田舎住まい

吸血鬼テーマーの怪奇伝記小説を書いています。

随筆5  瓦  麻屋与志夫

2024-03-29 10:19:59 | 随筆
3月29日金曜日 雨
●夜来の雨がふりやまず、まだ降り続いている。16年も前に書いた随筆をどなたか読んでくれた。そこはパソコンのありがたさ。ポンとキーを打った。下記の随筆があらわれた。読み返したがけっこうおもしろいので再録しました。


2008-03-19 22:15:00 | Weblog
3月19日
瓦 (随筆)
 瓦への憧憬は幼少の頃からあった。
 明治維新のあと、士魂商才という言葉があるが、母の実家は瓦屋になった。
 剣をもつ手で粘土をこね始めたわけである。そうした、父の苦境におちた環境の激変について、母はぼくによく話してくれた。
 朝の陽光をあびて働く父や瓦職人の姿を実にリアルに話してくれた。 
 まんじゅう型の瓦窯から立ち上る紫煙を、庭先にでて家族全員で眺めたときの感慨など、明治を生きた人々の姿が、強烈な印象となって、ぼくの幼い脳裏にやきついた。
勿論、武器をふりまわすより、土をこねまわすほうが平和でいい。
自然に慣れ親しんで生活したほうがより人間らしい。だが当時は、これを没落といった。ながく停滞した武家政治が崩壊したわけで、悲劇がいたるところで派生した。          
後年、母方の祖父が焼いた鬼瓦をみせてもらったが、素朴ななかにも武士の気魄のこもった重量感あふれるものであった。
未知の未来に向って何か形ある存在を残すのはいいことだ。ご先祖様との繋がりを子孫が親しみをこめて思いだしてくれるではないか。
ところで、わが家の板塀はシロアリにくいあらされてしまった。基底部はすでにボロボロになって塀に片手をかけただけで、ゆさゆさ揺れていた。雨水を吸った部分などは、にぎりしめると角材であったものがまるでミソのように一握りの塊になる始末だった。
 大門さんに頼んで、深岩石の石塀にすることにした。このときになって、瓦のことがふいに脳裏をかすめた。門の屋根には瓦を葺いてもらおう。
雨にうたれた瓦の質感、わびた風情。
 昔、京都を旅したとき、気ままに街を歩き回るぼくの目前にいつまでも広がっていた瓦屋根。母の話してくれた瓦屋の生活。瓦を焼く苦労と製品ができたときの喜び。そうだ、狭い屋根だが門は瓦にしよう、とおもったものだ。
 陶器の色瓦はどうもすきになれない。あまり光沢がありすぎる。色調もけばけばしい。軽薄に映る。祖父の作品である灰色の鬼瓦を初めに見たためなのだろう。
 門の屋根にのせられた瓦は、役瓦もいれて、わずか30何枚かのものであったが、ぼくにとっては、この上もない贅沢であった。
 豪華におもえる。緑の群葉ごしに、朝の陽光が瓦にさしてくる。瓦は光を反射せずに、柔かくうけとめてほのかに光っている。
静寂がしみこんだような光りかただ。
風化のなかでさらに光りは渋さをますだろう。
雨が降ると、湿気によってそのつど様々な表情をみる。 
楽しい。
さっそく、雀がやってきて巣を作った。こ雀の小さなくちばしから鳴き声がもれるようになった。
パパ。
スズメの赤ちゃんだよ。スズメが鳴いてるよ。
小さな舌のさえずりを、耳ざとくききつけた息子の学を抱き上げる。石塀の上にのぼらせる。顎を前方につきだして、門の庇をのぞいている。
パパ。
うごいている。
うごいているよ。
 ぼくは形あるものを、それはぼくにとって完成された小説だが、未来に残せないかもしれない。だが、学の心を通して未来にメッセージを送ることはできる。自然を愛したぼくの心は学ぶに受け継がれるだろう。
 パパ、スズメが巣からはいだしたよ。と学の声がひびく。

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これって『随筆』? 随筆4 麻屋与志夫

2023-12-29 08:39:06 | 随筆
12月29日 金曜日
  
これって『随筆』として読まれるだろうか、教えて下さい。 麻屋与志夫
2018-12-06 15:52:03 | ブログ
12月6日Thu.

りり、どこにいるの

「リリに、餌はやらないほうがいいのかな」
「どうかしら? 不妊手術だから」
 わたしはリリの餌皿をタンスの上に置いた。
「抱っこしていきましょう」
 カミサンは毛布を用意してきていた。リリは不安そうに、でも「ンン」とカミサンのかおを見上げて鳴いた。リリはなぜかニャオと猫の鳴き声が出ない。生後三月ぐらいで、わが家の玄関に迷いこんで来た。
「ごめんな。パパに働きがあれば何匹でも赤ちゃん産んでいいのに」
 カミサンはリリにほほを寄せて歩きだした。
 大通りの方ですごい騒音が高鳴る。道路工事をしていた。
 トラックが警笛を鳴らした。
 カミサンが悲鳴をあげた。リリが車道にとびだした。トラックが来た。
 わたしは一瞬リリがひかれたとおもった。
 そのイメージが脳裏にきらめいた。
 リリはすばやくこちらに引き返してきた。
 リリはそのまま狭い隙間にとびこんでいった。越後屋さんとF印版さんとの間だ。それっきりリリはわたしたちの視野から消えてしまった。
「リリリリ」いくら呼んでも姿をあらわさない。
 タンスの上でリリの餌皿が光っていた。斜陽が窓ガラス越しに射しこんでいた。
 わたしは固形餌の小さな山をくずさないように、タンスの上から餌皿をおろした。
 水飲み皿の横に置いた。
 餌と水飲み皿をみて「まるで影膳のようだ」と思ってしまった。
 裏庭のデッキでカミサンが弱々しく「リリ」と呼ぶ声がしていた。
 声は嗄れていた。
 涙も涸れているだろう。
 翌日は午後から冷たい雨が降りだした。眼下の東側の駐車場の端に側溝がある。越後屋さんの裏だ。水は流れていない。リリはその辺り、わが家から50メートルくらいしか離れていない場所で姿を消した。死の恐怖におそわれ、まるで弾丸のような速さで家と家の間の隙間に跳び込み消えていった。
「この雨で濡れないかしら」
「猫だから身を寄せる場所を探しあてているよ」
「寒いわ」
「毛皮をきているのだから……」
「凍え死んじゃうわ」
「心配することないよ」
「死んじゃうわよ」
「恐い体験をすると一週間くらい縁の下にもぐりこんででてこない猫もいる。インターネットで調べた」
「調べてくれたの」
「その猫の好きな食べ物をもって名前を連呼して歩くといいらしい」
「そんなことまで書いてあるの」
「あす晴れたら、削り節をもってもう一度、あの空家の周辺を探してみよう」
「ねえ、わたしがつくったサッカ―ボールがこんなにあるの」
 カミサンの手のひらにはアルミホイルをリリが咥えられるくらいに丸めたボールがあった。
 それを床に置いてはじくと、前足ではじきかえしてくる。
 カミサンは子どものように喜々としてリリと遊んでいた。
 ついぞ聞かれない笑い声が家のなかでしていた。
 リリのふわふわした布製のベッド。
 リリの破いた障子。几帳面なカミサンはすぐに桜の花の切り張りをした。
 障子の桟をつたって天辺まで登りつめたリリのヤンチャな爪痕。
 いままで、元気に飛び跳ねていたリリがいない家の中は、さびしくなった。
「泣くのはいいが、いつまでも嘆いているとまた風邪が悪くなる」
 カミサンは三カ月も風邪で咳が止まらない。
「だって、悲しいんだもの」
 少女のようにわたしの胸に顔をふせて泣きじゃくっている。
 いままでいたリリが不意に消えた。
 ケガをした訳ではないので――死んではいない。
 必ずまだ生きている。
 ひょっこりと、迷いこんで来たときのように玄関先にあらわれる。
「もどってくるよ」
「気軽にいわないで。探しに行きましょう」
「あした晴れたらもちろん行くさ」
「キットヨ」
 猫は怯えると、一週間もその場から動かない。そんな習性があるとインターネットで調べた。まちがいなく、越後屋さんの空家に居座っている。そう判断して二人で家をでた。
 削り節の袋をカミサンが手に、リリをさがしに出発した。
 リリが逃げてから三日目になる。
 工事現場の轟音とトラックのエンジン音を初めて耳にしたリリは恐怖のあまりカミサンの腕から跳びだした。
 危うく車道の中央でトラックに轢かれるところだった。
 よく踏みとどまり、こちら側に逃げ戻ったと思う。
 あのとっさの判断が生死の分かれ目だった。
 
 リリは狭い隙間に跳びこんだ。
 猫なら通れる。犬ではむり。細く狭い。
 この辺から、移動する訳がない。まちがいなく、越後屋さんの空家にいる。
 空家の隣のYさんがヘンスにある鉄製の扉を開けてくれた。
「リリ、ママよ。リリ、ママよ」
 カミサンが削り節をヘンスの上や、地面に置いた。
「リリ。リリ」
 鳴き声がした。
 あまり幽かなので小鳥の鳴き声に聞こえた。
 ニャアと猫の鳴き声ができないリリだ。
「リリだ」
「リリだわ、いた、あそこにいる。どうする。どうする」
 カミサンは感極まっている。


●地元の某誌に依頼された随筆の原稿です。ショートショートとして書いたものを随筆らしく書き改めた。でも、これでいいのだろうか。随筆という範疇には入らないのではないだろうか。ただ、あまりに近頃の随筆を読んでいると、おもしろくない。それに話題と語り口が類似的で老化を感じる。これは随筆の書き手は老人がおおいためかもしれない。じぶんが高齢者なのに、こうしたことを考えるのは、おこがましいことたが、随筆をもっとおもしろくしたい。それにはショートショートにスリヨッタほうが、随筆というジャンルを蘇生させるひとつの方法ではないだろうか。
若い人の意見をぜひきかせてください。


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デキチャッタ飼い猫 随筆3・麻屋与志夫

2023-12-28 15:45:30 | 随筆
デキチャッタ飼い猫 随筆3・麻屋与志夫

 ミュに死なれたとき、もう……猫を飼うのはやめるつもりだった。飼い猫に死なれるのがこれほど悲しく辛いとは思っていなかった。人間の年齢にすると、ミュは、おそらく九十歳を越えるオバアチャン猫だった。わたしの膝の上でつつましく死んでいった。最後に弱々しい息をして……しだいに冷たくなっていくミュを抱えたままわたしは、涙を流していた。やせほそって骨と皮だけになっていた。それでも昨夜まで二階の書斎までのぼってきた。わたしの寝床にもぐりこんですやすやと寝息をたてて寝ていた。

 ところが、黒い縞のある迷い猫を飼うことになってしまった。この猫はミュが元気だったころから、なかば飼い猫としてわが家にではいりしていた。

 ある凍てつく夜、二階の書斎に寝ていたわたしは小さな音で目覚めた。カタカタカタというなにか金属のこすれあうような音だった。厳冬の夜の底でひめやかにひびく音。それは、子猫が裏庭に迷いこんできて、ミュの缶詰の空き缶をなめている音だった。

 もちろん缶詰には肉はこびりついてはいない。猫の好きな魚の臭いだけが残っている。それをなめているのだ。子猫がその臭いをかぎつけて、小さな舌で……缶をなめているのだった。肉などついていない。臭いだけなのに……。

 それを見てしまった。寒気のはりつめた勝手口の隅でからだをふるわせていた。空き缶の底をなめている。わたしは哀れをもよおし、あたらしく缶詰を開けて子猫のところにもどった。

 冬の月がでていた。男体颪が吹きすさび天水桶には氷が厚く張っていた。とても……そのまま缶詰を置いてもどれなくなってしまった。怖がる子猫をかかえあげてベッドにもどった。

 チビと名づけた。ミュが生きているうちは、遠慮してか、餌をたべにくるくらいだった。外猫とわたしと妻は呼んでいた。ところが、ミュがいなくなるといつの間にか家に居ついてしまった。その辺のところは、猫は堂々たるもので、嫌われていないことがわかると急にずうずうしくなる。チビはミュのいなくなった寂しさを癒してくれた。もともと猫大好き人間のわたしだ。「お前もよくおおきくなったな」などといいながら、居候猫として認めてやった。

 チビはたくましい雄猫に成長した。ミュよりもおおきくなった。顔が角張っている。

 そのチビにかのじょができた。どうみてもまだ幼さの残る黒猫のおなかがふくらみだした。ときどき、チビのところに遊びにきていた。チビが親にきまっている。

 たとえこちらは、居候猫と思っていても、隣近所のひとからみれば、飼い猫だ。飼い猫の不始末は飼い主たるわたしが責任を持たなくてはならない。「おいチビちゃん、男の貴任とろうぜ」。わたしはチビをからかいながら、縁側にダンボールの箱をだして置いた。「デキチャツタ飼い猫」とでもいうか、チビの恋のはての責任をわたしが肩代わりすることになった。お産に備えて、ダンボールに細かく新聞紙をちぎって敷き詰めた。これは、ミュがそうしたのを真似てみたのだった。

 翌朝、子猫の鳴き声で目覚めた。さすが野良猫。やせ細ってほっそりしていても、野生のたくましさは生来のもの。おおさわぎして、苦しんだ末、わたしの背中に赤い爪痕をのこして出産したミュとおお違い。すでに……けろっとして四匹産んだ子猫に乳をふくませていた。やさしい母猫の顔になっていた。わたしは「おみごと」と感嘆の声をあげていた。

 ところが、もっと驚くことがそのあとで突発した。

 チビがその日を境に消えてしまった。

 事故にでもあったのかと、妻とその夜遅くまで捜しまわった。あたりをはばかって「チビチビ」と小声で呼びかけながら路地裏を歩き回った。その甲斐もなく行方しれず。それっきり戻ってこなかった。わが家の貧しさを知っていて、家族ぐるみでは飼ってもらえない。オイラのかのじょとコドモたちを頼むわ。???てなことだったのだろう。

 もうこうなっては、猫好きはメロメロになるしかない。チビの心情を思うと男涙が演歌のように落ちてきた。どうして、こうも……年をとると涙もろくなるのだろう。

 わが家の縁側で出産して母猫となったのがブラッキーだ。

 今も、わたしの膝ですやすやとねている。この温もり。このやわらかな毛の感触。初めて子猫を出産した時のミュをおもい、ブラッキーのできちゃった飼い猫ぶりをからかいながら、愛撫していると喉をぐるぐる鳴らし始めた。

「キャ、キャア」朝から妻の悲鳴で起こされた。わたしは、二階の書斎からあたふたとキッチンに躯け下りた。妻が冷蔵庫の扉に背をおしつけてふるえている。顔面蒼白。唇をわなわなふるわせて妻が指差す先に、小さなネズミがはっている。ブラッキーが前足でからかっている。また妻が悲鳴をあげた。ブラッキーはさも心外だという顔で、首をかしげ前足にネズミをひっかけて遊んでいる。

「みてみて、あたしネズミとってきたのよ。すごいでしょう。からかっても楽しいし、食べてもおいしいの……サイコウヨ」

 ブラッキーの産んだ子猫は里子にだした。いなくなった子猫に餌を逗んでくるのかもしれない。

 ところが、うちの美智子さんときたら、小さな生物は何でも大きらい。からだがふるえて、失神寸前のていたらくだ。

 わたしは、そっとテッシュでネズミをつつみこんだ。まだ体温があり、温かかった。「ゴミ袋にいれちゃいや」

 そんなことをいわれても困る。これ以後。ゴミだしはわたしの分担となってしまった。

 それからのことである。さすがは、野良猫歴一年のブラッキーは、わたしにほめられたいのか、わたしを養ってくれるつもりなのか、二階の書斎にせっせと獲物をはこんでくるようになった。

 わたしを子猫と勘達いしているのか。

 ネズミ。モグラ。蛙。スズメ。なんでも食べられそうなものはブラッキーの獲物となった。ライオンでも狩りをして食粗を確保するのは、雌の役割だ。まったくたくましいものだ。いくら、わたしでも、二階の書斎の窓からカエルなどを寝床にもちこまれるのはあまり気持ちのいいものではない。ところが、ブラッキーにしてみれば、あまり働きのない飼い主を心配して食事を運んでいるのだ。むげに断るわけにもいかない。

「食べ物はナマに限るのよ……見て、まだこのネズミひくひくうごいているわ」

 ブラッキの銜えてくるものはいつも生きている。歯を立てない。注意している。だから、書斎にもちこまれてくる哀れな小動物はいつも生きている。むろん部屋で食べさせるわけにはいかない。それらの獲物をブラッキーが食するのを黙ってみていられるほど残酷にはなれない。銜えてきた獲物でブラッキーと遊んでやることはする。ふたりできゃあきゃあ興奮する。モグラをサッカーボールに見立てて指ではじいて書斎のグランドで遊んでいたら、運が悪いことに妻に見つかってしまった。

 妻は一週間ほど恐怖と軽蔑をないまぜにした視線でわたしをみていた。近づいてこなかった。今でも猫を見る目でわたしを見ている。野良猫体験のあるブラッキーのしたたかさはすごいものだ。小動物を狩ってでも生き続けることができる。これなら、孫たちに会いにでかけて三日くらいなら留守にしても大丈夫だろう。

 ブラッキーは母猫となってから、身長がのびた。肥満したというのではなく、まさにひとまわりおおきくなった。

 よくわたしの母が、むかしは十六、七で結婚した。だから、それからまだ身長の伸びる人がいた。といっていたが、まさにブラッキーがそれだ。

「ブラッキー。お前子猫産んでよかったな。チビのおてつきにならなかったら、今でも野良猫のままだぞ。子猫には明日でもまた会いに行こうな」などと話しかける。

 四匹の子猫は塾生にもらわれていった。

 黒猫は一匹も生まれなかった。みんなチビに似て黒の縞がある。アメリカン・ショートヘアかと見紛うような縞模様がはいっていた。それが人気で一月分のキャットフードとともに母猫のもとから消えていったのだった。

 里親になってくれた塾生の顔が柔和になった。猫を可愛がることを覚えた子供の顔には優しさが芽生えるようだ。ここぞとばかりに人や動物や自然を愛するということ、みんなで共生することの尊さ。愛情哲学を一席教壇でぶつ。こんな話も塾だから、時間にこだわらず自由にできるのだろう。

 ブラッキーが教室の書架の上から前足をのばし、背中を反らせ、おおきなあくびをしている。

「がんばれがんばれ。みんなが学校で学べないようなことをいっぱい教えてあげてよ」

 それで無駄話がおおいと評判を落とし、生徒がへったら招き猫のわたしがついているから安心して。なんてことは、いうわけないか。

チビと、ブラッキーの子猫が去ってからまた鹿沼の里に木枯らしがふきだした。チビの旦那はいまごろどこをうろついているのだろうか。


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日本作家クラブ随筆賞受賞作品「蛸壷」麻屋与志夫

2023-12-12 20:09:42 | 随筆
12月12日 火曜日
日本作家クラブ随筆賞受賞作品「蛸壷」

 明石は「人麻呂神社」の前に小さな句碑があった。震災後のことで、ゆがみや凹凸のはなはだしい石畳の参道の脇に立っていた。
 丸っぽい自然石に夏の日が照りつけていた。蝉の声もする。向こうに倒れかけた山門がみえる。天災にたいしていかに人の世が無防備であるか、脆弱なものであるかをおもいしらされた。句は、
 蛸壷やはかなき夢を夏の月
 と読めた。そういえば、芭蕉、「笈の小文」の旅の西の極みがこの明石であった。淡路島が明石の海の彼方、いがいと近くにみえていた。夏の温気のなかで霞み夢幻泡影の感懐をもたらす。橋をかける工事がなされていた。そのためか、わびさびの感銘にはいたらなかったが、海青色の波のきらめきがまさに夢幻の趣をそえていた。
 半世紀も昔のこと、戦争が終わり野州麻が軍の納品から解放された。そのころ、藁縄ではすぐ腐るからというので、蛸壷の引き上ロープの注文がわが家にもたらされた。
 むろん健在だった父がこれで平和になるんだ。平和になると、くりかえしていたのを覚えている。
 軍馬の轡(たずな)や軍需のロープの製造にしかまわせなかった麻が民間の需要にこたえられるようになったのだったつた。その記憶があった。後年この句を知った時、えらく感動したものだった。
 しかし、いまはまた、ちがった読み方をしている。家業である「麻屋」を不本意ながら継いだ。すでに斜陽産業であった自然の繊維を原料とする「大麻商」をつづけて還暦をすぎた。その間、小説を書き、商人と物書きの相反する悩みをかかえてきた。
 頭髪も抜け落ち蛸まがいの頭になっている。芭蕉翁よりもすでに、馬齢をいたずらに重ね俗世にどっぷりとつかっている。物書きとして生きていきたいとはおもっても、才能も時間ももう私には残されてはいない。こんな訳ではなかった。これもわが性のつたなさとただなげくのみである。
 蛸壷の中のように身動きが出来ないほど日常の生活圏がせばまり、このままさらに老いていくのかと嘆く身にとっては、はかなき夢が実感としてとらえられるようになっている。
 芭蕉は江戸にでる際の夢であったろう市井の俳諧宗匠としての小市民的な生活をこばんだ。苦労のすえ獲得した職業俳人としての生活を捨て、専門俳人たることを望み、ただひたすら芸道に励むことを志し、二七歳で深川の草庵に隠世する。上野をさるにあたって、望んでいたはずの宗匠となる夢をはたしたはずなのに、それをいともあっさりと捨ててしまった。その情熱はどこからきているのか。
 その後、十数年「笈の小文」の旅では西をめざし、この明石にたどりついた翁が蛸にたくした、はかない夢とはどんな夢だったのだろうか。そして臨終にいたるまで、かけめぐった夢とは……なにか。
 旅と草庵の生活にあけくれ、たえず流行をもとめ、新しさは俳諧の華といった翁の俳諧にかけた捨て身の構え。野晒し覚悟でみた夢。たえず脱皮変身して新しさを求めた芭蕉の夢をかんがえていると、「ジィチャン」と孫娘が境内から呼び掛けていた。西宮に住む娘家族の震災の見舞いを兼ねて遅れ馳せながらやってきた。それは建て前で、本音は孫に会いたさが
こうじての旅であった。
 明石まで足をのばして出会った芭蕉の句碑である。
 妻をうながし鳥居をくぐる。
 亜莉沙がよちよちとちかよってくる。
 わたしの夢は……夢はとかんがえてみても、なにも浮かばない。翁の句をもういちど舌頭にころがした。 

 付記。●わたしは随筆を書くのが好きだ。いままでに、かなりの随筆を発表してきている。
日本作家クラブ発行の『随筆手帳』NO.34に『蛸壺』を発表した。随筆賞に選ばれモンブランの万年筆をいただいた。1996,10号だから27年も前のことだ。思えばずいぶん遠くまできたものだ。万年筆はいまも、愛用している。



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春霞いよいよ濃くなる真昼間の故郷の景色大和と思へ  麻屋与志夫

2016-12-05 22:11:33 | 随筆
大和と思へ 随筆

 早春の朝まだき、散歩にでる。JR鹿沼駅を眼交いにみて左折。コスモ石油の角をさらに左折する。風景がふいにひらけて、野趣豊かとなる。遠景にいままさに木の芽がふく雑木林が見えてくる。大和は立野を想わせる、おだやかなもりあがりをみせる丘稜地帯の林は、薄淡い茶緑色にけぶるようなつらなりをみせている。
 商用で若いころ毎月おとずれていた、奈良県生駒郡三郷村立野のあたりは、還暦をすぎてにわかに万葉集を読みだしたわたしには、懐かしい土地となっている。万葉の歌に青春の初めの季節から馴染んでいたなら、と悔やまれる。あの日々にもどることはできないが、立野をふくめた大和の地を再訪してみたいと思う。
 それまでは、故郷鹿沼の野を歩こうと思い立っての彷徨であった。ところが、故郷の野にでてみると、記憶にある立野の近郊の風景とさほどかわらない素朴な田園風景がひらけているのを知った。
 ただ、残念ながら歌枕としての地名はなしてはいない。文人がいなかった。歴史にのこるような歌人、俳人との交流もなかった。
 土地のひとだけの自然、そして地名ではあるが、ここちよい万葉の歌枕のような呼び名の山や林や川がいたるにある。自然に基づいて名付けられた地名は、言霊をやどしている。おりから、梅の花びらがちらほらと散っている。笹鳴きのチュッチュッというさえずりが、鶯らしく「法法華経」と聞こえてくるようになった。
 地図を片手にやさしいひびきのある地名をたしかめ、鳥の鳴き声に耳を傾け、花を眺め、ひとり歩きを楽しんでいる。
 春霞いよいよ濃くなる真昼間の何も見えねば大和と思へ
 前川佐美雄の絶唱だ。下の句をもじって、……春霞いよいよ濃くなる真昼間の故郷の景色大和と思へ……大和と思へ、とお題目のようにとなえつつ歩を進める。
 畦道に踏みこむ。おもいがけず、丘の裾を小川が流れていた。いまどきめずらしい、人の手の加えられていない流れだ。つつましやかな川音に佇む。自然と朽ちたような樹木が横たわっている。腰をおろす。ひび割れた朽木色がいい。苔むした樹肌もいい。倒木に腰をおろしたわたしの影が川面に映っている。せせらぎは、JR日光線に沿って流れている。両側の土手から枯れたすすきが<立ちよそいたる>、とおもわず万葉調で表現したいように流れを飾りたてている。小川におおいかぶさるすすきや枯れ草のなかで小鳥が鳴いている。
 風のそよぎにはすでに春の風情がある。ここは武子川の上流である。
 さらに北に向かって歩き出せば、前方に古賀志山が迫ってくる。東京から、この山がすきで、スケッチに足しげくきていた友人とはいまは、音信が途絶えている。山はごつごつとした岩肌を露呈している。そのうち新芽におおわれてやさしい表情をみせることだろう。
 人とのつきあいは年々うとんじられる。あれほど饒舌に闘わした芸術論議もいまは、むなしくさえ思われる。還暦を過ぎてから、人とのつきあいが億劫になった。まさに、偏屈ジジイへの坂道をころがりおちるような日々である。
 この年頃になって、故郷の自然と出会ったことは、幸いだった。このところむきになって、野を歩いている。もうじき鹿沼の里も桜の季節。朝の散歩がさらに楽しくなる。

「かぬま詩草」への原稿。旧作に手をいれました。



こちらから 「アサヤ塾の窓から」へ


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随筆クラゲ

2008-03-28 22:48:04 | 随筆
3月28日 金曜日
クラゲ (随筆)
 クラゲが浮いていた。ふんわりと浮かんで、まるで水の表面に薄い皮ができたようだ。その半透明体のクラゲがゆらりゆらりと動いている。クラゲは水の面いっぱいに漂っていた。クラゲは<海月>ともかくが、まさに水面に浮いて揺れ動く白い満月のようでもあった。その動きが生々しくておもしろかった。フワフワとした動きには艶さえかんじた。まるで生きているように揺らいでいる。トイレットペーパーだった。妻が水洗で流し忘れたのだ。トイレの水に浮かんでいる紙のクラゲにわたしは妻の老を感じとっていた。「トイレ流し忘れているぞ」とテレビをみている妻に呼び掛けることは容易だった。だがさいきんでは、妻の物忘れの頻度がかなり高まっていたので、声をかけることは、憚られた。
 几帳面なひとほど老いてから物忘れがはやくやってくる。それを意識した時のショックは激しい。とどこかで読んだ記憶がある。
 わたしが風呂にはいると、きまって下着類は奇麗に洗濯したものとかえてくれる。脱衣籠にパンツ、丸首のシャツ、ステテコ(冬であったらモモヒキ)が、順番にかさねられていなかったことはない。それは見事にかかさず洗濯をする。塾で教壇に立つおりに締めるバンダナも、まだ汚れていないからといっても、そのつど洗濯機に放り込む。すぐにうす切れてしまうほどよく洗ってくれる。
 食後の食器類もかならずその場で洗う。こうした妻の負担を軽くしてあげようと
食器洗い機はもうかれこれ25年くらいまえから使っている。洗濯機も全自働で、乾燥機も別にある。
 若い時から妻は見事に忘れ物をしていた。見事にというのは、おたがいに若かったから物忘れにも愛嬌とかんじて「かわいいな」ということですんでいた。
 スーパーに自転車で買い物にいく。「ああ重かった。自転車でいけばよかったわ」と小柄な妻が両手にずっしりと重そうな白いビニール袋をさげてかえってくる。「あら、そうだったかしら」とケロッとしている。「またいくなら、ついでに牛肉かってきてよ。今夜はスキヤキでビールのみたいな」。「わかったわ」ところが帰りがはやすぎる。「あっ、わすれた」自転車をとりにいっただけで、悠然と帰宅したものだ。
「おれの顔だけは忘れないでな」そんなジョークで締めくくり、まいにち平穏に仲睦まじくすごしてきた。
 ところが、さいきんではどうもジョークもいえない心境にわたしは至っている。
 妻が若い時から物忘れがひどかったので気付くのがおそかった。娘たちにも、ときおり電話ではこぼしていた。「お母さんはむかしからよ。お父さんの心配し過ぎよ」という返事がいつも、もどってくるので、それもそうだなと思ってきた。
 おれの顔は、忘れないでよ、などとジョークをいってきたが「あなたいつからそんなに白髪になったの。お幾つですか」などと真面目な表情で聞かれると不安になってくる。「あなたいつからわたしのそばにいるのですか。だぁれ?」なんて聞かれたらどうしよう。そうした日が間近に迫っているようで心細い。隣家の老婆は嫁にきておそらく70年ちかくなるのだろうが、わたしの家はここではない。と毎日いいつづけているらしい。自分の実家の記憶はあるのに、嫁にきてからの記憶がぜんぶ消えてしまっているのだろう。それでも、毎夕、同じ時間に『夕焼け小焼けの赤とんぼ』と哀調ある調べをさいごまで歌っている。
 老いるとは寂しくも不安なものだ。とくに男よりも美意識の強い女性にとってはそうであるらしい。
 こうした痴呆への、関心と、わたしと妻のどちらかにそれが始まったらどうしょうという不安は、さいきんとみに知り合いの訃報に接するようになったからだ。そのなん%かは痴呆による死である。痴呆になったからすぐ死ぬというわけではない。家族がいやがって痴呆老人となった親を特別養護老人ホームに入れてしまうからである。お金はだすが、痴呆になった親の面倒をみるのはイヤだという子供がおおいい証拠である。わたしなどは、30年間病気の父母の世話をした。しかしあのころからそろそろ家族が年老いた父母の面倒をみるのを嫌がり始めていたような気がする。
 できることなら、子供たちに、負担をかけずポックリと死にたいという会話を公園のベンチでよく聞く。寂しいものだ。寂しいと同時に恐怖すら感じる。
 老人ホームでの生活。周りにだれもしっているひとがいない。清潔なべットに寝起きしているからしあわせだなどとだれがいうのだ。

 今朝もわがやのトイレにはクラゲが浮かんでいた。
                                 未発表。