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9.11について

2001年の9.11事件や、その他色々な感想、思い、などを書いていけたらなと、思っています。

9.11について <債務貨幣システムとは> その7

2017年09月18日 | 日記
とあるスナックで
小林
コーさん、この<債務貨幣システム>または<借金貨幣システム>は<資本主義経済>の中の重要な部分なんですね。

コー
重要なんてもんじゃないよ、まさに根幹、中心なんだよ。

ところが、今までの経済学はその事を説明してこなかったんだな。そしてそれは意識的だということなんだな。

だから リチャード・A・ヴェルナーや天野統康は、今までの経済学をそれぞれ<虚構>や<詐欺>経済学と言っているんだと思う。


小林
一方山口薫は、一旦経済学から離れて未来研究活動をしていた時に、コンピューター・モデリングによるシュミレーション分析手法の<システムダイナミックス>との出会いがあり、そこから、<債務貨幣システム>が明らかになったんですね。
山口薫 著 <公共貨幣>> P-35

ニューヨークでの研究報告の1ヶ月後に、約18年ぶりに再びバークレーに客員研究員として戻ってくる機会を得た。今度は経済学研究科ではなく、ハース・ビジネススクールという経営大学院ではあったが。懐かしのバークレーに住み、ビジネススクールでの講義やセミナーに参加し始めてから、どういうわけか青春時代へのノスタルジックな気分に浸りだした。20数年前当時の3つの経済学への挑戦心が再び蘇ってきた。2度とは戻らない、戻りたくはないと経済学から決別したはずの自分ではあったが。

システム・ダイナミックスというコンピュータ・シュミレーション手法との出会い、そして会計システムダイナミックスというビジネス戦略モデリング手法を確立したということが、経済学研究活動に再び息吹を注いでくれた。会計システムダイナミックスの分析手法がミクロの企業戦略モデリング手法に有効であるなら、それらミクロの経済主体の集合体としての一国のマクロ経済モデル分析にも有効ではないのかと気づいたのだ。しかも経済の取引は全て複式簿記の会計原則でなされており、それらの総体としてのマクロ経済活動も複式簿記原則を無視してはとらえられないはずであると直感した。

とはいっても、こうした観点からのマクロ経済モデリングの先行研究は皆無であった。バークレーで着手した最初の中央銀行や貨幣のマクロ経済モデリング化からして大きくつまずき暗礁に乗り上げたが、困難を覚悟で海図のない航海に乗り出すことを決意した。伝統的な経済学と決別した以上、学問上失うものはなにもなかった。以来苦闘10年、2013年に世界で最初の会計システムダイナミックスによるマクロ経済モデリングの研究成果を出版することができた。本書の内容のコア部分は同書に依拠している。


コー
いやー、この<困難を覚悟で海図のない航海に乗り出すことを覚悟した>という部分を読むと、涙が出てくるね。日本にもまだ <サムライ>がいたんだなと思って。

そうなんだな、男はこういう生き方をすべきなんだな。朝から晩まで犬の散歩と女房の機嫌取りだけするんではなくてね。


ママ
ちょっとコーさん、やめてくださいよ、あんまり変なこと言うと、またお客さんが来なくなっちゃいますからね。


コー
ごめんごめん、ママ。 そうそうママ、ビールお願いしますね、おかわりお願いします。

ママ
ハーイ。



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9.11について  <債務貨幣システムとは> その6

2017年09月16日 | 日記
とあるスナックで

小林
このイングランド銀行が法的にも現在の中央銀行になっていくんですね。
天野統康の本 <世界を騙し続けた (詐欺)経済学原論 「通貨発行権」を牛耳る国際銀行家をこうして覆せ> のP-87

1833年にイングランド銀行券は法的に受け取りが強制された法定通貨となった。1844年の銀行条例(ピール条例)によってイングランド銀行の紙幣発行権の独占が認められる。それまでは、民間銀行も紙幣を発行していたが、ピール条例制定後、新設の銀行には新たな銀行券の発行権が与えられなくなった。既存の銀行も倒産などした場合には、既発の紙幣の一定割合をイングランド銀行に譲渡することになっていた。これによってイングランド銀行に権力が集中することになった。ピール条例以降、それまで様々な銀行が紙幣を発行していた体制から、中央銀行による紙幣発行権の一元化が進められていく。

現在まで続く全ての民間銀行を統括する中央銀行システムの登場である。


コー
このピール条約以前は、それぞれの銀行がそれぞれの紙幣を発行していたんだな。今の(仮想通貨)と同じようなものだったんだろう。いずれ今の仮想通貨も一つの仮想通貨に統一されていくんだろうと山口薫は言っているね。面白いね、(紙幣)の歴史を(仮想通貨)はいままさに繰り返しているわけだ。


小林
ところで、あのロスチャイルドがドイツで生まれたのは、このころだったんですね。
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9.11について <債務貨幣システムとは> その5

2017年09月07日 | 日記
とあるスナックで

小林
国家債務の原点、いよいよ中央銀行の成立ですね。
<マネーを生み出す怪物 連邦準備制度という壮大な詐欺システム> のP-221

イングランド銀行

過重な税で英仏戦争や数々の内戦を戦って半世紀、英国の財政は疲弊していた。アウグスブルグ同盟戦争中の1693年、ウィリアム王は深刻な財政難に陥った。その20年前にチャールズ二世はおおぜいの金細工師から借りていた100万ポンドの債務の不履行を宣言し、その結果、一万人の預金者が損害をこうむった。この記憶がまだなまなましかったから、当然ながら、人びとは政府をリスクの低い投資先とは考えなかった。増税もならず借金もできないということで、議会はほかの方策を必死で探した。グロスクローズによれば、目的は「もっと理性的なコントロールのもとに通貨メカニズムを置くことではなく、増税や政府借り入れといった煩わしい方法以外に、無一文の政府の金銭的必要を満たす方法を探すこと」だった。

この政府の苦境を絶好のチャンスと考えた人々が二種類いた。一つのグループは、政府内部の「政治のサイエンティスト」で、もう一つは台頭してきた銀行業務に関係する「金融のサイエンティスト」だ。後者のグループのオルガナイザー兼スポークマンは、スコットランド人のウィリアム・パターソンという人物だった。パターソンはアメリカに行き、当時ダリエンと呼ばれていたパナマ地峡に植民する会社に英国の認可をとりつけようという壮大な計画を持ち帰った。だが政府が関心を示さなかったので、パターソンは政府がもっと関心を寄せている試み、つまりマネーの創出に目を向けた。
二つのグループは力を合わせて協力体制をつくった。いや、そんな言葉では手ぬるすぎる。アメリカン・ヘリテージ・ディクショナリーは、陰謀団(cabal)という言葉を「陰謀や策謀を企てる人々の結社」と説明している。このグループにはこの言葉がぴったりだった。この陰謀団はジキル島の会合にそっくりの秘密めいた謎の会合をロンドンのマーサーズ・チャペルで開き、お互いの目標達成のために七項目からなる計画をつくりあげた。
1)
政府は金融のサイエンストに銀行創立の認可を与える。
2)
この銀行には英国で紙幣として流通する銀行券発券の独占的権利があたえられる。
3)
この銀行は一部のみが金・銀貨で裏づけられるマネーを無から創出する。
4)
金融のサイエンティストは政府に必要なだけ融資を行う。
5)
政府への融資のために創出されたマネーは、主として政府の借用証書を裏づけとする。
6)
このマネーは無から創出されるのでコストはかからないが、政府はこれに対して8パーセントの金利を支払う。
7)
政府の借用証書は民間業者に貸し出される追加資金の支払「準備」金とみなされる。この民間への融資も利子を取る。したがって金融のサイエンティストは同じ無をもとに二重に金利を徴収する。


銀行の初期資本を募る投資家向け回状には次のような説明があった。
「銀行は、銀行自身が無から創出するマネーのすべてをもとに金利を得ることができます」。
認可は1694年に下り、こうして奇妙な生き物が産声をあげた。
世界最初の中央銀行である。ロスバードは書いている。

要するに、民間には財政赤字を埋めるのに十分な貯蓄がなかったので、パターソンとそのグループは政府の債権を喜んで買いましょうと申し出たのである。ただし、新しく無からひねりだされて、彼らに種々の特権を与える銀行券で購入できるなら、と。これはパターソンと会社にとっては願ってもない取引で、政府も一見まともに見えるがじつはインチキな銀行融資で利益を得る。・・・・

1694年にイングランド銀行が認可されるとすぐに、ウィリアム王と議員たちは先を争って、自分たちが生み出したばかりのマネー工場の株主になった。


コー
これで、<債務貨幣システム>が出来上がったんだな。このシステムではだれが利益を得ているかということだ。そして利益を得ている人間がいるということは、不利益を被っている人間がいるということだろう。
それはそれぞれ、誰と誰だ。

それはつまり、<騙す人間>と<騙される人間>だということを、G・エドワード・グリフィンはこの本で言いたかったんだろうと思うな。
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9.11について <債務貨幣システムとは> その4

2017年09月06日 | 日記
とあるスナックで

小林
コーさん、<中央銀行制度>を考えるときに参考になるいい本がありましたね。

コー
そう、G・エドワード・グリフィン著 <マネーを生み出す怪物 連邦準備制度という壮大な詐欺システム>だね。 その9章 マネーの秘密の「サイエンス」 に詳しく書いてある。

14世紀のヴェニスの銀行
17世紀のアムステルダム銀行
そして19世紀のハンブルグ銀行  P-219

ハンブルク銀行

第三の、そして最後の誠実な銀行はドイツのハンブルグ銀行だった。この銀行は二世紀以上も安全な預金という原則を忠実に守った。その運営の手堅さは、ナポレオンが1813年にこの銀行を手に入れたとき、748万9343マルクの負債に対して750万6956マルク分の銀貨があるのを発見したことでも分かる。必要な額よりも1万7613マルクも多かったのだ。ナポレオンが奪っていった銀行の資産の大半は、数年後、フランス政府が証券のかたちで返還した。この証券にどれだけの価値があったのかわからないし、もし価値があったとしても銀貨と同じではなかっただろう。外国の侵略のせいで、ハンブルグ銀行の紙幣は預り証貨幣として額面どおりの銀貨と兌換できなくなった。
部分準備貨幣になってしまったのであり、ここから自己破壊メカニズムが動き出した。
ハンブルグ銀行はそれから55年生き延びたが、1871年、すべての口座の精算を命じられて幕を閉じた。

これが誠実な銀行の短い歴史の終わりである。


小林
まさしくこの違いこそが、<100%マネー>の銀行と<部分準備制度>の銀行の違いなんですね。

<部分準備制度>になってしまった銀行は、自己破壊メカニズムで、潰れてしまったと著者は言っているんですね。
そりゃそうですよね、天野統康の本の P-70の<詐欺の第二段階 預かった金よりも多くの預り証(紙幣)を振り出し、無から購買力を創造>の銀行は一方では社会の発展にマネーを供給して寄与したかもしれないが、預かった金よりも多くの預り証(紙幣)を無から、いや債務からマネー(預り証・紙幣)を作り出しているわけだから、払い戻しが一斉に起こったときには、支払い不能になるのは、当然だということでしょう。


コー
こういう銀行の倒産の歴史があって、中央銀行が作られていくわけだ。<マネーを生み出す怪物 連邦準備制度という壮大な詐欺システム>のp-220


英国の初期の銀行制度

英国最初の紙幣はチャールズ二世治下の財務省手形だった。これは完全な不換紙幣で、法貨と定められたものの、あまり流通しなかった。1696年には財務省札に代わった。この紙幣は兌換券で、政府は兌換に充分な金貨や地金を維持しようと大いに努力した。言い換えればほんとうの預り証貨幣だったから、交換手段として広く受け入れられた。さらにこの紙幣は政府の短期国債とみなされて、持ち主には実際に金利が支払われた。
1707年、少し前に創設されたイングランド銀行にこの通貨の管理責任が委ねられたが、銀行は独自の銀行券を流通させるほうが儲けが多いと気づいた。この銀行券は部分準備貨幣で、金利を払うのではなく、金利を徴収するために発行される。この結果、政府の紙幣はだんだんに姿を消して銀行券にとって代わられ、18世紀半ばには銀行券がイングランド唯一の紙幣になった。

当時はまだ銀行は完全な中央銀行ではなかったことを理解しておく必要がある。ロンドンその他の中心地では独占的に銀行券を発行することが認められていたが、これは法貨ではなかったから、誰も使用を強制することはできなかった。民間銀行が一部を金貨で裏づけている私的な部分準備貨幣にすぎず、市民は受け取ることも拒否することも、割引して流通させることも自由だった。法貨の地位が与えられるのは1833年になってからである。
いっぽう議会は帝国内の他の多くの銀行にも認可を与えていたが、例外なくどれも部分準備貨幣のはっこうから破綻し、預金者に損害を与える結果になった。「この国には災厄が次から次へと押し寄せる」とショー(W.A.Shaw,Theory and Principles of Central Banking))は言う。なぜなら「国家がこれらの民間銀行券に無関心だからである」と。だが政府はどこよりもイングランド銀行を大事にし、議会は何度も債務不履行から同行を救った。
どうしてそうなったのか、これもなかなか興味深い物語である。


小林
そしていよいよ、イングランド銀行が中央銀行へとなっていくんですね。
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9.11について <債務貨幣システム>とは その3

2017年09月06日 | 日記
とあるスナックで

小林
今現在の<債務貨幣制度>は何百年もかけてヨーロッパで徐々に出来てきたみたいですね。

コー
そうなんだ、日本は明治のはじめに作られたけど。ヨーロッパで大きく3つの段階を経てできたみたいだ。 天野統康の本<詐欺 経済学 原論>によれば、

第一段階 預かった金を勝手に貸し出し、購買力を創造

第二段階 預かった金よりも多くの預り証(紙幣)を振り出し、無から購買力を創造

第三段階 国家債務の起源 民間が所有する中央銀行 イングランド銀行の創設


この第一と第二は以前、中世の金細工師の話でやったよね、無からお金を創る信用創造の原点だ。そして第三段階は中央銀行の原点だ。 p-76

17世紀末に、民間の銀行家は遂に中央銀行システムを作り出す。はじめに創設されたのは、1668年に創設されたスウエーデンのリスクバンクである。この中央銀行は民間銀行だったが、世界的な影響力という点ではあまり大きなものではない。
現在の中央銀行システムの元祖といわれているのは、1694年に中央銀行としては2番目に作られたイングランド銀行である。設立のきっかけになったのは、イングランドとフランスが戦争を行い、イングランド国王が金欠に陥った時であった。その時に民間銀行家と、その仲間であったスコットランド人ウィリアム・パターソンは、戦争資金を貸し出す交換条件として以下の提案を行った。

* 紙幣の発行権を認めること
* 政府の銀行になること(国債を購入する)
* 戦費を貸し付ける代わりに、国は8%の利子を払う
* 預金業務を認める


戦争資金が喉から手が出るほど欲しいイングランド国王はこの条件をのみ、イングランド銀行の設立を許可した。政府にとってもイングランド銀行の経営に関与した銀行家たちにとっても、中央銀行の創設は大きな意味があった。それまでの政府は戦争の原資の多くを国民の税金の徴収などに頼ってきた。しかしイングランド銀行設立以降、戦争の財源は、中央銀行に頼れるようになった。銀行家たちにとっても、国家に金を貸すことは、貸付先として信用のある相手であり、良い投資先であった。

もちろん政府はイングランド銀行の経営には関与しない。民間の銀行家たちによる株式会社として設立された「民間が所有する中央銀行」としてイングランド銀行は発展していくのである。
このような経緯で政府が金融政策に関わらないという奇妙な社会制度が作られた。政治と通貨発行権の分離したシステムがこの時に始まった。このイングランド銀行を起源にして世界各国に中央銀行が作られていくのである。


小林
中央銀行が作られたのは、結構昔だったのですね。
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