諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

162 近未来からの風#1 プロローグ

2021年12月05日 | 近未来からの風
久しぶりのテント泊 八ケ岳。 最近はアプリをつかって山行もデータ化でき,道迷いの心配が減るのですが、山中までスマホ見ながらというのはどんなものでしょう。

再開します。
また宜しくお願いします。

しばらくのあいだ、“これからの教育(学校教育が中心になるだろうと思いますが)”についてつれづれに考えていきます。
馬鹿げているほどの大きなテーマで、書くことに抵抗感もあり、恥ずかしさすら感じますが、勝手に“登らざる得ない山?”の気がして書き始めます。

それは、もちろん社会の未来像の見えなさにかかわります。
そのことは、戦後、未来社会を想定して更新してきた学習指導要領にも「予測不可能な未来社会」という表現が率直に述べられているぐらい有識者にも知りえないことのようです。

しかし、私たちは教師の立場上、「君たちの未来は予測不能と言われています」という未来観では、教育活動に責任がもてません。未来のことはわからない一方で、20世紀の初期に作られた学校の条件のまま、これまでの文化伝統を教科書に沿って規定の時間の授業で教授するということを続けていっていいのか、そんなことも感じます。

また当面必要そうな英語教育やICT教育ということですら、精度高い翻訳機の開発が英語教育を、人工知能の進歩に対応するための技術の更新がICT教育を、そのありかたの根本をすぐにも変えてしまうかもしれません。

そして、職員室の窓から外を眺め一瞬現実から離れた瞬間にも、かつてメモした先輩の教師が語った教訓が「今現在には響かないあ」と感じたり、教科道徳について、政治的な議論を抜きにしても「ちょっと違うなあ」と思ったりすることがないでしょうか。
風は私たちの中にも感じられはじめている気がします。

近未来からの風は、コンフォータブルな肌触りのまま、コロナ感染で消極的になってる社会や街に吹き、大事にしてきた何か風化させてつつ、変化を強いるように思います。

そして、そういう中でもネイチャーとしての人間は生きて行くわけだし、当然のこととして営みとして教育は続いていくことと思います。

さて、教育はどうデザインされるべきなのでしょう。近未来からの風の中で。

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