~風に吹かれて~ by ポー(paw)

-人の中に 人の創り出した物の中に 動植物の中に 地球や宇宙の中に 魂の琴線にふれ 愛を感じながら 生き込みたい-

伊豆長岡周辺1(湯谷神社)

2017-10-31 06:34:54 | ・神社・お寺

2017.10 社用で「伊豆長岡温泉」へ行きました。台風の影響で天気は良くなかったのですが、1日目は雨に
降られることもなく歩き回れましたよ。

東海道新幹線で三島駅へ。三島駅では北口方面に下りちゃって、伊豆箱根鉄道の乗り換え口が見当たらない・・・^^;
駅員に聞いたら南口に回らなければならないらしい。全く分かり難い駅ですなあ。駅構内を通れる手書きのチケット?
をもらって北口へ。
で、改札を通ろうと思ったら、なんと「スイカ」が使えない!ひょえ~、今どき使えない私鉄があるのか?驚きましたわ。
超久しぶりに「切符」を買いましたよ。ギリギリ発車時間に間に合いました^^

雨は上がっています。駅前の観光案内所で地図をもらって・・・集合場所の「天坊」までは通常バスのようだけど・・・・
さ~て、どうするか? 何処か神社を探そう!

という事で、狩野川を渡って、とりあえず集合場所方向へ。

狩野川について調べましたよ。

狩野川(かのがわ)

静岡県の伊豆半島を流れる狩野川水系の本流で、一級河川。水系の流域面積は852km2で静岡県の面積の11%を占める。
鮎の友釣り発祥の地という説があるほど友釣りが盛んで、「狩野川を制すれば全国を制す」と評されている。
源流部では天城山の清流を利用したワサビ栽培が盛んである。

伊豆半島の最高峰、天城山に端を発し北流。沖積平野である田方平野を蛇行しながら、沼津市付近で大きく向きを変えて駿河湾に
注ぐ。静岡県内の大河川で北流するものは本川だけである。これはかつて島であった伊豆半島が、フィリピン海プレートの移動に
よって本州側のプレートに衝突し隆起したことによる。

水利用の大型ダムがなく、これは一級水系にしては数少ない特徴である。

源流にあたる天城山は、年間降水量が3,000mmを越える多雨地帯であり、豊富な水量と良好な水質により古くから繊維業、製紙業、
醸造業等の発展に寄与してきた。特に、天城山の清流を利用したワサビ栽培は、全国一の生産額を誇っている。

最も一般的な由来は『日本書紀』によるもので、応神天皇5年(274年)に伊豆の国で船を造り、その名を「枯野」と称したとあり、

それが軽野(カルヌ)からカヌに変わったという説である。現在でも伊豆市の湯ヶ島地区の松ヶ瀬には、軽野の造船儀礼と深く
関わっていた神社である軽野神社が残されている。

氷河期が終わり、海面が現在よりも数m高くなった約6,000年前の縄文時代には、縄文海進という海水面が高かった時代があり、
その頃には伊豆の国市の旧伊豆長岡町付近までは入江で、古狩野湾を形成していた。やがて海面が低下し始めると、狩野川が
土砂を堆積させ現在の田方平野を形成していった。その後、約1,000年前の狩野川は、自然堤防の状況から、旧大仁町・旧韮山町の
あたりでは現在よりも東側を流れていたことが確認できる。また、旧伊豆長岡町では網目状に旧河道が分布し、洪水のたびに流路が
変わったことを示している。当時は中州がいくつもできて島のようになり、「和田島」や「蛭ヶ小島(源頼朝の流刑地と伝わる)」
などと呼ばれていた。その後、狩野川の流路は次第に西側に移り、鎌倉時代と伝えられる「守山開削」により守山の西に移され、
現在とほぼ同様の流れになった。by wikipedia

このこんもりした山の東側も西側も伊豆長岡温泉郷のようです。道路は無いようなのだけど山を越える道がありそうだと
という事でさらに山の麓へ。ググったら「湯谷神社」があったので探しましたが良く分からず、道路を掃除していたおばさん
に聞きました。集合場所「天坊」へはグルリと回るしかない。山を越える道はかなり分かり難いですよ、との事。
取りあえず、すぐ近くの「湯谷神社」をおしえてもらったので参りました。

左側の立ち入り禁止場所は石切り場跡だったようです。
神社は、山の東斜面に鎮座しているのですが、この山、「源氏山」と呼ばれているようですね。地図では、「伊豆長岡公園」
となっています。源氏山公園とも呼ばれていますね。

源氏山の東にある湯谷神社は、ここから温泉が湧き出たということから古奈温泉の氏神とされています。
の湯谷神社は町内の大黒堂、最明寺とともに「源氏山七福神」のひとつになっており、こちらには恵比寿さまが祭られています。


湯谷神社の由縁によれば、 旧称を二社権現と云いその歴史はきわめて古く、創建時期は未だわかっていないとのことです。祭神
大己貴命は大国主命の別名で、神仏習合の時代となってからは大黒様として親しまれている神様です(おおくに→大国→大黒)。
また、大己貴命は温泉を医薬に用いることを初めて人々に教えられた神として崇められ、全国の古い温泉地では概ね祭神として
祀られています。

伊豆長岡にある源氏山の大よそ東側を古奈と云います。源泉は古来より豆州古奈湯と呼ばれ伊豆国では伊豆山の走り湯・修善寺の
独鈷の湯と共に三名湯の一つとして特にその薬効をうたわれているとあったので、その歴史は鎌倉時代より古いようです。
https://kamakura8.blogspot.jp/2014/06/blog-post_12.html より。

温泉は、湯神・温泉神として古来より崇敬の対象となってきた。その神を祀るのが湯神社・温泉神社である。古代に発見された
温泉の多くは、大己貴神(大国主)と少彦名神が発見したと伝えられ、温泉神社の祭神である温泉神にはこの二神が充てられて
いることが多い。by wikipedia

参道階段上の二つ目の鳥居。立派な拝殿が見えてきました。

拝殿

恵比寿様

「えびす」という神は複数あり、イザナギ、イザナミの子である蛭子命(ひるこのみこと)か、もしくは大国主命(大黒さん)の
子である事代主神(ことしろぬしかみ)とされることが多い。少数であるが、えびすを少彦名神や彦火火出見尊とすることもある。
by wikipedia

というわけで、温泉地の神社には、大国主命~大黒様、少彦名神~恵比寿様が祀られていることが多いわけですねー。

雰囲気のある境内でしたよ。神社でお参りした後、 いよいよ源氏山へ。

弥勒山西琳寺

「古奈」は「源頼政の妻のあやめ御前」の故郷で、西琳寺に彼女の供養塔があるそうです。

遂に遊歩道の地図が出てきました。

本尊の弥勒菩薩は弘法大師が自然石に掘ったものだそうですよ。あやめ御前が念持仏として深く尊信したといわれています。

弥勒堂から眺めた伊豆長岡の町

山頂!ここで駅前で買ってきたオニギリ2個昼食タイム~。

だんだん晴れてきました。伊豆長岡温泉の西側が見えました。

「天坊」到着~。

「天坊」からの眺めです。この山を越えてきたんだなー。スーツに革靴で・・・アホですな(笑

ところで、この「源氏山」ですが、なんでこの名前が付いたのか?
源頼政の美しい妻の「あやめ御前」の故郷であるからでしょうけれど、伊豆長岡駅北方に蛭ケ小島(蛭ケ島)があるからで
しょうか?(蛭ケ小島は、平治の乱で敗れた源頼朝が1160年、14歳の若さで配流された地として伝わる。頼朝は挙兵までの
20年近くをこの地で過ごし、その間には北条時政の娘政子と結婚した。史跡は旧韮山町時代に公園として整備され、「蛭島碑記」
の石碑のほか、富士山に向かって並び立つ頼朝と政子の像が置かれているそうです。)
http://www.at-s.com/news/article/topics/shizuoka/deepop/305563.html より

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谷川岳エリア5(一ノ倉沢ウォーキング)

2017-10-27 13:52:42 | ・旅・山

2017.10.8~9 谷川岳へ登ってきました。9日ペンションをチェックアウト後に一ノ倉沢へ向かいました。昨日同様、駐車場

に車を停めて・・・ペンションの御主人お勧めの「幽ノ沢」まで歩きましたよ。

ノギク

マユミの実

西黒尾根の入り口とサワグルミ

サラシナショウマかな?

マチガ沢

その昔、マチガ沢の出合いには三軒程宿があったらしく、畑や墓石が残っています。清水峠を越えて越後から山道を夕暮れ時に
下ってきた人が、このあたりで灯火を目にして「ああ、町が見える」と喜んで発した言葉が、マチガ沢の由来といわれています。
(案内板より)

迫力ありますね~

幽ノ沢から「新道③」へ降りようと少し下ったところで、急こう配になり、登って来られた方が居たのでどんな様子かと聞いたら、
かなりの急こう配が400m(800m?)続くとの事。昨日の登山で結構足が草臥れていたので諦めて元の道を戻りました。地図上
では、下りた後、真っすぐに戻りそうに見えたんですけどね。

ムラサキシキブ 色合いが綺麗でしたよ。

電気ガイドバス
谷川岳ロープウェイ土合口駅ロータリーより発着。ガイドさんが居なければ無料のようですよ。

お~、一ノ倉沢が見えてきました。

やっぱりスゴイ迫力ですね~!

垂直に立ちはだかる壁の高さは800m、一ノ倉沢の倉とは神の座る尊い場所という意味を持つ古い言葉です。
薄暗い岸壁は、かなりの威圧感で恐ろしささえも感じます。でもそこが非日常的であり身体の中に蠢く何かを刺激する魅力に
溢れています。そして、自然に対する畏敬の念を抱かざるを得ません。

一ノ倉沢反対側の笠山、朝日岳方面
一ノ倉沢とはホントに対照的です。当然、陽の当たり具合もありますが・・・飛行機雲もキレイでした。

朝しか陽が差さない壁
それでも色付く紅葉。沈黙の中、内に秘めた噴出ギリギリのエネルギーを溜め込んでいる「圧」を感じましたね。

一ノ倉沢から更に奥の幽ノ沢へ。
看板には「幽ノ沢」の「ゆう」は岩穴の事のようですが、一ノ倉沢から先の岩面にはたくさんの若者の慰霊碑がありました。
遭難などによる事故死は700名を超え、1つの山の死者の数としては世界一だそうですが、そんな彼らの霊魂もここを静かに
見守っているようにも感じられました。彼らに対し、山の神様に対しお祈りいたしました。

献花には美しい蝶が止まっていました。と思ったら「蛾」のようです。

イカリモンガ(碇紋蛾)
翅を立てて花などに留まり、蝶のように昼行性。翅前翅にある大きなオレンジ色の碇形状の紋が、和名の由来。

ブナ林 巨木と呼べそうな大きなブナもありました。

幽ノ沢

一ノ倉沢と比べると柔らかい優しい山容です。

「ゆう」(岩穴)からは美しく清らかな水が道を横切り川へと流れていました。とても冷たく美味しかった^^

笠山

一ノ倉沢・・・そこは非日常的な空気・空間で、自然の荒々しい造形美を魅せ、そして山・自然、ひいては地球に対する
敬虔な思いを心の内部から引き出してくれました。ありがとうございました。

 

 

谷川岳を離れ、みなかみ町のお蕎麦屋さんへ。

14時頃でしたが三台ある駐車場にも停められて良かったです。新そばは美味しかったですよ^^

「道の駅 みなかみ水紀行館」でお土産を^^
谷川岳に向かう奥利根ゆけむり街道沿いのオシャレなバームクーヘン店が気になっていましたが、こちらでも
売っていました。みなかみ町を下る利根川ラフティングは結構賑わっていましたよ。道の駅も結構混んでいて、
なかなか活性化されておりました。というわけで谷川岳編は終わりです^^

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谷川岳エリア4(ペンションセルバン・谷川富士浅間神社)

2017-10-25 11:02:09 | ・神社・お寺

2017.10.8~9 谷川岳へ登ってきました。

続きです。10.8、宿に着いたのは19時半ごろ^^; お宿はみなかみ町谷川の「旅の湯やど・ペンションセルバン」

このペンションは2箇所の源泉より温泉を引いていて、100%源泉かけ流し温泉でありんす^^ 

立派な木材利用の椅子にはセルバン=マッターホルンの絵が^^ 御主人が作られたそうですよ。

こちらもご主人が作られたオリジナルやまつみ。スゴイです。

夕食時に日本酒で山の名前の「八海山」があるのだから、「谷川岳」は無いのか?と思って、ひょいと横を見ると、
70位のご夫婦が食事されていて、なんと「谷川岳」を飲まれていました。そんなきっかけでいろいろとお話しましたが、
鹿児島からお越しのようで、なんとリタイヤ後に100名山の62座を登られているとか。いや~すごいですわ^^;
盛り上がってお話している間に届いた名文句は「何も足さず、何も引かず」でした。中庸を重んじた生き方には共感しましたよ。
感謝感謝^^

前後しますが、下記の投稿にあるように、翌日9日早朝、朝食前にペンションの直ぐに近くの谷川浅間神社を参拝しました。
事前に近くに浅間神社のあることは知っていました。その神社の手水舎が先月できたばかりの真新しいものでした。そんな
お話を何気なくご主人にお話ししたら、なんとその手水舎はご主人がボランティアで作られたとの事。また、谷川岳の山頂
直下の富士浅間神社(ブロッケン現象出現の)の割と新しいと思われた祠も、こちらのご主人他の方がボランティアで担ぎ
上げられたとの事。いや~驚きました。こんな出逢いもあるのですね~。感謝感謝^^

9日早朝、ペンション周辺散策。近くの富士浅間神社へ詣でました。拝殿脇から直ぐ入れましたが、参道下から回り込んで
みました。

「小さなレストラン彩絵」前の橋を渡ると鳥居が見えてきました。

鳥居をくぐり階段を上ると・・・

いったん道路に出ますが、更に参道階段が続いています。

スギの参道を抜けると拝殿が見えます。

立派な拝殿です。

先月できたばかりの手水舎。これから柱が建てられて屋根もできるのでしょう。

振り返ると参道脇には神楽殿

「浅間大神」

拝殿脇には末社がたくさん鎮座していました。

御神木とされる根上りカエデ
大きな切り株の上に根付き、その後切り株が腐ってこのような根上りになっているそうです。もしかしたら「沓掛柳」と呼ばれる
柳の古木が立っていたのでしょうか・・・?

根上りの株の中には絵馬のような「お願い石」が。この石もご主人が糸魚川から持ってこられたそうです。

 

http://www.geocities.jp/adr61884jp/2008-10_tanigawadake-2.html(谷川岳の山岳宗教について高橋千劔破氏の著作
『谷川岳-歴史を秘めた魔の山』よりの抜粋です。

・谷川岳は、近現代の登山史の中で語られることは多いが、近世以前の歴史についてはほとんど語られることがない。峻険なる
 人跡未踏の秘峰であったわけではない。古くから、清水峠を越えて、また三国峠越えによって、上越国境を人々が往き来していた。

・上州沼田(群馬県沼田市)から、利根川に沿って後閑、上牧、水上と辿り、支流の湯檜曾川沿いの道から清水峠を越えて越後に
 至る清水峠越往還は、おそらく古代から続く道だ。 後閑や上牧のあたりからも、「耳二ツ」の谷川岳はよく目立つ。

・水上温泉のあたりからは、その谷川岳南面の大岩壁俎嵓が間近に望める。 谷川岳の名称は、かつてはその俎嵓を指したもの
 という。俎嵓に源を発し、水上温泉のあたりで利根川に注ぎ込む渓谷が「谷川」であり、その水源の岩壁群を谷川岳と呼んだ
 であろう。

・険しい山があれば、その頂きに立ってみたいと思うのは人間の本能だ。 おそらく、古代より、あるいはもっと古くから、
 この山に憧れたり挑んだりした人は少なからずいたにちがいない。

・水上温泉から利根川を少し上流に遡った大穴(おおあな)には、石器時代の住居跡がある。昭和十年に発見された国指定史跡
 「大穴石器時代住居跡」である。 縄文時代の中期には、すでに谷川岳を仰ぐこの地に、私たちの遥かなる先祖が住みついていた。

・縄文人が谷川岳に登ったかどうかはわからないが、大穴のすぐ先で湯檜曽川が利根川に合流しており、湯檜曾川に沿って遡り峠を
 越える越後との交流ルートがあったことは、想像に難くない。

・太古の旅人たちもまた、谷川の峰々を仰ぎ、のちに一ノ倉沢やマチガ沢、俎嵓と呼ばれることになる大岩壁を間近に見て、畏怖の念を
 抱いたことであろう。 なかには、冒険心をかき立てられた者もいたにちがいない。

・やがて仏教が伝来し、各地に山岳霊場が開かれ、修験道が盛んになると、谷川岳もその対象となったことは疑いない。 古来
 人びとが畏怖し続けてきた岩壁を、修験者たちが見過ごすはずはないのだ。だが、残念ながら、古代から中世にかけての谷川岳の
 山岳宗教に関しては、伝説からうかがうだけで、史実としてはほとんどわかっていない。

谷川岳は谷川富士とも呼ばれる。これは、オキの耳に富士権現が祀られ、古く浅間岳と呼ばれたことに由来する。対してトマの耳は
 薬師岳と呼ばれていたという。中世後期から江戸時代にかけて、各山上に詣でる人が少なからずいたらしい。

オキの耳を奥宮とする富士権現の里宮・富士浅間神社は、水上町(現みなかみ町)谷川にある。 康暦二年(一三八〇)の創建
 伝え、木花開邪姫命を祭神とするが、江戸時代前期の万治元年(一六五八)に上州沼田藩主真田信利がこの神社を再建したときの
 棟札に「沼田総鎮守谷川嶽郷中蒼生大産土」とあり、もとは谷川岳東麓から南麓にかけての産土神であったのであろう。 しかし
 富士浅間信仰との結びつきは中世に遡る。 谷川の富士浅間神社の神体は、一ノ倉の大岩壁の岩室から発見されたという二面の懸仏
 (かけぼとけ)である。 一面は坐像で虚空蔵、もう一面は立像の十一面観音。共に「永禄八年(一五六五)」銘と、「富士浅間大菩薩」
 の銘が刻まれている。

・開基にちなむこんな伝説がある。足利義満の時代の康暦二年二月(1380年)の夕刻、不思議な光が南方から飛んで来て谷川岳上空
に留まり、
一晩中山上を照らし続けた。 翌日、東麓の村々では大騒ぎになり、水上村に住む祈祷師に占ってもらうと、祈祷師は神懸り
して、
「我は駿河の霊峰富士の浅間大菩薩なり。 この地の人々に救いの道を開かんとす。 山上に社を建て末長く守護せよ」と叫んだ。
 そこで村人たちは、雪解けを待ち六月になって苦難の果てに山上に至ると、頂上の大岩の中に桃の木が生え、八面の浅間大菩薩の懸仏が
 掛けてあった。 村人は驚き畏れ、懸仏をご神体とした社を山上に建立して、山麓の谷川に里宮をつくった――。

・こんな話も伝えられている。やがて谷川岳信仰登山が盛んになり、夏のお山開きの期間には多くの人が山上に詣でるようになった。
 里宮の浅間神社にお参りし、新しい草鞋に履きかえて、保戸野川で身を浄めたあと川に沿う道を辿り、途中の険路・岩場を苦労
 して乗り越え、山上に詣でた。急峻な岩壁に囲まれた一ノ倉は、人の侵入を拒む神の座である。 一ノ倉の「倉」が「磐座(いわくら)」
 を意味することはまちがいない。 山上に詣でた人々が、その神の座に賽銭を投げる風習があったといい、一ノ倉沢は「銭入れ谷」
 とも呼ばれたという。 その一ノ倉に挑んだ者たちがいた。岩登りに長けた修験者たちである。彼らは、一ノ倉を修行の場とし、
 源頭の洞窟に住んで谷川登山のルートを開拓した。 いつしか、修験者たちが住んだ一ノ倉の洞窟には、彼らが秘かに埋蔵した
 黄金の御幣と黄金の鰐口黄金づくりの太刀の三宝があるという噂が広まった。すると、その宝物を盗もうという者が現われた。
 利根郡のさる神社の息子という光次郎と左近の兄弟である。彼らは大穴村の多兵衛を案内に雇い、水垢離もせず、山に登りはじめた。
 山開き前のことで、残雪も多く困難な登山であったが、天神嶽を経て何とか山頂に辿りついた。 山上から見下す銭入れ谷は、あまり
 にも深く急峻で、到底下りられるとは思えない。だが欲にかられた兄弟は、彼らの意図を知って驚き止める多兵衛を 振り切り、左近の
 支える綱を頼りに光次郎が岩を下りはじめた。それを止めようとする多兵衛。左近は綱を放し光次郎は深い谷に吸い込まれていった。
 揉み合う 多兵衛と左近もまた、奈落へと滑落していった――。 

・以上はもちろん伝説にすぎないが、かつてこの山が山岳信仰の霊場としてそこそこに賑わい、また一ノ倉沢などの大岩壁が修験者
 たちの行場であったことを伝えている。 富士浅間神社の境内には、かつて「沓掛柳」と呼ばれる柳の古木があったという。谷川
 登山の禅定者たちが、ここまで履いてきた草鞋を脱いでこの柳に掛け、下山のときには山に履いていった草鞋をまたこの柳に掛けて
 帰ったのだという。


どうして、谷川岳なのに「富士」浅間神社なのだろうと思っていたわけですが、これで謎が解けました。1380年、UFOが飛んできて
一晩谷川岳を調査した。翌日、霊能者に浅間大菩薩が憑依し、山頂に社を建て、自然に対して畏敬の念を抱いていくようにと告げた・・・。
今時ならば、このような解釈でしょうか。現在は、宮司さんも居られない村の方々が見守る氏神様のようですが、立派な拝殿ですし、
谷川信仰を知る上でも貴重な神社だと思いますね。いつまでも維持され続けることを願います。 つづく~

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谷川岳エリア3(谷川岳・富士浅間神社奥宮とブロッケン現象)

2017-10-23 17:18:35 | ・旅・山

2017.10.8~9 谷川岳へ登ってきました。

続きです。鳥居が見えてきました。

「富士浅間神社奥宮」

富士浅間神社・奥宮の祠。とても新しそうです。

祠の岩の下の木柵の中には以前祀られていたような祠の跡が・・・。

浅間神社の更に先・・一ノ倉岳方面です。

見え隠れする紅葉が美しかったです。鳥居の脇で昼食。13時ごろ。登りの渋滞と神社で結構時間を費やしました。
17時最終のロープウェイの時間が気になりだします。

下り始めようとしたら、神社境内の上部で登山者が谷に向かって手を振っています。何だろう?ロッククライマーにでも
手を振っているのかと思って近づいてみたら・・・・

なんと、谷底にブロッケン現象が発生していました。

動画も撮りましたよ。手を振ったら、ちゃんと現象内に写っていますよ。いや~キレイでした。薄れたり濃くなったり・・・
二重の虹の輪でした。最後は、す~っと何事も無かったかのように消えました。まるで夢のようでしたよ。
しかし、境内でこのような現象に遭遇するとは・・・昔の人がこの現象を知らずに、ブロッケン現象に遭遇したら、
やはり神様の存在を確信したことでしょうね。

ブロッケン現象
太陽などの光が背後からさしこみ、影の側にある雲粒や霧粒によって光が散乱され、見る人の影の周りに、虹と似た光の輪と
なって現れる大気光学現象
光輪(グローリー、英語: glory)、ブロッケンの妖怪(または怪物、お化け)などともいう。
ブロッケン現象は、霧の中に伸びた影と、周りにできる虹色の輪(ブロッケンの虹)の二現象をまとめて指している。両者
とも霧の中のいたるところで起こっており、霧が見る人の間近にあるとき、奥行きと巨大さを感じる場合がある。虹に比べて、
見かけの大きさは10分の1程度と小さく、光の輪は何重にもなる場合がある。
また、見る人の影が十分小さければ、中心点にも輝点が見られる。内側は青色で、外側は赤色。水滴が起こすミー散乱の
後方散乱が、光の色(波長)によって異なる角度依存性を持つ事によっておこる。
ミー散乱を起こす粒子は雨粒に比べて非常に小さい(虹は雨粒による屈折と内部反射によるものである)。
ブロッケン現象は山岳の気象現象として有名で、尾根の日陰側かつ風上側の急勾配の谷で山肌に沿って雲(霧)がゆっくり
這い上がり、稜線で日光にあたって消える場合によく観察される。
その他にも航空機から見下ろす雲や、平地の川霧等に現れることがある。
ブロッケン(Brocken)の由来はドイツのハルツ山地の最高峰ブロッケン山(標高1,142m)でよく見られたことに由来する。
日本では御来迎(ごらいごう)、山の後(御)光、仏の後(御)光、あるいは単に御光とも呼ばれる。日本ではこの現象で
出現する影は阿弥陀如来と捉えられ、『観無量寿経』などで説かれる空中住立の姿を現したと考えられていた。前田直己山形
大学客員教授はこの現象に世界で初めて名前(来迎)を付けたのは出羽三山の修験者であるとの説を2017年に発表している。
御来迎については槍ヶ岳開山を果たした僧播隆の前に出現した話が有名である。by wikipedia

ブロッケン現象が見られた湯檜曽川方面の沢

ううう・・・登ってます。

ブロッケン現象の辺りから目まぐるしく雲が湧き出ては消えて・・・思わず景色に見惚れてしまいましたねー。

オキノ耳側から望むトマノ耳 たくさんの人が見えますねー。

歩いてきた浅間神社方面を振り返ります。後ろ髪を引かれる思いです。

肩ノ小屋 トイレに並んでますねえ。。。

西黒尾根 ラクダのコル、ラクダの背と呼ばれる辺りも良く見えていました。

トイレに並びながら雲間から現れた「万太郎尾根」この尾根はホントに美しいです!どこまでも歩いていきたくなりますね。

トイレ辺りから見上げる谷川岳 この辺りから見ると優しいイメージですね。

トイレに30分くらい並びましたよ。なんか2つあるうちの1つに誰かがストックを落としたらしく使用禁止になってた
らしく、より時間がかかったみたいです。でもトイレに並びながら景色が楽しめてゆっくりできましたわ。

さー、ひたすら下りますよ。

綺麗な紅葉ですが、み~んなこぞって下りていきます。

なんと、下りも大渋滞。ところどころ動かなくなりました。

陽もだいぶ落ちてきました。

下りの渋滞での待ち時間は、お喋りかスマホですな。常連さんと思われる後ろの方は、こんなに混んでるのは初めてで、
こんなに回りの風景をゆっくり眺めるのも初めてとの事。いいんじゃないですかあ、上り下り重視の方は違った見方が
できたんじゃないかなあ(笑)それとも渋滞ストレスしかなかったかな。
私的には、ロープウェイの時間を気にばかりするのは勿体ない。「イマココ」を存分に楽しむべきです。渋滞待ちでも、
刻々と変わる山の景色や登山道脇の植物たち、葉っぱの形、風の匂い・・・。今この場所に身を置くのです。
下りの難所を通過したら、みなさん、走る走る(笑)17時終了のロープウェイ、これだけ人が居れば終わりにするわけ
ないと解っていながら、いや~、日本人は真面目ですわー。時間厳守目指します。仕方が無いので周りに合わせて速足で
歩きましたよ。天神平に辿り着いても、ロープウェイ待ちでスゴイ列でしたー。

この写真は17:33撮影。ここから乗るまでまだ30分位待ちましたよ。

今回のルートです。07:20にセットしてロープウェイに乗り、山へ登り、天神平に戻ったのは17:01でした。
いや~上りも下りも大渋滞だったのでしたー。つづく~

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谷川岳エリア2(谷川岳・肩ノ小屋~耳二ツ周辺)

2017-10-21 18:22:59 | ・旅・山

2017.10.8~9 谷川岳へ登ってきました。

天神峠~熊穴沢避難小屋~天狗のトマリ場~天神のザンゲ岩~肩ノ小屋~トマノ耳~オキノ耳~富士浅間神社奥ノ院~
天神平 と歩いてきました。

天神峠辺りは、紅葉が綺麗でしたよ。

天神峠からは一度下って天神平からの登山道と合流して谷川尾根~谷川岳と登っていきます。蛇紋岩の下りは降り難く
かったですねー。前日の雨で滑りやすかったですし。

とにかく登山者が多いです。子どもたちも登っていましたので、あちこちで渋滞しました。

だいぶ登ってきました。

紅葉は綺麗でしたが、人も凄かったー。又聞きですが、肩ノ小屋の方が過去最高の混み具合でないかと^^;

別の尾根からの登山者。なかなか急こう配のようですね。

肩ノ小屋が見えてきました。

肩ノ小屋を過ぎた辺りの祠
う~ん、ちょっとガスってきました。

「トマノ耳」と云われる一つ目の山頂

続いて「オキノ耳」

谷川岳は「耳二ツ」といわれ、沼田市や月夜野町方面から見ると、ちょうどネコの耳のような双耳峰に見えるので、手前(テマエ)
を「トマ」の耳、奥(オク)の高い方の峰を「オキ」の耳と呼びならわしている。
トマの耳は古くから薬師岳とも呼ばれ、山頂には石造りの薬師瑠璃光如来が祭られていたという。一方、オキの耳には、
富士山の浅間菩薩が地元の人たちに福を与えんとして降臨したとの伝説も残り、別名谷川富士と呼ばれる。

ひえ~、こんなところを登ってる~~

トマノ耳でもオキノ耳でも写真を撮りましたが、真っ白けっけだったので載せませんよ(笑

つづく~

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谷川岳エリア1(谷川岳・天神峠~天満宮/弁財天)

2017-10-19 18:13:01 | ・神社・お寺

2017.10.8~9 谷川岳へ登ってきました。

ホントは、7~8で予定していましたが天気がイマイチだったので8~9にずらしました。

4時過ぎに高円寺出発。ちょうど駐車場の開く7時頃着きましたが、すでに大混雑。でもこの屋内駐車場には停めることが
できました。手前の無料駐車場はすでに満車^^

土合口駅(746m)から谷川岳ロープウェイに乗って一気に天神平駅(1319m)へ。約7分です。ゴンドラチケットを買うのに
結構並びましたよ。

天神平 良い天気です。サイコー^^ 冬はスキー場のゲレンデになりますよ。大昔に滑りに来てるのですが記憶がほとんど
ないですねー^^;

この辺りは良い色付き具合の紅葉でしたよ。

谷川岳もバッチリ見えています。

背後の白毛門、笠ヶ岳、朝日岳方面も綺麗に見えていましたよ。

天神平から更にリフトに乗って天神峠駅(1502m)へ。約5分ですよ。

いったん降りて谷川岳へ向かうようです。

天神峠山頂付近にはあたりの山々を一望できる展望スペースがあります。

いや~良い天気です^^

天神峠展望台から鳥居が見えました。もちろん参拝しましたよ。

赤城山方面も綺麗に見えています。

 

諸天善神嶽(中院)の由来

霊峰谷川岳(富士山浅間大菩薩奥院)薬師如来は信心行者奉り拝し岩窟より小水湧出し、此の水を以って目にそそげば眼病
たちまち癒す是すなわち御手洗川と言う、
一段下がったところ懺悔岩有り、
其の像不動明王にして懺悔礼拝する次に天神嶽に諸天善神現れ、岩の像皆天神尊形なり、
亦平地にして池渡り七間余、此に清水注ぎ懺悔礼拝す、
嶋有り鳥居立つ一階下平地にして弁財天在します、此に御室岩窟有り、中院言う6月1日より15に互って祭祀の御旅所なり、
則ち富士天神を奉り拝し、福、勉学、治病、豊作を祈願する祭事なり、
又東の嶺変じて湯となし、温泉湧出浅間灌を奉り

富士山浅間大菩薩表院(谷川温泉)として万治元年(1658)に社殿が建立され礼拝されている。(掲示板より)

「諸天善神」は、wikiによると、「通常、仏教一般では三宝を守護する天部の神々は「護法善神」、あるいは「護法神」
呼ばれる。しかし「日蓮は、法華経とその行者を守護する天部の神々に対して諸天善神」という語を多用した。したがって
日蓮宗系の宗派間では、護法善神や護法神よりも諸天善神と呼ばれることが多い」との事です。また、天台宗の修行は法華経
観心に重きをおきます。

これらから、天神信仰(天満宮)は時代の必然として起こり、弁財天(元来インドの河神)は、平安初期~末期、
仏僧により日本各地の井戸、溜池、河川の治水、
泉、島、港湾の入り口などに、弁天社や弁天堂として祀られました
から、この池を祀ったのでしょう。(仏僧は法華経の天台宗、日蓮宗系の宗派?)
谷川岳は、近現代の登山史の中で語られることは多いが、近世以前の歴史についてはほとんど語られることがないそうです。
この辺りに関しては、後の投稿で「谷川岳と山岳信仰」として富士浅間神社も含んで考察してみたいと思います。

弁財天の鳥居
奥には池があり祠が祀られ、更に谷川岳を望みます。(間の建物は展望台)

天神峠 広々として眺めも良く、柔らかい空気・空間でしたよ。

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鹿島玉川神社(東京都青梅市)

2017-10-19 18:11:30 | ・神社・お寺

2017.10 東青梅駅から南へ、多摩川の橋を渡り真っすぐの方向に大きな鳥居が見えたので参拝しました。

村社・・・土地の氏神様のような感じですね。

祭神に武甕槌命、相殿に豊玉姫命ほか三神を祭る。
口伝によれば、承平年間、源経基が常陸の鹿島大神の分霊を移して鹿島大明神としたという。相殿玉川大明神は江戸への
玉川上水開通に当たり、その無病安全を祈念したという。その神事場は、かつて下奥多摩橋の南岸にあった。

また、当社に伝承されている鹿舞は元和六年(一六二〇)に演じられたのが起源といわれ、市の無形民俗文化財に指定されている。

右の狛犬の脇に大きな石塊が見られます。この巨大な神石があったため、ここを清地として、 承平のころ、源経基が常陸の
鹿島神社を勧請したといわれているそうです。

拝殿

鹿島玉川神社本殿は、かつては鹿島社と呼ばれ、承平年間(九三一-九三八)の創建と伝えられますが、建築様式などから、
実際は元和六年(一六二〇)に建てられたと推察されます。
のち元禄二年(一六八九)に修理されますが、建築当初の形式を大きく変えるものではなく、旧状がよく保たれています。

本殿

神石と八雲神社

鹿島玉川神社境内社

奥には整備地がありました。ググってみると、獅子舞が行われるお祭り時にはずいぶんと賑わうようですよ。

神社の前には多摩川へ注ぐ小川が流れていました。地元の小学生も闊歩^^ 小さなお子さんを連れてお母さんも
車で境内まで入って・・地元の良い憩いの場という感じでしたよ。

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荒幡浅間神社(埼玉県所沢市)

2017-10-18 06:19:39 | ・神社・お寺

2017.10 荒幡浅間神社(埼玉県所沢市)へ詣でました。 偶然、見つけたんですよね~^^

狭山丘陵の東の端の高台に鎮座しています。

左奥に富士塚が見えます。

拝殿

本殿と富士塚

旧荒幡村には昔から浅間神社のほか、三島・氷川・神明・松尾の各社がまつられていたが、明治五年の社格制定で浅間神社が
村社に列せられ、三島神社以下は無格社となった。そこで村内の統一と民心の安定をはかるため、明治十四年九月村内浅間
久保にあった浅間神社を西ヶ谷松尾神社の地に移し、それと共に三島神社以下を浅間神社に合祀することになった。

そのため浅間神社の傍にあった荒幡富士講信仰のシンボル富士塚も移転構築することとなった。そして以前の塚の幾十倍も
大きい富士塚が明治十七年に起工し、同三十二年に竣工した。これは村内の氏子・信者はもとより、近隣の村々の有志も
加わって営々として築きあげたものである。
かくて荒幡富士は村民の心の大きな拠り所となり、かつ近郷近在に誇る最大級の人工の富士となった。このことは登山道の
入口にある大正十年建立の文人大町桂月撰文になる荒幡新富士築山碑に明記されているところである。(看板より)

神社に対する思いがしっかりと表現されていますね。「村内の統一」「民心の安定」「村民の心の拠り所」。
神社はまさにこういう役割であったのですよね。今の時代、このような思いは薄れつつあると思うけど(特に都会では)、
だんだん歳をとってくると、都会に住んでいても近くの氏神様へ足を運んだりするようになるものですわ^^

富士塚への鳥居をくぐると猿田彦大神が祀られていました。

富士塚の山頂の祠

天気が良ければ、しっかりと富士山も拝めそうです。

富士塚からの境内全体

とにかく眺めが良くて驚きました。360度、この山頂から高い丘陵はありません。良くこんなお山を築きましたよね。

この地図の「荒幡富士」に位置します。

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新町御嶽神社(東京都青梅市)

2017-10-17 06:43:32 | ・神社・お寺

2017.10 東京都青梅市にある新町御嶽神社へ参ってきました。たまたま前を通ったら大きな鳥居!誘われて寄って

みました。

街道沿いの大鳥居

割と長い参道です。

二つ目の鳥居

拝殿

お神輿がずら~り。

社務所前の神輿

ん?白い花が咲いています。

10月桜でした。綺麗でしたよ。

新町天神社

天神社・・・牛さんも居ましたよ。

新町水神社

塩竃神社

明るく広々とした神社でしたよ。10月桜もキレイでした。

新町御嶽神社
・東京都青梅市新町にある神社。近代社格では村社。
・江戸時代初期の慶長16年(1611年)、新町の開拓は吉野織部之助正清によって開始された。
・元和2年(1616年)、その開拓完成と同時に、吉野織部之助正清が大和国金峯山権現を勧請、御嶽大権現と称して村内鎮守
 として創祀されたのが当社。
・元禄2年(1689年)8月、社殿が再建され、明和7年(1770年)4月に重修、幕府より朱印地として3石を拝領した。
・『新編武蔵風土記稿』新町村の条にも「蔵王権現社」とある。「當郡羽村の神職宮川左京の持なり」などと記載されている。
・明治4年(1871年)、現社号に改称、明治6年(1873年)には村社に列した。明治7年(1874年)、社殿を改修した。
・大正2年(1913年)、富士大神社を合祀した。昭和46年(1871年)、鉄筋コンクリート造の社殿を新築、境内の整備が完成した。
・昭和61年(1986年)、鎮座370年記念事業を奉賛、大鳥居その他境域の建物や諸設備を充実させた。境内面積は1232坪。
・御祭神は日本武尊・押武金日命・木花咲耶姫命。例祭は5月5日。平成28年(2016年)には鎮座400年記念例大祭が行われた。
・例大祭では、境内において、新町・谷野・今寺などの囃子連の囃子や獅子舞が舞われ、各町が山車を曳行し、子供御輿なども多数出る。
・境内社に、塩竈神社・水神社・天神社がある。塩竈神社は明治19年(1886年)、 奥州の鹽竈神社から御分霊を勧請したもの。
・当時、この地方をはじめ、埼玉県内にまで講員が広がっており、篤く信仰された。
水神社は昭和50年(1975年)、旧本殿に水波能売神及び氏子地内10ヶ所の井戸の井戸神を祀ったもの。
・また、天神社は昭和61年に太宰府天満宮を勧請した。

http://www.buccyake-kojiki.com/archives/1067750097.htmlより。

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神明社(富の神明様・いも神社)(所沢市中富)

2017-10-16 08:48:38 | ・神社・お寺

2017.10

所沢市中富の神明社(富の神明様・いも神社)へ参ってきました。

この辺りには「いも街道」があって「いも農家」がたくさんあります。約250年前から川越地方で盛んに作られていた
サツマイモ。三芳町上富地区では、その栽培を今に受け継ぎ、ここで取れるサツマイモは特に「富(とめ)の川越いも」
と呼ばれています。

天神宮

拝殿

当社は元禄9年(1696年)川越城主柳沢出羽守領主の節、上富村、中富村、下富村の三ヶ村を開かれた折、一寺一社の
制に基づき、鎮守のお宮として毘沙門社と多聞院を創立、後年、該院境内に神明社を勧請いたしました。時に宝暦11年
(1761年)であったと伝えられます。http://www.shinmeisha.com/yuisho.html より。

本殿

やせた土地でも丈夫に育ち、干ばつや病虫害などにも強いサツマイモは生命力の象徴でもあります。
いも神さまの御利益には、健康・家内安全・子孫繁栄・開運などがります。おまいりには社前の「なでいも」をなでて、
神様の力を頂いてください。

狛犬もサツマイモを抱いております(笑

平成18年11月23日、甘藷乃神として吉田弥右衛門さんと甘藷先生(青木昆陽)を当境内地のお社にお祀りさせていただきま
した。なお、サツマイモを抱いた狛犬、撫でいもは、東京オリンピックの聖火台を制作された故鈴木文吾先生に監修、制作に
お力添えをいただきました。http://www.shinmeisha.com/imo.html

というわけで、なでなでしてきましたよ^^

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多摩川浅間神社(大田区田園調布)

2017-10-15 07:20:14 | ・神社・お寺

2017.9 田園調布にある多摩川浅間神社へ参りました。

階段上部の駐車場に入れて、いったん境内外に出てお参りしました。神社は多摩川沿いにあって近くには沢山の古墳が
あります。この神社も古墳の上に建っているそうです。

参道の階段の下には、大祓詞の書かれた黒い車輪がありました。大祓詞とは、穢れを祓うために唱えられた祝詞。
車輪を一周回すことで唱えた事とするのでしょうね。

参道階段を登るにつれ沢山の鳥居が見えてきます。

二つ目の鳥居から奥は、溶岩も施され富士塚のようなイメージですね。

振り返るとこんな感じ。登ると・・・

おお!と思わず声をあげてしまう、立派な拝殿。

拝殿

1973年に建てられた本殿は、東京都内では唯一本殿の建築様式が浅間造。富士山本宮浅間大社に代表される浅間造は、
社殿の上にさらに別の社殿が載った二階建ての建築様式。1300社以上ある浅間神社の中で、4社にのみみられる貴重な建築の
一つがこの多摩川浅間神社。

二階建ての建築様式ですね。

こちらは2016.8に参った富士山本宮浅間大社の拝殿と2階建ての本殿

拝殿脇より。

子産石

夫婦イチョウ

末社 とても綺麗にされていますね。

食行 身禄(じきぎょう みろく)
寛文11年1月17日(1671年2月26日) - 享保18年7月13日(1733年8月22日))は、日本の宗教家。富士講の指導者。

富士講碑

多摩川方向

手水舎

いや~良い眺めです。東急東横線が走っています。天気が良ければ富士山もバッチリ見えそうですね。残念。。。

丸子橋方面

多摩川浅間神社:東京都大田区田園調布にある神社。

・全国にある浅間神社の一社。本殿の建築様式は浅間造であり、これは東京都内では唯一。
社殿は浅間神社古墳の上に建てられており、間に東急東横線を挟んで多摩川台公園の舌状台地に連なる。
・社殿までの参道は多数の溶岩が置かれ、富士塚のように富士登山を模している。
・富士山本宮浅間大社同様に、木花咲耶姫命を主祭神とし、熊野神社と赤城神社を合祀している。
創建は鎌倉時代の文治年間(1185年~1190年)と伝えられる。 源頼朝が豊島郡滝野川松崎に出陣した時、夫の身を案じた
 北条政子が後を追って多摩川まで来た。その時わらじの傷が痛んだため、この地で傷の治療をすることにして逗留した際に
 亀甲山へ登ってみると富士山が鮮やかに見えた。富士吉田には、自分の守り本尊である浅間神社があるので、政子はその
 浅間神社に手を合わせ、夫の武運長久を祈り、身につけていた正観世音像をこの丘に建てたという。それ以来、村人たちは
 この像を「富士浅間大菩薩」と呼び祀ったのが、この神社の起こりとされている。
・その後、1652年(承応元年)5月に浅間神社表坂の土止め工事をしていた時に、九合目辺りから正観世音の立像が発掘された。
 多摩川で泥を洗い流すと片足が欠けていたため、新たに足を鋳造して祀り、6月1日に神事を行ったという。これにならい、
 現在も6月に例祭を行っている。
・1907年(明治40年)に『一村に一神社』という合祀のための政令が出されたため、当時の東京府荏原郡調布村大字下沼部に
 あった赤城神社、熊野神社、浅間神社の三社のうち前二社を当社に合祀する。
・境内には、富士講中興の祖である食行身禄の石碑がある。明治15年に地元の講社が33回目の登山を記念して建てたものである。
 この石碑の字を書いたのは勝海舟である。by wikipedia


多摩川台古墳

多摩川台古墳は、八基からなる古墳時代後期の古墳群である。古墳群の南側には国指定史跡亀甲山古墳、北側には東京都都指定史跡
宝莱山古墳の二基の大型前方後円墳が古墳時代前期(四世紀)に築造されている。
 古墳群は、最初に二号墳が六世紀前半に築造され、二号墳を前方部として利用し、一号墳を後円部とする一基の前方後円墳(全長三
十九メートル)が六世紀後半に築造された。その後、三号墳から八号墳までの円墳(直径十三~十九メートル)が七世紀中頃まで継続
して築造された。
 発掘調査された古墳の横穴式石室内からは、副葬された直刀や鉄鏃等の武具類、耳飾りや管玉等の装身具類、馬具の轡、須恵器や土
師器が出土し、墳丘部からは円筒埴輪が発見された。
 本古墳群は、大田区田園調布付近から世田谷区野毛付近に所在し、昭和初期に五十四基の古墳が確認されていた荏原台古墳群の一支群
にあたる。今日、荏原台古墳群の多くの古墳が都市化の波に埋もれてしまっている中で、本古墳群は往時の姿をとどめているだけでな
く、当時の多摩川下流左岸地域の首長墓群の変遷をたどることができる貴重な古墳群である。

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九州11(福岡県糸島市・櫻井神社/櫻井大神宮/二見ヶ浦の夫婦岩)

2017-10-14 10:35:02 | ・神社・お寺

2017.9.8~11 親友と二人でオヤジ軍団九州旅行(佐賀~長崎~大分~福岡)へ行きました。 

9.11、いよいよ九州旅行も最終日、最終投稿です。櫛田神社参拝後、太宰府天満宮から、さ~て、何処へ行くか?
飛行機の時間ギリギリもイヤだしお土産も買いたいし空港で一杯やりたい気もするし(笑)

何となく海が見たい、玄界灘を見てみたい!ということで、糸島半島にある櫻井神社へ。宗像大社にも詣でてみたかった
んですけど、もしかしたら混んでいるかも・・・それと海から少し内陸なんで櫻井神社へ参りましたよ。

櫻井神社を目指すと、ドンと大きな鳥居が現れました。

桜井神社は、黒田藩二代藩主、黒田忠之が判断の頼りにした與止妃大明神を祀っている神社。 忠之公は、なにか困った
ことがあると、筑前の大預言者、浦姫(與止妃のお社)に相談するようになったようです。
https://糸島観光.com/sakurai-jinja01.html より。

 

クルマを停めて燈籠の間の参道へ

キリっとした空間の参道です。

太鼓橋を渡った参道側から。

手水舎と楼門

すごい楼門です。

扁額には「正一位與止妃大明神」とあります。與止妃(よどひめ)をお祀りする神社であることを示しています。
額は、亨保元年(1716年)に掲げられたそうです。

楼門、拝殿、本殿、全て県指定文化財です。

拝殿

拝殿内

うわ~・・・・今でもヨドヒメが感じられるような空間でした。

左は「二見が浦遥拝所」真ん中は「金比羅神社」

拝殿と本殿

本殿には寛永9年(1632年)の棟札が残っているそうです。

楼門を拝殿脇より。

本殿の更に奥の「岩戸宮」(奥宮)

この奥宮、慶長15年(1610)旧暦6月1日から2日暁にかけ、桜井の里を中心に雷鳴轟く大豪雨の中、岩戸神窟の口が
開いたそうです。 その後、近くの「浦」に住む浦新左衛門さんの妻に神がかりが起き、ご信託を告げるようになったと云わ
れています。 その噂が黒田忠之公の耳にも入り、様々なアドバイスを受けられたようです。 そうして、與止妃大明神を造営
されたようです。 https://xn--54q87zl1zrwk.com/sakurai-jinja01.html より。


桜井神社は福岡県糸島市志摩桜井にある神社。

主祭神は神直日神・大直日神・八十枉津日神。ほかに、創健者である筑前福岡藩第2代藩主黒田忠之の神霊である島岡大明神
を祀る。また、桜井村内にあった久保宮・西宮神社・熊野宮・伊牟田八幡宮・谷熊野神社・木浦神社・梅宮・末松神社の8社
の祭神も八所産土大神として合祀している
黒田忠之により寛永9年(1632年)に創建され、筑前国の信仰の拠点であった。
境内施設は、本殿・中殿・拝殿と、桜井猿田彦神社、塞の神、八神殿・須賀神社、日子・楠神社、春日神社、岩戸宮、
八幡宮、金比羅神社、二見が浦遥拝所、神楽殿がある。
本殿・拝殿・楼門は1977年(昭和52年)4月9日に、石橋(太鼓橋)は2003年(平成15年)に福岡県文化財として指定
された。by wikipedia

大宰府の後の参拝でしたので、とても静かで凛とした空気・空間が心地よかったです。その後、すぐお隣の櫻井大神宮へ。
こちらは、伊勢神宮からの分祀を受けた神社です。

桜井神社から南西部に離れたところに桜井大神宮がある。寛永2年(1625年)に黒田忠之により創建され、伊勢神宮から
分祀を受けた。2013年(平成25年)の伊勢神宮の式年遷宮で鳥居が譲与され移築された。by wikipedia

静かな参道です。

櫻井神社ご祭神のご神託を受けられた黒田忠之公が櫻井神社創建前の寛永二年(1625)に岩戸神窟の西南の地、光寿山
へ神明造り茅葺の社殿を造営し、伊勢神宮の祀官橋本氏により、伊勢神宮の内宮・外宮の両宮のご分霊を奉じさせ、ご鎮座
頂いたことがご創祀であります。
内宮・外宮を一宇に合祀されたご本殿の千木は向かって右が水平切りで内宮(天照大御神)を現し、向かって左が垂直切りで
外宮(豊受大御神)を現している当宮独自の建築様式であります。
当宮も伊勢神宮のご遷宮に倣い、宮地を2か所に定め、20年ごとに式年遷宮を執り行っておりましたが、第13回目にして
止まり、現在の社殿は慶応二年(1866)のもので、150年近く経っております。
http://sakuraijinja.com/sakuraidaijingu.html より。

「沈黙の空間」時も止まっているかのようでした。

櫻井大神宮では、この子(ハンミョウ)が道案内してくれましたよ。

境内脇の宮司さんのお宅のようです。

その後、櫻井神社からほど近い「大口海岸」へ。

大きな鳥居です。

大口海岸は桜井神社のお潮い取り(お清めの砂)の浜。かつては江戸時代の初めに2代藩主黒田忠之公が寄進した木の鳥居
があったが、その後4代藩主綱政公が石の鳥居に改築した。その鳥居も昭和5年に倒壊し、昭和32年になって現在の鳥居が
立てられました。 

反対側より。高い鳥居の上に石がたくさん。一回チャレンジしましたが、まあ難しいですね。

落雷注意報とか出ていましたが、何とか天気はもってくれました。天気の神様に感謝感謝^^

きめの細かい綺麗な砂でしたよ。
海岸は、サーフィンのポイントとなっており、夏場は多くのサーファーでにぎわっているようです。

遠く玄界灘に小島が浮かんでいました。何島かなあ?地図から判断すると小呂島かなあ??

大口海岸から観る桜井二見ヶ浦の夫婦岩。ここからだと普通の岩に見えちゃいますね。

鳥居近くのハマユウの花と実

その後、名所の「桜井二見ヶ浦の夫婦岩」へ。

クジラみたいですね^^

ホントに美しい夫婦岩と鳥居の風景ですね~。旅を締めくくるには最高でございました。
夕景もとても美しいみたいですよ~。

こちらは、2012.5に参った伊勢・二見ヶ浦の夫婦岩。 

博多湾西部の「魚庄大原店」でお魚昼食~。

その後、一気に空港へ。

4日間お世話になったキューブ。キビキビ走ってくれました^^

しかし、別府辺りから目的地設定ができたりできなかったり・・・。純正ナビが壊れているのかと思ってiphoneの
グーグルマップで走行しました。レンタカーを返す時にその旨を伝えたら、なんとサイドブレーキ連動型でサイド
ブレーキをかけないと目的地設定ができない仕組みだったのでした。あー・・・ずいぶんと苦労したのに・・・・。
レンタカーを返却後、レンタカー店から空港までのわずかな距離で小雨に降られましたが、結局傘は一度も開かず、
ホントに天候にも恵まれました。感謝感謝。

帰りは、SKY 020便 福岡 発 17:40 → 羽田 着 19:20 定刻通り飛んでくれました。以前、釧路で霧の為に帰れなかった
事があったので飛ぶまで気が緩みませんでした(笑)二時間前に空港に入って、お土産買って、ステーキハウスでつまみと
ビール&ワインで寛ぎましたよ。高円寺に着いて晩飯。これだけ上手いものを食べから・・・というわけで中華で相棒の
オヤジと反省会。いや~なかなか濃密な旅でございました。天気の神様と食の神様にも感謝感謝(九州旅行編・終)

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九州10(福岡・大宰府天満宮/天開稲荷社)

2017-10-13 07:00:57 | ・神社・お寺

2017.9.8~11 親友と二人でオヤジ軍団九州旅行(佐賀~長崎~大分~福岡)へ行きました。 

9.11、いよいよ九州旅行も最終日です。櫛田神社参拝後、太宰府天満宮へ向かいました。

太宰府天満宮のでっかい駐車場に入ると、大型バスがずら~~~り。

で、駐車場の脇には「免税店」。そう、海外からの旅行者が、わんさか居られたのでしたー。

駐車場から参道へ。

いや~スゴイ人です。平日の月曜日なのに。。。。 

参道には「梅ヶ枝餅」のお店がたくさん。帰りに一個食べましたよ。
「君がひとつ 僕が半分 梅ヶ枝餅を食べた~♪飛梅byさだまさし」

鳥居をくぐり直角に左へ行くと・・・

中世の鳥居
福岡県指定文化財。高さは6.17メートル、花崗岩製の明神型鳥居。笠木の反りはゆるやかで、柱高より柱間が広く造られて
いるのが特長。神社明細図には、「筑後国有坂城主新田大炊介建立」 と記されていますが、建築年代は不明。その形式から
南北朝から室町時代とみられています。九州最古の鳥居といわれています。

いや~、スゴイ人です。鳥居奥の太鼓橋が参拝者で溢れていますねー。

太鼓橋の上より。

心字池は「心」という漢字に形造られていることから心字池と呼ばれ、架かる3つの赤い橋は、太鼓橋、平橋、太鼓橋からなり、
それぞれ過去・現在・未来を表し、この橋を渡り水の上を歩くことで心身ともに清められ神前にすすむことになります。

「心字池にかかる 三つの赤い橋は 一つ目が過去で 二つ目が現在 三つ目の橋で君が 転びそうになった時 初めて君の手に触れた
僕の指♪飛梅byさだまさし」

今王社
藩主の代表者などが参詣の途中で穢れに会った場合、境内まで入らないでこの今王社に参詣した。

心字池と二つ目の「今」の橋。

志賀社
重要文化財。御祭神は、海神、綿津見三柱神(わたつみみはしらのかみ)。 古代後記より中世にかけて海外貿易を行っていた
安楽寺(太宰府天満宮)は、海上安全の海の神として祀る。 長禄2(1458)年の再建で、和・唐・天竺の三様式をもって構成
され、
当初は黒漆と金製金具をふんだんに使っていた美術工芸品ともいえる建造物である。(現地案内板)

三つ目の「未来」の橋を渡ります。

楼門 いや~立派ですね。

朱塗りの重層の入母屋造り、檜皮葺の二重門。慶長年間に石田三成が再興しましたが明治時代に焼失、1914年に再建。

楼門前の手水舎

御本殿

大宰権帥として大宰府に左遷され、この地で亡くなった菅原道真をまつる。学問の神として有名である。本殿はその墓所の上に
建立され、現在の本殿(重要文化財)は1591年の再建。

御本殿と飛梅

飛梅・・・天満宮の御神木樹齢1000年を超えるとされる白梅。で、菅原道真公が、無実の罪に問われて左遷されたとき、
梅に思いを残し、「東風ふかば にほひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」と詠んだところ、 主人を失った
梅は、道真を慕うあまり一夜にして太宰府へ飛したものだといいます。
「あなたがもしも 遠くへ行ってしまったら 私も一夜で飛んでゆくといった 忘れたのかい 飛梅♪ 飛梅byさだまさし」

「手を合わせた後で 君は御籤を引いて 大吉が出る迄と も一度引き直したね~♪ 飛梅byさだまさし」 

太宰府天満宮
福岡県太宰府市宰府にある神社。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は梅紋である。
菅原道真(菅原道真公、菅公)を祭神として祀る天満宮の一つ(天神様のお膝元)。
初詣の際には九州はもとより日本全国から毎年200万人以上、年間にすると850万人以上の参詣者がある。
現在、京都の北野天満宮とともに全国天満宮の総本社とされ、また菅公の霊廟として篤く信仰されている。

右大臣であった菅原道真は昌泰4年(901年)に左大臣藤原時平らの陰謀によって筑前国の大宰府に員外帥として左遷され、
翌々年の延喜3年(903年)に同地で死去した。
死後、その遺骸を安楽寺に葬ろうとすると葬送の牛車が同寺の門前で動かなくなったため、これはそこに留まりたいのだという
道真の遺志によるものと考え、延喜5年8月、同寺の境内に味酒安行が廟を建立、天原山庿院安楽寺と号した。

一方都では疫病や異常気象など不吉な事が続き、これらのできごとを「道真の祟り」と恐れてその御霊を鎮めるために、道真の
墓所の上に社殿を造営(安楽寺天満宮の創祀)。それでも「道真の祟り」は収まらず、沈静化することはなく、わずか30年ほど
の間に道真「謀反」にかかわったとされた天皇1人・皇太子2人・右大臣1名以下の高級貴族が殺害されたことになる。猛威を
振るう「怨霊」は鎮まらず、道真には太政大臣追贈などの慰撫の措置が行われ、道真への御霊信仰は頂点に達した。ついに
正暦元年(990年)頃からは本来は天皇・皇族をまつる神社の社号である「天満宮」も併用されるに至った。文明12年(1480年)
に当地を訪れた連歌師の宗祇が『筑紫道記』にこの安楽寺天満宮のことを記しているが、道真の御霊に対する恐れも少なく
なってきた中世ごろから、道真が生前優れた学者であったことにより学問の神としても信仰されるようになった。by wikipedia

御本殿の神鏡にピントを合わせてみました。

ちょうどお祓いをされていました。

御本殿脇より

本殿裏の摂社と夫婦樟  ものすごい生命力を感じるクスでした!この本殿裏の空気・空間はとても良かったですね。

「摂社と末社」・・・神社本庁監修の冊子によると本社(本殿)のご祭神に所縁のある神、ご本社祭神の荒魂、さらに
その土地に古くから鎮座されていた地主神を祠る神社を「摂社」。それ以外の「末社」という。

こちらも本殿裏。絵馬がたくさん^^

厄晴れひょうたん

太宰府の里人の間では、天神さまがこよなく愛された梅の木の下で「ひょうたん酒」を飲むと厄から逃れられるという信仰があり、
44歳(数え年、以下同じ)を厄年としてご祈願を受ける風習が残されています。

瓢箪は、「三つで三拍(三瓢)子揃って縁起が良い、六つで無病(六瓢)息災」などといわれ、縁起物として掛け軸や器、染め物
などの意匠にも見られる。そのため、豊臣秀吉の「千成瓢箪」に代表されるように、多くの武将が旗印や馬印などの意匠として
用いた。by wikipedia

楼門内・御本殿はとても人が多いので裏側から境内脇へ。

相輪塔
仏教の塔の新しい形式で伝教大師(最澄)によって伝えられ、心柱が通り下から露盤、覆鉢、請花、九輪、水煙、竜舎、
宝珠の各部から成る。享和2年(1802)に建立し弘化4年に再建、1075年大祭記念として東神苑からこの地に移した。
わが国に8基あり、九州にはこの1基が現存し,貴重な建造物である。「案内板」 

左奥の山道へ吸い込まれるように向かいます。

山道を何となく登っていきます。その空気感とはアンバランスな隣接する「だざいふ遊園地」の賑やかな音が聞こえてきます。

麓から続く天開稲荷社の鳥居。本来はこちら側から上がってくるのですが、尾根上から稲荷神社へ参りました。

天開稲荷社  女性が多いです。

天開稲荷社
「天開稲荷大明神」の旗が・・・。
帰宅してから調べたところによると・・・

・太宰府天満宮の中のあまり知られていない有名なパワースポット
・社名に由来するように古来より天に開かれた社とされ、五穀豊穣・商工業の発展、更には人々に開運と幸運をもたらす神
 として広く信仰されています。
・祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)は穀物の神
・天開稲荷社は、鎌倉時代、総本山である伏見稲荷大社から宇迦之御魂神の御分霊を頂き、祀るようになったのが始まり。
・稲荷社は、本来、朝鮮半島から最新の文化・技術を日本に伝えた秦氏(はたし)という一族の氏神を祀る神社。
・商工業が発展するとお稲荷様を五穀豊穣だけでなく、商売繁盛・商業発展の神とも考えるようになる。
九州最古の稲荷社と言われている。

本殿奥の「奥の院」

奥の院は、石室で狭く一人ずつ入って参拝します。神様と1対1で向かい合う空間です。願いを聞き入れて頂けそうですね。

麓から続いている参道

思いだした! 14年前に会社の慰安旅行で来たときに、ここで昼食をしたのでしたー。

「裏庭を抜けて お石の茶屋へ寄って 君がひとつ 僕が半分 梅ヶ枝餅を食べた~♪ 飛梅byさだまさし」

太宰府天満宮の本殿横にある「ひろはちしゃの木」。樹齢約700年で中が空洞。国の天然記念物に指定されています。
チシャノキ(ムラサキ科チシャノキ属の落葉高木)
和名は、若葉の味がチシャに似ていることから。また、樹皮や葉がカキノキに似ていることから、カキノキダマシともいう。

というわけで、「さだまさしの飛梅♪」を思い出し、口ずさみながら参拝したのでした。この楽曲は大学二年の時に、
「まつぼっくり」というフォークバンドで演奏していたので、良く憶えていたのでしたー♪

太宰府は、特に弥生時代や古墳時代を通じて、玄界灘沿岸は、アジア大陸との窓口という交通の要衝であった。そのため、
畿内を地盤とするヤマト政権が外交や朝鮮半島への軍事行動の要衝として、出先機関を設置することになった。
by wikipedia

地図を見ると、壱岐島、対馬島を経て朝鮮半島はホントに近いですね。世界遺産となった宗像大社沖津宮の沖ノ島も近くに
あります。いろいろとこの国の成り立ちやイメージが膨らんだ天満宮参拝となりました。
次回はいよいよオヤジ軍団九州旅行の最終回です。

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九州9(博多・櫛田神社)

2017-10-12 06:52:15 | ・神社・お寺

2017.9.8~11 親友と二人でオヤジ軍団九州旅行(佐賀~長崎~大分~福岡)へ行きました。

9.11、いよいよ九州旅行も最終日です。ホテルをチェックアウト後、櫛田神社へ参拝に行きました。少し天気は下り坂です。

櫛田神社は、古くより博多の氏神・総鎮守として信仰を集めている神社である。7月の博多祇園山笠や10月の博多おくんち
などの祭事をおこなう。5月の博多松囃子(博多どんたく)は厳密には櫛田神社の祭事ではないものの、松囃子一行は櫛田
神社から出発するしきたりになっている。旧社格は県社。地元の博多の人々からは「お櫛田さん」と愛称で呼ばれている。
by wikipedia

いや~賑やかな?明るい気を感じる佇まいですねー。

境内の入り口付近の「櫛田の銀杏」。樹齢約1000年。博多祝い唄に「さても見事な櫛田のぎなん」と唄われています。
県の天然記念物。すごい存在感ですよ。

入口の鳥居のすぐ内側に楼門があります。
櫛田神社の正面桜門には「威稜」の大額があるますが、「威稜」(いつ)とは「天子、天皇の御威光」の意味だそうです。

櫛田神社楼門天井にある干支恵方盤。
毎年大晦日に,新しく迎える年のえとに矢印を回転させて,その年の恵方・方位を示すそうです。

境内 

手水舎

境内参道から「飾り山」がちらりと・・・後程^^

昭徳灯篭

中神門

 

拝殿
立派な拝殿ですねー。

9時過ぎですが結構の参拝者が居られましたよ。

霊泉鶴の井戸
本殿地下から湧き出る霊泉で不老長寿のいのち水として信仰されています。

拝殿内

拝殿内の天井絵。天狗のお面がたくさん・・・山岳信仰と繋がりがあるのでしょうか? 

祭神は大幡大神(櫛田大神)、天照皇大神、素盞嗚大神(祇園大神)の三神で、正殿に大幡主神、左殿に天照大神、
右殿に素盞嗚神が祀られている。
当社以外にも日本全国にいくつかの櫛田神社があるが、それらが櫛名田姫を主祭神とする神社であるのに対し、
当社では櫛名田姫は祀られていない。ただし、元々は櫛名田姫を祀る神社であったとする説もある。
大幡大神(大幡主命)は伊勢国松坂の櫛田神社から勧請した神とされている。別名を大若子命といい、天御中主神の
19世の子孫で、北陸地方で怪物を退治したとされる。

社伝では、天平宝字元年(757年)、松阪にあった櫛田神社を勧請したのに始まるとされ、松坂の櫛田神社の祭神の
大幡主神が天照大神に仕える一族の神であったことから、天照大神も一緒に勧請されたと伝えられる。
天慶4年(941年)、小野好古が藤原純友の乱を鎮めるために京都の八坂神社に祈願し、平定した後に当社に素盞嗚神を
勧請したと伝えられるが、平安時代末期、平清盛が所領の肥前国神埼の櫛田宮を、日宋貿易の拠点とした博多に勧請
したという説が最有力。しかし、それは同市早良区の櫛田神社のことであるという反論もある。
戦国時代に荒廃したが、天正15年(1587年)、豊臣秀吉によって博多が復興されるときに現在の社殿が造営された。
明治元年(1868年)の神仏分離令より前の江戸時代までは東長寺に属する神護寺が櫛田神社を管理していた。by wikipedia

おみくじは、日本語、英語、韓国語、中国語、台湾語^^

境内の博多祇園山笠の飾り山。いや~、でっかいです。奇稲田姫(櫛名田姫)も観られますね。

博多祇園山笠
福岡市の博多区で毎年7月1日から7月15日にかけて開催される700年以上の伝統のある祭。
櫛田神社にまつられる素戔嗚尊に対して奉納される祇園祭のひとつ。正式には櫛田神社祇園例大祭。

博多祇園山笠の起源については諸説あるが鎌倉時代の1241年(仁治2年)に博多で疫病が流行した際、承天寺の開祖であり
当時の住職である聖一国師(円爾)が町民に担がれた木製の施餓鬼棚に乗り水を撒きながら町を清めてまわり疫病退散
祈祷したことを発祥とするのが通説である。

山笠の形態
京都の

がそのルーツであると思われる。京都の舁き山は、松を飾り、人形を飾り、傘を立てる。山笠は、舁山笠、
飾り山笠共に御神入を行い、神様の依り代となる。経緯は不明であるが山笠は多くの幟を立て人形を飾った背の高いもの
に変化した。江戸時代初期に描かれた「博多祇園山笠巡行図屏風」には、このような幟山笠が描かれている。

「飾り山」として見られるような岩山笠は三苫惣吉が1752年(宝暦2年)に始めた様式といわれる。この頃の山笠は高さが
10メートル以上あり、町のどこからでも望むことができた。1898年(明治31年)、福岡県知事が山笠行事の中止を
提議した。理由に山笠が電線を切断する事故が相次いだことが含まれていたため、それまでの高い岩山笠は飾っておく
だけの「飾り山」とし、運行には3メートル程の「舁き山」を用いることとなった。その後、1979年(昭和54年)に
市内の路面電車が全廃されると、舁き山の高さは徐々に緩和されるようになり、現在は4.5メートルまでとなっている。
by wikipedia

境内の夫婦恵比寿神社

夫婦銀杏(夫婦円満・縁結びの願掛けが多いそうです)と南神門

みこし舎

本殿の真裏の末社なのですが、まるで稲荷神社のように鳥居が連なっていました。このようなタイプの末社?は初めて見ました
ね。手前から、石堂宮、今熊宮、諏訪神社、金毘羅宮、松尾宮、天満宮・・・鳥居の最奥には、不思議な形状の御神体の石。
う~ん・・・御神体の石を調べてみましたが、ちょっとよく解りませんでした。

稲荷神社

本殿裏と末社と絵馬

境内図を見ながら整理していますが、何処なのか解らなくなっちゃいました^^;
ともあれ、地元の引力のとても強い氏神様と感じましたね。歴史のあるお祭りもそうですが、その思いの蓄積というか、
時代を超越して地元と人々と共にある・・・そんな神様を感じたのでした。

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九州8(大分県・八幡総本宮 宇佐神宮)

2017-10-10 06:40:55 | ・神社・お寺
2017.9.8~11 親友と二人でオヤジ軍団九州旅行(佐賀~長崎~大分~福岡)へ行きました。美味しい手打ちうどんを
食べた後、国東半島の北の付け根に位置する「宇佐神宮」に向かいました。宇佐神宮は、全国に4万社余りある八幡様
の総本宮
です。
日曜日の15時頃でしたが、参拝者もさほど多くなくてノンビリ歩けました。
 
広々~~~とした駐車場に停めて、ぐるりと回って参道正面へ。

参道も広々として長いですねー。西陽が強烈で暑かったですよ。

表参道商店街

代表的な特産品である大分のかぼすは全国の生産量の90%以上を占めています。柚子も特産品で、人気のある
「ゆずこしょう」も、もともとは九州の特産品で、最初にゆずこしょうが作られたのは大分県といわれていますよ。

26号蒸気機関車
この型の蒸気機関車は、 全国に4両しか保存されてない貴重なもので、 大分県指定有形文化財。
 宇佐参宮線26号蒸気機関車は、 明治24年(1891)に ドイツ・ミュウヘン市のクラウス社が製造、 明治27年(1894)に
九州鉄道が購入し活躍していましたが、 昭和23年(1948) 機関車の大型化に圧され 大分交通に譲渡の後、 宇佐参宮線の
主役となりました。 宇佐参宮線は、 大正5年(1916)3月開業し、 昭和40年(1965)8月に廃止されました。

寄藻川に架かる神橋

いよいよ境内へ。

大鳥居 でっかいです。

黒男神社
宇佐神宮大鳥居の近くに鎮座。ご祭神は、武内宿禰。

宝物館 帰りに寄ろうと思ったらもう閉まっちゃってました。

能楽殿と菱型池

欽明天皇の29(569)年、宇佐神宮境内の菱形池のほとりの泉のわくところに、ひとつの身体に八つの頭という奇異な姿の
鍛冶をする翁があらわれて、この姿を見た者はたちまち病気になったり死んだりしました。 大神比義が見に行くと老人の姿
なく、かわりに金色の鷹が見えました。比義が『誰かによって鷹に変えられたのか、自分の意志で鷹になったのか』と問う
と、鷹は金色の鳩となって比義の袂の上にとまりました。
神が人を救済されようとして自ら変身されたことを知った比義が、3年あまり断食をして祈り続けたところ、ついに欽明天皇
32(571)年2月初卯の日に、この泉のかたわらの笹の上に光かがやく3才の童子があらわれ『われは
誉田の天皇広幡八幡麿なり。 わが名は護国霊験威力神通大自在王菩薩で、 神道として垂迹せし者なり』と告げられました。
そしてたちまち黄金の鷹になって駅館川の東岸の松の上にとどまったといわれます。 そこに和銅元年(708)鷹居社をつくり
八幡さまを祀り、のち霊亀2年(716)小山田の林に移られ、ここに小山田社を造営。神亀2年(725)年に現在の社地、
亀山(菱形山とも小椋山ともいう)に移されて八幡大神様が鎮座されたのが宇佐神宮の創立です。宇佐神宮hpより。

手水舎

春宮神社

表参道の手水舎の先、右側に鎮座。御祭神:菟道稚郎子命(うじのわきのいらつこのみこと)
応神天皇の御子神で、勉学に励み寵愛されていましたが、兄の大鷦鷯命に皇太子の座を譲りました。学問の神様(宇佐神宮HPより)

左の鳥居は上宮へ。右の鳥居は下宮へと向かいます。

上宮へ向かう鳥居へ。

良い参道です。柔らかな空気を感じました。

亀山神社

亀山神社御祭神:大山積命(おおやまづみのみこと)
上宮が鎮座している小椋山は、亀山といいます。亀山神社は、亀山の山の神である大山積命を祀る神社です。(宇佐神宮HPより)

若宮神社

若宮神社御祭神:応神天皇の若宮であられる大鷦鷯命(仁徳天皇)と皇子をお祀りしています。除災難・厄難として有名です。

西大門

文禄(1592年 - 1596年)頃の建造とされ、安土桃山時代の様式。
なぜ宇佐鳥居の写真が無いのだろう。。。。見た記憶もない。。。不思議だなあ。

むむ・・・どうなっているんだろう?なかなか境内の中は複雑?迷路?のようです。

西中門(写真左側)
上宮本殿は、2棟の切妻造平入の建物が前後に繋がった形の八幡造。国宝指定。本殿はこの西中門の内側になります。本殿は
写真撮影禁止。

巨大な拝殿??が現れました。
しばらく佇んで眺めていたら、拍手が何となく多い。なんと宇佐神宮では4回手を打つ四拍手が古儀となっていました。

左の「一之御殿」、中央の「二之御殿」、右の「三之御殿」と順にお参りするようです。

一之御殿の拝殿

一之御殿御祭神:八幡大神 1860年(万延元年)建立

二之御殿(二之御殿は、この奥です。この写真に写っているのは南楼門)

二之御殿御祭神:比売大神 1859年(安政6年)建立

三之御殿の拝殿

三之御殿御祭神:神功皇后 1861年(文久元年)建立

宇佐神宮

大分県宇佐市にある神社。式内社(名神大社3社)、豊前国一宮、勅祭社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
全国に約44,000社ある八幡宮の総本社である。石清水八幡宮・筥崎宮(または鶴岡八幡宮)とともに日本三大八幡宮の一つ。
古くは八幡宇佐宮または八幡大菩薩宇佐宮などと呼ばれた。また神仏分離以前は神宮寺の弥勒寺と一体のものとして、正式には
宇佐八幡宮弥勒寺と称していた。 現在でも通称として宇佐八幡とも呼ばれる。

大分県北部、国東半島付け根に立つ御許山(標高647m)山麓に鎮座する。本殿は小高い丘陵の小椋山(亀山)山頂に鎮座する
上宮とその山麓に鎮座する下宮とからなり、その周りに社殿が広がっている。境内は国の史跡に指定され、本殿3棟は国宝に指定
されている。八幡宮の総本社であり古くから皇室からの崇敬を受けているほか、称徳天皇時代の宇佐八幡宮神託事件でも知られる。
参拝は一般と異なり、二拝四拍手一拝を作法としている。by wikipedia

神社本庁と大分県神社庁宇佐支部の宮司の継承を巡る騒動は・・・未だ続いているようです。。。。。が、参拝者が向かい合う
のは、神社ではなく神社の神様ですから・・・。

百段

上宮の南側に石段があり、その下(道路沿い)に南大門があります。

大昔に鬼がいて、「人を喰べていいか」と神に許しをこうたところ、大神は「わが宮の石段百段を一夜に築いたならば許して
やろう」と言われました。鬼は懸命に石段を積みましたが、99段目まで積み上げたとき、大神は鶏を鳴かせて夜が明けたと
告げられました。鬼は原(はる)の蛇堀の池に身を投げたといいます。これは石段にまつわる伝説です。昭和造営前の石段は
大石を使った荒造りでした。(宇佐神宮HPより)

下宮へと向かいます。

下宮参拝のご案内 宇佐神宮には、現在皆様がお参りのこの「上宮」と、これより約200mほど下った「下宮」の、二つの大きな

神域がございます。 このふたつの神社は、共に同じ御祭神を祀り、古来「上宮」は国家の神として、「下宮」は民衆の神として、
皇室をはじめ国民より篤い崇敬を集めてまいりました。現在でも月々の祭祀は、上宮下宮同様に厳修致しております。 ご参拝の
皆様には「片参り」となりませぬよう、是非「下宮」へご参拝いただきたくご案内申し上げます。(現地案内板より)

下宮(御炊宮・みけみや) 下宮の八幡大神は、御饌(みけ)を司ると共に、農業や一般産業の発展、充実をお守りになるご神威
を発揮されます。古くから日常の祭祀には、とくに国民一般の祈願や報賽(ほうさい)が行われてきました。 下宮は嵯峨天皇の
弘仁年間(810年~824年)に朝廷より造宮使が遣わされ、上宮のご分神をお鎮祭し創祀されました。古くは御炊殿(おいどの)
ともいわれ、神前にお供えする御饌(食事)を炊く竈殿(現在下宮授与所)があり、農業・漁業をはじめとする一般産業の発展
充実を御守りになる神様であります。 上宮と同様に歴代の皇室をはじめ、国民の崇敬篤く、特に宇佐地方では「下宮参らにゃ片参り」
と称されて親しまれております。また、一之御殿には、八幡大神を顕しになった大神比義の霊を祀る大神祖神社が相殿として奉斎
されております。(現地案内板より)

養蚕神社御祭神:天照皇大神八坂神社と並んで祀られています。

呉橋を見損ねました。残念です。。。。
(鎌倉時代より以前からある西参道の屋根がついた神橋です。昔、呉の国の人が架けたともいわれ、呉橋と名付けられています。)

宇佐神宮西からの入口・呉橋から続く西参道の両側一帯には、かつて『弥勒寺』なる神宮寺があった。弥勒寺は、応神八幡神の
小椋山鎮座(725)に併せて建立された二つの神宮寺・弥勒禅院(日足禅院)と薬師勝恩寺を統合して宇佐八幡宮の境内に
移築した神宮寺。この弥勒寺の建立は、単に二つの神宮寺を統合移築したというのではなく、神と仏を名実共に一体する
ためのもので、国家鎮護仏として弥勒菩薩(講堂本尊)を主体に、当時の社会を覆っていた疾病苦難の救済仏として
薬師如来(金堂本尊)を併せ祀ったものという。一般に神宮寺の建立は、当時の神仏習合思想をうけて、宿業によって
神身を受け苦悩する吾(神)の救済を求める神身離脱思想によるものが多いが、当初から仏教と習合していた八幡神には
神身からの離脱という意志はなく、八幡神がもつ神仏の一体性を目に見える形で具体化したのが弥勒寺建立だったともいう。
この2寺は、八幡宮の神宮寺的性格をもつとはいえ、いまだ氏寺的性格をもった寺で、これを統合した弥勒寺は、氏寺的
性格から脱した国家鎮護の寺・国分寺的性格の寺だったともいう。宇佐八幡宮の歴史を語るとき、弥勒寺に象徴される仏教
を除くことはできない。http://www.y-tohara.com/usa-mirokuji-2.html より。

というわけで、宇佐鳥居は意識せず、呉橋はスルーしてしまい残念でしたが、やはり素晴らしい神社でしたねー。
これから、あちこちの八幡神社へ参ると思いますが、その都度にこの宇佐神宮を思い出すのでしょうね。

16時過ぎに宇佐神宮を出発。18時過ぎに博多の「ホテルニューガイア天神南」着。シャワーを浴びて飲みに街へ出ました。
別府同様に福岡に泊まるのも初めてなので土地勘が全くなし。博多といえば中州、屋台は知っていましたが、どうもホテル
からそこそこ距離があるみたいだし、お疲れモードだったのでホテルの近くを探索。


5000円お任せコース飲み放題の看板が目に入って、こちらで飲食しました。博多海鮮処「雅」。
いや~、大当たりでしたよ。美味しかった~~。

 

ヒラメの煮付け~

締めはウニ乗せ焼きオニギリ~

やっぱり醤油は甘めでしたね。お酒は地元では辛口が好まれるようです。「繁枡」超辛口~^^
従業員のおねえさんも明るかったし、若い大将の「気」もピュアな感じだったなあ。お刺身も新鮮でホント美味しかった^^

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