TDY、Temporary Duty。アメリカの軍隊用語で出張を意味する。世界の僻地の出張記録!TDYの次は日常の雑感

現役時代の出張記録。人との出会いと感動。TDY編を終え、写真を交えた日常の雑感を綴る。

TDY, Temporary Duty パプアニューギニア編 3

2015年01月19日 | 日記
 パプアニューギニアは非常に親日的であるから気持ちが良い。ポートモレスビーの空港での荷物検査は特に厳重で、到着便に依ってはかなりの行列が出来る。やっと私の番になり、税関職員にパスポートを渡し、スーツケースを開ける準備をしていると、「日本からお出でになったのですね。どうかそのままお通り下さい」と云われた。全くの無審査だった。アタッシュケースを開けようともしなかった。周囲の旅行客は唖然とした顔で私と税関職員を見ていた。ロサンゼルスの空港でも同じようなことがあった。パスポートで日本からの旅行客だとの確認をすると、「ハイ、出口はあちら」と云うだけだった。

 朝の散歩から帰り、フロントで鍵を受け取るときに何か伝言はなかったかと聞いたが無駄であった。約束の日を過ぎているのに、ローランド・クリステンセンから何の連絡もなかった。部屋に戻り、ラバウルのレックス・グラッテージに電話したが留守だった。仕方なく、無駄を承知でカナダのジャック・ラウに電話をしてみた。カナダの英語圏であるトロントとポートモレスビーの時差を手帳で調べた。15時間の時差である。計算してみたら、トロントは前日の午後8時であった。食事中だったようだが、気持ちよく電話に出てくれた。「落ち着きなさいよ、ミスター。世の中は予定通りにことは進みません。ゆっくりお待ちなさい。二、三日したら、私からレックスに電話してみましょう」と云われた。初めての国に来て、約束の日から二日も過ぎているのに取引相手が現れず、連絡もなければ誰だっていらだつだろう。それを「ゆっくりお待ちなさい」と云ったのだ。日本人と中国人では考え方が違うのだろうか。それとも私に忍耐心が足りないのであろうか。

 ホテルのレストランでの昼食を終え、部屋で第一次湾岸戦争に関する新聞の記事を読んでいると、フロントから電話があった。「クリステンセン様が、宜しければお目にかかりたいそうです」とのことだった。宜しくないわけがない。急いでロビーに向った。

 フロントの前で物凄い巨漢が気まずそうにしていた。白いYシャツに、窮屈そうにネクタイをしていた。約束より二日も遅れたことに、どのような云いわけをしたらいいか悩んでいるようにも見えた。それがローランド・クリステンセンだった。文句を云う気が失せた。彼が何か云おうとすると、後ろからラフな格好をした若い男が現れた。「クリス・ブルックと云います。遅れたのは私のせいです。申し訳ありませんでした」。これで初対面の挨拶が全て終ったようだった。
 コーヒールームに行き、これからの予定を聞いた。明日の午後一番のアルタオ行の定期便に乗り、そこからはローランド・クリステンセンがチャーターしてある小型機でウッドラーク島に行くことが説明された。
 クリス・ブルックはオーストラリアのアデレードで木製の食器を作る工房を持っているそうだ。やはりラバウルに住むレックス・グラッテージの仲介で、私と行を共にすることになったのだ。話してみて、非常にいい奴だと感じた。彼もウッドラーク島に行くのは初めてだと云っていた。


 首都のポートモレスビーから地方の都市や島に行くには全て20人、多くて50人乗り程度の飛行機が利用されている。


 私の前を行くのがローランド・クリステンセン。今日はネクタイを外し、靴をビーチサンダルに履き替えていた。


 ローランド・クリステンセンの右前方を歩いているのがオーストラリア人のクリス・ブルック。


 ローランド・クリステンセンは二席分を占有してしまったのに、窮屈そうだった。


 一時間ほどでアルタオに着いた。


 アルタオの「ガーニー空港」の建物。ビルマの地方の空港施設の方がよっぽど気が利いていた。屋根のあるバス停を想像して頂ければいい。此の何年か後に行った、マダガスカルのアンツォヒヒの空港といい勝負だった。




 アルタオの住民にとって、空港は涼み場所や遊び場を兼ねているようであった。木の陰に入ると、涼しい風が吹いて心地よかった。
 ポートモレスビーからたった350キロ南に来ただけで、照りつける太陽の暑さがかなり弱まったようにも感じた。ご存じと思うが、パプアニューギニアは南半球に位置しているので、南に行けば赤道から離れて気温が下がる。

 空港職員は汗をかきながらローランド・クリステンセンの荷物を降ろしていた。ポートモレスビーから積み込んだ荷物は子供の三輪車をはじめ、台所用品と思われるもの、食料品、衣類等々。まるで目につくものを手当たり次第に買い込んだように思えた。
 一番大変そうだったのは大きな、重そうなアイスボックスだった。冷凍の肉やハムだと聞いたが、このようなものまで本島に来なければ買えないとなると、ウッドラーク島の暮らしの厳しさを想像した。

 何かの都合で、チャ-ター機の到着が遅れていた。ローランド・クリステンセンは、多分別の場所に行っていて手間取っているのだろうと、のんびり構えていた。
 木陰で待っていると、リュックサックを背負った若い男がやって来てローランド・クリステンセンに挨拶した。彼はグレーダー(立木、葉、花などを見て木目や心材の色を判断する専門家)であると紹介された。一緒にウッドラーク島に行くそうだ。
 お互いに打ち解けてくると、とりとめのない雑談が始まった。若いグレーダーが「日本では嫁さんの値段は幾らですか?」と聞いてきた。結納金がそれに当たるのかと考えたが、結納金をあらわす単語を知らなかった。下手に説明すると誤解を招くので、「そのような習慣はないよ」と答えた。彼は非常に不思議そうな顔をした。そして、別の質問をしてきた。「アルタオの群長さんが、去年日本に行った話を知っていますか?」。そのような話は聞いたことがなかった。「そんな有名な話を知らないんですか?群長さんは12人の嫁さんを全員連れて日本に行ったんですよ」。それを横で聞いていたクリス・ブルックが腰を折り曲げて笑い出した。「日本の税関はびっくりしたでしょうね。ミセス群長、次もミセス群長、その次も、次も」。その先は吹き出して言葉にならなかった。ローランド・クリステンセンはニヤニヤしているだけだった。グレイダー君はその先を話してくれた。「一番下は13歳です。去年、日本に行く前に嫁さんにしたばかりなんです。金があれば何人でも持てるんですよ」。羨ましい国もあるもんだ。「ところで、お前さんの嫁さんは幾らだった?」と聞くと、「俺は500キナを払いました」と云って胸を張った。1991年当時は1キナが約¥150円(US$は約140円)だったので、¥75,000であった。グレイダーの給料が高いとしても、かなりの金額である。確か、タクシー運転手が月に5千円ほどの収入だと云っていた。

 それから10年後の2004年の1キナの価値は34円でしかなかった。現在の為替相場はかなり回復しており、先週半ばの相場は1キナが約45円となっている。これはキナの価値が上ったのではなく、円安がかなり進んでいる結果かもしれない。




 滑走路に向かいながら、パイロットが管制塔と交信していた。「雨?、物凄い雨?」と聞き返しているのが聞こえてきた。ローランド・クリステンセンもそれを聞き、我々に向って「まずいよ」と独り言のように云った。結局、今日のフライトはキャンセルになった。ウッドラーク島の飛行場は土なので、雨でぬれていてはタイヤが滑ってしまい、着陸出来ないとのことだった。台風や雪の影響で離発着出来なかったことは何度も経験したが、雨が原因とは初めての事だった。明日のフライトを確約して、我々はアルタオに一泊することになった。グレイダー君が借りてきた5人乗りのピックアップトラックに荷物を満載してマスリナ・ロッジに向った。