諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

54 生体としてのインクルージョン#04 教会(後半)

2019年11月24日 | インクルージョン
晩秋

 祈っているたくさんの横顔、後ろ姿…。
それを見ているうちに、さっきまでの自分で立てていた壁の隙間から光がさしてくる気がした。

 横顔や後ろ姿は「自然な人」そのものだった。
「フィリピン人」ではなく身近な誰かが静かに祈る場を求めてここに来ているようなことがスッと分かった。
特別なことでもなく、そういうことが分かってきた。だから教会に来るのだ!。

普段、街でフィリピンの人というのをそう見かけるものではない。こんなに多くの人が身近なところいたことに驚いた。
同じ空の下、それぞれに生活があり、生業をこなし、人生のありように迷いながら、実は近くで生きている人たち。
大統領もマッチョもおばちゃんもヒョウ柄の子も、それぞれの今があるに違いない。その実情は分からない。だが、わかる気がしている。

 聖体拝領で順番に神父さんからご聖体(パン)をいただくという段になると、順番に中央の通路に並び始める。
皆、胸の前で手を合わせて順に進む。
 となりにいたオレンジのアロハのお母さんから「行かないのか?」と目で促され、「ノー、クリスチャン」と応えると感じのいい笑顔で頷く。
それぞれが軽くお辞儀をして聖体を口に入れてもらっている。

 そして、神父さんが少し張った声で、(だぶん)「行きましょう。主の平和のうちに」とタガログ語で言ってる。ミサはフィナーレ?に向け、聖歌の合唱となった。
そもそもタガログ語の聖歌なんてはじめてだし、さっきまでの大きな違和感がよみがえってきかけた時だった。
「手をつなぐんだよ」
と友人。

 フィリピンの人達は互の手を肩の高さでつないで歌うのだという。仕方なく隣の友人を手をつなぐ。男同士でこれだけで違和感。
「いやー、参ったなー」
なんて思っていると、となりのお母さんが、さっさと私の手をとって持ち上げ、ゆっくりしたリズムを伝えながら朗らかに歌いはじまた。
まったく躊躇ながない。
もともと友達なんだから
と、当たり前のことを言われたいる気がした。緊張がほどけていく解放感。

 ゆったりとしたリズムに合わせて、しばらくメロディーだけ真似て歌っていると、しだいに、つないだ手からは、子どものころから知っている懐かしさのような感情がふわっと伝わってくる。

 




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