諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

257 幸福をどうするか #09 お二人の話

2025年01月13日 | 幸福をどうするか
🈟 雪!の天城山   万二郎岳から天城峠までの縦走です。伊豆半島らしからぬ雪景色の中で幻想的な山歩きに。

子どもの幸福について、大人ができることは何だろう。
統計とは別種の「幸福観」である。


河合隼雄さんの話
イタリアの民話を紹介する。

ある王様の一粒種の王子は、いつも満たされぬ心をかかえて、一日中ぼんやりと遠くを見つめていた。王様は息子のためにいろんなことをしてみたが駄目だった。王様は学者たちに相談した。学者たちは「完全に満ち足りた心の男を探し出して、その男のシャツと王子様のシャツを取りかえるとよろしい」と忠告してくれた。
王様はお触れを出して、「心の満ち足りた男」を探させた。そこへ一人の神父が連れて来られ、「心が満ち足りている」と言った。王様は「そういうことなら大司教にしてやろう」と言うと、神父は「ああ、願ってもないことです」と喜んだので、王様は「今よりもよくなりたがるような人間は満ち足りていない」と、追い払ってしまった。王様もなかなかの知恵ものである。
つぎに近くの国の王様が「まったく満ち足りた」生活をしている、というので、使節を送った。ところがその王様は「わたしの身に欠けるものは何一つない。それなのにすべてのものを残して死なねばならぬとは残念で夜も眠れない」と言うので、これも駄目ということになる。
王様はある日、狩りに出かけ、野原で歌を歌っている男の声があまりに満ち足りていたので話しかけてみる。王様が都会へ来ると厚くもてなすぞ、などと言うが、若者は「今のままで結構です。今のままで満足です」と言う。王様は大喜びだ。ついに目指す男を見つけたので、これで王子も助かると思い、若者のシャツを脱がせようとしたが、「王様の手が止まって、力なく両腕を垂れた。男はシャツを着ていなかった」。
これでお話は終わりである。

男のシャツを譲りうけようとしても駄目だったことは、ほんとうに「満ち足りた生き方」などというのは他人からの借りもので、できるはずがないことを示していると思われる。


                             『河合隼雄の幸福論』

養老孟司さんの話

子どもが生まれてくると改めてわかることがあります。子どもは何かの目的を持って生まれてきたわけではないのです。自分の一生もそうで、何らかの目的のために生きてきたわけではない。我々は働きアリでも働きバチでもない。一人ひとりの一生は何だかわからない、理由などよくわからない一生です。子どもだって将来どうなるかわかるはずがありません。そういう当たり前のことが、都市の中に暮らしているとわからなくなる。そして、すべてを現在化してしまうのです。
私が言いたいのは、すべてが予定の中に組み込まれていったときに、いったい誰が割を食うのかということです。それはもう間違いなく子どもなのです。なぜなら、子どもというのは何にも持っていないからです。知識もない、経験もない、お金もない、力もない、体力もない。何もない。それでは子どもが持っている財産とは何か。それこそが、一切何も決まっていない未来、漠然とした未来なのです。

その子にとって未来がよくなるか悪くなるか、それはわかりません。ともかく彼らが持っているのは、何も決まっていないという、まさにそのことなのです。私はそれらを「かけがえのない未来」と呼びます。だから、予定を決めれば決めるほど、子どもの財産である未来は確実に減ってしまうのです。私たちは、先のことを決めなければ、一切動かないと言う困った癖がついてしまいました。

                            『かけがえのないもの』

河合隼雄さん

「子どもの幸福」の1番大切な事は、子ども自身がそれを獲得するものだ、ということである。とはいっても、それを「見守る」事は、何やかやと子どものために、おせっかい焼きをするよりも、はるかに心のエネルギーのいるものである。

                             (前掲書)

養老孟司さん

時折「幸せとは何か」と言うようなことを聞かれることがあります。
私はいつもこんなふうに答えます。
「考えたことありません。」
またしても怒られそうですが、喧嘩を売っているわけではありません。
何かが起きた後に、思いがけず感じるものが幸せなのです。
あらかじめわかっているようなこと、「幸せとはこういうものだ」と定義できるようなものは幸せではないと思うのです。
私の例で言えば取れるはずがないと思っている虫が思いがけず取れたということが幸せです。
思いがけないものです。
「思いがけた」幸せなんてないような気がします。

                              『養老訓』


幸福は「受け渡せないシャツ」だし、「思いがけないもの」だという。
人生の北極星のようなものでありながら、はっきりとは見えない。

次回から幸福学に学んでいく。
幸福を誰もが享受できるようにしたい、というのか幸福学である。
ほとんど条件論をはさまないで幸福山を直接登るのである。

《見出し写真の補足》
JR伊東駅からバスで登山口まで行きます。





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