宮尾登美子氏が、『天璋院篤姫』という歴史小説を書いておられます。
本来、大奥については資料といえるほどの資料がありませんし、フィクションが多くなってくるのは当然なのですが、ここに描かれた天璋院篤姫像には、リアリティがあります。
分家から本家に引き取られ、薩摩から江戸に出て、養父・斉彬公から託された使命を果たすため、将軍家定の正妻となるのですが、実際に一橋慶喜に会って失望し、「なによりも徳川のためをお考えください」というような、大奥総取り締まり・滝山の説得にも心を動かされ、積極的に動くことをやめ、やがて、慶喜を嫌い抜くようになるのです。
宮尾登美子氏は、これについて後書きの対談で、次のように述べられています。
この小説の中で、天璋院が最後まで慶喜を嫌いまして、家茂が毒殺であるということをずうっと終わりまで言いましたね。それは徳川の天璋院が自分の子として育てました家達の娘さんがまだ生きてらして、お話を伺ったんです。私が、取材させていただきました後ですぐ亡くなられましたけど、その方が、おばあさまに当たる天璋院のお話として、「うちの家訓は代々家茂が毒殺されたということを後々子々孫々まで伝えよ」と、天璋院が大変堅く言い伝えたということとか、そういうふうなことは、私は徳川さんのお話を信じていいと思うのです。それで慶喜さんをとても悪く言っていたと。
家茂は紀州徳川家の出ですが、11代家斉の孫にあたります。一橋慶喜と並んで将軍世継ぎ候補となり、大奥はこちらを支持していたのですが、結局、井伊大老の強引な決定で、慶喜を押しのけて14代将軍となり、皇妹和宮を正妻に迎えた人です。
つまり、天璋院の本来の使命からすれば、敵方、であったわけなのですが、天璋院は家茂を義理の息子として大切に思い、一橋慶喜に毒殺されたと信じこんで、徳川宗家の子々孫々にまで伝えていた、というのですね。
いったいなぜ、そうなったのでしょうか。
天璋院は、島津の分家に生まれた人ですから、最初から江戸屋敷の派手な暮らしの中にあったわけではなく、地味で、厳格な武家のしつけの中に育っていて、また、斉彬公から見込まれたのであってみれば、聡明で、美しい女性だったのでしょう。
宮尾登美子氏もそう描いているように、夫となった家定が、夫としての役目を果たせない人物であった、というのも、事実のように思われます。
昨日、藤田覚著『幕末の天皇』を読み返していて、当時、孝明天皇が近衛左大臣に送った書簡に、家定を「愚昧の大樹(将軍)」と述べているのを発見しました。
近衛家は島津家と姻戚関係にあり、広大院の例にならって、天璋院も近衛左大臣の養女として、将軍家に輿入れしていました。近衛左大臣は当然、一橋派です。
それはともかく、孝明天皇が手紙に書かれるほど、家定が「愚昧」であるという評判は、ひろまっていたことになります。
そういえば、フランス大革命で断頭台の露と消えたルイ16世も、当初、男性としての務めが果たせず、王妃マリー・アントワネットの情緒不安定はそこに原因があった、という説があります。
しかし、ハプスブルク帝国の王女だったマリー・アントアネットにくらべて、薩摩の分家の出であった天璋院は、本来は将軍の正室にふさわしくない身分であったわけですから、誇りの持ちようがちがってきます。血筋ではなく、徳川家の御台所の職分を果たすことに、生き甲斐と誇りを見出したのでしょうし、むしろ、夫をかばって自分が徳川家をささえなければ、という責任感を強く持っただろうことは、宮尾登美子氏の描かれた通りだと思えます。
それでいったい、いつ天璋院は、一橋慶喜を嫌うようになったのでしょうか。
その点では、多少、私は宮尾氏と見方がちがいます。
天璋院は責任感の強い人だったようですし、例え個人的に慶喜に好意を持たなかったにしても、養父・斉彬の見識は信じていたでしょう。また、斉彬は徳川家のために一橋慶喜を押していたわけですから、それと夫をかばうことは矛盾することではない、と感じていたでしょう。
天璋院輿入れの直後から、事態は急展開します。
ハリスが来日し、日米通商条約の調印問題と将軍の世継ぎ問題が、同時に切迫した課題となったのです。京の朝廷もまきこんで、一橋派と紀州派が争う中、紀州派の井伊大老が就任し、間もなく将軍家定が死去し、大老の果断により、条約は調印され、家茂が14代将軍となります。
条約の調印は、ある程度、仕方のないことでした。前々回に書きましたように、攘夷戦争を覚悟することで、覚醒した可能性もあるのですが、幕府は藩ではないのですから、それこそ、国が滅ぶ方向へ行った可能性も、ないではないのです。
斉彬や春嶽は開国派ですし、水戸烈公でさえも、最終的に調印を認めてはいたのです。ただ、一橋派は、調印するにしても幕府の政治機構を大きく改革する必要がある、という立場でしたから、その先頭に立ちうる将軍として、慶喜を据えようとし、条件闘争のような形で、京都朝廷の調印反対の気運を利用していました。
で、京都です。
幕府は、日米和親条約については、朝廷に結果報告しただけです。しかし、通商条約については、将軍世継ぎ問題もからみ、諸大名の意見が割れたため、天皇の勅許があれば反対派も納得するだろうと、勅許を得ようとしたのです。簡単に得られるはずでした。
それが……、得られなかったのです。
幕府の意志決断を老中が担っていたように、朝廷もまた、意志決断は最終的に摂政関に任され、天皇はお飾りのはず、だったんです。
将軍が口をききはじめるより早く、「愚昧の大樹」に任せてはおけない、とばかりに、天皇が、動きはじめたんですね。
朝廷も幕府と同じで、頂点はお飾りにすぎない、という政治機構になっていますから、頂点にいる天皇が、それを破って発言をしようとすると、別の回路が必要になってきます。それで天皇は、広く、下位の公家にまで意見を求められ、結果、摂政関白が牛耳るという、これまでの機構は否定されてしまったんです。
長く政治にかかわってこなかった朝廷は、幕府のように国政に責任を持つ機構ではありませんから、天皇のひと動きで、いとも簡単に流動化しました。
その朝廷と、一橋派は手を結んでいるのです。
これは、幕府守旧派から見れば、看過できない事態でした。
井伊大老は、無勅許調印を責めた一橋派の諸侯に蟄居を命じ、弾圧しました。安政の大獄のはじまりです。
この事態に、国元にいた島津斉彬は、軍勢を率いて江戸へ出て、幕政改革をせまろうともくろんでいた、といわれますが、志を果たせないまま、急死しました。
もはや、井伊大老の果断をはばめる者はいません。弾圧は各藩の志士、公家にも及び、志士たちへの扱いは苛烈をきわめました。西郷隆盛は月照をかばいきれずに入水、吉田松陰の死刑と、これが、各藩の志士たちの反幕感情に、火をつけたのです。
わけても、孝明天皇の勅書をもらった水戸藩では、家老や京都留守居役まで死罪となり、藩士たちの反感は強烈だったのですが、薩長の志士たちとちがうのは、やはり反幕というよりは、幕府守旧派や井伊大老個人への恨みが強かった点でしょう。
水戸浪士と、ただ一人薩摩から有村治左衛門が参加して、井伊大老は、桜田門外で首を落とされます。
下級藩士たちが、幕府の大老という最高権力者を斬殺したのです。幕府の権力は失墜し、朝廷に続いて、各藩が流動化するきざしが、見えはじめました。
天璋院はどうしていたでしょうか。
夫の死に引き続き、養父斉彬の死、さらには同じく養父である近衛左大臣にも弾圧の手はのびて、井伊大老に対しては、けっして好感情は持てなかったはずです。
しかし、年若くして将軍となった家茂に対しては、今度は養母として、かばってあげなければ、という強い責任感とともに、好感を抱いていたようなのです。
家茂は、まわりに、「この方のためならば」と思わせる、気配りのできる少年であったようです。
勝海舟も好意的な回想を残していますし、けっして守旧派であったわけではなく、幕府の組織がしっかり機能している場合であったならば、名君と呼ばれてもおかしくなかったでしょう。
さて、桜田門外に続く次の衝撃は、島津斉彬の異母弟、久光です。
斉彬は斉興の正妻の息子でしたが、久光の母はお国御前、お由羅の方です。江戸の町人の娘だったお由羅は、斉興の寵愛を得て、自分の息子を藩主にしようとたくらんだといわれ、斉彬の藩主就任は異常に遅くなりましたし、世継ぎの男子は次々に夭折します。斉彬派の藩士が騒いで弾圧され、お由羅騒動と呼ばれるほどの確執がくりひろげられたのです。
その確執を乗り越えて藩主となった斉彬は、久光の息子を世継ぎに据え、久光に後をたくすのです。
斉彬は正室腹の世子で、江戸で生まれ江戸で育ちましたが、久光は薩摩で育ち、視野が狭く、人付き合いが下手ではありましたが、生真面目だった、とはいえると思います。自分なりに、真剣に兄の意志を継ごうとしたのでしょう。
桜田門外の変の時、誠忠組と呼ばれていた薩摩の尊皇派の一部は、水戸浪士と提携して京へ上ろう、としていたのですが、それを止めたのは、大久保利通に話を聞いた久光であったといわれます。
「幕政改革は藩を挙げて迫らなければ不可能だ」という久光の言い分は、もっともではあったでしょう。
久光は、藩政を掌握し、ついに薩摩藩兵を率いて、京へ、そして江戸へ、向かいます。しかし、井伊大老の弾圧と桜田門外の変を経て、世の中は大きく変わっていたのです。
薩摩が動く、という知らせは、西日本を駆けめぐり、尊皇派の志士たちは色めきたちます。坂本龍馬が脱藩したのも、このときです。
いえ、長州などは藩を上げて、薩摩と連携する気配さえ見せていました。
余談ですが、幕末も早い時期から、なぜ薩摩の軍が他を圧して強かったか。
もちろん、斉彬が軍の洋式化に腐心した、ということもあります。
しかし洋式化とは、外国から新式銃を買えばすむことではなく、簡単にいってしまえば、銃を持つ歩兵を数多く養成すること、なんです。
他藩には、この歩兵がいません。
ペリー来航以来、国防が叫ばれ、各藩は兵士を養成しようとするのですが、そもそも下級藩士の数が少なく、しかも役人化していて、歩兵にはならないのです。そこで大多数の藩は、郷士や農兵を募集しますが、これも、はかばかしくは集まりません。
ちなみに、土佐郷士が勤王党を結成して志士化したのも、もとはといえば、海防のために、土佐藩が郷士をかり集めたことがきっかけです。
しかし、薩摩はちがっていました。農民より貧しいほどの下級藩士の数が、異常に多かったのです。しかも薩摩には、そもそも戦国時代、足軽ではなく藩士が、銃を持って戦った、という伝統があったんですね。
また伝統だけではなく、貧しくて、山の畑を耕したり、開墾に携わった藩士が多い、ということは、それぞれが鉄砲を持っている、ということでもあります。猪などの害から農作物を守るために、必要なのです。
その強力な薩摩藩兵を千人あまりも引き連れ、大砲まで引いて、久光は上京したのです。
久光本人は、幕政を改革し公武合体の実を上げるため、つまりは、幕府のためにやっていることだと、思い込んでいました。
京都で、自藩の尊攘激派を上意討ちにし(寺田屋事件です)、志士たちの期待には冷や水をあびせましたが、それくらいのことで、京に巻き起こった熱気がおさまるわけがありません。
しかしともかく京はそのまま置いておいて、朝廷の勅使を伴い、軍勢をも引き連れたまま江戸へ行き、幕府に脅しをかけて、改革を迫ったわけなのです。改革の目玉は人事で、とりわけ、一橋慶喜を将軍後見職にする、というものでした。
無茶苦茶です。
慶喜が将軍になることと、家茂という将軍がいるにもかかわらず、さらに後見職をかぶせることとでは、まったく意味が変わってきます。
しかも慶喜には、よって立つ地盤がありません。
一橋家は、格式は高いのですが、水戸などの御三家とちがって、領国のある大名ではなく、独自の家臣団がいないのです。必要最小限の家臣は、幕府からの出向でした。
その慶喜が、薩摩軍団の圧力により、朝廷の口出しという形で将軍後見職になったのでは、幕府側が反感を持たないわけがありません。
嫁ぎ先に実家の理不尽な圧力がかかる、というこの事態に、天璋院はどうしていたのでしょうか。
この時期の資料はないらしく、宮尾登美子氏もほとんど触れておられません。
ただ、養子である家茂に、母性愛を育んでいたらしい天璋院の立場に立てば、わが子を貶めるような形で、一橋慶喜が浮上してきたことは、歓迎できなかったのではないか、と思えます。
また斉彬に見込まれたほど聡明であったわけですから、慶喜が将軍になることと、家茂にかぶさってくることとのちがいは、十二分にわかっていたはずです。
そして、おそらくこの時点で、天璋院は慶喜とゆっくりと話し合う機会を、得ていたのではないのでしょうか。
天璋院が慶喜への反感を育みはじめたのは、この時期からであったのではないか、と、私は思うのです。
で、また続きます。次回でしめくくれると思うのですが。
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分家から本家に引き取られ、薩摩から江戸に出て、養父・斉彬公から託された使命を果たすため、将軍家定の正妻となるのですが、実際に一橋慶喜に会って失望し、「なによりも徳川のためをお考えください」というような、大奥総取り締まり・滝山の説得にも心を動かされ、積極的に動くことをやめ、やがて、慶喜を嫌い抜くようになるのです。
宮尾登美子氏は、これについて後書きの対談で、次のように述べられています。
この小説の中で、天璋院が最後まで慶喜を嫌いまして、家茂が毒殺であるということをずうっと終わりまで言いましたね。それは徳川の天璋院が自分の子として育てました家達の娘さんがまだ生きてらして、お話を伺ったんです。私が、取材させていただきました後ですぐ亡くなられましたけど、その方が、おばあさまに当たる天璋院のお話として、「うちの家訓は代々家茂が毒殺されたということを後々子々孫々まで伝えよ」と、天璋院が大変堅く言い伝えたということとか、そういうふうなことは、私は徳川さんのお話を信じていいと思うのです。それで慶喜さんをとても悪く言っていたと。
家茂は紀州徳川家の出ですが、11代家斉の孫にあたります。一橋慶喜と並んで将軍世継ぎ候補となり、大奥はこちらを支持していたのですが、結局、井伊大老の強引な決定で、慶喜を押しのけて14代将軍となり、皇妹和宮を正妻に迎えた人です。
つまり、天璋院の本来の使命からすれば、敵方、であったわけなのですが、天璋院は家茂を義理の息子として大切に思い、一橋慶喜に毒殺されたと信じこんで、徳川宗家の子々孫々にまで伝えていた、というのですね。
いったいなぜ、そうなったのでしょうか。
天璋院は、島津の分家に生まれた人ですから、最初から江戸屋敷の派手な暮らしの中にあったわけではなく、地味で、厳格な武家のしつけの中に育っていて、また、斉彬公から見込まれたのであってみれば、聡明で、美しい女性だったのでしょう。
宮尾登美子氏もそう描いているように、夫となった家定が、夫としての役目を果たせない人物であった、というのも、事実のように思われます。
昨日、藤田覚著『幕末の天皇』を読み返していて、当時、孝明天皇が近衛左大臣に送った書簡に、家定を「愚昧の大樹(将軍)」と述べているのを発見しました。
近衛家は島津家と姻戚関係にあり、広大院の例にならって、天璋院も近衛左大臣の養女として、将軍家に輿入れしていました。近衛左大臣は当然、一橋派です。
それはともかく、孝明天皇が手紙に書かれるほど、家定が「愚昧」であるという評判は、ひろまっていたことになります。
そういえば、フランス大革命で断頭台の露と消えたルイ16世も、当初、男性としての務めが果たせず、王妃マリー・アントワネットの情緒不安定はそこに原因があった、という説があります。
しかし、ハプスブルク帝国の王女だったマリー・アントアネットにくらべて、薩摩の分家の出であった天璋院は、本来は将軍の正室にふさわしくない身分であったわけですから、誇りの持ちようがちがってきます。血筋ではなく、徳川家の御台所の職分を果たすことに、生き甲斐と誇りを見出したのでしょうし、むしろ、夫をかばって自分が徳川家をささえなければ、という責任感を強く持っただろうことは、宮尾登美子氏の描かれた通りだと思えます。
それでいったい、いつ天璋院は、一橋慶喜を嫌うようになったのでしょうか。
その点では、多少、私は宮尾氏と見方がちがいます。
天璋院は責任感の強い人だったようですし、例え個人的に慶喜に好意を持たなかったにしても、養父・斉彬の見識は信じていたでしょう。また、斉彬は徳川家のために一橋慶喜を押していたわけですから、それと夫をかばうことは矛盾することではない、と感じていたでしょう。
天璋院輿入れの直後から、事態は急展開します。
ハリスが来日し、日米通商条約の調印問題と将軍の世継ぎ問題が、同時に切迫した課題となったのです。京の朝廷もまきこんで、一橋派と紀州派が争う中、紀州派の井伊大老が就任し、間もなく将軍家定が死去し、大老の果断により、条約は調印され、家茂が14代将軍となります。
条約の調印は、ある程度、仕方のないことでした。前々回に書きましたように、攘夷戦争を覚悟することで、覚醒した可能性もあるのですが、幕府は藩ではないのですから、それこそ、国が滅ぶ方向へ行った可能性も、ないではないのです。
斉彬や春嶽は開国派ですし、水戸烈公でさえも、最終的に調印を認めてはいたのです。ただ、一橋派は、調印するにしても幕府の政治機構を大きく改革する必要がある、という立場でしたから、その先頭に立ちうる将軍として、慶喜を据えようとし、条件闘争のような形で、京都朝廷の調印反対の気運を利用していました。
で、京都です。
幕府は、日米和親条約については、朝廷に結果報告しただけです。しかし、通商条約については、将軍世継ぎ問題もからみ、諸大名の意見が割れたため、天皇の勅許があれば反対派も納得するだろうと、勅許を得ようとしたのです。簡単に得られるはずでした。
それが……、得られなかったのです。
幕府の意志決断を老中が担っていたように、朝廷もまた、意志決断は最終的に摂政関に任され、天皇はお飾りのはず、だったんです。
将軍が口をききはじめるより早く、「愚昧の大樹」に任せてはおけない、とばかりに、天皇が、動きはじめたんですね。
朝廷も幕府と同じで、頂点はお飾りにすぎない、という政治機構になっていますから、頂点にいる天皇が、それを破って発言をしようとすると、別の回路が必要になってきます。それで天皇は、広く、下位の公家にまで意見を求められ、結果、摂政関白が牛耳るという、これまでの機構は否定されてしまったんです。
長く政治にかかわってこなかった朝廷は、幕府のように国政に責任を持つ機構ではありませんから、天皇のひと動きで、いとも簡単に流動化しました。
その朝廷と、一橋派は手を結んでいるのです。
これは、幕府守旧派から見れば、看過できない事態でした。
井伊大老は、無勅許調印を責めた一橋派の諸侯に蟄居を命じ、弾圧しました。安政の大獄のはじまりです。
この事態に、国元にいた島津斉彬は、軍勢を率いて江戸へ出て、幕政改革をせまろうともくろんでいた、といわれますが、志を果たせないまま、急死しました。
もはや、井伊大老の果断をはばめる者はいません。弾圧は各藩の志士、公家にも及び、志士たちへの扱いは苛烈をきわめました。西郷隆盛は月照をかばいきれずに入水、吉田松陰の死刑と、これが、各藩の志士たちの反幕感情に、火をつけたのです。
わけても、孝明天皇の勅書をもらった水戸藩では、家老や京都留守居役まで死罪となり、藩士たちの反感は強烈だったのですが、薩長の志士たちとちがうのは、やはり反幕というよりは、幕府守旧派や井伊大老個人への恨みが強かった点でしょう。
水戸浪士と、ただ一人薩摩から有村治左衛門が参加して、井伊大老は、桜田門外で首を落とされます。
下級藩士たちが、幕府の大老という最高権力者を斬殺したのです。幕府の権力は失墜し、朝廷に続いて、各藩が流動化するきざしが、見えはじめました。
天璋院はどうしていたでしょうか。
夫の死に引き続き、養父斉彬の死、さらには同じく養父である近衛左大臣にも弾圧の手はのびて、井伊大老に対しては、けっして好感情は持てなかったはずです。
しかし、年若くして将軍となった家茂に対しては、今度は養母として、かばってあげなければ、という強い責任感とともに、好感を抱いていたようなのです。
家茂は、まわりに、「この方のためならば」と思わせる、気配りのできる少年であったようです。
勝海舟も好意的な回想を残していますし、けっして守旧派であったわけではなく、幕府の組織がしっかり機能している場合であったならば、名君と呼ばれてもおかしくなかったでしょう。
さて、桜田門外に続く次の衝撃は、島津斉彬の異母弟、久光です。
斉彬は斉興の正妻の息子でしたが、久光の母はお国御前、お由羅の方です。江戸の町人の娘だったお由羅は、斉興の寵愛を得て、自分の息子を藩主にしようとたくらんだといわれ、斉彬の藩主就任は異常に遅くなりましたし、世継ぎの男子は次々に夭折します。斉彬派の藩士が騒いで弾圧され、お由羅騒動と呼ばれるほどの確執がくりひろげられたのです。
その確執を乗り越えて藩主となった斉彬は、久光の息子を世継ぎに据え、久光に後をたくすのです。
斉彬は正室腹の世子で、江戸で生まれ江戸で育ちましたが、久光は薩摩で育ち、視野が狭く、人付き合いが下手ではありましたが、生真面目だった、とはいえると思います。自分なりに、真剣に兄の意志を継ごうとしたのでしょう。
桜田門外の変の時、誠忠組と呼ばれていた薩摩の尊皇派の一部は、水戸浪士と提携して京へ上ろう、としていたのですが、それを止めたのは、大久保利通に話を聞いた久光であったといわれます。
「幕政改革は藩を挙げて迫らなければ不可能だ」という久光の言い分は、もっともではあったでしょう。
久光は、藩政を掌握し、ついに薩摩藩兵を率いて、京へ、そして江戸へ、向かいます。しかし、井伊大老の弾圧と桜田門外の変を経て、世の中は大きく変わっていたのです。
薩摩が動く、という知らせは、西日本を駆けめぐり、尊皇派の志士たちは色めきたちます。坂本龍馬が脱藩したのも、このときです。
いえ、長州などは藩を上げて、薩摩と連携する気配さえ見せていました。
余談ですが、幕末も早い時期から、なぜ薩摩の軍が他を圧して強かったか。
もちろん、斉彬が軍の洋式化に腐心した、ということもあります。
しかし洋式化とは、外国から新式銃を買えばすむことではなく、簡単にいってしまえば、銃を持つ歩兵を数多く養成すること、なんです。
他藩には、この歩兵がいません。
ペリー来航以来、国防が叫ばれ、各藩は兵士を養成しようとするのですが、そもそも下級藩士の数が少なく、しかも役人化していて、歩兵にはならないのです。そこで大多数の藩は、郷士や農兵を募集しますが、これも、はかばかしくは集まりません。
ちなみに、土佐郷士が勤王党を結成して志士化したのも、もとはといえば、海防のために、土佐藩が郷士をかり集めたことがきっかけです。
しかし、薩摩はちがっていました。農民より貧しいほどの下級藩士の数が、異常に多かったのです。しかも薩摩には、そもそも戦国時代、足軽ではなく藩士が、銃を持って戦った、という伝統があったんですね。
また伝統だけではなく、貧しくて、山の畑を耕したり、開墾に携わった藩士が多い、ということは、それぞれが鉄砲を持っている、ということでもあります。猪などの害から農作物を守るために、必要なのです。
その強力な薩摩藩兵を千人あまりも引き連れ、大砲まで引いて、久光は上京したのです。
久光本人は、幕政を改革し公武合体の実を上げるため、つまりは、幕府のためにやっていることだと、思い込んでいました。
京都で、自藩の尊攘激派を上意討ちにし(寺田屋事件です)、志士たちの期待には冷や水をあびせましたが、それくらいのことで、京に巻き起こった熱気がおさまるわけがありません。
しかしともかく京はそのまま置いておいて、朝廷の勅使を伴い、軍勢をも引き連れたまま江戸へ行き、幕府に脅しをかけて、改革を迫ったわけなのです。改革の目玉は人事で、とりわけ、一橋慶喜を将軍後見職にする、というものでした。
無茶苦茶です。
慶喜が将軍になることと、家茂という将軍がいるにもかかわらず、さらに後見職をかぶせることとでは、まったく意味が変わってきます。
しかも慶喜には、よって立つ地盤がありません。
一橋家は、格式は高いのですが、水戸などの御三家とちがって、領国のある大名ではなく、独自の家臣団がいないのです。必要最小限の家臣は、幕府からの出向でした。
その慶喜が、薩摩軍団の圧力により、朝廷の口出しという形で将軍後見職になったのでは、幕府側が反感を持たないわけがありません。
嫁ぎ先に実家の理不尽な圧力がかかる、というこの事態に、天璋院はどうしていたのでしょうか。
この時期の資料はないらしく、宮尾登美子氏もほとんど触れておられません。
ただ、養子である家茂に、母性愛を育んでいたらしい天璋院の立場に立てば、わが子を貶めるような形で、一橋慶喜が浮上してきたことは、歓迎できなかったのではないか、と思えます。
また斉彬に見込まれたほど聡明であったわけですから、慶喜が将軍になることと、家茂にかぶさってくることとのちがいは、十二分にわかっていたはずです。
そして、おそらくこの時点で、天璋院は慶喜とゆっくりと話し合う機会を、得ていたのではないのでしょうか。
天璋院が慶喜への反感を育みはじめたのは、この時期からであったのではないか、と、私は思うのです。
で、また続きます。次回でしめくくれると思うのですが。
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