日本語の「は」と「が」について。

象は鼻が長い=∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
とりあえず「三上文法」を「批判」します。

(750)「述語論理・訓読」と「返り点(括弧)」と「漢文・訓読」。

2020-10-29 16:15:48 | 返り点、括弧。

(01)
記号で書けば、Rは、
  (3)∀x∀y(Rxy→~Ryx)
であるときまたそのときに限って非対称的である。
親であるという関係は非対称的である。なぜならば、aがbの親であるならば、bはaの親ではないからである。
(論理学初歩、E.J.レモン、竹尾 治一郎・浅野 楢英 訳、1973年、232頁)
従って、
(01)により、
(02)
例へば、
① ∀x∀y(Rxy→~Ryx)
② ∀x∀y(親xy→~親yx)
に於いて、
①=② である。
然るに、
(03)
② ∀x∀y(親xy→~親yx)
に於いて、
②  親xy は、()に関する「命題関数」であって、
② ~親yx は、()に関する「命題関数」である。
従って、
(03)により、
(04)
実際には、
②  親xy といふ「命題関数」は、 親(xy) と書くのが「正しく」、
② ~親yx といふ「命題関数」は、~親(xy) と書くのが「正しい」。
然るに、
(05)
② ~親(xy) は、
②  親(xy) の、「否定」である。
従って、
(05)により、
(06)
実際には、
②  ~親(xy)  といふ「命題関数」は、
② ~〔親(xy)〕 と書くのが「正しい」。
然るに、
(07)
{xとy}の{変域(ドメイン)}が、
{a,b,c}の{3人}であるとすると、
② ∀x∀y(親xy→~親yx)
といふ「論理式」は、
(ⅰ) (親xy→~親yx)
(ⅱ) (親xa→~親ax)&(親xb→~親bx)&(親xc→~親cx)
(ⅲ){(親aa→~親aa)&(親ab→~親ba)&(親ac→~親ca)}&
(〃){(親ba→~親ab)&(親bb→~親bb)&(親bc→~親cb)}&
(〃){(親ca→~親ac)&(親cb→~親bc)&(親cc→~親cc)}
といふ風に、「展開(expand)」出来る。
従って、
(07)により、
(08)
② ∀x∀y(親xy→~親yx)
といふ「論理式」は、
②    ∀y(親xy→~親yx)  といふ「連言」の、更に、
② ∀x{∀y(親xy→~親yx)} といふ「連言」である。
従って、
(08)により、
(09)
② ∀x∀y(親xy→~親yx)
といふ「論理式」には、実際には、
② ∀x{∀y(親xy→~親yx)}
といふ「括弧」が有る。
従って、
(04)(06)(09)により、
(10)
② ∀x∀y(親xy→~親yx)
といふ「論理式」には、
② ∀x{∀y[親(xy)→~〔親(yx)〕]}
といふ「括弧」が、無ければならない
然るに、
(11)
② ∀x{∀y[親(xy)→~〔親(yx)〕]}
に於いて、
② ∀x{ }⇒{ }∀x
② ∀y[ ]⇒[ ]∀y
②  親( )⇒( )親
②  親( )⇒( )親
②  ~〔 〕⇒〔 〕~
といふ「移動」を行ふと、
② ∀x{∀y[親(xy)→~〔親(yx)〕]}⇒
② {[(xy)親→〔(yx)親〕~]∀y}∀x=
② {[(xがyの)親であるならば〔(yがxの)親で〕ない。といふことは]すべてのyと}すべてのxに於いて、正しい。
といふ「語順で読む」ことになる。
然るに、
(12)
② ∀x∀y(親xy→~親yx)
といふ「論理式」に対して、
② ∀x∀y(親xy→~甲レyx
といふ「返り点」を加へるならば、
② ∀x{∀y[親(xy)→~〔親(yx)〕]}⇒
② {[(xy)親→〔(yx)親〕~]∀y}∀x=
② {[(xがyの)親であるならば〔(yがxの)親で〕ない。といふことは]すべてのyと}すべてのxに於いて、正しい。
といふ「語順で読む」ことになる。
然るに、
(01)(12)により、
(13)
② ∀x∀y(親xy→~親yx)
といふ「論理式」を、
② {[(xがyの)親であるならば〔(yがxの)親で〕ない。といふことは]すべてのyと}すべてのxに於いて、正しい。
といふ風に、「理解」することは、
② 親であるという関係は非対称的である。なぜならば、aがbの親であるならば、bはaの親ではないからである。
② The relationship of being a parent is asymmetric. Since, if a is a parent of b, then b is not a parent of a.
といふことからも、「明らかに、正しい」。
然るに、
(14)
「英語」の場合は、
② ~親yx
といふ「語順」を、
② y is not a parent of x.
といふ「順番」で読むことになるため、(01)により、
① ∀x∀y(Rxy→~Ryx)
といふ「論理式」を書いた、「E.J.レモン(イギリス人)」であっても、
① ∀x∀y(Rxy→~Ryx)
といふ「人工言語」を、「そのまま、からへ、読んでゐる」といふわけではない
従って、
(12)(13)(14)により、
(15)
② ∀x∀y(親xy→~親yx)
といふ「論理式」に対して、
② ∀x∀y(親xy→~上レyx
といふ「返り点」を加へることによって、
② {[(xがyの)親であるならば〔(yがxの)親で〕ない。といふことは]すべてのyと}すべてのxに於いて、正しい。
といふ「語順で読む」ことが、「邪道(正当ではない方法)」である。とされることは、ないはずである。
然るに、
(16)
(青木)二百年前、正徳の昔に於て荻生徂徠は夙に道破した。漢学の授業法はまず支那語から取りかからねばならぬ。教うるに俗語を以てし、誦するに支那音を以てし、訳するに日本の俗語を以てし、決して和訓廻環の読み方をしてはならぬ。先ず零細な二字三字の短句から始めて、後には纏った書物を読ませる、斯くて支那語が熟達して支那人と同様になつてから、而る後段々と経子史集四部の書を読ませると云う風にすれば破竹の如しだ、是が最良の策だ(勉誠出版、「訓読」論、2008年、56頁)。
(17)
(倉石)徂徠は、単に唐音を操るといふ様なことに満足せず、漢文を学ぶには先ず支那語からとりかり、支那の俗語をば支那語で暗誦させ、これを日本語の俗語に訳し、決して和訓の顚倒読みをしてはならない。始めは零細な二字三字の句から始めて、遂に纏った書物を読ます、支那語が支那人ほど熟達してから、古い書物を読ませば、破竹の勢いで進歩すると説いたこれは、今日の様に外国語に対する理念が発達した時代から見れば、何の不思議もないことであるが、その当時、つとに、かかる意見を吐いたのは、たしかに一世に抜きんでた見識に相違ない(勉誠出版、「訓読」論、2008年、56頁)。
(18)
大学に入っても、一般に中国文学科では訓読法を指導しない。漢文つまり古典中国語も現代中国語で発音してしまうのが通例で、訓読法なぞ時代遅れの古臭い方法だと蔑む雰囲気さえ濃厚だという(古田島洋介、日本近代史を学ぶための、文語文入門、2013年、はじめに ⅳ)。
従って、
(16)(17)(18)により、
(19)
「同じく、人工言語」であったとしても、「述語論理」とは異なり、例へば、
③ 是以大學始敎必使學者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極=
③ 是以、大學始敎、必使 學者即 凡天下之物、莫上レ 其已知之理、益々極 之、以求上レ 乎其極
③ 是以、大學始敎、必使〈學者即(凡天下之物)、莫{不[因(其已知之理)、而益極(之)、以求〔至(乎其極)〕]}〉⇒
③ 是以、大學始敎、必〈學者(凡天下之物)即、{[(其已知之理)因、而益(之)極、以〔(乎其極)至〕求]不}莫〉使=
③ 是を以て、大學の始敎は、必ず〈學者をして(凡そ天下の物に)即きて、{[(其の已に知るの理に)因って、益々(之を)極め、以て〔(其の極に)至るを〕求め]不るを}莫から〉使む=
③ そのため、大學の敎へを始める際には、必ず〈學者をして(凡そ天下の物に)ついて、{[(その學者がすでに知っているの理に)依って、益々(これを)極め、以て〔(その極点に)至ることを〕求め]ないことが}無いやうに〉させる。
といふ「訓読」を行ふことは、「邪道(正当ではない方法)」であるとされるのが、『通例』の、やうである。
然るに、
(20)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置きかえて読むことが、その大きな原則となっている。それでその補足構造によっている文も、返り点によって、国語としての語順が示されている(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(19)(20)により、
(21)
③ 是以大學始敎必使學者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
といふ「漢文」自体に、固より(オリジナルに)、
③ 是以、大學始敎、必使〈學者即(凡天下之物)、莫{不[因(其已知之理)、而益極(之)、以求〔至(乎其極)〕]}〉。
といふ「補足構造」が、有って、その上で、
「漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。」
といふ「事情」があるからこそ、
③ 是以大學始敎必使學者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極(大學伝五章)。
といふ「漢文」に対して、
③ 是以、大學始敎、必使 學者即 凡天下之物、莫上レ 其已知之理、益々極 之、以求上レ 乎其極
といふ「返り点」が、付くことになる。
従って、
(15)(21)により、
(22)
② ∀x∀y(親xy→~親yx)
③ 是以大學始敎必使學者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
に於いて、
② に対して、
② ∀x∀y(親xy→~上レyx
といふ「返り点」が付くことは、
③ に対して、
③ 是以、大學始敎、必使 學者即 凡天下之物、莫上レ 其已知之理、益々極 之、以求上レ 乎其極一。
といふ「返り点」が、付くことと、「殆ど変らない」。
然るに、
(23)
予嘗為(蒙生)定(学問之方法)、先為(崎陽之学)、教以(俗語)、誦以(華音)、訳以(此方俚語)、絶不〔作(和訓廻環之読)〕。始以(零細者)、二字三字為(句)、後使[読〔成(書)者〕]、崎陽之学既成、乃始得〔為(中華人)〕、而後稍稍読(経子史集四部書)、勢如(破竹)、是最上乗也 ⇒
予嘗(蒙生)為(学問之方法)定、先(崎陽之学)為、教(俗語)以、誦(華音)以、訳(此方俚語)以、絶〔(和訓廻環之読〕作〕不。始(零細者)以、二字三字(句)為、後[〔(書)成者〕読]使、崎陽之学既成、乃始〔(中華人)為〕得、而後稍稍(経子史集四部書)読、勢(破竹)如、是最上乗也 =
予嘗て(蒙生の)為に(学問の方法を)定め、先ず(崎陽の学を)為し、教ふるに(俗語を)以てし、誦ずるに(華音を)以てし、訳するに(此の方の俚語を)以てし、絶へて〔(和訓廻環の読みを〕作さ〕ず。始めは(零細なる者を)以て、二字三字(句と)為し、後に[〔(書を)成す者を〕読ま]使めば、崎陽の学既に成り、乃ち始めて〔(中華の人)為るを〕得、而る後に稍稍(経子史集四部書を)読まば、勢ひ(破竹の)如く、是れ最上の乗なり(荻生徂徠、訳文筌蹄)。
然るに、
(24)
③ Shì yǐ dàxué shǐ jiào bì shǐ xuézhě jí fán tiānxià zhī wù mòbù yīn qí yǐ zhīzhī lǐ ér yì jí zhī yǐ qiú は、「グーグル翻訳」による、
③ 是以大學始敎必使學者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
に対する「ピンイン」であるが、荻生徂徠が、「それ程、音読」がしたいのであれば、
③ ゼイダイガクシキョウヒツシガクシャソクハンテンカシブツバクフツインイチシリジエキキョクシイキュウチコキキョク。
といふ風に、「日本漢字音」で、「音読」すれば良いだけであって、因みに、私自身は、例へば、
「虎求百獸而食之得狐。狐曰子無敢食我也。天帝使我長百獸。今子食我是逆天帝命也。子以我爲不信吾爲子先行。子隨我後觀。百獸之見我而敢不走乎。虎以爲然。故遂與之行。獸見之皆走。虎不知獸畏己而走也(借虎威・戦國策)」等を、「日本漢字音と、訓読の両方」で、「暗唱」出来る。
然るに、
(25)
日本の学者の中に、荻生徂徠という傑物があったが、この徂徠が子供の時分に、父の手筥の中に大学諺の一冊が有るということを知って、毎日之を読み、それが基礎となって、遂に講義も説明もなく、総ての書物に通ずることが出来たという話が伝わって居る(諸橋徹次、大学新釈、2005年、12頁)。
然るに、
(26)
江戸に生まれる。幼くして学問に優れ、林春斎・林鳳岡に学んだ。しかし延宝7年(1679年)、当時館林藩主だった徳川綱吉の怒りにふれた父が江戸から放逐され、それによる蟄居にともない、14歳にして家族で母の故郷である上総国長柄郡本納村(現・茂原市)に移った[3]。 ここで主要な漢籍・和書・仏典を13年あまり独学し、のちの学問の基礎をつくったとされる。
従って、
(23)(25)(26)により、
(27)
 荻生徂徠は、「独学」で、「漢文」を学んだのだから、
「教ふるに(俗語を)以てし、誦ずるに(華音を)以てし、訳するに(此の方の俚語を)以てし、絶へて〔(和訓廻環の読みを〕作さ〕ず。始めは(零細なる者を)以て、二字三字(句と)為し、後に[〔(書を)成す者を〕読ま]使めば、崎陽の学既に成り、乃ち始めて〔(中華の人)為るを〕得、而る後に稍稍(経子史集四部書を)読まば、勢ひ(破竹の)如く、是れ最上の乗なり。」
といふことは、荻生徂徠自身には、当てはまらない
従って、
(27)により、
(28)
荻生徂徠 自身の「漢文の学力」は、飽く迄も、「訓読」によって、築かれた。といふことになる。
従って、
(16)(17)(18)(28)により、
(29)
にも拘らず、「訓読法なぞ時代遅れの古臭い方法だと蔑む雰囲気さえ濃厚だという。」のであれば、明らかに、「をかしなこと」であると、言ふべきである。


(749)「不思議な恒真式(Pならば、Pでないならば、Pである)」の「補足」。

2020-10-29 09:38:18 | 論理

(01)
 ―「昨日(令和02年10月28日)の記事で、確認した通り、―
①     P≡Pである(仮定)。
②   P∨P≡Pであるか、または、Pである(冪等律)。
③ ~~P∨P≡Pでない、でない、であるか、または、Pである(二重否定律)。
④  ~P→P≡Pでないならば、Pである(含意の定義)。
に於いて、
①=②=③=④ である。
従って、
(01)により、
(02)
「番号」を、付け直すと、
①     P≡Pである(仮定)。
②  ~P→P≡Pでないならば、Pである(含意の定義)。
に於いて、
①=② である。
従って、
(02)により、
(03)
①     P≡Pである(仮定)。
②  ~P→P≡Pでないならば、Pである(含意の定義)。
に於いて、
P=~P
といふ「代入(Substitution)」行ふと、
①     ~P≡Pでない(仮定)。
② ~~P→~P≡Pでない、でないならば、Pでない(含意の定義)。
に於いて、
①=② である。
従って、
(03)により、
(04)
「二重否定(DN)」により、
①   ~P≡Pでない(仮定)。
② P→~P≡Pならば、Pでない(含意の定義)。
に於いて、
①=② である。
然るに、
(05)
(ⅰ)
1 (1)~P    仮定
1 (2)~P∨~P 1冪等律
1 (3) P→~P 2含意の定義
(ⅱ)
1 (1) P→~P 仮定
 2(2) P    仮定
12(3)   ~P 12MPP
12(4) P&~P 23&I
1 (5)~P    24RAA
従って、
(04)(05)により、
(06)
確かに
①   ~P≡Pでない。
② P→~P≡Pならば、Pでない。
に於いて、
①=② である。
従って、
(06)により、
(07)
P≡太陽は西から昇る。
であるとして、
①   ~P≡太陽は西から昇らない。
② P→~P≡太陽が西から昇るならば、太陽は西から昇らない。
に於いて、
①=② である。
然るに、
(08)
③ 太陽は西からは昇らない。従って、「太陽が西から昇るとしても」、太陽は西からは昇らない。
といふ「言ひ方」は、
③ 太陽は西からは昇らない。「何が有っても」、絶対に、 太陽は西からは昇らない。
といふ「意味」に、解することも「可能」である。
従って、
(07)(08)により、
(09)
③ 太陽は西からは昇らない。従って、「太陽が西から昇るとしても」、太陽は西からは昇らない。
といふ「言ひ方」を、
③ 太陽は西からは昇らない。「何が有っても」、絶対に、 太陽は西からは昇らない。
といふ「意味」に、解する限り、
①   ~P≡太陽は西から昇らない。
② P→~P≡太陽が西から昇るならば、太陽は西から昇らない。
に於いて、
①=② である。
といふことは、それほど「奇異」であるとは、言へない。
従って、
(02)(07)(08)(09)により、
(10)
③ 太陽は東から昇る。従って、「太陽が東から昇らないとしても」、太陽は東から昇る。
といふ「言ひ方」を、
③ 太陽は東から昇る。「何があっても」、絶対に、太陽は東から昇る。
といふ「意味」に、解する限り、
①    P≡太陽は東から昇る。
② ~P→P≡太陽が東から昇らないならば、太陽は東から昇る。
に於いて、
①=② であるとしても、それほど「奇異」であるとは、言へない。はずである。