今日は税務相談に街へ出かけまして、ついでに週刊新潮を買ってきました。野口武彦氏の「幕末バトル・ロワイヤル」が連載されはじめてから、毎週買うようになってしまいました。
昔、幕末にはまっていたころのことです。母が、大学の同級生に会いに二本松へ遊びに行くことになりまして、二本松といえば、二本松少年隊です。
「ねえ、もし二本松少年隊の資料があったら買ってきて。地元の教育委員会なんかが出しているかもしれないし」
と、私は頼み込みました。
いえね、体験談の筆記とか日録とか、地元で小冊子を出している場合がありますし。
そのとき母は、「二本松少年隊ってなに?」と、まったく知らなかったのです。
「まあ、会津の白虎隊みたいなもの」と簡単に説明して送り出したのですが、そのおかげで母は、二本松のお友達に大喜びされたのです。
「遠いところに住んでいるのに、娘さん、よく知っていてくださった!」
というわけです。地元には銅像が建っていて、墓地には花と線香がたえず、いまなお語り継がれる郷土の誇り、だったんですね。
資料はなかったのかどうかわかりませんが、資料のかわりに、地元で出している子供向けの物語を、母はそのお友達からもらってきてくれました。
挿絵が入ったりっぱな本です。でも、おかーさん、資料が欲しかったんだけどお、とつぶやきつつ、読ませていただきました。どこまで実話でどこまでフィクションか、資料を読んでいないので、さっぱりです。ただ、泣かせどころは、この部分でしょう。
志願して、大砲隊にいた12、3歳の少年が、隊長の戦死ののち、四散して、二人になったところで、敵兵に遭遇。傷ついた少年を、無傷だった少年がかばい、勇敢にも敵の隊長に斬りかかっていったところが、隊長は軽くいなして、「お主たち、年端もいかぬ子供の身で、よう戦いなすったのう。丹波どのは立派なご家来をお持ちのことじゃ。しかしお主たちの働きは、もう十分にすんだはずじゃ。さ、早う母上のもとに行かしゃれ」と言って逃がそうとするのですが、その目の前で、流れ弾にあたって、少年は死んでしまいます。
これ、読んだ当時から、なんとなく、この隊長は薩摩みたいだな、という気がしていたのですが、さっきぐぐってみましたら、やはり、この方面にいたのは薩摩兵で、野津道貫が後に、二本松藩の武勇を賞賛して、歌まで詠んでいるようですね。
ともかく、母は友達にお城にある少年隊の銅像やらお墓やらを案内され、もうすっかり「いたいけな子供が、りっぱに母親に挨拶して、戦場に出て……、かわいそうに。滅びの美学よ」と、感激してしまいました。
それはよかったのですが、一方、なにも知らずに「三春の滝桜が見てみたい」という母の希望を、二本松のお友達は、「裏切り者の三春の桜なんか、見なくていい」と、拒絶なさったそうです。
いや、桜まで悪いことはないと思うんですが。
もう、なんといいますか、百年を超える恨みですねえ。どうも二本松では、攻めてきた薩摩よりも、同盟関係にありながら、途中で薩長側についた隣藩、三春への恨みの方が強いようです。
その後、母は病気をしまして、一人旅に不安を覚えるようになり、年に一度くらい、私がつきそって旅行をするようになったのですが、その行き先です。旅行が終わると次の日から、次の旅行の希望を、しつこくくり返します。
先年は、函館でした。函館はいいのですが、「五稜郭よ。滅びの美学を見に行くの」と母は言います。続く言葉が、「誰だっけ? 榎本?」
おかーさん、榎本子爵は滅んでませんってば。
いえね、オタクではない母が言っているのは、土方くらいのものだろうとわかってはいたのですが、あれは滅びの美学なんか? という思いもありまして、「函館戦争で死んだ人はいろいろいるわよ」と意地悪く、肩をすくめてみたり。
滅びの美学というなら、息子二人と共に千代ヶ岡砲台で死んだ、中島三郎助なんかが、一番そういう感じを受けます。彼の場合、桂小五郎の師だったこともありますし、降伏しても、助命されることは確実、だったでしょうし。
まあ、ともかく、誰なのかもわからないまま、滅びの美学、といってしまえる母は、すごいですわ。
もっとすごかったのは、実際に函館に行って、母が一番感激したのが、碧血碑だったことです。
一応、説明はしたのですが、母はなにも知らなかったのです。知らなかったにもかかわらず、この碑に込められた旧幕軍への鎮魂の思いを、感じとったんでしょうね。
帰ってから母は、言いはじめました。
「よかった! 滅びの美学よ。あれはなんの碑だった?」
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「ねえ、もし二本松少年隊の資料があったら買ってきて。地元の教育委員会なんかが出しているかもしれないし」
と、私は頼み込みました。
いえね、体験談の筆記とか日録とか、地元で小冊子を出している場合がありますし。
そのとき母は、「二本松少年隊ってなに?」と、まったく知らなかったのです。
「まあ、会津の白虎隊みたいなもの」と簡単に説明して送り出したのですが、そのおかげで母は、二本松のお友達に大喜びされたのです。
「遠いところに住んでいるのに、娘さん、よく知っていてくださった!」
というわけです。地元には銅像が建っていて、墓地には花と線香がたえず、いまなお語り継がれる郷土の誇り、だったんですね。
資料はなかったのかどうかわかりませんが、資料のかわりに、地元で出している子供向けの物語を、母はそのお友達からもらってきてくれました。
挿絵が入ったりっぱな本です。でも、おかーさん、資料が欲しかったんだけどお、とつぶやきつつ、読ませていただきました。どこまで実話でどこまでフィクションか、資料を読んでいないので、さっぱりです。ただ、泣かせどころは、この部分でしょう。
志願して、大砲隊にいた12、3歳の少年が、隊長の戦死ののち、四散して、二人になったところで、敵兵に遭遇。傷ついた少年を、無傷だった少年がかばい、勇敢にも敵の隊長に斬りかかっていったところが、隊長は軽くいなして、「お主たち、年端もいかぬ子供の身で、よう戦いなすったのう。丹波どのは立派なご家来をお持ちのことじゃ。しかしお主たちの働きは、もう十分にすんだはずじゃ。さ、早う母上のもとに行かしゃれ」と言って逃がそうとするのですが、その目の前で、流れ弾にあたって、少年は死んでしまいます。
これ、読んだ当時から、なんとなく、この隊長は薩摩みたいだな、という気がしていたのですが、さっきぐぐってみましたら、やはり、この方面にいたのは薩摩兵で、野津道貫が後に、二本松藩の武勇を賞賛して、歌まで詠んでいるようですね。
ともかく、母は友達にお城にある少年隊の銅像やらお墓やらを案内され、もうすっかり「いたいけな子供が、りっぱに母親に挨拶して、戦場に出て……、かわいそうに。滅びの美学よ」と、感激してしまいました。
それはよかったのですが、一方、なにも知らずに「三春の滝桜が見てみたい」という母の希望を、二本松のお友達は、「裏切り者の三春の桜なんか、見なくていい」と、拒絶なさったそうです。
いや、桜まで悪いことはないと思うんですが。
もう、なんといいますか、百年を超える恨みですねえ。どうも二本松では、攻めてきた薩摩よりも、同盟関係にありながら、途中で薩長側についた隣藩、三春への恨みの方が強いようです。
その後、母は病気をしまして、一人旅に不安を覚えるようになり、年に一度くらい、私がつきそって旅行をするようになったのですが、その行き先です。旅行が終わると次の日から、次の旅行の希望を、しつこくくり返します。
先年は、函館でした。函館はいいのですが、「五稜郭よ。滅びの美学を見に行くの」と母は言います。続く言葉が、「誰だっけ? 榎本?」
おかーさん、榎本子爵は滅んでませんってば。
いえね、オタクではない母が言っているのは、土方くらいのものだろうとわかってはいたのですが、あれは滅びの美学なんか? という思いもありまして、「函館戦争で死んだ人はいろいろいるわよ」と意地悪く、肩をすくめてみたり。
滅びの美学というなら、息子二人と共に千代ヶ岡砲台で死んだ、中島三郎助なんかが、一番そういう感じを受けます。彼の場合、桂小五郎の師だったこともありますし、降伏しても、助命されることは確実、だったでしょうし。
まあ、ともかく、誰なのかもわからないまま、滅びの美学、といってしまえる母は、すごいですわ。
もっとすごかったのは、実際に函館に行って、母が一番感激したのが、碧血碑だったことです。
一応、説明はしたのですが、母はなにも知らなかったのです。知らなかったにもかかわらず、この碑に込められた旧幕軍への鎮魂の思いを、感じとったんでしょうね。
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「よかった! 滅びの美学よ。あれはなんの碑だった?」
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