~風に吹かれて~ by ポー(paw)

-人の中に 人の創り出した物の中に 動植物の中に 地球や宇宙の中に 魂の琴線にふれ 愛を感じながら 生き込みたい-

2018.7.13~16 台湾旅行記4(忠烈祠/十份・ランタン)

2018-07-31 06:30:25 | ・2018.7 台湾旅行記

2018.7.13~16 台湾旅行記4(忠烈祠/十份・ランタン)

2018.7.13~16 台湾・台北に会社の積立旅行で行きました。

2018.7.14 その後、「忠烈祠」で「衛兵交代式」を見学。

良い声で鳴いている鳥がいましたが撮れませんでした。

国民革命忠烈祠(こくみんかくめいちゅうれつし)
日本統治時代は台湾護国神社が当地に建立された。その跡地に1969年に創建された。大門をくぐると中央広場があり、その奥に
中国の宮殿様式の大殿があり、左右の文烈士祠、武烈士祠がある。武烈士祠には、革命・建国の為に亡くなった志士約33万人が
祀られている。by wikipedia

見学後、「十份」へ。台北から東へ。台北郊外。ちょっと田舎っぽくて良い感じ。

「お金もち!!」(笑 

お店の2階にランタンが引っかかったり、飛ばす寸前にランタンが燃えちゃったり・・・。こうなると願いは叶わないですかね^^;

最後にランタンはどうなるのかな?

ホントにスレスレ~^^;

電車が通り過ぎるとあっという間に線路に人が溢れます。

十分駅(シーフェン/じゅうふん えき、英語:Shifen Station)
台湾新北市平渓区にある台湾鉄路管理局平渓線の駅。 台湾ではランタン(天燈)に願い事を書き、空に飛ばすと願いが叶うと
されており(この風習を「天燈上げ」と呼ぶ)、十分駅はそのメッカと言える場所である。
単線の平渓線では、日中約1時間毎に上下線1本の列車がこの駅で交差(行き違い)する。 列車がいない時間帯には駅から
約300mの線路沿いに観光客の入場が許されており、写真撮影やランタン飛ばし(天燈上げ)を行うポイントになっている。
線路沿いの飲食店・民芸品店・ランタン店は合わせて140軒あり、これらは線路すれすれの場所に位置しており、列車入線時には
写真を撮る人や手を振る人で賑わう。 ランタンは150元~、日本円にして約600円~(2017.8現在レート)であり、その色に
よって願い事の種類が分かれている(複数色もある)。by wikipedia

平渓線
渓流に沿って走るローカル線で、週末には十分瀑布などを訪れるハイカーがよく利用するが、平日には閑散とした路線である。
十分駅の北側では、線路沿いに商店があり、商店街のまん中を列車が通るように見える。
もともとは、日本統治時代の台湾において屈指の炭田といわれた菁桐坑の開発のため、台陽鉱業が敷設した専用鉄道が前身であり、
1922年(大正11年)7月に開業した。 by wikipedia

ハマユウですかね?確か三浦半島辺りが北限だったような。。。横須賀の「市の花」。

クロヒヨドリ
赤いクチバシに赤い足のカラスみたいですねー。

さ~て、いよいよ「九份」へ。

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2018.7.13~16 台湾旅行記3(故宮博物院・円山大飯店)

2018-07-30 06:15:45 | ・2018.7 台湾旅行記

2018.7.13~16 台湾旅行記3(故宮博物院・円山大飯店)

2018.7.13~16 台湾・台北に会社の積立旅行で行きました。

2018.7.14 故宮博物院へ。 

国立故宮博物院は、中華民国の国立博物館のうちの1つであり、最大のもので、697,000個以上の古代の中国の人工品および
美術品を所蔵しています。

毛公鼎(もうこうてい)

獣に似せた3本足に楕円形のカメ型という西周晩期の青銅器の特徴を良く表したこの毛公鼎は、2800年以上も前のものです。
内側には500字もの長い銘文が刻まれており、その内容は、周王が周朝復興に功労があった毛公一族を称えたものになっています。
中国古銅器中最も長文の銘をもつ鼎。陝西省岐山県で 1850年頃出土したといわれる。高さ 53.8cm,口径 47.9cm。

故宮博物院の2大シンボル「翠玉白菜」「肉形石」のうちの「翠玉白菜」。
清の第11代皇帝光緒帝の后、瑾妃の嫁入道具として紫禁城の永和宮に飾られていたもので、清廉潔白を意味する白菜の上に
子孫繁栄と多産を意味するキリギリスとイナゴが配されています。
色が分離したヒスイ輝石の形と天然の色合いを活かし、白い部分を茎、エメラルド色の部分を葉に見立てている。
高さ19cm。18~19世紀作。作者不明。

西太后の付け爪

灰陶加彩仕女俑(かいとうかさいしじょよう)
唐 高さ75.5cm俑は副葬品、仕女は宮廷に使えた女子。満月のようにふくよかな身体にゆったりとした衣を纒い、
ひきずるほど長い裾からは反り返った靴がのぞく。靴はペルシャあたりの影響か。盛唐の典型的な唐美人像である。

清代の「象牙透彫雲龍文套球」
職人親子3代が100年にわたって彫り上げた多層球。わずか直径12センチほどの球の表層には精巧な9匹の龍の彫刻が彫られ、
その中には透かし彫りの幾何学文様が施された24層の球体があり、各層自由に回転させることができます。

この多層球は以前に伊豆の象牙と石の彫刻美術館で見たことがありました。

むちゃくちゃ小さいです。

昼食は、隣接する「故宮晶華」で飲茶料理。

美人樹 花がキレイでしたよ。(トックリキワタ (Ceiba speciosa)アオイ目パンヤ科(アオイ科とも)に分類される落葉高木)

昼食後、時間が少しあるということで丸山大飯店へ。 

台湾神宮の跡地に建設されたので、まだ狛犬が残っていました。

天井 すごい龍の数です。

エントランスホールだけ見学。ここだけでも見応えがありましたよ。

円山大飯店(えんざん/まるやま-だいはんてん)
・台湾台北市に位置する中国建築が特徴のホテル。剣潭公園に隣接し、台湾神宮の跡地に建設されており、台北のランドマーク
 になっている。
・円山大飯店は日本統治時代剣潭山に建立されていた台湾神宮(1945年(昭和20年)の日本の第二次世界大戦敗戦の後すぐに、
 台湾にある全ての神社は廃止された。)の跡地を利用して建設された。建設に際しては龍の彫刻を多用し、龍宮との異称を有す。
 また龍以外にも石獅、梅花をふんだんに用い、中国建築の特徴を前面に出した装飾となっている。by wikipedia

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2018.7.13~16 台湾旅行記2(中正紀念堂・士林の夜市)

2018-07-29 07:20:41 | ・2018.7 台湾旅行記

2018.7.13~16 台湾旅行記2(中正紀念堂・士林の夜市) 

2018.7.13~16 台湾・台北に会社の積立旅行で行きました。

龍山寺から中正紀念堂へ。

中正紀念堂(ちゅうせいきねんどう)
・中華民国台北市中正区に位置する初代総統である蒋介石の顕彰施設。
・台湾の三大観光名所の1つであり、中国の伝統的な宮殿陵墓式が採用されている。
・中正紀念堂の「中正」とは蒋介石の本名である。
・午前6時30分に儀仗隊が中正紀念堂に進駐し、午前9時より警護及び毎時交代儀式が行われている。儀仗隊交代式は
 台湾観光の名物となっている。

・蒋介石・・・・・孫文の後継者として北伐を完遂し、中華民国の統一を果たして同国の最高指導者となる。
 1928年から1931年と、1943年から1975年に死去するまで国家元首の地位にあった。しかし、国共内戦で毛沢東率いる
 中国共産党に敗れて1949年より台湾に移り、その後大陸支配を回復することなく没した。by wikipedia

ホテルチェックイン、夕食後(欣葉・台湾料理)士林の夜市へ。

とにかく人が多い。食べてみたいけど水が心配。臭豆腐臭い~。果物はシロップ漬けとか?
というわけでブラブラと見学のみ。でも、被写体選びのカメラマンモードは作動しました(笑

ホテル近くの居酒屋街。金曜日の夜だったのでどこも一杯でした。

夜市後、まだ時間も早いということで、ホテル近くで一杯。地元ガイドさんにお任せ。最後に出てきたのは「カエル」でした。

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2018.7.13~16 台湾旅行記1(龍山寺)

2018-07-28 12:05:51 | ・2018.7 台湾旅行記

2018.7.13~16 台湾旅行記1(龍山寺) 

2018.7.13~16 台湾・台北に会社の積立旅行で行きました。

12:30 台湾台北・松山空港着

青い空が眩しいです。

では観光へ。

アロエもぶら下がってました。

街路樹が「ガジュマル」。垂れ下がっている気根が、特異な街並みの風景になっていますねー。

龍山寺

龍山寺(りゅうざんじ)

・正式には艋舺龍山寺(ばんかりゅうざんじ、マンカーロンシャンスー)と称するが、地元でも単に龍山寺と呼ばれることが多い。
1738年、福建省泉州から渡来した人々により、福建晋江安海龍山寺の分霊として創建された。
・台北市内で最古の寺院であり、国家古蹟であると共に、台北101、国立故宮博物院、中正紀念堂と並ぶ台北市の「四大外国人観光地」
 とされる。
・艋舺清水巌・大龍峒保安宮と並ぶ「台北の三大廟門」といわれる。
本尊は観世音菩薩であるが、現在では道教や儒教など様々な宗教と習合しており、孔子や関帝(関羽、三国志で知られる)、
 媽祖など、祀られている神は大小合わせて100以上に及ぶ。
・人々は様々な神が祀られた7つの香炉を順に廻りながら、それぞれの神に参拝する。by wikipedia

いや~暑かったです。日差しも強烈でした。でも、帰国したら日本の方が暑かった(笑
人が多いですねー。観光客も地元の方々も。

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2018.6.29~7.1 八ヶ岳7(オーレン小屋~桜平)

2018-07-26 16:14:51 | ・植物

2018.6.29~7.1 八ヶ岳7(オーレン小屋~桜平)

2018.6.29~7.1 八ヶ岳へ行ってきました。目的は植物観察&横岳登山。

6.30 オーレン小屋泊。個室。お風呂に入れましたー。気持ちいいです。ここでは1730夕食、2100消灯、0530朝食。
7.1 この日は帰るだけなので、オーレン小屋から桜平までゆっくり森林浴しながら、植物観察。
しかし・・・下界へ降りるの嫌だなあ。このまま山の中に居たかったですねー^^

朝起きたら、目が腫れぼったく、耳も何だか腫れている。何でだろう?高所だから?と思いましたが、どうやら「日焼け」
だったようです。帽子を被っていたものの瞼や耳が焼けたみたいです。こんなの初めてでしたわ。山の紫外線は強烈ですねー。
これからは日焼け止め必須ですな。

オーレン小屋は、八ヶ岳中信高原国定公園特別保護地区内にある小屋番が管理する山小屋です。
宿泊・休憩以外に避難施設としての役割を持ち、雷や大雨等の天候悪化や遭難救助の手助けを行う施設です。またオーレン
小屋は水利、環境が厳しい大自然の中になり、ほぼ全てのライフラインを自分たちで管理しています。

山小屋は山にある宿泊業と思われがちですが、実は色々な役割を担っています。オーレン小屋は、シーズン中は自家水力発電で
100%まかなっています。小屋開け小屋閉め時の水量が少ない時、台風による増水時のみディーゼル発電機を使用しています。
水洗トイレ・浄化槽に使用する電力も全て水力発電です。オーレン小屋hpより。

植物は高山植物から当然変化してきています。

ゴゼンタチバナ

ヨツバシオガマ

カラマツソウ

オガラバナ

イワセントウソウ

ズダヤクシュ

マイズルソウ

リンネソウ

ツボミばかりで諦めかけていましたが、やっと花が見れました。でもピンボケですわ。。。

リンネソウは、スイカズラ科 リンネソウ属に分類される常緑小低木。分類学の基礎を築いたカール・フォン・リンネがこの植物を
愛好しており、この種を記録した際に自らの名前を学名(属名)に付けた。和名もそれにちなんでいる。by wikipedia

びえ~ クモの赤ちゃん^^;

大山祇神社

無事の下山を感謝しましたよ。神社脇には清水の流れがあり、良い空気・空間でした。

大山祇神は、瀬戸内海の要衝に君臨する神之山を祭る、愛媛県今治市の大山祇神社が、総本社として名高いですが、
この八ヶ岳山麓で大山祇の神を祭る神社をしばしば見かけるとの事。主祭神の大山祇神は「三島大明神」とも称され、
当社から勧請したとする三島神社は四国を中心に新潟県や北海道まで分布する。

愛媛県今治市の総本社・大山祇神社は、凄そうですねー。機会があったら参拝したいですわ。

とうわけで「八ヶ岳」は終了でございます^^

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2018.6.29~7.1 八ヶ岳6(硫黄岳~爆裂火口~夏沢峠)

2018-07-25 13:20:11 | ・旅・山

2018.6.29~7.1 八ヶ岳6(硫黄岳~夏沢峠)

2018.6.29~7.1 八ヶ岳へ行ってきました。目的は植物観察&横岳登山。

横岳から硫黄岳山荘へ戻ってきました。硫黄岳山荘周りの植物保護地域を一回り。

クロユリ

ウルップソウ

ミヤマシオガマ ミヤマキンバイ

真っ平らな山が見えていました。荒船山なのかなあ??

ミツバオウレンの群落

さて、硫黄岳山荘にお別れして硫黄岳へ。

ケルンが続いています。前日は強風・視界不良の中、このケルンの御蔭で山荘までたどり着けましたよ。

で、またまた天候が悪くなってきました。本当に山は天候がくるくる変わりますね。

爆裂火口・・・・前日は全く見えなかったが・・・また見えないのかな?と思ったら・・・

爆裂火口 遂に拝めました!いや~なかなか凄い迫力ですわ。

八ヶ岳は約200万年前から1万年前までの長い期間に何度も噴火を繰り返して形成されたといわれています。
硫黄岳山頂の南北の両脇には、直径1㎞深さ550mの巨大な爆裂火口跡があり、火山の面影が色濃く残る迫力ある景色が
広がっています。

前日は、オーレン小屋~赤岩の頭~硫黄岳~硫黄岳山荘のルートでしたが、
帰路は硫黄岳山荘~硫黄岳~爆裂火口沿いに夏沢峠~オーレン小屋のルートで戻りました。

ヒュッテ夏沢が見えてきました。14時ごろでしたが植物観察20人位の2パーティが登っていきました。
この後、硫黄岳山荘まで行くのかな。けっこうキツそうな行程ですねー。でもコースタイムで行けば2時間位なのか・・・。

うわ~、なんすか? こんなにトゲがある葉っぱ。

「ハリブキ」だそうで・・・。緑白色の目立たない小さな花(写真奥)を多数つける。秋に果実が赤く熟すそうです。

手前の「山びこ荘」ここに泊まる事も考えましたが、オーレン小屋まで下りて泊まりました。
ここ「山びこ荘」には、ヤマネやモモンガが棲みついているそうですよ。つづく~

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2018.6.29~7.1 八ヶ岳5(横岳2ツクモグサ・ウルップソウ・チョウノスケソウ他)

2018-07-24 06:35:05 | ・植物

2018.6.29~7.1 八ヶ岳5(横岳2)

2018.6.29~7.1 八ヶ岳へ行ってきました。目的は植物観察&横岳登山。

今回もっとも逢いたかったツクモグサ。この辺りに咲いているとの情報で・・・・・

こんなところにも「イワカガミ」。梯子の先の崖壁に・・・・・

遂にツクモグサを発見。

ツクモグサ

日本固有の高山植物で、高山帯の岩礫地・稜線沿いの風衝草地に生える。
分布地は北海道の利尻島・ポロヌプリ山・大雪山群・芦別岳・日高山脈北部、本州の白馬岳・八ヶ岳に限られる。
絶滅危惧IB類の絶滅危惧種であり、数百個体が現存すると推定されている。by wikipedia

ちょっと遅かったですかね。近くで咲いていなかったのが残念。崖地なので近寄れません。全て望遠での撮影です。
でも咲いていて良かった。横岳までの間は、この崖壁に数個体咲いているだけでした。淡い黄色が柔らかく良い感じでしたよ。

「横岳(2829m)」 山頂

ついに「赤岳(2899m)」登場

横岳 赤岳方向の無名峰付近から

赤岳

長野県南佐久郡南牧村、諏訪郡原村、茅野市、山梨県北杜市にまたがる標高2,899 mの山。
八ヶ岳中信高原国定公園南部に位置し、八ヶ岳連峰の最高峰。

う~ん・・・・迫力ありますね~。いつか登るかなあ。今回は横岳まで。

イワヒバリ 何処でも人懐っこいです。

ウルップソウ

寒冷地や高山の斜面などの湿った砂礫地に生える。
和名の由来は千島列島の得撫島(うるっぷとう)最初に発見されたことによる。
属名のLagotisは、ギリシャ語のlogos(兎)とous(耳)からなり、葉の形状が兎の耳に似ていたことに由来する。
日本では北海道(礼文島と空知)と本州(飛騨山脈北部の白馬岳と雪倉岳)、八ヶ岳の硫黄岳と横岳の高山帯に隔離分布して
いる。氷河期に日本に南下し、その後高山などの一部地域だけに生き残ったと考えられている。
環境省によりレッドリストの準絶滅危惧 (NT) の指定を受けている。by wikipedia

形状に特色のある花ですよねー。柵内で保護されてもいましたが、あちこちで見られましたよ。
パッと見はムスカリっぽいですね^^

あちこちでお花畑が見られました。最高ですね~。

カメノコテントウ  こんな高山で・・・。面白い模様ですね。

チョウノスケソウ(長之助草)
北半球の極地および高山に生育する匍匐性の常緑小低木で、バラ科に属する。高山の岩場に群生し花も美しいので知られる。
日本では須川長之助(ロシア人植物学者マキシモヴィッチの助手)が初めて採集したことからこの名がある。
北半球のツンドラおよび高山の砂礫地に広く分布するが、特に石灰岩地によく生育する。南方ではカフカース山脈、ロッキー山脈
まで見られる。日本では南アルプス以北の高山に生育するが、生息地は限られる。北アルプス、八ヶ岳、北海道など。
by wikipedia

チングルマに似ていますが花びらがチョウノスケソウは8または16枚、チングルマは5枚。葉も全然違います。また、
チングルマは、全国の高山帯に見られますが、チョウノスケソウは、分布が極めて限られています。

さて、降りますよ。

チシマアマナ

クモマナズナ(アブラナ科)で良いのかな?

http://www.o-ren.net/flower/

イワヒゲ

雲が流れてきて・・・ちょっと怪しくなってきました。

ハクサンシャクナゲ? 生え方がキバナシャクナゲのようだけどピンクっぽいしなあ。

リュックを置いてきた硫黄岳山荘に戻り昼食(カレーライス^^)後、硫黄岳~オーレン小屋へ。つづく

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2018.6.29~7.1 八ヶ岳4(横岳1)

2018-07-23 08:33:53 | ・旅・山

2018.6.29~7.1 八ヶ岳4(横岳1)

2018.6.29~7.1 八ヶ岳へ行ってきました。目的は植物観察&横岳登山。

硫黄岳山荘から横岳へ。なんと、富士山が奇麗に見れました!
富士山が見れると思っていなかったので、いや~感動しましたわ。思わずウルウルしてしまいました。

 

さて、横岳へ。天候がいつ変わるか分からないので植物観察は後回し。

ウルップソウ

山頂付近にクサリ場が見えます。

イワベンケイ(岩弁慶) ベンケイソウ科。岩場などの厳しい環境で生育する。

ハクサンイチゲ

 

 

 

ウルップソウ つづく~

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2018.6.29~7.1 八ヶ岳3(硫黄岳山荘~横岳方面)

2018-07-22 12:43:11 | ・植物

2018.6.29~7.1 八ヶ岳3(硫黄岳山荘~横岳方面)

2018.6.29~7.1 八ヶ岳へ行ってきました。目的は植物観察&横岳登山。

6.29 硫黄岳山荘泊。17:30夕食。20:00消灯。05:30朝食。一晩、ものすごい風でした。

6.30 朝もすごい風で展望もゼロ。。。。とガックリ。。。まあ、植物観察だから・・と覚悟していたら、
出発の7時くらいから天候回復!やった!!

硫黄岳山荘周辺は高山植物が保護されています。

今回、お目当てのひとつ、「ウルップソウ」

南アルプスも見えています。

前日、まったく展望の無かった「赤岩の頭」

オヤマノエンドウ(御山の豌豆) 高山植物。マメ科らしくない雰囲気ですね。

チョウノスケソウ 今回お目当てのひとつ。 

硫黄岳と硫黄岳山荘方面

イワウメ いっぱい^^

立入禁止区域にはしっかりとロープが貼られ植物保護がされていました。

ヤツガタケキスミレ 

スミレ科キバナノコマノツメ類 八ヶ岳特産種 硫黄岳~横岳の砂礫地に稀に生える高山型のスミレ。

この辺りにしか咲かないスミレなんですねー。

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2018.6.29~7.1 八ヶ岳2(オーレン小屋~硫黄岳山荘)

2018-07-22 12:17:31 | ・植物

2018.6.29~7.1 八ヶ岳2(オーレン小屋~硫黄岳山荘)

2018.6.29~7.1 八ヶ岳へ行ってきました。目的は植物観察&横岳登山。

オーレン小屋(2,330m)着。

オーレン小屋で昼食。名物のボルシチ~^^ 美味しかったです。

タカネグンナイフウロ 山小屋の前に咲いていました。

良い感じ^^  明日宿泊します。

う~ん・・・誰でしょう?

ダケカンバの森

ウスバスミレ

だんだん勾配がきつくなってきました。

尾根が近づくとダケカンバがひん曲がってきました。

ウラジロナナカマド 紅葉も奇麗でしょうね。

イワカガミ

赤岩の頭(あかいわのあたま)
長野県茅野市にある標高2,656 mの山である。八ヶ岳連峰の硫黄岳の西に位置し、八ヶ岳中信高原国定公園に属する。
山頂付近は森林限界を超えており、赤岳・横岳・阿弥陀岳などの八ヶ岳主峰の展望が良い。by wikipedia

赤岩の頭、到着~。が・・・・雨・・・^^;  展望も全くありません。。。。ああああ残念。。。。。。

イワウメ

北海道から本州中部にかけての高山帯に分布し、岩礫地や岩壁に張り付くように生育する高山植物。
たくさん咲いていました。雨で花びらが少し透けてキレイでした。

タカネシオガマ 鮮やかな色合いで奇麗です。

イワヒゲ こちらもたくさん咲いていました。ツツジ科の高山植物。

硫黄岳(2760m)到着~。雨はさほどでもありませんが、ものすごい風でした。展望もゼロ。。。。。。

コマクサが咲いていましたよ。

視界が無い中、ケルンに沿って硫黄岳山荘へ。道案内のケルンは有難いですね。途中、暴風で立ち止まる程の風でした。

山荘前の「駒草神社」

硫黄岳山荘着~

硫黄岳山荘 個室に泊まれて温水シャワー(500円)もあります。ありがたいです。つづく~

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2018.6.22~24八ヶ岳1(桜台~オーレン小屋)

2018-07-19 21:54:05 | ・植物

2018.6.29~7.1 八ヶ岳1(桜平登山口~オーレン小屋)

2018.6.29~7.1 八ヶ岳へ行ってきました。目的は植物観察&横岳登山。
2018.6.29 08:30 桜平登山口到着。
桜平登山口(1,900m)は、八ヶ岳で一番稜線に近く、南八ヶ岳の「横岳(2,829m)」「硫黄岳(2,760m)」
「峰の松目(2,567m)」北八ヶ岳の「箕冠山(2,590m)」「根石岳(2,603m)」「天狗岳(2,646m)」の
6つの山の最短登山口です。
とりあえず「オーレン小屋(2,330m)」へ。

桜平駐車場(中)でトイレ。その後、桜平駐車場(上)へ停めることができました。登山口付近でシカに遭遇。

人馴れしていましたねー^^

ハクサンシャクナゲがあちこちで奇麗に咲いていました。 

オオルリがきれいな声で鳴いていましたよ。

お~、サルオガセ^^

マタタビ 良く見たら花も咲いています。

カツラの実

キバナノコマノツメ
スミレ科スミレ属の多年生植物。和名にスミレが付かない、数少ないスミレの種である。和名の由来は、黄色の花で葉の形状が
馬の蹄に似ていることから。
たくさん咲いていました。

オサバグサ こちらもたくさん咲いていました。ズダヤクシュよりも花が大きい感じです。

水音がたまりませんねー。

夏沢鉱泉(標高2060m)登山者カード出しました。 硫黄岳山荘は風速13m。う~む・・・けっこう風が強そうです。

キソチドリ? ラン科

ゴゼンタチバナ こちらも多かったです。

シロバナノヘビイチゴ こちらも多かったですねー。

 

オーレン小屋へ到着~。 

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2018.6.8~10「山形旅行記」7(寒河江市・慈恩寺)

2018-07-17 16:34:40 | ・神社・お寺

2018.6「山形旅行記」7(膝折温泉)

2018.6 肘折温泉でノンビリ過ごした後、山寺にでもと思ったのですがお疲れモードだったので、とりあえず
寒河江方面へ。国道458号の肘折~寒河江方面は通行止め(冬期間(例年11月初旬から6月中旬頃まで)通行止めのこの区間、
通行可能時でも、標高差約700m・行程約40km中 1/3 程度未舗装・幅員の狭い悪路。)の為、来た道を戻ったのだけれど、
帰ってから調べてみたら、458号を北上すれば良かったみたい。ちょっと遠回り(県道57号~県道331号~国道458号)
しちゃったみたい。

県道57号より

県道331号より(もしかしたら県道57号だったかも)

寒河江で有名な「チェリーランド」にちょこっと寄りました。

三日間、天気はなんとかもってくれました。未だ時間があったので寒河江の慈恩寺へ。

慈恩寺(じおんじ)
・山形県寒河江市にある仏教寺院で現在は慈恩宗の本山。
・創建年 伝神亀元年(724年) 開基 伝行基
・行基によって見いだされ、聖武天皇の勅によって創建したとされる。
・その後、鳥羽天皇の勅で再建され後白河法皇と源頼朝によって山号を与えられた。
・平安時代は荘園主である藤原摂関家から、鎌倉時代から室町時代にかけては地頭・寒河江大江氏の庇護を受け、寒河江大江氏が
 滅ぶと最上氏や江戸幕府によって寺領を認められた。
・江戸時代には東北随一の御朱印地を有し、院坊の数は3ヵ院48坊に達した。
・修験による祈願寺として御朱印地を拝領していたため檀家を持たず、明治の上知令により一山は困窮し帰農する坊が続出した。
・本尊は弥勒菩薩で脇侍として地蔵菩薩、釈迦如来、不動明王と降三世明王を配する国内でも珍しい五尊形式である。創建当初
 八幡大菩薩を鎮守として祭っていたが、時代の変化とともに法相宗、真言宗、天台宗を取り入れ、現在は天台宗真言宗兼学の
 一山寺院として慈恩宗を称する。
・境内地は周囲の中世城館群や行場などとともに2014年10月に国の史跡に指定された。by wikipedia

山門(慈恩寺正門)

元文元年(1736年)築造。3間1戸の楼門造で、入母屋造、八脚門で銅板葺(もと茅葺)。

迫力あります。

本山慈恩寺本堂(国重要文化財)

元和4年(1618年)最上氏により築造。桁行七間、梁間五間、一重、入母屋造、向拝一間、茅葺。明治41年(1908年)、
当時の古社寺保存法により特別保護建造物(現行法の「重要文化財」に相当)に指定。本尊木造弥勒菩薩、釈迦如来坐像、
地蔵菩薩坐像、不動明王立像、降三世明王立像、木造騎獅文殊菩薩、木造騎象普賢菩薩、十羅刹女像、木造二天王立像、
木造如来坐像及び両脇侍立像、木造如来立像、木造菩薩坐像、木造力士立像などを安置。by wikipedia

三重塔
当初、慶長13年(1608年)築造されるも、文政6年(1823年)焼失。文政13年(1830年)再建。本尊木造大日如来坐像。

隣接する熊野神社

慈恩寺は山形盆地葉山の山裾の、寒河江川扇状地より一段高い段丘上に位置する。院坊屋敷地と境内地は概ね東西700m
南北200mの範囲に収まる。扇状地辺縁は標高約125mで仁王坂を上ると標高約146m、参道を160m進むと標高156m。

とても歴史のあるお寺でした。歴史を蓄積した静かな空気・空間でした。

山形駅より。

ステップ台^^

いや~楽しい旅でございました。出羽三山、残る「月山神社」。いつか参拝せねば!
開山期間 7月1日〜9月15日
月山神社本宮のある山頂まで、月山8合目より徒歩3時間弱。下山も徒歩3時間弱。一日がかりの登山ですね~。おわり^^

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2018.6「山形旅行記」6(肘折温泉)

2018-07-11 18:20:48 | ・旅・山

2018.6「山形旅行記」6(膝折温泉)

2018.6 山形方面へ参拝の旅に出かけました。さ~て、出羽三山神社への参拝後、最上川を東へ・・お宿のある肘折温泉へ。 

お宿付近からの銅山川 

肘折温泉(ひじおり おんせん)・・・山形県最上郡大蔵村にある温泉。

「肘折カルデラ」と呼ばれる直径2kmのカルデラ(凹地・窪地)の東端に位置する。カルデラの中心にある黄金温泉、最奥部の
野湯である石抱温泉などとともに肘折温泉郷を形成している。
温泉街の一角にある「小松渕」は、トロイデ型(鐘状)火山の噴火口が渕になったものである。
肘折カルデラは気象庁によって活火山に指定されており、肘折温泉郷全体が「肘折火山」のマグマ溜りの上に位置している。
日本有数の豪雪地帯としても有名であり、冬季の積雪量は4 mを越えることもある。
ニュース番組の気象情報では、時々、当地の積雪量が全国ニュースで紹介される。
旅館17軒で「積雪最大記録を更新したら宿泊無料」というキャンペーン“ドカ雪割”を実施していたところ、2018年2月の豪雪で
初めて適用され、予約や問い合わせが相次いだ。

月山の麓、銅山川沿いに数多くの旅館が存在する。古くは湯治場であったことから、自炊部を持つ旅館が多い。
木造建築の古い旅館や住宅が多く、鄙びた湯治場の雰囲気を形成している。by wikipedia

旧肘折郵便局舎

昭和12年に建てられた木造の『旧肘折郵便局舎』は、温泉街のちょうど真中にあり、肘折の〈懐かしさ〉を演出する街の
小さなランドマーク^^

わずか20年足らずの間に3回も大火があったようです。

薬師神社(湯坐神社)

明徳元年(1390:室町時代)7月14日 創建で、明治10年8月 村の神となったとされています。

薬師神社の奥の稲荷神社

神社にはエンレイソウがたくさん^^

冬は景色が一変するのでしょうね。

銅山川 川面がキラキラと奇麗でした。

開湯は奈良時代の大同2年(807年)である。
豊後国出身の源翁がこの地を訪れた際、老僧より肘を折った際に治療した温泉を教えられた、という伝説が残る。
温泉名もこれに由来して肘折温泉となったとされるが、柳田國男は銅山川がここで大きく曲折していることによる地形から
命名と推測している。

江戸時代には、肘折温泉から月山を始めとする出羽三山への参道口として多くの参詣客を集めた。
肘折温泉には、天台宗寺院である「阿吽(あうん)院」が建てられた。
現在も、月山の登山口として「肘折口」があり、登山道が整備されている。
一方、葉山修験の拠点としても、真言宗寺院である「蜜蔵院」があった。
肘折温泉は出羽三山、葉山両山への参道口として多くの宿坊があった。斎藤茂吉も訪れたことがある。

明治期より湯治場土産としてこけしが作られてきた。昭和に入ると収集家によるこけし研究が盛んになり、肘折こけしも
系統の
一つとして分けられて「肘折系」とされた。肘折温泉内にはかつては多くの肘折系こけし工人がいたが、現在当地の
工人数は
一名である。 by wikipedia

日本最大級の鋼製ラーメン構造桟道橋として2013年11月30日に開通した「肘折希望(のぞみ)大橋」から観る肘折温泉。
肘折温泉の全貌が見えます。

巨大雪だるまがあったようですが小さなピラミッドみたいになってました^^  

いや~、ゆったりと過ごしましたよ。感謝感謝^^

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2018.6「山形旅行記」5(出羽三山神社2)

2018-07-10 18:03:02 | ・神社・お寺

2018.6「山形旅行記」5(出羽三山神社2)

2018.6 山形方面へ参拝の旅に出かけました。さ~て、いよいよ石段参道2446段、登りますよ~。 

羽黒山五重塔を過ぎ、「一の坂」という石段の坂道に入ります。

羽黒山の杉並木は、頂上までの1,7kの参道の両側に右側284本、左側301本の計585本、樹齢300~500年を
超える老杉があります。ミシュランガイド★★★を獲得した景勝地。

おっ、未だ子どもたちが登っている。どうも年長さんは上まで登ってバスが迎えに来ている感じかな。

だいぶ高くなってきました。「二の坂」「三の坂」へ。

階段参道・・・確かにすばらしい杉並木です。

上がるに連れて人も疎らに、少し雨交じりの靄になってきました。一歩一歩の積み重ねで・・・無の境地で・・・?

2446段という事ですが、写真の通り浅くて広い段状も多く登り易いです。

やっと石段上の鳥居に到着。年長さんの兄弟なのかな、年少の僕ちゃんも一緒に到着。すごい頑張っていたんだけど、
雨が降ってきたら我に返ったみたいでワンワン泣いてたんですけどね^^

鳥居をくぐると、雲上の中。靄の中に広がる境内は独特な空気・空間。修験の神社にピタリと寄り添うような靄でした。
まず一つ目の神社。装飾彫刻が凄いです。

かつて弁天堂と呼ばれてた厳島神社。御祭神は市杵島姫命(弁財天)。上り龍と下り龍龍が凄いです。見事な装飾彫刻です。

他の境内社の摂社・末社と違い、何故、表参道である随神門からの石段の最終地点に厳島神社が鎮座しているのか?
https://ameblo.jp/blaue-wind/entry-12322589648.html様によると、

「・・・・羽黒山の石段は龍の形をしており、石段を登った 頂上の入口という場所に厳島神社が鎮座しているのは、
羽黒山頂にある鏡池の主で、蜂子皇子と伊氐波神の対面を仲介した 九頭龍王の妃神として弁才天をお祀りしていた
からなのだそうです。 そして、向拝部分の龍の彫刻は生命を持っており、鏡池の水を飲みに 自由に動き回る姿が頻繁に
見られていたのだそうです。そのため、 参拝している人々がびっくりしてしまうということが起きたため、 『きれいな
お妃さまもお招きしたんだし、龍神様もそろそろ落ち着いて いただけませんかねぇ…(懇願)』という意味を込めて、
彫刻の四方を 金網で囲って動きまわることができないようにしているのだそうです。」

他にググっても情報が見つからなかったため真偽の程?は分かりませんが、ホントに動き出しそうな上り龍・下り龍でした。

羽黒九頭龍王の妃神を祀る厳島神社の隣には、出羽三山開祖である蜂子皇子を祀る「蜂子神社」が鎮座しています。

修験道の聖地とされる出羽三山。その開祖とされる「蜂子皇子(はちこおうじ)」。

「羽黒山縁起」などの伝承によると、蜂子皇子は崇峻天皇の第3皇子で聖徳太子のいとこ。肌の色が黒く、耳元まで口が裂ける
異形ながら、民の苦悩を除く霊力を持っていたとされ、「能除太子」とも呼ばれる。
http://tokumei10.blogspot.com/2014/04/blog-post_8158.htmlより。

蜂子皇子(はちこおうじ)
欽明天皇23年(562年)に崇峻天皇の第三皇子として誕生したと伝わる。崇峻天皇5年(592年)11月3日に、蜂子皇子の父である
崇峻天皇が蘇我馬子により暗殺されたため、馬子から逃れるべく蜂子皇子は聖徳太子によって匿われ宮中を脱出して丹後国由良
(現在の京都府宮津市由良)から海を船で北へと向った。
そして、現在の山形県鶴岡市由良にたどり着いた時、八乙女浦にある舞台岩と呼ばれる岩の上で、八人の乙女が笛の音に合わせて
神楽を舞っているのを見て、皇子はその美しさにひかれて、近くの海岸に上陸した。八乙女浦という地名は、その時の八人の乙女に
由来する。
蜂子皇子はこの後、海岸から三本足の烏(ヤタガラスか?)に導かれて、羽黒山に登り羽黒権現を感得し、出羽三山を開いたと
言われている。
羽黒では、人々の面倒をよく見て、人々の多くの苦悩を取り除いた事から、能除仙(のうじょせん)や能除大師、能除太子
(のうじょたいし)などと呼ばれる様になった。
現在に残されている肖像画では怪異な容貌に描かれたものが多いが、多くの人の悩みを聞いた結果そのような顔になったとも言われて
いる。
出羽三山神社にある皇子の墓(東北地方で唯一の皇族の墓)は、現在も宮内庁によって管理されている。by wikipedia

う~む・・・人々のカルマを引き受けて怪異な容貌になったのでしょうか・・・・


三神合祭殿(さんじんごうさいでん)
社殿は合祭殿造りと称すべき羽黒派古修験道独自のもので、高さ28m(9丈3尺)桁行24.2m(13間2尺)梁間17m(9間2尺4寸)
で主に杉材を使用し、内部は総朱塗りで、屋根の厚さ2.1m(7尺)に及ぶ萱葺きの豪壮な建物である。現在の合祭殿は文政元年
(1818)に完成したもので当時工事に動員された大工は35,138人半を始め木挽・塗師・葺師・石工・彫物師その他の職人合わせて
55,416人、手伝人足37,644人、これに要した米976余石、建設費5,275両2歩に達した。この外に多くの特志寄付を始め、
山麓郷中の手伝人足56,726人程が動員された。建設当時は赤松脂塗であったが、昭和45年~47年にかけ開山1,380年記年奉賛
事業の一環として塗替修復工事が行われ、現在に見るような朱塗りの社殿となった。平成12年、国の重要文化財に指定される。
http://www.dewasanzan.jp/publics/index/19/より。

ググると朱塗りの美しい祭殿なのですが靄が立ち込め・・・残念です。これもまた独特の空気・空間で印象的でしたが。

三神合祭殿内部三神合祭殿は一般神社建築とは異なり、一棟の内に拝殿と御本殿とが造られており、月山・羽黒山・湯殿山の
三神が合祀されているところから、合祭殿造りとも称される独特の社殿で、内内陣は御深秘殿と称し、古来17年毎に式年の
造営が斎行されている。また御本殿長押には、二十四孝の彫刻があり、三神合祭殿額の題字は副島種臣の書である。 
http://www.dewasanzan.jp/publics/index/19/より。

三神合祭殿正面<三神社号額および力士像>
羽黒山頂にあり、三山の開祖蜂子皇子は、難行苦行の末、羽黒大神の御示現を拝し、山頂に羽黒山寂光寺を建立し、次いで
月山神、湯殿山神を勧請して羽黒三所大権現と称して奉仕したと云われる。明治の神仏分離後、大権現号を廃して出羽神社と
称し、三所の神々を合祀しているので建物を三神合祭殿と称している。

月山・湯殿山は遠く山頂や渓谷にあり、冬季の参拝や祭典を執行することが出来ないので、三山の年中恒例又臨時の祭典は全て
羽黒山頂の合祭殿で行われる。古くは大堂、本堂、本殿、本社などとも称され、羽黒修験の根本道場でもあった。

内陣は三戸前の扉に分かれ、正面中央に月読命、右に伊氏波神(稲倉魂命)左に大山祇命,大己貴命,少彦名命を祀る。
本社は大同2年建立以来、度々造替を行ない、近く江戸時代に於いては四度の造替が行われた。慶長10年、最上義光の修造を始め、
明和5年に再造、29年を経た寛政8年炎上、文化2年再建されたが、同8年またまた炎上した。東叡山では再度の炎上に文化10年
荘厳院覚諄を別当に任じ、本社の再建に当たらせ、文政元年1818年完成した。これが現在の本社である。
http://www.dewasanzan.jp/publics/index/19/より。

すばらしい祭殿でした。

祭殿前の「鏡池」
東西38m南北28mの楕円形のこの御池は御本殿の御手洗池であり、年間を通しほとんど水位が変わらず、神秘な御池として
古くより多くの信仰をあつめ、また羽黒信仰の中心でもあった。古書に「羽黒神社」と書いて「いけのみたま」と読ませており、
この池を神霊そのものと考え篤い信仰の捧げられた神秘な御池であり、古来より多くの人々により奉納された、銅鏡が埋納されて
いるので鏡池という。http://www.dewasanzan.jp/publics/index/20/より。

わずかに雨が強くなると静まり返り、弱くなるとカエル(カジカガエルも)や鳥の声が心地よかったです。

鐘楼と建治の大鐘(国の重要文化財)
堂は鏡池の東にあり、切妻造りの萱葺きで、小さいが豪壮な建物である。最上家信の寄進で元和4年再建した。
山内では国宝五重塔に次ぐ古い建物である。
鐘は建治元年の銘があり、古鐘では、東大寺・金剛峰寺に次いで古く且つ大きい。
上帯の飛雲丈は頗る見事な手法で、よく当代の趣味を発揮し、池の間は、雲中飛行の天人や、池注連華を鋳現しているのは、
羽黒の鐘にのみ見る所で、全く希有である。
また天人の図は宇治鳳凰堂の藤原時代の鐘に見るほか、絶えてその例を見ないという。
この鐘は文永・弘安の蒙古襲来の際、羽黒の龍神(九頭龍王)の働きによって、敵の艦船を全部海中に覆滅したので、
鎌倉幕府は、羽黒山の霊威をいたく感じて、鎌倉から鐘大工を送り、羽黒で鐘を鋳て、羽黒山に奉ったのであるという。
http://www.dewasanzan.jp/publics/index/20/より。

これはいったい?????

魔除けの引綱

松例祭(冬の峰)に、つつが虫(悪魔)を引張って焼き捨てる神事に使った引き綱で、綱をかけると悪魔が近寄らないと
伝えられている。
中央の黒い麻糸は、羽黒山頂の鏡池の龍神を表している(綱全体を龍神と見立てているともいわれる)。龍神は火防の神
でもあり、火災が起こらないようにという意味も含まれている。https://www.okaze-gatta.jp/feature/4264様より。

東照社
寛永18年(1641)、第50代天宥別当は徳川幕府の宗教顧問である東叡山の天海僧正の弟子となり、羽黒一山を天台宗に改宗する
条件の一つに、東照権現の羽黒山勧請の周旋を申し出た。
天海僧正は鶴岡城主酒井忠勝に働きかけ、天保2年(1645)藩主は社殿を寄進した。爾来、歴代の藩主の崇敬庇護のもと維持され
てきた。
明治時代に東照宮は東照社と改められ、現在の社殿(3間5間)は昭和55年(1980)に解体復元したものである。天宥別当の勧請の
ねらいは、東照権現を山中に祀ることによって山威を高め、この頃緊張の度を加えつつあった庄内藩との関係を円滑なものに
することにあった。http://www.dewasanzan.jp/publics/index/20/より。

出羽三山には百一末社と称し、羽黒を始め月山、湯殿山の山嶺、または幽谷に多数の末社が散在している。土俵もありました。

天宥社
羽黒山五十世執行別当天宥法印を祀る。

急いでiphoneで撮りました。ほら貝を吹きながら歩いておられました。

五重塔 帰りにはひっそりとしていました。

境内入り口付近

こちらで麦きりを頂きました。若竹の味噌汁とともに美味しかったですよ。

門前町を少しクルマで回りました。宿坊がいくつかありましたよ。

宿坊と魔除けの引綱
門前町手向(とうげ)は、一村総修験で、江戸時代には336坊が軒を連ねた。今に冠木門(かぶきもん)を構え、注連を張った
宿坊があり、霞場や檀那場を支配して、道者の宿泊や山案内をする。又、軒に太い綱をつるしているのを見かけるが、これは
松例祭(冬の峰)に、つつが虫(悪魔)を引張って焼き捨てる神事に使った引き綱で、綱をかけると悪魔が近寄らないと伝えら
れている。http://www.dewasanzan.jp/publics/index/9/#page9より。

いや~見どころ満載の出羽三山神社でした。保育園の遠足の子どもたちと上ったのも良い思い出となるでしょう(笑)
畏れ多い領域(空気・空間)でしたので、子どもたちのおかげで何とか現世に繋ぎとめてもらえたのかも(笑)
山頂が晴れていれば全く違った感じ方だったでしょうね。無事に参拝できて感謝感謝^^ つづく~

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2018.6「山形旅行記」4(出羽三山神社1)

2018-07-07 11:46:00 | ・神社・お寺

2018.6「山形旅行記」4(出羽三山神社1)

2018.6 山形方面へ参拝の旅に出かけました。鶴岡市内の本宮三宝荒神社参拝後、羽黒山の出羽三山神社へ。

県道47号線の出羽三山神社大鳥居

出羽三山神社の駐車場に着くと・・・何だか沢山の人が・・・

わ~、保育園の遠足でしたー(笑)
う~ん・・・修験道の神社には似つかわしくないけど、これもまたこれで何だか楽しい(笑

末社・羽黒山天地金神社
随神門の右手前にある朱塗りのお社で、応永4年学頭法性院尊量により創建されたが兵乱のため大破し、後に羽黒山
智憲院宥然により安永8年(1779)再興された。もと「元三大師像」を御本尊としてお祀りしたので大師堂と
称していたが、昭和39年、須佐之男命をお祀りし、天地金神社となり現在に至っている。出羽三山神社hpより。

装飾彫刻の獅子も龍もとても特徴的ですね。なんか可愛らしいです。

天地金神社脇の「豆腐地蔵尊」

この地蔵尊は、第50代別当である天宥別当が羽黒山の二の坂上の 御本坊平あった宝前院という大伽藍の側に安置されて
いたもので、 御山の繁昌と道中安全の守護仏としてお祀りされていたそうです。
廃仏毀釈が激しくなるにつれ、仏像や石像が 燃やされたり壊され、山々を取り囲む谷間に落とされるなどした。 明治6年
宝前院が取り壊しになると、道中を守護してきた この地蔵尊も藪の中に倒されてしまった。
ある時、石工(与蔵)が、地蔵尊を見つけ『お!ちょうど豆腐石にいい石じゃないか!!』と 地蔵尊の顔面を一撃したところ、
その場に卒倒して気を失った。 三日三晩意識が戻らないままだった。 そんな中、与造の夢枕に地蔵尊が立ち『悔い改めよ』

と告げた。 与三は夢の中で自分の行いを反省し、孫子三代にわたり、地蔵尊に 豆腐を捧げることを誓ったところ、四日目に
なって意識が戻った。
この不思議な話を聞いた手向地区の住人の碓氷甚内という者が 五十両の私財を投じ、現在地に地蔵尊を建立した。
それ以来、この地蔵尊は『豆腐地蔵尊』と呼ばれ、延命長寿や 安産子安・子育などの願いを必ず聞き届けてくださると信仰
されているそうです。https://ameblo.jp/blaue-wind/entry-12319056043.html様より。

随神門

羽黒山参詣道の入り口に建つ、赤い山門が随神門。
左右に悪霊の侵入を防ぐ門番の神々(随神)、豊石窓神(とよいわまどのかみ)と櫛石窓神(くしいわまどのかみ)が剣と
弓矢をもって鎮座しています。神仏習合時代は仁王門として仁王像が安置されていました。 

随神門前にある「天拝石」。この不思議な石を通して天を祀ったとされ、修験者の行法を行った場所の石とされている。

さあ、いよいよ羽黒山へ。まずは下っていきます。

継子坂を下ると、参道横に境内社が鎮座する空間へ。

たくさんの末社。遠足なんで子どもたちが多かったですよ~(笑

禊川と禊川神橋(赤い橋)
祓川は月山を源流とする清流で、昔、出羽三山を参拝する人々はこの祓川で罪や穢れを祓い清めたのだと伝えられています。
また、この祓川神橋は、山上の清僧修験(肉食妻帯しない修験者)と山麓の妻帯修験者とを分ける境界となっていたそうです。

「須賀の滝」と拝所である「祓川神社」と「岩戸別神社」。
須賀の滝は、第50代別当であった天宥別当が8km放れた 月山山麓の水呑沢から水を引いて造った人工の滝だそうです。
神仏習合当時は『不動滝』や『祓川滝』と呼ばれていました。

立派な杉です!

「羽黒山の爺スギ」 樹齢1,000年、根周り10.5m、幹囲8.25m。羽黒山内で最大最古の杉の木であります。
近くに婆スギもあったそうですが、明治35年(1902年)の暴風により倒れてしまったのだそうです。

奥に五重塔が見えてきました。

子どもたちがたくさん(笑)  年少さん?はここで折り返すみたいでしたよ。

国宝の羽黒山五重塔

羽黒山五重塔は羽黒山にある室町時代建立の五重塔。

東北地方では最古の塔といわれ、平将門の創建と伝えられています。現在の塔は約600年前の長慶天皇代に、庄内の領主で
羽黒の別当であった武藤政氏によって再建されたものといわれています。

高さが29.0mの三間五層柿葺素木造で、昭和41年には国宝に指定。

明治時代の神仏分離により、神仏習合の形態だった羽黒山は出羽神社となり、山内の寺院や僧坊はほとんど廃され、取り
壊されたが、五重塔は取り壊されずに残された数少ない仏教式建築の1つである。

五重塔は、仏塔の形式の一つ。層塔と呼ばれる楼閣形式の仏塔のうち、五重の屋根を持つものを指す。下から地(基礎)、
水(塔身)、火(笠)、風(請花)、空(宝珠)からなるもので、それぞれが5つの世界(五大思想)を示し、仏教的な
宇宙観を表している。

仏塔は、古代インドにおいて仏舎利(釈迦の遺骨)を祀るために紀元前3世紀頃から造られ始めたストゥーパに起源をもつ。
古代インドのストゥーパは饅頭形(半球形)のものであったが、この形式が中国に伝えられると、楼閣建築の形式を取り入れ
て高層化するようになった。こうした楼閣形の層塔は朝鮮半島を経て日本へ伝えられた。木造の層塔は日本に多く残って
おり、中国、朝鮮半島における遺例はごく少ない。by wikipedia

つづく~

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