~風に吹かれて~ by ポー(paw)

-人の中に 人の創り出した物の中に 動植物の中に 地球や宇宙の中に 魂の琴線にふれ 愛を感じながら 生き込みたい-

大宮八幡宮/多田神社

2016-12-30 16:16:29 | ・神社・お寺

2016.12

ときどき詣でている大宮八幡宮へ行ってきました。あまりに身近な神社なので詳細を調べることがなかったのですが、

今回調べてみました。

 

大宮八幡宮(杉並区)

由緒と歴史(神社HPより)

第70代・後冷泉天皇の天喜年中(1053〜57)に、奥州に乱(前九年の役)が起き、この乱を鎮めよとの勅命をうけた

鎮守府将軍・源頼義公の軍がこの大宮の地にさしかかると、大空には白雲が八条にたなびいて、あたかも源氏の白旗が

ひるがえるような光景となりました。源頼義公は、「これは八幡大神の御守護のしるしである」と喜ばれ、乱を鎮めた暁には

必ずこの地に神社を構えることを誓って、武運を祈り出陣されました。そして奥州を平定して凱旋のおり、誓いの通り

康平6年(1063)、京都の石清水八幡宮より御分霊をいただいて、ここに神社を建てました。

かつては武蔵国三大宮の一つ「多摩の大宮」あるいは「武蔵国八幡一之宮」と称され、昭和44年に境内の北端につづく

旧境内地から弥生時代の祭祀遺跡や族長の住居跡が発掘され、この地は太古からの聖域であったことが判明致して

おります。

なるほど、パワースポットと云われるだけの聖域でもあるわけですね。

まだ紅葉していましたよ。

大祓

日本の神道儀式の祓の1つ。祓は浄化の儀式として宮中や神社で日常的に行われるが、特に天下万民の罪穢を祓うという意味で

大祓という。1年のうち、毎年6月と12月の晦日に行われるものを恒例とする。

民間行事としての大祓は、応仁の乱で宮中行事として廃絶した以降は、神仏習合の影響で民間でも行われることはほとんどなくなった。

1871年(明治4年)の太政官布告で大祓の復活が宣ぜられた。これにより神仏分離が行われた全国の神社でも毎年の大祓が行われる

ようになった。wikipediaより要約

お宮参りの方もおられました。青い空が印象的な日でした。

若宮八幡神社と大宮稲荷神社

冬桜 満開過ぎていました。 

多摩清水社

「この多摩の清水は「多摩の大宮」といわれた武蔵野の昔を想望してつくられ、今なお、御神水がわき出しています。」

との事ですが、もうずいぶん昔に周辺の宅地化で枯れてしまったらしく、今はその場所に井戸を掘って汲み上げているようです。

水道のように蛇口をひねって水を出すのが何だかなあと思いましたが、美味しいようでペットボトルに入れて持ち帰る方が

多かったですよ。


その後、母校の泉南中学校へ。学校の前に下記の看板がありました。

縄文中期・弥生時代~古墳時代の遺跡がたくさんあったようですね。そしてすぐ近くに大宮八幡宮。

当時の生活・祭祀の様子が、ふわ~っと浮かんできたのでした。

 

その後、「多田神社」へ。

平安時代中期の武将・多田満仲(源満仲)公を祀る神社です。

多田神社 神社hpより

「満仲公は第56代清和天皇の御曽孫多田源氏の祖神である。幼少より文武両道に秀で国家に凛然として輝き、武門の棟梁たる勅諚を

賜り国家鎮護の大任を課されたのみならず、或は沼地を開拓して広大なる田畑を造成し、或は河川を改修して農耕の拡大に寄与し、

併せて源氏興隆に確固たる基礎を築かれた。

その第2子は歴史上著名な頼光公であり、第4子頼信公は平忠常を討ち関東を平定した。続いて頼義、義家の父子二公は

前九年後三年の両役に大軍を率いて、奥羽の地に赴きその凱旋の帰途、寛治6年(1092年)祈願達成の報賽として大宮八幡宮に

神鏡を献じ、別当宝仙寺を建立すると共に宮八幡宮造建の時の八幡宮神供の雑色料の地である当地に日頃淑敬する満仲公の祠を

建てたところ雑色村の鎮守社として住民に崇敬せられてきたということが「武蔵名勝図会」に記されている。新編武蔵風土記稿には

「多田権現稲荷合社」と記されている。」

 

 小学生だった頃、確かにこの辺りで遊んだ思い出がわずかに浮かんできたのでした。


鳩森八幡神社(富士塚)

2016-12-27 08:24:21 | ・神社・お寺

2016.12

鳩森(はとのもり)八幡神社へ参ってきました。花園神社から千駄ヶ谷まで歩きましたよ。

鳩森八幡神社

『江戸名所図会』によると大昔、此の地の林の中にはめでたいことが起こる前兆の瑞雲(ずいうん)がたびたび現れ、ある日青空より

白雲が降りてきたので不思議に思った村人が林の中に入っていくと、突然白鳩が数多、西に向かって飛び去った。

この霊瑞(れいずい)に依り 神様が宿る小さな祠(ほこら)を営み鳩森『はとのもり』と名付けた。貞観2年(860年)、慈覚大師(円仁)が

関東巡錫の途中、鳩森のご神体を求める村民の強い願いにより、山城国石清水(男山ともいう)八幡宮に宇佐八幡宮を遷座し給うた

事にのっとり、神功皇后・応神天皇の御尊像を作り添えて、正八幡宮とし尊敬し奉ったと伝えられている。

http://www.hatonomori-shrine.or.jp/publics/index/5/ より。

 

で、大好物の浅間神社がございました。

千駄ヶ谷の富士塚(都指定有形民俗文化財)

寛政元年(1789)の築造と言われ、円墳形に土を盛り上げ、富士山の溶岩は頂上近くのみ配されています。
頂上に至る登山道は自然岩を用いた階段となっており、山腹にはクマザサも植えられています。山裾の御影
石の里宮(浅間社)をはじめ、7合目には身祿様が安置されている洞窟、烏帽子岩、釈迦の割れ石、山頂に
ボク石で覆われている奥宮等富士山を再現しています。また富士塚の前にある池にみたてた場所には毎年開
山式(6月3日)の頃菖蒲が咲き、訪れる人の目を楽しませています。
http://www.hatonomori-shrine.or.jp/publics/index/74/ より。
 
この富士塚ですが、1923年(大正12年)の関東大震災の際には修復されているものの建造当時の旧態を留めており、
移築などが行われていない都内に現存する富士塚の中では最古のものとなっているそうです。

冨士浅間神社

山頂の奥宮

富士塚頂上より

昔はほんものの富士山も見れたのかなあ。子どもたちの遊び場になっていていい感じでしたよ。

神明社

将棋堂 棋力向上、勝負運向上力向上、勝負運向上^^

甲賀稲荷社

ご神木の大銀杏

昭和20年5月25日の山の手大空襲から奇跡的に焼失を免れた大銀杏。樹齢は推定400年。

存在感ありましたよ。黄葉は綺麗なのでしょうね~。


花園神社

2016-12-26 08:52:12 | ・神社・お寺

2016.12 花園神社へ寄ってきました。

花園神社は、東京都新宿区にある神社です。

新宿の街の中心にあり、新宿総鎮守として江戸時代に内藤新宿(江戸時代の宿場)が開かれて以来の、街の守り神として祀られている。

また敷地内では各種劇団による催し物などが定期的に開かれ、新宿の街の文化の一翼も担っている事でも知られている。

創建の由緒は不明であるが、徳川家康が江戸に入った1590年にはすで存在しており、大和国吉野山よりの勧請と伝えられている。

その後、当地に内藤新宿が開かれるとその鎮守として祭られるようになった。by wikipedia

大鳥居

拝殿

創建以来、幾度も大きな火災に見舞われ、その度に社殿を再建してきました。第二次大戦の戦災後、社殿が老朽化したため、

昭和40年6月に鉄筋コンクリート造りの社殿、社務所が完成し、現在に至っています。

威徳稲荷神社

境内の隅に「芸能浅間神社」御祭神は木花之佐久夜毘売もあったようです。

江戸の昔から芝居や舞踊の興行に縁が深かったため、演劇や歌曲など芸能関係の奉納が多いことで有名です。 

南側より。

写真では暗くて分かりずらいですが、鳥居をくぐると、銅の唐獅子があり、文政4年(1821年)に名工村田整珉により鋳造された、

新宿区の有形文化財として登録されています。銀杏の枯葉まみれでしたが・・・。


田無神社(龍神の神社でした)

2016-12-25 09:36:14 | ・神社・お寺

2016.12 田無神社へ参拝に行きました。

田無神社は、東京都西東京市田無町三丁目にある神社。

参道

田無神社境内深くから汲み上げた御神水

神社のhpによると、http://tanashijinja.or.jp/about_detail.html

「移りすんだ直後は生活用水にさえ困り、人々は谷戸まで水をくみに行く生活を余儀なくされました。このような状況は元禄九年

(1696年)に田無用水が玉川上水から分水されるまで続きました。田無神社の本殿の正面には、湧き水から水を汲む図が彫られて

います。谷戸から移り住んだ祖先の苦労へのねぎらいと、本来は水の守り神である尉殿大権現への厚い信仰をみる事が出来ます。」

となっています。田無用水は田無神社まで来ていたようで、境内には「田無用水」の立て札や「神橋」があります。

現在の御神水は、境内深くから汲み上げられているようですが、当時は湧き水があったのか?田無用水に関係しているのか?

ちょっとググっただけですけど解りませんでした。

参集殿

参集殿はそれまで宮司宅で行われていた集会や結婚式の場として昭和十年に建てられました。(国登録有形文化財)

wikiによると、

・田無神社の創建は、鎌倉時代後期の正応年間(1288年 - 1293年)と伝わり、同社は田無北部の谷戸の宮山に鎮座し、

尉殿大権現(じょうどのだいごんげん)と呼ばれ、龍神を祭神としていた。

・江戸時代初期、徳川家康が江戸幕府を開くにあたり、城や町の建造のために大量の石灰を必要とし、石灰を青梅の地に求め、

青梅街道を開いたが、その際、肥沃な谷戸の住人が南の青梅街道沿いに移住し、宿場町・田無を造営した。この動きの中で、

1622年(元和8年)、宮山に鎮座する尉殿大権現が上保谷に分祀され、1646年(正保3年)、宮山から田無(現在地)に分祀され、

1670年(寛文10年)、宮山に残っていた尉殿大権現の本宮が田無に遷された。

・1872年(明治5年)、尉殿大権現は熊野神社、八幡神社を合祀、田無神社と社名を改めた。

その際、主祭神・大国主命と須佐之男命、猿田彦命、八街比古命、八街比売命、日本武尊命、大鳥大神、応神天皇をも祀り、

現在に至っている

拝殿

拝殿中央の龍が印象的です。

金龍神は、本殿の中に合祀されています。

拝殿は、明治八年の建築で、その造営は地元大工の手により、江戸の優れた大工技術を継承した非常に貴重なもの。

拝殿の内外には、様々な彫刻が施されています。素晴らしい拝殿でした。

「津島神社」と「舞殿」

神輿庫

土俵

昭和の大横綱であった故大鵬幸喜親方が平成五年に田無神社五穀豊穣祭を記念して開いた土俵。

青龍神

もっとも「気」を感じた龍神様でした。望遠にて撮影。

黒龍神

撫龍

白龍神

 

というわけで沢山の龍神様がおられました。赤龍神様を撮り損ねました^^;

田無神社には五行思想に基づいて五龍神がお祀りされています。中心の本殿に金龍神、東方を青龍神、南方を赤龍神、

西方を白龍神、北方を黒龍神が御守護されています。

 

スピリチュアリズムから観る龍神に関しては、下記の記述がありました。

自然霊、可憐な乙女の姿をしたフェアリー、ずんぐりむっくりで愛嬌のあるブラウニーといった、進化の程度からいえば人間より

低いレベルにありながら人知れず造化にいそしんでいる精霊たち、他方、人間の遠祖として日本人の信仰の対象とされ、

西洋の霊能者の中にもその存在を指摘する者が現れはじめている’竜神’の問題ー物的身体に一度も宿ることなく進化を遂げながら、

しかも大自然の進化の原動力となっている目に見えない存在もまた、スピリチュアリズムの範疇に属する重大な課題なのである。

「人生は本当の自分を探すスピリチュアルな旅 近藤千雄著より」


九万八千(くまんはっせん)神社(埼玉県日高市高麗本郷)

2016-12-24 13:37:31 | ・神社・お寺

2016.12

ナビを見ていたら、「九万八千神社」。う~ん・・スゴイ名前の神社だなあという事で寄ってみました。

小高い丘の上にありました。

社名九万八千は珍しい名前ですが、一説に九万(高麗)と八千(新羅)に由来するものという。

この高麗地域は上古渡来人の住居した場所であることから興味深い説ではあります。

鳥居辺りからの眺め。筋雲が綺麗でしたよ。


広瀬浅間神社(埼玉県狭山市)富士塚

2016-12-23 08:01:00 | ・神社・お寺

2016.12

ナビを見ていたら「浅間神社」が出てきたので寄ってみました。

万延元年(1860)7月、安産、鎮火、養蚕業の発展を祈願して、上広瀬・下広瀬の両村の住民により創建されました。

毎年8月21日に行われる「広瀬浅間神社の火まつり」は狭山市指定の無形民俗文化財です。

あっという間に富士山頂^^

富士塚(ふじづか)は富士信仰に基づき、富士山に模して造営された人工の山や塚である。

江戸時代には一般的に「お富士さん」などと呼ばれ親しまれていた。by wikipedia

東京都内だでも70余基、近県を含めると200基ちかくあるようです。(by 富士山文化(竹谷靱負著)

お隣の名もなき神社 祠がポツンと・・・。


睡眠障害の大きな原因がやっと特定できたのでした^^

2016-12-20 08:57:22 | ・日常

睡眠障害から、ちょうど二年ほど経過。まあ、いろいろやってきて、どれもそこそこ良い
のですが、どうも、眠れたり、眠れなかったりで、不安定な状態が続いていました。

メンタル面の調子で、これだけクリチカルなのもおかしいなあと思い続けているわけです
が、一向に自分の状態が読めない。この状態も結構ストレスなんですよね。眠れない翌日は
目がショボショボしてかなり辛いし、倦怠感もあって活動範囲も自ずと消極的になっていま
した。

さすがに試すことも少なってきました(笑)で、もう一度、いろいろ原因追究して
みるかという事で「眠りが浅い」で調べてみました。その中で、寝る前にはPCやスマホは
控え気味にしてはいたものの、さほど注意していなかった事に気が付きました。

「ブルーライト」・・・それほど影響するものなのだろうか?と思いつつも、スマホの
iphone6の輝度を確認したら、画面の明るさが相当に明るい設定になっている。とりあえず、
90%カットのブルーライトカットフィルムを貼り、輝度を落としました。

その後、眠りの調子がいいし、目のショボショボ感が無くなった・・・・。えっ?もしかして、
ブルーライトが原因だったの???
まさか・・・と思って詳しく調べました。


「ブルーライト研究会」


このページを読むと、

・ブルーライトとは、波長が380~500nm(ナノメートル)の青色光のことでヒトの目で見ること
のできる光=可視光線の中でも、もっとも波長が短く、強いエネルギーを持っており、角膜や
水晶体で吸収されずに網膜まで到達する。

・ブルーライトのスペクトル?表を見ると、pcよりもはるかにゲーム機やスマホの方が多い。

・網膜において、近年、「第3の視細胞」が発見され、サーカディアンリズムをコントロールする
役割を果たしていることがわかってきた。この「第3の光受容体」は、460nmという強いエネルギーを
持つ光のみに反応する。つまり、ブルーライトこそ、体内リズムを整え、健康を維持する上で重要な
役割を果たしている光だった。

・最近ではディスプレイから発せられるにブルーライトこそ、目の疲れの大きな要因になっている
ことがわかってき。ブルーライトは目は波長が短いため散乱しやすい性質を持っている。これが
眩しさやチラつきなどの原因になり、その分、脳はピント合わせに苦労する。また、ブルーライトは
他の光よりもエネルギーが強いため、瞳孔を縮めようとして目の筋肉も酷使され、眼の疲れや肩・首の
凝りなどに影響する。

・夜も明るい環境や、夜遅くまでパソコンなどのLEDディスプレイでブルーライトを浴びる生活は、
サーカディアンリズムを乱れさせ、自律神経系や内分泌系、免疫系にも悪影響を及ぼす。
寝付きが悪い、眠りが浅いといった「睡眠の質を低下」も、そのひとつだろう。しかし、
サーカディアンリズムの乱れをリセットしたりするために重要なのも、ブルーライト。
網膜が強いブルーライトの刺激を受けると、脳は「朝だ」と判断し、メラトニンという睡眠を司る
ホルモンの分泌が抑制され覚醒し、ブルーライトの量が減少すると「夜だ」と判断して、メラトニンの
分泌が活発になる。


それほど、執拗にスマホを見ていたわけではなかったと思うんですが、強いブルーライトによって、
目がショボショボ、睡眠が浅くなっていたとしか思えません。睡眠が浅いから目がショボショボする
のではなく、目のショボショボはブルーライトが原因だったのでした。

その後、pc作業にもブルーライトカットのレンズを装着したメガネをかけたりしています。それでも
眠りの浅いときがありますが、昔のような睡眠不足のような状態で目がショボショボすることは無く
なりました。

更に、中途覚醒、朝方の頻尿状態で睡眠不足と感じる事があったので、長年晩酌していたビールを
止めて、日本酒やワインに切り替えたところ、トイレで起きる回数も減って睡眠は安定してきました。
現時点で、就寝後3~4時間で一度トイレ、その後3~4時間寝れるという二年前とほぼ同じ状態に戻り、
生活も活動的になってきました。

しかし、ブルーライトが大きな要因だったとは・・・・。この二年間の苦労は・・・・^^;;;
でも、何も無駄なことは無いのでしょうね。。。。。。しかし・・・悔しいな・・・(苦笑


空そらソラ

2016-12-13 08:38:00 | ・日常

2016.12.5~8

いろんな空に逢えましたねー。

水平飛行機雲

不思議な細筋雲

天気が良いのに虹も拝めました。

綺麗な夕景でした。fbでたくさんの方が投稿されていました。

おまけ スズメが大量にいましたよ。川越市郊外


小田原神社

2016-12-12 06:59:23 | ・神社・お寺

2016.12

ナビに八幡神社があったので寄ってみました。

「小田原」の名に惹かれて参ってみました。

ググってみたら、こちらに紹介されていました。http://kamimeguri.web.fc2.com/odawarajinjya.html

こちらによると、「社名は、小田原すなわち平野部の湿田に坐す神を表すと考えられる」「恐らく平野部を耕地として開くに当り、

その成就を願って慈眼寺境内に祀られ、その後鎮守として崇敬されるようになると、現在地が鎮座地として選ばれたのであろう。」

との事です。

小高い丘の上に鎮座していましたよ。田んぼを見渡す守り神のようでもありますね。


坂戸市北浅羽八幡神社

2016-12-12 06:57:40 | ・神社・お寺

2016.12

ナビに八幡神社があったので寄ってみました。

北浅羽の獅子舞 坂戸市指定無形民族文化財

秋になると豊年を祝う獅子舞が、市内各地で行われます。竹で作った「ささら」と呼ばれる楽器を使って獅子舞を踊るので、

「ささら舞」とも言われ、昔から地元の人々によって受け継がれてきました。


北口本宮冨士浅間神社/大塚丘

2016-12-09 10:09:26 | ・神社・お寺

2016.12.3 またまた浅間神社巡りをしてきました。これでほぼ廻ったかなー。

それでは、神社編。

最後に、「北口本宮冨士浅間神社」。昨年、浅間神社巡りを始めるきっかけとなった神社です。

前回の投稿はこちら>>>2015.12.5北口本宮冨士浅間神社

駐車場の「浅間茶屋」で昼食。ほうとうを頂き、参拝へ。奥の駐車場からだと丁度大鳥居の手前に出てくるんですねー。

やっぱり大杉に囲まれた荘厳な参道ですね。

大鳥居

随神門

いや~渋いです。

神楽殿

随神門を抜けると目の前に神楽殿があります。

境内に向かう左上から陽が射していて、ちょっと撮りにくかったですが、これはこれで良いのではないかと^^

ちょうど結婚式が行われていました。

拝殿脇より「西宮」

右は「太郎杉」 樹齢1000年。

「夫婦檜」 こちらも樹齢1000年。

でっかいです~。

拝殿 脇から

本殿 脇から 金屏風が見えますね。

拝殿前 右側から

諏訪神社拝殿

「‘浅間神社’の前から‘諏訪神社’はあった」

北口本宮冨士浅間神社の東宮本殿は永禄4年(1561)、西宮本殿は文禄3年(1594)に、本殿は元和元年(1615)に建てられ、

東宮と西宮の両本殿は国の重要文化財に指定されています。

この神社が鎮座する森は‘諏訪の森’と呼ばれ、かつてこのあたりは諏訪神社の神域でした。今でも北口本宮冨士浅間神社境内の

一角には諏訪神社がひっそりと鎮座しています。

この地が記録の中に出てくるのは、文明12年(1480)で「富士山吉田取井立」つまり「富士山の麓の吉田に鳥居が建ちました」

というのが最初で、この時にはまだ諏訪神社や浅間神社といった神社の名前は出てきませんが、この場所が、鳥居が建つような

信仰拠点であったことは間違いありません。その後、明応3年(1494)の記録には「吉田取訪大明神」という記述が見られ、

この時期には諏訪神社が鎮座していたと考えられます。

https://www.pref.yamanashi.jp/smartphone/maizou-bnk/sanngaku-sinnkou/kitaguchihonnguu.html より。

諏訪神社拝殿前の朱塗りの富士山

四方?を鳥居で囲まれています。富士山本宮浅間大社、須山浅間神社、東口本宮富士浅間神社、北口本宮冨士浅間神社

の鳥居でしょうか???? ちょうど北口本宮冨士浅間神社の大鳥居が映り込んじゃいました^^

 

前回は、本殿奥の祖霊社までお参りして帰ったのですが、帰ってから調べてみたら、更に奥に「大塚丘(おつかやま」という

北口本宮冨士浅間神社の創建の場所があると判り、行ってみました。いったん道路に出てしばらく歩くと左側にありましたよ。

「大塚丘(おつかやま」
西暦110年日本武尊東征の折に、途中で立ち寄ったとされており「北方に美しく広がる裾野をもつ富士は、この地より拝すべし」と
言葉を残したとされています。大塚丘に浅間大神と日本武尊をお祀りし、北口本宮冨士浅間神社の創建となりました。 

その後富士山の噴火があり、当時の国主の紀豊庭(きのとよひろ)が延暦7年(788)、大塚丘の北方に社殿を建立しました。
これが現在社殿のある場所であり、ここに浅間大神をうつし、大塚丘には日本武尊をお祀りしました。
http://www.fujisanguide.com/forms/info/info_print.aspx?info_id=26304 より。

大檜 樹齢400年、樹高22m、幹周3.88m

境内の夫婦檜と太郎杉は樹齢1000年と云われていて圧倒的な存在感がありますが、この大檜もなかなかの存在感でしたよ。

パワースポットと云われていますが、確かに「畏れ多い空気感がありましたね。

 

参道に戻ると、丸い赤いものが浮き上がっていました。

撮影されていたようですが、後ろ姿がこんなにも境内で浮かび上がっていたとは判らなかったでしょうね。

美しかったです^^


小室浅間神社

2016-12-08 08:26:18 | ・神社・お寺

2016.12.3 またまた浅間神社巡りをしてきました。これでほぼ廻ったかなー。

それでは、神社編。

次に、「小室浅間神社」

神社の前の川。富士山の北口浅間神社方面から流れてきているようです。勢いがありましたよ。

境内正面より。

左奥の山には、「新倉富士浅間神社」が見えました。

境内右側には神馬舎があってお馬ちゃんが居ましたよ。

9月19日には「流鏑馬祭り例祭」が行われるようです。

社伝によれば、延暦12年(793年)、征夷大将軍坂上田村麻呂が東征の際、現鎮座地より富士山を遙拝して戦勝を祈願し、

戦勝後の大同2年(807年)、神恩に感謝して社殿を造営したのに始まるという。

上吉田・下吉田・松山の三郷の総鎮守とされ、中世には武田家が祈願所として崇敬した。 明治に入り氏子地域であった

上吉田を北口本宮冨士浅間神社に割譲し、それまでの「下宮浅間神社」から現在の「小室浅間神社」に改称した。

元々「小室浅間神社」とは、富士山二合目にある山宮の名称であった。


富士吉田地域に於いて、北口本宮冨士浅間神社が富士講御師に依る対外的な信仰を集め、下吉田の小室浅間神社は

農耕信仰を中心として地元民の生活に根差した文化があった。

愛染桂

御神木かと思ったら、この桂ではなく、拝殿右側奥に御神木の桂がありました。でもこちらも立派な桂です。

こちらが御神木の桂。

立派な個性的な桂でした。ちょっと怖い感じもしますね。

御神木「大塔宮桂之古跡」

昭和44年に市指定天然記念物に指定されている。雄株で幹根の境の周囲13.30m、根本より十幹に分岐している。

樹高は28.5m枝張り東西21.9m。南北29.0m。山梨県巨木誌にも掲載されている。

南北朝時代、鎌倉で討たれた「大塔宮護良親王」の首級を雛鶴姫が持って落ち延び、この根本に葬った伝えられている。

此の御桂様に咲く、真っ赤に燃え上がる様な花は護良親王の心が天に向かい、燃え上がる如く、何か心を打たれるものがあります。

幹の真ん中には護良親王の御霊と樹木の神を祀るお社があります。

http://www.fgo.jp/~yabusame/gosinnboku.html より。

社殿を遙かに越え、広がる御神木の枝。春、四月上旬頃には綺麗な赤い花が咲きます。

しかし一週間ほどしか咲かないため、参拝者が見る事は非常に稀だそうです。

富士溶岩流の原形

昔は此の北麓周辺、各場所で見る事が出来たが、現在ではここでしか見る事が出来ない貴重な物となっているそうです。

縁結びご神木

宮司さんによると、参拝者が2015年冬、大人の目の高さに、バレーボールほどのこぶがあることに気づいた。神社はサクラが

見頃になった4月中旬、木の横に「縁結び御神木」の看板を立て、しめ縄も取り付けたそうです。境内には、神社の神木で

樹齢約600年と千年の2本のカツラの巨木があり、カツラの葉もハート形で、地元では以前から持ち帰ると御利益がある

「縁結びの神様」として知られています。

 

文化遺産「富士山」の構成資産には入っていない神社ですが、見どころ満載でしたし、とても地域に根付いている空気が漂って

いました。


東口本宮冨士浅間神社

2016-12-07 12:34:46 | ・神社・お寺

2016.12.3 またまた浅間神社巡りをしてきました。これでほぼ廻ったかなー。

それでは、神社編。

まずは、「東口本宮冨士浅間神社」

入口左側の滝は「信しげの滝」

境内左の「浅間の杜」に泉があって脇出でていて、この滝を通じて神社前を流れていました。が・・・hpを見ると

水路が走っていますねえ。地図では見つからないなあ。おかしいなあ。。。

大鳥居「不二山」

富士山は古くは不尽山、不自山、不二山、布士山、福慈岳などとも書かれていたそうです。「富士」と書くようになったのは、

平安時代以降。大鳥居は、明治33年に氏子より寄進された。扁額には「不二山」の文字が刻まれており、

「二つとない(不)素晴らしい山=不二山・富士山」という意味だそうです。他の神社では見られない当社特有の鳥居です。

随神門(神門)

立派ですねー。

富士塚の狛犬・・・随神門前の両脇にある狛犬。

昭和初期に山三元講より寄進されたもの。富士塚を模した岩場の上に「獅子はわが子を千尋の谷に突き落とす」という、

「獅子の子落とし」の諺を倣った親子の狛犬が3匹います。他に類を見ない極めて珍しい狛犬のようですよ。

神馬舎

社殿(本殿・幣殿・拝殿が一体となっている権現造)

現在の社殿は富士山・宝永の噴火後に再建された当時の遺構をそのままに修復・修繕を行ってきたもの。

平安時代初頭、桓武天皇の時代・延暦21(802)年、富士山東脚が噴火した。
当時の国司・郡司(朝廷の役人)は、恐れおののく住人のために鎮火の祈願を行うべく、
富士山東面・須走の地に斎場を設け、鎮火祭を斎行した。

すると、同年4月初申の日に噴火が収まった。この御神威を畏み、報賽するべく、
平城天皇の時代・大同2(807)年に鎮火祭跡地・現在の御社殿の地に神をお祀りしたことが、
当社の創建と伝えられる。

創建後まもない平安時代には、弘法大師(空海・真言宗)が当社にて修行を行い、富士登山をした
という伝承も存在したことから、かつて中世期頃までは弘法寺浅間宮と称されていた。

室町時代後半(戦国期)・江戸時代には、一般庶民による富士山登拝信仰・富士講や修験道者の信仰を
集め、須走口登山道・須走の宿場町とともに栄え賑わった。

この頃より、須走口登山道の9合目・迎久須志之神社、6合目・胎内神社、5合目・古御岳神社、
4合目・御室浅間神社、2合目・雲霧神社は当社の神主により祭祀が行われていた。

明治時代に入ると、明治政府による国家神道の方針の下、全国神社は国家の管理下におかれ、当社は
県社(静岡県が管理する神社)の社格が授けられた。

大正時代から昭和時代初頭は富士講による登山参拝者が最も増えた時期であり、当社に点在する
講碑群はそれぞれの講社により建立・寄進されたものである。

現在では、富士山本宮浅間大社(富士宮市・富士宮口)、北口本宮冨士浅間神社(富士吉田市・
富士吉田口)等と共に、富士山登山道の麓に鎮座する神社として、崇敬を集めている。

http://www.higashiguchi-fujisengenjinja.or.jp/yuisho/index.html より。

根上がりモミ

裏参道の鳥居を入って右側に繁るモミの木。日本でも稀に見る奇観の根上がりをしており、学術上の価値が高いことから

平成3年に小山町天然記念物に指定された。根の大部分が根上がりしているためにトンネルを形成しており、小学校低学年までならば、

潜り抜けることが出来る。モミ・ブナ・カシの木と隣り合うように繁っており、3本の木の根が複雑に絡み合っていること、

また御祭神・木花咲耶姫命の御神徳から「縁結びの木」として慕われている。

http://www.higashiguchi-fujisengenjinja.or.jp/guide/index.html より。

根上がりモミと富士山

宮上駐車場側の鳥居と富士山

境内の西半分を占める鎮守の杜

杜には「宝永の清流」という小川が水路と並行するように走っており、あずまやの前で池となっている。

水路の上には道が舗装されている・・・・。

 

そっか、水路の上は舗装されていたのか・・・。まあ、ともかく、この境内でも水が湧いていて、その水路と合流して、

「信しげの滝」となっているのでしょう。滝の名前の由来ははっきりしていないようです。


富士山周辺(ふじあざみライン・朝の川霧・富士みち(御師の家)

2016-12-05 18:34:50 | ・旅・山

2016.12.3 またまた浅間神社巡りをしてきました。これでほぼ廻ったかなー。

「東口本宮冨士浅間神社」へ行く前に、「ふじあざみライン」をどこまで行けるかなーと上って行きました。

ここから先は4月下旬まで通行止めだって。

「ふじあざみライン」の途中から。

望遠で^^

寒そーだけど、暖かでした。

「ふじあざみライン」入口から。

東京・埼玉からは11/24の雪で裾野下まで真っ白に見えていましたが、だいぶ溶けちゃいましたね。

神社は後で投稿します。「忍野入口」からちょっと入った辺りの川の開けた辺りで朝の川霧の中にカモたちが居ましたよ。

なかなか神秘的でした。

鐘山スポーツセンター付近より。

望遠にて。

超望遠にて。

偶然、国道139号「富士みち」を南下することになりました。ここはブラタモリでも紹介された御師の家がたくさんあるところですね。

金鳥居辺りです。結構交通量がありました。

下宿(富士みちの交差点)の入口には、金鳥居(かなどりい)とよばれる鳥居があります。富士信仰においては、その鳥居から南側を

神聖なものとして考え、御師の家に関わる人間以外の居住は一切許されませんでした。そのため、富士吉田における一般の人々の

生活は、金鳥居より北側を中心に発展していきました。また、神聖な世界に不浄のものが入ることがないように、金鳥居の北側には

閻魔像が設置され、金鳥居からの境界線を見張っていたそうです。http://oshinoie.client.jp/ より。

現在、富士みち沿いに多くの御師の家がありますが、当時は、古吉田(ふるよしだ)とよばれる地域にも多くの御師の家がありました。

しかし、当時の古吉田は、富士山からの雪解け水が原因で度々集落が水害に見舞われ、安定した生活を送るにはとても厳しい状況

でした。そこで、元亀3年(1572)に旧地・古吉田から現在地に多くの御師の家が移転したといわれています。その後、各御師家に

入れ替わりはあるものの、町並みの骨格は大きく変化していないので、現在においても当時の街並みの様子をうかがい知ることが

できます。http://oshinoie.client.jp/ より。

「御師の家」は、富士講の開祖である長谷川角行の弟子たちによって少しずつ利用者が増えていくようになりました。

最盛期には夏の2ヶ月間で8000人もの人々が訪れるほどだったそうです。しかし、御師の家は第2次世界大戦以降衰退が始まり、

廃業していくところが徐々に増えていくようになりました。現在では、大国屋と筒屋だけが営業をしています。

http://oshinoie.client.jp/ より。

あちこちに御師の家がありました。

現在、御師の家の多くが宿泊所としては営業をしていませんが、旧外川家住宅と小佐野家住宅(博物館の復元住宅)は、

市によって公開されているため誰でも見学することが可能だそうです。http://oshinoie.client.jp/ より。


この「富士みち」は、「北口本宮富士浅間神社」へと向かっています。この「富士みち」には駐車場が無く、脇に停めて少し歩いた

わけですが、もう少しゆっくり散策したかったなあと。観光客相手の店もほとんどなく、また電線類地中化も行われていて、

スッキリとして生活感もあまり無かったような・・・。金鳥居から南は神聖な場所でもあるからかな。金鳥居から北側は、生活感満載

な感じでしたけどね。では、神社関連投稿しますよん。