田舎住まい

吸血鬼テーマーの怪奇伝記小説を書いています。

人間もどきの終焉8 麻屋与志夫

2019-10-31 09:21:53 | 純文学
18 いかなる暗黒がおまえを追うか

 そして、ふたたび日課となっている労役がはじまる。肩に背負うようにして、糸を引いているぼくのミミにタクシーの急停車音がつきささる。ドァが閉じる音。母の足音が迫る。

 ――お帰りなさい。病院は混んでましたか。返事はない。

 ぼくは糸を12メートル引き、端の腕木に丸く輪にしてある耳糸を掛ける。ふりかえる。石塀に片手をかけて肥満した体を支えて、息を切らしている。母は饒舌になる。

 ――肉を食べないから疲れてしまった。医者はわたしの話すことなんかきいてくれない。不満があるのなら、他の病院にいってください……だってよ。てんで、相手にしてくれない。ちかごろの医者は、忙しすぎて患者のいいぶんなんか、きいちゃくれないんだから。でも、わたしにゃ、わかるんだよ。じぶんの体だもの。じぶんのことは、じぶんに一番よくわかるんだよ。肉を食べなかったから、栄養がとれなかつたから、それで、こんなにクタビレタのさ。ねぇ、おまえ、ミチコによくいっおいてよ。肉がたべたいよ。

 沈黙。
 石塀にへばりついていた肉体は、ぼくの目前でふくれあがる。
 ぼくはあわてて言葉をさがす。
 ぼくの声は母にはとどかない。
 とどいたところで、理解されないだろう。
 激流に突き出たつるつる滑る岩の上に立つ二匹の動物のように、母とぼくは敵意をむき出しにした視線を交わす。
 母の顔に凶暴な表情があらわれる。
 黙って正面に進んでいく。
 母が怯えたようなしぐさをみせた。
 柔らかな、ぶよぶよ肥った肉の塊を背負うために、ぼくは母に背中をむけて前かがみになる。
 ころぶまいとして、脚がもつれた。
 ぼくの体にぼくではないものの、肉体の重圧。
 ……これはまだ夢だ。ぼくは夢のつづきをみているのだ。
 叫び声がきこえる。
 しかし、妻はこんどは、起こしてくれなかった。
 そして……ぼくはこのときはっきりと悟った。
 病気なのは、母や父ではない。
 疲れきったぼくらなのだ。
 
 妻はやせ細り、ぼくは大地に倒れそうだ。
 
 母の顔に、青ざめた妻の顔が重なり、その妻の顔によびかけようと、ぼくは背後からの重みに耐えて夢の中で歩きつづけていた。
                           

                                           完了


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人間もどきの終焉7  麻屋与志夫

2019-10-30 06:39:12 | 純文学

17 一滴の血の重さ
 
 野獣が吠えるような声。ベランダから近所にきこえるように今日も母が声をはりあげている。
 ――わかいものが、イジメルよ。おなかすいたよ。肉、食べたいよ。
 ミチコが――あれほどいわなくてもいいのに、と控えめにいった。ぼくにはどうするここともできなかった。夫の看病とじぶんの病苦との狭間にあって、すでに母はこころもやんでいた。
 ――ぼくらの結婚を遅延させ、生まれてくるはずだったぼくらの初めての子をだめにしてしまったのは、父と母なんだからな。あの人たちは、どれだけぼくらがかれらを養うために犠牲をはらったか、わかってもらいたい。
 
 ――いいのよ。わたしのことだったら……わたしがイジワルシテ肉をかわなかったのでないことを、あなたがしっていてくれれば、それでいいの。家のなかでいがみ合うなんてやりきれないわ。
 ――なにかが、変なのだ。きょうもしばらくぶりで、朝からおかしかった。ミチコが悲鳴をあげたからだ。
 ――わたしはいつも、叫んでいるわ。あなたの救いをもとめて、呼びかけている。でも、あなたにはきこえていない。
 ――いつか、きっと……こうした生活も終わる。悪い夢からぬけだせるときがくるだろう。
 ――そういうことではないの。あなたにはわかっていない。
 ――いつもいっしょに仕事している。いつもミチコのそばにいる。
 ――だから、いっても……むだね。わたしの声がきこえていないのよ。
 ぼくには確かに理解できなかった。ミチコだけに感じられる怖れとは、なにか?
 ――さあね。
 
 ぼくは恥じらいをふくんだ声で低く応える。あまり開き直った妻の質問に白らけて、そう信じて生きている、という言葉をのみこんだ。
 沈黙。そして夜がくる。寝室。真夜中。ぼくの体の上に重圧がかかる。それはキャシャナ妻のものではない。肥大しつづける母のものではないかという恐怖が喉もと集る。肉を食べられなかったことでまだ怨んでいるのだ。ぼくは叫び声を上げていた。
 
 ――どうかしたの。夢よ。悪夢だわ。
 
 妻の手がぼくの胸をゆすっている。ぼくは眠りの外にはいだすことができない。その手が、ぼくのクビをしめにきた母のものと誤ってはらいのける。
 
 ――どうしたの、夢よ。夢をみているのよ。怖い夢を……妻がささやいている。



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人間もどきの終焉6  麻屋与志夫

2019-10-29 08:55:29 | 純文学

16 どこにも住めない

 冷えきった夜気のなかに、取りこむのを忘れた糸が庭に干してある。
 庭の片隅には古くなった洗濯機が放置されている。使用不能となった洗濯機の排水ホースは死んだ像の鼻のようにだらりと弛緩していた。干からびてひび割れていた。
 ぼくらが結婚する前には、小型モーターの回転音と水の撹拌音をたてていた。
 ホースのさきからは、華やいだ泡々が、もみあい、はじけながら奔流していたのに。
 ふきだした無数の泡。
 際限なくふきだす白い泡は下水口まで流れた。
 ぼくは独りだった。コンクリートのU字溝を、泡ふく蟹の群れとなって流れていく。汚れた水がナマグサイにおいをたてて黒い穴のかなたに消えていく。
 ぼくは独りだった。そのころ、母はすでに胆のう炎を患っていた。
 だから、一家の主婦の労働のすべてがぼくのものだった。
 家、長く受け継がれてきた「麻」を商う家を守りぬかなければならなかった。もっとも、合成繊維の侵入でそのころでさえ、麻の商いはへるばかりだった。
 広すぎる家屋。広すぎる庭。三人だけの家族だった。
 そこに光が射した。ミチコ嫁にきた。桃代が生まれた。
 
 ぼくは回想からさめた。
 
 夜の底で干してあった糸の束を物置にとりこんだ。
 
 父がふじに退院した。その夜。湯船につかっている父の下腹部につけられた人工肛門から、小さな泡が二つ水面にうかびあがった。このとき、ぼくはおろかにも、まったくなにもしらなかった。なにもしらされていなかった。
 ――みんなで、おれをかたわにした。こんなところからウンコなんかでるものか。
 だが、父の顔にはふしぎと、憎しみの表情はなかった。
 凋落する肉体をいとおしむ、寂しい微笑があった。
 伏し目なのではっきりとはわからない。苦笑いをしていた。
 男根はふやけて精彩を欠き、古くなったホースのようだった。
 死んだ象の鼻のようにだらりとしていた。
 人工肛門だけが異様に生々しい色で、ピンクのバラの蕾のようだった。
 ぼくよりも大きかった体はやせほそってしまった。脂肪はすっかりなくなり、ハラのタブタブしていた肉は消えてしまった。皺がよってこわれアコーデオンのようだ。
 父の後で風呂につかると湯水が大量に洗い場にあふれた。それが父とぼくとの差だ。父の体が平面的になって湯船に浮かんでいるようだったのを思いだして、ぼくは目がしらが熱くなった。
 暴力をふるわれた思いでしかないとしても、オヤジは父であることにはかわりはない。
 
 ぼくはタオルを顔にあてた。

 ぼくは父になにもいえなくなっていた。

 やせ細った父を思い、ぼくは、母をおしのけて父の部屋に侵入しようとしたことを後悔していた。だれが筆記具を隠したにしろ、そんなことはどうでもいいではないか。
 
 ぼくの記憶のなかにこの経験をたくわえておけば、書けるようになったときに、書けばいいのだ。


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人間もどきの終焉5 麻屋与志夫

2019-10-28 06:51:17 | 純文学
13 黒衣をきて窓辺に佇むのはだれか

 ――お母さん。いまお父さんが、病室からでたでしょう。
 詰問されて、母はうろたえる。激しく否定する。なにいってるの、お父さんは、起きあがることもできないのよ。おまえが、一番よくしっているじゃない。わたしが信じられないのなら、自分の目で確かめたらどうなんだい。
 もういいよ。ぼくが悪かった。でも……お母さん、ぼくの部屋でエンピツがなくなっているんだ。これはどう解釈したらいいのですか? 
 ――ネズミだよ。ネズミが曳いていった。この家には残飯がいっぱいあるからね。それで、ネズミがワルサをするんだよ。ネズミが集ってきて、天井裏を一晩中かけまわっているじゃないか。
 母には食事は出し惜しみするが、ぼくらはすてるほど飽食している。皮肉をいっている。ヒガンデいる。やはり肉を食べられなかったことをうらんでいる。桃代をつきとばしたことなどまったく意に介していない。
 父の病室はひっそりとしていた。人気がない。
 ――ともかくミチコも一生懸命やっているんだから、わかってやってください。話がそれてしまった。
 ――わからないね。肉屋が五の日は休みなのは、いまさら始まったことじゃないんだからね。忘れたというのは、口実さ。わたしを、飢えさせる魂胆なんだよ。
 ぼくと向かいあっていたのに、よろめきながら座りこむ。肥っているので後ろに倒れそうだ。ぼくらの部屋を母は、うらみがましい(あるいは獲物をうかがうような)眼差しで睨む。
 ――わたしは、ヒモジインダヨ。肉がたべたいのだよ。
 呪術の文句のようにひびく。わたしはひもじいんだよ。その言葉をきくと、呪縛にかけられたようにぼくはその場にたちすくむ。
 母として機能とこころは、とうに失っていた。動物として生命をもちこたえる本能。いかにして肉体を維持するか、必死なのだ。
 かつては母であったひとへの情愛から、家のなかにハメコマレ、むなしく過ごしてきた無気力さに腹が立った。ミチコを弁護すると母はイジノ悪い姑として、嫁を嫉み、妬み、ののし。
どうしてこんなふうに変わってしまったのか。
 母の肝臓と胆のう炎は宿痾となっていた。
――病気だから、栄養をとるように医者にいわれているのだよ。いくら食べても、栄養をたくわえておいて、吸収することができないのだからね。だから、毎日肉を食べなければ。一日だって肉を食べるのを止めてはいられない。こころにつもる不満をいっきに吐きだした。語気には哀調があった。哀れさがただよっていた。
 そうした母の言葉をきいていると、ぼくはこころのバランスを失いワメキチラシたくなった。ぼくらがどんなに苦労しているか、ミチコが姉たちにヒドイことをいわれてもじっとがまんしていのかわからないのですか。病気の親をかかえているのに、赤ちゃんを産むなんて〈チクショウ腹だ〉なんていわれた。畜生ですよ。栃木の姉なんか、一日だって看病にきてくれないでしょう。見舞にだってきましたか。
 かつては慈愛にみちていた母のヒトミは憎しみ照射だけをぼくに向ける。
 ふいに、夜の雷がなった。こわがりの桃代が目をさまして泣きだしたら……部屋にもどろうとした。明かりが消えた。停電だ。ぼくはある決意をもって一歩踏み出した。絶えてひさしく入ったことのない父の病室のドアのノブ探した。さぐりあてた。押した。
 突然ついた明かり。母がいた。ぼくの目前に母がいた。すでにぼくの行為を予期していた。そうにちがいない。古仏像のような、見つめる対象を哀れむような顔をしている。おまえのことはわたしが一番よくしつてるのだよ。
 巨大な体で立ちはだかっていた。
 その重厚な肉の壁にさえぎられた。父の所在はわからなかった。
 ぼくはせっぱつまった感情を察知された。いちはやく、母が、夫を防御するために、そこにいたのではないかと、ぼくは思った。めくるめく、恐怖。おののき。ぼくは、吐き気をおさえることができなかった。だが、ぼくの胃には吐きだすほどのものは、なにものこっていなかった。
 苦い胃液が喉元で、不吉な花を開いた。口いっぱいに開いた胃液の花を呑みこむこともできず、ぼくは呆然と立ちつくしていた。
 ぼくは不遜な感情の自己謝罪をかねて立ちつくし、母のくいこんでくるような凝視に耐えた。

14 中有にただよう父

 父の病室に入ることをためらった。
 だが、ぼくは母の言葉にすなおに従う行動にでたわけではなかった。
 なかば自己規制。親のいうことには従順にしたがうというながいあいだの習慣に従った。
 ぼくの入室を拒む母の言動には強制的なものがあった。
 そうなのだろうか。
 母にこの場から立ち退くように言われたからなのか。
 いや、ぼくがその場に立ち留まりドァを開け一歩父の病室に踏みこむことをためらったのは、その理由は、恐怖によるものだった。
 ドァの向こう側からとげとげしいというより、鋭利な槍衾を突きつけられたような恐怖がせまってきたからだ。
 すこし時間がたっと、これはおかしいとおもうようになった。
 父の看病のためにすべてをなげうって帰省してきた。
 もしなにか妖しいことがあったら、それを排除しなければいけないのだ。
 それが長男の役目だ。
 いくら父とのあいだには親密な関係は築けなかったからといっても、父の症状を週に一度くらいは確認しないではいられない。
 ベットに拘束されでもしたかのように父は仰向けに寝ていた。
 便のにおいが部屋には充満していた。
 父は微動だにしない。
 なにかオカシイ。ここではもう時間は止まってしまっている。
 これは――気づく。
 病室は『中有』闇にとざされ、死霊が満ちみちていた。
 はっきりと視認できるわけではない。
 そう感じた。
 死霊はとりつくものをもとめて禍々しく渦まいていた。
 いまならタスカル。
 いまならまだ父には死霊はとりついていない。
 一瞬おくれていたら、父は三途の川に誘われていた。
 父がぼくを呼んだのだ。
 ぼくは父に呼ばれたのだ。
 中有に父はいる。
 ぼくは必死で父の名をよび、幼いころ父に教え込まれた降魔の呪文をとなえ、胸に両手を重ね蘇生法を実施していた。
 少し時間がたった。
 これはおかしいぞ、助からないのかもしれない。
 父はすでに死神にとりつかれ三途の川にむかって歩きだしているのかもしれない。
 父は病床で身動き一つしない。
 貪るように父の顔を見た。
 そのときだ、ハッと息をはきだした。
 顔に赤みがさした。
「お父さん」
 ぼくは父に声をかけた。
 父の瞼ピクッと痙攣した。
 そして開いた。
 そして、父は見つめている。
 父の視線の先、窓の外は夕暮れだった。
 雨はあがっていた。
 作業場には斜陽がさしこんでいた。
 父はぼくが作業に励んでいるのを、芯縄の天日干しを広場を見まもっていたのだ。
 庭の木立をすかして、ぼくの働く姿をみていたのだ。
 父は毎日ぼくが働く姿をみていた。その父が苦しそうに口を開いた。
「おれは正一、おまえに帰ってくるようにとはいわなかった。それなのに帰って来た。うれしかった。これで江戸時代からつづいた麻屋のノレンをおろさなくてすむ。うれしかった」
 窓の外の事物の輪郭が闇にぬりつぶされようとしている。
 父は語った。なんども相場をはったが負けた。わが家は悪霊憑きの家系なのかもしれない。合成繊維で芯縄を作るくらいなら、おまえの代でアサヤのノレンをおろしてもいい。さきほどのよろこびのことばとは矛盾していた。おれの世話のために帰ってきてくれた。それだけで満足だ。うれしかった。父の言葉はとぎれとぎれだった。
「ダメ。出ていきなさい」
 母がさきほどの言葉をまたくりかえしている。
「お父さん」
「ソンナ目で見るな。おれはまだ生きている」
 ――まだ生きている。ようやく虹彩をとりもどした父の眼が言っている。
「おれはまだいきている」
(ぼくはなんということを想像していたのだ)
 父の死をねがっていたのか。
「近寄らないで」
 母が絶叫した。ぼくをつきとばした。
 よろけながら、このとき、ぼくは見た。
 ふるえながら父の手が上掛けを払いのけた。
 下半身は裸だった。
 左の脇腹にうがたれたストーマ、人工肛門がいたいたしい。肉色のバラのようだ。花芯がうごめいている。いや、ナメクジのような軟体動物が穴からはいだそうとしている。肛門からでる便であるはずがない。臭いもなにもしない。タダ不気味にはいだしてきた。
「さがりなさい」
 母が邪険に叫ぶ。
 ぼくの腕をひく。どこにこんな力を母は温存させておいたのか。ぼくはよろけた。
 父のベットの向こう側に黒い影がよどんでいる。影はピョコンと父の胸のうえにとびのった。そんなバカな。ムンクの「死の床」に描かれていた。臨終の病人の体の上にのっている悪魔の姿に見えた。
「見えるんだね。正一。おまえにも、お父さんのように、わたしのように、悪魔が見えるようになったのだね」
「もういい。このままいかせてくれ。呼びもどさなくていい」
 父が苦しい声をしぼりだした。
 この部屋には父と母とぼくしか存在していないはずだ。
 だが、見える。
 黒い影。悪魔。
 あれが幻影であるわけがない。
「やめろ。父をどこにつれていこうというのだ」
「正一。ムダよ。あきらめなさい。それより、この部屋からはやく、でていきなさい」
 あわてふためく母とぼくを悪魔が見つめている。
「正一。逃げて」
 母の視線の先でナメクジがぬらぬらとこちらにはってくる。
「あれは癌のようなものよ。あれにはいりこまれたら、もう助からないの」
「だったら、母さんも逃げよう」
「わたしはお父さんから病気をとりのぞこうと、進んでアイツを受けいれたの。だからお腹がすくのよ」
「逃げよう。母さん」
 ぼくがこんどは母の手を引いた。85キロの母はびくとも動かない。
 悪魔が笑ったように感じた。あいつは幻影だ。そうあってくれ。
 光の屈折がつくりだした幻だ。
 蜃気楼だ。
 いや、あれは異界からこちら側に、この現世に迷いでてきた異形のものだ。
 こちら側に存在してはいけない。悪魔だ。
「おれは病気なんかじゃない」
 父が怨念をこめて低くつぶやいた。
「きさまらが。よってたかっておれを呼びにきた」
 悪魔に怨みの声をかけている。
 ――その非難はおかどちがいだな。悪魔から声にならない声がながれだしてきた。おれたちは分業なのだ。死の病を処方するものはそこにいるヤッの仕事だ。
 悪魔はナメクジを指さして哄笑している。
 父が直腸癌で倒れたので、家業を継ぐため、父と母の看病をするために帰省したのだ。
 父を助けるために帰ってきたのだ。
 ダメなのか、もうこれまでだ。助けることができない。
 なんてヒドイことをかんがえていたのだ。
 例えこのまま進めば、明日ぼくと妻と娘の家族が破滅するとしても、目前の父のサルべージが必要なのだ。
 例え、いちどでも父の死をねがった罪は許されない。
 生活の苦しさから、労働の辛さから父の死を望んだ。
 妻や娘を優先してかんがえた。
 全ての罪はわたしがひきうける。

「父をたすけてくれ。父をつれていかないでくれ。父を助けてくれ。わたしの寿命をちぢめてもいい。父にあたえてくれ」
 ここで諦めて部屋から退散することなんかできない。
 わたしはまずナメクジを踏み殺そうとした。
 あざける悪魔を無視した。
 さっと足をもちあげた。
「やめて!!」
 母が絶叫した。
 ナメクジが天井に跳ねた。天井をはってぼくの頭上に移動してくる。
 母がわたしを突きとばした。おちてくるナメクジを口でうけのみこんでしまった。

 ぼくは悪魔に挑んだ。かかえあげた。父の胸の上から引きずりおろそうとした。
 引き離そうとした。青白いスパーク。この閃光はテレキネスだ。悟った瞬間、父のベッドの反対側にハジキとばされた。頭蓋骨に直接ひびいてくる嘲笑。
「おまえも、一緒にいくか」
 
 一緒にいくか? 悪魔が嘲りながら誘っている。
 黒い悪魔の体のなかで、そこだけ青白く光っている双眸。
 青い炎がふきだしているようだ。
 あるいは、おどかしている。こんなヤツとはどう戦えばいいのだ。
 母は白眼をむいて倒れたままだ。

15 荒廃した家

 ぼくは父のとなりに座っていた。身近に父を感じていた。夏。そう、やはり夏だった。
 まばゆい夏の光のなかでぼくらは病室の窓から庭をみていた。
 花壇には鮮烈なダリヤが咲いていた。手術をきらって、病院にいくのはいやだという父を中庭の片隅においつめて、やっと病室につれてきたところだった。
――手術はいやだ。そんなことを、したら、死んでしまう。医者にころされてしまうぞ。どうして手術をするんだ。どこがわるというのだ。
 家族で説得して宇都宮のK病院に入院させた。やはり、なぜか赤いダリヤが花壇で風にゆらいでいた。ぼくは父がながすであろう、血の色をイメージし不吉な思いにかられた。白衣の看護婦が水をやっていた。白衣が風にはためいていた。
 父らしくない弱々しい声だった。入院費のこともさすが商人、気にかけていた。手術費は確かにぼくらの一年分の生活費ほどかかった。老人医療がない時代だった。それでも父の命が助かるのだったら、高利貸に借金しても、なんとか金は工面する。どういっても親子なのだから。ぼくは決意していした。
 
――おれは病気ではない。病気なんかじゃない。おれを病気だといったのは、おまえのお母さんだ。おれはどこもわるくはないぞ。手術なんかするものか。手術なんかいやだ。
 
 泣きだしていた。父が泣くのを初めてみた。泣きながら話す。訴えるよう泣きながら話しつづけることで、手術の不安からり逃れようとしていた。
 青白い衰弱した顔……皺々のあつまりのなかでクボンダ目。虹彩。なぜかその窪みがぼくには父の肛門のように見えた。一滴の血液がトイレの便座に付着していた。その発見は母によってなされた。平穏であった家族の安泰がおびやかされた。
 
 暗闇にわが家がつきおとされたのは、あの赤い一個の球状のしたたりによるものだった。
 
――医者が診断したのだから。お酒の飲みすぎだよ。お尻にイボができてるんだって。それをちょっと、とるだけだよ。
 平凡な会話しかできないことが、つらかった。
 あの日も夏の午後だった。ぼくのこころは、闇にとざされていた。ぼくがおそいくる闇を感じた、初めて害意ある闇にトリカコマレテいると意識した日だった。
 病院。噴水のある中庭。天使が舞っているような、噴水の周りの塑像。実際に羽の生えている像がかなりあった。
 どうしても病室にもどろうとしない父と肩をならべてベンチに座り水音をきいていた。
けっしてここは天国の庭なんかではない。むしろ地獄だ。それを実感できるのはもっとあとになってからだった。
 なにか重大な過失をおかしているようで不安にった。父の入院する病院も、手術の予定日も、医者にさえぼくは会っていなかった。すべて長姉の富子が采配を振るっていた。あまり父がまだ元気に病であることを否定するので、ぼくまで懐疑的になってしまった。ほんとうに病気でなかったら、誤診だったら……父を場に追いこむようなものではないか。
 ぼくを平気で殴るくせに、痛みにたいしては過敏なほど弱い父だった。もし顔を傷つけたらと髭を剃るのにカミソリも使えない。肌が敏感でクリームもぬれない。その父に直腸癌の手術をうけさせるのは――。
明るくきらめく噴水をみつめていた。父は黙ってしまった。
 ぼくは花壇に咲き乱れる夏の花の香りをすいこんだ。
 だまって父の手をにぎった。
 父の手は震えていた。
 なぜか、いままでぼくに鉄拳をあたえてきた手がなつかしいものに思えた。
 ぼくはさらにつよく握るために手に力をくわえていた。



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人間もどきの終焉4  麻屋与志夫

2019-10-27 07:21:23 | 純文学

10 夏の雪

 夜。
 窓の外で一匹の蛾が羽音をたてている。いや、蛾の羽音はきこえているのだろうか。き
こえてはいない。幻聴だ。羽ばたきするたびに鱗粉が降るように撒き散らされ、閉ざされ
た窓ガラスにこびりつく。その動きは部屋の白い壁に拡大されて投影されている。羽ばた
く蛾のかなたにある街灯の光の効果なのだろう。鱗翅目からでる鱗粉が夏の雪のように見
える。幻視だ。これはイメージだ。壁の蛾はまるで黒く巨大な吸血コウモリのようにみえ
る。夜。夏の月と星の光芒。銀河。
 部屋の調度品は不吉に影を宿している。桃代が寝どこのまんなかで寝息をたてている。
 ――ねえ。妻がまだ起きていた。
 ――つぶしてしまって。蛾をツブシテ。気になって眠れないの。
妻が……一方的に言葉をつづける。……沈黙するつもりはなかつた。壁に描かれる黒白
の濃淡模様を眺めていると、拒絶と受けとったのか、キンチョ―ル家庭用殺虫剤の噴霧器をもって妻が部屋をでていく。
 桃代が英語でネゴトをつぶやく。聖母幼稚園で英語のお勉強をしている夢をみているのだ。……静かな祈りの言葉のようだ。ホホに擦過傷がある。母に邪険におしとばされたときにできたものだ。表皮が5ミリ幅で2センチほど剥離していた。アカチンキがホホいっぱいに、わざとらしく、オオゲサにぬられていた。キズの殺菌消毒ならマキロンでもいいのに、おおげさに赤が目立つアカチンをどうしてつけたのだ。桃代は汗をかいている。枕カバーまで赤くそまってしまった。妻はまだそれには気づいていない。ぼくはこのことを妻には告げないだろう。また、さきほどのようなキマズイおもいはしたくない。
 やがて、噴霧音。
 そして、音のした方角をふりかえる。喉もとから血をふいて妻が倒れている。あれは、蛾ではなく吸血コウモリだったのか? 咬まれたのか。これはマボロシダ。幻視だ。マボロシダ。幻だ、ととなえているとゆるやかに視野がもとにもどってきた。
 蛾は窓ガラスにへばりついている。動かない。喉のあたりに、まだ噴霧器をかまえたままの、嫌悪にゆがんだ顔。

彼女の体が窓ガラスの向こう側にある。
目でぼくを呼んでいる。
 
また次の夜。
 昨夜の蛾はまだ窓ガラスに止まっている。いや、動かない。へばりついたまま死んでいるのだろう。ミチコはベランダにでている。ぼくは彼女にいわれたことをまだやっていない。そんなことはじぶんでやればいいのに、ぼくを呼びつづけている。窓ガラスを指で叩いている。
 ぼくは小説を書かなければと白紙に向かっていた。言葉、たとえ一行、たてとえ単語であっても書かなければと――言葉とは疎遠なこの日常からぬけださなくてはと、意欲をこめた視線のさきで……まだ白紙のままの原稿用紙を机の上に残して、しかたなくベランダにでる。こんなことなら、初めからぼくがやればよかつた。夏の星ぼしの光芒はない。ぼってりと雨を宿した暗雲がいま上空にある。空の果てで、かすかに、ときおり稲妻が光る。その光を「空の珊瑚」ととらえたぼくの感性はどこにいってしまったのだ。
 銀河はみられない。日照時間に支配される。天気あいての乾燥作業だ。明日は雨になれば休める。小説をいまから書きだせばかなり量産できるだろう。想像したとおりの夜空だ。
 ――明日は、雨、カシラ。
 ぼくは、妻に目で呼ばれた用件を果たした。昨夜の蛾がまだへばりついていた。ガラス窓から、もってきたクリネックス・ティシューで蛾の死骸をつまみとる。ガラスはなんの痕跡ものこらないようにきれいに拭きとる。こんなことなら、昨夜……目で呼ばれたときにやっておけばよかった。
 小説を書きだそうとしていたのに――中途挫折、あわれな望み、果たされなかった意気ごみの残滓を胸に秘めぼくは五段あるベランダの階段の一番下に座る。
 ――あすは雨になるわ。
 妻が華やいだ声でいう。上のほう、ベランダから声はふってくる。
――ねえ、あなたすこし働きすぎるわ。仕事の量を減らすことをかんがえたら。
――それで生活できたら、むろん、そうしている。
――医療費の支払いがおおすぎるのよ。サラリーマンの一月分ですものね。
――桃代はよく寝ている。今夜は夜泣きしないでしょうね。
ぼくが返事をしないでいると彼女は階段を下り、寝室をのぞきこむ。肩を寄せあった二人の影が壁に映る。外灯がぼくの背後から射しているので、影は拡大され部屋が陰ってしまう。翳りの底で、桃代はスヤスヤ寝ている。寝息まできこえるようだ。
――あ、す、は……きっと、雨よ。すこし休むといいわ。この前、雨が降って仕事休んだのは、いつだったかしら?
ぼくは正確にはおぼえていない。彼女の胸に手をさしいれる。乳房をもむ。愛撫する。風呂に入ったのでぼくの手はすべすべになっている。彼女の柔肌を……もむ。唇をよせていく。唇をすいながら、愛撫をつづけた。
――あっ星がみえた。
雲がとぎれて月もでている。
――わたしは射て座の女。「空気が読めない」性格なの。
――それが……。
――わたし二人目の赤ちゃんができたの。

11 雨の日が好き

 沈黙。
 ――ジヤマする気はなかったのよ。ごめんなさい。部屋にもどって原稿を書いたら。
 ぼくの沈黙をどうトッタのだろうか。どうおもったのだろうか。妻の声が皮肉にきこえる。
 ――いまからでも、一枚くらいは書けるでしょう。ああ、やはり軽蔑しているのだ。同人誌の仲間が次つぎと賞をとってフルタイムの作家となっている。それなのに……遅筆で結婚してから、一作も完成した作品はない。
 ――一枚くらい書けるでしょう。乳房をもむ。なにか、たしかに存在しているものに、すがりたい。ここに彼女がいる。ここに妻の乳房がある。妻のおなかには赤ちゃんがいる。新しいぼくらの生命がやどっている。
もむ、愛撫する。たしかな手ざわり。そういえば、そういわなくても……机の上に筆記具がなかった。いつものことだが、東京作家クラブで「随筆賞」としていただいたモンブランの万年筆がみあたらなかった。それどころか、エンピツもボールペンもなかった。桃代がいたずらしたのかな、とかんがえているところを妻に呼よせられたのだ。
 一日の労役の果てに、言葉へのpassionがよみがえる。過労でうまく機能しないイカレタ頭から、言葉をシボリだそうとする。精神が高揚する……モノ陰で、そうしたぼくのこころをウカガッテいたかのように、筆記具をカクシテしまうものがいる。そうだ。そうなのだ。ソダヤノソダサンソダクッテシンダソウダ。おもわず、子どもの頃の、地口遊びがあたまに浮かんで消える。「粗朶(タキギのこと。火を起こすときに、はじめに細い枝、ソダからつける)屋、薪を売る燃料店のこと。曽田さん。そだくつて(蕎麦が訛った)食って、死んだそうだ。……と解釈すればいいのだろうか。曽田という苗字の友だちをカラカウ言葉遊びだ。筆記具がみつからないので心の中でつまらないことをまたかんがえている。ぼくは正一という名前なので「しょうちゃん、しょうじゃないか、しょんまら、しょんせんごっこ、しょっても、しょっても、しょうきれない」とカラカワレタものだ。いまでも家庭の苦労があとからあとからウジのようにわきでて、重荷となり、背負う……しょう、とこの地方ではいう、しょいきれないことは、たしかだ。しょうがないな。仕様がない、なななな。やりかたがわからない。どうしたらいいのよ。この苦境からぬけだしたい。
 満寿屋のデラックス原稿用紙が机の上に整然と積まれて、存在したところで筆記具がなければ、どうにもならない。
 マイナスドラィヴァをもって時計の修理? とウソブイテ歩くぼくを柱の影に潜んでいて、ふいにあらわれては、なぐりつけ、ドラィヴァをとりあげたのは……だれだったろうか?????? おかしな幼児体験をいまになって、おもいだすものだ。お父さんよ。お父さんだったのでしょう。妻はふいに乱れたように、いや実際に錯乱しているのかもしれない。ぼくの回想につきあってくれている。だぶん、妻の推理は正しいだろう。お父さんに、まちがいないわ。でも、いまとなっては、たしかめるスベはない。その必要はない。
 ぼくは引きだしからエンピツをとりだして、削るだろう。新鮮な木のにおいをかぎながら、時間のゆるすかぎりエンピツを削る。囚人のような生活、毎日科される労働にぼくを追いおとした。父。父への憎悪の炎をかきたてために。呪いの言葉を書きつらねる。粘りつく肉親の絆をたちきることのできないぼくのこころの弱さを嫌悪しながら、エンピツを削る。何本もの芯を尖らせながら、これから書かれるはずの文体について思索する。夢想する。

12 手がふるえる

 夢みることを覚え、ぼくが作品らしいものを書きあげたのは、十代の終わりのころだった。町内に嫁いでいた二人の姉がたまたま家にいた。妹は高校生。そして母。四人の女たちが止めにはいらなかったら、制裁の憎しみをこめ父の鉄拳は、ぼくが気を失うまでつづいたろう。ぼくの不幸は小説家になろうと志したことにある。
 言葉なんか覚えなければよかった。たった数千の単語。それを組み合わせて文章を綴る楽しみを見いだしてしまった。それが、ぼくの罪だとでもいうのか。あまりの悲しさに、ぼくは沈黙にいたった。
 ――なにかんがえているの? ぼくが回想のなかにおちこんでいると、妻のこえがした。ぼくは妻を愛撫していたのだった。
――よくがまんしたわね。
――なんどか家でしたさ。そのたびに、失敗した。
 長男が後を継ぐという、大麻商の家庭の秩序、家訓を乱したといって殴られたのだったろうか。狂気じみた父をもてあまして、母は白髪になっていた。ふつうだったら、ちらほり白髪のみえる歳だったはずだ。皺のよった顔のなかの目をしばたたいていた。おまえだけが、頼りなんだよ。おまえだけが。
 母のことをおもうと、もどってこないわけには、いかなかった。
 いまはすっかり肥満し、さらに肉食している。肥りつづける老いた母は、いまはぼくとミチコの間に立ちふさがる分厚い壁となっている。いかに怨みごとをこころのなかでツブヤイテも、母は母である。父はそれなりに父なのだ。
 部屋の壁面を黒い影がよぎった。と妻が悲鳴をあげた。乳房をもまれて喘いでいたはずの妻が小さな声で叫ぶ。そんなことあるものか。ミチコの影が映ったのだろう。ちがう。わたしはこの階段にすわっている。あなたのそばにいたでしょう。あなたの話しをきいていた。動いていない。
 部屋はなにごともなかった。桃代は夏掛けのタオルをおなかのまわりにまきつけていた。頭が枕からずれていたが、静かな息をしていた。
 ぼくはある予感から机をみた。やはりない。筆記具はなかった。やはりお父さんよ。そうおちがいない。削ろうとしていたエンピツがなくなっていた。おとうさんは動けるのよ。お父さんだわ。ぼくはいつものように、耐えられなかった。新たなエンピツを削ることはできなかった。回想から覚めきっていなかったからだ。父からうけた迫害がからだのなかで雪崩れた。



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人間もどきの終焉3  麻屋与志夫

2019-10-26 07:50:51 | 純文学

7 肉が食べたい

 父は麻相場に賭けていた。ひと相場あてれば、10年はらくに暮らしていける。そんなことをウソブイテいた。よく座禅をくみ、あすの相場をみとおすのだといっていた。神がかりなことをいっていた。この期間、相場に賭けているときだけは、なぜか時計の針を合わせて、正午を告げる12番目の音が最後の一瞬において、同時に家じゅうにひびきわたらないと、不意に瞑想からさめて、獣のように吠えたてた。13番目の時鐘をきいたときには、それは一層凶暴なものとなった。……なぜだろうか?
 そうした奇癖がどこからやってくるのか……ぼくにはわからなかった。ぼくのやったことといえば、だから時計に油をさし修理するといった口実のもとにいまわしい機械を壊しまわることだった。
 母の部屋から食事を要求する合図の鈴が鳴る。その音でぼくとミチコとの口論、父の存在に対する認識のちがいはそれでうちきられることになる。話題はにわかに日常次元の生臭さをとりもどすことになる。
 ――困ったわ。きょう5の日だってこと忘れていたのよ。お肉屋さん……やすみなの。
 ――肉でなければ、ダメなのか?
 ――もちろんよ。血のしたたるようなビフテキが、お母さんのいちばん好きな肉料理。なにか不安なことがあると、食欲がスゴクでるみたい。
 血がながれている。母の口元からは生肉からしたたる血が、鮮やかな赤い粘糸がしたたりおちていた。咬筋をふるわせる。みだらな咀嚼音をたてる。一滴また一滴と、血はしたたり、ぬめぬめとしたみだらな口蓋音をいつまでもたてつづけている。
 ――おふくろは昔からだ。いまにはじまったことではない。あの異常な食欲は。だから、太ってるんだ。お金はある?
 ――もう、あまりないわ。どうしたらいいの。毎日、あの歳で、肉をはんぱじゃないほどたべつづけている。すこし異常だとおもわない。信じられない。とても、信じられないわ。〈母はミチコの倍くらいの肉体、体重をしている〉
 ――まるで怪物だな。
 ――そうよ。まるでモンスター。唇から血をしたたらせて上目づかいにみられると、ゾーッとするわ。
 金庫を開け、月末の手形決済のためにとっておいた札束から1000円だけぬきとって、妻にわたす。肉をあたえなかったら、片時も休みなく飢えつづける母、老いても貪婪な食欲をうしなわない哀れな母は、微笑をたたえながらいうだろう。
 ――おまえ、わたしは病気なんだよ。お腹が空いてたまらないのだよ。病気が肉をぜんぶたべてしまってわたしのほうには、まわってこないの。肝臓がわるいから、栄養を貯蔵しておくことができないのだよ。毎日、肉をたべないと死んでしまうからね。病気がたべさせるの。わたしを飢えさせないでおくれ。
――困ったわ。大谷お肉屋さん……おやすみなのよ。どうしょうかしら……。それに、桃代の明日のお弁当のおかずも買わなくては。
 ミチコは遠く離れたスーパーまででかけていった。
 母は廊下にでて、子どもが肉をたべさせてくれない。子どもがイジメル。と大声でどなっている。陰々とひびく母の声は大気のなかにひとまずとどこおって、やがて周囲にながれだす。叫び声は内容からすれば、切実な飢えの訴えときけるが、口調からすればいやがらせの害意がみえみえで、かなしかった。怒りさえ感じるあの声。――母はすっかりかわってしまった。
 あんな母ではなかった。命がけで、父に虐待されるぼくを守ってくれた母だったのに。ぼくとミチコが母と父を養うために命がけで働いているのが、まったくわかっていないようだった。ぼくは肥厚した母の背中をだまってみつめていた。ミチコの帰りが、やけに遅いようで気になった。妻はひとしれず、どこかで、泣いているのではないだろうか。

8 父への殺意

 夕暮れると風がでた。
 一日の労役のはてに、腕には接着剤のボンドがいたるところに付着して、固まり、肌は甲殻類のようにゴツゴツしている。流れおちる汗を不用意にその手でぬぐってしまった。爪でひっかかれたような幾条もの痛みが顔にはしる。手のひらは固まった接着剤で、荒いヤスリのようになっていた。
 ぼくのものとはおもえない、ゴツゴツした手に血がついている。顔はヒリヒリする。血は止まらない。桃代が帰ってきた。おどろいてぼくの顔をみつめる。青ざめた顔で門のなかにきえていく。玄関を開ける音がした。
 やがて……。濡れたタオルをもって、もどってきた。息をきらせている。タオルはよくしぼられていない。妻のわたしてよこしたものではないだろう。しぼりなおすと、シズクが大地に数珠となってしたたる。顔におしあてる。ひんやりとして、気持ちがいい。桃代はいない。ありがとうとお礼をいいたかったのに。もういちど顔におしあてようとした。タオルは赤く染まっていた。
 ――パパ。という声にふりかえる。妻と桃代が門のところに立ってこちらをみている。
 ――また、やってしまったのね。妻が桃代にオロナインのビンをわたしている。
 ――ショウノナイパパデスコト。桃代の大人びた言葉。お人形に呼びかけている。慈愛に満ちた声をだす。ぼくは桃代の背の高さまで屈む。ぼくの顔に桃代がオロナインをぬる。すりこむ。

9 この庭はだれのものか

 暮れゆく光のなかの塀沿いの狭い場所。
 ボヴールの濃液が垂れたので、ガバガバに硬化してしまった路面にも微風がふきわたる。
 液体のたまったくぼみに落ちた昆虫はすでに動いていない。
 いつの間に、落ちたのだろう。昆虫を誘いこむにおいがするのだろうか? 
 ボンドの溶液のなかに落ちた昆虫。
 もがいているうちに、動きがとれなくなって、死んでいく。
 甘ったるいにおいに魅かれて、花の香りと錯覚したのだろう。
 粘りつき、いちど捕捉されたら、どんなことがあっても、どうもがき脱けだそうとしても――粘着性の強い血族関係に捕りこまれてしまうと、脱けだすことは不可能なのだ。
 ぼくが妻を道連れにしてオチイッテしまった陥穽がこれだ。
 ぼくらはここからは、脱出ができない。
 肉親という血のつながりのヨドミのなかで、身動きすることのできないぼくらを――暗示しているようだ。もがけばもがくほど、イライラしてしまう。
 
 粘着する現実はぼくを捕りこむ。
 拒むことも逃げたすことも――もう遅い。
 できなくなってしまっている。
 
 この路地にこれほど早く暮色がおとずれるのは、西に丘陵があるからで、丘のいただきに並列する樹木の上部でいまこの日の終わりの光が消えていく。
 硬直する体。疲労のため、ぼくの知覚はマヒし〈いまこの瞬間大地に横になって深く呼吸をすることができたら……〉などとバカゲタことをおもう。ぼくの視線は死に瀕した、いや、もう死んでいるのかもしれない昆虫をみてしまう。接着剤に捕らえられた昆虫に視線がクギ付けとなる。ぼくは絶えず、休みなく労役に励んでいなければいけないのだ。動きの静止したとき、それは生死を別ける危険がある。おそらく、死を意味している。
 夕風が湿っぽく感じられる。どこかで雷雨があったのだろう。初夏のこの地方には、関東平野の最北にあり背後は日光山系に阻まれた舟形盆地にある地形のためか、雷が多発する。湿った気層に花々の芳香がとけこんでいる。夏の花のニオイがする。妻が苦しい家計のなかからなんとか工面して買った、一鉢のバラのニオイもする。花の種類がわからないので、妻は「リルケのバラ」と名付けた。「バラの名前は、リルケのバラ」なんども口ずさんでは、寂しくほほえんでいる。リルケがバラのトゲで死んだというのは、本当のことなのだろうか?
 この限られ空間で、大地を踏み固め、なんの変哲もない一日の労働をきりあげようとするとき。ぼくはこうした、香りと風と消えていく光のなかに在って、自然のやさしい情感のおすそわけにあずかったのだが……。ふいに、老いた母の声がひびきわたる。
 ――ミチコがたべさせてくれない。ミチコが肉たべさせてくれない。わかいものが、たべものをたべさせてくれない。わたしを飢えさせる気だよ。
 バラ色のつややかな肌をした母が、二階のベランダで叫んでいる。周囲の家からはなんの反応もない。窓の陰できき耳をたてているにちがいな。ベランダの柵に両手をかけて母は巨体を支えている。着物のスソを乱してわめいている。ぼくと妻はなすすべもない。庭に立って母の狂乱ぶりをみあげているだけだ。
 母は周囲がなんの反応もしめさず、相手にしてくれないとわかると、柵をゆすって憎しみの声を、空に向かって張り上げる。怒声と柵のギシギシゆがむ音がやっと一日の労働から解放されようとしていたぼくらを苛む。〈どうしょうもない。どうしょうもないのだよ。ミチコ〉ぼくは祈るように手をあわせた。母の叫び声が一刻も早く止むことだけを念じていた。
 桃代がベランダにあらわれた。母の袖を引いている。母は孫の手を邪険にはらいのけた。
 叫ぶ。
 ――わたしを飢えさせる。お腹すいたよ!!!
 ミチコは恐怖におののく顔をぼく向ける。
 茜色の空にカラスが群れはじめた。
 どこからともなく、夕暮れどきになると、この黒い鳥、カラスがネグラに帰ってくる。墓地の西側は『鍵山』という地膨れ山になっている。
カラスが群棲している。でも、きょうに限ってわが家の上空でけたたましく鳴き騒ぎ、群舞している。母の叫び声と呼応している。カラスの不吉な声と母の叫び。
 桃代が母の手をよけそこねた。まさかバァチャンが邪険に手を振るとはおもわなかった。ベランダに桃代は転んでしまった。
 ミチコが叫んだ。桃代は泣いている。
 母の声と桃代の泣き声がまざりあった。
 黒い鳥が上空で騒いでいる。
 黄昏が迫る。空が薄墨色にかわっていく。
 黄昏が濃くなる。
 ベランダに駆けあがろうとする妻をぼくはおし止めた。
 妻は小柄な体で、激しく逆らった。
 いま妻が母と桃代が、3人の女がベランダに立てば、なにが起こるかわからない。予想
もできない。――だが、不吉な前兆を感じて、いやがる妻を引寄せた。
 段ボール箱の陰につれこんだ。背中をさすってやる。おちつけ。堪えてくれ。布地越し
に背中をさすっておちつかせようとする。
 ぼくの手はザラザラしているので、獣が爪をたててこすっているようだ。不気味な音がした。彼女はベランダにいこうとして、桃代を助け起こそうと、ぼくの胸を叩いて抵抗した。(どんな罪をぼくらが犯したというのか。妻とぼくはこのような環境のなかに幽閉され、労役に励みつづけなければならないのか。解き放されることはないのか。どんなことがあっても、両親が死ぬまで面倒をみなければならないのか)



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人間もどきの終焉2  麻屋与志夫

2019-10-25 08:11:47 | 純文学
4 言葉なんか、覚えなければよかった

 遥かかなたの言葉。ぼくのものとなっていない、言葉を所有して、自由に使いこなしてシナリオか小説を書く生活からは、隔絶されてしまった現在のこの日常を呪詛する。いつになったら、いつになったらこの苦役から解放されるのだろう。世界の終焉までこの北関東のさいはての地での労役は終わらないのだろうか?
 ああ早く小説を書きたい。小説を書くことさえできれば、この苦しみからぬけだせるはずだ。

 糸の重圧に耐えられず上半身が不安定にゆがみ、きしむ。あまり長いこと歩き過ぎた。膝が、ふくらはぎがしびれた。
 膝関節炎が再発しなければいいのだが。激しく痛む。硬直したように膝の関節がつっぱる。痛む。曲げると激痛が走る。それでも、歩きつづけなければならない。痛みに耐え、疲れた体で歩き、ただひたすら前に進む。一回でもおおく糸を引く作業をつづけなければ、製品を作り上げなければ月末の病院への支払がとどこおることになる。そうなれば、即刻父の治療はうちきられてしまう。
 これでは、また、夜になってからも、両足はありもしない大地を踏みしめ……前に進もうとしてつっぱるだろう。現実化しない生活を夢見て涙をながす。起きてからも、ながした涙は枕をぬらしたまま乾くことはない。

 ぼくはだれにも泣きごとをいうわけにはいかない。沈黙。……そしてただひたすら、単調な労働に励む。世界の無関心さに耐えること。忍ぶこと。
 耐え忍び、一日も早くこの日常からぬけだしたい。いまはこの環境を甘んじて受けいれることだ。この家から動くことは出来ない――。
 例え膝の軟骨がすり減って、歩けなくなる日があるとわかっていても、いまは歩きつづけなければならないのだ。倒れて死んでしまうと告げられても、今日の糧をあがなうためにも、歩けるうちは歩きつづけなければならない。父の医療費は平均的なサラリーマンの収入の四倍にもなっていた。なんとしても、稼ぎつづけなければいけないのだ。
 ともすれば、後ろに引きもどされそうになる。33本の撚糸の張力と重量に逆らいながら、一歩二歩三歩、13メートルの距離を往復する。背後に引きもどそうとする力とぼくは争って、反り身になる。
 上半身を左右によじるようにしながら、いつもの動作、おなじ糸引きの作業をくりかえす。暗い意識に黒い光が一瞬なだれる。
〈どうしてこんなことになってしまったのだろうか〉ぼくら家族が望んだわけではない。ふいにおそいかかってきた。それでいて、拒むことも、それから逃げだすこともゆるされない。ぼくの父をおそった病魔は陰険に腰を据え、ぼくらを蝕む。父の直腸は青い炎をあげて燃えあがっていた。病名は直腸がん。手の施しようがなく、脇腹に人工肛門を穿つ(ウガツ)手術をしただけだった。長姉が言うので、父には病名も手術の経緯もしらせなかった。
〈どうして、こんな、ことに……〉疲労のはてにやってくるこの疑問……だれに訴えればいいのかわからないこの空言にたいする回答はどこにも用意されていない。
 板塀はびっしょりと濡れてふくらんだ糸の重圧にたえきれず、ゆがみ……傾き、大谷石の底石との接合部がきしみ、がさつな音をたてている。
 
この板塀は父の全盛期に建てたものだった。いまは白アリに浸蝕されている……。それも外部からみると、まだ、堅牢にみえるだけに一層不気味だ。
はた目には健在な家族なのに内側から崩れかけているわが家の危うさとどこか似ている。

5 憩こいの水のほとり

 記憶の片隅で、宮大工の宇野さんの威勢のいい声がする。父が冗談をいいながら、できたてのヒノキの板塀をなでまわしている。なにか卑猥なことをいっていたのだが、ぼくには理解できなかった。
「白木はいいな、宇野さん。汚れやすいが木の色はかけがえがない」
 板塀をなでまわしながら、同じ冗談をくりかえしたが、卑猥な内容はこんどもわからなかった。
「素朴なのがいいですよ」
 宇野さんは肩をそびやかしている。
「板も一枚、いちまいカンナでけずる。木の姿がだんだんあらわれて、みえてきますから。電動カンナやノコを使う大工もいますが、わっしらは、もう老いさき短いから、楽しみながら仕事をやらせてもらいます」
 宮大工の誇りをこめた語調があらたまっていた。父は道楽ものだったが、家の生活はかなりらくだった。
 黄昏が濃くなるまで宇野さんの仕事ぶりを眺めては、父はおしゃべりを楽しんでいた。夜になってから麻の仲買いのところにでかけていった。
もっとも、仲買いは昼は農家をまわって麻を買いだして歩くわけだから、夜しか商談はできなかったのだろう。悠ゆうとした日常の生活をくりかえしていた。
それで家を増築する余裕があったのだから、麻業界そのものが朝鮮事変の後で好景気だったのだろう。
遠い記憶から、物置の屋上で芯縄の先に糊をつけている現実にもどる。頻繁にポヴール粘液がはねるため、父の自慢の白木の塀の木目をぬりこめて醜くしてしまった。――板塀にかかわる想いを思考の片隅におしこめる。
 もうこれ以上は動けない……歩けない……と決断する。ぼくは洗濯をしているはずの妻を呼ぶために声をだす。しかし、あまりながいこと黙もくと働いていて、それに喉も涸渇していたのか、プシュッと水道の蛇口から空気が漏れるような音だけがして……ぼくをひどくあわてさせる。何秒か呼吸をととのえた後で、ふたたび妻の明るい返事を期待して声をはりあげる。 
 ぬれた布と洗剤のにおいをたてて彼女はひそやかにやってきて……ひどく控えめに、あるいはオシダマッタママ階段を登っていく。暗い場所で洗濯をしていたので、父の汚物を洗っていたので、陽光の強烈な輝きに驚き、耐えられないのだろうと解釈する。それ以上声をかけることは止す。
 きらめく太陽のもとで、ひとまわりやせほそった……ますますやつれた彼女に……〈しかしそれを言葉にして彼女にいうわけにはいかない〉
 その印象をひとたび言葉にすると……刹那……彼女はひとにぎりの皮膚色の粉末となって、その場にくずれてしまうだろう。彼女の表情は凝固したままだ。これでいい。これでいいのだ。吹きあがり、奔騰する不満を内在させたまま、生への渇望をかきたてることになる。いつか……この苦役から解放されるときがくる。だから、苦労をくろうとして言葉によって外在させてしまったら、光の下に露呈させては、すべてが終末を向かえることになる。
 13メートルに切断した撚糸を99本ひとまとめにし、庭の両側に立っている鉄骨の柱と柱の間の干し場、鉄骨の――横のバ―の40の鉤爪に端から順番にかけていく。
 太陽にあてて、濡れている糸を乾燥させるためだ。投げあげた糸は陽光を浴び大麻色に、薄い狐色にきらめく弧を描きながら、直線状になり、屋上に上がっている妻が素早くその先端をつかむ。鉄の爪にかける。妻がかけ終わるまでに、ぼくは庭を走って反対側の階段を5段かけあがる。ほとんど同時に――彼女と同じ動作、糸のはしにつけた輪を鉤型につきでた爪にひっかける。
 一瞬……彼女とぼくを隔てた空間を、99本のパイレン撚糸の重量と13メートルの距離を越えて互いの体をむすびあわせたような連携の緊密な感覚がひびきあう。暗黙の励ましをうけたように……オアシスの水辺に伴われたように、目前に憩いの水飲み場があるといった安堵で疲労がやわらぐ。

6 ねじ巻き

 ――食事にしましょうか?
 目が痛む。染色するまえの純白のパイレン撚糸。『へそ巻き』の33個の玉から引きだされる極細のロープを強烈な日射しのもとで注視していたからだろう。
桃代も聖母幼稚園から帰ってくる時間だ。
 すでに午後2時近い。離れでは母が後睡についている時刻だ。だがぼくには憩いはおとずれない。死霊にとりつかれた父の顔が頭のなかでゆれ動いている。苦悶にゆがんだ顔がぼくをさいなむ。今朝あんなひどいことをいわなければよかった。
 ――ねえ、柱時計のネジまいてください。12時に鳴らなかったでしょう。だから、昼食の準備が遅れてしまったのよ。
 食事がすむとミチコが待っていたようにいった。
 ――どうして、自分でやらない。おまえ、ぼくと一緒になってから、一度も時計のネジをまいたことないじゃないか。
 妻は食後の食器を洗い場に置いている。蛇口をひねった。水は音をたてて奔流し、シンクを満たす。かすかに水道水のカルキのにおいがキッチンに漂ってきた。 
 ――トドカナイノヨ。
 こちらに背中をみせ、黒いシルエットとなって食器を洗いはじめた彼女の向こうで、飛沫がおびただしい宝石のかけらのように、きらめいている。
 ――とどかない?
 ――高すぎて……。
 薄暗がりのなかで、ひとまわり小さくみえる妻の背中にはなしつづける。いらいらしている声はぼくのものだ。
 ――踏み台をすればいい。ぼくだって、踏み台にのってまく……しっているだろう?
 ぼくの椅子のしたで、とつぜん床に勾配ができたような不安におそわれる。体がゆらいでいる。平衡感覚を失い、床に倒れそうになるのを必死で立て直す。
 ――ネジがかたすぎるわ。
 食卓のふちにつかまる。体がふるえつづけている。この感覚のふるえが、どこからやってくるのか、発生の源流はどこなのかつきつめていくが、解答にはいたらない。両腕をテーブルにかけたまま、倒れこむのを防ぎながら妻の背中からの声をきくことになる。
 ――ためしたことないくせに。
――踏み台にのっても、たぶんとどかないわ。
 軽くかわされてしまう。彼女の背中は会話を楽しむというより、会話を壊そうとしている。さらに背中に話しかける。
 ――そんなことあるものか。と、ぼくはむきになる。背中は動かない。食器はすでに洗い終わっているはずだ。
――お父さんは踏み台にのらなくても、ネジをまけたって、お母さんがいっていた。
――ほんとうなの?
――時計の好きなオヤジだった。なにものかに怯えるように素直にみとめる。
――過去形でいうなんて、ヒドイわ。まだケッコウげんきなのに。
妻の認識にぼくは、おどろいて、あらあらしい声となる。そんなバカな。そんなことがあるものか。ぼくはいつの間にか、椅子に座っている。彼女は挑発的な音声で、会話のテンポを速めていく。ぼくは妻の話題についていけない。会話はさらに加速する。
 ――元気なものか。オヤジはもう死んでいる。〈まるでこの場にいない、目にはみえない病床の父が、このキッチンに現存しているみたいで、ぼくはイライラしている〉
 あの部屋には死臭が満ちみちている。どうして父のことになると、こうもむきになるのだろう。話が父のこととなると、ただそれだけで、それと気づかぬうちに、憎しみの歯をむきだしてしまう。抑えきれず、ののしることになる。
 ――わたしにはやさしいお父さんよ。〈父が部屋ごとに、柱時計をそなえつけ、正午になると一斉に鳴りひびく金属音を……つぎつぎに継起する時鐘を恍惚とした表情でききいっていたのが不可解だった。時計は微妙にすこしずつ時間がすらしてあったので、猛禽類の鳴き声のような音はなかなか途絶えなかった。
 時針が12時を指すころになると、ぼくは耳栓をすることにしていた。
 ――ほらまたそんなことをいう。怖いひとよ。あなたは。あなたのこころのなかでは、お父さんは、もう、生きていないんだわ。
 父の奇行、骨董品を集めたり芸者遊びをして母を嘆かせたり、飲んで卓袱台をひっくりかえしたり――かずかずの行動は、死の床に……彼がよこたわっているいまでも、いやこれからでさえ、ぼくは理解することはないだろう。めまいがする。〈人間が人間を理解するなんてことができるのだろうか〉
 父を理解しようとしたことが、そもそもの軋轢の生じた原因ではなかったのか?
 正午になると鳴りひびく金属音をきらって、猛獣におそわれる小動物のように家のなかを逃げ回ったものだった。そのころは、まだそれほど広くはないわが家にはぼくの逃げこむ、やさしく隠蔽してくれる場所などありはしなかった。頭上かふってくる金属音はすぐに止む。すぐに止むからと耳をふさいでいても、余韻がいつまでもコダマとなってぼくの脳細胞につきささった。


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人間もどきの終焉 麻屋与志夫

2019-10-24 14:36:16 | 純文学
    
 されば人の親の年いたう老いたるは、必ず鬼になりてかく子をも
食はむとするなりけり――今昔物語

1968年 夏

1 空から小鳥が墜ちてくる

「キャー」という声。
妻が――恐怖のために声帯をふるわせたことは確かな叫び声をきいて、ぼくは屋上への階段をかけあがる。鉄製の13階段はぼくの靴底との接触面で、この世の終わりのような暗く重い音をひびかせた。
妻がいた。
ぼくは階段を登りつめただけで、ぜいぜい息切れがして、すぐには声をだせないでいる。
 ビニロン芯縄を片手にさげた彼女が塑像のように立っていた。
だらりとさげた芯縄のさきからは濃い乳白色のボンド溶液が黎明の光をうけて、燐光を放ち、滴り落ちていた。
その白い溶液はフェルメールの「牛乳を注ぐ女」のミルクの滴りを思いださせる。
本来なら、初夏のさわやかな日射しの中にいるはずの彼女なのに、なにか黒い霧のなかにいるように感じてしまうのはぼくが疲弊しているからなのだろうか。それとも、彼女が恐怖におののいてしいるからなのか、ぼくにはいまのところ断言はではない。
 うっすらと口を開き、おののきをすこしからだをそらした姿勢に凝固させた彼女は、勾配の急な階段をかけあがったために息切れがして声をだせないでいるぼくに、一瞬すがるような視線をむけてくる。
 妻のミチコとぼくのあいだには、遮蔽物はない。
周囲の屋根に輝きはじめた朝日を逆光にあび、ひどく遠い場所にいるような妻。やつれて……さらにやせほそっていく感じの彼女をみてぼくは、黙ったまま近寄る。手がだらりとさがり、開かれ、いままで握っていた芯縄が屋上の床にバラバラとばらまかれる。
20センチほどに切られた200本のマエツボ用の2ミリほどの極細のビニロンロープ――芯縄が彼女の手を離れ、スダレが切り落とされたようにナダレテ……床に落ちた。これで切り口につけたボンドはべったりとロープ全体についてしまい、100足分の鼻緒の前坪がムダになった。
――鳥……とりが死んでるわ。
発問をしようとすると、彼女のほうから言葉が虚空にひびく。甲高い声が朝の大気に拡散して消えていった。
朝の静寂がもどってきた。妻はぼくの胸に顔をおしつける。ボンドの溶液が入っているポリ容器のかたわらに小鳥がいた。
小鳥の羽根は風に顫動していた。いま空から舞い降りてきたばかりといった、でもすでにムクロとなったことは明白な小鳥であったものを、排除するために上体をかがめようとすると、彼女はそうはさせまいと、しっかりと抱きついて、腕に力をいれる。ぼくの胸にホホを寄せてくる。ふるえている。ぼくも彼女を安心させようと強くだきしめ、背中をさすっていた。心配いらない。なにも怖がることはない。怖がることはないのだ。
ウナジと額にほつれた髪をかきあげ、彼女は息をはずませている。まだふるえている肩を抱きよせてやりながら、小鳥の死骸を眺める。
――死んだ鳥をみたぐらいで叫ぶヤッがあるか、おどかすなよ。(そのうち……親たちの死をみとってやらなければならない、ぼくらじゃないか) とつづけていおうとしたが、後の言葉は喉の奥にのみこんだ。声にはならなかった。
――でも怖い。
射殺された小鳥の胸には血が小さな星形にかたまっている。鋭く細いクチバシはかたく閉ざされて……いまはその鋭いクチバシで虫をついばむことができないでいるのが哀れであったが、乾いた泡状の血が胸のウモウをつたってそのクチバシまでたっしていた。妻に恐怖をあたえた鳥の、風にゆれる翼は、飛翔する機能を欠いているにもかかわらず、いまにも空に舞いあがるのではないかと期待させる。
 ――パパ、ドウシタノ?
 聖母幼稚園にこの春からかよいはじめた娘の桃代が、階段の下でぼくらを見上げている。
 ――鳥が死んでいてね。それをママがみつけてオドロイタのさ。
 ――ドウシテシンデルノ? モモヨニモミセテ。
 ――はやく、どこかへ、やってよ。
 妻の愁訴する言葉は、邪険にひびく。怖いわ。青ざめた顔をしている。妻の恐怖の発作はおさまりそうになかった。
彼女が小鳥を一刻もはやく捨てることを望むならしかたあるまいと、ぼくは、路地裏からいきなり通りへでた。通りのすみにプラスチックのゴミすて容器が置いてある。
 フワッと空間が広がった感じがして、ぼくは奈落におちこむような目まいに襲われる。疲れているのだ。ぼくも妻も、父の看病と母への気苦労のためすっかり疲れきっている。
 昨夜もほとんど一睡もしていなかった。健康な日常にぼくら家族が在ったなら、小鳥の死骸くらいで妻もとりみだしはしない。ぼくは明るく広い空間にでたくらいで、よろめくことはない。
 ――ネエ、ママハ、ドウシテ、コワガッタノ?
 小鳥の足をもって歩きだしていたぼくに桃代が追いすがる。
 ――パパハコワクナイノ? モモヨニモサワラセテ……ネエ、パパオネガイ、チョットダケサワラセテ。
 ――ほら……。
 手わたそうとすると、幼女らしい屈託のない明るい表情がさっと翳る。だしかけた手をひっこめてしまう。
 ――イヤ。モモヨモコワイ。
 手を後ろにまわしてしまって、おそるおそる鳥とぼくの顔を交互にみてから、たずねる。
 ――ネ……ダレガ……コロシタノ?
 しなやかな髪を朝風になびかせ、追いすがってくる。
 ――さあ、だれだろう。だれが撃ったのだろう。
 小鳥を撃つために空気銃をもちあるく男がいまでもいるのだろうか。ここはsanctuary
(鳥獣保護区)になっている。近所のハリスト正教会の前に「禁猟区」と掲示板が立っているではないか。 
――ドウシテウツノ?
 ――おもしろいからさ。
 ――トリヲコロスト、ドウシテオモシロイノカナ。カワイソウジャナイノ。オソラトベナクナッタトリハドコヲトベバイイノカシラ? ネエ……パパ、ドコヲトベバイイノ?
 ――桃代の胸のなかをとぶさ。
 ――モモヨノ……ムネノナカ?
 おまえの記憶の空をいつまでも鳥はとびつづけるかもしれない。
 だが、ぼくはいう。こころのことさ。この表現も桃代にはむずかしすぎる。
 ――ココロノナカハヒロイノ? ヒロカナイト、オモイキリトベナイト、カワイソウダモノネ。
 ――ああ、広いよ。あの空ぐらい……いや、空よりも広いかもしれない。

2 墓地の朝露

 宝蔵時の墓地をとりかこんだ有刺鉄線の柵。
 そのかずかずの針の先で朝露が滴となり、水玉となって草むらにおちる。今朝、この無数の水玉の輝きをみたのは、ぼくらがはじめてではない。
 ――バアチャン、マダサンポシテルヨ。モモヨガアサネボウダカラ、イツマデモネテイタカラ、バアチャン、ヒトリデサンポ、ヒトリデカワイソウダネ。
 昨夜。熟睡することのできなかった頭のなかでは、幼いぼくが、母に手をひかれて散歩している。輝かしい未来に向かって笑い声をあげて走っている。ぼくはそのぼくの影をひねりつぶす。こんな生活のなかへ走りこんでくるために生きてきたわけではなかった。錯綜し、袋小路へとつらなる道で、おちぶれて、おたおたうごめいている。ひきかえすこともできない。道の両側から迫ってくる草の露にすっかり靴がぬれて重くなる。回り道をすればよかった。 
 さきほどまで、ぼくの手にあった鳥の骸はすでにない。思いきり高かく、ケヤキの梢になげあげておいた。墓地になげすてておくわけにはいかなかった。朝ごとにぼくの母と散歩にやってくる幼い娘の目に、小鳥が乾いて、風雨にさらされ、むごたらしく腐蝕していく過程を見せるのはしのびない。 
 ――パパ。トリ、ドウシタノ?
 ――とんでいってしまったよ。
 ――ウソ。ドコカヘステタンデショウ?
 ――とんでいったよ。ほら桃代の心のなかへ。
 小さな胸をつつく。ウワァ、クスグッタイヨ、パパ。と身をよじる。どんなことがあってもこの娘は守らなければ、家庭を崩れるにまかせておくわけにはいかない。病に倒れた両親をミステル決断がつかず介護のために故郷にもどって七年ほどの歳月が過ぎていた。結婚した。桃代が生まれた。六歳になっていた。鳥を遺棄するといった目的ははたしたのだから、ぼくは一刻も早く家にもどって作業にかかりたかったが、ぼくの思惑や感傷とは無縁の娘は墓石のあいだをぬって、この時刻にバァチャンがいるはずのわが家の墓地のある場所へぼくを連れていく。
 朝の散歩は、母の日課のはじまりである。朝の早い老いた母は、たいていぼくら夫婦が寝ているうちに家をでてしまう。いつごろから、つきだした習慣か、ぼくには思いだせないが、膝の軟骨がすりへって痛みを訴えだしたころからだろう。肥厚した軀を、老いたものにはめずらしく、毎朝の習慣で墓参の場所へ、意志的歩調ではこんでいく母の動きには生への執着がひめられている。先祖代々の墓碑が立ち並ぶわが家の墓地で母はなにを御先祖様に語りかけているのだろうか。
 墓地には人影はない。桃代はだが叫ぶ。
 ――バァチャン! ホエァーュ―?
 樹木の影と光が交差する初夏の空に桃代の甘ったるい声が高くひびく。返事はもどってこない。
だが、桃代の誘導してくれた領域に、母は巨大な墓石の影に腰をおろし、西を向き合掌した姿勢で死んでいた。死んでいるのかと思ったほど不動の姿勢をしていた。半眼に開いた目には意外と生きいきとした光が宿っていた。やはりきき耳をたてていたのだろう。孫をみて喜びに満ちた顔がふりかえる。アゴのたれさがった肉をふるわせながら老人特有の声でぼそぼそとクドキ文句を紡ぎだす。しゃべりつづける。こちらの意向は無視していた。
 ――ゆうべは、ひと晩じゅう、おとうさんが、痛んで、うなかりどうしでね、一睡もしてないんだよ。
 父は直腸ガンを患っていた。患部を手術するには手遅れで、人工肛門をつけた。
 ――あまり無理しないほうがいな。お母さんだって健康な体ではないんだから。すこしはほったらかしておけばいいんだ。どうせ助からないんだから。
 いくたびかくりかえしてきたためにすっかり常套句となってしまった。いつもの言葉をぼくはくりかえす。ぼくの声は非情で怨磋の毒をふくんでいた。
 ――助からないとわかっているから、なおさらかわいそうで……。おとうさんはじぶんの病気のことだって、ガンなんて、知っちゃいないんだからね。おまえはそんなひどいことをよくいえるね。だいたい、おまえたちは、親に冷たいんだよ。
 もう涙声になっている。母は墓石の陰で合掌した姿勢のまま動こうとしない。
 母の言葉が永劫にひびく呪いのこだまとなってぼくの内部にひびきつづけるだろう。母は涙をこぼしながら、今度はぼくを睨みつけている。まだ生きている父を、死んでしまっているようにつきはなしているぼくをたしなめているように。会話のおかしな淀み、異様さに気づき桃代が泣きだしそうな顔でぼくを凝視している。
 母は憎悪をイッカシヨにしぼりこんでくるような目でぼくをにらんでいた。どんなそぶりをされても、いまのぼくには弁護してこちらの立場を理解してもらおうとする情熱に欠けている。気力がなかった。理解してもらったところでこの苦境からぬけだせそうになかった。ぼくらは朝からケズリブシを、それもお湯をかけるとなまぐさいにおいをたてるサバのケズリブシだけで食事をしていた。
 それが、5年もつづいた。頭のなかまでかさかさケズリブシの音がすると、妻にいやみをいったのは昨夜のことだった。
 ――でも余分な、オカズにまわすお金がないのよ。こんなことつづけていたら、わたしたちのほうが、先に死んでしまうわよ。
 母は季節ごとに高価な初物の魚や野菜を食べていた。魚は白身でないと食べない。血のしたたるようなビフテキを三枚も食べることすらあった。
 ――わたしたちが食べているとおもっているのよ。ずいぶんゼイタクしているね、と近所の人にいわれるの。
 ところが、栄養がたりなくて妻は、乳がすぐにあがってしまって、桃代はよく夜泣きしたものだった。

3 鮟鱇の骨まで凍てて
 
黒い光暈のなかでぼくは働いている。黒い霧の中にいるようだ。先が見えない。ふつふつとうずくようなふるえが体を支配している。不安なのだ。なにか不吉なことがおきるようでこころがさわぐのだ。前途が闇だ。いや、すでに闇の底でうごめいている。地虫のように大地にはいっくばって働いている。この労働からは、なにも文学的な成果はいまも、将来においても生まれてはこないだろう。そう思うことが、いちばんつらい。
黒い光暈はぼくにとりついて離れないから、ぼくはいつも陰うつな黒色の世界に沈潜してうごめいている。そして、ときおりそこでは鳥が飛ぶ。鳥が飛ぶようにさっと光が射しこむことがある。あれはほんとうに鳥なのか。鳥か? いや鳥ではあるまい。光だ。なにかの、気配をかんじる。なにか? いまのところそれがなになのか、わからない。もちろん、これらすべてのことはこころの中でのことだ。妄想にちかい。
 昼になると暑くなった。ところが、暗い空。照りつける黒い太陽。仕事をしていると、ぼくの周囲は暗くなる。汗。ポヴール接着剤は即効性の濃縮液ではないが、休みなく労役に励むことを強制する。ぼくの動きが緩慢になれば、33本のパイレン撚糸はポヴール液のタンクのなかで、変色し凝固してしまう。
 芯縄は下駄や草履の花(鼻)緒の芯にはいるもので、もともとはこの土地の農家で生産されている大麻の皮の繊維で製造していたものだった。いまどき、この日本で、鼻緒のついている履き物、下駄や草履を履く人がどれくらいいるのだろうか?
 いまは大手製糸メーカーの合繊を使用している。33本の極細のロープをポヴール液から引きだして、三往復すると99本になる。結束するときに1本足すと百本となる。人間は両足で歩くわけだから、すなわち50足の花緒の芯になるわけで、ぼくは肩にかけた糸を荷車を引くような姿勢で、息を切らせながら引きつづけて7年が過ぎていた。
 汗。空腹。言葉の死んだ時間のなかにいると、その7年の歳月の重みが悔悟となって抑えてもおさえきれない。
 どんなことがあっても故郷にもどってこなければよかった。
 さっと鳥がとぶ。鳥がとぶからには空があるはずだ。空があるのなら、光がみえるはずだ。そしてこの空は、光は、空気はまちがいなく東京の空につながっているはずだ。いつか東京にもどれることを夢見て生きぬくのだ。
 きょうのぼくのこころの空をとぶ鳥はクチバシから血をしたたらせている。やはり、希望の光ではなかった。鳥の形をした黒い光暈が流れる。なにものかに、上からのぞかれている恐怖。
 だれかに訴え、きいてもらわなければならない声なき声を際限なくのみこむ。それでも、希望だけは失ってはいけない。
 そして沈黙。いや初めから響きはなかった。ただながすぎる沈黙だけが周囲にはあった。
宙にうかせた右足を地面を踏みこむようにおろすのは、糸の重量から、ともすると後ろに引きもどされそうな体を支えるためだ。体ごと後ろに引きもどされそうだ。(bring back to the point of departure) そうなのだ。出発点にもどれるなら、どんなにかうれしいか。言葉を覚え始めて、小説を書きだしたあの麻布霞町の日々にもどれたら――。だれが……いまのぼくの苦渋の生活を想像できたろうか。
左足。右。左。一歩、また一歩。二三、四歩。交互にくりかえされる地面をたたくような歩行運動によって、わが家の塀沿いの路面を踏みしめているにもかかわらず、ぼくは家の狭い空間の、古びた鴨居から逆さに宙吊りにされ、鮟鱇のように削ぎおとされる肉体のイメージを内在させている。
あるいは――これはシジホスの岩だ。わたしの肩に重くのしかかっているのは糸の重みではない。岩だ、徒労だ。シジホスの岩だ。



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