西暦1581
天正9年 1月6日 大日本史料 長宗我部元親、部将久武親信等をして、北川通安を伊豫三瀧城に攻めしむ、是日、
城陥り、通安、之に死す【土佐国群書類従所收元親記】
天正9年 1月11日 大日本史料 長宗我部元親の將西川近江守等、西園寺公廣を伊豫黒瀬城に攻め、其城下を火く、
天正9年 2月16日 大日本史料 羽柴秀吉、但馬生野銀山の代官生熊左介に正月分の納銀請取状を與ふ
2月26日 大日本史料 吉川元春、約諾に依り、粟屋彦右衞門尉に伯耆の地を宛行ふ、
天正9年 2月 フロイス日本史 一条内政(タダマサ)波川玄蕃の元親への謀反の疑いをかけられ伊予法華津に流された
後、元親により毒殺される。
天正9年 2月 大日本史料 土佐長宗我部元親、一條内政の波川氏に党するを怒り、之を伊豫法華津に逐ふ
【土佐国群書類従所收元親記】
天正9年 3月18日 大日本史料 羽柴秀吉、浅野長吉及び黒田孝高に所領を加増し、播磨揖東郡の地を同国斑鳩寺に
寄進す
天正9年 3月20日 大日本史料 三好康長、讃岐より阿波岩倉城に到り、子式部少輔を諭し、長宗我部元親に反き、
信長に帰属せしむ【讃岐国大日記】
天正9年 3月24日 萩藩閥閲録1-528 【河野牛福通直婚姻成立】
今度吉見・予州(河野通直)縁邊之儀相調、
廣頼曽息女従防州表、厳島まて、
兒玉四郎兵衛 舟ニて呼上せ候条、下松浦ヨリ大舟壱艘申付、
水夫等堅固ニ乗せ可差上候、
不可有油断候、謹言
(天正九年)三月廿四日 輝元 御判
児玉四郎兵衛尉(元村)殿
天正9年 3月28日 大日本史料 羽柴秀吉、近江長濱町人の商売船に折紙を與へ、若狭、丹後の海賊の違乱に
備へしむ
天正9年 3月29日 大日本史料 羽柴秀吉、松井友閑、村井貞勝等、宴を清水寺に張り、猿楽を観る、
天正9年 3月29日 大日本史料 羽柴秀吉の將伊藤秀盛、播磨住吉社に燈明田等を寄進し、同社神主をして、
秀吉の武運長久を祈るらしむ
天正9年 4月10日 山口県史整理年表 羽柴秀吉、三島を招諭す。来島通総、これに応じ毛利氏と絶つ
天正9年 4月13日 大日本史料 因幡私部城毛利豊元の部下長砂與五郎、山名禅高の、播磨姫路城に在る羽柴秀吉の
許に送る密使を撃殺す【因幡民談】
天正10年* ? 村上系図証文 ●大野直政、能島村上の代理として秀吉に姫路に招かれ信長に味方するよう誘われ
るが断るため後、村上家とともに睨まれる!
天正9年 東和町史 ○来島は毛利を離れて織田氏に属し能島と対立することとなる。
天正9年 上川大野系譜 ■大野兵庫介直政 豊臣秀吉の招きにより浅野氏の所で甲、鎧、青具柄の鎗を賜り
帰島し輝元に附いたため秀吉天下の時赤間より上に住めず。
天正9年 上川大野系譜 ■備中高島弓箭の節、羽柴氏使者来ると雖も、河野母堂春禅院承引なく、あまつ
さえ過言有り、当家は毛利家と従来懇意にて
黙止し難き神文の約に因り催促に応ぜず、手切れに及び了る。
天正9年 大野家譜上田本 ○備中高島弓箭の節、羽柴氏使者来ると雖も、河野母堂春禅院承引なく、あまつ
さえ過言有り、当家は毛利家と従来懇意にて
黙止し難き神文の約に因り催促に応ぜず、手切れに及び了る。
天正9年 浦家文書 ○秀吉は能美(浦家)の調略を行い周防、長門、安芸を餌に抱き込みを図る。
が失敗する
天正9年 誤 周防大島町誌 ○来島・能島両家の不仲は来島通総は黒田官兵衛を通じ秀吉に通じてしまい毛利は
来島大島領地を武吉へ。
天正9年 4月 伊予年表 ○河野通直(伊予守)は毛利氏家臣吉見弘頼の女を娶る。
天正9年 4月 TKUBO HP ○河野通直(伊予守)は毛利氏家臣吉見弘頼の女(矢野)・元就の曾孫、を娶る。
天正9年 5月26日 大日本史料 伊予河野通直、宮脇新左衞門の、来島通総の来攻を防戦せる功を褒す【河野家譜】
天正9年 6月1日 大日本史料 吉川元春、元長父子、粟屋彦右衞門尉に父三河守の所領等を相続せしむ
天正9年 6月3日 大日本史料 長宗我部元親の將久武親信、兵を遣し、河野通直の属城伊豫岡本城を襲ひて、
之を取る、同国大森城土居清良、親信を撃ちて、之を斬る、
天正9年 是日、 通直、清良の戦功を褒す【土居文書、元親記】
天正9年 6月19日 大日本史料 羽柴秀吉、播磨姫路城に在り、是日、茶会を催す
天正9年 6月25日 大日本史料 羽柴秀吉、因幡に入り、毛利氏の將吉川経家を鳥取城に囲む
天正9年 7月4日 大日本史料 伊豫河野通宣卒す【予陽河野家譜、河野軍記】
天正9年 7月4日 予陽河野家譜 ○河野家惣領 左京太夫 通宣 湯築城で逝去。号 日勢院殿洞月良恵大禅定門
天正9年 7月23日 大日本史料 土佐長宗我部元親、伊豫金子城の金子元宅と盟約す【金子文書】
天正9年 8月14日 大日本史料 信長、毛利輝元の、因幡鳥取城を赴援せんとするを聞き、親ら出陣せんとし、長岡
藤孝等をして準備を為さしむ、尋で、羽柴秀吉に馬を與ふ、
天正9年 9月 伊予年表 ○来島村上は公然と主家河野家に敵対する。
天正9年 9月8日 大日本史料 十河存保、阿波勝瑞城を復し、一宮成助を同国一宮城に攻む、是日、長宗我部元
親、久武親直をして、成助を赴援せしむ、克たず【昔阿波物語】
天正9年 9月11日 大日本史料 伊豫西園寺公廣、白木與次兵衞に父治部少輔の本領を安堵せしむ
天正9年 9月16日 大日本史料 伊豫北川親安、魚成親能、西園寺公廣に反き、長宗我部元親に通ず、土居清良、
之を攻む、是日、大友氏の水軍、伊豫板島、津島を侵すに依り、兵を収む、尋で、
親安、親能、元親と絶ち、公廣に帰属す【清良記】
天正9年 9月16日 大日本史料 羽柴秀吉の水軍の將松井康之、毛利氏の水軍と因幡湊川口に戦ひて、鹿足元忠等を
斬り、進みて伯耆泊城を攻め、又大崎城下を火く、是日、信長、其功を褒す
天正9年 9月22日 大日本史料 吉川元春、同経家等を遣して、因幡鳥取城を赴援せしむ
天正9年 9月22日 大日本史料 羽柴秀吉、亀井眞矩(茲矩)の、吉川元春の茶磨山著陣を報ずるに答へ、尚、
因幡鹿野城の守備を厳にせしむ
天正9年 10月20日 大日本史料 羽柴秀吉、亀井眞矩(茲矩)をして、因幡鹿野城を厳守し、吉川元春に備へしむ
天正9年 10月23日 大日本史料 羽柴秀吉、旧に依り、淡路岩屋船の分国中を廻漕するを許し、又與一左衞門の
船に諸公事を免除す
天正9年 10月25日 大日本史料 羽柴秀吉、毛利輝元の將吉川経家を因幡鳥取城に囲む、経家、士民に代りて自殺
し城を致す、是日、秀吉、同城を收む、尋で、宮部継潤をして、之を守らしむ
天正9年 10月28日 大日本史料 毛利輝元の先鋒吉川元春、羽柴秀吉の党南條元続を伯耆羽衣石城に攻めんとし、
同国馬山に陣す、是日、秀吉、進みて高山に陣す、尋で、播磨に帰陣す
天正9年 10月 上川大野系譜 ■大野直昌、毛利家より援兵の頼みあり、諾して兵衆を遣わす。
天正9年 10月 大野家譜上田本 ○大野直昌、毛利家より援兵の頼みあり、諾して兵衆を遣わす。
天正9年 伊予中世年表 ○長宗我部元親勢、宇和郡黒瀬城を攻め、これを焼いた。
天正9年 11月17日 大日本史料 羽柴秀吉、池田之助、淡路に入り、岩屋城を攻めて、之を陥れ、又、由良城を攻
略し、是日、姫路に旋る、尋で、秀吉、千石秀久に淡路を與ふ
天正9年 12月22日 大日本史料 信長の諸將、近江安土に抵り、歳暮を賀す、是日、羽柴秀吉、播磨姫路に帰る
天正9年 12月27日 大日本史料 羽柴秀吉、上京の途次摂津茨木城に於て茶会を催す
1582年
天正10年 大日本史料 羽柴秀吉、播磨姫路城を修築す、
天正10年 予陽大野軍記16 土居清良□合戦の事。附、武内□□打死の事。
天正10年 予陽大野軍記16 大野直之、多田信勝(綱)、不和の事。附、直之、信勝(綱)打出す事。
天正10年 予陽大野軍記16 中国毛利へ加勢の事。附、大野直之□□を討こと。
天正10年 予陽大野軍記16 備中高松篭城の事。附、秀吉公勢深和睦の事。
天正10年 1月是日 大日本史料 伊予大野直行、宇都宮宣綱と戦う。西園寺公廣、宣綱を援け直行の地蔵嶽城を囲
む、河野通直之を和解せしむ。【河野家譜】
天正10年 1月下旬 予陽河野家譜 ○大野直之は黒瀬城主西園寺氏(今の宇和町)と争って河野氏の調停で和解する。
天正10年 予陽大野軍記16 大津城合戦の事。附、大野、西園寺和睦の事。
天正10年 予陽大野軍記14 西園寺殿、長曾我部合戦の事。附、大野殿より加勢の事。
天正10年 1月10日 大日本史料 備中猿掛山城荘駿河守、羽柴秀吉に頼りて、信長に降る、是日、秀吉、信長の朱印
状を請ひて、駿河守に與ふ
天正10年 1月18日 大日本史料 羽柴秀吉、播磨姫路城に茶会を催す
天正10年 1月21日 大日本史料 羽柴秀吉、宇喜多秀家の老臣岡平内等と共に、安土に抵り、信長に謁す、信長、
秀家をして、父直家の遺跡を襲がしむ
天正10年 1月是日 大日本史料 小早川隆景、羽柴秀吉の来攻せんとするを聞き、備後、備中の諸將を備後三原に
会し、之を議す、
天正10年 2月9日 大日本史料 信長、長宗我部元親の好を通ずるを容れ、之に四国の攻略を許す、更に之を停め
て、土佐及び阿波二郡を與ふ、元親、命に従はず、信長、神戸信孝をして、之を
撃たしめんとし、是日、三好康長をして、出陣せしむ【原本信長記】
天正10年 3月 伊予年表 ○仏殿城主妻鳥光家が長曾我部元親に通じたため討伐する、この頃から元親の伊予
侵攻が本格化する。
天正10年 3月15日 大日本史料 羽柴秀吉、播磨、但馬、因幡三国の兵を率ゐて、姫路を発し、備中に向ふ
天正10年 3月17日 大日本史料 羽柴秀吉、同秀勝と共に、備前児島の某城を攻む、
天正10年 3月17日 乃美家文書 ●秀吉の家臣、蜂須賀正勝と黒田孝高が連名で乃美兵部丞宗勝と嗣子乃美少輔四郎
盛勝へ書簡を出し寝返りを誘う。条件は
A・羽柴方に味方すれば望みの所領を与えるであろう。(宗勝、盛勝宛)
B・Aと同日付で盛勝のみに寝返りの具体的条件を提示。
【秀吉、毛利家臣乃美調略】 一、安芸、周防、長門の事参らせらるべく候、並びに黄金五百是又別無く候
一、児島の儀は備州に候間成らず候、
一、御親父御同心無きにおいては、それ様御一人御請け候て然るべく候、
さ候はば、右の三ケ国の内、いづれなりとも
貴所御望の所、一ケ国参らせらるべき事、
3月18日 乃美家文書 C・A・B 翌日の日付で秀吉自身の名で、宗勝と盛勝の両名に対して、当家に
忠誠を尽くせば望みのことはなんでも受入れると誘う。
天正10年 日付未記入 萩藩譜録 ●毛利輝元が二宮就辰にあて「能島内部で心付が少ないと揉めている」と知らせ
ている。
二宮太郎右衛門辰相 只今、児三右(輝元家臣児玉元良)罷り越し候、その趣
は、能島の儀 ちと替はりさうに聞こえ候
それと申すは、此方より心付うすく候ゆえ、元吉と家中の者ども腹立ちの由候、
然る所所帯の儀は申すに及ばず、一札の儀共ありありと仕り候はではと、
つねづね事々しく申し越され候、、河内越後(村上河内守吉継・越後守吉郷)
などへの儀も、此方あてがいは一円のことニ候、新屋の事今に罷り越すまじき哉と
存じ候条、
今夜より早打を遣はし、まず能島罷り渡り候事相待ち候へと申し聞かすべく候、
いかにも早飛脚はすべく候、只今その方折紙調へ、いかにも五調なる物申し付け
遣はすべく候、夜もひるも罷り越し候様に申し付くべく候、遅れ候へば相違すべく
候、心得の為に候、かしく
二太 宿
(意訳・山内譲) (児三右(児玉元良)ががやってきた。その話の内容は、能島が少しばかり心変わり
しそうだと云う情報があります。
それと云うのも、当方の心付がうすく、村上元吉と家中の者どもが腹をたてていると
云うのです。そこで見返りに与える所領は申すに及ばず、「一札の儀」もはっきり示さ
ないとまずいのではないでしょうか、と云うものであった。また村上越後守吉継・
同越後守吉郷などに与える所領も十分なものにしなければならない。そこで(能島に
使者として派遣する予定の)新屋は まだ出発していないだろうから、今夜急使を派遣
して能島に渡るのを待つように伝えよ。
天正10年 3月21日 大日本史料 羽柴秀吉、播磨の地を余田源太郎等に宛行ふ、
天正10年 4月2日 大日本史料 伊豫河野通直及び西園寺公廣、毛利輝元の請に依り、援兵を出す
【予陽河野家譜、清良記】
天正10年 4月4日 大日本史料 羽柴秀吉、備前岡山に著陣す、尋で、備中高松城清水宗治等を誘降せしむ、宗治、
応ぜず
天正10年 4月5日 瀬戸内の海賊山内 ○小早川隆景は乃美宗勝の手紙を出し、因島の村上亮康が来島に渡った旨を知ら
せ、最後の来島離反阻止の活動と思われる。【乃美家文書】
天正10年 4月7日 瀬戸内の海賊山内 ○小早川隆景は亮康の兄、吉充への書状に「両島相違の段申す事なく候」と見え
るので、来島離反がはっきりしたと思われる。【因島村上文書】
天正10年 4月7日 広島県文書館 之より先、因島村上氏、来島村上氏から織田方に誘われるが毛利方に留まる。
(第二回特別展説明) *【7日に会談始まりか】
天正10年 4月10日 村上系図証文 ●大野直政、能島村上の代理として秀吉に姫路に招かれ信長に味方するよう誘わ
れるが断るため後、村上とともに睨まれる! *4/10会談説有り
萩藩譜録村上図書 「秀吉は信長の命を受けて、能島 来島から家臣をひとりづつ、播州姫路の自陣
に密に招いた。能島村上家から大野兵庫直政が出かけた。秀吉は
将来は四国を、当座は伊予十四郡を与えることを条件に、武吉 元吉の忠節を
求め、もし武吉 元吉が承知しないなら、大野直政だけでも、自軍に味方する
よう説得した。大野兵庫は早速 武吉 元吉に報告したが、毛利方の乃美宗勝
の懸命の説得があり手切れとなった。」
天正10年 4月11日 広島県文書館 能島・来島、両村上氏、毛利方、織田方に引き分けとなる。
(第二回特別展説明) *【広島県文書館は姫路会談を11日と推定する】
天正10年 4月13日 乃美宗勝書状 ●来島は毛利・河野に手切れし織田(秀吉)方に走るが武吉側は毛利・河野方に
留まった事を謝す。(乃美から武吉への返報)
天正10年 4月14日 大日本史料 羽柴秀吉、宇喜多秀家の兵と共に備中に入り、宮路山、冠山の両城を囲む
天正10年 4月14日 小早川隆景書状 ●来島通昌が秀吉に走ったが野島は踏み留まった事を謝し、秀吉が合戦の準備を
しているから守を固めるようにと乃美を使者に伝える。(隆景→元吉)
天正10年 4月14日 萩藩閥閲録1-573
今度通昌(来嶋)不慮之御覚悟、無是非次第候、然処披引分、無二之御入魂、
更難述言語候、連々不可有忘却候、勿論来嶋披及鉾楯儀候条、聊以見放申間敷候、
此旨於偽者、可罷蒙
日本国大小神祇・八幡大菩薩・殊厳島両大明神御罰者也 仍如件
(天正十年) 卯月十四日 隆景 御判
村上掃部頭(元吉)殿
天正10年 4月17日 萩藩閥閲録1-576
追而御折紙令拝見候、来嶋表行付而、従(安芸)忠海警固衆可差出之由候哉、就夫、
(河野)通直御事、至(伊予)道前可披成御出由候哉、尤存候、随而此方一勢事、
承得其心候、隆景令相談不可有緩候間、委細不可有指行候歟、従元吉も御懇承候間
畏悦不浅候、旁御入魂不可有忘却候、必従是可申述候、猶隆景可披相達候、恐々謹言
(天正十年カ) 卯月十四日 (毛利)輝元 御判
村上大和守殿 御返報
天正10年 4月19日 和歌山藩藩中」古文書 ●秀吉は来島方の村上吉継・吉郷の両名に書簡を送り「来島村上家に対し
て数代忠節を尽くしてくたのだからこの度も行動をともにせよ」と
京塚村上文書 勧めている。通昌(通総)離反に対し反対し河野・毛利側にとどまった
ことを意味する。
天正10年 4月19日 羽柴秀吉書状 ●姫路会談に於いて武吉側が秀吉の味方に為らなかったが再考を促す書を
添えて使者国分寺を遣わす。(秀吉から武吉への書状)
原本山口県文書館 今度其嶋之儀、申段候處、両嶋内々御意趣候哉
村上図書家文書 相違之段、不及是非候、然者私之被申分者不入儀候間、
貴所御分別を以、此節御忠義肝候、於様躰者国分寺へ申渡候
恐惶謹言
羽 筑
(天正十年) 卯月十九日 羽 築 秀吉(花押)
村上大和守(武吉)殿 御宿所
(書き下し) 今度其の島の儀申し談じ候処、両島内々御意趣候はん哉、相違の段、是非に及ばず候、
然れば私の申さる分は入らざる儀に候間、貴所御分別を以て、此の節御忠義肝要に候、
様躰においては 国分寺へ申し渡し候。
(意訳・山内譲) (これまでその方の能島家とはいろいろ交渉を続けてきたが、能島・来島両家の間で考
えの相違もあったのであろうか、別々の行動をとることになってしまった事は残念なこ
とである。ただこの際、私事を捨てて分別をもって当方に忠節を尽くしてもらいたい。)
天正10年 4月19日 羽柴秀吉書状 ●羽柴秀吉書状(折り紙)
原本山口県文書館 尚以、被對公儀、可有忠節之由、被相定候上者、
村上図書家文書 私之意趣不入事候、其方次第、警固船等之儀、可申付候、
先度被相越候使者、此方へ可給候、内證之儀可申入候、以上、
其方御覚悟、此比相違之儀、御同彦次郎被申越付而、承届候、
内證之趣、国分寺具被相違候、尤無余儀候、
莬角御忠節之事ハ両嶋各別ニ可在之候条、私之意趣、
更不入儀候間、□前之通、於此方聊不可有相違候、
国分寺如被見及候、此表敵城中へわり入、かわやか城・すくも塚
両城取巻、其上小早川幸山ニ候へ供、毎日此方足軽申付、
十町十五町之内迄、雖令放火候、一人も不罷出候丞、
落居不可有程候、委細国分寺可被申入候、 恐惶謹言
羽 筑
(天正十年) 卯月十九日 秀吉(花押)
村上掃部頭(元吉)殿 御宿所
天正10年 4月19日 穗田元清書状 ●来島通昌(通総)が秀吉に走ったが野島は踏み留まった事を輝元。隆景が大変喜
んでいると伝える(穗田元清→武吉・元吉)
天正10年 上川大野系譜 ■大野直昌、宇都宮遠江守豊綱女を娶り、宇都宮領公文書を持来る。
天正10年 大野家譜上田本 ○大野直昌、宇都宮遠江守豊綱女を娶り、宇都宮領公文書を持来る。
天正10年 大洲宇都宮家譜 ○宇都宮豊綱女 章子、一条内政公北方公薨去之後、大徐城主大野山城守直昌に
再縁、天正十年壬午年。
天正10年 上川大野系譜 ■西園寺家、直之と聊か確執に及び津々喜高行、直昌、直之に加勢し執事を遣わし
て戮力す、河野通直和解して之を収む。
天正10年 大野家譜上田本 ○西園寺家、直之と聊か確執に及び津々喜高行、直昌、直之に加勢し執事を遣わし
て戮力す、河野通直和解して之を収む。
天正10年 上川大野系譜 ■大野直昌、又、毛利家へ兵を遣わす。
天正10年 大野家譜上田本 ○大野直昌、又、毛利家へ兵を遣わす。
天正10年 小早川HP ○織田信長は羽柴秀吉を総大将として中国平定の軍を起すや宇喜多直家は秀吉に
人質をだし寝返った。
天正10年 伊予中世年表 ○河野氏と西園寺氏は毛利氏の要請により中国に兵を送り、秀吉の軍と対峙した。
天正10年 4月24日 米蟲剛石氏所蔵文書 ○秀吉は備中の武将 上原元将に書簡を送り「海上の事、塩飽、能島、来島
人質を出し、城を相渡し一篇せしめ候」と偽情報を出しかく乱する。
天正10年 4月25日 大日本史料 羽柴秀吉の党宇喜多忠家、備中冠山城を陥る
天正10年 5月2日 大日本史料 羽柴秀吉、乃美元信を備中宮路山城に攻めて、是日、之を陥る
天正10年 5月2日 大日本史料 羽柴秀吉、備中鴨城の將生石中務の内応に依り、同城を攻めて、克たず
天正10年 5月7日 大日本史料 羽柴秀吉、毛利輝元の將清水宗治を備中高松城に囲む、尋で、之を水責と為す、
毛利輝元、小早川隆景、吉川元春等と同城を赴援す
天正10年 5月9日 毛利r輝元書状 ○5/7付の書状に対し「来島が伊予で狼藉を働いているとのこと、備中に於いても
陣替えして秀吉と一戦に與及ぐ覚悟なればそちらも油断するな」輝元→武吉・元吉
【萩藩閥閲録1-576】
天正10年 5月17日 大日本史料 信長、羽柴秀吉の請に依りて、親ら之を赴援せんとし、惟任光秀に先鋒を命じ、
是日、其邑に帰り、準備を為さしむ
天正10年 5月19日 大日本史料 羽柴秀吉、備中の陣中より溝江大炊允に其越中魚津城攻撃に参加せるを犒ふ
天正10年 5月19日 近江溝江文書 ○秀吉は溝江氏にたいしても「海上の儀、能島、来島、塩飽迄一篇に申付け、何も
島の城を請取り人数入れ置き候」と誇大な情報を流している。
天正10年 6月2日 日本全史 ○本能寺の変(明智光秀は織田信長を暗殺する。)
天正10年 6月2日 予陽大野軍記16 将軍、信長公逝去の事。附、伊勢守帰国の事。
天正10年 予陽大野軍記16 大野、軍評議の事。附、秀吉公勝利の事。
天正10年 6月4日 山口県史整理年表 秀吉、輝元の属城高松を囲みて備中に在り。この日織田信長殺さるの報到る。
秀吉これを秘して輝元と和し、城将清水宗治を自殺せしむ 【当代記】
天正10年 6月4日 大日本史料 羽柴秀吉、毛利輝元の属城高松を囲みて備中に在り、京都の変報至る、秀吉、
織田信長の訃を秘し、輝元と媾和す、城将清水宗治自裁す
天正10年 6月4日 小早川HP ○信長暗殺の報に接し秀吉は急ぎ毛利との和睦(講和)を備中高松城主清水宗治を
切腹させてけりをつけた。
天正10年 6月5日 大日本史料 羽柴秀吉、摂津茨木城主中川清秀に答書して、織田信長父子難を免ると称す
天正10年 6月5日 小早川HP ○信長暗殺の報を遅れて聞いた毛利勢は軍議を開き、吉川元春は秀吉追撃を主張す
るも、小早川隆景は誓紙を反古にできないと追撃せず。
天正10年 6月6日 大日本史料 羽柴秀吉、播磨姫路に還る
天正10年 6月6日 小早川HP ○毛利軍が追撃せずに引き上げるのをみるや秀吉は急ぎ京に向かう。
天正10年 6月8日 大日本史料 因幡鹿野城主亀井茲矩、羽柴秀吉に謁す、秀吉、織田信長に禀して、之に出雲
一国を許す、然るに毛利輝元と和し、出雲を以て輝元に与ふることを約せるに依
り、茲矩をして、更に他国を撰ばしむ、茲矩、琉球を請ふ、秀吉、之を許す
天正10年 6月9日 大日本史料 羽柴秀吉、播磨姫路を発す、摂津尼崎に抵る
天正10年 6月9日 大日本史料 惟任光秀、長岡藤孝、同忠興父子を誘ふ、藤孝等、肯かずして、羽柴秀吉に応ず
天正10年 6月10日 広島県文書館 毛利氏、このころまで、織田方の船に対して海上封鎖を行う
(第二回特別展説明)
天正10年 6月11日 大日本史料 惟任光秀、筒井順慶を誘ふ、順慶之と絶つ、使を遣して、羽柴秀吉に応ず
天正10年 6月12日 大日本史料 羽柴秀吉、池田恒興等と議し、高山長房、中川清秀を先鋒とし、使を大坂に
遣して、神戸信孝を迎ふ、富田に陣す
天正10年 6月13日 大日本史料 神戸信孝、羽柴秀吉等、惟任光秀と山城山崎に戦ひ、大に之を破る、光秀走り
て、勝龍寺城に入る、逃れ出でゝ途に土民に殺さる
天正10年 6月13日 小早川HP ○京、山崎の合戦で秀吉は明智光秀を破り、天下人へ登りつめていくこととなる
天正10年 6月14日 大日本史料 羽柴秀吉、近江に入り、三井寺に陣す、明智秀満、安土城を焼きて、坂本城に
入る、秀吉、堀秀政をして之を攻めしむ、秀満、光秀の妻孥を手刄し、火を放ちて自殺す
天正10年 6月14日 大日本史料 山城槇島城主井戸良弘、惟任光秀に与す、城を筒井順慶に致して去る、順慶、
兵を率ゐて醍醐に陣し、神戸信孝、羽柴秀吉等の軍に会す
天正10年 6月16日 大日本史料 神戸信孝、羽柴秀吉等、近江安土に抵る、秀吉、長浜に入り、山本城主阿閉貞大
を斬る、惟住長秀も亦佐和山を復す
天正10年 6月17日 大日本史料 神戸信孝、羽柴秀吉等、惟任光秀の首級を得、之を本能寺に梟す、光秀の臣斎藤
利三を六条河原に斬り、また其首級を本能寺に梟す、光秀、利三等の屍を粟田口に磔す
天正10年 6月19日 大日本史料 羽柴秀吉、美濃今尾城主高木貞久に書を与へて、惟任光秀の処分を報じ、明日、
美濃に入らんとするを告ぐ
天正10年 6月19日 大日本史料 徳川家康、兵を率ゐて、尾張鳴海に陣し、先鋒酒井忠次、津島に抵る、羽柴秀吉
の使者来りて、上方の平定を報ず、家康、兵を収めて、遠江浜松に帰る、
天正10年 6月23日 大日本史料 神戸信孝、美濃立政寺に禁制を掲ぐ、羽柴秀吉も亦禁制を授く、
天正10年 6月25日 大日本史料 神戸信孝、羽柴秀吉等、美濃、尾張に入り、惟任光秀の残党を平ぐ、秀吉、書を
高田長左衛門に与へて、濃尾の形勢を報じ、近く上洛せんとするを告ぐ
天正10年 6月? 乃美文書 乃美宗勝と村上武満が道後、すなわち河野氏の本拠で残した覚書にも通直が
符(府)中表へ出陣する旨の書簡
(新熊本市史) 覚 於道後御相談之辻
一、至符中表、通直御出張之事
付、平遠・黒河馳走之事
付、正岡衆大略被調事
一、今度警固数難出事
付、見合不及一戦之由、武吉被申事
一、村河之申事、重而矢野被上進事
付、七郎進退言上之事
付、所帯之事
一、能美左馬允事
付、村河被申事
一、三嶋左太被申事
付、甘崎半之事
以上 宗勝
武満
【TKUBO解釈】 宗勝と武満が道後へと向かい、そこで村上武吉、村上吉継やその他有力な伊予の
武将との調整がなされたものと思われます。
ここでは平遠(浮穴郡の有力国人平岡遠江守通倚)、黒河(周布郡の有力国人
黒川氏)が協力すること、正岡衆に対する交渉が 整ったことなどが記されて
おり、河野方に残留した村上吉継、能美氏らについても記されますが、重見氏の
動静は見えません。
天正10年 6月27日 大日本史料 伊予来島城主村上通昌、毛利輝元に叛き、羽柴秀吉に依りて、織田信長に属す、
能島城主村上武吉、元吉父子、湯月城主河野通直と謀り、 輝元の援を乞ひ、数
通昌を攻む、忽那島大浦の鼻に戦ふ、通昌敗れ、京都に走る
【村上文書、乃美文書、萩藩閥閲録等】
天正10年 6月27日 大日本史料 柴田勝家、羽柴秀吉、惟住長秀、池田恒興等、尾張清洲城に会し、故織田信長の
継嗣を定め、遺領を処分す
天正10年 6月28日 大日本史料 羽柴秀吉、尾張清洲を発し、近江長浜に帰らんとす、美濃今尾城主高木貞久の
子貞利に船の用意を為さしむ
天正10年 7月 浦文書 ○小早川隆景は家臣乃美宗勝に書間を送り「来島での二度の合戦の捷利は本望で
ある」と述べている。
天正10年 7月3日 大日本史料 神戸信孝、本能寺屋敷を以て、故織田信長の墓所と為し、本能寺寺僧をして、
是地に還住せしむ、羽柴秀吉も亦之を命ず
天正10年 7月8日 大日本史料 羽柴秀吉、山城の指出を徴す、
天正10年 7月11日 大日本史料 羽柴秀吉、京都に入り、六条本圀寺に陣す、公家衆以下之を訪ふ
天正10年 7月11日 大日本史料 羽柴秀吉、誓書を長岡藤孝、同忠興父子に与ふ、忠興をして、所領を安堵せしめ、
更に惟任光秀の采地の丹後にあるものを加へ、其三分一を以て、家臣松井康之に
給せしむ
天正10年 7月11日 大日本史料 羽柴秀吉、備中高松を花房正成に、河内丹南郡の地を伊東祐兵に与ふ
天正10年 7月11日 大日本史料 筒井順慶、小泉四郎を質として、羽柴秀吉に致す
天正10年 7月11日 大日本史料 鍋島信生、直茂、使を遣して、好を羽柴秀吉に通ず、秀吉、之に答へて、
上方の形勢を報ず
天正10年 7月13日 大日本史料 羽柴秀吉、桑原次右衛門をして、京都の公事を聴かしむ
天正10年 7月13日 大日本史料 羽柴秀吉、京都を発し、播磨姫路に帰る、
天正10年 7月13日 山口県史整理年表 毛利輝元厳島社に玖珂郡本郷南方の地を寄進し武運を祈る 【厳島文書】
天正10年 7月17日 大日本史料 毛利輝元、使を羽柴秀吉に遣して、故織田信長の薨去を弔す、秀吉、之に答へ、
山崎城の築営に依りて、葬儀の延引せるを報ず
天正10年 7月18日 大日本史料 吉川元春、太刀を羽柴秀吉に贈り、山崎の戦捷を賀す、秀吉、之に答書す
天正10年 7月18日 大日本史料 毛利輝元、羽柴秀吉の将蜂須賀正勝、及び其子家政に、物を贈りて、山崎の戦捷を
賀す、吉川元春、小早川隆景も、亦家政に物を贈りて、之を賀す
天正10年 7月21日 大日本史料 羽柴秀吉、山城大山崎の条規を定む
天正10年 7月24日 大日本史料 羽柴秀吉、丹波亀山に之く
天正10年 8月4日 大日本史料 毛利輝元の将吉川元春、羽柴秀吉に好を通ぜんと欲す、惟住長秀、之を促す
天正10年 8月7日 大日本史料 羽柴秀吉、京都の奉行桑原次右衛門を罷め、浅野長吉及び杉原家次を以て、
之に替ふ、
天正10年 8月11日 大日本史料 羽柴秀吉、惟住長秀に答へて、織田秀信を安土に迎へんことを促す、
天正10年 8月23日 山口県史整理年表 毛利輝元、児玉元時をして、父就時の所領吉敷郡陶保・陶市その他を
安堵せしむ 【閥閲録】
天正10年 8月28日 大日本史料 羽柴秀吉、前播磨淡河城主有馬則頼に、美嚢郡の地を、前但馬出石城主山名堯煕
に、播磨加古郡の地を与ふ
天正10年 8月28日 大日本史料 長宗我部元親、土佐岡豊を発し、阿波を侵す、三好咲巌の一族十河存保と中富川に
戦ひて、大に之を破り、進んで勝瑞城を囲む【昔阿波物語】
天正10年 8月28日 大日本史料 長宗我部元親、次子香川五郎次郎をして、東讃岐を略せしむ【南海治乱記】
天正10年 9月3日 大日本史料 長宗我部元親、阿波一宮城主一宮成相を夷山城に殺す、細川信良、昭元、書を元親
の弟香宗我部親泰に与へて之を賀す【香宗我部家証文】
天正10年 9月5日 大日本史料 羽柴秀吉、淡路荘田城主船越景直をして、其所領を安堵せしむ
天正10年 9月8日 大日本史料 長岡忠興、丹後弓木城主一色義有を宮津城に誘殺す、弓木城を取る
天正10年 9月9日 大日本史料 羽柴秀吉、丹波士川勝秀氏に何鹿郡の地を与ふ
天正10年 9月13日 大日本史料 徳川家康、書を下野宇都宮城主宇都宮国綱に遺り、羽柴秀吉、惟住長秀、柴田勝家
等の来援するを以て、北条氏政の兵を掃蕩せんこと近きにありと称し、氏政と
連和する事勿らしむ
天正10年 9月14日 大日本史料 羽柴秀吉に命じて、御料所丹波山国荘及び細川等に於ける違乱を止めしめ給ふ
天正10年 9月16日 大日本史料 長宗我部元親、阿波新開牛岐城主新開道善を、丈六寺に誘殺す【三好記】
天正10年 9月18日 大日本史料 羽柴秀吉、惟住長秀等、山城吉田に会し、事を議す、また京都に会す
天正10年 9月21日 大日本史料 長宗我部元親、阿波勝瑞城を囲む、守将十河存保、城を致して、讃岐虎丸城に
去る、元親、岩倉城を収む【元親一代記】
天正10年 9月23日 愛媛県編年史5 ○毛利輝元、村上武吉・元吉に秋穂庄一千石、小早川隆景は賀川・伊保庄五百石
を与える。【閥閲録】
天正10年 9月25日 大日本史料 羽柴秀吉、播磨の地を福島正則、山内一豊に加増す
天正10年 9月26日 大日本史料 筒井順慶、山城山崎に羽柴秀吉を訪ふ
天正10年 9月29日 大日本史料 吉川元春の部将伯耆高野宮城主山田方宗、羽衣石城主南条元続の家臣を誘ひ、其
城を攻略す、元続、逃れて京都に奔る、元春、書を方宗に遺り、之を褒す、岩倉
城主小鴨元清も亦京都に奔る、
天正10年 10月3日 大日本史料 羽柴秀吉を従五位下に叙し、左近衛権少将に任ず
天正10年 10月6日 大日本史料 柴田勝家、書を堀秀政に与へて、羽柴秀吉の清洲の誓約に違背するを責め、
更に山城山崎に築城せるを難ず
天正10年 10月9日 大日本史料 羽柴秀吉、田路基久に播磨宍粟郡の地を与ふ、生駒孫七、伊藤掃部、浅野長吉、
安積将監等にも、亦山城、丹波等に於て、采地を給す
天正10年 10月13日 大日本史料 羽柴秀吉、播磨より上洛す、秀吉の養子秀勝も亦、丹波より入京す
天正10年 伊予年表 ○来島通総と毛利氏は越智郡大島及び風早郡忽那島で戦い通総は京都に敗走した、
後秀吉の口ぞえで伊予に復帰する。
天正10年 10月14日 大日本史料 長宗我部元親の将香宗我部親泰、書を紀伊紀湊の雑賀衆に与へて、警固衆の来援
を謝し、併せて其帰帆を報ず【森関右衛門蔵古文書】
天正10年 10月 大日本史料 長宗我部元親、讃岐に入り、十河城を囲み、兵を留めて国に帰る【元親一代記】
天正10年 10月15日 大日本史料 羽柴秀吉、養子秀勝と贈太政大臣従一位織田信長の葬儀を、山城大徳寺に行ふ
天正10年 10月15日 大日本史料 羽柴秀吉、山城山崎城に帰る、養子秀勝も亦丹波亀山城に還る
天正10年 10月16日 大日本史料 本願寺光佐、光寿父子、羽柴秀吉、惟住長秀、堀秀政に物を贈る
天正10年 10月18日 大日本史料 神戸信孝、書を羽柴秀吉に与へて、柴田勝家と修睦せしむ、秀吉、信孝に答書し
て、信孝の己を疎斥するの非理を陳弁す
天正10年 10月19日 大日本史料 神祇大副吉田兼和、山城山崎城に羽柴秀吉を訪ふ
天正10年 10月19日 大日本史料 羽柴秀吉、因幡鳥取城守将宮部継潤に命じて、軍備を厳にし、且つ鹿野城に粮米
を入れしむ、鹿野城主亀井茲矩にも亦命じて、軍備を厳にせしむ
天正10年 10月21日 大日本史料 羽柴秀吉、書を播磨姫路城留守衆に与へて、京畿の形勢を報ず
天正10年 10月21日 大日本史料 足利義昭、織田信長の薨去に乗じ、毛利輝元に頼りて、京都に復帰せんとす、果
さず、輝元及び羽柴秀吉の部将黒田孝高、蜂須賀正勝をして、之を秀吉に説かし
む、秀吉諾す、義昭、孝高に物を贈りて、秀吉説得の労に酬ゆ
天正10年 10月22日 大日本史料 羽柴秀吉、本願寺光佐、光寿父子に答へて、物を贈れるを謝し、併せて京畿の状
況を報じ、又紀伊根来へ出兵のことを云ふ
天正10年 10月23日 大日本史料 羽柴秀吉、山城大徳寺領を安堵す
天正10年 10月23日 大日本史料 筒井順慶、羽柴秀吉に山城山崎に会す
天正10年 10月25日 小早川隆景書状 ○来島離反に付き、防州賀川・伊保庄の内五百石を与えると書を添えて乃美に
伝えさせる。(隆景→武吉・元吉)
天正10年 10月28日 大日本史料 羽柴秀吉、惟住長秀、池田恒興等と京都本圀寺に会す
天正10年 11月1日 大日本史料 神戸信孝、毛利輝元と好を通ず、誓書を調へて、輝元の将吉川元春に送る、
天正10年 11月2日 大日本史料 神戸信孝、柴田勝家、瀧川一益等、羽柴秀吉を除かんと図る、然れども越前雪深
きを以て兵を出すに便ならず前田利家等を遣して姑く之と和せんとす
利家等、山城山崎城に抵り、秀吉と和を講ず、秀吉、之を諾す
天正10年 11月3日 大日本史料 羽柴秀吉、京都より山崎に帰る
天正10年 11月5日 大日本史料 筒井順慶、羽柴秀吉の為に、兵を近江に出す
天正10年 11月10日 大日本史料 羽柴秀吉、惟住長秀と京都に会す
天正10年 11月10日 大日本史料 惟住長秀、三子高吉を羽柴秀吉の養子となす
天正10年 11月11日 愛媛県編年史5 ○毛利輝元、村上武吉に書を送り、来嶋通総の帰国を許さぬ旨を伝える。
【閥閲録】
天正10年 11月12日 大日本史料 長岡藤孝、羽柴秀吉を山城山崎に訪ふ、丹後に帰る
天正10年 11月12日 大日本史料 羽柴秀吉の臣堀尾吉直、吉晴、丹波柏原別宮八幡宮に、氷上郡の地を寄す
天正10年 11月15日 愛媛県編年史5 ○河野通直、村上武吉に書を送り、来嶋通総に対して寛大な処置を望む。
【閥閲録】
天正10年 12月2日 愛媛県編年史5 ○河野通直、村上元吉に伊豫国内に異状がないことを告げ、武吉と談合して来嶋
通総に対し善処を求む。【閥閲録】
天正10年 12月4日 大日本史料 羽柴秀吉、惟住長秀、復京都に会して、事を議す、長秀に供御及び公家衆所領安堵
のことを命じ給ふ、秀吉、長秀、命を奉じて、連署の証状を上る
天正10年 12月9日 大日本史料 羽柴秀吉、兵を率ゐて、近江に入る
天正10年 12月12日 大日本史料 細川信良、昭元、京都の騒乱を避けて、阿波に之き、長宗我部元親に頼る、京都に
還る、書を元親の弟香宗我部親泰に与へて、其懇遇を謝す【香宗我部家伝証文】
天正10年 12月14日 大日本史料 羽柴秀吉、小西行長に書を与へて、材木運送の遅延を叱責す、
天正10年 12月17日 大日本史料 羽柴秀吉、大垣城に入り、西美濃を徇ふ、今尾城主高木貞久父子に書を遺りて、
其来降を要む
天正10年 12月18日 愛媛県編年史5 ○毛利輝元、村上武吉に来嶋の寝返りに伴い八代島来嶋分、安芸江田島を
与える。【閥閲録】
今度来嶋不慮之逆意候之、處、武吉以無ニ之御覚悟、御入魂是本望
之至候、然間、屋代島之内来島分、江田島之、事進置候、全知行簡要候、
猶、(小早川)隆景可被申候、 恐惶謹言
十二月十八日 (毛利)輝元 (花押)
村上大和守(武吉)殿 御宿所
天正10年 12月20日 大日本史料 毛利輝元の将吉川元春、家を長子元長に譲る
天正10年 12月20日 大日本史料 羽柴秀吉、近江長浜城主柴田勝豊を誘降し、進んで美濃に入り、岐阜城に神戸信
孝を囲む、信孝、織田秀信を出し、質を添へて和を請ふ、秀吉、之を納る、兵を収む
天正10年 12月24日 大日本史料 羽柴秀吉、物を織田秀信に贈りて、歳暮を賀す
天正10年 12月26日 大日本史料 羽柴秀吉、惟住長秀、池田恒興等、書を神戸信孝の臣伊勢神戸城主小島民部少輔
に与へて信孝と北畠信雄との和融を報じ瀧川一益の民部少輔に命じて、築かしむる
ところの砦を撤せしむ
天正10年 12月27日 大日本史料 羽柴秀吉、来春正月再び北伊勢及び岐阜に兵を動さんとし、諸将に命じて、
予め之に備へしむ
天正10年 大日本史料 羽柴秀吉、近江朝妻城主新庄直頼を山城山崎城に封じ、三万石を知行せしむ
天正10年 毛利伊豆文書 ○秀吉・輝元和議成立。毛利家より人質、福原元俊、吉川元春より三男広家、
小早川隆景より藤四郎元綱を出す。【閥閲録】