(写真)夏のテント場で。三伏峠。
子ども時代のことがどう広がり、それ以降とどうつながっていくのか、そういうことを考えようと思って物語みたいなものを書いてみました。
それが読んでくださる方にどう伝わるかは心配なものです。こんな文は普段は書きません。
要は、子ども時代の経験は線で引っ張ったようにその後とつながっているのではなく、経験から得た自分なりの質感をともなった感覚として保存されていくものであること。そしてそれが子どもたちの成長を音もなく後押ししているだろうという感じ。子ども(大人も)の成長のエネルギーはこの感覚質なのではないか。
たぶん、それは、ジブリの映画『おもひでぽろぽろ』のように直接的な作用として小学校5年生の「私」が今の「私」を変えることは稀で、かつての経験の断片が感性の一部として意識されず、でも日常のいろいろな場面で自分を支えて(あるいは縛っている)いるのでしょう。書いた3つの物語は日常のルーチンから少し外れることで自分を支えている感覚質の起源が見える場面を想像しています。
子ども時代の意味は、子ども自身(大人もだが)、の成長を支えてくれる良き感覚質を得ることではないか。
小学校から当時の養護学校に転勤してきた時。一人ひとり違う状況の子どもたちに教育内容をほぼ手作りで考えなければならないことに呆然としました。学習指導要領に沿って教えることが先に決まっている小学校と全く違う。現在のように情報も多くありません。
実は子どものことが分かっていない。教科教育の座標軸がないと何が子どもたちの成長にとって大切なことなのか見当もつきませんでした。
また一方で、高等部の生徒に接すると、障害による特性ではないのに、「なぜかそれができない」という生徒が多いことに気づきました。いろいろなことに違和感があって生きにくい生徒です。
流行りの言葉でいうとトラウマなんでしょうが、ものごとへの捉えの印象があまりよくない、だから自己肯定感が低いまま生きている。
これもよく言われることですが、子どものころから客観的で公平性のある評価がされます。高等部になると人材的な観点で評価をされます。それはそれで否定されることもでもありませんが、子ども時代に得る一番大事なことはその後の人生を支えてくれる良き感覚質なのではないか、と思います。
以上、書いて見ましたが、何しろテーマが無意識の中のものだから説明できにくい。理屈っぽくなりますがもう少し続けます。