なんとなく、野口武彦氏が『幕府歩兵隊』で一言もらされていた靖国に対するお言葉の真意が気になって、ぐぐっていたら、ありました。
今年話題になった高橋哲哉氏の『靖国問題』を、論評なさっていたのです。
asahi.com書評 靖国問題
明快である。だが靖国問題は、どう論じても俗にいう「割り切れない」ものを残す。《靖国感情》のほぼ主成分をなすこの要素は、論理とはまた別の方法で透析するしかない。本書には不思議に土俗の匂(にお)いがしない。招魂社の夜店・見世物(みせもの)は昔の東京名物で、例祭の日、境内にむらがる群衆には怪しげで猥雑(わいざつ)な活気が溢(あふ)れ、アセチレン燈(とう)の臭気がせつなく郷愁をかきたてていた。《靖国感情》はこのドロドロした底層から、死者と生者が同一空間で行き交う精霊信仰の水を吸い上げている。この泉に政治が手を突っ込むのは不純だ。民衆みずからそう感じることが大切なのではないか。
あー、私が感じていたことなど、十分ご承知の上で、書いていらしたのですね。
うー、なんかとても困るんですよね。ものすごく私と似た感性を持っておられて、はるかに頭脳明晰で、学識豊かでおられる。それでいて、最後の最後の結論に、私は賛成しかねてしまう。
おそらく私は、ナショナルな幻影の政治利用を、必要なものだと思っているんですね。多くの人が、幻影なくして生きられないと同じように、国家というものも、物語を……、詐欺を必要としているのだと。
といいますか、せめて国家が幻影をつなぎとめておいてくれなければ、祖父母が生きた時代の土俗の思いは、のっぺらぼうな世界に呑み込まれて消えしまう、と、確信しているのでしょう。
国立の無宗教慰霊碑という存在は、思い浮かべただけで、気持ちが悪いんです。
つまり、まあ、これも積み重なった時間の問題で、ありえないことですが、戦後すぐにそれができていて、母は来ました~♪ とか、えーと岸壁の母、でしたっけ、そういうおかあさんたちもみんな、靖国ではなく無宗教慰霊碑に息子に会いにいったのならば、それでよかったんですけど。
満州からの引き揚げ者の方から、キリスト教だったご主人が、死ぬ前にどうしても、戦友にあいに靖国に行く、といって、病身を押し切って参ったお話など聞きますとね、ここに首相が参らないのは、国家の責任者として非礼だろうと。
靖国問題を考える上でも、ぜひ野口先生に、江戸の国学思想を取り上げてもらいたい、と、前々から思っていました。
平田国学は、偏っていたかもしれません。しかし、土俗の感情を吸い上げていたことはたしかですし、商人、回船問屋などに、ひろく門人がいて、彼らの世界が狭かったわけではなく、維新の原動力のひとつであったこともたしかです。
ぜひ……、と思っていたら、こんな解説をなさっていました。
asahi.com書評 国学の他者像
えーと、本の解説自体はおもしろくて、読んでみたい気にさせてくださったのですが、この部分はどうなんでしょ。うーん。
社会にネオナショナリズムの波がうねるとき、その根底ではネオ国学の心性が動いている。自己の複数化として「公」を強調する立場は、異論をすべて他者として排除する。それと奇妙に共存しているプチ保守主義の「私」の視野には、最初から他者が入ってこない。
いま、ネオナショナリズムの波がうねっているんですか? 知りませんでした。まあ、それほど世の中を見ているわけではないですから、わかりませんけど、「異論をすべて他者として排除する」「最初から他者が入ってこない」のは、ナショナリズムの保守のの問題なんでしょうか。
えーと、夏のNHKの歴史問題などの討論番組でしたが、他県で医者をしている妹から電話があって、「見てる? おもしろいよ! マンガに出てくる新興宗教の信者みたいなプロ市民がいっぱいいる~♪」と笑い転げていうものですから、見てみましたら、ほんとにそんな人たちがいました。特に、中学校だかの先生をやっているというおばさん(おばあさんかな)は、平田国学信者顔負、だったのではないか、と思います。いえね、平田国学信者を見たことがありませんので、断言できないんですが。
「プロ市民」と呼ばれる方々は、ネオナショナリズムのプチ保守のとは、言われませんよね。
おそらくそれは、こちらの問題じゃないんでしょうか。
asahi.com書評 国語教科書の思想
この一冊が告発するのは、国語科でひっそりと進行している危機である。「戦後の学校空間で行われる国語教育は、詰まるところ道徳教育なのである」というのが著者の基本的な現状批判である。道徳が悪いのではない。特定の徳目を国語が唯一無二の「正しい読み」として教え込むことが危なっかしいのだ。
それはまた、ひどいことになっているものですねえ。
どうも、小中学校の先生に多そうですよね。「異論をすべて他者として排除する」という傾向を持つ方々。この本も、読んでみたくなりました。
今年話題になった高橋哲哉氏の『靖国問題』を、論評なさっていたのです。
asahi.com書評 靖国問題
明快である。だが靖国問題は、どう論じても俗にいう「割り切れない」ものを残す。《靖国感情》のほぼ主成分をなすこの要素は、論理とはまた別の方法で透析するしかない。本書には不思議に土俗の匂(にお)いがしない。招魂社の夜店・見世物(みせもの)は昔の東京名物で、例祭の日、境内にむらがる群衆には怪しげで猥雑(わいざつ)な活気が溢(あふ)れ、アセチレン燈(とう)の臭気がせつなく郷愁をかきたてていた。《靖国感情》はこのドロドロした底層から、死者と生者が同一空間で行き交う精霊信仰の水を吸い上げている。この泉に政治が手を突っ込むのは不純だ。民衆みずからそう感じることが大切なのではないか。
あー、私が感じていたことなど、十分ご承知の上で、書いていらしたのですね。
うー、なんかとても困るんですよね。ものすごく私と似た感性を持っておられて、はるかに頭脳明晰で、学識豊かでおられる。それでいて、最後の最後の結論に、私は賛成しかねてしまう。
おそらく私は、ナショナルな幻影の政治利用を、必要なものだと思っているんですね。多くの人が、幻影なくして生きられないと同じように、国家というものも、物語を……、詐欺を必要としているのだと。
といいますか、せめて国家が幻影をつなぎとめておいてくれなければ、祖父母が生きた時代の土俗の思いは、のっぺらぼうな世界に呑み込まれて消えしまう、と、確信しているのでしょう。
国立の無宗教慰霊碑という存在は、思い浮かべただけで、気持ちが悪いんです。
つまり、まあ、これも積み重なった時間の問題で、ありえないことですが、戦後すぐにそれができていて、母は来ました~♪ とか、えーと岸壁の母、でしたっけ、そういうおかあさんたちもみんな、靖国ではなく無宗教慰霊碑に息子に会いにいったのならば、それでよかったんですけど。
満州からの引き揚げ者の方から、キリスト教だったご主人が、死ぬ前にどうしても、戦友にあいに靖国に行く、といって、病身を押し切って参ったお話など聞きますとね、ここに首相が参らないのは、国家の責任者として非礼だろうと。
靖国問題を考える上でも、ぜひ野口先生に、江戸の国学思想を取り上げてもらいたい、と、前々から思っていました。
平田国学は、偏っていたかもしれません。しかし、土俗の感情を吸い上げていたことはたしかですし、商人、回船問屋などに、ひろく門人がいて、彼らの世界が狭かったわけではなく、維新の原動力のひとつであったこともたしかです。
ぜひ……、と思っていたら、こんな解説をなさっていました。
asahi.com書評 国学の他者像
えーと、本の解説自体はおもしろくて、読んでみたい気にさせてくださったのですが、この部分はどうなんでしょ。うーん。
社会にネオナショナリズムの波がうねるとき、その根底ではネオ国学の心性が動いている。自己の複数化として「公」を強調する立場は、異論をすべて他者として排除する。それと奇妙に共存しているプチ保守主義の「私」の視野には、最初から他者が入ってこない。
いま、ネオナショナリズムの波がうねっているんですか? 知りませんでした。まあ、それほど世の中を見ているわけではないですから、わかりませんけど、「異論をすべて他者として排除する」「最初から他者が入ってこない」のは、ナショナリズムの保守のの問題なんでしょうか。
えーと、夏のNHKの歴史問題などの討論番組でしたが、他県で医者をしている妹から電話があって、「見てる? おもしろいよ! マンガに出てくる新興宗教の信者みたいなプロ市民がいっぱいいる~♪」と笑い転げていうものですから、見てみましたら、ほんとにそんな人たちがいました。特に、中学校だかの先生をやっているというおばさん(おばあさんかな)は、平田国学信者顔負、だったのではないか、と思います。いえね、平田国学信者を見たことがありませんので、断言できないんですが。
「プロ市民」と呼ばれる方々は、ネオナショナリズムのプチ保守のとは、言われませんよね。
おそらくそれは、こちらの問題じゃないんでしょうか。
asahi.com書評 国語教科書の思想
この一冊が告発するのは、国語科でひっそりと進行している危機である。「戦後の学校空間で行われる国語教育は、詰まるところ道徳教育なのである」というのが著者の基本的な現状批判である。道徳が悪いのではない。特定の徳目を国語が唯一無二の「正しい読み」として教え込むことが危なっかしいのだ。
それはまた、ひどいことになっているものですねえ。
どうも、小中学校の先生に多そうですよね。「異論をすべて他者として排除する」という傾向を持つ方々。この本も、読んでみたくなりました。