小早川隆景に引渡
                   し、予州の人質を連れて帰ってこい」とある。
天正13年       萩藩閥閲録1-187  秀吉から小早川隆景あて書状によると8/6日には予州国中の城請取り完了した
                   旨が記されている。

天正13年      毛利伊豆文書  秀吉、四国平定後、隆景に伊予三十五万石拝領時宇和郡三万五千石秀包拝領し大津城
                 に在城した。天正15年春返却【閥閲録】
天正13年     筑前大野家文書  ○大野直吉【村上】は伊豫大野近辺が安国寺恵慶領になったので恵慶に従属した。
天正13年 閏8月21日  大日本史料  秀吉、徳川家康の臣本多重次の音問に答ふ
天正13年 閏8月22日  大日本史料  是より先、秀吉、浅野長吉に近江高島郡の地を与ふ、是日、羽柴秀次に近江四十三万
                石を与へて、同国八幡山に居らしめ、山内一豊・堀尾吉直吉晴等を 附属す、尋で、
                高山重友を播磨明石に、中川秀政を同国三木に移し、又諸将に地を班す

天正13年 閏8月24日  大日本史料  秀吉、越中より京都に凱旋す、尋で、大坂に帰る
天正13年 閏8月25日  大日本史料  右大臣菊亭晴季をして、大和多武峯妙楽寺法度改定のことを計はしめらる、是日、
                 秀吉、多武峯衆徒の兵器を没収す

天正13年 閏8月25日  大日本史料  秀吉、多羅尾光俊の所領近江信楽を没収す、
天正13年 閏8月26日  大日本史料  秀吉、京都の奉行前田玄以をして、諸公家・諸門跡の領知を質として、金穀を貸与せ
                 しものに対し、其の証券を棄破し、新規の貸借を禁ぜしむ
天正13年 9月1日   大日本史料  秀吉、脇坂安治・加藤茂勝・大島光義・加藤清正・水野勝成・猪子一時・同一日・
                舟越景直・伊東長実・早崎小伝次に、摂津に於て地を充行ふ

天正13年 9月2日   大日本史料  是より先、上杉景勝、千坂景親等を遣して秀吉を音問す、是日、秀吉之に答ふ
天正13年 9月3日   大日本史料  秀吉、羽柴秀長と共に大和郡山城に入る、
天正13年 9月4日   大日本史料  秀吉、大和多武峯の大織冠社を、同国郡山に移築せしめんとするに依り、敕使菊亭晴
                季、青蓮院尊朝法親王と共に、秀吉を郡山に訪ふ、秀吉、多武峯の 坊舎を郡山近辺に
                移さんがため、寺僧をして下山せしむ、明日、多武峯の衆徒多く逃散す、尋で、郡山の
                羽柴秀長、多武峯両門前をして、寺内のことを管せしむ

天正13年 9月4日   大日本史料  是より先、秀吉、美濃大垣城将加藤光泰を戒飭す、是日、近江勢田城将一柳末安を
                大垣に置き、美濃の蔵入領代官を兼ねしめ、又勢田城を羽柴秀勝小吉に与ふ

天正13年 9月6日  久万町誌  ○小早川隆景は河野通直の妻が毛利元就の孫娘であるから城中に手紙を送り降伏勧告した
               結果、全軍開城降伏

天正13年 9月5日  大日本史料  秀吉、大和郡山より大坂に帰る
天正13年 9月6日  大日本史料  秀吉、余田源太郎に河内交野郡森村の地を与ふ、
天正13年 9月8日  大日本史料  本願寺光佐顕如・光寿教如父子、秀吉を訪ふ、秀吉、之を饗す

天正13年 9月9日  心斎橋今昔年表  秀吉豊臣姓を賜る。紀州、四国、北陸を平定。
                大坂城の天守閣が完成(本丸の北東隅の天守は8層、最上階に回廊付展望台、屋根は
                 金箔張、各階に金・銀・生糸・緞子(ドンス)・茶器・刀・武道具部屋有り)。
                 まず、城下町開発として東横堀川を開削。
                 戦国時代からの城郭建築は、壕をめぐらし石垣を用いて高い土塁の上に天守閣を築
                 く形式の集大成が「大坂城(黒色)」で、史上最高規模の豪壮華麗さを誇りました

天正13年 9月10日  大日本史料  羽柴秀次、近江八幡に居城を築き、同国安土町を八幡山下の島郷に移す、是日、秀吉、
                秀次に作事の進捗を促す
天正13年 9月10日  大日本史料  秀吉、播磨妙光寺をして摂津に移らしむ、是日、妙光寺に播磨の寺領の替地として、
                摂津河辺郡の地を与ふ、

天正13年 9月12日  大日本史料  是より先、徳川家康をして延暦寺再興に奉加せしめ給ふ、是日、家康、之に奉答し、
                秀吉の下知状を添へられんことを請ふ
天正13年 9月12日  大日本史料  秀吉、近江長浜八幡社・小谷寺・舎那院・龍厳院をして其の所領を安堵せしむ
天正13年 9月13日  大日本史料  是より先、伊勢専修寺堯真をして、同寺住持職及び諸国の末寺門徒を安堵せしめ給ひ、
                秀吉も之に安堵状を与ふ、是日、勧修寺紹可尹豊、堀秀政に書を遺りて、越前の専修寺
                末寺をして、本寺の命に従はしむべきことを請ふ

天正13年 9月14日  大日本史料  秀吉、摂津有馬入湯の途次、本願寺を訪ふ、尋で、光佐顕如の入湯を音問せるに答ふ
天正13年 9月15日  大日本史料  秀吉の臣田中吉政、摂津多田院の寄進分を安堵せしむ
天正13年 9月16日  大日本史料  秀吉、有馬則頼に、播磨・河内の所領を安堵し、加増として播磨神東郡の地を与ふ
天正13年 9月18日  大日本史料  秀吉、諸国の牛に役銭を課することを禁ず、
天正13年 9月23日  大日本史料  本願寺光佐顕如、摂津有馬の湯に入る、尋で、秀吉、有馬よりなせる光佐の音問に答ふ
天正13年 9月24日  大日本史料  是より先、小早川隆景、羽柴秀長に鷹を贈る、是日、秀長、之に答へ、隆景の、秀吉よ
                り伊予を与へられたるを喜ぶ【小早川家文書】

天正13年 9月27日  大日本史料  大友義統、骨啄刀を秀吉に進む、是日、秀吉、之を謝す、
天正13年 9月28日  大日本史料  是より先、秀吉、日蓮宗の再興を許し、礼物を課す、是日、同宗諸寺代本満寺日順等、
                同宗の和泉堺の諸寺に、礼物調達の為の勧進を許す

天正13年 9月30日  大日本史料  羽柴秀次の臣田中吉政、秀吉の意を承けて、近江長命寺をして、其寺屋敷・山林等の
                裁判に就きて、異儀なからしむ
天正13年 10月1日  大日本史料  秀吉、上京す、
天正13年 10月1日  大日本史料  秀吉、松浦重政・一柳勘左衛門尉等をして、公用を支払はしむ
天正13年 10月2日  大日本史料  秀吉、勅を島津義久・大友義統に伝へ、互に和せんことを命ず
天正13年 10月4日  大日本史料  秀吉、京都裏築地町・立売町・西大路町に、軍勢の寄宿を免除す
天正13年 10月5日  大日本史料  秀吉、牛に役銭を課する咎に依り、左衛門権佐正五位下薄諸光をして生害せしむ

天正13年 10月6日  大日本史料  秀吉・羽柴秀長・同秀次・徳川秀康・宇喜多秀家・丹羽長重・長岡忠興等参内す、又、
                長岡玄旨幽斎を法印に叙し、片桐直盛直勝且元を東市正に稲葉典通を侍従に、
                森一重忠政を右近丞に、澤井雄重を修理亮に任ず
天正13年 10月6日  大日本史料  秀吉、山城大鳳寺領の検地を免除し、施薬院全宗をして、厳く年貢を徴収せしむ
天正13年 10月7日  大日本史料  御茶会、千宗易に利休居士の号を賜ふ、秀吉、御茶を献ず、
天正13年 10月15日  大日本史料  是より先、長宗我部元親、京都に入りて、秀吉に謁す、是日、帰途に就く、秀吉、
                今井宗久をして、之を和泉堺に送らしむ【宗国史】

天正13年 10月17日  大日本史料  秀吉、真田昌幸に書を遺りて、之を支援すべき意を伝ふ、尋で、石田三成、昌幸の臣
                矢澤綱頼に、疎略なかるべき旨を述ぶ
天正13年 10月18日  大日本史料  是ヨリ先、石見金子大和守ノ息刑部少輔、病ノ為メ死ス、是日、吉川元春、之ヲ悼ム
天正13年 10月20日  大日本史料  島津義久、羽柴秀長に書を遺りて、秀吉との間に斡旋せられんことを請ふ
天正13年 10月22日  大日本史料  秀吉、大坂に帰る
天正13年 10月23日  大日本史料  吉川元春、出雲浄音寺をして、同国鷺浦の代官職を安堵せしむ
天正13年 10月23日  大日本史料  秀吉、加藤嘉明をして、摂津尼崎・同国西宮より、石材を大坂に運送せしむ

天正13年 10月24日  大日本史料  是より先、島津義久、秀吉下向の風聞に接し、諸将より誓書を徴せんとす、是日、
                上井覚兼、誓書を認む
天正13年 10月28日  大日本史料  徳川家康、諸将と秀吉に質を送ることを議し、之を止む、又、北条氏直の老臣の家康
                に誓書を呈するに応へて、家康の将士も誓書を遺り、以て秀吉に備ふ
天正13年 10月    大日本史料  是より先、紀伊小松原の湯川直春、秀吉に従ふ、是頃、羽柴秀長の与力として
                大和に在り

天正13年 11月1日  山口県史整理年表  能島村上武吉、務司城・中途城を明渡し、屋代島の内来島分・芸州能美島江田島
                  今岡分を給わり、小早川隆景に臣事す 【閥閲録】
天正13年 11月1日  村上図書付録二  ○能島村上は務司城と中途城を小早川氏に明け渡し、改めて屋代島の旧来島領、
                  能美島、江田島、今岡方を領す旨の隆景神文発給さる。
天正13年 11月1日  周防大島町誌  ○能島村上は務司城と中途城を小早川氏に明け渡し、改めて屋代島の旧来島領、
                 能美島、江田島、今岡方を領す。
天正13年 11月1日  大日本史料   小早川隆景、伊予能島の村上武吉・同元吉父子に誓書を与へ、同国務司・中途両城を
                 放棄すべきことを命じ、且つ周防屋代島・安芸能美島等に相違なきことを約す、

天正13年 11月1日   萩藩閥閲録1-572   条敷
           村上図書        一、(伊予)務司・中途両城披相渡、御下城之事
                      一、最前御忠儀之辻、以一通申定事
                      一、(周防)屋代島之内、来嶋(通昌)知行分之事
                      一、(安芸)能美嶋并江田嶋之事
                     一、今岡分之事     以上
                       右御所勘之地少茂不可有相違候
                       日本国中大小神祇・八幡大菩薩・殊當国三嶋大明神・天満大自在天神
                       可罷蒙御罰者也、仍起請文如件

                   天正十三年十一月一日    小早川左衛門佐隆景 御判
                    村上掃部頭殿  同 大和守殿

天正13年 11月3日  大日本史料  秀吉、池田照政輝政の老臣伊木忠次に、美濃竹鼻附近の地を与ふ
天正13年 11月13日  大日本史料  徳川家康の重臣石川数正、三河岡崎より秀吉の許に奔る、尋で、家康、之を北条氏直
                に報じ、遠江浜松より三河吉田を経て、岡崎に入る
天正13年 11月16日  大日本史料  大友義統、秀吉の贈れる服を、筑後矢部の五条鎮定に与ふ
天正13年 11月16日  大日本史料  是より先、蜂須賀正勝・黒田孝高、伊予黒瀬の西園寺公広を通じて、大友府蘭宗麟を
                音問す、是日、府蘭の子同義統、公広の臣法花津右衛門佐に書を遺りて、之に答ふ

天正13年 11月18日  大日本史料  秀吉、徳川家康との事に依り、美濃大垣の一柳末安に命じて、東美濃の人質を放免す
                ることなからしめ、且つ兵糧米の備蓄に就き指示す、
天正13年 11月19日  大日本史料  秀吉、真田昌幸に、来春徳川家康を撃たんことを告げ、小笠原貞慶・木曾義昌と共
                に、信濃・甲斐の仕置を厳にせしむ

天正13年 11月20日  大日本史料  秀吉、来春三河に出陣せんとし、美濃大垣の一柳末安に命じて、兵備を整へしむ
天正13年 11月21日  大日本史料  秀吉、山城の検地を行ひ、是日、廷臣、寺社等をして、其の所領等を安堵せしむ
天正13年 11月28日  大日本史料  秀吉、徳川家康との和議に就きて、織田長益等を三河岡崎に遣す、
天正13年 11月29日  大日本史料  大地震、尋で、秀吉、大坂に帰る
天正13年 12月7日  大日本史料  秀吉、大友義統をして、毛利輝元と協力せしめ、且つ、島津義久征討の意を報ず
天正13年 12月10日  大日本史料  秀吉の養子丹波亀山の羽柴秀勝〈次〉没す
天正13年 12月13日  大日本史料  島津義久、千宗易に書を遣り、秀吉との間を斡旋せられんことを請ふ、又、毛利輝元
                に使者を送り、大友義統との対戦に備へんとす

天正13年 12月18日  村上図書付録二  ○天正13年11月1日の神文とほぼ同一内容の輝元公の判物、武吉に発給さる。
天正13年 12月18日  村上図書付録二  ○来島の旧領、屋代島と江田島を与える旨の輝元公の判物発給さる。。
天正13年 12月21日  大日本史料   小早川隆景・吉川元長等、大坂に至りて、秀吉に謁し、物を進む
天正13年 12月27日  大日本史料  秀吉、本願寺に遊ぶ
天正13年     伊予中世年表  ○河野通直、湯築城を開いて降伏する。西園寺氏滅亡。
天正13年      大島町郷土会  ○このころ伊予の河野崩により大島郡に逃れくるもの多し。【東屋代など】
天正13年      赤穂市資料   豊臣秀吉は子飼いの大名5人を五奉行に任命する

西暦1586年
天正14年 1月6日  大日本史料  秀吉、加藤清正に播磨飾東郡の地三百石を加増す
天正14年 1月8日  大日本史料  長宗我部元親、大坂に到り、歳首を秀吉に賀す、是日、下国す
               【顕如上人貝塚御座所日記】
天正14年 1月11日  大日本史料  秀吉、勅旨に依り、島津義久に大友、龍造寺の両氏と和せんことを命ず、是日、義久、
                書を長岡玄旨(幽齋)に遺り、命に従ひ難き旨を答ふ
天正14年 1月12日  大日本史料  秀吉、入京す
天正14年 1月13日  大日本史料  秀吉、石川木工兵衛等をして、近江長浜城の天守を壊さしむ

天正14年 1月14日  大日本史料  秀吉、参内して、歳首を賀す
天正14年 1月15日  大日本史料  秀吉、黄金造の茶室を叡覧に供し、茶湯を献ず、
天正14年 1月18日  大日本史料  秀吉、徳川家康の将石川数正に和泉を宛行ふ
天正14年 1月20日  大日本史料  秀吉、近江坂本に之く
天正14年 1月23日  大日本史料  是より先、秀吉、大坂城を修築す、是日、一柳末安に命じて、鋤、鍬、持籠等を
                調達せしむ

天正14年 1月24日  大日本史料  秀吉、伊勢山田の三方をして、同国長屋、高向両郷を安堵せしむ
天正14年 1月27日  大日本史料  織田信雄、秀吉と徳川家康との和議に就きて、家康と三河岡崎に会す
天正14年 1月28日  大日本史料  秀吉、近江大津に連歌を興行す、
天正14年 2月8日   大日本史料  秀吉と徳川家康との和議成る、是日、秀吉、之を一柳末安に報ず
天正14年 2月21日  大日本史料  秀吉、上京す、尋で、諸将に課して、京都内野の亭を造築す、
天正14年 2月23日  大日本史料  秀吉、加藤嘉明に大坂城修築の石材運搬に関する條規を頒つ

天正14年 2月  心斎橋今昔年表  大坂築城の石運びの掟を決める
天正14年 2月23日  大日本史料  小早川隆景、龍造寺政家に答書し、速に使者を遣し、秀吉に聘礼せんことを勧む
天正14年 2月25日  大日本史料  秀吉、新造の仙洞御所を拝観す
天正14年 2月28日  大日本史料  是より先、秀吉、参内して、桜花を拝観す、是日、御製を桜枝に付して、秀吉に賜ふ、
                仍りて、秀吉、御返歌を上る、翌日、誠仁親王、和仁王等、秀吉に御歌を賜ふ

天正14年 2月28日  大日本史料  秀吉、近江大津に之く
天正14年 2/30    大日本史料  秀吉、大坂に帰る(御湯殿上日記)  * 日付が変?
天正14年 3月3日  大日本史料  是より先、宇喜多次郎九郎等、千人切と称し、大坂に於て、人を要殺す、是日、秀吉、
          之を捕へ自殺せしむ
天正14年 3月4日  大日本史料  秀吉、入京す、尋で、大坂に帰る

天正14年 3月5日  萩藩閥閲録小早川書状  隆景は乃美兵部丞宗勝に命じ湯築・大津・せり・本尊・興居島・賀嶋(鹿
                    島)・来嶋・小湊(米湊)・櫛辺・壬生川の10城のみを残させる。

天正14年 3月11日  大日本史料  秀吉の将石田三成、下野宇都宮の宇都宮国綱をして、上杉景勝の入京を督促せしむ
天正14年 3月19日  大日本史料  秀吉、入京す
天正14年 3月20日  大日本史料  秀吉の奏請に依り、織田信包及び前田利家を堂上に列するを聴許あらせらる
天正14年 3月21日  大日本史料  秀吉、検地等に就きての條規を定む
天正14年 3月27日  大日本史料  秀吉、片桐真盛等に地を宛行ふ
天正14年 3月29日  大日本史料  秀吉、京都を経て丹波亀山に赴く、翌日、帰京す、
天正14年 4月1日  大日本史料  秀吉、山城西岡の地を長岡玄旨(幽齋)に宛行ふ、

天正14年 4月1日  大日本史料  秀吉、京都より大坂に帰る、途に、大仏殿建立の地を東福寺近傍に相す
天正14年 4月5日  大日本史料  大友宗滴(宗麟、)大坂に抵りて、秀吉に謁し、島津氏の豊後侵入の事を訴へ、之を伐
               たんことを請ふ、秀吉、之を諾し、宗滴を大坂城内に饗す

天正14年 4月10日  大日本史料  秀吉、九州の諸将の国境を定め、之に違背する者を撃たんとし、吉川元春等をして、
                毛利輝元に諮り、諸城の守備を厳にせしめ、諸氏の人質を黒田孝高に渡さしむ
天正14年 4月10日  山口県史整理年表  秀吉、輝元をして大仏殿材木を調進せしむ。ついで輝元吉見正頼にこれを
                   調えしむ 【毛利家文書】
天正14年 4月12日  大日本史料  秀吉、入京す、
天正14年 4月22日  大日本史料  秀吉、大仏殿を山城東山に創建せんとし、其材を諸国に課す、是日、藤堂高虎等に
                之を徴す

天正14年 4月22日  大日本史料  是より先、秀吉、妹(旭姫)をして、徳川家康に嫁せしめんことを約す、是日、伊藤秀
                盛に、人夫、伝馬のこと等を命ず、翌日、家康、本多忠勝を遣して、納采せしむ
天正14年 5月10日  大日本史料  秀吉、上京す
天正14年 5月14日  大日本史料  秀吉、妹(旭姫)をして、徳川家康に嫁せしむ
天正14年 5月14日  大日本史料  秀吉の生母大政所(天瑞院、)春日社に参詣す、尋で、高野山に詣づ

天正14年 5月20日  大日本史料  秀吉、近江大津より入京す
天正14年 5月23日  大日本史料  秀吉、大坂に帰る
天正14年 6月1日  山口県史整理年表  輝元、諸関・渡舟・人沙汰に関する法度を出す 【毛利氏四代実録】
天正14年 6月3日  大日本史料  秀吉、権大納言勧修寺晴豊、同中山親綱をして、御譲位の時期に就きて上奏せしむ
天正14年 6月8日  大日本史料  秀吉、質子を筒井定次に還す、
天正14年 6月8日  大日本史料  秀吉、大坂城中に茶会を催す
天正14年 6月14日  大日本史料  上杉景勝、大坂に抵り、秀吉に謁す
天正14年 6月20日  大日本史料  秀吉、入京す
天正14年 6月21日  大日本史料  秀吉の奏請に依り、上杉景勝を左近衛権少将に任じ、従四位下に叙す、翌日、景勝等、
                参内す

天正14年 6月25日  大日本史料  秀吉の母大政所(天瑞院、)大和郡山城に疾む
天正14年 6月26日  大日本史料  秀吉、近江大津に之く、
天正14年 6月  総合地方史年表  ○木曽川洪水(加賀野井千町切)で河道変じて濃美の新境界を附す。

天正14年 7月(グ歴)  フロイス日本紀 

      ○堺を出発したフロイスは播磨国室津を経て芸予諸島に近付いた。
    「(やがて)我等(一行)はある島に到着した。その島には日本最大の海賊が住んでおり、そこに大きい城を
      構え、多数の部下や地所や船舶を有し、それらの船は絶えず(獲物)を襲っていた。この海賊は能島殿と
      云い強大な(勢)力を有していたので他国の沿岸や 海辺の(住民達)は(能島殿)によって破壊されること
      を怖れ彼に毎年貢物を献上していた。日本中で最高の海賊としてその座を争ってきたのは、ただ二人だけで、
      彼等の館は何年も前から存続し、彼等は強大な主として公任されそのように扱われ奉仕されてきた。
      その一人は今述べた能島殿であり、他の一人は来島殿と称する。」

天正14年 7月1日   大洲大野系譜  □大野直好 近江守 尾首城主、荏原東町城主、後土居城に移り土井城で戦死。
                  67歳、号千壽院殿背江州刺史直翁了元大居士

天正14年 7月5日  大日本史料  秀吉、京都内野の亭の普請を督し、尋で、大坂に帰る
天正14年 7月12日  山口県史整理年表  豊前・筑前の辺動乱起る。輝元、椙杜少輔四郎に出陣を命ず 【毛利氏四代実録】
天正14年 7月15日  山口県史整理年表  輝元、九州征伐のため、防長の家人内藤・市川等を赤間関に出陣せしむ
                  【毛利氏四代実録】
天正14年 7月17日  大日本史料  秀吉、入京す
天正14年 7月17日  大日本史料  徳川家康、信濃上田の真田昌幸を撃たんとして、駿府に陣す、尋で、秀吉の斡旋に
                依り、之を中止し、遠江浜松に還る

天正14年 7月20日  大日本史料  筑前高祖の原田信種、毛利輝元に、秀吉への執成を依頼す、是日、輝元、之を諾す
天正14年 7月21日  山口県史整理年表  輝元・隆景、島津征伐のため冷泉元豊を赤間関へ下す 【毛利氏四代実録】
天正14年 7月22日  大日本史料  秀吉、春日社に参詣し、尋で、入京す、羽柴秀長も亦、入京す
天正14年 7月26日  大日本史料  秀吉、参内す

天正14年 7月29日  大日本史料  是より先、秀吉、島津義久を討たんとし、黒田孝高をして、毛利輝元等の兵を督して、
                先発せしむ、是日、孝高の使者、小早川隆景の許に著す
天正14年 8月3日  大日本史料  秀吉、近江大津に之く
天正14年 8月3日  山口県史整理年表  秀吉、元春を赤間関・門司要害へ下し堅固に守らしむ 【毛利氏四代実録】
天正14年 8月3日  大日本史料  秀吉、書を大友宗滴(宗麟、)同義統(吉統)父子及び立花統虎等に遺り、黒田孝高、
               宮木豊盛等をして、豊前に出陣せしむる旨を告げ、其守備を厳にせしむ
天正14年 8月6日  大日本史料  秀吉、近江大津より入京す

天正14年 8月11日  山口県史整理年表  輝元・隆景、仁保隆尉・冷泉元豊等をして門司城を守らしむ 【毛利氏四代実録】
天正14年 8月14日  大日本史料  秀吉、大坂に帰る、
天正14年 8月15日  大日本史料  秀吉、肥前松浦鎮信に、毛利輝元等の豊後出陣を報じ、其到るを待たしむ、又亀井真矩
               (茲矩)をして、出兵の準備を為さしむ

天正14年 8月16日  大日本史料  是より先、秀吉、黒田孝高等をして、毛利氏の軍を督して、豊前に赴かしむ、是日、
                毛利輝元、吉川元春、小早川隆景等、出陣す
天正14年 8月18日  大日本史料  本願寺御影堂、竣工す、是日、秀吉、之に参詣す
天正14年 8月28日  大日本史料  是より先、千石秀久、秀吉の命に依り、長宗我部元親を督して、豊後に出陣し、沖浜に
                到る、是日、志賀道擇(親益、)之を島津義久の将上井覚兼に報ず【塩飽島文書】
天正14年 9月1日  山口県史整理年表  輝元、九州征伐につき諸浦渡船の法度を出す 【毛利氏四代実録】

天正14年 9月3日  山口県史整理年表  輝元赤間関より大阪へ注進のため、児玉就方をして大畠・遠崎・楊井にて継舟を
                  堅固に準備せしむ 【毛利氏四代実録】

天正14年 9月8日  山口県史整理年表  輝元九州征伐のために発向し、この日防府に着し、九日赤間関に着す
                  【毛利氏四代実録】
天正14年 9月11日  大日本史料  秀吉、入京す
天正14年 9月22日  山口県史整理年表  元春、長門一宮に着陣し、二十三日赤間関に着す 【毛利氏四代実録】
天正14年 9月26日  大日本史料  秀吉及び織田信雄、使を遣し大政所(天瑞院)を質と為さんことを約して、
                徳川家康に上京を勧む、乃ち、家康、之に従ふ
天正14年 9月27日  大日本史料  島津義久、秀吉に、肥筑に出陣するに依り、九州諸将の領堺決定の命に答へ難きことを
                述ぶ

天正14年 9月30日  大日本史料  秀吉、小早川隆景をして、安国寺恵瓊等と諮り、豊前攻略を議せしむ、
天正14年 10月   大分県の歴史  島津軍が豊後に侵入する。
天正14年 10月3日  大日本史料  秀吉、立花統虎及び五條鎮定に千石秀久、長宗我部元親、毛利輝元等の出陣を告げ、
                之を激励す【立花家蔵感状記】

天正14年 10月3日  大日本史料  秀吉、黒田孝高等に答書し、其労を犒ひ、且毛利輝元を督して、速に軍を進めしむ
天正14年 10月3日  大日本史料  大友義統(吉統)、千石秀久、長宗我部元親と議り、豊後府内を発し、豊前宇佐郡に
                出陣す【北里文書】
天正14年 10月4日  大日本史料  毛利輝元、吉川元春、小早川隆景及び黒田孝高と共に、高橋元種の属城豊前小倉を攻め
                て之を陥る、元種も亦降る
天正14年 10月4日  大日本史料  是より先、龍造寺政家、秀吉に質子を納れ、島津氏と絶ち、鍋島信生(直茂)と共に
           筑後に入り、三池鎮實の邑を火き、進みて肥後の諸将を降す、是日、秀吉、政家、信生の功を褒す
天正14年 10月6日  大日本史料  秀吉、大坂に帰る

天正14年 10月10日  大日本史料  是より先、豊前馬岳の長野助盛、同国時枝の時枝平大夫、同国宇佐の宮成吉右衛門、
                黒田考高等に降る、是日、秀吉、考高等をして、助盛等に島津氏の情勢を尋ねしめ、
                又龍造寺政家と大友宗滴(宗麟)父子との和融を斡旋し、宗滴父子、長宗我部元親、
                千石秀久と議り、諸城を攻略せしむ、又毛利輝元の労を犒す【児玉韞採集文書】

天正14年 10月13日  大日本史料  秀吉、讃岐の蔵入分代官生駒近規をして、其年貢を蓄へしめ、以て九州出陣の
                兵糧に充つ
天正14年 10月14日  大日本史料  秀吉、其生母大政所(天瑞院)祈願所河内観心寺に、旧に依り、同寺領内の竹木、
                柴草の採取を許す
天正14年 10月18日  大日本史料  秀吉の生母大政所(天瑞院、)徳川家康に質として、三河岡崎城に到る
天正14年 10月18日  大日本史料  秀吉、肥前の松浦鎮信をして、速に人質を出し、出陣せしむ
天正14年 10月26日  大日本史料  徳川家康、三河岡崎を発して入京す、是日、大坂に到り、羽柴秀長の亭に宿す、
                秀吉、之を訪ふ
天正14年 10月27日  大日本史料  徳川家康、大坂城に秀吉に謁す
天正14年 10月  心斎橋今昔年表  家康が秀吉の巨従となる

天正14年 11月1日  大日本史料  徳川家康、京都に入る、尋で、秀吉、家康の亭を内野に造営せしむ
天正14年 11月2日  大日本史料  秀吉、加藤嘉明に淡路三原郡の地を宛行ふ、
天正14年 11月3日  大日本史料  秀吉、入京す
天正14年 11月11日  大日本史料  秀吉、森吉成を検使として、吉川元春及び小早川隆景の筑前の陣所に遣す
天正14年 11月7日  大日本史料  黒田孝高、小早川隆景及び吉川氏の諸将と共に豊前宇留津城を攻めて、之を陥る
天正14年 11月12日  大日本史料  徳川家康、井伊直政をして、秀吉の母大政所(天瑞院)を護り、大坂に赴かしむ
天正14年 11月13日  大日本史料  是より先、大友義統(吉統)の、千石秀久及び長宗我部元親と共に筑後に出陣するに
                乗じ、大友氏に背く者、豊後に蜂起す、義統等、兵を班す、
天正14年 11月13日  大日本史料  是日、秀吉、小早川隆景等に、この事情を報じ、備前、阿波、淡路の援兵を遣すべき
                こと告げ、諸軍を督せしむ【黒田文書】

天正14年 11月15日  大日本史料  秀吉、近江大津に之き、尋で、入京す、
天正14年 11月15日  大日本史料  小早川隆景、黒田孝高等、高橋元種の属城筑前障子岳を攻略し、同国香春嶽城を囲む
天正14年 11月15日  山口県史整理年表  吉川元春、豊前小倉の陣中にて死す。五七 【毛利氏四代実録】
天正14年 11月18日  大日本史料  足利義昭、使を島津義久の臣喜入季久に遣し、毛利氏の軍の豊前に侵入するを告げ、
                義久に秀吉と講和せんことを勧めしむ

天正14年 11月20日  大日本史料  是より先、秀吉、吉川元春、同元長父子の意見を容れ、出陣を来春に延期す、又
                蜂須賀家政、脇坂安治、加藤嘉明をして、豊後に赴援せしむ、
               是日、之を元春父子等に報ず、尋で、龍造寺政家にも亦、之を報ず
天正14年 11月23日  大日本史料  秀吉、千石秀久をして、糧食及び加勢を豊後臼杵城に輸せしめ、又同国府内の守備を
                厳にし、濫りに兵を動かすことなからしむ

天正14年 11月23日  大日本史料  秀吉、大徳寺及び知恩院に地を寄進す
天正14年 11月29日  大日本史料  秀吉、大坂城に帰る
天正14年 12月1日  大日本史料  秀吉、明春三月を期して、島津氏を親征せんとし、諸国の兵を徴す
天正14年 12月3日  大日本史料  秀吉、松浦鎮信をして、松浦党の兵船を率ヰ、薩摩灘を警固せしむ
天正14年 12月4日  大日本史料  足利義昭、一色昭秀を島津家久に遣し、同義久を諭して、秀吉と和睦せしむ

天正14年 12月11日  大日本史料  是より先、黒田孝高、吉川元長、同経言及び小早川隆景と共に、島津氏の将高橋元種
                を筑前香春嶽城に囲みて、之を降す、是日、元長等、之を秀吉に報ず、
天正14年 12月13日  大日本史料  秀吉、入京す
天正14年 12月15日  大日本史料  大友義統(吉統、)豊後府内より同国高崎城に逃れ、是日、豊前龍王城に移る、
                尋で、黒田孝高、小早川隆景、吉川元長に来援を請ふ、

天正14年 12月19日  大日本史料  関白羽柴秀吉を太政大臣に任じ、豊臣の姓を賜ふ【公卿補任】
天正14年 12月19日  心斎橋今昔年表  豊臣秀吉太政大臣となる
天正14年 12月20日  大日本史料  是より先、小早川隆景等、原田信種を筑前高祖城に攻めて、之を降す、是日、秀吉、
                毛利輝元、吉川元長及び隆景等の戦功を褒す
天正14年 12月22日  大日本史料  秀吉、大坂に帰る、

天正14年 12月24日  大日本史料  是より先、秀吉、千石秀久の敗戦を怒り、讃岐の地を没収し、之を尾藤光房に与ふ、
                是日、之を毛利輝元、龍造寺政家に報じ、軽挙盲動を戒しむ、尋で、黒田孝高等にも
                亦、之を報ず
天正14年 12月27日  大日本史料  秀吉、本願寺光寿(教如)の茶会に臨む
天正14年 12月30日  大日本史料  秀吉、黒田孝高等をして、豊前妙見、龍王両城の守備を固くせしめ、恣に
                出兵するを禁ず

天正14年     河野氏の歴史  ○キリシタン宣教師「道後の市」に来る。

大伴姓 屋代島大野家 関連年譜(AD1583年~1584年)

2023年01月08日 11時07分35秒 | 大伴姓屋代島大野家 関連年譜
西暦1583年
天正11年 1月1日  大日本史料  羽柴秀吉、京都を発し、播磨姫路に之く、姫路の諸士、歳首を秀吉に賀す
天正11年 1月13日  大日本史料  長宗我部元親、其将久武親信、桑名太郎左衛門等を遣して、伊予北川城主北川親安を
                 其城に攻めしむ、親安、戦死し、城陥る【元親一代記】

天正11年 1月15日   大野家聞書   ○大野内蔵介 立石尾首城にて誕生する。
天正11年 1月17日  大野家譜上田本  ○大野直昌の男、直常大除に誕生する、母宇都宮豊綱の女章子、
                   実は一条内政の胤なり。
天正11年 1月17日  大野家譜讃岐屋本 ○大野直昌の男、熊王丸(直常)大除に誕生する、母宇都宮元教女、
                    実は一条内政の胤なり。

天正11年 1月17日  大日本史料  小早川隆景、物を羽柴秀吉に贈り、歳首を賀す、秀吉、之に答へて、同じく歳首を賀
                 す、併せて柴田勝家と姑く和すること及び北畠信雄の、 近く安土に入りて、故織田
                 信長の後を襲はんとする由を報ず
天正11年 1月  大日本史料   伊勢亀山城主関盛信、同一政父子、羽柴秀吉に見えんとして、京都に之く、家臣岩間
           八左衛門等、叛きて瀧川一益に属す、一益、乃ち其臣佐治新介をして、入りて亀山城を守らしむ
天正11年 閏1月4日  大日本史料  羽柴秀吉、播磨姫路より、丹波亀山に抵る、
天正11年 閏1月4日  大日本史料  北畠信雄、近江安土に之き、織田秀信に代りて事を見る、羽柴秀吉等、安土に
                  抵りて、歳首を秀信、信雄に賀す
天正11年 閏1月12日  大日本史料  美濃神路城主遠藤胤基及び八幡城主遠藤慶隆、神戸信孝の為に、須原、洞戸両
           城を抜く、信孝、之を褒す、羽柴秀吉、兼山城主森長可等をして、胤基等を攻めしむ、和を講ず

天正11年 閏1月15日  大日本史料  羽柴秀吉、近江安土より、京都に入る
天正11年 閏1月17日  大日本史料  羽柴秀吉の兵、美濃小里を侵す、神戸信孝、小里邑主小里光明の戦功を褒す
天正11年 閏1月23日  大日本史料  羽柴秀吉、京都より山崎に帰る
天正11年 閏1月25日  大日本史料  本願寺光佐、物を羽柴秀吉、北畠信雄、惟住長秀等に贈り、歳首を賀す
天正11年 閏1月25日  大日本史料  羽柴秀吉、惟住長秀、本願寺に、堺の同寺屋敷及び其坊領を返付す
天正11年 閏1月27日  大日本史料  羽柴秀吉、播磨長壁社の遷座を行はんとし、其臣杉原家次をして、吉田兼和兼
                   見に請うて、鎮札を調へしむ
天正11年 閏1月28日  大日本史料  羽柴秀吉、美濃円徳寺の諸役を免ず、
天正11年 閏1月28日  大日本史料  羽柴秀吉に命じ、青蓮院尊朝法親王をして、所領を安堵せしめ給ふ、秀吉、
                   命を奉ず

天正11年 閏1月    大日本史料   長宗我部元親、好を神戸信孝に通ず、信孝の臣玉井彦介、書を元親の弟香宗我
                   部親泰に遺りて、之に答ふ【香宗我部家証文】
天正11年 2月7日    大日本史料   上杉景勝、誓書を北畠信雄、羽柴秀吉に遺りて、好を通ず、秀吉も亦、誓書を
                   景勝に与へて、疎意なきを答ふ
天正11年 2月9日    大日本史料   羽柴秀吉、兵を近江に会す、長浜城主柴田勝豊の質を徴し、勝豊をして、惟住
                   長秀と共に柴田勝家に備へしむ、自ら将として伊勢に入り、瀧川一益を攻めんと
                   す、之を宇喜多秀家に報ず
天正11年 2月12日    大日本史料  羽柴秀吉の養子次、秀勝、丹波亀山に病む、秀吉、神祇大副吉田兼和をして、之
                   が平癒を祈らしむ、兼和、祈祷を始む

天正11年 2月13日  山口県史整理年表  足利義昭京都に復帰せんとす。輝元、柴田勝家・徳川家康に助力を求む。この
                    日勝家これに賛し、ついで家康も承認す 【吉川家文書・家譜】
天正11年 2月16日    大日本史料   羽柴秀吉、兵を率ゐて、伊勢に入り、峰、桑名等の諸城を攻む、自ら瀧川一益
                    の将佐治新介を亀山城に囲む
天正11年 2月27日  大日本史料  惟住長秀、若狭佐柿に在り、羽柴秀吉の情報を得、之に答へて、越前口の状況を報ず
天正11年 3月3日  大日本史料   神戸信孝、柴田勝家の江北出兵を長宗我部元親に報ず【土佐国蠹簡集】
天正11年 3月2日  大日本史料   伊勢亀山城攻囲の中に在り、守将佐治新介、城を羽柴秀吉の兵に致して、長島に退
              く、秀吉、北畠信雄を亀山に迎へ、蒲生賦秀氏郷等をして、益峰城以下の諸城を攻めしむ
天正11年 3月4日  大日本史料   柴田勝家、足利義昭を擁し、毛利輝元の援を得て、羽柴秀吉を夾撃せんと謀る、書
                 を義昭の老臣真木島昭光に遺り、義昭に勧めて、輝元の兵を促さしむ

天正11年 3月11日  大日本史料  羽柴秀吉、近江佐和山城に入る
天正11年 3月11日  大日本史料  羽柴秀吉、其将蜂須賀正勝、黒田孝高等に答へて、近畿の状況を報じ、併せて其
                 行動を指示す
天正11年 3月11日  大日本史料  羽柴秀吉、三好秀次、中川清秀等をして、美濃口に陣せしむ
天正11年 3月11日  大日本史料  高野山の僧勢雄、柴田勝家の江北出兵を長宗我部元親に報じ、其兵を動さんこと
                 を望む【香宗我部家伝証文】
天正11年 3月15日  大日本史料  羽柴秀吉、近江称名寺をして、柳瀬に於ける柴田勢の情況を窺はしむ、予め其敗軍を
                 察し、山中に逃匿せる土民に賞を懸けて、其後を追はしめんとす
天正11年 3月17日  大日本史料  羽柴秀吉、伊勢に在り、柴田勝家、近江に出づと聞き、直に軍を長浜に班し、進んで
             柳瀬に対陣す、之を上杉景勝に報じ、景勝をして、兵を越中に出し、以て勝家の後を撃たしむ

天正11年 3月18日  大日本史料  堀秀政、其先鋒多賀秀種に書を与へて、陣取以下のことを命じ、併せて、秀吉出陣の
                 日時を報ず
天正11年 3月19日  大日本史料  長宗我部元親、同信親父子、一宮民部少輔に、土佐安芸郡の地を与ふ【武州文書】
天正11年 3月21日  大日本史料  近江長浜城主柴田勝豊病む、羽柴秀吉、山城本法寺に、勝豊の上京を報じて、宿舎以
                 下のことを命じ、法眼曲直瀬正慶にも亦之を報じて、其治療に当らしむ、勝豊歿す
天正11年 3月27日  大日本史料  羽柴秀吉、近江北郡に於ける諸将の配置を改め、柴田勝家に対し、陣を堅くす、長浜
                 に帰り、之を徳川家康に報ず
天正11年 3月27日  大日本史料  羽柴秀吉、長岡忠興をして、越前を衝かしむ
天正11年 3月27日  大日本史料  羽柴秀吉、近江森本の舞々大夫及び陰陽大夫の夫役を免除す

天正11年 3月29日  大日本史料  越中蛇尾城主斎藤信利、同国弓荘城主土肥政繁の老臣栃尾縫殿及び有澤図書助に、書
                 を遺りて、上方の形勢を報じ、羽柴秀吉に応じて、兵を出さんことを勧む
天正11年 春    大日本史料   羽柴秀吉、仙石秀久をして、淡路に帰り、長宗我部元親に備へしむ【秀吉事記】
天正11年 4月  心斎橋今昔年表   賤ヶ岳の合戦にて柴田勝家を破る
天正11年 4月3日  大日本史料  羽柴秀吉、斎藤刑部丞に命じて、越中瑞泉寺、安養寺等の一向宗徒をして、
                  一揆を起さしむ
天正11年 4月4日  大日本史料  羽柴秀吉、近江坂本城守将杉原家次に、北郡の形勢を報じ、後報を待ち、兵を率ゐて
                 来会せしむ
天正11年 4月5日  大日本史料  柴田勝家、自ら出でゝ、左禰山の砦に迫る、堀秀政、撃ちて卻け、之を羽柴秀吉に報
                ず、織田秀信の臣千福遠江守にも亦之を報じ、併せて、其疾を問ふ

天正11年 4月6日  大日本史料  足利義昭、書を毛利輝元、吉川元春等に遺り、羽柴秀吉、柴田勝家対陣の好機を逸せ
                ず、兵を上方に出し、足利氏の再挙に力を致さんことを依頼す
天正11年 4月6日  山口県史整理年表  義昭書を輝元・元春に遣り、勝家・秀吉退陣の好機に乗じ、兵を出して足利氏
                   再興に力を致さしむ 【徳山名勝】
天正11年 4月8日  大日本史料  羽柴秀吉、本願寺光佐顕如の老臣下間頼廉に答へ、頼廉等の加賀に一揆を起し、以て
                 柴田勝家の兵を牽制せば、本願寺をして、同国を領知せしむべきことを告ぐ
天正11年 4月12日  大日本史料  毛利輝元、小早川隆景、書を羽柴秀吉に遺りて、其軍状を問ふ、秀吉、近江柳瀬に在
                 り、輝元、隆景に答へて、伊勢、近江の戦況を報ず、
天正11年 4月13日  大日本史料  近江長浜城主柴田勝豊の将山路正国、堂木山に在り、密に柴田勝家に通ず、事露れ
                 て、勝家の陣に走る、羽柴秀吉、正国の質を捕へて、之を磔す

天正11年 4月16日  大日本史料  神戸信孝、美濃岐阜城に拠りて兵を挙げ、清水城主稲葉一鉄、大垣城主氏家直通等の
                 邑に放火す、羽柴秀吉之を聞き、信孝を攻めんとして、大垣城に入る
天正11年 4月20日  大日本史料  柴田勝家、毛利輝元をして、共に羽柴秀吉を撃たしめんとす、輝元、其将吉川元春、
                 小早川隆景等に去就を諮る
天正11年 4月20日  大日本史料  柴田勝家の将佐久間盛政、羽柴秀吉の将中川清秀を近江大岩山に襲ふ、清秀、奮戦し
                 て之に死す
天正11年 4月20日  大日本史料  羽柴秀吉美濃大垣に在り、中川清秀戦死の報に接し、急遽軍を近江木本に班し、
                 戦機を窺ふ

天正11年 4月21日  大日本史料  羽柴秀吉、柴田勝家の将佐久間盛政を、近江賤岳に撃ちて、大に之を破り、以て勝家
                 の牙営に迫る、勝家支ふる能はず、逃れて越前北荘に走る
天正11年 4月21日  大日本史料  長宗我部元親、兵を率ゐて讃岐に入る、羽柴秀吉の将仙石秀久と、引田に戦ふ、
                 之を走す【元親一代記】
天正11年 4月    大日本史料  長宗我部元親の弟香宗我部親泰、阿波木津城を攻めて之を抜く、又淡路の洲本城を奪
                 ふ、淡路の兵起り、洲本城を復す【香宗我部家伝証文】
天正11年 4月22日  大日本史料  羽柴秀吉、進んで越前府中に抵る、府中城主前田利家、城を致して降る、秀吉乃ち
                 利家を先鋒として、北荘に向ふ、柴田勝家の老臣徳山秀現、不破河内守等も亦降る
天正11年 4月22日  大日本史料  徳川家康、書を羽柴秀吉に遺りて、北近江の戦況を問ふ
天正11年 4月23日  大日本史料  羽柴秀吉、進んで柴田勝家を越前北荘城に囲む、勝家、事既に休するを知り、是夜、
                 其室織田氏等と、城中に訣別の宴を張る

天正11年 4月24日  大日本史料  羽柴秀吉、越前安居大渡船頭の諸役を免除す
天正11年 4月25日  大日本史料  羽柴秀吉、進んで加賀に入る、北陸の諸将風を望んで降る、秀吉、乃ち前田利家に
                 石川、河北二郡を与へて、金沢に治せしむ
天正11年 4月25日  大日本史料  羽柴秀吉、宇喜多秀家に書を遺りて、柴田勝家の敗死と、北陸の平定とを報ず
天正11年 4月26日  大日本史料  羽柴秀吉、越前誠照寺及び其末寺の僧侶をして、還往して寺務を行はしむ
天正11年 4月26日  大日本史料  毛利輝元、小早川隆景、使を羽柴秀吉に遣して物を贈る、秀吉、隆景に答へて、
                 北国平定を報ず、輝元にも亦之を告ぐ

天正11年 4月27日  大日本史料  羽柴秀吉、惟住長秀の功を賞し、越前及び加賀の内能美、江沼二郡を与へて、
                 越前北荘城に治せしむ
天正11年 4月28日  大日本史料  羽柴秀吉、書を佐々成政に与へて、上杉景勝との交渉に任ぜしむ
天正11年 4月29日  大日本史料  羽柴秀吉、上杉景勝に、柴田勝家の敗死を報じ、其誓約に従つて兵を出さゞりしを
                 詰る
天正11年 5月1日  大日本史料  羽柴秀吉、山城賀茂社惣中に、其祈祷巻数を贈れるを謝し、併せて、北国悉く
                平定せるを告ぐ
天正11年 5月2日  大日本史料  羽柴秀吉、越前北荘に帰り、安井定次に答へて、其陣中見舞を謝し、北国の
                 平定を報ず、
天正11年 5月2日  大日本史料  畠信雄、美濃に入り、神戸信孝を岐阜城に囲む、羽柴秀吉、柴田勝家を滅すや、信雄
           と謀り、信孝をして、尾張内海に移らしめ、使を遣して、其死を促す、信孝、大御堂寺に自刄す

天正11年 5月2日  大日本史料  下野宇都宮城主宇都宮国綱、上杉景勝に答へて、景勝の越中攻略及び羽柴秀吉との
                和親を賀す
天正11年 5月5日  大日本史料  羽柴秀吉、近江長浜に帰り、属将因幡鳥取城主宮部継潤に答へて、近く播磨姫路に
                還らんとするを告ぐ
天正11年 5月6日  大日本史料  羽柴秀吉、備前本徳寺に書を与へて、其物を贈れるを謝し、北国表平定と、長浜帰陣
                とを報ず
天正11年 5月7日  大日本史料  神祇大副吉田兼和を遣して、羽柴秀吉に戦勝を賀せしめ給ふ、兼和、近江長浜城に
                秀吉を見て、叡旨を伝達す
天正11年 5月7日  大日本史料  羽柴秀吉、近江長浜を発して、安土に入る
天正11年 5月7日  大日本史料  羽柴秀吉、美濃今尾城主高木貞久の子貞利に書を与へて、鶴を贈れるを謝し、
                北国の平定を報ず

天正11年 5月7日  小早川文書  ○秀吉の家臣黒田官兵衛孝高は来島のため、毛利の軍僧安国寺恵瓊に書簡を送り「来島
                表の御人数片時も、急ぎ御取引をなさるべき候」と圧力を加える。
天正11年 5月7日  大日本史料  羽柴秀吉の将黒田孝高、書を安国寺恵瓊瑤甫に遺りて、北国の平定を告げ、毛利輝元
                をして、其兵を伊予来嶋より撤退せしめんことを促す
天正11年 5月8日  大日本史料  羽柴秀吉の臣木下祐久、助休、小早川隆景に書を遺りて、北国の平定を告げ、
                高松媾和の実行を促す
天正11年 5月8日  大日本史料  高野山の僧快春、長宗我部元親の弟香宗我部親泰に答へて、畿内の形勢を報ず
                【香宗我部家伝証文】
天正11年 5月11日  大日本史料  羽柴秀吉、近江坂本城に入り、軍を休む
天正11年 5月12日  大日本史料  柴田勝家の子権六及び将佐久間盛政捕へらる、羽柴秀吉、其臣浅野長吉に命じて、
          権六を近江佐和山に斬らしむ、又盛政を山城槇島に斬らしむ、二人の首を京都六条河原に梟せしむ

天正11年 5月13日  大日本史料  羽柴秀吉、其将仙石秀久に答へて、近江坂本に帰れるを報じ、併せて、近く長宗我部
               元親を撃たんとするを告げ、備前、播磨の艦船を督せしむ【伊予国新宮田辺氏蔵古文書】
天正11年 5月15日  大日本史料  羽柴秀吉、小早川隆景に答へて、畿内北国の形勢を報じ、毛利輝元をして、
                 益旧盟を修めしむ
天正11年 5月16日  大日本史料  神祇大副吉田兼和、祓を羽柴秀吉の養子次秀勝に贈る
天正11年 5月16日  大日本史料  羽柴秀吉、摂津高槻城主高山重友の柴田勝家に通ずるを聞き、兵を遣して、其城を攻
                 む、山城勢多城主山岡景隆も亦勝家に通ずるを以て、城を棄てゝ逃れ去る
天正11年 5月18日  大日本史料  羽柴秀吉、磯谷彦四郎をして、山城山中に還住せしむ、彦四郎を奉行として、
                 山中の道路を修めしむ
天正11年 5月19日  大日本史料  吉川元春、使を羽柴秀吉に遣し、物を贈りて戦勝を賀す、秀吉、之に答ふ
天正11年 5月20日  大日本史料  羽柴秀吉、石井明石与次兵衛尉に書を与へて、近く大坂に到るべきを報じ、其艦船を
                 大坂に集めしむ

天正11年 5月20日  大日本史料  大和高取城主越智家秀、高野山西門院某の関東より帰山せるを祝し、之に羽柴秀吉と
                 和せんことを勧む
天正11年 5月21日  大日本史料  織田信雄、前田玄以を京都の奉行と為し、大事は特に羽柴秀吉の旨を受けしむ
天正11年 5月21日  大日本史料  徳川家康、老臣石川数正を遣して、羽柴秀吉に物を贈り、戦勝を賀す
天正11年 5月24日  大日本史料  興福寺別当大乗院尋憲、使を遣して、羽柴秀吉に祈祷巻数を贈る、秀吉に戦勝を
                 賀せんとして、奈良を発す
天正11年 5月24日  大日本史料  筒井順慶、羽柴秀吉に謁せんとして、近江坂本に之く、郡山を発す
天正11年 5月25日  大日本史料  羽柴秀吉、近江長命寺を以て、其祈祷所と為し、同寺の諸役を免除す
天正11年 5月25日  大日本史料  池田勝入恒興、大坂城を羽柴秀吉に致す、秀吉、恒興を大垣に其子元助を岐阜に移す

天正11年 5月27日  大日本史料  青蓮院尊朝法親王、近江坂本に抵りて、羽柴秀吉を見給ふ
天正11年 5月29日  大日本史料  毛利輝元、安芸厳島社をして、羽柴秀吉に贈る太刀を出さしむ、之を謝して地を寄す
天正11年 6月1日  大日本史料  羽柴秀吉、京都に入る、坂本城を発す
天正11年 6月1日  大日本史料  羽柴秀吉、近江若狭間往復の高荷船をして、旧の如く、今津に著岸せしむ
天正11年 6月2日  大日本史料  山城大徳寺、織田信長一周忌の法会を修す、羽柴秀吉、之に詣す、大坂城に入る
天正11年 6月5日  大日本史料  羽柴秀吉、近江柳瀬に於ける福島正則、脇坂安治等の戦功を賞し、所領を与ふ
天正11年 6月6日  大日本史料  大友義統、羽柴秀吉に書を遺りて、江北の戦況を問ふ、秀吉、之に答へて、
                北国平定を告ぐ

天正11年 6月10日  大日本史料  羽柴秀吉、播磨に之く、大坂に還る
天正11年 6月13日  大日本史料  羽柴秀吉、近江船大工の諸役を免除す
天正11年 6月17日  大日本史料  佐々成政、越後新発田城主新発田重家に書を遺りて、越中の状勢を報じ、羽柴秀吉に
                 音信を通ぜんことを勧む
天正11年 6月20日  大日本史料  佐竹義重、羽柴秀吉に答へて、北条氏直との対陣を報じ、好を通ず
天正11年 6月28日  大日本史料  上杉景勝、羽柴秀吉に使を遣して、戦勝を賀し、太刀馬を贈り、改めて好を通ず、
                 秀吉、之に答へて、其厚意を謝し、爾後の入魂を約す
天正11年 6月   大日本史料  羽柴秀吉、条制を洛中洛外に下す、又訴訟に就きて、前田玄以に指示するところあり

天正11年 7月2日  大日本史料  吉川元春、同元長父子、石見益田邑主益田藤兼に、伯耆久米郡の地を与ふ
天正11年 7月5日  大日本史料  筒井順慶、大坂に之き、羽柴秀吉に謁す
天正11年 7月7日  大日本史料  羽柴秀吉、山城伏見船津以下三郷と、山村郷との訴訟を裁す
天正11年 7月7日  大日本史料  羽柴秀吉、近江に検地を行ふ
天正11年 7月7日  大日本史料  羽柴秀吉、大坂城中に茶会を催す
天正11年 7月11日  大日本史料  羽柴秀吉、摂津四天王寺太子堂に奉加銭を寄す、之を堺政所松井友閑に報じて、
                同所地子銭の中より支出せしむ

天正11年 7月11日  大日本史料  羽柴秀吉、近江高宮寺の諸役を免除す
天正11年 7月11日  大日本史料  是より先、上杉景勝、証人を羽柴秀吉に致す、是日、秀吉、物を景勝に贈りて、
                 是に答ふ
天正11年 7月14日  大日本史料  安国寺恵瓊、瑤甫、毛利輝元の使と為りて、羽柴秀吉を訪ひ、和泉堺に在り、
                 本願寺光佐、顕如、使を遣して、之に物を贈る
天正11年 7月20日  大日本史料  羽柴秀吉、大坂より京都に入る、近江坂本に之く
天正11年 7月29日  大日本史料  結城晴朝、太田資正、三楽斎、多賀谷重経等、書を羽柴秀吉に遺りて、戦勝を賀す、
               秀吉、資正、重経に答へて、畿内、北国の平定を告ぐ、晴朝にも亦復書して、之を報ず
天正11年 7月   大日本史料  羽柴秀吉に命じ、仁和寺入道任助親王をして、近江石山寺を安堵せしめらる

天正11年 8月1日  大日本史料  瀧川一益、北伊勢五郡を致して、羽柴秀吉に降る、秀吉、新に領国を諸将士に頒つ、
                証状を与ふ
天正11年 8月4日  大日本史料  羽柴秀吉、近江坂本を発して、摂津大坂に之く
天正11年 8月5日  大日本史料  羽柴秀吉、近江諸職人の諸役を免除す
天正11年 8月6日  大日本史料  羽柴秀吉、使を遣して、徳川家康に太刀を贈る、
天正11年 8月12日  大日本史料  羽柴秀吉、烏丸光宣をして、摂津上牧を安堵せしむ
天正11年 8月13日  大日本史料  吉川元長、書を同族小早川隆景、福原貞俊等に与へて、其意中を述べ、毛利輝元の為
                 めに、弟経言広家を羽柴秀吉に質たらしむべきを誓ふ

天正11年 8月14日  大日本史料  羽柴秀吉、山城鴨社社家公文所弥三郎及び鴨脚兵部大輔に、替地を与ふ、又、
                 同国金蔵寺をして、寺領を安堵せしむ
天正11年 8月17日  大日本史料  羽柴秀吉、摂津有馬に浴す、杉原家次に書を与へて、坂本城の留守を厳にせしめ、
                 大坂に来らしむ
天正11年 8月21日  大日本史料  羽柴秀吉、摂津兵庫の商正直屋宗与をして、所領を安堵せしむ
天正11年 8月21日  大日本史料  安芸安国寺恵瓊、瑤甫、大坂より書を毛利輝元の老臣井上春忠に与へて、吉川経言、
                 小早川元総の上坂を促す、佐世元嘉にも亦書を与へて、之を促す
天正11年 8月22日  大日本史料  本願寺光佐、顕如、使を摂津有馬に遣し、物を贈りて、羽柴秀吉の起居を候す
天正11年 8月28日  大日本史料  羽柴秀吉、大に摂津大坂に城く、前野長泰に石材の採取運搬に関する条規を付す
天正11年 8月30日  大日本史料  羽柴秀吉、旧に仍り、山城吉田社領の諸役を免除す、神祇大副吉田兼和、兼見、大坂
                 に抵り、秀吉に謁して之を謝す

天正11年 8月末  心斎橋今昔年表  8月末から、30余国の諸大名から月5万人を動員し、石の切出しと運搬開始。
天正11年 9月1日  心斎橋今昔年表  9月1日~大坂城の築城 第一期工事=本丸と天守を開始
天正11年 9月1日  大日本史料   羽柴秀吉、河内金剛寺をして、寺領を安堵せしむ
天正11年 9月1日  大日本史料   毛利輝元の属将美作高山の草苅重継、羽柴秀吉の属将荒木平大夫と因幡口に戦ふ、
                 又宇喜多秀家の兵を、石米、佐良山等に逆へ撃ちて、之を破る、輝元、之を褒す
天正11年 9月5日  大日本史料   羽柴秀吉の臣小野木重次、山城三鈷寺をして、其寺領を安堵せしむ、同国光明寺に
                 も亦安堵状を与ふ

天正11年 9月7日  山口県史整理年表  輝元、吉川広家の質となりて大阪に赴くを褒す 【吉川家文書・家譜】
天正11年 9月9日  大日本史料   羽柴秀吉の室杉原氏、使を遣して、本願寺光佐顕如の室細川氏に物を贈る
天正11年 9月16日  大日本史料   吉田兼和、祓を羽柴秀吉の養子次秀勝に贈る
天正11年 9月17日  大日本史料   本願寺光佐、顕如、使を大坂に遣して、羽柴秀吉に物を贈る、使者、秀吉に謁す

天正11年 9月25日  大日本史料   羽柴秀吉、竹田定加に命じ、丹波亀山に赴きて、養子次秀勝の病を診療せしむ
天正11年 9月26日  大日本史料   羽柴秀吉、伊勢山田三方の徳政につき、山田倉方の言を容る

天正11年 9月  心斎橋今昔年表  「大坂の町・第一期改造計画」 秀吉は、三年前迄この地にあった石山本願寺を攻め
                 喘ぎ、その堅城地ぶりから、新城を築くのが最適地と考えていた。
天正11年 10月2日  大日本史料   羽柴秀吉、播磨揖東郡の地を同国国府山の黒田孝高に、加増し、近江の河毛次郎左
                  衛門尉にも亦知行を給す
天正11年 10月6日  大日本史料   羽柴秀吉、丹波船井郡及び河内讃良郡の地を、松下之綱に宛行ふ、
天正11年 10月10日  大日本史料   興福寺別当大乗院尋憲、羽柴秀吉を訪はんとして、大坂に之く、
天正11年 10月18日  大日本史料   羽柴秀吉、毛利輝元の弟穂田元清に書を送りて、其物を贈れるを謝し、併せて、
                  伊予来島の村上通昌の帰国を報じ、其所領を旧に復せんことを求む

天正11年 10月24日  大日本史料  本願寺光佐、顕如、摂津有馬より帰る、使を大坂に遣して、羽柴秀吉に物を贈る
天正11年 10月25日  大日本史料  羽柴秀吉、使を遣して、徳川家康に鷹を贈る、
天正11年 10月   大日本史料  羽柴秀吉、京都に新邸を営む
天正11年 11月1日  大日本史料  毛利輝元、一族小早川元総、秀包、吉川経言広家を質として、羽柴秀吉に致す、
                 元総等、秀吉に大坂に謁す、秀吉、元総を留め、経言をして国に帰らしむ
天正11年 11月6日  大日本史料  羽柴秀吉、丹波亀山より、大坂に帰る
天正11年 11月8日  大日本史料  羽柴秀吉、大坂より京都に入る

天正11年 11月11日  大日本史料  毛利輝元、属将伊予能島の村上武吉に書を遺りて、同国来島の村上通昌の帰国を
                 許容せざるを告ぐ
天正11年 11月13日  大日本史料  美濃大垣の池田勝入、恒興、清水の稲葉一鉄と疆域を争ふ、羽柴秀吉、一鉄に知行
                 目録を与ふ、境界を明にし、互に和解せしむ
天正11年 11月15日  大日本史料  羽柴秀吉、摂津平野荘惣中をして、其請米の事を安堵せしめ、領内の切代を納めし
                 む、禁裏御蔵立入立佐をして、近江志賀郡の買得分を安堵せしむ
天正11年 11月17日  大日本史料  山城賀茂社、市原野と貴布禰山を争ふ、羽柴秀吉、裁して、之を賀茂社に与ふ

天正11年 11月22日  大日本史料  羽柴秀吉、山城賀茂社及び妙心寺等をして、各其所領を安堵せしむ
天正11年 12月3日  大日本史料  羽柴秀吉、蜂須賀正勝、黒田孝高等に答へて、速に毛利輝元の属城を請取らしむ
天正11年 12月4日  徳山本土岐家伝系図  ○土岐美濃守成頼(實ハ光俊子)ノ孫 頼芸卒
天正11年 12月11日  大日本史料   七日、羽柴秀吉の臣小野木重次、山城松尾社をして、社領を安堵せしむ
天正11年 12月12日  大日本史料  羽柴秀吉、近江堅田四方に条制を下す、同国坂本町中にも亦之を下す
天正11年 12月15日  大日本史料  安国寺恵瓊、林就長連署し、書を毛利輝元の老臣佐世元嘉、福原元俊等に遺りて、
                 境界の決定、諸城の引渡等につき、輝元の決断を促さんことを嘱す

天正11年 12月18日  大日本史料  毛利輝元、其属将美作高山の草苅重継に、羽柴秀吉との境界決定を報じ、重継をし
                 て退城せしむ
天正11年 12月22日  大日本史料  毛利輝元、吉川元春、出雲神魂社を造営す
天正11年 12月23日  大日本史料  近江佐和山の堀秀政、同国称名寺領を押妨す、羽柴秀吉、之を停めて、
                 寺家に返付せしむ

天正11年 12月28日  大日本史料  本願寺光佐、顕如、使を羽柴秀吉に遣して、歳末を賀す
天正11年 12月29日  大日本史料  羽柴秀吉、筒井順慶をして、其家臣に知行を給せしむ
天正11年 12月   大日本史料  近江佐和山の堀秀政を左衛門督に任ず、羽柴秀吉、之に羽柴の姓を与ふ
天正11年      伊予中世年表  ○阿波国三好氏東予に進出、ニ神通範・大野・土居氏と防衛戦
天正11年      伊予中世年表  ○秀吉は毛利輝元の家臣に命じ来島村上の帰国の便宜を命じた。
天正11年     伊予中世年表  ○大友義統はニ神修理進の書で村上通総(来島)の帰国を祝う。
天正11年     伊予中世年表  ○毛利輝元、来島を帰国させぬと村上武吉に書を送る。

1584年
天正12年      寛政重修諸家譜  ○黒田孝直、播磨山崎城へ転封さる。
天正12年 1月2日  大日本史料  東大寺、興福寺及び筒井順慶等、使を大坂に遣して、歳首を羽柴秀吉に賀す
天正12年 1月2日  大日本史料  羽柴秀吉、蜂須賀正勝及び黒田孝高に答へて、中国滞在の労を犒ひ、速に毛利輝元の
                属城を請取らしむ
天正12年 1月8日  大日本史料  青蓮院尊朝法親王、妙法院常胤法親王、大坂に抵り、羽柴秀吉に歳首を賀し給ふ
天正12年 1月8日  大日本史料  万里小路充房、大坂に赴きて、羽柴秀吉に歳首を賀す
天正12年 1月11日  大日本史料  安国寺恵瓊、書を毛利輝元の老臣井上春忠等に遺りて、羽柴秀吉の態度を報じ、境界
                 附近の諸城の引渡等につき、輝元等の決断を促さんことを嘱す、
天正12年 1月12日  大日本史料  羽柴秀吉、播磨三木郡の地を荒木助右衛門尉に与ふ
天正12年 1月16日  大日本史料  本願寺光佐、顕如、使を羽柴秀吉に遣して、歳首を賀す

天正12年 2月1日  大日本史料  羽柴秀吉、大坂より入京す、丹波に之く、
天正12年 2月2日  大日本史料  羽柴秀吉、伊賀の木材を購入せんとし、筒井順慶をして、奈良に於ける之が売買を
                禁ぜしむ
天正12年 2月6日  大日本史料  羽柴秀吉、丹波より入京す、近江坂本に之く
天正12年 2月13日  大日本史料  羽柴秀吉、近江多賀社の立木を伐らんとし、同社不動院に命じて、濫伐を停止せしむ
天正12年 2月14日  大日本史料  足利義昭の臣布施治部少輔、島津義久に書を遺りて、羽柴秀吉の斡旋に依り、義昭の
                 上洛近きにあるべきを報じ、義久の援助を依嘱す、義昭の使者、書を齎して日向宮崎
                 に到りて、之を義久の老臣上井覚兼に致す

天正12年 2月19日  大日本史料  羽柴秀吉、近江坂本より上洛す
天正12年 2月24日  大日本史料  羽柴秀吉、石清水八幡宮寺に河内星田荘の地を寄進す
天正12年 2月  心斎橋今昔年表  大坂城第二期工事=二の丸、第三期工事=忽構堀を着工。そして、城下町の検地に
                 着手する

天正12年 3月6日  大日本史料  羽柴秀吉、紀伊根来寺及び雑賀の一揆を撃たんとし、使を和泉貝塚に遣して、本願寺
                光佐顕如と結ぶ、光佐も亦使を秀吉に遣して之に答ふ
天正12年 3月6日  大日本史料  織田信雄、徳川家康と謀り、其老臣伊勢松島の津川義冬、尾張星崎の岡田重孝、同国
          苅安賀の浅井田宮丸等を斬りて、秀吉と絶つ、松島、苅安賀を奪ふ、家康の兵を借りて星崎を収む
天正12年 3月7日  大日本史料  織田信雄、書を長宗我部元親の弟香宗我部親泰に与へて、羽柴秀吉との絶交を報じ、
                元親の援助を請ふ【香宗我部家伝証文】

天正12年 3月7日  大日本史料  織田信雄、書を長宗我部元親の弟香宗我部親泰に与へて、羽柴秀吉との絶交を報じ、
                元親の援助を請ふ
天正12年 3月8日  大日本史料  羽柴秀吉、堀尾吉直可晴に、近く北伊勢に兵を出さんとするを報じ、出陣の用意を
                為さしむ
天正12年 3月10日  大日本史料  羽柴秀吉、大坂より入京す、近江に出陣す
天正12年 3月10日  大日本史料  織田信雄、美濃大垣の池田勝入、恒興、同国兼山の森長可等を招く、羽柴秀吉も亦之
                 を招く、勝入、秀吉に応ず、長可も亦秀吉に応ず

天正12年 3月10日  大日本史料  羽柴秀吉、水野忠重、丹羽氏次、高木貞友等を招く、忠重等応ぜずして、
                 徳川家康に属す
天正12年 3月11日  大日本史料  羽柴秀吉、其将蜂須賀正勝、黒田孝高等に答へて、近畿の状況を報じ、併せて其
                 行動を指示す
天正12年 3月12日  大日本史料  蜂須賀正勝の臣牛田一長、境界決定の為め伯耆に下る、毛利輝元の族吉川元春、
                 之に物を贈る
天正12年 3月12日  大日本史料  織田信雄の将神戸正武、伊勢亀山に関万鉄、盛信、同一政父子を攻む、万鉄等、奮戦
                 して之を卻く、羽柴秀吉、一政の功を褒す

天正12年 3月13日  大日本史料  羽柴秀吉、惟住長秀に答へて、畿内、美濃、伊勢、紀伊等の形勢を報ず
天正12年 3月15日  大日本史料  羽柴秀吉の兵、伊勢峰を攻む、秀吉、同国亀山の関一政の戦功を褒す
天正12年 3月17日  大日本史料  羽柴秀吉、大神宮に遷宮の用途を上り、慶光院周養をして、上部貞永と共に遷宮の
                 ことを計らはしむ
天正12年 3月17日  大日本史料  羽柴秀吉、伊勢岩手の田丸直息に書を与へて、織田信雄の属城同国松島攻囲の策を
                 授く
天正12年 3月17日  大日本史料  毛利輝元の将宍戸元孝等、伊予に渡る、長宗我部元親の兵と同国恵良に戦ふ
                【毛利氏四代実録考証論断・萩藩閥閲録】

天正12年 3月17日  伊予年表  ○毛利氏家臣宍戸元孝と長曾我部軍が恵良で戦う。
                      *(本当に長曾我部軍が恵良まで来ていたのか?)
天正12年 3月18日  大日本史料  羽柴秀吉、美濃大藪の毛利掃部助に書を与へて、来属を褒し、近く其地に出陣せんこ
                 とを報ず、本知を安堵せしめ、新知を加へんことを約す
天正12年 3月19日  大日本史料  小早川秀包、元総、羽柴秀吉に従ひて、近江に出陣す、毛利輝元、秀包の請に依り、
                 大多和元直をして、秀吉の陣中を見舞はしむ
天正12年 3月20日  大日本史料  羽柴秀吉、池田勝入恒興に答へて、伊勢ノ状況を述べ、将に自ら美濃に出陣せんとす
                 るを報じ、以て其準備を為さしむ
天正12年 3月20日  大日本史料  織田信雄、長宗我部元親の弟香宗我部親泰に書を遺りて、尾張、美濃の形勢を報じ、
                 元親の摂津に兵を出さんことを求む【香宗我部家伝証文】

天正12年 3月22日  大日本史料  紀伊根来雑賀等の一揆、再び羽柴秀吉の属城和泉岸和田を襲ふ、守将中村一氏等、
                 逆へ撃ちて之を却く
天正12年 3月23日  大日本史料  羽柴秀吉、播磨の藤井与次兵衛に命じて、船を摂津木津浦に繋ぎ、以て紀伊根来雑賀
                 一揆の大坂来襲に備へしむ
天正12年 3月23日  大日本史料  羽柴秀吉の老臣浅野長吉、長政、書を蜂屋五郎助に遺りて、近江諸職人の諸役を
                 免除せんことを嘱す
天正12年 3月23日  大日本史料  羽柴秀吉、池田勝入恒興の母養徳院に書を遺りて、勝入等池田氏一族の尾張犬山城略
                 取の功を賞し、尾張を勝入に、美濃稲葉を其子長吉に与へんことを約す
天正12年 3月25日  大日本史料  羽柴秀吉、山城山崎城の天主を壊つ
天正12年 3月26日  大日本史料  羽柴秀吉、佐竹義重に上国の形勢を告ぐ

天正12年 3月27日  大日本史料  美濃竹鼻の不破広綱、羽柴秀吉の動静を徳川家康に報ず、家康、之に答ふ
天正12年 3月27日  大日本史料  本願寺光佐、顕如、長宗我部元親の使を見る【顕如上人貝塚御座所日記】
天正12年 3月28日  大日本史料  羽柴秀吉、尾張に出で、楽田に陣す、徳川家康、清洲より小牧に入りて之に対す、
                 織田信雄も亦伊勢川内長島より之に赴く
天正12年 3月28日  大日本史料  榊原康政、檄文を発して、羽柴秀吉の罪悪を挙ぐ
天正12年 3月29日  大日本史料  惟住長秀、羽柴秀吉に答へて、和泉に於ける戦勝を賀し、併せて北国の情勢を報ず
天正12年 3月  心斎橋今昔年表  小牧・長久手の戦い、織田信雄・徳川家康と11月和合す

天正12年 4月2日  大日本史料  羽柴秀吉、近江長浜町人に命じて、鍬二百挺を同国坂本より尾張針床に運送せしむ
天正12年 4月3日  大日本史料  羽柴秀吉、伊東長実に地を加ふ
天正12年 4月7日  大日本史料  羽柴秀吉、洛中洛外に於て、京都米座の外は米を、同錫座の外は錫を売るを禁ず
天正12年 4月7日  大日本史料  羽柴秀吉の将羽柴長秀、秀長、筒井順慶等、織田信雄の属城伊勢松島を攻む、守将瀧
            川雄利、城を致して去る、秀吉、八重羽左衛門尉等をして、之を守らしむ、長秀等、尾張に入る
天正12年 4月8日  大日本史料  京都の奉行前田玄以、羽柴秀吉を尾張の陣中に見舞ふ、京都を発す
天正12年 4月8日  大日本史料  羽柴秀吉、惟住長秀に答へて、尾張、伊勢等の戦況を報ず
天正12年 4月8日  大日本史料  羽柴秀吉、生駒親正、山内一豊、矢部善七郎等をして、尾張柏井の森川屋敷の砦を、
             一柳末安をして、酒井七郎左衛門屋敷の砦を守らしむ、末安をして、又森川屋敷に移らしむ
天正12年 4月9日  大日本史料  吉田兼和、使を遣して、羽柴秀吉に祓を贈る、使者、尾張より京都に還る、兼和、
                参内して、尾張の戦況を奏す

天正12年 4月9日  大日本史料  羽柴秀吉の将三好秀次、池田勝入、恒興、森長可等、三河に出でんとす、徳川家康、
                尾張長久手に襲ひて、之を破る、勝入、長可等戦死す
天正12年 4月10日  大日本史料  羽柴秀吉、因幡鹿野の亀井茲矩に答へて、尾張小牧対陣の状況を報ず
天正12年 4月11日  大日本史料  羽柴秀吉、書を池田勝入恒興の生母養徳院に遺りて、勝入、元助の戦死を弔慰し、
                 遺領処分のことを報ず
天正12年 4月11日  大日本史料  羽柴秀吉、養子次秀勝をして、美濃岐阜を守らしめ、兼ねて尾張大浦の池田照政を
                 援助せしむ
天正12年 4月11日  大日本史料  織田信雄、書を尾張脇田の吉村氏吉に与へて、羽柴秀吉の兵の岐阜に来援せるを
                 報じ、軽挙を戒む

天正12年 4月12日  大日本史料  羽柴秀吉、生駒親正、黒田長政の和泉に於ける戦功を賞し、各二千石の地を与ふ
天正12年 4月12日  大日本史料  羽柴秀吉、伊勢木造に木造具政を攻む、其部署を定む
天正12年 4月12日  大日本史料  羽柴秀吉、池田照政の老臣伊木忠次に書を与へて、美濃洲俣城守備の事等を指示す
天正12年 4月14日  大日本史料  羽柴秀吉、京都下京町民をして、其新邸の外濠を掘らしむ
天正12年 4月14日  大日本史料  羽柴秀吉、尾張、美濃に城砦を構築して、織田信雄及び徳川家康と相対峙す、
                 尾張羽黒の古城を修す
天正12年 4月16日  大日本史料  羽柴秀吉、一柳末安をして、砦を尾張長池に構築せしめ、養子次秀勝をして、
                 之を守らしむ

天正12年 4月23日  大日本史料  伊勢及び美濃に一揆起る、本願寺光佐、顕如、使を羽柴秀吉に遺して、之と連絡なき
                 ことを弁疏す
天正12年 4月26日  大日本史料  羽柴秀吉、美濃鵜沼に至る、徳川家康、尾張竹鼻の不破広綱に書を与へて、
                 其動静を窺はしむ
天正12年 4月26日  大日本史料  織田信雄の兵、羽柴秀吉の兵を夜襲す
天正12年 4月30日  大日本史料  長宗我部元親、款を徳川家康に通ず、家康の老臣本多正信、書を元親の弟香宗我部親
                 泰に寄せて、之に答ふ【香宗我部家伝証文】
天正12年 4月  心斎橋今昔年表  大坂城本丸の工事完了

天正12年 5月1日  大日本史料  羽柴秀吉、尾張二重堀の陣を撤して、美濃に退く
天正12年 5月1日  大日本史料  羽柴秀吉、正覚院豪盛及び徳雲軒施薬院全宗に、延暦寺根本中堂戒壇院の再興を許す
天正12年 5月2日  大日本史料  羽柴秀吉、加藤光泰をして尾張犬山を、山内一豊をして羽黒を、堀秀政をして楽田
                を、稲葉一鉄をして小口を治せしむ
天正12年 5月3日  大日本史料  織田信雄、長宗我部元親の弟香宗我部親泰に羽柴秀吉の美濃に退陣せるを報ず、信雄
                の将織田信純も亦親泰に書を遺りて、長久手の戦勝を報じ
天正12年     大日本史料  元親の摂津、播磨に出兵せんことを促す【香宗我部家伝証文】
天正12年 5月9日  大日本史料  羽柴秀吉、美濃、尾張の戦況を毛利輝元に報ず、

天正12年 5月9日  大日本史料  織田信雄、河内国見山ノ保田佐久間安政安次に、羽柴秀吉の尾張二重堀撤退を報ず
天正12年 5月10日  大日本史料  羽柴秀吉、尾張竹鼻を攻囲す
天正12年 5月11日  大日本史料  佐久間正勝の弟道徳、京都一条町に於て、事を謀る、淀の小野木重次、一条町並に
                 実相院町の町民を捕ふ、勅旨に依り、羽柴秀吉、之を赦免す
天正12年 5月12日  大日本史料  羽柴秀吉、尾張竹鼻攻囲の状を、宇喜多秀家に報ず、
天正12年 5月14日  大日本史料  織田信雄、徳川家康、大和衆をして、兵を起さしむ、大喜清長、之を長宗我部元親の
                 弟香宗我部親泰に報ず【香宗我部家伝証文】

天正12年 5月15日  大日本史料  羽柴秀吉、山内一豊、伊藤掃部助等をして、尾張小牧山に対し、向城を構築せしむ
天正12年 5月15日  大日本史料  羽柴秀吉、近江長浜町民及び八幡荘民に命じて、兵糧米を美濃関原に運送せしむ
天正12年 5月18日  大日本史料  伊予金子の金子元宅、長宗我部元親に覚書を送りて、証判を求む、元親、之に加判す
                【土佐国蠧簡集】
天正12年 5月24日  大日本史料  毛利輝元の将渡辺長等、伊予恵良に戦ふ、同国湯月の河野通直、長を賞す、
                 輝元も亦之を褒す【萩藩閥閲録】

天正12年 5月29日  大日本史料  尾張大浦在番の木下平大夫、石川小七郎、大浦方面の無事を、羽柴秀吉に報ず、
                 秀吉、之に答ふ
天正12年 5月    伊予年表  ○毛利氏家臣渡辺長と長曾我部軍が恵良で戦う。
                       *(本当に長曾我部軍が恵良まで来ていたのか?)
天正12年    伊予中世年表  ○長宗我部元親、黒瀬城を攻めた。西園寺公広降伏。

天正12年 6月4日  大日本史料  羽柴秀吉、佐竹義重に答へて、尾張、美濃の戦況を報ず、瀧川不干一益も亦、義重に
                秀吉の相模出馬の意あるを報じ、之に策応せしむ、
天正12年 6月7日  大日本史料  前田利家、羽柴秀吉に書を遺りて、之を陣中に訪はんことを告ぐ、秀吉、之に答へ、
                且尾張竹鼻の形勢を報ず、
天正12年 6月10日  大日本史料  尾張竹鼻松葉の守将不破広綱、城を羽柴秀吉の兵に致して、伊勢長島に退く、秀吉、
                 一柳末安、伊木忠次をして、之を守らしむ
天正12年 6月11日  大日本史料  長宗我部元親の兵、讃岐に入り、十河に十河存保義堅を攻めて、之を抜く、元親の
                 弟香宗我部親泰、之を織田信雄に報ず【香宗我部家伝証文】

天正12年 6月12日  大日本史料  羽柴秀吉の兵、長良川を渡りて、尾張者結、幡長に陣す、脇田を攻む
天正12年 6月13日  大日本史料  羽柴秀吉、美濃大垣に入る
天正12年 6月13日  大日本史料  羽柴秀吉、蒲生賦秀、氏郷、生駒親正、織田信包等に、伊勢の地を与ふ、賦秀、
                 近江日野より、伊勢松島に徒る
天正12年 6月16日  大日本史料  瀧川一益、織田信雄の属将尾張蟹江の前田与十郎、下市場の前田与平次、前田の前田
                 長種等を説きて、羽柴秀吉に従はしめ、
天正12年      大日本史料  蟹江の主将佐久間正勝の不在に乗じ、与十郎と謀りて、自ら之に入る、徳川家康、
                 蟹江を攻む
天正12年 6月16日  大日本史料  羽柴秀吉、讃岐十河城に兵糧を輸送せんとして、仙石秀久等を遣す、小西行長、
                 石井明石与次兵衛等をして、秀久の命を待たしむ

天正12年 6月18日  大日本史料  毛利輝元、児玉元光を羽柴秀吉に質として、大坂に遣す、内藤元栄、長井元親に命じ
                 て、周防末武の年貢を、之に渡付せしむ
天正12年 6月18日  大日本史料  長宗我部元親、書を紀伊根来寺に遺りて、兵を淡路に出すべきことを報じ、
                 之に太刀、馬を贈る【土佐国編年記事略】
天正12年 6月18日  山口県史整理年表  輝元、児玉元栄を秀吉に質として大阪に遣す。この日都濃郡末武の年貢をこれ
                 に渡付す 【閥閲録】
天正12年 6月20日  大日本史料  羽柴秀吉の兵、尾張今尾を侵す、脇田の守将吉村氏吉、援兵を織田信雄に請ふ、信雄
                 并に徳川家康、之に答ふ
天正12年 6月20日  大日本史料  羽柴秀吉、上杉景勝に質を求む、景勝、畠山義春の子義真を秀吉に致す
天正12年 6月21日  大日本史料  羽柴秀吉、三好信吉秀次等を美濃に留めて、近江に入る、大坂に還る
天正12年 6月25日  大日本史料  近衛龍山、前久、同信輔、信尹、羽柴秀吉を美濃に訪はんとす、京都を発す

天正12年 6月25日  大日本史料  伊予湯月の河野通直、毛利輝元と安芸福成寺に相会せんとす、輝元の老臣赤川十郎左
                 衛門尉、粟屋元信、同寺に禁制を下して、四至内の竹木伐採等を禁ず【福成寺文書】
天正12年 6月26日  大日本史料  羽柴秀吉、山城一条馬場之内四丁町敷地を、久我季通敦通に還付す
天正12年 6月28日  大日本史料  徳川家康の兵、小牧より、楽田に出ず、羽柴秀吉の兵と戦ふ

天正12年 7月3日  大日本史料  羽柴秀吉、小野木重次、一柳末安等を遣して、伊勢神戸を守らしむ、
天正12年 7月3日  大日本史料  羽柴秀吉、伯耆三郡を同国羽衣石の南条直秀に与ふ、蜂須賀正勝、秀吉の命を承け
                て山城相国寺光源院領大谷、国分寺、四王寺を光源院に還付すべきことを直秀に伝ふ
天正12年 7月4日  大日本史料  羽柴秀吉、安国寺恵瓊を遣し、毛利輝元、小早川隆景をして、中国の事を計らしむ
天正12年 7月8日  大日本史料  羽柴秀吉、旧に仍り、本能寺に軍兵の寄宿を免除す
天正12年 7月8日  大日本史料  羽柴秀吉、佐竹義重の族東義久、太田道誉資政の子梶原政景に答へて、近況を報ず
天正12年 7月8日  大日本史料  羽柴秀吉、大和の片岡某の所領を奪ひて、四分の一を与へ、残余を大和国衆に分与す

天正12年 7月9日  大日本史料  羽柴秀吉、大坂を発して、近江坂本に入る
天正12年 7月9日  大日本史料  伊賀上野の分部光嘉、織田信雄の兵、同国神戸に出陣のことを羽柴秀吉に報ず、
                秀吉、之に答へ、伊勢安濃津の織田信包に、防備を厳にすべきことを伝へしむ
天正12年 7月12日  大日本史料  織田信雄の将木造具政、伊勢戸木に在り、屡羽柴秀吉の将同国安濃津の織田信包、
                松島の蒲生賦秀氏郷等と戦ふ、賦秀の将蒲生郷成と、同国須賀に戦ふ
天正12年 7月12日  大日本史料  羽柴秀吉、瀧川一益に、三千石の地を、一益の子一時に、一万二千石の地を給す
天正12年 7月15日  大日本史料  羽柴秀吉の兵、尾張楽田より出で、徳川家康の小牧の兵と戦ふ、

天正12年 7月18日  大日本史料  羽柴秀吉、再び美濃に入り、岐阜に陣す
天正12年 7月18日  大日本史料  羽柴秀吉、大徳寺に命じて、犯罪者の遁世と号して、其咎を免れんとするものを
                 寺中に置くことを禁ず、
天正12年 7月18日  大日本史料  羽柴秀吉、黒田孝高に、播磨宍粟郡を与ふ
天正12年 7月19日  大日本史料  長宗我部元親の将久武親直、伊予金子の金子元宅に、讃岐出馬を促し、之に誓書を
                送る【金子文書】
天正12年 7月24日  大日本史料  羽柴秀吉、山崎片家に命じて、其知行分水際の収穫三分の一を百姓分とし、
                 三分の二を収納分となさしむ

天正12年 7月28日  平出宛元親書状  

            尚々、御人数無異議候由之条肝要候
( 高知県立歴史館)   方角躰追々可承候、かしく
           田所城中雖被取入候、手筈相違故、人数被引取之由否及非候、
           于今諸■同前候敟、弥宣高被相談御計策肝要候
           別而可令申候へ共、先以的使用短書候、巨細久武彦七可申候
           猶期後■■(音候?)、恐々謹言
                              長内
           七月廿八日              元親 (花押)
           平出   御宿所

   【解説】 喜多山から矢落川を上流に上がった喜多郡久米郷田所(現在は田処)にある田所城を攻めたものの、
         手筈を違えたため兵を引いた。 曽根宣高は諸将と相談して計策を練る必要があるとし、詳しくは久武
         彦七が申し述べるとしている。後にまた便りをする(あるいは訪問を期する)。

        書状の書き止め文言は比較的厚礼の文言を用いている。「長内」は長宗我部宮内少輔の略。また尚書き
         では、人数を集めることが大切である ことを念押しし、国人・地侍の一揆的結合である「方角」の
         様子を追って承りたいと記す

天正12年 7月29日  大日本史料  羽柴秀吉、美濃より大坂に帰る
天正12年7月    大日本史料  大友義統、龍造寺政家、羽柴秀吉に通ずと風説す

天正12年 8月2日  大日本史料  羽柴秀吉、摂津有馬に浴す
天正12年 8月4日  大日本史料  羽柴秀吉、中村一氏をして、河内烏帽子形城を修築せしむ
天正12年 8月4日  大日本史料  羽柴秀吉、美濃関の地を、池田照政に与ふべきことを約す
天正12年 8月8日  大日本史料  羽柴秀吉、大坂城新第に徒る、
天正12年 8月11日  大日本史料  羽柴秀吉、大坂より京都に入る、近江坂本に之く
天正12年 8月12日  大日本史料  羽柴秀吉、近江長浜町民をして、鋤鍬を尾張犬山に運送せしむ
天正12年 8月14日  大日本史料  織田信雄、美濃脇田の吉村氏吉に、羽柴秀吉の出動を伝へて、守備を警む、
                 徳川家康も亦之を戒む

天正12年 8月15日  大日本史料  羽柴秀吉、美濃大垣に抵る
天正12年 8月15日  大日本史料  羽柴秀吉、井戸良弘を出仕せしむ、良弘、奈良に抵る
天正12年 8月16日  大日本史料  伊予黒瀬の西園寺公広、同国宇和郡天神社を修築す
天正12年 8月17日  大日本史料  羽柴秀吉、美濃の地を池田勝入恒興の母養徳院に与ふ
天正12年 8月17日  大日本史料  羽柴秀吉、一柳末安に命じて、美濃木田渡を守備せしむ
天正12年 8月18日  大日本史料  羽柴秀吉、上杉景勝の老臣須田満親に答書し、美濃大垣著陣を告げ、将に三河を
                 襲はんとすと報ず

天正12年 8月18日  大日本史料  羽柴秀吉、近江長浜惣中に令して、新銭鋳造を禁止す
天正12年 8月18日  大日本史料  長宗我部元親の弟香宗我部親泰、使を徳川家康、織田信雄に送りて、元親の誓書を
                 致す、家康、之に答へて、羽柴秀吉の美濃出馬を報じ三箇国を与へんことを約す、
                 信雄も亦之に答へ、元親の淡路出兵を促す【香宗我部家証文】
天正12年 8月18日  大日本史料  長宗我部元親及び其近臣瀧本寺栄音、伊予金子の金子元宅に書を遺りて、讃岐出勢を
                 止め、毛利輝元の伊予出兵に備へしむ【金子文書】
天正12年 8月19日  大日本史料  越前北荘の惟住長秀、羽柴秀吉を援けんとし、兵を率ゐて、北荘を発す

天正12年 8月20日  大日本史料  細川信良、昭元、阿波に渡り、長宗我部元親に頼る、織田信雄、元親に書を遺りて、
                信良に対し、疏意なかるべきを述ぶ【土左国古文叢】
天正12年 8月21日  大日本史料  羽柴秀吉の養女前田菊姫、利家の女、歿す
天正12年 8月28日  大日本史料  羽柴秀吉、美濃より尾張に入り、諸所に砦を築く、奈良、赤見等を火く、
                徳川家康も亦、同国清須より岩倉に出づ、一宮の砦を修す

天正12年 9月1日  大日本史料  尾張黒田の澤井雄重、同国嶋に羽柴秀吉の兵と戦ふ、徳川家康、之を褒す
天正12年 9月1日  大日本史料  折井次昌、米倉忠継等、羽柴秀吉の兵と戦ふ、
天正12年 9月2日  大日本史料  羽柴秀吉、近江に検地を行ふ、同国蒲生郡今堀村より指出を致す
天正12年 9月3日  大日本史料  羽柴秀吉、京都妙顕寺に替地を与へ、地子及び諸役を免除す、
天正12年 9月3日  大日本史料  伊予金子の金子元宅、長宗我部元親に交替の人質を送る、元親、之に答へ、
                且毛利輝元の伊予出兵の動静を報ぜるを謝す【金子文書】

天正12年 9月5日  大日本史料  前田利家、羽柴秀吉の意を伝へて、越中瑞泉寺顕秀の帰国を促す
天正12年 9月6日  大日本史料  摂津久宝寺の安井定次、羽柴秀吉に火薬等を贈る、秀吉、之に答ふ
天正12年 9月7日  大日本史料  羽柴秀吉、和を織田信雄、徳川家康と講ず、議破れ、家康、陣を尾張茂吉に移す
天正12年 9月7日  大日本史料  北条氏直、羽柴秀吉の兵尾張に出づるを太田越前守に告げて、徳川家康援助の
                準備を為さしむ
天正12年 9月8日  大日本史料  羽柴秀吉、前田利家、利勝父子に尾張の形勢を報じ、近く惟住長秀の帰陣すべきを
                告げ、佐々成政に対し、軽卒に兵を動かすことを戒む
天正12年 9月9日  大日本史料  毛利輝元、羽柴秀吉との和議に拠り、伊賀家久をして、備中加茂を退かしむ、輝元、
                周防、長門に於て、三百石の地を与ふ

天正12年 9月11日  大日本史料  長宗我部元親、其将久武親直をして、伊予を攻略せしむ、同国深田城、陥る
                【金子文書】
天正12年 9月14日  大日本史料  紀伊根来寺杉坊聖算、土佐長宗我部元親の弟香宗我部親泰に答へて、尾張の形勢を報
                じ、之と好を通ず【土佐国古文叢】
天正12年 9月17日  大日本史料  羽柴秀吉、軍を尾張より美濃に納めんとし、兵を引かしむ、織田信雄、徳川家康も
                 亦清洲に帰る
天正12年 9月18日  大日本史料 伊予湯月の河野通直、金尊坊を同国石手寺地蔵院住持職に補す【石手寺文書】
天正12年 9月18日  山口県史整理年表  毛利家家臣内藤孫右衛門に、山口晦日市、同道場門前の屋敷を給し、かつ、
                    元就以来九州・山口の功により地料ならびに諸公役を免除す 【閥閲録】

天正12年 10月  山口県史整理年表  来年六月明国の商船ニ隻赤間関に着岸するにつき、杉原元兼、売買のことを
                  船主に告知す 【閥閲録】
天正12年 10月5日  大日本史料  羽柴秀吉、京都を発して、大坂に帰る
天正12年 10月6日  大日本史料  伊予能島の村上武吉、同国忽那島の俊成左京進をして、所領を安堵せしむ、
天正12年 10月7日  大日本史料  羽柴秀吉、若狭の諸寺に鐘を徴す、近江の新庄蔵人に命じて、同国長浜等の
                 諸寺の鐘を徴せしむ
天正12年 10月8日  大日本史料  羽柴秀吉、壇栄清を石清水八幡宮社務職に補す

天正12年 10月9日  大日本史料  羽柴秀吉、紀伊に兵を出さんとし、一柳末安に命じて、大坂附近に著陣せしむ
天正12年 10月14日  大日本史料  羽柴秀吉、大坂城中に茶湯を催す
天正12年 10月16日  大日本史料  羽柴秀吉、浅野長吉に命じ、播磨飾磨津に於て、兵粮二百石を十河存保の
                 将篠原甚五、森志摩守に渡さしむ
天正12年 10月18日  大日本史料  徳川家康の将石川数正、東美濃に出で、羽柴秀吉の兵と戦ふ、家康、遠山佐渡守に
                 書を与へて、其子半左衞門尉の戦死を傷む

天正12年 10月18日  阿波国徴古雑抄巻五  ○秀吉は毛利氏の重臣穗田元清(毛利元就の四男・妻は通総の姉妹)に書間
                     を送り、「来島帰国の儀、委細安国寺に申し渡しの条(中略)
                    異儀無きよう馳走専要に候、殊に貴所御間柄の由候の条、別して御情入ら
                     れるべき事尤もに候」と述べ来島通総を帰国させる意向を示す。
天正12年 10月19日  大日本史料 長宗我部元親の兵、西園寺公広の居城伊予黒瀬を陥る、毛利輝元の将桂元親、
                 之を輝元に報ず【萩藩閥閲録】
天正12年 10月20日  大日本史料  羽柴秀吉、大坂を発して、近江坂本に赴く

天正12年 10月23日  大日本史料  羽柴秀吉、近江坂本より北伊勢に出づ、織田信雄、尾張清洲の守将酒井忠次に之を
                 報ず、秀吉、同国土山に著陣す、
天正12年 10月25日  大日本史料  羽柴秀吉、伊勢土山より同国神戸に著陣す上部貞永に兵粮米、竹木等の調達を命ず
天正12年 10月28日  大日本史料  羽柴秀吉、脇坂安治に伊勢の形勢を報じ、速に伊賀の諸城を破却せしむ
天正12年 10月28日  大日本史料  羽柴秀吉、伊勢浜田を囲む、之を越前北荘の惟住長秀に報ず

天正12年 11月6日  大日本史料  羽柴秀吉、伊勢羽津・萩原等に砦を築く同国桑名表に出で、桑部・柿多等の砦を奪ふ
天正12年 11月6日  大日本史料  羽柴秀吉、浅野長吉をして、近江蒲生郡に於ける検地漏の地を糺明せしむ、長吉、
                 其指出を徴す

天正12年 11月6日  大日本史料 土佐長宗我部元親の兵、伊予に出づ、毛利輝元、同国在陣の桂元親に書を与へて、
                援軍の派遣を報ず【桂文書】
天正12年 11月8日  大日本史料 土佐長宗我部元親、大崎吉右衛門の、伊予三間表の功を賞し、諸浦の諸役を免除す、
                香宗我部親泰も亦、其分領諸浦の諸役を免除す【土左国古文叢】
天正12年 11月10日  大日本史料  美濃脇田の吉村氏吉、羽柴秀吉に通ずる福田某を攻めて、同国長久保を陥る、
                 織田信雄、之を褒す
天正12年 11月10日  大日本史料  羽柴秀吉、織田信長の側室小倉鍋に、近江愛智郡の地四百石を与ふ、

天正12年 11月11日  村上図書家文書  ○毛利」輝元は村上武吉に書間を送り「来島帰国の風聞があっても毛利家は
                   許容しない」との意向を示す。

天正12年 11月15日  大日本史料  羽柴秀吉、織田信雄・徳川家康と和を講ず、秀吉、信雄と伊勢桑名附近に相会す
天正12年 11月17日  大日本史料  羽柴秀吉、近江坂本より書を加藤茂勝嘉明に与へ、美濃大垣城を稲葉一鉄の留守居に
                 渡して、速に帰陣すべきを命ず
天正12年 11月17日  大日本史料  北条氏政、徳川家康の老臣酒井忠次に書を与へて、羽柴秀吉との媾和の情況を問ふ
天正12年 11月17日  大日本史料 土佐長宗我部元親、柳瀬孝重をして、祖父五郎兵衛尉の、楮左古道尋をして、父柳瀬
                 道重の所領を継がしむ【蠧簡集拾遺】

天正12年 11月中旬  瀬戸内の海賊・山内  ○来島通総の船団は忽那島に現れ、狼藉、賊船行為を始める、対抗して軍船
                     を能島村上も派遣し忽那島周辺の緊張は一気に高まったが、この時南予では
                     長曾我部元親との軍勢と戦っていた、河野・毛利軍は軍勢が割かれるのを
                     おそれ河野通直は能島に「堪忍」を要請した。

天正12年 11月18日  大日本史料  羽柴秀吉、松倉勝重の戦功を賞し、右近大夫の称を与ふ
天正12年 11月20日  大日本史料  羽柴秀吉の奉行小出秀政・伊藤秀盛等、旧に依り、安井定次をして、
                 河内久宝寺屋敷を安堵せしむ
天正12年 11月21日  大日本史料  羽柴秀吉、近江坂本を発し、京都に入る
天正12年 11月21日  大日本史料  徳川家康、三河西尾を発し、遠江浜松に還る、羽柴秀吉、使を遣して、家康と
                 和を講ず、

天正12年 11月22日  大日本史料  従五位下左近衛権少将羽柴秀吉を従三位に叙し、権大納言に任ず
天正12年 11月23日  大日本史料  羽柴秀吉、丹波亀山に赴く
天正12年 11月25日  大日本史料  羽柴秀吉、仙洞御所の造営を巡視す
天正12年 11月27日  大日本史料  羽柴秀吉、京都を発し、大坂に帰る
天正12年 11月30日  大日本史料  是より先、羽柴秀吉、山城に検地を行ふ、是日、出分の収納に就き、片桐貞隆等に
                 指示を与ふ

天正12年 11月    大日本史料 土佐長宗我部元親、徳川家康と牒し、和泉・紀伊の一揆と共に羽柴秀吉の居城大坂を
           攻めんとす、秀吉と家康との和成るを以て止む【元親一代記】

天正12年 12月10日  大日本史料  安芸沼田の小早川隆景、伊予能島の村上元吉に答へて、同国宇和表の警備に
                 力を致さしむ
天正12年 12月12日  大日本史料  徳川家康次子義伊秀康を羽柴秀吉の養子と為す、義伊遠江浜松を発して大坂に之く
天正12年 12月15日  大日本史料  羽柴秀吉、上杉景勝の将須田満親に答へて、景勝の越中に出馬し、佐々成政の属城
                 境を攻略せるを褒し、且織田信雄・徳川家康との媾和をを報ず
天正12年 12月17日  大日本史料  羽柴秀吉、大坂より京都に入る、大坂に帰る
天正12年 12月20日  大日本史料  羽柴秀吉、下野佐野の佐野宗綱に、徳川家康等の、媾和を求めて、人質を提出せし
                 ことを報ず

天正12年 12月21日  大日本史料  河野通直、伊予能美の村上景親をして、同国府中東条分を安堵せしむ
                 【萩藩閥閲録】

天正12年 12月24日  大日本史料  本願寺光佐、顕如、使を遣して、羽柴秀吉に歳暮を賀す、小早川秀包元総にも
                 亦歳暮を賀す
天正12年 12月24日  予陽河野家譜  ○大野直之は元親の矛先となって梶谷氏の居城高森を攻めて抜けず。
天正12年      伊予中世年表  ○大野直之は浮穴郡の鷹森城を攻めた。