諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

52 生体としてのインクルージョン#03 教会(前半)

2019年11月10日 | インクルージョン
蓼科山と大きな雲

 大学生なったばかりのころ、クリスチャン作家の本を読むようになり、それを話題にできる友人は貴重だった。

 その彼が、ある時ある下町のカトリック教会のミサに参加しようという。彼は子どもころ洗礼を受けた信者である。こちらは本を読んだだけ。はじめから失礼な感じがしていたと思う。


 日曜日、教会は車の往来のある通りに面していながら目立たなかった。近づくと控えめながらも塔を備えていて、玄関の横にマリア像。周囲は一帯はいわゆる住宅密集地で、「教会」として威光を放ちそうでいて、なぜか地域との間に違和感がないように感じた。

 友人は我が家に帰ったように躊躇なく入っていく。彼もこの教会は初めてだというのに。
薄暗い聖堂は昔の木造校舎のような落ち着きがあった。その落ち着きの先に十字架がある。右のコーナーにマリア像がまたある。

 一列に10人ぐらい座れそうな長椅子の奥から詰めるように着席すると、前列の背もたれにつけられた狭いテーブルに気が付く。
ここに聖書をおくのだという。

 「abandon=諦める」から始まる英単語本ではないが、2000年前のアラブの人の家系の説明から始まる新訳聖書は開くたびにabandon状態であった。このことを内心恥じつつとにかく定位置に置いておく。

 友人は刺繍を施したような栞を指の間に挟みつつ「〇〇による福音、◇章、△節」を探している。

場違いではないのか…。

 さっきから前列の人が外国語らしき言葉で話しているのが気になっていた。少し肌が浅黒いし髪留めも年齢より派手な原色である。

 そして同じ言葉?をしゃべりながら女性が自分の隣にもきた。オレンジ色の服の裾が見えた。横目で観察するとオーバーサイズのアロハなようなワンピーズ姿。でもサンダルは日本製らしく、生活感が伺える。子どもを連れたお母さんらしい。子どもたちが早口でしゃべり続けている。

話しかけられたどうしよう。

その緊張を察したようで友人が、
「あ、今日はタガログ語のミサなんだよ」
と。
「?」
うすぐらい聖堂の中、席を埋めているのはたぶんフィリピン人だ。

 60年代の東南アジアの大統領のよう7-3分けの男性、白いタンクトップにタトゥーがのぞくマッチョ、一人で子どもを6人も連れている豊満なおばさんとそのおばあちゃん。腕とか首に民族的な?装飾品を下げている。
皆浅黒く、やや小柄だ。
そして、タガログ語の声で聖堂は充満してくる。エネルギッシュ。たぶんは彼らにとって、今日は”晴れの日”なのだ。

話しかけられたらどうしよう。(「abandon」の英語で頑張るのか!)

 場の圧倒的な空気に呑まれて、周囲との壁をめぐらせて防衛の体制?。
小さくなって越冬しようとする動物のような気持になりかけてくると、自分の中の「世間知らず」を責める気持ちまで起きてきた。

「早く終われー」
と念じた時、ミサがはじまった。


 その時、意外な光景が見えてきた。

 大統領もマッチョもおばさんも子ども達も祈っているのである。
あるがままに祈っているよう。その姿から人間的な感じが徐々に伝わってくる。

(つづく)


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