シンガポールで、よく危機を脱したとのメールを各方面から頂いた。前にも書いたと思うが、私は最悪の事態を考えて物事に対処することにしている。そうすると、どのような結果になろうと、私が予測していたことより少しは状態がいいと考え、落ち込むことなく次に当たれる。よく云えば、立ち直りが早いとか打たれ強いと云うことかもしれない。要は能天気なのであろう。
針が落ちる音にも注意をする半面、「何とかなるさ」と安易に考えてすぐ行動に移すことが多くある。これも、よく云えば決断が速いと云うことなのだろうが、いい加減な面が非常にあると、私自身大いに反省している。
私の聞き間違えか、マダガスカル側の連絡不足か、当然のこと伐採地から荷が届いているものだと決め込んでアンタナナリブにやって来た。而し、パリサンダーの影も形もなかった。現地では出荷を急いでいるが、サイクロンの影響がマダガスカルの中心地にまで及び、積み込み作業に手間取っているらしい。最初のトラックが到着するまでに二、三日かかる。全てが到着するには一週間以上かかると云われた。ジルス・ベドに「いい機会ですから、これからアフリカ大陸の南アフリカ共和国に行きましょう」と誘われたが、その時の私の態度は「慎重」の面が全てを圧倒した。近い将来、マダガスカルではパリサンダーの入手が手詰まりになる可能性がある。南アには彼の知り合いがおり、パリサンダーに近い樹種が豊富にあるから、必ずいい木が手に入ると云われた。だが、私の知識(「熱帯の有用樹種」から学んだものが殆ど)の中には「南アフリカ共和国」はなかった。或いは私が読み過ごしてしまっただけかもしれないが、ジルス・ベドの云うような記述はなかったように思えた。その結果、行くことを止した。面倒だったのかもしれない。マダガスカルから直行便はなく、アンタナナリブからケニアのナイロビまで行き、そこから何回か乗り継いで南アに行かなければならない。此の面倒さが、いい加減な私を「慎重」な私に変えてしまったのかもしれない。それに、事前に新木場のお得意様たちにサンプルを見せ、買って頂ける約束をしてからでなければ輸入出来ない。新木場は非常に保守的な所である。新しい材には必要以上に慎重になる。今回行かなくとも、次があるさとずぼらを決め込んだ。
そうかと云って一週間以上もホテルで寝て暮らしても仕方がない。断らずに南アに行くべきだったかと反省した。
ジルス・ベドがフェナリブに行きませんかとホテルに訪ねてきた。国際港のあるトマシナから真北に向かう海沿いの道を100キロほど行った所にある。アトラスの地図には「フェノアリボ(Fenoarivo)」とローマ字読みに表記されているが、マダガスカルではフェナリブと発音されている。フェナリブは良質な胡椒の産地であると同時に、ベド家の属するベツィミサラカ族の本拠地でもある。フェナリブにもある自宅に彼の両親が滞在しているので、是非にもお連れしたいと云う申し出であった。願ってもないチャンスであった。日本で使われている胡椒の主な産地はインドネシア、マレーシア、それとフィリッピンである。これらの国の品は悪くないが、非常に高い。フェナリブから直接買えれば、高品質な胡椒を日本が現在輸入している価格の半値かそれ以下で買える。胡椒については以前にも書いた。マダガスカル編の5と16をご参照願いたい。
それに、もう一つフェナリブには用事があった。麻布にあるマダガスカル大使館の商務官に頼まれた件である。日本製のトレッキング・シューズを彼の妹に届けて欲しいと頼まれていたのだ。彼の妹はフェナリブでトレッキングのガイドをやっている。妹にねだられて、本皮の上等なものを無理して買ったらしい。かなりの重さがあったが、何とかスーツケースに入れてきた。


途中の、川岸にある店では竹の皮に似た草で編んだ様々な生活用品が売られていた。客の多くは笊と云うか、籠と云うか、瓶に似た蓋付きの容器を買っていた。私はソンブレロ風の帽子を買って被ってみたが、強烈な太陽を遮ってくれ、実に快適であった。

マダガスカルの他の河川と同様に、此処に架かっていた橋も壊れていたままに放置されていた。

此の、のんびりとした風景は心を慰めてくれる。

壊れたままの橋の50メートルほどの下流にシャンブー・シャラシャラ(舟じゃない舟、マダガスカル編の19をご参照願いたい)の渡船場があった。

対岸からシャンブー・シャラシャラは既に着いており、積み込みが始まっていた。香港にいる中国人も含めて、中国人は順番を守らずに先を争、人を押しのけて乗り込もうとする。だが、マダガスカル人は焦らずにゆったりと待つ。

我々以外にも乗船客は多く、次のシャンブー・シャラシャラまで待たなければならないだろう。

少しでも多く車を乗せ、人と物資を運ぶ。土台となっているボートの浮力はかなり強いらしく、シャンブー・シャラシャラの上甲板が水に浸かる心配はないようだ。ベテランの「船長」の指示のもと、乗客たちも手伝いながら積み込みを行っていた。


この白いピックアップトラックも乗せるらしく、場所を整理していた。人間は車と車の空いた隙間に乗り込む。人間優先ではなく、車優先のようだ。

何とか空間を作り、ピックアップトラックは「船員」の誘導でゆっくりとャンブー・シャラシャラの「上甲板」に進んでいった。

どうにか全ての整理がついたらしく、いよいよ出航の最終準備を始めたようだ。

上の看板であるが、恐らく渡船料金と重量制限が書かれているのであろう。詳しく知りたかったのでダガスカル大使館に何度かメールを送って聞いたが、ウンでもスンでもなかった。以前はU嬢と云う非常に優秀で親切なお嬢さんが大使の秘書をやっていた。彼女の後任のご婦人の従業員にマダガスカルについて何かを聞こうとすると、「それには答えられません。業務に差支えます」と云う返事が必ず返ってくる。もう一人の若いお嬢さんは非常に親切であるが、私が電話すると意地の悪い、年かさの従業員の方が出ることが多い。それで、電話をしなくなった。「業務に差支える」と云うが、我々の質問に答えるのも業務の一つであろう。親切な方のお嬢さんは、自分で答えられない件は気軽にマダガスカル人の大使館員にすぐに聞いてくれる。非常にありがたい。
今回はマダガスカル人の大使館員宛にメールに上の写真を添えて何度か質問したが、一向に質問に答えて貰えていない。本国にいるマダガスカル人は非常に親切で親しみやすい。日本人の従業員が私のメールをマダガスカル人の大使館員に取り次いでいないのか、マダガスカル人の従業員が私のメールを面倒がって無視しているのかは不明である。
ビルマ大使館のビルマ人はもっとひどい。質問の途中でも、「そんなこと、私は知らない」と電話を切ってしまう。発展途上国の大使館員は、日本人従業員も含めて「特権階級」の一員であるとの考え違いをしているのではないだろうか。特に日本人にビザを発給する大使館には威張りくさっている従業員が多い。その国にとって非常にマイナスである。一言付け加えたいが、特殊な場合を除いてビザを発給する必要のないタイやマレーシア、それにインドネシアなどの大使館は日本人の従業員も含めて、非常に親切である。
針が落ちる音にも注意をする半面、「何とかなるさ」と安易に考えてすぐ行動に移すことが多くある。これも、よく云えば決断が速いと云うことなのだろうが、いい加減な面が非常にあると、私自身大いに反省している。
私の聞き間違えか、マダガスカル側の連絡不足か、当然のこと伐採地から荷が届いているものだと決め込んでアンタナナリブにやって来た。而し、パリサンダーの影も形もなかった。現地では出荷を急いでいるが、サイクロンの影響がマダガスカルの中心地にまで及び、積み込み作業に手間取っているらしい。最初のトラックが到着するまでに二、三日かかる。全てが到着するには一週間以上かかると云われた。ジルス・ベドに「いい機会ですから、これからアフリカ大陸の南アフリカ共和国に行きましょう」と誘われたが、その時の私の態度は「慎重」の面が全てを圧倒した。近い将来、マダガスカルではパリサンダーの入手が手詰まりになる可能性がある。南アには彼の知り合いがおり、パリサンダーに近い樹種が豊富にあるから、必ずいい木が手に入ると云われた。だが、私の知識(「熱帯の有用樹種」から学んだものが殆ど)の中には「南アフリカ共和国」はなかった。或いは私が読み過ごしてしまっただけかもしれないが、ジルス・ベドの云うような記述はなかったように思えた。その結果、行くことを止した。面倒だったのかもしれない。マダガスカルから直行便はなく、アンタナナリブからケニアのナイロビまで行き、そこから何回か乗り継いで南アに行かなければならない。此の面倒さが、いい加減な私を「慎重」な私に変えてしまったのかもしれない。それに、事前に新木場のお得意様たちにサンプルを見せ、買って頂ける約束をしてからでなければ輸入出来ない。新木場は非常に保守的な所である。新しい材には必要以上に慎重になる。今回行かなくとも、次があるさとずぼらを決め込んだ。
そうかと云って一週間以上もホテルで寝て暮らしても仕方がない。断らずに南アに行くべきだったかと反省した。
ジルス・ベドがフェナリブに行きませんかとホテルに訪ねてきた。国際港のあるトマシナから真北に向かう海沿いの道を100キロほど行った所にある。アトラスの地図には「フェノアリボ(Fenoarivo)」とローマ字読みに表記されているが、マダガスカルではフェナリブと発音されている。フェナリブは良質な胡椒の産地であると同時に、ベド家の属するベツィミサラカ族の本拠地でもある。フェナリブにもある自宅に彼の両親が滞在しているので、是非にもお連れしたいと云う申し出であった。願ってもないチャンスであった。日本で使われている胡椒の主な産地はインドネシア、マレーシア、それとフィリッピンである。これらの国の品は悪くないが、非常に高い。フェナリブから直接買えれば、高品質な胡椒を日本が現在輸入している価格の半値かそれ以下で買える。胡椒については以前にも書いた。マダガスカル編の5と16をご参照願いたい。
それに、もう一つフェナリブには用事があった。麻布にあるマダガスカル大使館の商務官に頼まれた件である。日本製のトレッキング・シューズを彼の妹に届けて欲しいと頼まれていたのだ。彼の妹はフェナリブでトレッキングのガイドをやっている。妹にねだられて、本皮の上等なものを無理して買ったらしい。かなりの重さがあったが、何とかスーツケースに入れてきた。


途中の、川岸にある店では竹の皮に似た草で編んだ様々な生活用品が売られていた。客の多くは笊と云うか、籠と云うか、瓶に似た蓋付きの容器を買っていた。私はソンブレロ風の帽子を買って被ってみたが、強烈な太陽を遮ってくれ、実に快適であった。

マダガスカルの他の河川と同様に、此処に架かっていた橋も壊れていたままに放置されていた。

此の、のんびりとした風景は心を慰めてくれる。

壊れたままの橋の50メートルほどの下流にシャンブー・シャラシャラ(舟じゃない舟、マダガスカル編の19をご参照願いたい)の渡船場があった。

対岸からシャンブー・シャラシャラは既に着いており、積み込みが始まっていた。香港にいる中国人も含めて、中国人は順番を守らずに先を争、人を押しのけて乗り込もうとする。だが、マダガスカル人は焦らずにゆったりと待つ。

我々以外にも乗船客は多く、次のシャンブー・シャラシャラまで待たなければならないだろう。

少しでも多く車を乗せ、人と物資を運ぶ。土台となっているボートの浮力はかなり強いらしく、シャンブー・シャラシャラの上甲板が水に浸かる心配はないようだ。ベテランの「船長」の指示のもと、乗客たちも手伝いながら積み込みを行っていた。


この白いピックアップトラックも乗せるらしく、場所を整理していた。人間は車と車の空いた隙間に乗り込む。人間優先ではなく、車優先のようだ。

何とか空間を作り、ピックアップトラックは「船員」の誘導でゆっくりとャンブー・シャラシャラの「上甲板」に進んでいった。

どうにか全ての整理がついたらしく、いよいよ出航の最終準備を始めたようだ。

上の看板であるが、恐らく渡船料金と重量制限が書かれているのであろう。詳しく知りたかったのでダガスカル大使館に何度かメールを送って聞いたが、ウンでもスンでもなかった。以前はU嬢と云う非常に優秀で親切なお嬢さんが大使の秘書をやっていた。彼女の後任のご婦人の従業員にマダガスカルについて何かを聞こうとすると、「それには答えられません。業務に差支えます」と云う返事が必ず返ってくる。もう一人の若いお嬢さんは非常に親切であるが、私が電話すると意地の悪い、年かさの従業員の方が出ることが多い。それで、電話をしなくなった。「業務に差支える」と云うが、我々の質問に答えるのも業務の一つであろう。親切な方のお嬢さんは、自分で答えられない件は気軽にマダガスカル人の大使館員にすぐに聞いてくれる。非常にありがたい。
今回はマダガスカル人の大使館員宛にメールに上の写真を添えて何度か質問したが、一向に質問に答えて貰えていない。本国にいるマダガスカル人は非常に親切で親しみやすい。日本人の従業員が私のメールをマダガスカル人の大使館員に取り次いでいないのか、マダガスカル人の従業員が私のメールを面倒がって無視しているのかは不明である。
ビルマ大使館のビルマ人はもっとひどい。質問の途中でも、「そんなこと、私は知らない」と電話を切ってしまう。発展途上国の大使館員は、日本人従業員も含めて「特権階級」の一員であるとの考え違いをしているのではないだろうか。特に日本人にビザを発給する大使館には威張りくさっている従業員が多い。その国にとって非常にマイナスである。一言付け加えたいが、特殊な場合を除いてビザを発給する必要のないタイやマレーシア、それにインドネシアなどの大使館は日本人の従業員も含めて、非常に親切である。