私は、かねてより広言していますが、卒業時の成績はワースト3でした。
学生時代だって、優秀なんてことはなく、周りの友達、人柄の良い、手先も器用で勉強もできる友達達に助けられながら卒業できた、と言ってはばからない学生でした。
不器用な部類に入る学生で、実習とかで宿題が出ると、それはそれは苦労していたりして、見かねて友達が手伝ってくれる、助けてくれる、と言うのが普通でした。
卒業試験終了直後、学内の掲示板に以下の3名の者、病院長室に出頭のこと、と貼り出され、友達たち皆がいよいよゲンが危ない、卒業させてもらえないんじゃないか、と凄く心配されました。
そうして、おそるおそる病院長室に行くと、病院長にこんこんとお説教をされ、お前たち一応卒業試験の基準は超えることができているから卒業はさせてやる、だから必死になって勉強して国試に絶対に受かってくれよ、頼むから母校の名誉を汚さないでくれよ、と懇願されました。
そうして、何とかかんとか卒業できて、国試も自己採点してみたらどうやら受かってるだろう、と言う感じで歯科医師になれた、と言うのが本当のところです。
嘘ではないです、本当の話です。
自己採点で何とか大丈夫だろうと言うことで、就職探して学校の求人案内を見に行った時にも、運良くか悪くか分かりませんが、病院長に出くわしてしまって、その時にも、松元頼むから母校の名誉汚さないで一人前の歯医者になってくれよ、と強く念を押されてしまいました。
そんな状態でスタートしたのが、嘘偽りのない本当の話です。
その後、本当に運が良いとしか言えないのですが、日本橋のお師匠様に拾われ、そこで修行積んで、どう言う訳か総義歯の免許皆伝をいただいてしまいました。
ハッキリ言って、最初に書いてるような成績で卒業した人間です。
総義歯の神様、名人として名高かったお師匠様に免許皆伝をいただいても、私自身が自分を信じることができませんでした。
お荷物、面倒見られるがわだった人物が、そんな凄い方から口伝の免許をいただける、とはどうしても思えなかったんです。
そして、武者修行宜しく外の医療法人で働いて更に腕を磨こう、それから開業しよう、となんとなく思っていました。
ところが、外に出て初めて、お師匠様は慧眼だったと、やはり凄い方だった、と思い知らされたのです。
お師匠様から受け取った見る眼、実力は、確かなモノだったんです。
自分自身では、お師匠様の庇護の元にいる時には、そこそこのことができる、できている、と言う感覚はあって、自分は同世代の中では総義歯に懸けてはそこそこの実力だ、と思えていました。
でも、日本橋の環境下、での話です。
外に出てたら、やはり凄く苦労をしました。
何故できないんだろう、何が駄目なんだろう、としばらく悩まされました。
その時に気が付いたんです。
環境が違う、と。
そうか、あの環境だったから、そこそこできてきたんだ、と今更の如く天啓に打たれたように悟りました。
そこから、又修行でした。
私が見えているモノ、基準を満たすように仕事をして行こう、と思い定めました。
そうしたら、キチンと成果が出て来ました。
やはり、お師匠様にいただいた実力は本物だったんだ、と私はそう言う試練、経験を通じて理解することができました。
そして、自分が免許皆伝いただいた実力者である、と言う自信、自負を取り戻すことができ、そこから、私も信じて免許を授けて下さったお師匠様の名に恥じない仕事を残して行かなければ、と誓ったんです。
不器用な人間でも、良きお師匠様に付き、修行の道から逃げなければ、真っ直ぐに進めば、後から実力は備わって来る、と私は確信し、この道を極めよう、と決めていました。
しかし、その後新たなる師匠、歯周病、インプラント、外科手術の天才、今間司先生に出会い、先生に直談判して、先生の元で修行し続ければ、真似事できるようになりますか?とお聴きしたら、オウできるよ、やるか?と先生は言って下さって、そこから、私は少しずつ道を変えて行ってしまいました。
更には、今間先生亡き後、KIRG創始者添島義和先生にご縁をいただき末弟に加えていただけ、加えて歯周病治療の王道、本道を日本に伝えられた船越先生の研修会にも参加するようになりました。
そして、そこからAAPアメリカ歯周病学会にも行くようになって、現在私はしている仕事の大元であるサンフランシスコの恩師ラム先生へと繋がって行くのです。
とても不思議で仕方がない道でした。
スティーブジョブズではありませんが、その時その時に一所懸命にしていると、ふと振り返って見た時にそれぞれの点と点が繋がって一本の線が引かれているようにしか見えない、のです。
何故かと言えば、どんなにインプラント、歯周病、外科治療、低侵襲外科にはまり込んでも、一番最初に厳しく仕込んでいただいた総義歯の実力が私を支えてくれていることが、私には凄く良く分かるからです。
全体を診る眼、バランス、顔の感じ、首から上の感じ、上半身の状態、そして立っている時の状態、それを私は癖のように必ず診てしまいます。
それは、お師匠様に付けていただいた、本当に価値のある素晴らしい良い習慣、癖です。
更には、お師匠様が付けて下さった良い習慣、外科医の心掛け”鬼手仏心”、やるべき時には一気呵成に、無理無駄ムラなく、しかし慎重に限りなく優しくする、と言うのも、今に繋がって凄く生きているのです。
傍から見ていると、私のことをスーパーDRで凄い方だ、と信じてる方がおられるようで、色んなことできてる、と見られてしまうこともあるようですが、全く違います。
一番最初に書いているように、ワースト3からスタートした人間です。
私自身の感覚では、全部一つの道、その時その時に一所懸命に進んで行って、いつの間にかここに来てしまった、と言うのが素直な、正直な心なんです。
不器用で、一つ一つ進むしかなかったカメです。
しかし、例えカメであったとしても、進み続ければ、止まることをしなければ、いつの間にかうさぎさん達と勝負できるところまで来ている、そう私は思っています。
生意気ですが、今の仕事のレベルは、世界のトップと覇を競う感じでやっている、と思います。
それは自分自身で、海外の学会に出続けて来て、生で見て、しかもPRDボストン大会2004、2007と2回連続で100倍なんてもんじゃない競争率勝ち抜いて発表させていただけたので言えることです。
でも、相変わらず私は不器用な人間である、と言う自覚だけは失っていません。
進み続けて来たからこそこ、こまで来れた人物ですから、歩みを止めたら直ぐに置いて行かれることは百も承知しています。
才能、天分では、お恥ずかしいですが、同級生の下3番以内ですから。
そして、だからこそと言うのですが、私ができたんだから殆どのやる気のある真面目な先生方ならできる、できる筈だ、と明言するんです。
学生時代から特待生で、卒業時にも表彰されたような人間では全くないです。
優秀な人があなたにもできる、と言ってもそうそう信じれる人はいないでしょう。
ウサインボルトが、あなたも100m10秒切れる、と言って信じられる人は才能ある人です。
私は胸を張って言い切ります、私はワースト3でした、そんな私ができることなんだから、普通にできるようになれるのが本当だ、と。
そして今、私は低侵襲外科を自分の本道として、お師匠様、添島先生、船越先生、ラム先生と一つに連綿と続く道を進み、自分の持てる力で何処まで先に行けるのか、進められるのかに、メスを握れる限り頑張り続けよう、と決めています。
腫らさない、痛がらせない、辛い思いをさせない、愛護的治療をとことん追求し続ける、それが私の道です。
この方の様に、これだけの手術を1日1回限りの手術でしても、翌日翌々日でも全く何ともない感じに仕上げる、人が見たら1日で1回でとは信じていただけないだろう仕事をもっともっとハイレベルにするように、日々修練に励み続けます。
そして、いつの日にか才能ある有能な若き有志にバントを渡し、自分の使命を果たします。
いつか年老いてメスを置く時が来たら、今度はそこから再スタートで、お師匠様から託されたもう一つの道と言うか、元々の道、総義歯極める、いただいた課題を解決することを終生の使命として、命の終わる日まで追究し続けたい、と思っております。