TDY、Temporary Duty。アメリカの軍隊用語で出張を意味する。世界の僻地の出張記録!TDYの次は日常の雑感

現役時代の出張記録。人との出会いと感動。TDY編を終え、写真を交えた日常の雑感を綴る。

折々の写真&雑感 501

2024年09月15日 | エッセイ
 小学校の5年と6年の担任だった教師以外に、今でも記憶に残っており、親しみの持てる、素晴らしい教師はいない。中学と高校時代には担任ではなかったが、包容力があり、我々生徒の相談に乗ってくれる教師はいた。大学での教授は、学問を我々学生に授けるとの見識は持っていた教授はいたが、今となっては名前と顔を完全に覚えていない。

 小学校に入ったばかりのころ、一段と体の大きいいじめっ子がいた。担任の教師はそのいじめから私を守ってくれなかった。自衛するしかなかった。それでいじめから私だけは避けられた。疎開が始まると、縁故疎開で叔父が共同で事業を行っていた鉱山に祖母と一緒に行った。疎開地の小学校は小さく、1年から6年まで二クラスしかなかった。教師は夫婦二人で校長と副校長だ。生徒たちは彼らを「オトコ先生」と「オンナ先生」と呼んでいた。オトコ先生は我々生徒の云っていることや訴えを一度も聞こうともしなかったし、我々を信用してもいなかった。オンナ先生は生徒の気持ちを完全に無視していた。小学校ではなく、彼ら夫婦の砦以外の何物でもなかった。

 クリスマスが近づき、生徒全員でクリスマス・ソングの「主はきませり」を歌わされることになった。だが、我々はクリスマスの何たるかを知らなかった。讃美歌だと知ったのは疎開から帰って何年も経ってからであった。疎開していたのは戦時中であり、いくら讃美歌でも敵性音楽ではなかったのか?然も、私には声を出すな、口だけ動かしていろと命じられた。私が音痴だったからである。それも皆の前で大きな声で罵倒されながら云われたのだ。

 疎開から帰ってきたのは、確か小学校3年の終りのころだった。心配はしていたが、疎開地よりは食糧事情は良かった。どうしたわけか小学校では私が「問題児である」とのレッテルを張られていたらしい。4年になり、最初の授業が始まる前に、他の生徒は校庭で楽しく遊んでいたのに、私だけ担任の教師に呼び出され、教室の私の席に座らされた。そして、「私は瀬戸先生(本名)です。非常にいい先生です。何か不満や問題があれば瀬戸先生に云って下さい」と云われた。何故私だけ呼び出され、そのように云われたのか全く理解出来なかった。その先生が良かったのか悪かったのか全く覚えていない。ただ「瀬戸先生」という名前だけで顔も覚えていないし、印象すら記憶にない。

 だが、5年と6年の時は非常にいい先生にあたった。その先生は今で云うシングル・マザーだったが、一人娘(アッ子ちゃんという我々より一歳下の子)の面倒より我々生徒たちの面倒を優先してくれていた。その先生のお陰で学校は遊ぶところではなく勉強をするところだとの認識を持った。そして楽しい場所であることも同時に教わった。お陰て、その時のクラス・メートとは未だに仲がいい。

 かなり暑かったが覚悟を決めて団地の花壇に行き、写真を撮らせて頂いた。写真を撮っている間はそれほどの暑さを感じなかったが、帰宅してみると全身が汗だらけで、シャワーを浴びずにはいられなかった。
















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