のんびり八ケ岳 行者小屋に向かう途中 横岳が見えてきました。このルートは南八ケ岳の峰々に囲まれてきます。
つづいてのコメントは、佐藤学さんである。
佐藤さんは、同書の企画の中で、ビデオの撮影を担われていて、コメントとしては、
『学びとケアで育つ‐愛育養護学校の子ども・教師・親』小学館
に詳しい。
ところで、保育と教育についての語の使い方について、津守さんは、
ここで保育という語を用いますが、これを教育と養護ということもできます。実際にはこの二つは個別の機能ではなく、両者は分かち難く結びついており、養護の中に教育があり、教育の中に養護があります。(中略)日本語には保育という語があり、私はこれを幼児に限定せずひろく用いたと思います。
という。津守さんの愛育養護学校での実践は教育と養護を包含する「保育」として紹介されている。
(ちなみに、以前紹介した『保育所保育指針解説』においても保育所の特性として「養護及び教育を一体に行うこと」としている。)
そして、今回は全国の小中学校の授業を積極的に観察され、「学びの共同体」を提唱していた佐藤さんが、愛育養護学校の実践を批評する。
小中学校のいわば組織化されたカリキュラムの中の授業と、愛育養護学校の生徒の主体性に寄り添う実践とはどう相対されるのだろう。
特に後半はここでの学びとカリキュラムの考えた方にも言及している。
愛育養護学校における教師と子どもとの関わりは、一見するとそっけない。一人ひとりの子どもに寄り添い、絶えず暖かく細やかなまなざしがそそがれているのだが、どの教師と子どもも自然体であり、ゆっくりと濃密な時間が過ぎてゆく。教師の関わりがそっけなく見えるのは、教師たちが励ましや称賛の言葉をほとんど発していないからである。事実、この学校では、教師による「頑張れ!」という叱咤激励の言葉もなければ、「すごーい!」という仰々しい称賛の言葉もない。一人ひとりが自分を忠実に生きる日々の粛々とした営みが連綿と続いているだけである。
最初の数年間、私は、同校を訪問するたびに、なぜ、この学校の教師と子どもの関わりは、そっけないほど自然体なのだろうかと考えた。私が見出した答えは次の二つである。
一つは、この学校では子どもも教師も親も一人ひとりが「主人公(protagonist)」だからである。
どの子も一人ひとりが自らの願いと意志によって一日の生活と学びを創造している。教師も同様である。一人ひとりが自らの願いと意志によって一日の生活と実践を創造している。その一人ひとりの「主人公」としての日々の営みがオーケストラのように響き合って学校の一日をかたちづくっている。したがって、愛育養護学校では同じ光景は一度もない。一人ひとりの行動を観察していると、同じ行為がくり返されているように見えるのだが、その風景と経験を仔細に観察すると同じものは一つもない。緩やかな螺旋階段を一段一段昇るように、子どもも教師も一人ひとりが「主人公」として生活と学びを創造し続けているのである。
もう一つの答えは「発達の壁」あるいは「障碍」の捉え方にある。能力主義の社会で生きてきた私たちは、障碍を抱えた子ども(人)の「障得」をその子ども(人)の能力における「障得」と捉えがちだし、その子ども(人)の能力の発達の「壁」と捉えがちである。だからこそ、障得を抱えた子ども(人)は能力が「劣っている」と見られ、その能力の訓練が「教育」の名において施されることとなる。しかし、愛育養護学校における「障碍」や「発達の壁」は、子ども個人に内在するものとは捉えられていない。
子どもの学びと発達の「障碍」や「壁」は、その子どもの能力にあるのではなく、それ以上に、その子と社会の関係の中にあり、その子と大人との関係の中に埋め込まれている。
実際、愛育養護学校における子どもの発達は、その子と大人との関係の中にある「障碍」や「壁」を洞察し、その「障碍」や「壁」を子どもと大人が協同で克服することによって達成されている。教師や親の発達が先行して「障碍」や「壁」を乗り越え、子どもの発達がもたらされることも珍しくない。この事実は、これまでの教育学における「学び」や「発達」や「教育」の概念を根本から認識し直す必要を示唆している。
これらの事柄を認識しない人々にとって、愛育養護学校の実践は「自由放任の教育(保育)」あるいは「ユートピアの教育(保育)」として誤解されがちである。確かに、同校の子どもたちには活動の自由が与えられている。しかし、活動の自由が目的になっているのでもなければ、自由な教育を追求しているわけでもない。一人ひとりが「主人公」として自らの学びと生活を創造し、その関わり合いをとおして一人ひとりの子どもが抱えている発達の「障碍」や「壁」を洞察し共有し合い、その「障碍」や「壁」を子どもと大人が協同で克服する挑戦が日々の営みをとおして実践されているのである。
愛育養護学校のカリキュラムも来訪者には理解しがたい事柄である。同校の一日を観察しても、一般の小学校や幼稚園に見られるカリキュラムらしいものを見出せないため、カリキュラムが存在しない学校と誤解されがちである。
この誤解は二つの誤解に基づいている。一つは「カリキュラム」という概念そのものの誤解である。日本において「カリキュラム」は、通常、子どもの学びに先立って準備されている「計画」や「プログラム」を意味するものとして認識されている。
しかし、「カリキュラム」は、そもそも「人生の履歴」という意味を含意していることが示すように、「学びの履歴」を意味するものとして認識すべきだろう。すなわち、「カリキュラム」は欧米において「学びの経験の総体」として定義されているように、学びの経験とその経験を構成する活動内容や環境や人の組織を含みこんだものとして認識すべきだろう。「計画」や「プログラム」は「カリキュラム」の一部に過ぎないのであり、「カリキュラム」の創造と「学びの経験」の創造とは同義である。「カリキュラム」は「学びの履歴」であり、一日の終わりにつくられ、年度の終わりに編成されるものとして再定義する必要がある。
とは言え、「カリキュラムを「学びの経験(履歴)」としてどう洞察し構成するかは、愛育養護学校の教師たち自身にとっても難問の一つである。子どもの日々の活動を学びの経験として洞察し認識しなければ、子どもにとっても教師にとっても学校生活は容易に惰性へと転落するし、子どもも親も教師も充実した日々を過ごすことは不可能になる。同校の教師たちの研修と研究において「省察」が中心課題として設定されてきたのは、日々の活動の「省察」なしでは、子どもの活動経験を「意味ある経験」として創造することは不可能だからである。
子どもは、大人とかかわりながら、自ら道を照らして歩いていく、その足跡をトレースしていった筋道上で得たことこそがその子のカリキュラムということだろう。その慎重な作業を「省察」と呼ぶ。
ついた道に誘導されて歩くのと違う脚力がつきそうな学力観が見える。
つづいてのコメントは、佐藤学さんである。
佐藤さんは、同書の企画の中で、ビデオの撮影を担われていて、コメントとしては、
『学びとケアで育つ‐愛育養護学校の子ども・教師・親』小学館
に詳しい。
ところで、保育と教育についての語の使い方について、津守さんは、
ここで保育という語を用いますが、これを教育と養護ということもできます。実際にはこの二つは個別の機能ではなく、両者は分かち難く結びついており、養護の中に教育があり、教育の中に養護があります。(中略)日本語には保育という語があり、私はこれを幼児に限定せずひろく用いたと思います。
という。津守さんの愛育養護学校での実践は教育と養護を包含する「保育」として紹介されている。
(ちなみに、以前紹介した『保育所保育指針解説』においても保育所の特性として「養護及び教育を一体に行うこと」としている。)
そして、今回は全国の小中学校の授業を積極的に観察され、「学びの共同体」を提唱していた佐藤さんが、愛育養護学校の実践を批評する。
小中学校のいわば組織化されたカリキュラムの中の授業と、愛育養護学校の生徒の主体性に寄り添う実践とはどう相対されるのだろう。
特に後半はここでの学びとカリキュラムの考えた方にも言及している。
愛育養護学校における教師と子どもとの関わりは、一見するとそっけない。一人ひとりの子どもに寄り添い、絶えず暖かく細やかなまなざしがそそがれているのだが、どの教師と子どもも自然体であり、ゆっくりと濃密な時間が過ぎてゆく。教師の関わりがそっけなく見えるのは、教師たちが励ましや称賛の言葉をほとんど発していないからである。事実、この学校では、教師による「頑張れ!」という叱咤激励の言葉もなければ、「すごーい!」という仰々しい称賛の言葉もない。一人ひとりが自分を忠実に生きる日々の粛々とした営みが連綿と続いているだけである。
最初の数年間、私は、同校を訪問するたびに、なぜ、この学校の教師と子どもの関わりは、そっけないほど自然体なのだろうかと考えた。私が見出した答えは次の二つである。
一つは、この学校では子どもも教師も親も一人ひとりが「主人公(protagonist)」だからである。
どの子も一人ひとりが自らの願いと意志によって一日の生活と学びを創造している。教師も同様である。一人ひとりが自らの願いと意志によって一日の生活と実践を創造している。その一人ひとりの「主人公」としての日々の営みがオーケストラのように響き合って学校の一日をかたちづくっている。したがって、愛育養護学校では同じ光景は一度もない。一人ひとりの行動を観察していると、同じ行為がくり返されているように見えるのだが、その風景と経験を仔細に観察すると同じものは一つもない。緩やかな螺旋階段を一段一段昇るように、子どもも教師も一人ひとりが「主人公」として生活と学びを創造し続けているのである。
もう一つの答えは「発達の壁」あるいは「障碍」の捉え方にある。能力主義の社会で生きてきた私たちは、障碍を抱えた子ども(人)の「障得」をその子ども(人)の能力における「障得」と捉えがちだし、その子ども(人)の能力の発達の「壁」と捉えがちである。だからこそ、障得を抱えた子ども(人)は能力が「劣っている」と見られ、その能力の訓練が「教育」の名において施されることとなる。しかし、愛育養護学校における「障碍」や「発達の壁」は、子ども個人に内在するものとは捉えられていない。
子どもの学びと発達の「障碍」や「壁」は、その子どもの能力にあるのではなく、それ以上に、その子と社会の関係の中にあり、その子と大人との関係の中に埋め込まれている。
実際、愛育養護学校における子どもの発達は、その子と大人との関係の中にある「障碍」や「壁」を洞察し、その「障碍」や「壁」を子どもと大人が協同で克服することによって達成されている。教師や親の発達が先行して「障碍」や「壁」を乗り越え、子どもの発達がもたらされることも珍しくない。この事実は、これまでの教育学における「学び」や「発達」や「教育」の概念を根本から認識し直す必要を示唆している。
これらの事柄を認識しない人々にとって、愛育養護学校の実践は「自由放任の教育(保育)」あるいは「ユートピアの教育(保育)」として誤解されがちである。確かに、同校の子どもたちには活動の自由が与えられている。しかし、活動の自由が目的になっているのでもなければ、自由な教育を追求しているわけでもない。一人ひとりが「主人公」として自らの学びと生活を創造し、その関わり合いをとおして一人ひとりの子どもが抱えている発達の「障碍」や「壁」を洞察し共有し合い、その「障碍」や「壁」を子どもと大人が協同で克服する挑戦が日々の営みをとおして実践されているのである。
愛育養護学校のカリキュラムも来訪者には理解しがたい事柄である。同校の一日を観察しても、一般の小学校や幼稚園に見られるカリキュラムらしいものを見出せないため、カリキュラムが存在しない学校と誤解されがちである。
この誤解は二つの誤解に基づいている。一つは「カリキュラム」という概念そのものの誤解である。日本において「カリキュラム」は、通常、子どもの学びに先立って準備されている「計画」や「プログラム」を意味するものとして認識されている。
しかし、「カリキュラム」は、そもそも「人生の履歴」という意味を含意していることが示すように、「学びの履歴」を意味するものとして認識すべきだろう。すなわち、「カリキュラム」は欧米において「学びの経験の総体」として定義されているように、学びの経験とその経験を構成する活動内容や環境や人の組織を含みこんだものとして認識すべきだろう。「計画」や「プログラム」は「カリキュラム」の一部に過ぎないのであり、「カリキュラム」の創造と「学びの経験」の創造とは同義である。「カリキュラム」は「学びの履歴」であり、一日の終わりにつくられ、年度の終わりに編成されるものとして再定義する必要がある。
とは言え、「カリキュラムを「学びの経験(履歴)」としてどう洞察し構成するかは、愛育養護学校の教師たち自身にとっても難問の一つである。子どもの日々の活動を学びの経験として洞察し認識しなければ、子どもにとっても教師にとっても学校生活は容易に惰性へと転落するし、子どもも親も教師も充実した日々を過ごすことは不可能になる。同校の教師たちの研修と研究において「省察」が中心課題として設定されてきたのは、日々の活動の「省察」なしでは、子どもの活動経験を「意味ある経験」として創造することは不可能だからである。
子どもは、大人とかかわりながら、自ら道を照らして歩いていく、その足跡をトレースしていった筋道上で得たことこそがその子のカリキュラムということだろう。その慎重な作業を「省察」と呼ぶ。
ついた道に誘導されて歩くのと違う脚力がつきそうな学力観が見える。