2018.4
十二所神社(東京都武蔵村山市) 狭山丘陵の南側に鎮座。
当神社は和銅年間(今から1300年前)に創設されたと伝承されて居ります。 当時、神社が鎮座する三ツ木町は朝廷への
貢物を調製する村であって貢村と呼ばれて居りました。東京都神社庁hpより。
境内に漂う臭いがちょっと気になりました。北側に丘陵、南側は開けていて昔は眺めの良い場所だったでしょうね。緑は
深く、迫力のある狛犬んでしたよ。
境内入り口の「神社ラーメン」定休日でしたー。ネコちゃんが留守番していましたよ。
2018.4
十二所神社(東京都武蔵村山市) 狭山丘陵の南側に鎮座。
当神社は和銅年間(今から1300年前)に創設されたと伝承されて居ります。 当時、神社が鎮座する三ツ木町は朝廷への
貢物を調製する村であって貢村と呼ばれて居りました。東京都神社庁hpより。
境内に漂う臭いがちょっと気になりました。北側に丘陵、南側は開けていて昔は眺めの良い場所だったでしょうね。緑は
深く、迫力のある狛犬んでしたよ。
境内入り口の「神社ラーメン」定休日でしたー。ネコちゃんが留守番していましたよ。
2018.4.15 ご近所の氷川神社へ。
あまりにも最近、神社参拝が多いので、神社カテゴリーは今回より簡素化して投稿します。
境内社の気象神社
祭神:八意思兼命
元は、馬橋4丁目(現在の高円寺北4丁目)にあった大日本帝国陸軍の陸軍気象部の構内に、1944年(昭和19年)4月10日
に造営されたものである。この神社前で勤務前に気象観測員が気象予報の的中を祈願したという。by wikipedia
気象研究所の跡地は現在、馬橋公園となっています。気象予報士の合格祈願で有名のようですよ。
参拝中に空からポタポタと何やら落ちてきています。何かと思ったらイチョウの雄花でした。
境内、辺り一面、イチョウの雄花絨毯状態でした。ビックリです。黄葉時の枯葉の量も多いでしょうしタイヘンですねー。
それにしてもあまりにスゴイ量でビックリでした。
2018.4 愛しの大桂に逢いに行ってきました。とても風の強い日でした。
新しくiphone7になったので動画を撮ってみました。
軍刀利神社 二の鳥居 参道階段入口と手水舎
軍刀利神社・本殿 iphone7を差し込んで撮らせてもらいました。
本殿 脇より。
いつもの奥ノ院です。
若葉がたくさん^^
奥ノ院
奥ノ院 こちらもiphone7差し込んで撮らせて頂きました。
今回もたっぷりパワーを頂いてきました。
タチツボスミレがたくさん咲いていましたよ。
キケマンと奥ノ院の鳥居 ムラサキケマンも咲いていました。
モミジイチゴ こちらも沢山咲いていました。
マムシグサ こんな風に出てくくるんですねー。
オープン3年目の自家製うどん店。美味しかったですよ。
2018.3月末、練馬区にある北町浅間神社に詣でました。
東武練馬駅の南側を通るきたまち商店街(旧川越街道)沿いにありました。浅間神社のお隣はラーメン屋さん「富士亭」^^
正面の鳥居
左は富士塚 右は浅間神社
浅間神社拝殿
浅間神社の右奥には「白狐稲荷神社」
富士塚入り口
立派は富士塚です。
富士塚山頂
富士塚山頂より
北町浅間神社は、明治前後の創建。江戸~明治の頃は賑わっていたのでしょうね。今でも神社入り口前には、きたまち商店街
があります。
板橋区徳丸鎮座・徳丸北野神社
板橋区四葉鎮座・四葉稲荷神社
練馬区北町鎮座・大松氷川神社
練馬区北町鎮座・北町浅間神社 は、徳丸北野神社の兼務社となるようです。
由緒 本社の創建は明らかでない。当社の「神社明細帳」によると、「明治時代より此地に築かれたと由来伝へられ、将軍(5代綱吉)
当時、町をあげての祭礼もありたりという。富士浅間神社の霊山、こと更に敬神厚し。宿場の街として賑わいたりしも、氏子数は
参拾数軒余で、南部四、五十軒あり。明治前に第一回の築造、明治初年に第二回の築造、街内の発展に伴ひ、昭和三年十月第三回の
築造に、立派なものに成功せり」とある。川越街道の宿場町として賑わった土地柄、江戸時代から祭礼は行われていたであろうし、
さらに富士大山道の道筋であることからも、当社が庶民信仰の中心になったと考えられる。 当社、下練馬の富士塚は、練馬区の
有形文化財に指定されている大変立派な塚で、7月1日の御山開き・2月3日の節分祭は盛大に執り行われる。
https://tokumarutenjin-kitanojinja.jimdo.com/ より。
平日の人の少な目な時間帯でしたが、下町っぽい何となく賑やかな空気・空間を感じる神社でした。富士塚もこじんまりしていました
が、石碑も多く整備され高さもそこそこありましたよ。
2018.3 埼玉北東部の神社を訪れました。「調神社」「久伊豆神社」参拝後、鷲宮神社へ向かいました。
武蔵国鷲宮神社 社号標 大正時代まで一の鳥居が建っていたそうです。
二の鳥居(現在は一の鳥居)
参道南側には大きな駐車場があります。
調神社でウサギ、久伊豆神社でカメ、ここではネコちゃん^^ お酉さまでもあるからニワトリさんも居ましたよ。
・社伝によれば、出雲族の草創に係わる関東最古の大社とされ、かつては「鷲宮大明神」、「浮島大明神」、「大酉元祖」
とも称された。
・神代の昔、天穂日命と御子神の武夷鳥命が東国を経営するために武蔵国に到着し、お供の昌彦・昌武の父子と出雲族27人
の部族、そして地元の部族と共に当地の鎮守として大己貴命を祀ったのに始まると伝える。これが、現在の別宮である
神崎神社であった。
・その後、日本武尊の東国平定の際に戦勝祈願を行い、別宮を建てて天穂日命と武夷鳥命を祀ったという。この別宮が
現在の本殿である鷲宮神社とされる。ただし、これらのことは『延喜式神名帳』や『国史』に記載がない。
・歴史別名を土師の宮(はにしのみや)とも言われ、一説には崇神天皇の時代に河内国から東国へ移住した土師氏が
下総国浅草から利根川を上って当地に移住した際に先祖を祀ったのが起源ではないかと言われている。そして、
「はにしのみや」がいつしか訛って、現在の「わしのみや」になったとされる。
・鷲宮神社は「関東最古の大社」を名乗っているものの、歴史資料に現れるのは『吾妻鏡』の建長3年(1251年)の
記載が最初であり、この主張は根拠を欠いている。ただし、発掘調査によって縄文時代の遺跡が見つかっており、
古くから住民がいたことはわかっている。by wikipedia
関東における大鳥信仰の総本社格とされる事もあり「お酉様の本社」とも云われる。
近年はアニメ『らき☆すた』の舞台としても有名で、アニメでの聖地巡礼の先駆け的な神社としても知られる。
参道 桜並木・・・開花していましたが満開時はもっと綺麗だったでしょうね。
金灯籠
文政12年(1829)に氏子などによって建立された青銅製。
基礎(きそ)の上段から下段にかけては、寄附者の村名と氏名、金額が刻まれていますが、現在の久喜市とその周辺市町域の
ほか、小川町や飯能市など、74か村377名の氏子と世話人40名が確認でき、鷲宮神社への信仰が広範な地域にわたっていた
ことがわかります。
基礎の下段には、雌雄の鶏が交互に並び、愛らしく美しいその姿から、当時の江戸の職人の技の高さが推し量れます。この鶏
の装飾ですが、鷲宮神社が「お酉様(とりさま)の本社」と伝えられることにちなんだものとの説もあります。(久喜市hpより)
近くには「鷲宮掘内遺跡」の石碑も建てられていて、縄文時代から人々の定住があった古い地であったようですよ。
光天之池と呼ばれる神池。
神池の向かいには「久伊豆神社」
参道途中の神輿庫、八坂神社、八坂神輿殿。
関東のお酉様の本社であることから境内に鳥小屋もありました。
拝殿
拝殿
●主祭神三柱
・鷲宮神社本殿:天穂日命(アメノホヒノミコト)武夷鳥命(タケヒナトリノミコト)
・神崎神社本殿大己貴命(オホナムヂノミコト)
●合祀祭神九柱
・建御名方神(タケミナカタノカミ)
・伊邪那美神(イザナミノカミ)
・大山祇神(オホヤマヅミノカミ)
・宇迦之御魂神(ウガノミタマノカミ)
・大山咋神(オホヤマグヒノカミ)
・天照皇大神(アマテラスオホミカミ)
・迦具土神(カグヅチノカミ)
・素戔嗚尊(スサノオノミコト)
・菅原道真(スガワラノミチザネ)
本殿
本殿
本殿はこのように二つあります。
拝殿の真裏にあるのが「鷲宮神社本殿」で、西側にあるのが「神崎神社本殿」。
社務所と神楽殿
・鷲宮神社で奉演される「鷲宮催馬楽神楽」(正式名称:土師一流催馬楽神楽)は、関東神楽の源流とされている。
・この神楽の始行年代は明らかではないが、鎌倉時代の史書である『吾妻鑑』に、建長3年(1251年)4月に鷲宮神社で
神楽が行われたことが書かれている。しかし、これが現在の鷲宮催馬楽神楽と同一のものかは明らかにされていない。
・この神楽は、一社相伝の社伝神楽で、神楽を奉仕する家柄は代々世襲し、神社より知行として田畑三反歩が与えられていた。
しかし、昭和に入ってから、神楽を行う神楽師が減少し始め、神楽は消える危機に瀕してしまったが、1955年
(神楽の笛の音がNHKラジオの全国放送で流れたのを機に、「鷲宮神社神楽復興会」が組織され、神楽が伝承され、
消滅の危機を何とか乗り越えた。by wikipedia
「八幡神社」
「鹿島神社」
境内にはたくさんの境内社がありました。ところで拝殿は一つですが、鷲宮神社本殿・神崎神社本殿と二つの本殿が
あります。訪れた時には知らなかったので、どうして本殿が二つあるのだろう?どうしてそれぞれの本殿に拝殿が無いの
だろう?神崎神社へはどう参拝すればよいのだろう?
拝殿側からだと拝殿真裏に鷲宮神社本殿があるため対照的でなく、何となく違和感を感じたのでした。
「当初 祭祀時には両宮を奉っていたらしいが 時代の変遷と政治的な流れで 鷲宮神社本殿と拝殿を繋げて 神崎神社を
別宮とした」との記述のブログも見つけましたが、よく分かりませんでした。
2018.3 埼玉北東部の神社を訪れました。「調神社」参拝後、久伊豆神社へ向かいました。
ナビ通りに行ったら、神社の裏側の駐車場へ。あちこちの神社へ参るとき、なんだかいつも裏側に行っちゃうんですよねー。
駐車場から神社表参道へ向かう途中、枝垂れ桜が綺麗でしたよ。
二の鳥居
一の鳥居は、元荒川に面していて扁額には「正一位久伊豆大明神」と記されてたようです。ちょっと時間が無くて
一の鳥居から入れずに残念。。。。。。
参道にあった「雷神講」の石碑 どのような講だったのでしょうか?調べてみましたが分かりませんでした。
境内入り口 塀と大きな松の木が印象的です。
三の鳥居と拝殿
埼玉県加須市に鎮座する玉敷神社がかつて「久伊豆明神」と称しており、総本社とされている。祭神は大己貴命。埼玉県の
元荒川流域を中心に分布し、平安時代末期の武士団である武蔵七党の野与党・私市党の勢力範囲とほぼ一致している。なお、
西側の荒川流域には氷川神社、東側の中川流域には鷲宮神社、利根川・江戸川流域には香取神社が多数分布している。by wikipedia
三ノ宮卯之助(1807~1854)の力石がありましたよ。(以前に桶川稲荷神社で610kgの大きな力石を見ています。)
旧岩槻藩三野宮村(現越谷市)出身で、江戸へ出て勧進相撲をつとめ、江戸一番の力持ち
と評判の力士でした。三ノ宮卯之助の名がのこる力石は、埼玉県内の他、千葉やかながわ、遠くは長野や兵庫でも確認。
三の鳥居をくぐると左側は池と立派な藤棚。右側に立派な屋根の手水舎。参拝者も多かったです。藤の咲くころは相当に
綺麗そうです。
拝殿
当神社例祭に際して行われる神輿の渡御還御は、昔から雨がつきものだといわれてきました。そこで、せめて出発と到着の
ときだけでも屋根の下で、との考えから昭和39年(1964)に建造されたのがこの拝殿です。神社hpより。
・久伊豆神社(ひさいずじんじゃ)は、埼玉県越谷市越ヶ谷にある神社である。越谷の総鎮守とされている。旧社格は郷社。
・宮内庁越谷鴨場と共に市の「環境保全地域」に指定されている。当社のほか、越谷市内に7社の「久伊豆神社」が鎮座している。
・創建は鎌倉時代とされている。神紋は立葵である。これは、近くに徳川将軍家が鷹狩などを行う越ヶ谷御殿があったことから、
葵紋の使用が特別に許可されたものとされている。
・境内には、国学者・平田篤胤の仮寓跡とされる松声庵がある。
・境内の藤は県指定の天然記念物となっている。
・久伊豆神社は、埼玉県の元荒川流域を中心に分布する神社である。祭神は大己貴命(大国主)である。by wikipedia
御霊水(ごれいすい)
手水舎の先、右手にあります。もとは境内の湧水でしたが、関東大震災の後地下の水位が下がり、自噴しなくなったため、
現在は地下約250~300メートルの深層から汲み上げています。神社hpより。
拝殿脇から本殿へ
本殿
立派な拝殿・本殿です。
拝殿の奥にある建物。大国主命・言代主命など五柱の神々を祀りしています。寛政元年(1789)に建造された三間社流造りの
本殿は、随所に精巧な彫刻が施された荘厳な佇まいの建物です。神社hpより。
本殿裏より
絵馬掛(えまかけ)
古来より、お願い事や感謝のしるしとして、神社に馬を奉納する風習がありました。これが転じて絵に描いた馬に代わった
ものが絵馬でございます。のちには馬以外の絵も描くようになり、当社においては平田篤胤大人奉納の大絵馬がございます。
本殿の裏手には、その複製と皆さまの絵馬掛けがございます。神社hpより。
境内の池
調神社のウサギの次にカメさん。たくさん居ましたよ。
本殿の裏手には第二次世界大戦中、パラオ共和国コロール島に建立され日本人入植者などの信仰を集めた「南洋神社」をしのぶ
「旧官幣大社南洋神社鎮座跡地遥拝殿」が建立されている。 久伊豆神社の本宗である伊勢神宮の南洋における分社であったことと、
土屋義彦埼玉県知事(1992年 - 2003年在任)が遺骨収集団団長としてパラオを訪問していて交流が深かったことから建立が
決まった。2004年4月11日の竣工奉祝祭にはパラオのトミー・レメンゲサウ大統領も出席した。 また、久伊豆神社先代宮司の
小林茂は、サイパン島の八幡神社を彩帆八幡神社として再建した。1980年(昭和55年)9月には現地で再建鎮座奉祝祭が行われた。
神社hpより。
池を見下ろす「御合神社」あまり聞いたことのない神社だったので調べてみましたが良く分かりませんでした。
祖霊社
木遣り歌碑(きやりかひ)
木遣りは、労働歌の一つ。御神木などの建築用木材を運ぶ際に唄われました。越谷の木遣りは文献などによると江戸開府以後
当地に伝えられたとされ、上棟祝儀等に歌われていましたが、主に久伊豆神社祭礼の練歌、山車の曳歌として伝えられてきました。
この記念碑は、木遣りを継承、保存する「越谷市木遣保存会」により建てられたものです。神社hpより。
いや~、ここも良い空気・空間の神社でした。
2018.3 埼玉北東部の神社を訪れました。まずは「調神社」へ。「調」と書いて「つき」。読めませんよねー。
神社の駐車場に車を停めて境内周りへ。こんな大きな欅がありました。
「日蓮上人駒つなぎの欅」
日蓮が佐渡へ流される途中、難産の婦人のためこのケヤキに馬を繋ぎ、祈ったところ男子を無事出産したので、
安産の守護神として今に信仰されている。
ん?ちょっと境内入り口にしては鳥居が小さいかな?と更に境内沿いを北に向かうと・・・
ありました。ありました。ここが境内入り口ですね。しかし鳥居が無い・・・。
鳥居がない。>>「境内へ伊勢神宮への貢物を運び入れる時に邪魔になり鳥居を建てないことにした。」との事ですよ。
う~む・・・なかなか合理的ではあるけれど。。。。
「狛ウサギ」
延喜式内社です。
「狛うさぎ」
別称は「調宮(つきのみや)」。社名の「ツキ」により月待信仰が古くからあり、狛犬ではなく「狛ウサギ」がある神社
として知られていますよ。
宮司像
手水舎 ん?普通は龍の口から水が出ている事が多いですよね。亀の口から水が出ている神社もありましたが・・・。
お~、やはりウサギさんでしたよ^^ 丸っこくて可愛いですね^^
狛ウサギ 古いウサギさんのようですね。
境内社の調宮天神社と金毘羅神社
境内・周辺には巨木が多いです。大きな桜の木も咲き始めていました。
神楽殿
拝殿
<御祭神>
天照大御神(あまてらすおおみかみ)
豊宇気毘賣神(とようけひめのかみ)
素盞嗚尊(すさのおのみこと)
<御由緒>
・「調宮縁起」によると、今からおよそ2,000年前の第10代崇神天皇の勅命により創建。伊勢神宮へ納める
貢(調)物(みつぎもの)の初穂を納めた倉庫群の中に造営されたため、貢物搬出入の妨げになる鳥居が
ないと伝えられています。
・確かな文献では、平安時代中期の延喜5年(905)に醍醐天皇が編纂を命じた法典である「延喜式神名帳」に、
武藏國四十四座のうちの一社と記載されています。
・また、調(つき)の名が、月と同じ読みであるところから、月の動物と云われた兎が神の使いとされ、
中世の月待信仰(月のもつ神秘に畏敬をなし、月の出を待って祈る信仰)の広がりと結びつき、江戸時代
には月読社とも呼ばれていたようです。今も兎の石像や社殿に飾られた兎の彫物、兎の絵馬など所々に兎が
配されています。
<社殿の沿革>
・南北朝時代の延元2年(1337)に、足利尊氏が一色範行に命じて荒廃した社殿を復興したと伝えられています。
その後戦国時代末期の天正18年(1590)小田原兵乱で、再び焼失しましたが、徳川家康の関東入部後から
江戸時代初期にかけて次第に再建されたようです。現在の社殿は、安政6年(1859)竣工で、総欅の権現造りです。
一代前の本殿も、境内末社の稲荷社本殿として現存しており、こちらも総欅で一間社流造りという建築様式です。
<社頭風致>
・神域は約1万2千平方メートル、鬱蒼と生い茂った樹齢数百年のイチョウやケヤキ、ムクなどが見事な鎮守の杜を
形成しており、江戸末期の建築にかかる権現造の社殿が、悠久の時を超えて静かに建っています。
http://www.stib.jp/info/data/tsuki.html より
旧調神社(稲荷社)
一代前の本殿
境内末社の稲荷社本殿として現存しており、こちらも総欅で一間社流造りという建築様式です。美しいです!
境内の池
県内屈指の古社である調神社(つきじんじゃ)は、地元では親しみを込めて「つきのみやさん」と呼ばれていますが、そんな
調神社には七不思議の伝説があり、古くから人々に語られています。
1. 鳥居がない。(境内へ伊勢神宮への貢物を運び入れる時に邪魔になり鳥居を建てないことにした。)
2. 松の木がない。(一説に弟神須佐之男命(すさのおのみこと)が大宮へ出かけ、なかなか戻って来ないので姉神の月読命
(つくよみのみこと)が「もうまつのはいやじゃ」といったのがその理由とのこと。)
3. 御手洗の池の魚は片目になる。
4. 狛犬のかわりにウサギ像が置かれている。(「つき」を「月」と考え、ウサギを神の使姫とする習慣からである。)
5. 日蓮上人駒つなぎのケヤキ。(日蓮が佐渡へ流される途中、難産の婦人のためこのケヤキに馬を繋ぎ、祈ったところ男子を
無事出産したので、安産の守護神として今に信仰されている。)
6. ハエがいない。(調神社の祭神が嫌うためとのこと。)
7. 蚊がいない。(ハエと同じ理由。)
「つき神社」だけに、昔から「ツキを呼ぶ神社」として、大変ご利益があると言われています。境内のあちこちに置かれている
かわいいうさぎさんを探してみてください。http://www.stib.jp/mame/mame_10tsuki.html より。
というわけで、なかなか盛りだくさんの神社でした。お隣の調公園でも桜が咲き始めていて、神社・公園に多くの方が
来られていました。神社の駐車場では参拝客かどうかチェックされましたよ。
いや~こんな神社もあるのですねー。ホントに神社は多彩です。飽きませんね~。境内の空気・空間は、悠久の時の流れを
感じさせ、とても自然体でした。土地に溶け込んでいる良い空間でしたよ。あちこちにウサギさんがあるのもほっこりしました。
2018.3 またまた埼玉の神社を訪れました。出雲乃伊波比神社、小被神社へ詣でた後、四津山神社へ向かいました。
参道入り口
一の鳥居
神社は山の上にありそうです。
「四津山神社再建記念碑」から抜粋
・秀峰四ツ山山頂に鎮座する四津山神社は、火遇突智命を始め十七神を祭神とし、御神体は勝軍地蔵なり。古来より火防の神
としてその信仰厚く信者は関八州に及ぶ。
・四ツ山はかつて鎌倉街道上道を押さうる軍事上の要所にして、戦国の世には城築かれ、長享二年(1488)の高見原合戦を始め
数度にわたり戦場となる。
・天正十八年(1590)豊臣秀吉関東平定の際近隣諸城とともに、城としての役割を終え徳川家康の関東入国によりて泰平の世となる。
・宝暦九年(1759)山麓の古刹真言宗高見山明王寺第七世住職権大僧都法印祐慶師の代に古来より境内に祀られし寺の氏神
愛宕神社を三月二十四日山頂に遷座す。以来重誉師を始め時の住職は御神体を奉じて登頂し神事を執行せられたといえり。
・明治の世となりて、三十九年(1906)神社寺院仏堂合併跡地譲与に関する勅令により、翌四十年四月三十日山麓高見の村社邊取神社
及び能増の村社八幡神社を始め小社十一社を合祀し、山容地名に因み四津山神社と改称す。
灯籠を抜け・・・
階段を上ると・・・
不動明王と大黒天
不動明王は享和三癸亥年(1803)三月二十四日の造立。
さらに階段を上ります。
登り切ると拝殿が見えてきました。
良い眺めです!
東武東上本線小川町駅の約3.5km北方、比企丘陵最北部の丘陵部・四津山(標高197m、比高100m)に築かれた山城である。
山頂部全体を城郭化しており、南北約174m・東西54mに広がる。北から三ノ郭・ニノ郭・本丸が並ぶ。本丸は山稜最高部であり、
現在は四津山神社が建っている。北側が搦手口、南側が大手口とみられる。by wikipedia
カンヒザクラでしょうか。綺麗です。
拝殿
・四ツ山城跡は、周囲から一際高くそそり立つ山頂に立地し、北は荒川流域一帯、南は市野川流域を一望できる要害の地に
築かれています。
・市野川筋にはいわゆる鎌倉街道上道が走り、戦国時代には鉢形城(寄居町)と松山城(吉見町)の間にあって、交通路を
押さえる重要な役割を果たしていたと考えられます。
・城跡は細長い尾根を巧みに利用し、四津山神社の建つ本廓と北に連なる三つの主要な廓によって構成され、それぞれ土塁
と堀切によって画されています。
・文明十二年(1480)の太田道灌書状写に「高見」「高見在陣衆」とあることから、このころに城が整備された可能性があり
ます。長享二年(1488)に山内・扇谷両上杉氏の対立により激戦が繰り広げられた高見山合戦は、この麓の高見・今市付近
で行われたと考えられています。
・また、江戸時代に編纂された「新編武蔵風土記稿」は、長享元年に没した増田四郎重富の居城と伝えています。「関八州
古戦録」によると、天正十八年(1590)の豊臣秀吉による関東平定の際に鉢形城主北条氏邦の家人が籠ったものの、戦わず
して鉢形城へ逃げたといいます。 看板より
雪が残っていますね。
登ってきた階段上より。
いや~低山ですが四方眺めが良くてビックリしました。お城になるわけですね。ちょっとしたハイキングになりましたよ^^
2018.3 またまた埼玉の神社を訪れました。出雲乃伊波比神社を訪れた後、道路一本で結ばれている「延喜式内社・
小被神社」へ詣でました。延喜式内社がこんなに近くに二社もあるという事は、昔はずいぶんと繁栄していたのでしょうか。
境内入り口
小被神社 略誌
鎮座地 埼玉県大里郡6寄居町大字富田字宮田1508番地
御祭神 主神 瓊瓊杵尊
相殿 木花咲耶姫命
相殿 彦火火出見尊
由 緒
・ 富田邑は、第27代安閑天皇の朝.1470年前郡家郷富田鹿、塚越に居住せしに始り、富川鹿が郡内鎮護のため創祀せり
と、伝承。
・ 延喜式内社 第60代醍醐天皇延長5年平安時代中期に編纂された有名な書物に登載されて居ると云事。本年より数えて
1081年前。
・ 男衾郡総鎮守
・ 旧村社
御神徳
・ 瓊瓊杵尊は皇祖天照大神の御孫にて豊葦原の瑞穂国を最初に治められた神、農耕殖産興業等日常生活を営む上に欠くことの
出来ぬ御神徳を有する神様。
・ 相殿 木花咲耶姫命、主祭神の奥方、燃ゆる火のなかでお産をなされた故事にあやかりてお産の神様。また美麗なる神様。
富士浅間神社の御祭神。
・ 相殿 彦火火出見尊、彦は男子の美称、火火は稲の穂の豊かな形容詞、主神瓊瓊杵尊の御子神様で御父神様の後を継ぎ、
国土経営をなされた神様。
祭 日
・ 1月1日 新年祭 年頭にあたり幸先を祈念し,氏子社に互礼を交す。
・ 4月第二日曜日 春祭 神社本庁より幣饌料供進、祈年祭を併せ行う。五穀豊穣諸産業隆盛氏子豊楽入学児童の安全を
祈願する。
・ 10月第二日曜日 秋祭 以前の新嘗祭を併せ行う。本年中の生業の安泰を感謝する祭典。
・ 12月31日 大祓 年間思はずも積ったてあらふつみ汚を祓い消め清潔な心身にて新年を迎える神事。
平成18年10月吉日 小被神社社務所 案内板より引用
拝殿
社号額には何もなく・・・老朽化して無くなったのでしょうか?・・・・・この答えは最後に分かります。
富士浅間大社の陽
境内 手水舎と左側にずらりと境内社
http://www.buccyake-kojiki.com/archives/1062132614.html 様によると、
・『延喜式』巻9・10神名帳 東海道神 武蔵国 男衾郡「小被神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では村社。
・社伝によると、第27代安閑天皇の時代、当地の豪族であった富田鹿が郡の地主神である小被神を祀り、一社を建立したのが
当社の始まり。
・現在までに、主神は瓊々杵尊。その妻である木花開耶姫命と、子である彦火火出見尊を相殿に祀る。
・富田鹿については不詳だが、当社祭祀に関与した氏族として、男衾郡に置かれた壬生部の管掌者として入植した渡来系氏族で
ある壬生吉志氏がいる。
・『類聚三代格』『続日本後紀』などによれば、男衾郡大領(郡の長官)の壬生吉志福正は、承和8年(841年)、自らの子供の
生涯の調庸を全納。 承和12年(845年)には焼失した武蔵国分寺七層塔を独力で再建した。男衾郡総鎮守である当社に対しても、
壬生吉志氏が関与していた可能性があるという。壬生吉志氏に関しては、稲乃比売神社や、滑川町伊古の伊古乃速御玉比売神社
との関連も指摘される。
・鎌倉時代になると、当社は武蔵七党の猪俣党に属する男衾氏の崇敬を受けた。 『武蔵七党系図』によると、猪俣時範の子、
重任が当郡富田に移任し、男衾五郎と称した。また、その子の太郎もやはり富田に居住して无動寺氏と名乗った。
・両氏の館跡については、男衾氏が字堀の内、无動寺氏が字前塚越の現在の不動寺境内であると伝える。 この不動寺境内の
「大明神御下屋敷」と呼ばれる地が、当社の旧鎮座地だったという。 移転については、天正年間(1573年-1592年)の荒川の
洪水により右岸にあった赤浜村が対岸に移住したことにより、富田村との境界争いになった。 この赤浜村の洪水については、
町内赤浜の出雲乃伊波比神社に関連伝承が残る。富田村民は江戸時代初期、当社を村境に移転し、境界争いを解決した。
・『新編武蔵風土記稿』によれば、当社の別当は京都智積院の末寺である大聖山真言院不動寺。
・明治になると、神仏分離により不動寺は当社から分離、明治2年(1869年)、不動寺住僧弟子恵隆が還俗し、大富主殿と改名して
当社の神職となった。 明治40年(1907年)、堂ノ入と叺ヶ谷戸の山神社二社、大久保の愛宕社・原の内宮社・塚越の稲荷社・
鳥羽の白山社・鷲丸の浅間社を合祀。 境内には今も、中郷愛宕神社、谷津白山神社、塚越稲荷神社、下郷内の宮社、牛頭天王宮など
の社や、石祠、富士浅間大神などがある。
・現在、当社内陣には狼の頭骨が納められているが、これは合祀した山神社の信仰にかかわった奉納品であろうとされる。
・当地の文化財として、明治維新に活躍した山岡鉄舟揮毫の社号額と軸が社務所にある。いずれも肉太で豪胆な筆勢をもって書かれた
もの。 このうち、社号額は、当時、鉄舟に誤って「男衾」と依頼してしまったとの逸話を持つもので、このためにいまだに拝殿に
掛けられず、社務所内に掛けてあるという。
なんと社号額が無かったのは、このような理由だったとは・・・・それにしてもずいぶんと月日が流れているのですから、
何とかならないんですかねえ。
男衾(おぶすま)郡は、現在の熊谷市・深谷市・寄居町・小川町辺りのようですが、古墳群が多い北武蔵でも特に多く、延喜式
神名帳に3社(小被、出雲乃伊波比、稲乃賣神社)記されているなど、人口も多かったようですよ。
2018.3 またまた埼玉の神社を訪れました。まずは、出雲乃伊波比神社(埼玉県寄居町)。
埼玉県で出雲いわい系の神社は、今までに
・出雲伊波比神社(毛呂山町)・・・延喜式神名帳では入間郡鎮座5社の筆頭
・毛呂神社(鳩山町)・・・ 入間郡毛呂の臥龍山に鎮座する出雲伊波比神社の祭神大己貴命と天之穂日命を勧請
・出雲祝神社(入間市)・・・平安時代編纂の『延喜式』神名帳記載の入間郡「出雲伊波比神社」に比定。
を詣でています。
立派な鳥居です。
境内側から 右側は境内社
これを読むと、延喜式内社・出雲乃伊波比神社と呼ばれるようになったのは明治維新後のようですね。
それまでの直近の400年は「白幡八幡社」、今でも八幡様と呼ばれているようです。
拝殿
本殿
出雲乃伊波比神社は埼玉県に熊谷とここ寄居町の二社があるそうです。寄居町のこの社は「延喜式内社・小被神社」に非常に
近く200mくらい、道路一本で結ばれています。延喜式内社がこんなに近くに二社もあるという事は、昔はずいぶんと繁栄していた
のでしょうか。
御祭神:須佐之男命で、三穗津姫命、誉田別命、天児屋根命、天太玉命、天穗日命が配祀され、天照皇大神、軻遇突智命が合祀。
拝殿脇から 左奥は「妙見社」
赤浜地区の妙見社は、天正年間(西暦一五七三年~一五九一年)以前の遠い昔より妙見講を組織して、厚く信心して、今日なお
「妙見様」の通称で親しまれていました。近年まで十二月三日の例祭日には、講中の家を順番に祭礼の準備やお祝の宿として
集まり、幟が立ち先達様の祈願が終ると団子を配り、にぎやかな社頭となりました。 諸般の事情により昭和五十年(一九七五年)
三月三日を以って一時中止することになりました。長い年月で社殿の傷みも進み、倒壊寸前となり平成三年(一九九一年)
二月十六日講中一同相談の結果、改築することに決定しました。四月三日仮殿遷座祭を斎行し社殿を解体したところ束木に
「嘉永六年(一八五三年)癸丒孟春(みすのと丑年旧暦正月)奉造立講中為安全也」裏面には「大工 浅次良 又八」の二名が記録
されていました。壁面の横板には「妙見宮殿修繕寄付連名及紀元二千五百五十五年 明治二十八年(一八九五年)と記されていました。
平成三年四月十二日 上棟 六月二日 本殿遷座祭を斎行しました。
中世以降は秩父大宮妙見宮・秩父妙見宮として北辰(北極星)・北斗(七星)の妙見信仰で栄えた。明治の神仏分離により仏教の
「妙見菩薩」をお祀りできなくなったため、同一とみなされる神道の「天之御中主神」をお祀りしている。
一般には仏教でいう北辰妙見菩薩(ホクシンミョウケンボサツ)に対する信仰をいうが、その原姿は、道教における星辰信仰、特に
北極星・北斗七星に対する信仰である。
道教では、北天にあって動かない北極星(北辰ともいう)を宇宙の全てを支配する最高神・天帝(太一神ともいう)として崇め、その
傍らで天帝の乗り物ともされる北斗七星は、天帝からの委託を受けて人々の行状を監視し、その生死禍福を支配するとされた。
この北辰・北斗を神格化したのが『鎮宅霊符神』(チンタクレイフシン)で、それが仏教に入って『北辰妙見菩薩』と変じ、神道では
『天御中主神』(アメノミナカヌシ)と習合したという。
この北辰・北斗信仰がわが国に入ったのは推古天皇のころというが、その真偽は不明。奈良時代に知られていたのは確かである。
2018.3 川越郊外の神社を訪れました。
神社入り口
写真を撮っていたら、こんな不思議な写真が・・・・・。
な~んて、ちょうどiphoneで撮っていた時に着信があったので携帯電波障害と思われます^^
右側・・・かなりの巨木の御神木です。幹の下方に穴があるのですが、「まぶたを閉じてこの幹の周りを回ると
(何周するかは不明)この穴から白蛇が出てくるといわれている」との事。
https://blogs.yahoo.co.jp/maki57562000/22306021.html 様より。
一の鳥居 拝殿正面
拝殿
境内社 愛宕社
当社は石川県石川郡鶴来町鎮座の白山比咩 神社の分祀であると伝えられる。創立年月は 不詳であるが、明暦三年当社の
別当、増形山 本明寺祐純法印が、旧字、葛茂川より現在地 に移転するという。明治五年村社に列し、明 治四十一年増形
字一本榎八坂神社、同、字泥 辺厳島神社の二社を合祀する。明治四十二年 神撰幣帛料供進神社に指定される。
昭和二十 八年六月五日、宗教法人となる。 旧拝殿は天保四年の改築で、大正七年草葺 屋根を瓦葺とする。老朽化が進み、
拝殿の改 築が、昭和六十二年一月十八日、氏子の総意 により決起される。改築委員会が結成され、 氏子のみならず崇敬
者各位からも、多額のご 芳志が寄せられる。改築委員を中心に総力を あげて、この大事業に取り組み、三年有余の 歳月を
費して、ついに完成される。 はからずも、御大典奉祀の時、氏子崇敬者 各位の功績を永く久しく伝えるものである。
平成二年五月二十日 白山神社宮司 関山教純 拝殿改築記念碑より。
白 山 神 社
御祭神 主祭神:菊理姫命 伊弉諾命 伊弉冉命
周りの景色に溶け込んだまさに氏神様という感じの空気・空間でしたよ。
2018.3
川越郊外の神社を訪れました。
良い天気です^^
一の鳥居
二の鳥居
拝殿
本殿の彫刻
力石を持ち上げていますね^^
祭神:猿田彦命・清寧天皇
境内社:稲荷社、八坂社、薬師、庚申
たくさんの力石
境内全景 拝殿前には土俵がありました。昭和30年頃まで白髭神社の神事で相撲の巡業があり、ここで相撲が行われて
いたそうですよ。
春ですねー。ホトケノザがたくさん咲き始めていました。
白髭神社に関しては、以前投稿しています↓
奈良時代の創建と伝えられ、武蔵国を開拓するためにこの地に居住し高麗郡をつくった高句麗人たちが築いた神社とされて
いる。高句麗人は高麗郡に26の神社を創建し、それぞれを村の鎮守として崇敬したという(高麗郡における高句麗人の創建
した神社として日高市の高麗神社が有名)。江戸時代頃までは和田、高倉、大六道(上新田)、小六道(中新田)、
太田ヶ谷、針うり、脚折の7村(現在全て鶴ヶ島市)の総鎮守として崇拝され、明治時代以降は村社として存在していた。
by wikipedia
・白鬚神社(しらひげじんじゃ)は、の総本社は、滋賀県高島市鵜川にある。
・高島の白鬚神社は、沖島を背景として琵琶湖畔に鳥居を浮かべることから、「近江の厳島」とも称される。
・祭神は猿田彦命 (さるたひこのみこと、猿田彦大神)
・国史に「比良神」と見える神名が当社を指すとされており、元々の祭神は比良山の神であるともいわれる。人格神が
猿田彦命とされた由来は不詳であるが、猿田彦命は水尾神社(高島市拝戸)の縁起『三尾神社本土記』にも見えること
から、両社の密接な関係が指摘される。
・社伝では、垂仁天皇(第11代)25年に倭姫命によって社殿が建てられたのが当社の創建であるという。また白鳳2年
(674年)には、天武天皇の勅旨により「比良明神」の号を賜ったとも伝える。
・後述の国史に見える神名「比良神」から、当社の元々の祭祀は比良山に対するものであったとする説がある一方で
白鬚信仰の多く分布する武蔵国北部や近江・筑前には渡来人が多いことから、それら渡来人が祖神を祀ったことに
始まるという説もある。by wikipedia
「白ひげさん伝説」
http://www.rekitan.co.jp/styled-2/styled-25/index.html
こちら様によると(抜粋)
・埼玉県の日高市を中心として、川越市、狭山市、入間市、飯能市、鶴ヶ島市には、約30社もの白髭神社が点在している。
・埼玉の白髭神社は村社が多く、人々に慕われ、愛されてきた場所である。
・高句麗の人々の痕跡は、地名や遺跡で知ることができる。甲斐の国~巨摩郡。相模~高麗山。東京~狛江市。こうして、
分散され住まわされた人々を一箇所にまとめて作ったのが、高麗郡。
・高麗郡がおかれた場所は、いわゆる空閑地。弥生時代、古墳時代の集落の跡は発見されていない。この原野を開拓し、
田や畑を作り、窯の跡、製鉄の跡等も発見されている。集まった1799人が、短期間のうちに高度な文化的生活を送る
ようになった。それを実現するための強力な指導者が高麗若光であったと考えられる。
・日本書記には、666年(唐と新羅からの挟み撃ちに合いながら、必死で戦っている時)、高句麗からの使いが日本に
やって来たと書かれている。その中の一人に玄武若光の名前がある。そして、続日本紀によると703年、
「従五位下高麗若光に王(こきし)の姓を賜う」との記載が登場する。この段階での王の姓の授与は、既に高句麗からの
渡来人を組織し、ある土地で名をなした首長になりつつあったことを意味する。この地とは、神奈川県の大磯であったと
思われる。高麗山の下にある高来神社が、その伝承を伝えている。
・高麗神社も昔は「白髭神社」と呼ばれていた。高麗神社は、高麗若光を祀るとともに、代々直系の子孫が宮司職を継いで
おられる。「白髭神社」は、いつしか、高麗若光のイメージと重なり、本物の「白鬚」をはやした若光を祀る神社へと
変遷していったのではないだろうか。この地で言われる「白髭明神」とは、高麗若光に他なりません。
・四神の考え・・若光は玄武、すなわち、北の守り神。青龍の地が上総、大磯に朱雀、甲斐に白虎であったのではないか。
・夏至の頃の星座・・北極五星のひとつこぐま座のβ星コカブ、右側の、北斗七星、そして左斜め上には現在の北極星
こぐま座のα星ポラリスの位置関係が、高麗神社と白髭神社の分布と同じである。玄武若光は、玄武(北)の空の
不動の星となり、それを囲むように白髭神社が作られた。
2018.3
川越郊外の神社を訪れました。まずは菅原神社。
参道 国道16号、川越市南大塚の交差点の歩道橋の上より。
参道入り口
一の鳥居
境内は梅が綺麗でした。
拝殿
拝殿内
一間社流造の本殿は万延元年(1860)4月の造営で、地元の大工・瀧嶋秀五郎の手によるものです。拝殿と本殿とは
反橋で結ばれるという珍しい社殿構成。う~素晴らしいです。
・社伝によれば南北朝期の創建で、慶長十一年(一六〇六)この地を開発した藤倉大膳が信仰したと伝わります。
・江戸中期は西福寺が別当をつとめていました。
・本殿は、小型の一間社流造で、屋根は木瓦葺とし、千鳥破風、軒唐破風を付けています。身舎の架構は複雑で、かつ
彫刻も多用しますが、江戸末期に川越に流行する江戸彫をふんだんに用いた本殿のように、壁一面に彫刻をはめ込む
ようなことはありません。また、本殿の前に入母屋造り、桟瓦葺の拝殿がありますが、これも本殿も同時期の造営です。
・拝殿と本殿とは反橋で結ばれており、連続する空間を形成するという珍しい社殿構成となっています。また、当社には、
建地割図一枚、「天満宮御普請着帳」「天満宮木割覚帳」の造営関係文書二点が残されています。これらの史料から、
現社殿は万延元年四月の造営で、当村の大工瀧嶋秀五郎注暉の手になるものとわかります。棟札も二枚残されており、
造営関係史料が豊富に残っていることも貴重です。(川越市教育委員会掲示より)
境内社は、稲荷社、牛頭天王社、御嶽社。
拝殿内には、拝殿から本殿への橋があって、不思議な空間をかもしだしていました。国道16号の脇ですし、お隣は麺工場で
白い煙がもくもく出ていましたが、良好にお手入れされている空間でした。
帰って調べて分かったのですが、社殿は「菅原神社東古墳」(「南大塚古墳群」の1つで直径20mほど)の上に建てられて
いるそうです。
2018.3.3 日曜日の午前中、思い立ったが吉日!午前中にショートトリップ。神楽坂方面へpaw散歩^^
赤城神社参拝後、神楽坂ある毘沙門天・善国寺、神楽坂若宮八幡神社参拝後、市ヶ谷亀岡八幡宮へ。
参道入り口
お~、なかなか雰囲気のある高低差ですねー。階段左は境内社の「茶ノ木稲荷神社」。
まずは「茶ノ木稲荷神社」へ。
梅が良い感じです。
すごい数の提灯ですね。
茶ノ木稲荷神社・拝殿
今をさる一千年余りの昔、弘法大師が初めて御鎭祭申上げたのが当社と伝えられています。この山の地主の神でありまして
古来この地を稲荷山【いなりやま】と呼んだのも、そのいわれによるものです。hpより。
お稲荷さん上方にある境内社・金刀比羅宮
江戸時代、諸国の物資が陸路水路ともども江戸を中心に集散するようになり、市谷は特に四ッ谷まで続く水路の揚げ場として
多くの船が行き来したところです。金刀比羅宮海上守護の御神威が高い金刀比羅宮を祭る船が航海の無事安全に感謝して此処
に奉祭したと思われます。hpより。
階段上の市ヶ谷亀岡八幡宮・鳥居
銅鳥居
江戸時代の文化元年(一八〇四)の建立。高さ約五メートル。柱の直径約五〇センチ。柱には四百四十二人の寄進者と、
その職業が刻まれていて、当時の職業や信仰状態がよくわかります。銅の鳥居は新宿区内で唯一のもの。hpより。
鳥居前の狛犬が何かインパクトあるぞお。。。
おお!
うわ!
何ともユニークな狛犬だなあ。あっちゃこっちゃ神社参拝していますが、あんまり狛犬には興味が無かったんですが、
この子たちは妙に気になりました。で、調べたら、「古江戸型狛犬 享保十四年(1729)造立」のとても古い狛犬の
ようですよ。
拝殿と手水舎
拝殿正面
市ヶ谷亀岡八幡宮
・当神社は太田道灌が文明11年(1479年)、江戸城築城の際に西方の守護神として鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を祀ったのが
始まりである。
・「鶴岡」に対して亀岡八幡宮と称した。
・市谷亀岡八幡宮は三代将軍・徳川家光や桂昌院などの信仰を得て、神社が再興された。
・江戸時代には市谷八幡宮と称した。境内には茶屋や芝居小屋なども並び人々が行き交い、例祭は江戸市中でも華やかな
ものとして知られ、大いに賑わったという。
・明治に入り、神仏分離令により別当寺であった東円寺が廃寺となり(1872年)、芝居小屋などは撤退し樹木が植えられ
かつての賑わいはなくなっていった。その後、1945年に第二次世界大戦による戦火により神木なども含め焼失。
・1962年に現在の社殿が再建される。現在でも地域の人々などから信仰を得ている。 by wikipedia
ここでも太田道灌が登場しますね。ツルに対してカメ(笑)。逗子にも亀岡八幡宮があります。逗子の方は、境内地が
なだらかな岡で亀の背中のようであったというところ「亀岡八幡宮」と付けられたそうです。
拝殿脇より。奥が本殿です。
引き寄せられました。惹かれました。すごくインパクトがあります。見ているとドンと胸の中に熱いものが湧いてきます。
名刀碑
「長光【ながみつ】」を模した刀剣像に、昇り神竜がまきついている神秘的な碑。明治三年建立。
メジロとウメ
良い空気・空間の神社でした。都内の神社もなかなか個性的な神社が多く面白いですね。またショートトリップしてみます。
2018.3.3 日曜日の午前中、思い立ったが吉日!午前中にショートトリップ。神楽坂方面へpaw散歩^^
赤城神社参拝後、神楽坂ある毘沙門天・善国寺へ。その後、住宅街にある「神楽坂若宮八幡神社」へ向かいました。
神社正面
コンパクトに綺麗にまとまっている神社でした。町名に「若宮」が残っています。
http://kagurazaka.yamamogura.com/ 神楽坂やこの神社に関しては、こちら様のページにとても詳しく書かれています。
昔の地図や写真もたくさんありますよ。
神楽坂若宮八幡宮
・鎌倉幕府の初代将軍、源頼朝が戦勝を祈念して建立。
・文治5(1189)年7月、奥州の藤原泰衝の征伐に行く途中、頼朝は将来ここ若宮八幡宮のあるところで下馬して祈願した
と伝えられています。
・ここは川と急坂に囲まれた丘の突端で見通しも良く、外敵から身を守るのに適していた、あるいは唯単純に鎌倉を出発
しここで一日の行程が終わったのでしょう。
・10月、奥州を平定し、頼朝は鎌倉に戻り、まもなくここに鎌倉鶴岡八幡宮を移します。その後若宮八幡宮は衰退。
・文明年間(1469~87)、室町時代の武将、太田道灌が江戸城鎮護、つまり、災いや戦乱をしずめ、国の平安をまもること
のため、若宮八幡宮を再興。
・文明年間頃までは大社で、神領などがあり美麗だといわれていました。『江戸名所図会』では巨大な若宮八幡宮がありました。
http://kagurazaka.yamamogura.com/より
赤城神社は、寛正元年(1460年)に太田道潅が神威を尊んで、牛込台(今の牛込見付附近)に遷しています。
拝殿脇より境内を見下ろす。この道路を行くと神田川方面へと下っていきます。高台なので昔は眺めが良かったでしょうね。
道路側から。拝殿、本殿の下を駐車場に利用しています。さすが都会ですねー。
大きな神社だったようですが、関東大震災にて倒壊。東京大空襲で社殿、楠と銀杏はすべて焼失。御神体は戦火の中、宮司が
持ち出し被災を逃れたそうです。現在は、境内はとても小さくなり、周りにはたくさんのマンションなどができていました。