昨日のディープインパクト敗戦ショックが尾を引いていますが、気をとりなおして。
先日、過疎の村に人がいなくなり、次々と廃村になって、鎮守の神様が消え、治水にも影響が出ている、というようなことをNHKのクローズアップ現代でやっていました。
つい、なにをいまさら、と思ってしまいました。
かなり以前、仕事で、四国の僻村を取材してまわりましたが、暗澹とした気分になったものでした。
僻地の山村には、仕事がないんです。
木材は育てても赤字ですし、シイタケや果実などの農作物は、いくらでも外国から安価なものが入ってきます。土木工事と役場関係の仕事で、ようやく、細々と過疎地に人がいたんです。その片手間で、農業や林業をしていたわけです。
土木工事は、税金の無駄使いだったかもしれませんし、利権もあったでしょう。しかし、それで雇用が生まれ、薄くても、全体に金がまわっていたんです。
もはや日本の経済に、そんなことに金をまわす余裕は、なくなったんですよね?
構造改革が僻村をつぶすことは、やる前からわかっていました。
そういえば、最初に構造改革が叫ばれていたころ、行きつけのチャットで論争して、「そんなことばかりしていたら、過疎地に住む人がまったくいなくなる」と言ったのですが、だれも、賛同してはくれませんでした。
「インターネットが発達するし、僻地でもできる居宅の仕事が増える」とかいっていたおじさんも、いましたっけ。
あー、ね。パソコンが壊れたって、僻地に住んでいれば、すぐには直せませんわね。街にいれば、仕事でどうしてもすぐに必要な場合、買いに走れます。実際私は、一度、どうしてもその日にパソが必要なので、買ったことがありました。
それに、ずっと居宅でできる仕事なんて、めったにないですよね。
同じころ、地方紙の特集で、瀬戸内海の小島に住んで、世界的な仕事をしている外国人の話などが載っていましたけれど、それは、馬鹿げた大赤字の土木工事、といわれている瀬戸大橋今治尾道ルートぞいの小島で、広島空港に短時間で行けるようになったところ、なんです。
また、子供の教育の問題もあります。僻村では、通う中学校や高校も遠く、寄宿舎だったりします。経済的に余裕が有れば、高校から下宿させて街へ出しますけどね。
私自身は、これまでずっと都市生活者でした。
家庭の事情で、高校を出た後、僻村の生家に留まらなくてはいけなくなった若い子を知っていましたが、そのやりきれなさは、聞いて十分に理解できましたし、村を出たいという気持ちも、もっともに思いました。
いえ、生まれた土地に愛着がないわけではないんです。しかし、若い子にとって僻村の暮らしは、あまりにも刺激がなさすぎ、束縛ばかりが多いんです。
鎮守の神様や伝統行事の保存といったって、若者は少ないですから、そのごく少ない若者に、過重に負担がかかります。さまざまな村の行事やつきあいに、都会に住めば自分の自由になる時間を、すべて捧げなければならないんです。
高校や大学、あるいは就職で街へ出て、やがて結婚して子供ができて、都市に生活が根付けば、とても僻村では暮らせなくなります。
そういう子も、知っています。彼女も、彼女の兄弟も、もう、生まれた村には帰らないでしょう。愛着は深くても、住める場所ではなくなっているのですね。
私はもう、あきらめています。
国家経済に余裕がなくなった、というなら、それもそうなんでしょう。
確実にできることは、都市居住者から、治水税か環境税といったような、反対の少ない名目で金を集めて、過疎地にまわすこと、くらいじゃないんでしょうか。
私? 都市居住者として、もちろん喜んで払います。
先日、過疎の村に人がいなくなり、次々と廃村になって、鎮守の神様が消え、治水にも影響が出ている、というようなことをNHKのクローズアップ現代でやっていました。
つい、なにをいまさら、と思ってしまいました。
かなり以前、仕事で、四国の僻村を取材してまわりましたが、暗澹とした気分になったものでした。
僻地の山村には、仕事がないんです。
木材は育てても赤字ですし、シイタケや果実などの農作物は、いくらでも外国から安価なものが入ってきます。土木工事と役場関係の仕事で、ようやく、細々と過疎地に人がいたんです。その片手間で、農業や林業をしていたわけです。
土木工事は、税金の無駄使いだったかもしれませんし、利権もあったでしょう。しかし、それで雇用が生まれ、薄くても、全体に金がまわっていたんです。
もはや日本の経済に、そんなことに金をまわす余裕は、なくなったんですよね?
構造改革が僻村をつぶすことは、やる前からわかっていました。
そういえば、最初に構造改革が叫ばれていたころ、行きつけのチャットで論争して、「そんなことばかりしていたら、過疎地に住む人がまったくいなくなる」と言ったのですが、だれも、賛同してはくれませんでした。
「インターネットが発達するし、僻地でもできる居宅の仕事が増える」とかいっていたおじさんも、いましたっけ。
あー、ね。パソコンが壊れたって、僻地に住んでいれば、すぐには直せませんわね。街にいれば、仕事でどうしてもすぐに必要な場合、買いに走れます。実際私は、一度、どうしてもその日にパソが必要なので、買ったことがありました。
それに、ずっと居宅でできる仕事なんて、めったにないですよね。
同じころ、地方紙の特集で、瀬戸内海の小島に住んで、世界的な仕事をしている外国人の話などが載っていましたけれど、それは、馬鹿げた大赤字の土木工事、といわれている瀬戸大橋今治尾道ルートぞいの小島で、広島空港に短時間で行けるようになったところ、なんです。
また、子供の教育の問題もあります。僻村では、通う中学校や高校も遠く、寄宿舎だったりします。経済的に余裕が有れば、高校から下宿させて街へ出しますけどね。
私自身は、これまでずっと都市生活者でした。
家庭の事情で、高校を出た後、僻村の生家に留まらなくてはいけなくなった若い子を知っていましたが、そのやりきれなさは、聞いて十分に理解できましたし、村を出たいという気持ちも、もっともに思いました。
いえ、生まれた土地に愛着がないわけではないんです。しかし、若い子にとって僻村の暮らしは、あまりにも刺激がなさすぎ、束縛ばかりが多いんです。
鎮守の神様や伝統行事の保存といったって、若者は少ないですから、そのごく少ない若者に、過重に負担がかかります。さまざまな村の行事やつきあいに、都会に住めば自分の自由になる時間を、すべて捧げなければならないんです。
高校や大学、あるいは就職で街へ出て、やがて結婚して子供ができて、都市に生活が根付けば、とても僻村では暮らせなくなります。
そういう子も、知っています。彼女も、彼女の兄弟も、もう、生まれた村には帰らないでしょう。愛着は深くても、住める場所ではなくなっているのですね。
私はもう、あきらめています。
国家経済に余裕がなくなった、というなら、それもそうなんでしょう。
確実にできることは、都市居住者から、治水税か環境税といったような、反対の少ない名目で金を集めて、過疎地にまわすこと、くらいじゃないんでしょうか。
私? 都市居住者として、もちろん喜んで払います。