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手鏡の散歩者

2007年05月20日 | もやもや日記
手鏡に天井を映して、逆さまになった部屋の中をうろうろと歩きまわってみたことはないですか。


子供の頃、こういう遊びをしたと、さっき話している人がいました。やった、やった、その遊びなら私も確かにやった覚えがあります。あの、板の継ぎ目や木目に沿ってみたり、電灯の傘を避けて通ったり、した、しました。電灯については、普段は上からぶらさがっているものなのに、鏡の世界では地面からきっぱりと突き出ているところに、私は妙に興奮したものです。

今のところサンプルは2名分だけなので、その遊びは子供なら誰しもがやってみるものであるのかどうかは分かりませんが、鏡というものが不思議なものであるということは、誰でも一度は思うものではないでしょうか。
ホフマンの短篇集などでは、主人公は鏡やレンズといったものに魅せられて(正確には、それを通して見たものに)、狂気の世界へ迷いこんでいったりします。とっても怖いんです。ああ、怖い。

そう言えば、私は高校生になっても、真夜中に鏡を見ることは怖くて出来ませんでした。異常に怖かった。とりわけ、夜中の12時ちょうどという時間が怖かった。うっかり見てしまったときには、あまりの恐ろしさに硬直し、目が釘付けになってそれでますます怖くなったりしていました。

呆れるほどに臆病だった私も、今では真夜中の鏡などまったく怖くも何ともないので、生活はしやすくなりはしましたが、感受性や想像力といったものは確実に失われているなあという気もします。ですが、恐怖を失った原因のひとつには、私の現在の夜という時間の賑やかさというのもあるかもしれません。私は都市部の国道沿いに建つマンションに住んでいますが、群れをなした暴走バイクはひっきりなしに爆音を轟かせ、マンションの隣りにある消防署からは、夜中で車通りが皆無であろうとも、普段通りのサイレンで緊急出動し、そして、夜がそもそもいつまでもいつまでも明るいのです。田舎の夜は、しんとしてここよりもずっと暗かったんだっけ。


そんなことを思うにつけ、久しぶりに江戸川乱歩などが読みたくなります(我ながら、なんて唐突なんだろう)。
ホフマンとか、乱歩とか、ある種の作家たちの小説のなかには、かつての私が体感した説明のつかないような無闇な恐怖が、怖いのだけれどもそれでいて時々は覗かずにはいられないような抗しがたい魅力が、あるようです。
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