(写真)八ケ岳
私立のミッション系の学校に勤めていた時、その学校独自の研修が行われていた。
講師は神父さん。
聖堂のとなりにある木の壁の部屋で着席して待つと、陽気な神父さんが親し気な笑みを浮かべて入ってくる。
「はい、こんにちはっ。」
その雰囲気で労をなぎらてもらっている感じ。
先生達のほとんどはクリスチャンではないが、毎回の講話にはそれほど違和感はない。なんだかすっきりした気分になる。
そして、今でも印象に残っていることは、講話に入る前に必ず、
「心の中で子ども達の名前を呼んであげてください。」
という時間をもつことである。目を閉じて沈黙の時間だ。
たぶんわすか5分ぐらいだったのだろうが、かなり長く感じた。
別の話。
自宅に20年以上前に人からいただいた西洋画の複製が架かっている。
モンマルトルの丘から市街地を眺望した画だ。実はフランスの風景画で少し洒落ているな、という印象だけで20年暮らしてきた。もともの派手な画ではない。
ところがある晩、なんとなく寝付けず、仕方なく深夜照明をつけ起きていると、ふとこの画がいつになく目に留まる。「そうだ、「ユトリロ」だったな」。忘れていた。
で、腕組みをしつつ画をながめると、その画家が画に込めた力のようなものが伝わってくる。
絵というのは、そのアングルで第一印象が決まる。しかし、その画と一体化?するまで待っていると色づかいやタッチの動的な感じでその画家の存在が感じられてくるときがある。内実が伝わてくるというのか。
「あー、そうだったのか。」
20年間申訳かなった。ずっと一緒だったけど少しも見ていない。
大したことでもないように思うが、私たちは平気で見ていないものをも見ていると思い込んじゃうもののようだ。
昨晩も使ったいつものご飯の茶碗の模様が思い出せるだろうか。「ライン」に夢中で下車する駅のアナウンスを聞き逃したことがないだろうか。
だとすると、校務や事務作業に追われて子ども達をきちんと見られているのか、声を聴き落としていなかっただろうか。
もしその懸念があるとしたらきちんと子どもを想う時間を意識的につくるべきなのであろう。それほど私たちには元来見落としが多い。
健康な学校に行くとおしなべて先生同士の仲が良いように見える。その雰囲気で日ごろから子ども達のことを話題にし、先生同士がお互いに「心の中で子ども達の名前を呼んであげる」時間を設けている。
私立のミッション系の学校に勤めていた時、その学校独自の研修が行われていた。
講師は神父さん。
聖堂のとなりにある木の壁の部屋で着席して待つと、陽気な神父さんが親し気な笑みを浮かべて入ってくる。
「はい、こんにちはっ。」
その雰囲気で労をなぎらてもらっている感じ。
先生達のほとんどはクリスチャンではないが、毎回の講話にはそれほど違和感はない。なんだかすっきりした気分になる。
そして、今でも印象に残っていることは、講話に入る前に必ず、
「心の中で子ども達の名前を呼んであげてください。」
という時間をもつことである。目を閉じて沈黙の時間だ。
たぶんわすか5分ぐらいだったのだろうが、かなり長く感じた。
別の話。
自宅に20年以上前に人からいただいた西洋画の複製が架かっている。
モンマルトルの丘から市街地を眺望した画だ。実はフランスの風景画で少し洒落ているな、という印象だけで20年暮らしてきた。もともの派手な画ではない。
ところがある晩、なんとなく寝付けず、仕方なく深夜照明をつけ起きていると、ふとこの画がいつになく目に留まる。「そうだ、「ユトリロ」だったな」。忘れていた。
で、腕組みをしつつ画をながめると、その画家が画に込めた力のようなものが伝わってくる。
絵というのは、そのアングルで第一印象が決まる。しかし、その画と一体化?するまで待っていると色づかいやタッチの動的な感じでその画家の存在が感じられてくるときがある。内実が伝わてくるというのか。
「あー、そうだったのか。」
20年間申訳かなった。ずっと一緒だったけど少しも見ていない。
大したことでもないように思うが、私たちは平気で見ていないものをも見ていると思い込んじゃうもののようだ。
昨晩も使ったいつものご飯の茶碗の模様が思い出せるだろうか。「ライン」に夢中で下車する駅のアナウンスを聞き逃したことがないだろうか。
だとすると、校務や事務作業に追われて子ども達をきちんと見られているのか、声を聴き落としていなかっただろうか。
もしその懸念があるとしたらきちんと子どもを想う時間を意識的につくるべきなのであろう。それほど私たちには元来見落としが多い。
健康な学校に行くとおしなべて先生同士の仲が良いように見える。その雰囲気で日ごろから子ども達のことを話題にし、先生同士がお互いに「心の中で子ども達の名前を呼んであげる」時間を設けている。