北アルプスの花畑 翌日目指す予定の雪倉岳 有名な白馬岳の隣で控え目に見えます
保育について、今度はその実際の現場から学ぶ。テキストは、
津守 真『保育者の地平』ミネルヴァ書房
すでに述べたように、著名な心理学者の津守真さんがいち保育者として愛育養護学校の現場に立った12年間の事々をまとめた本である。
保育の本質的な意味は教育に先立つといってもいいだろう。
実際、保育実践の中には、人とは何か、人が人と出会い、交わることとはどういうことかについての洞察があり、また子どもにとって保育者とは何か、子どもの認識や自我の形成と、保育者が子どもとかかわることについても絶えず問われることだろう。
そして、こうした知見は、つい先を急いでしまう今日の教育ありよう全体にとっても重要な一視点に違いない。
保育者の地平から津守さんは、どのように子ども捉え、解釈し、働きかけ、その変容を子どもの成長の中にどう位置づけて行ったのだろう。
なお、文章そのものの中に津守さんの保育者としての視点や、微妙な感じ取り方が物語られており、自然に長い引用になる。
第2章 普通の日々 子どもの思いを追って ―保育者3・4年目— から
《K夫と生きること》
Aある日、K夫は、私のわきを通り過ぎて、実習生と一緒に、職員室に通じるドアのノブに手をかけた。その実習生は、ドアをあけて、K夫と一緒に廊下の方に出ていった。
自分のまわりに、自由と静けさと親しみの空間を作りたい。
この場面で、私は、子どもがドアのノブに手をかけたことをたしかに知ることができる。これだけでは、単に外的行動の観察にとどまるのだが、さらに加えて、私は、この子はドアの向こう側にゆきたいと思っていることが分かる。外的行動と内的世界とはあわせて一つの行為である。だが、私はそこまでしか言う資格はないのだろうか。
これまで、私はK夫とのつきあいも多く、ドアから廊下に出て、階段をのぼり、二階の廊下を通り抜け、反対側のドアから庭に出て学校を一回りすることを何度も繰り返したことがある。このような体験から、この子にとって、薄暗い廊下を抜けてもとの場所にもどることは、学校の生活に習熟するのに精神的な支えになっているのだろうと考えてきた。それだから、いま、ドアのノブに手をかけて廊下に出ようとする子どもの行為に、とくべつな意味を見ることができる。この場合、その体験を思い起こすことは、この行為の理解を助けている。
この日、保育のあと、話し合いのときに、その実習生は、K夫の一日の生活を追って、くわしく話してくれた。
ドアをあけて廊下に出たあと、階段から二階へと通り抜けるのを何度も繰り返したこと、実習生の腕の中にくるまるようにして抱かれたこと、モップをふりまわして追いかけてよろこんだことなど、その実習生と一日中一緒に過ごした話は次つぎとつづいた。保育のあとの話は、行動の羅列と思えるほどに、具体的なことがつづくのだが、私は、こうして語られる一連の行為に子どもの世界があるのだと思う。その中の一つの行為だけにとどまるのでなく、一日を通してつづいてゆくその行為の全体が子どもの世界だと言ってよい。
少しだけ説明を補足する。最初は、K夫は私のわきを通りすぎて、実習生と一緒にドアの方に向かった。いつもだったら、私に声をかけたり、私の手を引くことも多いのである。そして、私が予想したように、階段から二階へと通り抜けた。このことは、かなり以前に何度もやっていたが、最近はほとんどしていなかった。また、腕の中にくるまるように抱かれたり、モップで追いかけたりすることも、ずっと以前によくやっていた行為である。いまは、
ある時間をしっかりと相手をすると、自分で遊びを見つけることが多くなっている。つまり、この日のようなことは久しぶりである。
また、K夫は、私に対するのと、女の実習生に対するのと振る舞い方を変えている。このことは、他の人に対しても同様であって、この子どもは相手に対して気を使い、相手に合わせて行為する。女の先生の「ああ疲れた」という一言で、トランポリンからさっと降りたりもする。
この日に、実習生をつかまえて、ふだんより幼い仕方で一日を過ごしたのには、それなりの意味があったのだと思う。積極的で活発な日がつづいた後、もっと幼かった日にもどりたいと思ったのだろう。
K夫は相手に気を使い、人によって応対の仕方を変える。気を使うというのは、相手がどういう状態にあるかを認識し、それを肯定し、尊重して自分の行動を決めることである。相手を傷つけまいとして自分を抑制することである。気を使いすぎると、自分を十分に出せなくなる。これは愛の問題であるが、ある限界をこすと、自分自身の真実を表現しないことにもなる。
この実習生が語ってくれたこの日の子どもの一連の行為に、この子どもの世界はあらわれている。つまり、保育者は、子どもの一連の行為をともに過ごすことにより、子どもの世界をともに生きている。あとになって話をするときに、大人の意識に残るのは、行為の結果として記憶にとどまりやすい部分である。子どもがドアのノプに手をかけるところは、意識にとどまりやすい部分であるが、その以前に、私の傍を通りすぎて歩いてゆくところで、すでに、より幼い時期の行動様式にもどろうとする心が彼の心に動いていたと言ってよいであろう。その部分は、あとの話し合いのときには省略されてしまう。だが、保育の実践の最中に重要なのは、その部分を子どもとともに過ごすことだろう。そのときに、未来の展開はまだ分かっていない。この実習生は、この一日を過ごすのに、未来は未知のままに、子どもの世界をともに生きることによって、ここに叙述したような行為が、結果として生まれたのである。
こう考えると、保育の実践は、まだ形にならない子どもの世界をともに生きることだといってよいだろう。
後になってふりかえるとき、そのある部分が意味を与えられて、大人の意識の中に位置づけられる。
《見出し写真の補足》
見上げるとアルプスの稜線が見えてきて、足元には高地のあやめが時期ズレで咲いています。
保育について、今度はその実際の現場から学ぶ。テキストは、
津守 真『保育者の地平』ミネルヴァ書房
すでに述べたように、著名な心理学者の津守真さんがいち保育者として愛育養護学校の現場に立った12年間の事々をまとめた本である。
保育の本質的な意味は教育に先立つといってもいいだろう。
実際、保育実践の中には、人とは何か、人が人と出会い、交わることとはどういうことかについての洞察があり、また子どもにとって保育者とは何か、子どもの認識や自我の形成と、保育者が子どもとかかわることについても絶えず問われることだろう。
そして、こうした知見は、つい先を急いでしまう今日の教育ありよう全体にとっても重要な一視点に違いない。
保育者の地平から津守さんは、どのように子ども捉え、解釈し、働きかけ、その変容を子どもの成長の中にどう位置づけて行ったのだろう。
なお、文章そのものの中に津守さんの保育者としての視点や、微妙な感じ取り方が物語られており、自然に長い引用になる。
第2章 普通の日々 子どもの思いを追って ―保育者3・4年目— から
《K夫と生きること》
Aある日、K夫は、私のわきを通り過ぎて、実習生と一緒に、職員室に通じるドアのノブに手をかけた。その実習生は、ドアをあけて、K夫と一緒に廊下の方に出ていった。
自分のまわりに、自由と静けさと親しみの空間を作りたい。
この場面で、私は、子どもがドアのノブに手をかけたことをたしかに知ることができる。これだけでは、単に外的行動の観察にとどまるのだが、さらに加えて、私は、この子はドアの向こう側にゆきたいと思っていることが分かる。外的行動と内的世界とはあわせて一つの行為である。だが、私はそこまでしか言う資格はないのだろうか。
これまで、私はK夫とのつきあいも多く、ドアから廊下に出て、階段をのぼり、二階の廊下を通り抜け、反対側のドアから庭に出て学校を一回りすることを何度も繰り返したことがある。このような体験から、この子にとって、薄暗い廊下を抜けてもとの場所にもどることは、学校の生活に習熟するのに精神的な支えになっているのだろうと考えてきた。それだから、いま、ドアのノブに手をかけて廊下に出ようとする子どもの行為に、とくべつな意味を見ることができる。この場合、その体験を思い起こすことは、この行為の理解を助けている。
この日、保育のあと、話し合いのときに、その実習生は、K夫の一日の生活を追って、くわしく話してくれた。
ドアをあけて廊下に出たあと、階段から二階へと通り抜けるのを何度も繰り返したこと、実習生の腕の中にくるまるようにして抱かれたこと、モップをふりまわして追いかけてよろこんだことなど、その実習生と一日中一緒に過ごした話は次つぎとつづいた。保育のあとの話は、行動の羅列と思えるほどに、具体的なことがつづくのだが、私は、こうして語られる一連の行為に子どもの世界があるのだと思う。その中の一つの行為だけにとどまるのでなく、一日を通してつづいてゆくその行為の全体が子どもの世界だと言ってよい。
少しだけ説明を補足する。最初は、K夫は私のわきを通りすぎて、実習生と一緒にドアの方に向かった。いつもだったら、私に声をかけたり、私の手を引くことも多いのである。そして、私が予想したように、階段から二階へと通り抜けた。このことは、かなり以前に何度もやっていたが、最近はほとんどしていなかった。また、腕の中にくるまるように抱かれたり、モップで追いかけたりすることも、ずっと以前によくやっていた行為である。いまは、
ある時間をしっかりと相手をすると、自分で遊びを見つけることが多くなっている。つまり、この日のようなことは久しぶりである。
また、K夫は、私に対するのと、女の実習生に対するのと振る舞い方を変えている。このことは、他の人に対しても同様であって、この子どもは相手に対して気を使い、相手に合わせて行為する。女の先生の「ああ疲れた」という一言で、トランポリンからさっと降りたりもする。
この日に、実習生をつかまえて、ふだんより幼い仕方で一日を過ごしたのには、それなりの意味があったのだと思う。積極的で活発な日がつづいた後、もっと幼かった日にもどりたいと思ったのだろう。
K夫は相手に気を使い、人によって応対の仕方を変える。気を使うというのは、相手がどういう状態にあるかを認識し、それを肯定し、尊重して自分の行動を決めることである。相手を傷つけまいとして自分を抑制することである。気を使いすぎると、自分を十分に出せなくなる。これは愛の問題であるが、ある限界をこすと、自分自身の真実を表現しないことにもなる。
この実習生が語ってくれたこの日の子どもの一連の行為に、この子どもの世界はあらわれている。つまり、保育者は、子どもの一連の行為をともに過ごすことにより、子どもの世界をともに生きている。あとになって話をするときに、大人の意識に残るのは、行為の結果として記憶にとどまりやすい部分である。子どもがドアのノプに手をかけるところは、意識にとどまりやすい部分であるが、その以前に、私の傍を通りすぎて歩いてゆくところで、すでに、より幼い時期の行動様式にもどろうとする心が彼の心に動いていたと言ってよいであろう。その部分は、あとの話し合いのときには省略されてしまう。だが、保育の実践の最中に重要なのは、その部分を子どもとともに過ごすことだろう。そのときに、未来の展開はまだ分かっていない。この実習生は、この一日を過ごすのに、未来は未知のままに、子どもの世界をともに生きることによって、ここに叙述したような行為が、結果として生まれたのである。
こう考えると、保育の実践は、まだ形にならない子どもの世界をともに生きることだといってよいだろう。
後になってふりかえるとき、そのある部分が意味を与えられて、大人の意識の中に位置づけられる。
《見出し写真の補足》
見上げるとアルプスの稜線が見えてきて、足元には高地のあやめが時期ズレで咲いています。