諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

119 幸福の種 #15 まとめ④

2021年01月31日 | 幸福の種
コマクサ 八ケ岳 硫黄岳付近

幸福の種⑥
「示す幸福」から「探す幸福」へ

神谷さんは50年前に予言的なことを述べている。

生活を陳腐なものにする一つの強大な力はいわゆる習俗である。生活のしかた、ことばの使いかた、発想のしかたまでマスコミの力で画一化されつつある現代の文明社会では、皆が習俗に埋没し、流されて行くおそれが多分にある。かりに平和がつづき、オートメーションが発達し、休日がふえるならば、よほどの工夫をしないかぎり、「退屈病」が人類の中にはびこるのではなかろうか。

「よほどの工夫」が必要といっている。
そのこととつながっているかどうか。テレビ番組の中で磯田道文さんがコメントする。

社会の行き先(西洋化とか、軍事化とか、経済大国化とか)がはっきり決まっている場合には、仔馬がどうであろうが、連れて行っても(そこの)水を飲ませればいい。でもこの社会が仔馬に飲ませる水場の位置を知らない場合はどうしよう。仔馬の鼻の感覚に任せる他ない。つまり子どもの自主性に任せつつ、これまで経験で「あっちかもね」とか言いながら一緒に歩くしかない。水は1か所ではないかもしれない。馬ごとにあるのかもしない。(ないのかもしれない。)
(英雄たちの選択「100年前の教育改革 大正新教育の挑戦と挫折」)

磯田さんの話は幸福に特化した話ではないが、決まった形のものとして「幸福」を提供できない状況に「この社会」はあると言いことでもあるだろう。
馬をつれながら水場をさがすことには「よほどの工夫」がいる。

磯田さんのコメントの最後に「(ないのかもしれない)」と付け加えた高橋源一郎さんは、著作の中で「探す」ことについて、

社会は、子どもたちを「隷従」させようとしているのかもしれない。けれども、その代償として、「やるべきこと」だけは教えてくれるのである。
自由の風は冷たく厳しい。社会が与えてくれる「保護」の衣を脱ぎ捨てた時、わたしたちは、初めて、自分がそんなにも弱かったことを思い知る。だが、そこからはじめるしかないのだ。

(高橋源一郎、辻真一『弱さの思想 たそがれを抱きしめる』大月書店)

それは新しい社会の可能性でもあるという。

テレビのコメントは口語のため少し校正しました。


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