マックス・ヴェーバー著 尾高邦雄訳(岩波文庫)
マックス・ヴェーバー先生の『職業としての学問』に次のような一節があり、なるほどなーと思ったので(何が「なるほど」なのかはひとまずおくことにして)、メモっておこうと思います。
しかし、何千年来西欧文明のうちに受けつがれてきたこの魔法からの解放過程、いいかえれば、学問がそれの肢体ともなり原動力ともなっている「進歩」というものは、はたしてなにか実際上あるいは技術上の意味以上の意味をもつであろうか。諸君は多分この問題が、レオ・トルストイの作品中でもっとも根本的に取り扱われていることを知っておられるであろう。トルストイは、かれ独特のやり方でこの問題に到達している。かれの頭を悩ました全問題は、結局、死とは意味ある現象であるかいなかという問いに帰着する。かれはこれに答えて、文明人にとっては――いなである、という。なぜかといえば、無限の「進歩」の一段階をかたちづくるにすぎない文明人の生活は、その本質上、終りというものをもちえないからである。つまり、文明人のばあいには、なんぴとの前途にもつねにさらなる進歩への段階が横たわっているからである。どんな人でも、死ぬまでに無限の高みにまで登りつめるというわけにはいかない。アブラハムだとか、また一般に古代の農夫たちだとかは、みな「年老いて生きるに飽(あ)いて」死んでいったのである。というのは、かれらはそれぞれ有機的に完結した人生を送ったからであり、またその晩年には人生がかれらにもたらしたものの意味のすべてを知りつくしていたからであり、かくてついにはもはやかれらが解きたいと思ういかなる人生の謎もなく、したがってこれに「飽きる」ことができたからである。しかるに、文明の絶えまない進歩のうちにある文明人は、その思想において、その知識において、またその問題において複雑かつ豊富となればなるほど、「生きることを厭(いと)う」ことはできても「生きることに飽く」ことはできなくなるのである。なぜなら、かれらは文明の生活がつぎつぎに生みだすもののごく小部分をのみ――しかもそれも根本的なものではなく、たんに一時的なものをのみ――そのつど素早くとらえているにすぎず、したがってかれらにとっては、死はまったく無意味な出来事でしかないからである。そして、それが無意味な出来事でしかないからして、その無意味な「進歩性」のゆえに死をも無意味ならしめている文明の生活そのものも、無意味とならざるをえないのである。――こうした思想は、トルストイの作品の基調をなすものとしてかれの後記の小説にはいたるところにみいだされる。
「死はまったく無意味な出来事でしかないからである。そして、それが無意味な出来事でしかないからして、その無意味な「進歩性」のゆえに死をも無意味ならしめている文明の生活そのものも、無意味とならざるをえない」という思想が、トルストイの後期作品の基調をなしているというのは、つまりあれでしょうか。
『トルストイ全集10後期作品集(下)』に収録されていた、たしか「祈り」というタイトルだったかと思うのですが、小さなまだ2、3歳くらいの男の子が死んでしまって、その母親と乳母とが悲しみの涙に暮れているのですが、泣きつかれて眠ってしまった母がその夢のなかで男の子が成長した姿を見るというもの。そこでは愛らしい男の子はすっかりその面影を失っており、酒場で飲んだくれる惨めな中年男となっているのでした。そして母親はひどくショックを受けて目覚める、という内容だったかとおぼろげに記憶しているのですが、記憶違いでしょうか(この作品のこの悲しいイメージは私の深いところに痛みとともに刻まれてしまっていて、道行く幼い人々を見るたびにこれが重なって、大層苦しい思いをする羽目に陥っています)。
本が手もとになくて確認できませんが、たしかにこの本で読んだという記憶はあります。同じ本に収録されている「コルネイ・ワシーリエフ」などもどうしたらよいのか分からないくらい重かった。その重さが何なのかはっきりとは分からなかったのですが、「無意味」ということが関わっている故のことだったのかもしれないですね。なるほどなー(なんとなく)。
ところで、ヴェーバー先生の『職業としての学問』は、何度読んでも私には理解しきれません。ところどころ「おっ!」と思う文章があっても、全体としてうまくとらえることができないのでした。ついでに『職業としての政治』についても同じような感じです。どうしてなんだろう……(/o\;)
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