諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

91 第4の教育課程#6 「子どもらしさ」

2020年08月01日 | 第4の教育課程
  思索しつつ書いていてテンポがゆっくりです。お付合いいただきありがとうございます。

 原始の時代から、近世まで子どもというのはなかなか育たない存在だった。
長く長くそういう存在だった。
弱い存在だからその子どもの命は優先され、子どもの成長過程は尊重された。

 そして子どもは愛らしく、成長・発達の過程はユニークなこともあって、それを見届ける大人たちは、この特別さを「子どもらしさ」として興味や不思議さを感じて見届けた。

 「子どもらしさ」という言葉は、共同体全体が子どもを育む上で子どもの美質として自然に共有していたのではないか。
そして、子どもはこの大人たちの「子どもらしさ」の中で酸素をたくさん吸うように成長してきたのかもしれない。

 そして、現代になり、子どもから「死」の印象が遠ざかった。
子どもは「はかない存在」ではなくなり、子どもは見かけ上タフになった。
そして、最近は、ある子をみて、「子どもらしいいい子ですね」なんて言わなくなってきた。

 結果として子どもは「子どもらしい場」を確保しにくい状況があるとも言える。 

 もちろん、子どもが「タフ」なのは、医療なりの進歩によるのであって、生まれてくる子というのは昔とかわらない。
「タフなはず」の子と、元来タフでない現実の子とのギャップがある。

 小学校や中学校に行って、教育相談をすることがある。詳しくは述べないが、その場にいることが大変な子がいる。
高校でも単位取得に違和感のある子もある。
「不器用にそこにいる子」
太古からの弱者としての子どもが浮かんだりする。

 医療や技術や社会資本の整備の恩恵は大きなものである。
しかし、それによって子どもは強くさせられている面はないのだろうか。
切磋琢磨ということもあると思うのだが。

 特別支援学校の窓から見ると、子どもが成長することに直結したような教育課程が地域の学校にも必要だと感じる。
  
                         (つづく)

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