この前書いたことの続きになります。
もう直ぐ死ぬから、と言う台詞で、今さら色々と治療をすることは、セルフネグレクトになるんですよ、と言う話です。
私自身も58歳になり、悲しいことに同級生の何人かは旅立ち、ああそう言う年齢になって来たんだな、と感じさせられています。
患者さんを拝見してても、父もそうでしたが、高齢者になって、大きな病気とかをしてしまうと、それが引き金になり、それまでとは打って変わって、人生を締め括る、もう終わりだから楽にしていたい、となられる方が殆どです。
それが、もう直ぐ死ぬから、の言葉に如実に現れてるんだ、と理解できます。
死に支度、終活になって、もう頑張ることはしたくない、と言う気持ちになるんですね。
確かに、高齢者になり、すぐ死ぬまではなくても、その延長で自分の死を意識させられる大きな出来事、特にトラブル関係では、鬱な気持ちにさせられるのは致し方のないこと、なのでしょう。
何とも言えない喪失感、無力感。
生きられていたことが当たり前だったのが、突然そうではない、と思い知らされる現実は、確かに重いものだ、と思います。
多分、道半端で亡くなった同級生も、まだまだと思いながらも、駄目だったかで旅立って逝ったのでしょう。
思えば、恩師故今間司先生は、20年以上前に41歳の若さで逝かれました。
肝臓癌でした。
ご存命でも、私より5つ年上でしたから63歳です。
私は、今間先生の晩年4年くらいを濃密にお付き合いいただきました。
今でもあの凄さ、仕事ぶり、男前ぶり、トップリーダーとしての素晴らしさを、まざまざと思い出します。
人の生死を考える時、必ず今間先生のことを考えています。
それと同時に、高齢者医療の現場にも深く関わらせていただいて来たので、老いて行く時の死に方、案外なかなか直ぐには死ねない、最初の台詞、もう直ぐ死ぬから、みたいにはいかない現実も沢山見させられました。
お口の中半分以上にまで盛り上がってしまった肉腫がありながら、私が診療に通っていた3年以上もご存命であられたお婆ちゃん。
勿論、末期癌です。
でも、高齢者のためか、進行もせず生きておられました。
こんなこと言っては叱られると思いますが、人はなかなか死なないものなんだ、と教えられました。
こう言うような経験をさせていただいて、生死は自分の思うようにはならないことなんだ、と強く実感させられました。
死にたくなくても若くして癌で倒れた同級生、今間先生。
末期癌抱えながら生きているお婆ちゃん。
命は天にある、としか考えようがない、人には誰にでも天命があるのです。
天命があるまでは生きる。
ナチスの収容所に入れられて、過酷過ぎる運命を生き、助かって、戦後の思想界に大きな足跡を残したフランクル博士は、それでも人生にイエスと言う、と残されています。
我々がどんな辛い人生の時を生きていても、フランクル博士に比べたら、と私はいつも思い起こします。
フランクル博士の考え、何故生まれて来たのかではなく、この人生で何を為せるのか、を問われているのだ、と。
そう考えた時、セルフネグレクトに陥るのは、一時的な鬱病であると受け止めて、嵐が過ぎるのを落ち着くまで待って、この先何を為せるのか、と考え直して欲しいのです。
その真摯な姿は、あなたが逝く姿を見続ける家族、友達、仕事仲間、色々な人々を必ず勇気付けるに違いない、と。
自分が逝く時に、先に逝ってて迎えに来てくれる、と人によっては安心させられることもあるでしょう。
セルフネグレクトして、そのままでいる姿は、見せられる周りの方々にも辛いのかも知れない、と少しでも良いから思って欲しいのです。
あなたは死んで終わり、と思っているかも知れませんが、あなたの姿は周りの方々の胸の中に、あなたが逝った後もいるのです。
それこそが、フランクル博士の為せること、と言われたことなのではないでしょうか。
今生きている命を、自分の身体を大事に、大切に扱って欲しい。
きっとその姿が、残される人々の明るい灯火になる、と思います。
アンチエイジングに血道を上げて行く、ことは提案してません。
そうではなく、ウェルエイジング、ウェルエンディングの提案です。
大変失礼で生意気なことを書きますが、医科は最期の最後の時、身体の負担を強いてまで延命すべきではない、と私は思っています。
でも、辛いのを抑えること、はお願いします。
そして、その時に我々歯科の力をほんの少しでも良いから思い出して欲しいです。
例え、命はあと少ししかなくても、人は生きていれば食べたいものなんです。
食べたい、好きなものを好きなように、食感を味わいたい、と思っているかも知れないのです。
そして、その願いを我々は叶えて差し上げられるかも知れません。
それを、私は提案したいのです。
亡くなる2日前に好きなお寿司を5皿も召し上がって、亡くなる前日にはカレーを食べて、旅立たれたお婆ちゃんのことを、残されたご家族の方はとても嬉しそうに語られました。
私への心からの感謝の言葉をかけてくださって、あの時に決断してインプラントして良かった、と言ってくださいました。
亡くなられることは悲しいけれど、でも、こう言う最期の姿が、ご家族の心に灯火として残るのです。
そう言うことを知って、セルフネグレクトに取り憑かれたままで終わらないで欲しい。
それが、私の心からのお願いです。
もう直ぐ死ぬから、と言う台詞で、今さら色々と治療をすることは、セルフネグレクトになるんですよ、と言う話です。
私自身も58歳になり、悲しいことに同級生の何人かは旅立ち、ああそう言う年齢になって来たんだな、と感じさせられています。
患者さんを拝見してても、父もそうでしたが、高齢者になって、大きな病気とかをしてしまうと、それが引き金になり、それまでとは打って変わって、人生を締め括る、もう終わりだから楽にしていたい、となられる方が殆どです。
それが、もう直ぐ死ぬから、の言葉に如実に現れてるんだ、と理解できます。
死に支度、終活になって、もう頑張ることはしたくない、と言う気持ちになるんですね。
確かに、高齢者になり、すぐ死ぬまではなくても、その延長で自分の死を意識させられる大きな出来事、特にトラブル関係では、鬱な気持ちにさせられるのは致し方のないこと、なのでしょう。
何とも言えない喪失感、無力感。
生きられていたことが当たり前だったのが、突然そうではない、と思い知らされる現実は、確かに重いものだ、と思います。
多分、道半端で亡くなった同級生も、まだまだと思いながらも、駄目だったかで旅立って逝ったのでしょう。
思えば、恩師故今間司先生は、20年以上前に41歳の若さで逝かれました。
肝臓癌でした。
ご存命でも、私より5つ年上でしたから63歳です。
私は、今間先生の晩年4年くらいを濃密にお付き合いいただきました。
今でもあの凄さ、仕事ぶり、男前ぶり、トップリーダーとしての素晴らしさを、まざまざと思い出します。
人の生死を考える時、必ず今間先生のことを考えています。
それと同時に、高齢者医療の現場にも深く関わらせていただいて来たので、老いて行く時の死に方、案外なかなか直ぐには死ねない、最初の台詞、もう直ぐ死ぬから、みたいにはいかない現実も沢山見させられました。
お口の中半分以上にまで盛り上がってしまった肉腫がありながら、私が診療に通っていた3年以上もご存命であられたお婆ちゃん。
勿論、末期癌です。
でも、高齢者のためか、進行もせず生きておられました。
こんなこと言っては叱られると思いますが、人はなかなか死なないものなんだ、と教えられました。
こう言うような経験をさせていただいて、生死は自分の思うようにはならないことなんだ、と強く実感させられました。
死にたくなくても若くして癌で倒れた同級生、今間先生。
末期癌抱えながら生きているお婆ちゃん。
命は天にある、としか考えようがない、人には誰にでも天命があるのです。
天命があるまでは生きる。
ナチスの収容所に入れられて、過酷過ぎる運命を生き、助かって、戦後の思想界に大きな足跡を残したフランクル博士は、それでも人生にイエスと言う、と残されています。
我々がどんな辛い人生の時を生きていても、フランクル博士に比べたら、と私はいつも思い起こします。
フランクル博士の考え、何故生まれて来たのかではなく、この人生で何を為せるのか、を問われているのだ、と。
そう考えた時、セルフネグレクトに陥るのは、一時的な鬱病であると受け止めて、嵐が過ぎるのを落ち着くまで待って、この先何を為せるのか、と考え直して欲しいのです。
その真摯な姿は、あなたが逝く姿を見続ける家族、友達、仕事仲間、色々な人々を必ず勇気付けるに違いない、と。
自分が逝く時に、先に逝ってて迎えに来てくれる、と人によっては安心させられることもあるでしょう。
セルフネグレクトして、そのままでいる姿は、見せられる周りの方々にも辛いのかも知れない、と少しでも良いから思って欲しいのです。
あなたは死んで終わり、と思っているかも知れませんが、あなたの姿は周りの方々の胸の中に、あなたが逝った後もいるのです。
それこそが、フランクル博士の為せること、と言われたことなのではないでしょうか。
今生きている命を、自分の身体を大事に、大切に扱って欲しい。
きっとその姿が、残される人々の明るい灯火になる、と思います。
アンチエイジングに血道を上げて行く、ことは提案してません。
そうではなく、ウェルエイジング、ウェルエンディングの提案です。
大変失礼で生意気なことを書きますが、医科は最期の最後の時、身体の負担を強いてまで延命すべきではない、と私は思っています。
でも、辛いのを抑えること、はお願いします。
そして、その時に我々歯科の力をほんの少しでも良いから思い出して欲しいです。
例え、命はあと少ししかなくても、人は生きていれば食べたいものなんです。
食べたい、好きなものを好きなように、食感を味わいたい、と思っているかも知れないのです。
そして、その願いを我々は叶えて差し上げられるかも知れません。
それを、私は提案したいのです。
亡くなる2日前に好きなお寿司を5皿も召し上がって、亡くなる前日にはカレーを食べて、旅立たれたお婆ちゃんのことを、残されたご家族の方はとても嬉しそうに語られました。
私への心からの感謝の言葉をかけてくださって、あの時に決断してインプラントして良かった、と言ってくださいました。
亡くなられることは悲しいけれど、でも、こう言う最期の姿が、ご家族の心に灯火として残るのです。
そう言うことを知って、セルフネグレクトに取り憑かれたままで終わらないで欲しい。
それが、私の心からのお願いです。