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9.11について

2001年の9.11事件や、その他色々な感想、思い、などを書いていけたらなと、思っています。

9.11について <債務貨幣システムとは> その4

2017年09月06日 | 日記
とあるスナックで

小林
コーさん、<中央銀行制度>を考えるときに参考になるいい本がありましたね。

コー
そう、G・エドワード・グリフィン著 <マネーを生み出す怪物 連邦準備制度という壮大な詐欺システム>だね。 その9章 マネーの秘密の「サイエンス」 に詳しく書いてある。

14世紀のヴェニスの銀行
17世紀のアムステルダム銀行
そして19世紀のハンブルグ銀行  P-219

ハンブルク銀行

第三の、そして最後の誠実な銀行はドイツのハンブルグ銀行だった。この銀行は二世紀以上も安全な預金という原則を忠実に守った。その運営の手堅さは、ナポレオンが1813年にこの銀行を手に入れたとき、748万9343マルクの負債に対して750万6956マルク分の銀貨があるのを発見したことでも分かる。必要な額よりも1万7613マルクも多かったのだ。ナポレオンが奪っていった銀行の資産の大半は、数年後、フランス政府が証券のかたちで返還した。この証券にどれだけの価値があったのかわからないし、もし価値があったとしても銀貨と同じではなかっただろう。外国の侵略のせいで、ハンブルグ銀行の紙幣は預り証貨幣として額面どおりの銀貨と兌換できなくなった。
部分準備貨幣になってしまったのであり、ここから自己破壊メカニズムが動き出した。
ハンブルグ銀行はそれから55年生き延びたが、1871年、すべての口座の精算を命じられて幕を閉じた。

これが誠実な銀行の短い歴史の終わりである。


小林
まさしくこの違いこそが、<100%マネー>の銀行と<部分準備制度>の銀行の違いなんですね。

<部分準備制度>になってしまった銀行は、自己破壊メカニズムで、潰れてしまったと著者は言っているんですね。
そりゃそうですよね、天野統康の本の P-70の<詐欺の第二段階 預かった金よりも多くの預り証(紙幣)を振り出し、無から購買力を創造>の銀行は一方では社会の発展にマネーを供給して寄与したかもしれないが、預かった金よりも多くの預り証(紙幣)を無から、いや債務からマネー(預り証・紙幣)を作り出しているわけだから、払い戻しが一斉に起こったときには、支払い不能になるのは、当然だということでしょう。


コー
こういう銀行の倒産の歴史があって、中央銀行が作られていくわけだ。<マネーを生み出す怪物 連邦準備制度という壮大な詐欺システム>のp-220


英国の初期の銀行制度

英国最初の紙幣はチャールズ二世治下の財務省手形だった。これは完全な不換紙幣で、法貨と定められたものの、あまり流通しなかった。1696年には財務省札に代わった。この紙幣は兌換券で、政府は兌換に充分な金貨や地金を維持しようと大いに努力した。言い換えればほんとうの預り証貨幣だったから、交換手段として広く受け入れられた。さらにこの紙幣は政府の短期国債とみなされて、持ち主には実際に金利が支払われた。
1707年、少し前に創設されたイングランド銀行にこの通貨の管理責任が委ねられたが、銀行は独自の銀行券を流通させるほうが儲けが多いと気づいた。この銀行券は部分準備貨幣で、金利を払うのではなく、金利を徴収するために発行される。この結果、政府の紙幣はだんだんに姿を消して銀行券にとって代わられ、18世紀半ばには銀行券がイングランド唯一の紙幣になった。

当時はまだ銀行は完全な中央銀行ではなかったことを理解しておく必要がある。ロンドンその他の中心地では独占的に銀行券を発行することが認められていたが、これは法貨ではなかったから、誰も使用を強制することはできなかった。民間銀行が一部を金貨で裏づけている私的な部分準備貨幣にすぎず、市民は受け取ることも拒否することも、割引して流通させることも自由だった。法貨の地位が与えられるのは1833年になってからである。
いっぽう議会は帝国内の他の多くの銀行にも認可を与えていたが、例外なくどれも部分準備貨幣のはっこうから破綻し、預金者に損害を与える結果になった。「この国には災厄が次から次へと押し寄せる」とショー(W.A.Shaw,Theory and Principles of Central Banking))は言う。なぜなら「国家がこれらの民間銀行券に無関心だからである」と。だが政府はどこよりもイングランド銀行を大事にし、議会は何度も債務不履行から同行を救った。
どうしてそうなったのか、これもなかなか興味深い物語である。


小林
そしていよいよ、イングランド銀行が中央銀行へとなっていくんですね。
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9.11について <債務貨幣システム>とは その3

2017年09月06日 | 日記
とあるスナックで

小林
今現在の<債務貨幣制度>は何百年もかけてヨーロッパで徐々に出来てきたみたいですね。

コー
そうなんだ、日本は明治のはじめに作られたけど。ヨーロッパで大きく3つの段階を経てできたみたいだ。 天野統康の本<詐欺 経済学 原論>によれば、

第一段階 預かった金を勝手に貸し出し、購買力を創造

第二段階 預かった金よりも多くの預り証(紙幣)を振り出し、無から購買力を創造

第三段階 国家債務の起源 民間が所有する中央銀行 イングランド銀行の創設


この第一と第二は以前、中世の金細工師の話でやったよね、無からお金を創る信用創造の原点だ。そして第三段階は中央銀行の原点だ。 p-76

17世紀末に、民間の銀行家は遂に中央銀行システムを作り出す。はじめに創設されたのは、1668年に創設されたスウエーデンのリスクバンクである。この中央銀行は民間銀行だったが、世界的な影響力という点ではあまり大きなものではない。
現在の中央銀行システムの元祖といわれているのは、1694年に中央銀行としては2番目に作られたイングランド銀行である。設立のきっかけになったのは、イングランドとフランスが戦争を行い、イングランド国王が金欠に陥った時であった。その時に民間銀行家と、その仲間であったスコットランド人ウィリアム・パターソンは、戦争資金を貸し出す交換条件として以下の提案を行った。

* 紙幣の発行権を認めること
* 政府の銀行になること(国債を購入する)
* 戦費を貸し付ける代わりに、国は8%の利子を払う
* 預金業務を認める


戦争資金が喉から手が出るほど欲しいイングランド国王はこの条件をのみ、イングランド銀行の設立を許可した。政府にとってもイングランド銀行の経営に関与した銀行家たちにとっても、中央銀行の創設は大きな意味があった。それまでの政府は戦争の原資の多くを国民の税金の徴収などに頼ってきた。しかしイングランド銀行設立以降、戦争の財源は、中央銀行に頼れるようになった。銀行家たちにとっても、国家に金を貸すことは、貸付先として信用のある相手であり、良い投資先であった。

もちろん政府はイングランド銀行の経営には関与しない。民間の銀行家たちによる株式会社として設立された「民間が所有する中央銀行」としてイングランド銀行は発展していくのである。
このような経緯で政府が金融政策に関わらないという奇妙な社会制度が作られた。政治と通貨発行権の分離したシステムがこの時に始まった。このイングランド銀行を起源にして世界各国に中央銀行が作られていくのである。


小林
中央銀行が作られたのは、結構昔だったのですね。
コメント
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