ドーデー
*『風車小屋だより』(岩波文庫)
*『ふらんす幻想短篇 精華集』(透土社)
《あらすじ》
主人公は黄金の脳を持って生まれ、それを気前良く周囲の人間に分け与えたり、切り売りしたり、時には信頼していた人間から強奪されたりして、少しずつすり減らしながら生きていくのだが――。
《この一文》
“夢のような話に見えますが、この物語りは一から十まで本当なのです…… 世の中には脳髄(あたま)で生活することを余儀なくされ、人生の最もつまらないもののために、見事な純金、自分の精髄で支払いをしている憐れな人たちがいます。これは彼らにとっては日ごとの悩みです。しかもやがてその苦しみに疲れた挙句には…… ”
――「黄金の脳みそを持った男の話」
(ドーデー『風車小屋だより』岩波文庫 所収)
「黄金の脳みそを持った男の話」は、私が読んだ唯一のドーデーによる物語。すごく面白い。
ドーデーは意外と面白い人なんですね。私はこの間(2年くらい前?)ようやくその事実に気がついたわけですが、まだろくに作品を読んでいません。『風車小屋だより』もまだ全部は読んでいません。しかし、この「黄金の脳みそを持った男の話」は猛烈に面白いですよ。
上に引用したのは岩波文庫の『風車小屋だより』の中に収められているものですが、『ふらんす幻想短篇 精華集』(透土社)というアンソロジーには「黄金の…」の初出の作品が入っていて、そちらは物語の内容や雰囲気が『風車小屋だより』のものとは違っています。しかし設定や構造、描写に違いはありますが、両者のあらすじはほとんど一緒と言えますね。
主人公は黄金の脳を持って生まれますが、それを気前良く周囲の人間に分け与えたり、切り売りしたり、時には信頼していた人間から強奪されたりして、少しずつすり減らしながら生きていきます。
このお話で描かれているのは、黄金の脳=輝かしい知性と才能とを持って生まれてきた芸術家や作家の姿であるようですが、彼らがその宝を損ねずに、その宝の輝きを一層増すように生きるためには、何がどうであったら良いのでしょうか。彼と、彼の周囲の人々は、彼の能力を酷使したりその成果を略奪したり、ついには食いつぶしてしまう以外に、どうだったら良いのでしょうか。
思うに、芸術家や作家に限らず、人が社会に生きていこうとするときには誰もが何かしら自分の生まれ持ったものを切り売りし、その対価として得たものによって暮らしを立てていると思うのですが、自分では切り売りしているつもりが実はただ無闇にそれを垂れ流していただけで、返ってくるものや手もとに残るものはほとんどなかったのだということに気がついたとき、いったいその人はどうなってしまうのでしょう。恐ろしいことですね。社会に生きるというのは、難しいものなんだなぁ。垂れ流そうが立ち尽くそうが、別に人生はそんなふうで構わないものなのかもしれないけれど、でも悲しいなぁ、世の中は悲しい。
『ふらんす幻想短篇 精華集』(透土社)の「黄金の脳みそをもった男」の結末も私は好きなので、引用しておきたいと思います。あれこれと考えさせられます。私には何も良い手が思いつきませんけれども、いつかは誰か黄金の脳みそを活用できる誰かが、うまい手をひらめいてほしいものだと思います。
“私に与えられたこのすばらしい富について考えてみると、悔いることしきりでした。今後は、もうほんの些細なかけらさえ残っていず、再び手にすることもないでしょう。脳の中の金を少しずつ切り売りして、失わせるにいたったこれまでの出来事のひとつひとつを、私の宝のかけらを残してきた人生の節々を思い起こしました。(中略)これからどうするのか? 何をすればよいのか? 救済施設で死に果てるのか、それとも、どこかの小間物屋の、たとえば『銀の糸巻き』屋の使い走りになるのか。まだ、四十才にもなっていないというのに、将来、私を待ち構えているのはそんなところでしょう。それから、悲嘆にくれ、ありったけの涙をしぼって泣いているうちに、私のように脳に頼って生きている沢山の不幸な人々のことに考えが及びました。財産もなく、自らの知性に助けを求めて生活の資を稼がざるを得ない、芸術家や作家。黄金の脳をもった男の苦悩を知るものは、この世では、私ひとりではないはずだと自分自身にいいきかせるのでした。 ”
――アルフォンス・ドーデ「黄金の脳みそをもった男」
(『ふらんす幻想短篇 精華集』透土社 所収)