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『爆撃調査団』

2007年05月12日 | 読書日記ー日本
内田百間 (ちくま文庫)


《内容》
おから、お祭鮨、シュークリーム、牛乳、地震、雷、文鳥……好きな食べものや気になるもの、百間先生のこだわりが満喫できるものづくし随筆集。


《この一文》
”私の買い度(た)いと思う、欲しい物は沢山あるに違いないが、しかし急に今考えてみると、なんにもない様な気もする。無慾恬淡になったわけではなく、欲しくて堪らない物が、何一つ思う通りに買えた試しがないので、長い間かかって、片っ端から、一先ずみんな諦めた為である。いよいよ買えると云う事になれば、到底納まりのつかぬ程無数の買いたい物が、一どきにせり出して来るだろう。
      ―――「蘭虫」より  ”



「初めて読んだ本は何か?」ときかれて、「内田百間とガルシア=マルケス」と答えたら、「なぜそこから!?」と驚かれたことがあります。
もちろん、私はそれ以前にも本を開いて、内容をひと通り見てみたことはいくらでもありましたが、「読んだ」と思ったのは、その二人の作品が生まれて初めてのことでした。18歳でした。なつかしい。ちなみにその時の作品は、『冥途』と『エレンディラ』でした。

それ以来、私は調子に乗って色々な本を読みたいと思うようになり現在に至るのですが、ときどき疲れを感じると、最初に戻りたい気持ちになります。
ここしばらくは先週読み終えた『フリオ・フレニトの遍歴』が脳内にずっと留まっていて、私の胸中は風速20Mという状況でした。すっかりへとへとになりました(だけど、それでも、それだから読んでよかったと思ってもいます)。
ご覧の通り、むやみに感情的に生まれついた私は、感情がただでさえ外に漏れがちであるのに、このショックがきっかけでいよいよ歯止めが利かなくなりそうだったので、こんな時はと百間先生に頼ることにしました。
効果は覿面です。
私の竜巻きに巻き込まれてお困りのあなた、とっさのときは百間先生の随筆集でも一冊差し出してみてください。しばらく読ませれば、しまいには私は薄笑いさえ浮かべることでしょう。


さて、内田百間(ヒャッケンと読みましょう。「間」の字はほんとうは正字です。蛇足かもしれませんが)の何が魅力と言って、それはまずその超越的文章力でしょう。私はこの人の文章の意味が分からなくてつまずいたということは、過去に一度もありません。あまりに写実的なので、もはや文字を追っているという感覚さえ失われそうです。きわめて整然とした美しいものなのであります。文章とはこうあるべきだと感服するにつけ、私の拙さを反省してやみません。

次には、着眼点や発想の面白さがあります。そんなことを考えたこともなかったけれど、言われてみるとそうかなということや、そんな無茶な!ということでも、百間先生に言われるとつい納得してしまいます。これは私が百間先生を崇拝しているせいもあるかもしれません。でも、こういう面白さがあるから崇拝しているとも言えるので、どちらが先かは分かりません。

さらに、これも大変に重要な魅力であることには、怒っていても悲しんでいても喜んでいても、若くても歳をとっていても、語り口が全く変わらないということでしょうか。自身を含めてあらゆる物事に対して、常に客観的な視線を持ち続けているようです。クールなんです。なんだか、ときどきちょっと笑えるほどに。実際にはとても感情的な人だったのではないだろうかと私は推測しているのですが、それは文章の上に過度には表れてきません。(『ノラや』という飼い猫がいなくなったことを巡る随筆では、珍しく悲しみが前面に押し出されているので、私も思わずつられて号泣したものですけれど)。
ともかくそれで私は落ち着くのです。いつものように百間先生につられて、遠くから自分を見られるようになると、わあわあ言って騒いでいるのが間抜けに見えてきます。あー、落ち着いた。よかった。

それから、正直なところも好きです。実は人並み以上に律儀であったらしいところも好きです。教え子たちからあれほど慕われたのも分かるというものです。とても魅力的な人柄です。ですので、私もつねに「先生」と呼んでいます。
もう一人の「先生」は、私に暴風雨を与えてくれる「フレニト先生」なのですが、大丈夫、もう落ち着きました。
二人の両極端な「先生」を得た今(ところが、お二人は両極端でありながら、どことなく似てもいるような気もします。いずれにせよ極端であることに変わりはないのでしょうか。いや、極端というより、特殊でしょうか)、私は心置きなくどんな本でも読めそうです。

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