半透明記録

もやもや日記

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『アイヌ神謡集』

2007年05月19日 | 読書日記ー日本
知里幸恵編訳(岩波文庫)


《内容》
「銀の滴降る降るまわりに、金の滴降る降るまわりに」―――詩才を惜しまれながらわずか19歳で世を去った知里幸恵。このアイヌの一少女が、アイヌ民族のあいだで口伝えに謡い継がれてきたユーカラの中から神謡13篇を選び、ローマ字で音を起し、それに平易で洗練された日本語訳を付して編んだのが本書である。

《この一文》
”私は、もう年老い、衰え弱ったので、
 天国へ行こうと思っていたのだけれども、
 私が守護している人間の国に飢饉があって
 人間たちが餓死しようとしているのに
 構わずに行く事が出来ないので、
 これまで居たのだけれども、今はもう
 なんの気がかりも無いから、最も強い者
 若い勇者を私のあとにおき人間の世を
 守護させて、今天国へ行く所なのだ.

 と、国の守護神なる翁神(梟)が
 物語って天国へ行きました.と.
   ―――「梟の神が自ら歌った謡」  ”




自分を取り巻く空間や時間のすべてを、そんなものがあることにも気付かなかったようなごく幼かった頃の記憶がどっと噴き出してきました。新しい靴を履くときは、外へ出る前に便所の神さまのところへ行かなければならない(つまり靴を履いたまま用を足す)とか、「利口になれますように」と連れられるままに弘法大師さまを祀った小さなお宮(お宮と言うべきものではなかったと思うけれど、床が高く上がった造りは神社のそれに似ていました)にお参りしたりとか、そういう生活があったことを思い出します。
私は(私たちは)、このように懐かしいものを、ただ懐かしむだけのところへ追いやって、その代わりに得ようとするものはなんでしょうか。
失われゆくものを、あるいはすっかり失ってしまったものを懐かしむという行為には、いったいどういう意味があるのでしょうか。



さて、海辺の生物ラッコは、英語では otter。 あれ? では「ラッコ」というのは何語だろう。……どうやらアイヌ語であったらしい。
という記事を、ちょっとまえに書いたら、「坂のある非風景」のMさんが、アイヌ語の音と日本語とで書かれたこの本のことを教えてくださいました。私には、近いようでずっと遠いアイヌの物語。こんな世界もあるのかと、気持ちが新しくなるようです。


植物や動物の神々が、自ら歌ってきかせる物語は、ゆっくりと流れる水のように豊かで美しく、人間と神々との距離の近さを感じられる面白さがあります。日本語で読んでもたいそう美しい物語ですが、アイヌの言葉で謡われたなら(私にその意味を汲むことができたなら)どれほどに美しいことだろうと思います。

いたずらをしたためにひどい目に遭う蛙の神さまや、人間のために鯨を捕ってやるきょうだいの神さま(長い兄様、六人の兄様、長い姉様、六人の姉様、短い兄様、六人の兄様、短い姉様、六人の姉様を持つ海の神の謡。これは日本語訳がとっても美しい)など、いずれの神も愛すべき存在であり、人間の英雄であるオキキリムイにやっつけられる悪魔でさえも相当に魅力的であります。

私がとくに衝撃を受けたのは、梟の神さまの話です。もう泣きそうです。
飢えに苦しむ人間を見かねて、鹿の神さまと魚の神さまに何故このように放っておくのかと談判しようとする梟の神は、使いにやった川ガラスの若者から、ことの次第を伝えられます。何故、鹿と魚が人間に与えられなくなったのか。それには然るべき理由があったことを知った梟の神は、それを夢の中で人間たちに告げるのでした――。
教訓です。しかし、こんなにも美しく語られる教訓を、私はこれまでに知りません。静かな物語なのに、私は激しく揺さぶられてしまいました。



懐かしむというこの感情が、なにか未来に繋がるものであったらいい。今度は滅びない、確固たるものとして生まれてくる何かのための感情であったらいいのに。
それとも、懐かしんでいる限りは、それらは今もまだ滅んではいないとも言えるのだろうか。それらはまだここにあって、我々の運ぶべき荷物のひとつとしてどこかへそっとしまわれているだけなのかもしれない。
懐かしむというのは、それを時々、ああ、まだきちんとあるぞ、と確認する作業であるのかもしれない。

というようなことを考えました。