田舎住まい

吸血鬼テーマーの怪奇伝記小説を書いています。

「渋沢栄一の経営教室」で夏休みの読書感想文を書いてね。 麻屋与志夫

2014-08-18 09:59:41 | ブログ
8月18日 月曜日

●香取俊介「渋沢栄一の経営教室」が好評だ。

ともかくいろいろな読み方が出来る素晴らしい内容だ。

●夏休の読書感想文をまだ書いていない人は、

ぜひこの本の感想を書いてみてください。

これから長い人生を生き抜くためのノウハウが凝縮されているような作品です。

そして、モラルのないところには、

人生の成功はない。

しみじみ、そう思わせるものがあります。

●それほど堅苦しく考えなくても、

ストーリーそのものもとても面白いです。

●読んで心に残り、

どう、これから生きていけばいいか。

そんなことまで、教えてくれます。

●ところで、あなたはこの夏休み、本を読んでいますか。

学校の宿題、早くすませてね。

なに、もう終わっている。

よくやった。

ごりっぱですね。

感心。感心。

●じゃ、これから目がつぶれるほど、読書してよ。

●GGは中学生の夏休、

死ぬかもしれないほど、

勉強したんだぞ。

●「目がつぶれるから、もう本を読むのはやめて」

と母に毎日いわれたものだった。

●まあ、これ以上書くと、

自慢話に成りますから止めるけどね。

●ともあれ、本を沢山読んでよ。

81歳のオジイチャンになれないGGより。





日本経済新聞出版社刊。

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夏休み、たくさん本を読んでますか。  麻屋与志夫

2014-08-17 19:57:01 | ブログ
8月17日 日曜日

●暑さがいくぶんやわらぎたすかっている。

エアコンで部屋を冷やしすぎたせいか、

このところ体の節々が痛み、苦しんでいる。

●べつに、それほど苦痛ということはない。

でも、左足をつっぱって、ぎこちなく歩くのはつらい。

いままでも、なんどか、こういうことはあった。

でも、若さがあったから、あまり深刻に考えなかった。

●でもこの歳になると、

もしこのまま治らなかったらと不安になる。

●体の不調はまだいい。

昔見た映画の題名、

役者さんの名前、

小説の題、

その著者。

すぐに思い浮かばないことがある。

●サルトルの名を忘れていたのはショックだった。

●こちらは、小説家だ。

記憶がまだあるうちに、

ばんばん新作を書かなければと、

気力を奮い立たせた。

●夏休を楽しんでいる学生の皆さん、

記憶力のあるうちに沢山本を読んでください。





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老醜をさらしたくはない。 麻屋与志夫

2014-08-16 10:20:05 | ブログ
8月16日 土曜日

●老醜がきになる。

いや、ちがった。

加齢臭だ。

検索に「ろうしゅう」とうちこんでも老臭とはでてこない。

ひまなので、さらに検索してみたら――ほとんど使わないらしい。

●じぶんのことは棚に上げて、ひとの臭いが気になる。

スーパーの店内ですれ違う人の、汗や、衣服の洗濯をしないための異臭がひどい。

いままで、こんなことはなかったのだが。

人の臭いが気になるなんて。

やはり老化現象なのだろうか。

●周囲のことが気になる。

自然と外に出るのが億劫になる。

若いときは、あれほど街が輝いていたのに。

いまでは家に閉じこもっている。

●わたしは、小説を書くのが仕事だからコレデイイノダ。

家のなかにいるほうが、仕事ができる。

●一般のご老人はどんな時間をすごしているのだろうか。

●街に出て、老醜をさらすこともない。

家から一歩も出ないでも、楽しめる工夫もしてある。

●jazzを聴く。

大型テレビでドラマを楽しむ。

DVDも見られる。

読書をする。

カミサンの薔薇への賛美と蘊蓄に耳を傾ける。

●老醜をさらしに街に出ることもない。




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必求壟断(ひっきゅうろうだん)はいただけない。 麻屋与志夫

2014-08-14 02:52:44 | ブログ
8月14日 木曜日

●香取俊介「渋沢栄一の経営教室」を読んでいる。

これで三度目だ。

SF小説としても勿論面白く読める。

人生の指南、モラルの書としても読める。

今回は、セリフに着目して楽しみながら読んでいる。

作者はテダレのシナリオライターでもある。

会話が実に簡潔でリズム感がある。

映画を見ているようなリアリティがある。

堪能している。

●随所に楽しく読ませてくれる仕掛けがほどこされているのも、いいなあ。

●巻末のノートがいい。

わたしは作者に失礼とは思ったが最初はノートから読みだした。

その一行目に感動。

そうなんだよな。

そうなのだ。と共感した。

――われも富み人も富み、しこうして国家の進歩発達を助ける富にしてはじめて真正の富と言いうる。

●町の電器屋さんが無くなっていく。

大型店の掃討作戦によってみごとに無くなっていく。

これでは不便なのだ。

そして――。

「他の店より高かったらお申し付けください」

値段設定に絶対的自信がある。

そう言いたいのだろう。

でも、アカラサマニ、こうした他店をけおとそうとするキャッチコピーはいかがなものでしょうね。

宣伝費をかけられない小さな電気屋さんはなりたたなくなっている。

●じぶんのところの経営さえうまくいけば。

自他共栄。

共に栄えるなどいうことは、もうまったく死語だ。

古き良き時代の日本の指導者の言葉が身に沁みる。

●必求壟断(ひっきゅうろうだん)はいただけない。





日本経済新聞出版社刊。

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ウロが来た! ボケがはじまった!! と朝から嘆く。 麻屋与志夫

2014-08-13 07:41:12 | ブログ
8月13日 水曜日

●ウロが来た。と自覚した。

●ウロ(うろ、虚、空、洞)がまわったと悲しむことになった。

●ウロタエた。

部屋の中をうろうろ歩いた。

カミサンに向かって胡乱な奇声を発した。

嘆いてみせた。

カミサンのほうはウロタエルどころか泰然自若。

●こんなときほど小柄なカミサンを、頼もしく感じることはない。

●ウロが来た。

――ボケがはじまった。と思ったのである。

●「そそっかしいのよ。いままでだって、勘違い、まちがいはしてたわよ」

とカミサンはすこしもアワテズ、平然たるものだ。

●ことのおこりはAに本の予約をしたことにはじまる。

二冊。その本が発売日を過ぎても郵送されてこない。

結局はわたしのPCでの予約手続きに誤りがあったのだろう。

PCならず、テレビでも、電気器具はすべて操作できない。

●PCは文章を打つだけ。

もっとも、これは仕事だから……。

こうしてPCに文章を打ち込むことができなかったら、小説家としてやっていけない。

それでも。

なんとなんと。

この単純な操作をじぶんのものにするために。

パソコン教室に三年間も通いつめた。

●本の予約ミスでかなりのダメージをうけていたのに。

こんどは「渋沢栄一の経営教室」の著者に――。

藤岡製糸場の創設者、とメールを送ってしまった。

富岡製糸場とすべきなのに――。


●最近こうしたミスをしばしば犯す。

もうこうなると――。

「ホントニホントニホントニボケ老人だァ」

と富士急アイランドのコマーシャルみたいに。

叫びだして、オドケルいがいに術がない。

ほんとに!ほんとに!ほんとに!ライオンだ~♪でおなじみの サファリパークにでもでかけてライオンとご対面でもしたら、その恐怖のあまり感覚が元に戻るのではないかな。

●などと奇妙なことを朝から考えた。

●81歳のただの老人への坂を。

転げ落ちようとするじぶんを。

必死で支えている自画像なのでありました。

●はいおしまい。



●本はカミサンがPCをあやつり購入できた。

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富岡製糸場の創設者「渋沢栄一の経営教室」を読もう。 麻屋与志夫

2014-08-12 11:49:01 | ブログ
8月12日 火曜日

●香取俊介「渋沢栄一の経営教室」が順調に売り上げを伸ばしている。

ビジネス書として読めることは勿論だ。

主人公のシブちゃんが16歳の定時制高校生ということもあって、

ぜひ、中・高校生にも読んでもらいたい。

まだ、将来じぶんの進む道を決めかねている人たちに読んでもらいたい。

というのは、生涯揺らぐことのない人生訓を読みとり、

じぶんの生きる道を選ぶ助けとなるすばらしい本ですよ。

●渋沢栄一は、いまブームの世界遺産富岡製糸場を創設したひとですよ。

この夏休みにぜひ読んでください。

●日本経済新聞出版社刊です。

●わたしはアマゾンで取り寄せました。






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終戦の年の夏休みの思い出2。「空の珊瑚」 麻屋与志夫

2014-08-08 07:24:30 | ブログ
8月8日 金曜日

●昨日、旧作を載せたところ、あらまぁ、驚いた。
平日の倍もご訪問をいただいた。
ありがとうございます。
GGはちょうしにのってもう一本だけ旧作を載せることにしました。
コメントをいただければうれしいな。


空の珊瑚 (ショートショート作品№5)

 ふいにやってきた雷雨のため――北関東特有の雷は空のはてで光った一条の稲妻とともにおそってくるのだが、ぼくらの戦場行軍は最悪の事態に遭遇していた。
 のぼりつめた山の尾根で暗雲をきりさく光をみたとき体操教師のHはぼくらを避難させるべきだった。
 山腹に穿たれた軍用物資隠蔽庫をかねた横穴壕にどうにか逃げこむことができたはずだ。
 Hの髪はポマードでぎとぎとしていた。
 銀だし油付けているとぼくらはいっていた。
 そのべったりと頭皮にへばりついている髪を中央から櫛目がわかるほど丁寧にわけていた。
 刃物でそぎおとしたようなほほと分厚い唇に一瞬あらわれて消えた加虐的な微笑をぼくは見逃すわけにはいかなかった。
 昼間の光の中にいるのに、覚醒した時なのに、ぼくは悪夢をみているような恐怖を感じた。
 あのことを目撃しているために、……ぼくはHから危害をくわえられるのではないかと怖れつづけている。
 行軍の隊列は、はるか眼下に淡紅色の羊羹をならべたようにみえる校舎と、横穴壕との中間地帯にさしかかっていた。
 寒さと喉の渇きのためともすれば停滞する蛇行の群を叱咤する教師の声だけが雨の中にむなしくひびいていた。
 さらさらに乾いて顆粒状をした土は、水をすいこんだ海綿のようにぼってりとし、茶褐色に変容する。
 素足の下で固まり、大地そのものが足下で岩壁にでもなってしまったような錯覚、あるいはタイムマシンで未知の領域にやってきたような……翼竜の時代に素足で地面を踏みしめた原始人のような感触を、その硬化した大地からうける。
 それは喜びをぼくらにあたえた。
 ぼくらはただもくもくと歩きつづけていた。
 歩行者の踏みこむ重量をささえきれずくずれる土壌をぼくは、忌みきらった。
 粉末となり……ぼくらを脚もとからすいこむような土はいやだった。
 大地は鋼鉄の硬度、けっして他者に侵されることのない強靭さをそなえているものと信頼しきっていたから、ぼくは乾いて侵されやすい黄土に足跡をのこすにはある種の嫌悪感と不安な予感をもってしまうのだった。
 雨は強くなった。
 雷鳴はとどろき、下界は色彩を喪失していた。
 罠から遁れる獣のようにただひたすらぼくは歩きつづける。
 懸命に歩いているのに、ぼくはかなり遅れていた。
 視野はせばまり雨音だけが聞こえた。
 雨によって隔絶されてはいたがかすかに友だちたちが前方を進む気配が感じられ、ぼくはそれをたよりに歩いた。
 ぼくはついに不安に耐えきれず彼らに声をかけた。
 山と丘陵を越え、雑木林をぬけ、河にかかった橋を渡って学校へもどるまでの四キロにあまる全行程において、ぼくらは沈黙をしいられていた。
 叫び声をあげた瞬間……Hが不正行為の審判者となってぼくの眼交に立っていた。
 それは、彼がまるで影のようにいままでぼくの背中にへばりついていたみたいな幻惑、悪魔の目で監視されていたのだといった恐怖をともなっての出現であった。
 ほほにかなりはげしい衝撃があった。
 Hの影を、きらめく巨大な珊瑚にも似た稲妻が照らした。
 黒々とうかびあがった彼の影はしかしぼくの視線のさきで消滅した。
 ……ぼくはほほにうけた衝撃よりはるかに大きな……地割れのような、大地の揺れる感覚を全身の筋肉に採集したまま斜面を転落した。
 ぼくはアメーバに還って海をただよっている。
 海というものをそれまでに眺めた記憶はなかったが、失神の瞬間に空に光った稲妻を巨大な珊瑚とおもったように、海は空が反転したようなものだとおもった。
 ただよいつづけていた。
 ぼくの体はなかった。鼓動だけがただよいつづけるぼくのものであるようだった。
 いやそれは、波濤が渚で崩れる音だ。
 海辺で叫んでいる声があり(Hの声らしかった)、ぼくは接岸を希求していたにもかかわらず、沖へと流されているようだった。
 水平線に、マネキン人形のように硬直して、しかし艶やかさをおびた音楽教師のYが海面から腕だけだし、その腕が淫靡なさそいこむような動きで、ぼくを招いているのだった。
 伝声管をみみもとにおしとつけられているのだろうか。
 体操教師のHの冷酷な声が増幅されてひびく。
 その追いかけてくる声からも逃れなければならない。
 彼の声にはあきらかな殺意があり、その声が無数の鋭くきらめく短剣となってぼくに迫ってきたから。
 トラックの古タイヤが漂流していた。
 映像をともなわないHの、声だけの追跡からのがれるため、ぼくはタイヤにしがみつき、両腕に力をこめ……かきあがろうとする。
 タイヤの中央は勿論、円形の空洞になっていたが、ようやくのことではいあがったぼくが覗きこむと、その空洞はどうしたことか、海底まで通路のようにつづいていた。
 通路は遠近法を無視して、底にいくほどたしかな広がりをみせていた。
 その底辺に見覚えのある朝鮮人の青年が仰臥しているのだった。
 どうやらそれは、あのトラックを運転した男らしかったが、はっきりしなかった。
 彼は死者には似つかわしくない逞しい腕をぼくにむけだきしめようとするような招き方をしている。―― だがぼくは恐怖の叫び声で現実の空間に横たわっている自分の体をとりもどすことができたのだった。
 雨は降りつづいていた。
 ぼくが意識をとりもどすまでにどれほどの時間の経過があったというのか。
 雷雨のながりのごくまばらな降りかただった。
 群葉の先端からしたたる滴のような降りかただった。
 ぼくは、木の茂みをわけ、級友たちのいる尾根に登るため、路のない路を探し、どうにか、Hの残忍な制裁をあまんじてうけいれなければならなかった地点にたちもどることができた。
 しかし――矮小で臆病者のぼくを、尾根から突き落したHの率いる勇壮な少国民である級友たちの誇りある戦場行軍の列は乱れていた。
 肉体鍛練の領域はみるも無惨な死者たちのよこたわる黄泉の国となっていた。
 うめく声。
 苦痛にゆがんだ顔。
 変色した皮膚。
 噛みつくような歯ぎしり。
 どうしたんだ。
 なにがあったのだ。
 空襲だ。
 きっと、鬼畜米英の空軍が爆弾を落としたのだ。
 しかし、飛行機の影もなく、しだいに空は明るくなる。
 ぼくが級友たちの方に近寄っていくと災禍をまぬがれたものたちが、茫然自失といった、まだ自分たちが焼け焦げることもなく生きているという恩恵にひたる喜びをしらぬげにたちつくしていた。
 渦を巻きながら遠ざかる雷雲を背景にして、彼らは、黒く朽ち果てた杭の羅列、あるいは倒木のようにみえた。
 ぼくが、さらに対象をよりよく見定めようと前かがみになると、集団疎開の奥村が、鏡の中を覗きこむような眼差しでぼくを見つめてきた。
 マグロ、おまえ、無事だったのか?
 Hによってつけられたあだ名で呼びかけられ、ぼくは小石をたたきつけられたように、こころが砕けるのを感じた。
 しかしぼくは応じないわけにはいかない。
 ああ、崖の下に落ちていたんだ。
 それでたすかったんだ。
 落雷があった。
 おまえのいた後のほうのものはみんな雷に打たれた。
 いまHが学校へ急報するために走って行った。
 奥村の指さす方角、はるか山裾の、ようやく陽のてりだした道を、まだ暗く陰っている部分にある校舎めざしてHがあやつり人形のようにぎくしゃくした動作で遠ざかっていくのがみえた。
 あいつ、まるで逃げていくみたいだ。
 おれたちを置きざりにして逃げていくみたいだ。
 そういってしまうと、いままであれほど怖れていたHがけっしてぼくの死刑執行人ではなく、不潔で歪んだ欲望の権化、忌むべきただの男におもえてくるのだった。
 それからぼくはもう動かなかった。
 友だちの顔をひとりひとり確かめ、五人の級友がこの世界に肉体はまだ留まっているのに、魂はどこかはるか彼方、たとえば雷雲の去った晴天の空間を飛翔して二度ともどっとこない彼岸へ去っていったのだと悟った。
 だがしかし、ぼくは、彼らはけっして死ぬことはなく、ぼくがさきほど落ちこんだ海のような処を漂い、音樂教師のYや朝鮮人の青年と波にたわむれ、体をこすりあわせ、快楽の叫びをあげたりして生きつづけているのだ、という幻想にとらわれた。
 現実世界にもどれたぼくは、……Hの指の跡があざやかな小さな珊瑚の色と形をともなってほほに残り、それがいつになっても消えないのではないかという不安と戦いながら生きつづけなければならなかった。




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終戦の年の夏休みの思い出。 麻屋与志夫

2014-08-07 12:02:46 | ブログ
8月7日 木曜日
●朝から曇り。
どうやら今日は雨が降りそうだ。
雨が降れば、暑さもしのぎやすくなるだろう。
●夏休。
本来は楽しい思い出があってしかるべきなのだろうが。
GGはどうしても、小学校6年生の夏休み、敗戦の年の夏休を思い出してしまう。

●校庭の隅に直径15メートル位のすり鉢状の穴が掘られていた。
将来、霞ヶ浦の少年航空隊を志願したときに、飛行機に乗っても「めまい」がしないようにこのすり鉢状の穴を走ってぐるぐるまわる。
その穴が、なんと呼ばれていたのかわからない。

●その穴に台風の後で水がいっぱいに溜まっていた。
そして真白い水鳥が泳いでいた。
たぶん、カモメではなかったろうか。
はるか霞ヶ浦のある茨城の海岸がら風に乗ってとんできたのりだろう。
終戦の夏の思い出である。

●終戦の時の思い出の作品を再再録してみました。




蠅  (ショートショート 作品№3)
 戦争が末期をむかえようとしていた。
その切迫した空気は、幼いぼくらにはとうてい予感することはできなかった。
 昭和二十年の夏、軍隊の駐屯していたぼくらの国民学校では、ようやくそれでも空虚な日々がその無限の傷口をひろげはじめていた。
 どうしたことか、その日は運転手がキーをぬくのを忘れ、ぼくがアクセルをふみこむと、校庭に置き去りにされていた軍用トラックは筋肉のにぶいこすれあう音をたて不意にめざめた犀のように巨体をゆすって動きだした。
 予期しなかった始動にぼくはすっかり動転し、にぎりしめた黒い魔法の輪、ハンドルから手をはなすことができなくなっていた。
 フロントウインドにきりとられた光景……空ドラムやぼろ布の山積された校庭のそれは、この瞬間からいままでのぼくらの楽しい遊戯の広場とは異なった局面をみせはじめた。
 空ドラム。
 重油のしみこんだまだら模様の古材。
 すっかり原型をとどめていない軍靴や軍手、軍足、雑のう、そして焼却されるのをまつぼろ布の山。
 みひらかれた瞳の中へ収斂してくる風景のなかの品々には、もはや子供の領分における遊戯のための玩具としての属性はうしなわれていた。
 それらかずかずの物体はむしろ障害物、あるいは険悪な異次元からやってきた怪獣のようにさえみえるのだった。
 怖れのため叫び声をあげるべきであったろうが、なぜかぼくにはそれがはずかしいことのようで、どうしてもできなかった。
 極端なこの羞恥がどこからやってくるのかぼくにはまるでわかっていなかった。
 トラックはのろのろと、それでも八月の陽光と、樹木の影、廃物の累積の峡間をぬって砂ほこりをまきあげながら走りつづけていた。
 ブレーキをかけるすべをしらなかった。
 もしその技術をしっていたとしても、ぼくはブレーキをかける操作はしなかったろう。
 動きだしたトラックはガソリンの最後の一滴まで疾走しなければ、というような理屈になぜかそのころぼくはとらわれていた。
 それは……特攻隊機が確実な死むかって飛翔していくように、ぼくらも少年航空兵に応募してやがて死に直面するはずである未来がまっているという一種凛烈な感覚にささえられた日常を送っていたためだろう。 最後まで死をかけてやりぬくといった散華の思考にとらわれていたといえば誇張になるだろうか?
 ……ともあれ、ぼくはようやく動かすはことのできたトラックを停止させようとはしなかまった。
 ビー玉でも道路にうえこまれているのだろうか、きらきらした、さすような鋭い光がぼくの眼をとらえる。
 群葉の緑は夏の午後の猛だけしい光にそりかえり、それでもしたたる緑の滴のあつまりのように道の両側にあるのだった。
 手の中ににぎりしめれば濃緑色のねとねとした汁をぼくはつくりだすことができる。
 鼻孔に緑の匂いが充満する。
 それはぼくのすきな夏の芳香。
 かぎりなき自然の生命力を謳歌するかぐわしい香りが未発育なぼくの肢体を鼓舞する。
 ――セクシャルな粘液としての緑の滴。
 しかし、ぼくは自然の情感にのみひたっているわけにはいかなかった。
 戦場ではすでに敗色濃厚な日夜を兵士たちがそれでも抗戦と玉砕の陰惨なつみかさねによって過ごしていたが、ぼくら幼いものたちは、汎神論的色彩によってしか戦争というものをとらえることはできなかった。 鉛の兵士たちを狙撃してたおす遊びの中の死と、現実におこなわれている戦域での死はまったく等価であった。
 つまりぼくらはまったくのところ子供だったのだ。
 しかしぼくらの周囲でもようやく余計者や廃物である品々が凶器にかわるような変容がはじまりかけていたのだ。
 運転席は極度の緊張のためぼくの身体からながれだした汗でぬめぬめしだした。
 ぼくはとまってはけない。
 それ右折だ……あ……正面に敵兵いる。
 それ、警笛の機銃掃射をあびせるんだ。
 えい、ちくしょう、これでもか……。
 ぼくは独白をつづけ、その想像の敵にむけられた独白の鮮烈さのために一層興奮し、陽にあぶられた大地にくっきりとあざやかな車輪の跡をのこし英雄になった快楽に酔っていた。
 快楽は永遠につづきそうに思えたが、不意にあらわれた人影によってはかなくも中断されてしまった。
 男は車と平行に走っていたが、やがて運転席の扉に敏捷に飛びつく。
 ぼくの隣りへすべりこんできた。
 学校の裏側の湿地帯に居住している朝鮮人の青年に違いない。
 かわってやるからどいてろ。
 子供の領分への侵入者は異臭を口もとからただよわせていた。
 どうするのさ。
 逃げるんだ。
 逃げる。どこへ?
 わかるものか。
 化石した表情のまま彼はいった。
 トラックはすばらしいスピードで夏の埃と影と光の舗道を走りだしていた。
 きりさかれた風景が両側へ流れる。
 彼の蒼白に冴えた顔をみていると、その緊迫感が座席の動揺とあいまって、ぼくにもつたわってきた。
 樹液のように恐怖が体内にはいりこんできてぼくは顔まで青ざめるのがわかった。
 寒いわけではなかったが、軽い身震いが身体をおおった。
 彼の行動には、ぼくの容喙を拒否する、冷酷で堅牢なよろいで武装されている感じがあった。
 怖れのためとぎれとぎれにぼくは彼に問いかけた。
 沈黙の重みにとうてい耐えられそうにもなかったから。
 どこまでいくの?
 ぼくは自分のおちこんだ事態をよりよく理解しようとするのだった。
 言葉はただ、運転台のある狭い空間にこだまする。
 青蠅が足もとのほの暗い部分でちいさなうなり声をあげていた。
 そのうちの数匹が彼の胸のあたりのいまはすでに退色してもとの色がすっかりわからなくなっている(たぶん黄緑色の作業衣だったろう)にとまった。
 じっとして彼の体臭でもかいでいるように動かなくなる。
 いたずらに言葉を消耗させるだけの……言葉のむなしい散乱にあきて、ぼくは彼の胸の蠅の動きに視線をおとす。
 やがて一匹の蠅が群れを離れ(いつのまにか、蠅はきゅうげきにその数を増しているのだった)フロントウインドにとまる。
 蠅が移行したグラスの表面になにかわからないが、跡、あるいはかぼそい点線が捺印される。
 フロントウインドの中の世界では樹木とあらゆる角、あらゆる面は夏の光をあびてきらきら輝いていた。 舗道がつき、密集した家並が消え砂利道になりふたたび舗道がはじまった。
 しかし道の外の世界には建造物はない。
 緑にもえたつ樹木だけがある。
 いくさおわるね。ニホン負けだよ。
 彼がつるされた鶏の声でいう。
 いくさおわるよ。
 うそだい。
 後頭部をふいになぐりつけられたような衝撃にぼくは<ウソだい>とはげしく否定する。
 そんなことがあってたまるものか。
 ウソなもんか。
 もうじきわかるさ。
 どのくらいまてばいいの?
 もうじきだ。そのときがくればおれたちも解放されるんだ。
 カイホウ?
 自由になれるってことさ。
 ジユウってどういう意味なの? 
 自由の魅力。
 自由の定義。
 自由のイメージ。
 自由という言葉をぼくはそのときはじめて耳にした。
 ぼくの語彙には自由という言葉はなかった。
 ね、自由ってどういうこと。
 そのあとで朝鮮人の青年がどういう解釈をぼくにふきこんだか、すでにぼくは忘却している。
 かえりたいよ。
 しばらくしてぼくはいった。
 もどるわけにいかない。
 彼はふたたび暴力的にいった。
 ぼくかえりたいな。
 もどりたいよ。
 ぼくがかえらなければみんなが心配するよ。
 心配させておくさ。
 止めてよ。
 いますこしまて。                              
 いつまでまてばいいの?
 ともかくまてよ。
 まっていれば、帰してくれるの?                          
 ああ、そうだ。
 まっていれば、そのうち、おれがいいとおもう場所にきたら止めてやるからな。
 それまでまつんだ。
 ぼくは、またなければならないだろう。
 いつまでまてばいいというのだ。
 トラックは斜陽のなかへつっこむように、草原にのびた道をすばらしい速度感と充実したエンジンの轟音をひびかせて走っていた。
 ぼくは黒いハンドルをにぎる男のひからびてごつごつした魁偉な指をみつめながら、不思議と恐怖のうすらぐのを覚えた。
 ぼくはまたなければならないだろう。
 なにを……またなければならないというのか?
 草原のはてに駅がみえはじめていた。
 彼はあそこからぼくを送りかえしてくれる気なのだろうか。
 ハンドルに上半身をかぶせ、彼は低く口笛を吹きだしていた。
 しかしそれがとぎれとぎれになり彼はますますふかくハンドルのうえにかぶさり無数の蠅がその顔にまで群がっていた。
 やがて彼は蠅に全身をおおわれ、黒くうごめく蠅のレースにつつみこまれてしまう。
 トラックは、それでもなお執拗に彼の意思をのせて草原の彼方の駅へと走りつづけていた。
 ようやく窓からふきこむ夏の埃と草いきれにまじって、ぼくのかたわらに血の匂いをかぐことができた。
 彼はすっかり蠅のなかに埋葬されていた。
 ぼくは光暈の中の駅が遠ざかってしまうようないらだちにおそわれていた。





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ベニマルの保冷例陳列棚がからっぽだぁ。 麻屋与志夫

2014-08-06 07:36:45 | ブログ
8月6日 水曜日

●昨夜、いつものように塾の授業を済ませてからベニマルにいった。
これもいつものように、大きなリックを背負っていた。
10キロのお米の袋がらくに二つは入れられるほど大きなリックだ。

●「昼の間は、暑いから、こうして夜にでかけてくるのもいいわね」
「でも、風もなく蒸し暑い夜だ」
「初めて街を二人で歩いてから、51年も経っているのね」

●9時を過ぎていた。
VIVAは閉店していた。
ベニマルの店内が異常だった。
客がまばらだ。
いつものこの時間には閉店間近の割引を目当ての客で、かなりの賑わいをみせているはずなのに。
890円の寿司が半値になっているともある。
それが今夜はなにも残っていない。

●寿司コーナーだけではない。
すべての保冷陳列棚の品物が空っぽだ。
棚卸でもしているのだろうか。
すべての棚になにも残っていない。
全品売り切れなんてことがあるわけがない。
客のすくない原因はこれだったのだ。

●「納豆がナイ。どうしょう」
毎日かかさず納豆を食べるカミサンがあわてている。
店員になにかきいている。
わたしは少し離れたところで、カミサンを眺めていた。
「電気系統の故障ですって。あまり暑かったからよ」

●調理室の大型冷蔵庫はブジだったので全商品、そこに格納したとのことだった。
スーパーの陳列棚になにも食料がない。
食べるモノが買えない。
わたしは慄然とした。
いつでも食べものがきらびやかに陳列台に並び、安易に手にはいることになれすぎている現代。

●終戦記念日が近いせいか、食糧不足物のあの飢えた、恐怖の時代を思い出した。

●カミサンの納豆はセブンイレブンにあった。
「明日も納豆が食べられるは」
わたしとほぼ同じ世代のカミサンだ。
毎日好きな納豆を食べられる幸せについて、彼女も考えていたのだろう。



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香取俊介「渋沢栄一の経営教室」より。ものごとを判断する材料は情報だ。 麻屋与志夫

2014-08-05 06:06:19 | ブログ
8月5日 火曜日

●人がものごとを判断する材料は情報だ。いかに多くの情報を正しく、早く伝えるか。「渋沢栄一の経営教室」p130より。

●正しい情報かどうか判断する機能が劣化している。

これはTVのCMをウノミニする傾向として現れている。

テレビの宣伝文句で言われたことはすべて真実であり正しい。

――ことだと初めから疑わない。

全幅の信頼を置く。

●わたしはこう考えるのだよ。

と、例え、やんわりとでも反対意見をのべるとたいへんなことになる。

だから、具体的なことはあまり発言しない。

書けない。

●わたしは、勉強をする1つの目的は、

なにごとも疑ってかかると言うことだと思う。

あまり猜疑心に捕らわれるのはよくないだろう。

でも疑問をもつことも出来ないよりはいいような気がする。

●やはり、ここで本を読まなくてはダメだと痛感する。

本には、とくに古典には世間に媚びるようなことは一言も書いてない。

むしろ、古典としてのこっている作品は世の人々に警鐘をならしている。

批判的な作品がおおい。

真実をみきわめようとする作品だからこそ生き残ってきているのだ。

●「渋沢栄一の経営教室」にはこうした真実をみきわめようとする言葉が、

随所にちりばめられていて勉強になります。

もちろんSFの発想法に基づいてかかれているから、面白いこと請け合い。

さらに教育的な発想も意見も発見できますよ。

●夏休の宿題。読書感想文にはぜひこの本に挑戦してみませんか。




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