良い授業の条件は、「ねらい」が明確なことである。
「ねらい」が意識できた先生は個々の生徒がどのような考えや行動を経て新しいことを身につけていくのかがイメージできている。
しかし、ある場合、その筋道が見えにくいこともある。
そんな時、先生から生徒に向かう「ねらい」という配慮のベクトルは、「ねがい」となって先生自身の心に向かうことがあるように感じる。
たぶん、向きの異なる「ねらい」と「ねがい」の矢印が良い感じで交互にあるいは同時に働いて、その子の内面の核みたいなところに触れながら自然な形で子ども達は新たな世界を識っていくのだろう。