大杉栄(青空文庫)
《あらすじ》
「俺」は夜中に目をあけてみると、妙なところにいた。周りを見渡すと、長く延びた鎖を人々は自分の体に巻き付けては、それを隣の奴に渡している。妙なところだと思っていると、「俺」は自分の体にもその鎖が十重二重にも巻き付けてあるのを発見するのであった。
《この一文》
“ なまけものに飛躍はない。なまけものは歴史を創らない。
俺は再び俺のまわりを見た。
ほとんどなまけものばかりだ。鎖を造ることと、それを自分のからだに巻きつけることだけには、すなわち他人の脳髄によって左右せられることだけには、せっせと働いているが、自分の脳髄によって自分を働かしているものは、ほとんど皆無である。こんな奴等をいくら大勢集めたって、何の飛躍ができよう、何の創造ができよう。 ”
大杉栄に関する基本情報としては、思想家、作家、社会運動家、アナキスト。1923年9月16日、妻、甥とともに憲兵に殺害される(甘粕事件)。これ以上のことは私は詳しくは知りませんが、思想と行動の人だったのでしょうかね。
「鎖工場」は、ごく短い小説で、すぐに読んでしまうことができました。そういうわけで、私は2度3度と読み返すことが容易にできたわけですが、何かグサッと胸に深くささるものの痛さを感じはするものの、この小説をどう捉えたらよいのかはまだ分かりません。
私は自分のことだけを、自分の生活のことだけを考えるならば、細々とでもどうにか生き延びられるだろうかなぁと思ったりもするのですが、社会のことを考えると、私のような在り方は許されないと思うのです。社会に生かされていながら、その発展に貢献しないということは許されない。
私はどう自己弁護しようとしても、怠け者の役立たずに他なりません。けれど、行動するということがどういうことなのか、私には分からない。正しい行動とはどういうものなのかが分からない。正しい行動とはこういうものだ!という信念があったとして、そういう信念を持つことは恐ろしいような気もするのです。いや、信念を持つこと自体は恐ろしくないかもしれないけれど、その信念が別の誰かの信念と相反する時、衝突を避けられないだろうことが恐ろしいのです。
これを読んでどういうことを問題として考えればいいのかすら、私にはまだよく分からないけれど、こういうことは少し気になる。
別に、鎖に縛られていようが何だろうが、自分でそれを幸福だとか安定だとかいうふうに思い込めさえすれば問題ないのではないだろうか。そりゃまあ、時々は鞭で殴られたりすることもあるかもしれないけれど、いつもはそれなりに自分がそこに居ることを、我々を見下ろしながら優雅にタバコをふかしている工場主が保証してくれるというなら、それでいくらか安心して生きていけるというなら、そんなに無理をして自由になる必要があるんだろうか。そもそも自由ってなんだ。
ハクスリーの『すばらしい新世界』でも、人々は徹底的に管理されてはいるものの、その社会の内部にある限りは病気や老い、生活に関わるその他諸々の不安や苦痛からの解放を約束され、幸福で輝かしい暮らしを送って、そのことに満足していたではないか。例えばそういう社会の在り方というのは、人々が社会によって(社会をコントロールするごく一部の人間によって)管理されているというただそれだけのために、間違っていると言えるのだろうか。自由ってそんなにいいものだろうか。そりゃまあ、時々は巻き付いた鎖ごと引っぱられて、どこか望まぬような場所へ、なにか望まぬような事態へと追い立てられることはあるかもしれないけれど。でも、いつもは鎖の締め付けのきつさにすら安心して暮らしていけるなら、それでいいのではないのか。
自由ってなんですか。それは金になりますか。私の暮らしを豊かにしてくれるものですか。あなたと違う意見を持つ私を許してくれるものですか。それがあれば、私と違う意見を持つあなたを、私は許すことができるものでしょうかね。仮に自由とやらが、そんなに正しいものならば、なぜこの世界はその正しさによって支配されていないんでしょう。その正しさの前に、なぜ鎖はいつまでも強固さを保っていられるのでしょう。
痛くて痛くてたまらない。これはいったい、なんの痛みなんだろう。
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