おじたん。的ぶろぐ生活。

おじたん。である。語るんである。

MBCの勇気。

2006-01-03 11:06:29 | 我思う、故に書くなりよ。
年末辺りから、お隣の韓国も「捏造問題」で大騒ぎしていた。日本は「偽装問題」で大騒ぎだったので、あまり詳しく聞きかじるコトも無かったんだが、実は興味深いのである。

まぁ、世界的な「発明」が捏造だったらしい…だった…のかな。本来なら韓国を挙げてフェスティバル&カーニバルの最中なハズで、初のノーベル賞受賞者を英雄に…ってコトだったのだが、万歳ナシよ…になってしまったんである。

成長著しい韓国なら、いずれまた成功する日も来るだろうから、頑張って研究して欲しいトコロなので、それはあまり心配でも無いし、どーでも良い。韓国くらいしか研究出来ないって領域の研究だし、欧米でやらないのは「神の領域」にヒトが踏み込むコトになるからと考えているからね。

問題なのは、国家的なフェスティバル&カーニバルの熱狂の渦の中、誰が「水を差したか?」ってコトである。単なるちゃち入れただけじゃなく、結果的には世論を正しい道へ導いたコトにもなる。いったい、どこのドイツがケチ付けたのか?

実は、韓国のテレビ局、それなりにメジャーなMBCの「PD手帳(と読むらしい…)」と言う1つの番組だったんである。当然、国を挙げての世界的な快挙にケチ付けたもんだから、袋叩き状態になってしまった。ナショナリズムが関わってくるワケだから、何となく判る。番組の生命線でもあるスポンサーからも見放されてしまうと言う憂き目にも合ったと聞くが、同じマスコミにも相当叩かれたらしい。大きな新聞社のスクープ記事だったら、これほどまでに叩かれたかどうか疑問な点もある。

日本で言えば「報道番組」なんだろうか。とは言っても毎日の夕方から始まる様なニュース番組では無いらしく、「調査報道」を専門とした番組らしい。日本ではすでに枯れた種類の番組ではあるが、かつては元気だった番組も幾つかあったっけ。

何か問題に対する「決定打」を掴んでいれば、そうしたバッシングの嵐の中でも姿勢を保つのは難しいコトじゃ無いのだが、どうもそうでも無く、「問題は問題として…」報じたのがきっかけだったみたいだ。私はハングルが全くダメだし、その番組を見ているワケでも無いので全て「伝聞」だが、きっかけはそんな感じらしい。

うっかり始めちゃったものの、引っ込みが付かなくなったんで…ってコトなら、番組そのものが無かった事にしちゃえば済む話である。日本だって、バラエティー番組なんかに多々あったりするしねぇ。ところが、この番組はそうではなく、何か1つ筋の通ったモノがあるのだ。バッシングはバッシングとして、番組は続けられ、疑問を呈し、問題を訴え続けたのである。

そうしている最中に、熱狂の渦の中にボロが出始めた。国家的な偉業だった研究そのものが怪しくなり、今日現在のトコロ、「全部ウソ…」な勢い。まぁ、研究はしていたのだろうけれどねぇ。過去の研究すら「怪しい…」状況みたいだから、大どんでん返しそのもの。

でもね、同じマスコミからもバッシングされるわ、国民からは抗議の電話やらメールやらバンバン届くわ、未だに「韓国の恥」と言われてるんだとか聞くと、この番組はやはり違うものを感じるんだよね。何か、放送局とか、報道とか、そうしたモノが絶えず持っていて、絶対に失ってはイケナイものをしっかりと持っている感じがするんですよ。

日本の放送局とか、マスコミがそれをちゃんと持っていて、大事にしているか? と考えたら、かなり「不安」だと思う。同じ頃に日本で騒がれた「フィギュア・スケート選考問題」なんか、年明けたら無かった勢いでしょ? 「調子の悪いヤツ選んでどーするよ?」って疑問は誰もが持ったと思う。確かにその点を報じた番組も少なからずあったけれど、深追いはしない。視聴率というカラクリの向こうに漂う妖しいベールに飲まれちゃった。女子マラソンだって同じだった。Qちゃんは失速しても、それまでの戦績を見れば、選ばれない点はどこにあったのか? 今じゃハッキリ覚えているヒトも少ないだろうに…。

「そんなんでいいのかよ?」

って、やって行かなきゃイケナイのが報道なんじゃないのかどーなのかも判らなくなっている日本は、MBCのこの番組を見習わなければイケナイんじゃないか? 少なくとも、報道ってお題目を掲げているメディアが忘れちゃイケナイ部分をしっかりと持っている点においては頭上がらないと思うよ。

きっかけはどうだったか詳しく知れないんだけど、結果的にもの凄い「勇気」の要るコトだったんじゃないかと思う。考えただけで、避けて通れるモノならそうしたい…ってのが、本音としてはあったと思う。少なくとも、営利目的な媒体なら、やはり触れないで済むなら触れないでおこう…ってのはあるからね。

「んじゃあ、それでいいのかよ?」

ってトコロへ踏み込むだけのパワーの源が何だったのか? 興味あるけれど、何かやはり失ってはイケナイモノをしっかりと持っていたからこそ、こうした別の意味での「偉業」も成せたのではなかろうか。少なくとも、それに注ぎ込むパワーは日本の比じゃなさそうだ…。

そればかりに突出してもイケナイし、マンネリ化の果てにワイドショー的なレベルに下がってしまうコトが多々あったりもしたので、日本では枯れた番組とされて、あまり見る事も出来なくなってしまったが、失ってはイケナイのは精神だけでなく、「番組」として視聴できる状態なのかもしれない。そうした番組が消えて無くなっていく事に、大きな危機感を持ちながら、TVに向かわないとイケナイんじゃなかったのかなぁ…と思う。TVのあっち側も、こっち側も、忘れちゃイケナイモノを忘れて、失ってしまったんじゃなかろうか…。

ITと融合して、次世代をマスコミが目指す中に、そうしたモノはしっかりと残っているんだろうか? 何か、忘れてる感じがしてならないのは気のせいなのか? 小さなマスコミがそうした情熱を大事にしている部分が散見できるコトはままあるのだけれど、大きくなっていくマスコミにこそ、そうした部分を大事にしていってもらわなければならないコトを、絶対に忘れちゃイケナイ。

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする