~風に吹かれて~ by ポー(paw)

-人の中に 人の創り出した物の中に 動植物の中に 地球や宇宙の中に 魂の琴線にふれ 愛を感じながら 生き込みたい-

市ヶ谷亀岡八幡宮(東京都新宿区)

2018-03-30 17:16:32 | ・神社・お寺

2018.3.3 日曜日の午前中、思い立ったが吉日!午前中にショートトリップ。神楽坂方面へpaw散歩^^

赤城神社参拝後、神楽坂ある毘沙門天・善国寺、神楽坂若宮八幡神社参拝後、市ヶ谷亀岡八幡宮へ。

参道入り口

お~、なかなか雰囲気のある高低差ですねー。階段左は境内社の「茶ノ木稲荷神社」。

まずは「茶ノ木稲荷神社」へ。

梅が良い感じです。

すごい数の提灯ですね。

茶ノ木稲荷神社・拝殿

今をさる一千年余りの昔、弘法大師が初めて御鎭祭申上げたのが当社と伝えられています。この山の地主の神でありまして
古来この地を稲荷山【いなりやま】と呼んだのも、そのいわれによるものです。hpより。

お稲荷さん上方にある境内社・金刀比羅宮

江戸時代、諸国の物資が陸路水路ともども江戸を中心に集散するようになり、市谷は特に四ッ谷まで続く水路の揚げ場として
多くの船が行き来したところです。金刀比羅宮海上守護の御神威が高い金刀比羅宮を祭る船が航海の無事安全に感謝して此処
に奉祭したと思われます。hpより。

階段上の市ヶ谷亀岡八幡宮・鳥居

銅鳥居
江戸時代の文化元年(一八〇四)の建立。高さ約五メートル。柱の直径約五〇センチ。柱には四百四十二人の寄進者と、
その職業が刻まれていて、当時の職業や信仰状態がよくわかります。銅の鳥居は新宿区内で唯一のもの。hpより。

鳥居前の狛犬が何かインパクトあるぞお。。。

おお!

うわ!

何ともユニークな狛犬だなあ。あっちゃこっちゃ神社参拝していますが、あんまり狛犬には興味が無かったんですが、
この子たちは妙に気になりました。で、調べたら、「古江戸型狛犬 享保十四年(1729)造立」のとても古い狛犬の
ようですよ。

拝殿と手水舎

拝殿正面

市ヶ谷亀岡八幡宮

・当神社は太田道灌が文明11年(1479年)、江戸城築城の際に西方の守護神として鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を祀ったのが
 始まりである。
「鶴岡」に対して亀岡八幡宮と称した。
・市谷亀岡八幡宮は三代将軍・徳川家光や桂昌院などの信仰を得て、神社が再興された。
・江戸時代には市谷八幡宮と称した。境内には茶屋や芝居小屋なども並び人々が行き交い、例祭は江戸市中でも華やかな
 ものとして知られ、大いに賑わったという。
・明治に入り、神仏分離令により別当寺であった東円寺が廃寺となり(1872年)、芝居小屋などは撤退し樹木が植えられ
 かつての賑わいはなくなっていった。その後、1945年に第二次世界大戦による戦火により神木なども含め焼失。
・1962年に現在の社殿が再建される。現在でも地域の人々などから信仰を得ている。 by wikipedia

ここでも太田道灌が登場しますね。ツルに対してカメ(笑)。逗子にも亀岡八幡宮があります。逗子の方は、境内地が
なだらかな岡で亀の背中のようであったというところ「亀岡八幡宮」と付けられたそうです。

拝殿脇より。奥が本殿です。

引き寄せられました。惹かれました。すごくインパクトがあります。見ているとドンと胸の中に熱いものが湧いてきます。

名刀碑

「長光【ながみつ】」を模した刀剣像に、昇り神竜がまきついている神秘的な碑。明治三年建立。

メジロとウメ

良い空気・空間の神社でした。都内の神社もなかなか個性的な神社が多く面白いですね。またショートトリップしてみます。

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神楽坂若宮八幡神社(東京都新宿区若宮町)

2018-03-30 07:16:49 | ・神社・お寺

2018.3.3 日曜日の午前中、思い立ったが吉日!午前中にショートトリップ。神楽坂方面へpaw散歩^^

赤城神社参拝後、神楽坂ある毘沙門天・善国寺へ。その後、住宅街にある「神楽坂若宮八幡神社」へ向かいました。

神社正面

コンパクトに綺麗にまとまっている神社でした。町名に「若宮」が残っています。

http://kagurazaka.yamamogura.com/ 神楽坂やこの神社に関しては、こちら様のページにとても詳しく書かれています。
昔の地図や写真もたくさんありますよ。

神楽坂若宮八幡宮
・鎌倉幕府の初代将軍、源頼朝が戦勝を祈念して建立。
・文治5(1189)年7月、奥州の藤原泰衝の征伐に行く途中、頼朝は将来ここ若宮八幡宮のあるところで下馬して祈願した
 と伝えられています。
・ここは川と急坂に囲まれた丘の突端で見通しも良く、外敵から身を守るのに適していた、あるいは唯単純に鎌倉を出発
 しここで一日の行程が終わったのでしょう。
・10月、奥州を平定し、頼朝は鎌倉に戻り、まもなくここに鎌倉鶴岡八幡宮を移します。その後若宮八幡宮は衰退。
・文明年間(1469~87)、室町時代の武将、太田道灌が江戸城鎮護、つまり、災いや戦乱をしずめ、国の平安をまもること
 のため、若宮八幡宮を再興。
・文明年間頃までは大社で、神領などがあり美麗だといわれていました。『江戸名所図会』では巨大な若宮八幡宮がありました。
http://kagurazaka.yamamogura.com/より

赤城神社は、寛正元年(1460年)に太田道潅が神威を尊んで、牛込台(今の牛込見付附近)に遷しています。 

拝殿脇より境内を見下ろす。この道路を行くと神田川方面へと下っていきます。高台なので昔は眺めが良かったでしょうね。

道路側から。拝殿、本殿の下を駐車場に利用しています。さすが都会ですねー。

大きな神社だったようですが、関東大震災にて倒壊。東京大空襲で社殿、楠と銀杏はすべて焼失。御神体は戦火の中、宮司が
持ち出し被災を逃れたそうです。現在は、境内はとても小さくなり、周りにはたくさんのマンションなどができていました。

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毘沙門天・善国寺(新宿区神楽坂)

2018-03-29 16:25:22 | ・神社・お寺

2018.3.3 日曜日の午前中、思い立ったが吉日!午前中にショートトリップ。神楽坂方面へpaw散歩^^

赤城神社参拝後、神楽坂ある毘沙門天・善国寺へ。 

・善国寺は、東京都新宿区神楽坂にある日蓮宗の寺院。
・旧本山は大本山池上本門寺で鎮護山善国寺という。開基は徳川家康、開山は日惺上人と伝わる。
・安土桃山時代の文禄4年(1595年)、池上本門寺第12代貫主である日惺上人により、馬喰町に創建される。たびたび火災に
 見舞われ、麹町を経て寛政5年(1793年)には現在地へ移転した。
・本尊の毘沙門天は江戸時代より「神楽坂の毘沙門さま」として信仰を集め、芝正伝寺・浅草正法寺とともに江戸三毘沙門
 呼ばれた。現在は新宿山ノ手七福神の一つに数えられている。by wikipedia

浄行菩薩「身代わり菩薩」
自分の体の悪い所と同じ所をひしゃくで水をかけて洗い、拝むとよくなるご利益があるそうですよん。

毘沙門天

・日本では四天王の一尊として造像安置する場合は「多聞天」、独尊像として造像安置する場合は「毘沙門天」と呼ぶのが
 通例である。
・庶民における毘沙門信仰の発祥は平安時代の鞍馬寺である。
福の神としての毘沙門天は中世を通じて恵比寿・大黒天にならぶ人気を誇るようになる。
・室町時代末期には日本独自の信仰として七福神の一尊とされ、江戸時代以降は特に勝負事に利益ありとして崇められる。
 by wikipedia

毘沙門天信仰は京都・鞍馬寺が発祥だったんですね^^

狛犬ならぬ狛虎

毘沙門天が寅年、寅の月、寅の日、寅の刻に生誕されたことから、虎が守りとなっているとの事。

江戸末期の1848年(嘉永元年)に周辺の住民によって寄進。いや~なかなかの迫力ですわ。

 

神楽坂
毘沙門天様への信仰は時代とともに盛んになり、将軍家、旗本、大名へと広がり、江戸末期、特に文化・文政時代には
庶民の尊崇の的ともなり、江戸の三毘沙門の随一として、《神楽坂毘沙門天》の威光は倍増していった。

当初は殆ど武家屋敷だけであった神楽坂界隈も、善國寺の移転に伴い、麹町より、よしず張りの店が九軒当寺の門前に
移転するなど、除々に民家も増え、明治初期に花街も形成され、華やかな街になっていった。

明治・大正初期には、泉鏡花、尾崎紅葉、北原白秋など多くの文人・墨客達がこの辺りを闊歩し、大いに賑わった。
特に縁日の賑わいは相当なもので、人出のために車馬の往来が困難をきたし、山の手銀座と呼ばれるほど有名を馳せ、
その混雑ぶりはまさに東京の縁日の発祥の地にふさわしいものであった。
https://www.kagurazaka-bishamonten.comより。

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赤城神社(東京都新宿区)

2018-03-28 14:54:48 | ・神社・お寺

2018.3.3 日曜日の午前中、思い立ったが吉日!午前中にショートトリップ。神楽坂方面へpaw散歩^^

そういえば、神楽坂に立派な神社があると思い出したのでググって行ってみました。山里の神社を訪ねることは多いけど、
まあ、たまには都会の神社もね^^

東西線神楽坂駅から直ぐでしたよ。神楽坂からの入口より

一の鳥居

祭神:岩筒雄命(いわつつおのみこと) 相殿として赤城姫命(あかぎひめのみこと)を祀る。

なんと、QRコードで説明が受けられます。

オシャレな灯籠です。

狛犬と拝殿

こちらもオシャレですねー。

平成21年(2009年)から22年にかけて「赤城神社 再生プロジェクト」と銘する工事が行われた。老朽化した社殿全体を
建て替え、当神社境内に隣接していた幼稚園(私立赤城幼稚園)は少子化などの理由により閉園。その跡地を再開発する
にあたり、建築コストを神社側で全て賄うのは難しい状況にあった。 そこで三井不動産レジデンシャルが約70年の定期
借地権を設定して神社から土地を借り、神社の建て替えとともに敷地内に分譲マンションを建設、建物内にホールや
ギャラリーなどの施設を併設するというものである。そして地代や賃貸による収入を神社の運営に充てるとともに、
借地権の期限が来たらマンションを解体し神社の杜に戻す予定である。by wikipedia

ほえ~、こんな神社再生の仕方もあるのですね。都会ならでは?

蛍雪天神祭神は菅原大神。戦災で焼失した北野神社を、旺文社の寄付により再興したもの。蛍雪天神の名は『螢雪時代』
に由来し、受験生の合格を祈願する。by wikipedia

うわあ・・・とても現代的ですね。 

建物一階の社務所

いや~、普通の社務所とえらい違いですね。

ひっきりなしに参拝者が来られていました。

【御由緒】 伝承によれば、正安2年(1300年)、後伏見天皇の御代に、 群馬県赤城山麓の大胡の豪族であった大胡彦太郎
重治が牛込に移住した時、 本国の鎮守であった赤城神社の御分霊をお祀りしたのが始まりと伝えられています。
その後、牛込早稲田の田島村(今の早稲田鶴巻町 元赤城神社の所在地)に鎮座していたお社を 寛正元年(1460年)に
太田道潅が神威を尊んで、牛込台(今の牛込見付附近)に遷し、 さらに弘治元年(1555年)に、大胡宮内少輔(牛込氏)が
現在の場所に遷したといわれています。 この牛込氏は、大胡氏の後裔にあたります。
天和3年(1683年)、徳川幕府は江戸大社の列に加え牛込の総鎮守と崇め、 「日枝神社」「神田明神」と共に、「江戸の三社」
と称されました。 この三社による祭礼の際における山車、練物等は江戸城の竹橋から内堀に入り 半蔵門に出ることを許され
ていました。 その後、明治6年に郷社に列することになります。
しかし、街の発展に伴い電柱や電燈などの障害物ができたので、 盛観を極めた山車行列は明治32年の大祭が最後となりました。
http://www.akagi-jinja.jp/akagi/pedigree/ より

本殿

本殿脇より

境内社・

 
階段下の境内社 八耳神社、出世稲荷神社、東照宮

観音菩薩立像

赤城神社の北に位置した宝蔵院(現在の西五軒町にあたり今は廃寺)より移されました。「慶長18年丑年5月16日(1613年)」
と刻まれています。ふっくらとした顔立ちで全体におおらかな雰囲気のある菩薩像。

確かに柔らかい表情をされていました。下町風情の残る神楽坂ですが、この神社は近代的でしたね~。普通の神社と違う、
近未来的な空気・空間でした。

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出流山満願寺・出流神社(栃木県栃木市出流町)

2018-03-26 06:58:51 | ・神社・お寺

2018.3.4 栃木市の「四季の森星野」へセツブンソウを見に行ってきました。

セツブンソウ他、早春植物を観察後、近くのお寺・神社を訪ねました。kouchaが地質地図を観て、この辺りは石灰岩質だから、
春植物が見られるかも?という事で、たまたま満願寺に来ちゃったんですけどね。

「春植物を求めて満願寺方面へ。なんかやたらと走行車が多い。ドン突きの道のはずなのに・・・何か
イベントでもあるのかと思ったら、満願寺の門前蕎麦屋へ「寒晒し蕎麦」を食べに行くクルマだったのでした。
いや~、蕎麦屋は5~6件あったようですが、何処も外までの列で大賑わい。いや~ここでお蕎麦を食べるべきだったかなあ。。
まったく知らなかったので驚きでしたわ。」というわけです^^

「栃木県栃木市出流町にある「坂東三十三観音第十七番札所 真言宗智山派 出流山満願寺」は、永代供養、座禅、滝行が行える
パワースポットです。」・・・・hpより。http://www.idurusan.com/index.html

出流山満願寺 山門 仁王門(栃木市文化財)

仁王尊像

徳川時代享保20年(1735)の建立。一対の仁王尊像は足利時代の作。以前は茅葺き屋根であったが、昭和初年に金属板に
葺き替え、さらに平成2年に解体復元工事を施してある。栃木市文化財である。hpより。http://www.idurusan.com

真言宗智山派 出流山満願寺は、弘法大師御作の千手観音菩薩をご本尊とする坂東三十三観音第十七番札所です。
・今から千二百余年前に修験の行者、役の小角によって「観音の霊窟」(鍾乳洞)が見つけられ、
・天平神護元年(765年)日光山繁栄の源を作られた勝道上人によって開山されました。この「観音の霊窟」には鍾乳石によって
 自然にできた十一面観音像があります。


・下野の国司(今の県知事)の高藤介の妻が子宝に恵まれず、この「観音の霊窟」で子宝を得ることができるということを聞いて
 21日間「観音の霊窟」に籠り、翌天平七年に男の子を授かりました。この子がのちの勝道上人です。以来、当山の奥之院に
 お祀りされている鍾乳洞で自然にできた「十一面観音菩薩」は子授け、安産、子育てのご利益があると信仰されています。
 hpより。http://www.idurusan.com/  

いや~、スゴイ龍頭の数です。大御堂の周りをぐるりと取り巻いています。

本堂(大御堂)
・本堂(大御堂)は、後小松天皇の応安元年(1368)、足利義満公の寄進によって、観音堂として建立されたが、
 元文五年(1740)12月20日の大火により、一山は山門を残すのみで、堂塔はことごとく焼失してしまった。
今の大御堂は中興第十七世道呆和尚が営々辛苦の末に明和元年(1764)8月に再建したものである。 八間四面入母屋造り、
 唐破風向拝つき、三手先竜の彫刻がほどこされ、筑波山の大御堂(現在の筑波神社本殿)、奈良の輿福寺大御堂と共に
日本三御堂の一つと称せられている。 徳川中期の堂宇建築の代表的なものと言われる。
・元治元年(1864)3月、本堂と書院を焼失したために、現在は大御堂をもって本堂としている。焼失した本堂は、現在の
 本彷のあたりにあり、大日如来を本尊としていたと伝えられる。
・現本堂の大御堂は、坂東第十七番札所で、弘法大師ご敬刻の千手観世音菩薩がご本尊として安置されている。
・ここで毎日、大護摩修行が行われ、観世音菩薩の霊験あらたかなるをもって、家運繁栄、厄災消除を祈るご信者で賑わっている。
 hpより。http://www.idurusan.com 

境内のお稲荷さん

いや~、個性的な屋根の鐘楼です。

鐘楼   明治四年に鐘楼と鐘を失って、約百年ぶりに、ほぼ同じ場所に再建されました。

薬師堂   薬師如来を安置。厄よけ、眼病に霊験あらたかである。 享保年間(1715)の建立。

 

出流山満願寺を離れ、お蕎麦屋さん付近へ。お蕎麦屋さんの前の見落としそうなセツブンソウ・福寿草植物園??入り口
から少し登ると・・・ほとんど手入れのされていない山道にセツブンソウは咲いていました。奥には福寿草もたくさん♪
更に奥は「出流神社」へ続いていましたよ。

出流神社・参道入り口

出流神社・拝殿

境内社

ところで、「出流」は「いずる」と読みます。いや~こんな地域があるとは全く知りませんでした。まだまだ知らない場所は
たくさんありそうです。楽しみ楽しみ♪

栃木市の西北端に位置する出流は、うっそうとした森林に囲まれた信仰の名刹、出流山満願寺や、豊かな自然の中に広がる
出流ふれあいの森、名物の「出流そば」に代表される、四季をとおして家族連れなど多くの人々に親しまれ、賑わいをみせている。
この出流には、宿坊や民宿もあり、泊まりで精進料理や山の料理を楽しむことができる。 栃木市観光協会hpより。

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地層と石灰のお勉強

2018-03-23 07:19:49 | ・ショートトリップ

2018.3.4 栃木市の「四季の森星野」へセツブンソウを見に行ってきました。

セツブンソウ鑑賞後、四季の森星野を出て、クルマをそのまま駐車したまま、星野集落周辺を散策しました。 ザゼンソウに
出逢った後、地図を見ると地層が見れるところがありそうなので行ってみました。
 
「星野遺跡地層たんけん館」なんか裏側から入っちゃいました。

深さ10mの地層に旧石器時代~縄文時代(約13万年前~2千年前)の13の文化層(人間の生活が確認できた層)があり、
8万年以前の石器も見つかった。スゴイですね~。

栃木市星野の約10mの地層は、富山県立山!!!、群馬県赤城山、榛名山、鹿児島県姶良カルデラ!!!、浅間山から
の火山の噴出物が堆積して出来ている。鹿児島県姶良カルデラっていうのは驚きですね!!ここまで噴出物が運ばれてきている
とは!!!

館内に展示されている地層。

クルマを停めた近くのお蕎麦屋さん「ゆず里亭」で昼食。お蕎麦、大盛を頼んだら、ものすごい量でした^^

その後、春植物を求めて満願寺方面へ(後日投稿)。なんかやたらと走行車が多い。ドン突きの道のはずなのに・・・何か
イベントでもあるのかと思ったら、満願寺の門前蕎麦屋へ「寒晒し蕎麦」を食べに行くクルマだったのでした。
いや~、蕎麦屋は5~6件あったようですが、何処も外までの列で大賑わい。いや~ここでお蕎麦を食べるべきだったかなあ。。
まったく知らなかったので驚きでしたわ。

この辺り、石灰工場が多く、山の様相が凄かったです。

いや~スゴイです。

ところで「石灰」とは何者か?勉強、勉強^^

石灰=セメントと思ったら、山を削るだけではセメントは作れない。実際には石灰岩を採掘し、それといくつかの原料を
焼成することで作られる。主原料は石灰岩。

石灰とは、サンゴ礁や貝のかけら
・南の海のサンゴ礁が太平洋プレートに乗って移動し、押し上げられ日本各地の石灰鉱床を生成。
石灰は、海外資源に頼ることなく国内で自給できる数少ない資源のひとつ。
高品質の鉄を造るための大切な脇役的物質。
道路の補強的素材。漆喰、セメント。
農作物を育てる。石灰を使い土を中和。
酸性雨、排気ガスの硫黄酸化物の除去。
水の浄化
フレスコ画・・砂と石灰を混ぜて作った壁材。
http://www.tochigi-lime.com/ 参考

いや~、こんなに石灰が活躍しているとは・・・・。

植物相から見ると、
好石灰岩性の日本の固有種>セツブンソウ、フクジュソウ、イチリンソウ・ニリンソウ・キクザキイチゲ・
ヒロハノアマナ・ヤマブキソウ・ミノコバイモ・カタクリなどスプリング・エフェメラルと言われる草本類。
ツゲ・アブラチャン・ハシドイ・クロウメモドキ・ダンコウバイ・コゴメウツギ・オオイタヤメイゲツ・
マユミなどの木本類。などがあります。
普通の植物が育ちにくい場所で生き延びてきた輩たち・・・ということですかね。スプリング・エフェメラルは、
どの植物よりも早く花を付けて生き延びてきました。スプリング・エフェメラルを探すという事は、おのずと石灰岩域に
入り込んで行くことになるわけですね。

遠くに日光の男体山?

いや~いろいろとお勉強になりました。

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春野里(鳥たち、フクジュソウ、ネコヤナギ、ザゼンソウ、セイバオウレン)(栃木市星野)

2018-03-22 19:26:58 | ・植物

2018.3.4 栃木市の「四季の森星野」へセツブンソウを見に行ってきました。

セツブンソウ鑑賞後、四季の森星野を出て、クルマをそのまま駐車したまま、星野集落周辺を散策しました。 

面白い名前のお地蔵さんがありました。田虫???

田虫地蔵

農民の人たちは毎朝夕地蔵の前を通るたび田畑の虫「蝗(いなご)」の退散疫病防止子育て縁結びを祈願したそうです。

アオサギかな?一本足で川沿いの木の上の枝に停まっていましたよ。

ジョウビタキ♂

今年は良く撮れます^^ 川沿いの藪の中に居ました。

ヤマガラ こちらは雑木林にて

ホオジロ こちらも雑木林の中。

民家前のお庭は福寿草で埋め尽くされていました。 

ぜ~んぶ福寿草。古民家の周りが福寿草で埋め尽くされていました。近寄れなかったのが残念。。。

かたくり群生地・星野自然村キャンプ場入り口の古民家 コーヒー100円で飲めるようです^^
残念ながら入りませんでしたが、おばさんにザゼンソウが咲いていると教えていただきました。

この色のネコヤナギはお初です。いや~キレイです^^

ネコヤナギは雌雄別体の植物で、雄花と雌花は別々の蕪に咲き、花粉を付けるのが雄花です。

ネコヤナギ 逆光だと全然違う表情になりますね。

さ~て、お目当てのザゼンソウは何処に・・・・・
川沿いの湿った辺りに咲いていると思われるが・・・・その川が見つからない。。。
ギブアップして、おばさんに聞きに行きました。「ああ・・・直ぐそこよ」
ん? ああ!!!ほとんど枯れているようなちっちゃな小川の脇に咲いてる!!!

ザゼンソウ(座禅草)

大きいっす!

2014.5.3 長野県大町市・居谷里湿原で見た以来ですな^^

開花する際に肉穂花序で発熱が起こり約25℃まで上昇する。そのため周囲の氷雪を溶かし、いち早く顔を出すことで、
この時期には数の少ない昆虫を独占し、受粉の確率を上げている。開花後に大型の葉を成長させる。by wikipedia

栃木のこの辺りは積雪ほとんどないんですけどね。

ザゼンソウの前に何やら可愛い花が・・・。

セリバオウレン という花ですよ。可愛い花です。セリの葉っぱに似ているオウレン。キンポウゲ科オウレン属。

物忘れが早くて・・・・このブログをググってみたらミツバオウレンは以前に見ていますね。
 

 その近くの民家の陽当りの良い庭先で、これでもか!!!と育っていたサボテン(笑

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節分草(セツブンソウ)(栃木市星野)

2018-03-21 19:03:53 | ・植物

あっちゃこっちゃ行ってるんですが、公的にも年度末で忙しくて投稿が滞っています。もうサクラも開花しちゃいましたね^^;


と思ったら、3/21今日は東京でも雪。もー気温のアップダウンについていけませんな。。。

 

2018.3.4 栃木市の「四季の森星野」へセツブンソウを見に行ってきました。

入り口はこんなところ。クルマを停めて直ぐですよ。 

三峰山のふもとに位置するセツブンソウの自生地です。セツブンソウの自生地は全国的にも珍しく、その群生の規模は日本一
であり、自生の北限であるといわれています。また、数種類のロウバイが約50本植えられており、梅やマンサクのほか、
フクジュソウなど珍しい山野草も見ることができます。栃木市観光協会より

規模は日本一となっていますが、埼玉・小鹿野の方が大きそうな・・・。昨年見に行った山梨県市川三郷町ももっと群生して
いたかな。でもちょうど見ごろで綺麗でしたよ。

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昨年投稿のブログより

セツブンソウ(節分草、学名:Shibateranthis pinnatifida Maxim.)

・キンポウゲ科セツブンソウ属の多年草。

・古名は、イエニレ(いへにれ、家楡)、漢名には菟葵・莃が当てられるが、中国語では別の植物を指す。

・高さ10cmほど。花期は2-3月で直径2cmの白い花を咲かせる。花弁に見えるのは萼片である。

 黄色の雄蕊は、花弁が小さくなり蜜線に変化したもので、濃い紫色の雌蕊と共に中央に固まっている。

・和名は、早春に芽を出し節分の頃に花を咲かせることからついた。

・可憐な花は人気が高く、現在は、乱獲や自生地の環境破壊によって希少植物になっている。関東地方以西に分布し、

 照葉樹林の林床、特に石灰岩質の礫地を好む傾向がありますが、乾燥を嫌います。 環境の悪化(自生地の減少)により

 準絶滅危惧種になっています。

他の草木が芽をださない早春に花を咲かせ、他の草が大きく伸びる初夏には、地上部は枯れてしまいます。

 スプリング・エフェメラル ( spring ephemeral )と呼ばれる春植物のひとつで、可憐さから人気があります。

実生の1年目は、幅1㎝、長さ2㎝程度の楕円形の1枚の双葉(双子葉植物ですが双葉は1枚しかありません)を展開します。

 最初の年は本葉を出さず、地中に小さな球根を形成するだけです。2年目には1枚の本葉を展開します。そして、早ければ

 3年目以後に開花を始めます。

 白い花弁のように見えるものはガクで、普通、5枚あります。花弁(の名残)は10個程度、ガクの内側にあって

 先が2~4裂し、裂片の先は黄色くなり蜜腺化しています。おしべは多数あって、葯は青色、めしべは数本あり、

 ややくすんだ桜色。 草丈は、花の咲くもので 8~15cm程度です。

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福寿草(フクジュソウ)もキレイ^^ 

マンサクも花盛り^^

和ロウバイ

いや~、この日は花粉がすごくて、目が痒いのなんの。。。。。

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布多天神社(調布市)

2018-03-09 18:20:38 | ・神社・お寺

2018.2 東村山の神社を2社参拝し、その後、調布の布多天神社を詣でました。

一の鳥居 甲州街道からちょっと入ったところにありました。

毎月第二日曜日は大骨董市のようです。この神社は江戸時代の布田5宿の総鎮守で、当時もこの神社の市場は賑わったよう
ですよ。

けっこうな巨樹です。保存樹木となっています。御神木なのでしょうけれど・・・ちょっと痛々しいですね。

燈籠 けっこう古そうですね。こちらの保存の仕方もなかなか荒っぽいような^^;

祓処(祓所?)でしょうか。殿前に砂利がひかれていて、殿の中には幣(ぬき)が置かれています。
他の神社ではあまり見ないですね。初めてかもしれません。

拝殿

布多天神社の創建はあまりに古く定かではありませんが、延長五年(927年)に制定された「延喜式」という法典に
その名を連ねる、多摩地方有数の古社で、社伝によれば第11代垂仁天皇の御代約1940年前の創建といわれております。

文明九年(1477年)に多摩川の洪水をさけ、古天神というところより現在地へ遷座され、その時に、御祭神、少彦名命に
菅原道真公を配祀されました。

江戸時代に甲州街道が作られ、上石原、下石原、上布田、下布田、国領の五宿ができ、布田五宿と呼ばれました。
当時、布多天神社は布田五宿の総鎮守であり、五宿天神と崇め祀られておりました。

そして布田五宿は、明治二十二年に飛田給、上ヶ給と合併して調布町となり、当社は調布町総鎮守となりました。
http://fudatenjin.or.jp/about/index.html より。

洪水(遷座される)前の古天神という場所ですが気になったのでグーグル地図で調べてみると、周りよりわずかに
高台になっています。盛り土かもしれませんが、この古天神公園の看板の写真を見ると古天神遺跡となっていて、
旧石器~縄文の遺跡や埋葬跡や住居跡が発掘されているようです。ビンゴ^^
この公園は調布市の多摩川の広がっている場所の北側にあります。

拝殿 平日のお昼頃でしたが、参拝者も多かったですね。

本殿 宝永三年(西暦1706年)に再建

撫で牛 天神社ですね~^^

境内社

末社に大鳥神社が祀られていることから、布多天神社では11月に酉の市が行われるようですよ。

江戸時代、この神社の市場は賑わったようですが、当時の空気感が感じられました。初詣や骨董市や酉の市の時に詣でれば
より感じられるかもしれませんね^^

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高齢者の肺がん治療

2018-03-09 16:37:38 | ・日常

国立がん研究センター東病院より

 

・知り合いのおばさんが一年に一度の健診で肺がんが見つかりました。

・おばさんは80歳で、更に肺活量が著しく低い。

・高齢者&肺機能が良くないとなると、手術で切ることは肺炎のリスクが高い。

・抗がん剤も体力低下による肺炎のリスクが高い。

・治療せずに様子をみるとの選択肢も与えられたが、出来る事なら「治療」したい。

・そこでいろいろとググって調べてみると、「高齢者の肺がん治療」に関して有益な
 ページが出てきました。「東京都健康長寿医療センター」のPDFです。
 http://www.tmghig.jp/hospital/files/relations/tmghigpdf5212c8759abee.pdf

・肺がんには「小細胞肺がん」「非小細胞肺がん」の2種類がある。
 小細胞肺がん・・・進行が速い。抗がん剤治療・放射線治療が効きやすい。
 非小細胞肺がん・・・進行が穏やか。抗がん剤治療・放射線治療の効果はいま一つ。
           手術ができるようなら手術優先がよい。

・おばさんは「非小細胞肺がん」だったようですが、リスクを考えると手術切除は避けたい。

・治療するとなると選択肢は放射線治療しかなさそう。

・そこで放射線治療を調べました。放射線治療に関しては「国立がん研究センター」参照。   https://ganjoho.jp/public/dia_tre/treatment/radiotherapy/rt_03.html

・外部照射には、
 ①電磁放射線のエックス線やγ(ガンマ)線によるサイバーナイフ、
 ②粒子放射線の陽子線・重粒子線による粒子線治療があります。

・①は体の表面で線量が最大で体内に入ると減衰していきます。一方向から照射すると
 正常細胞も大きなダメージを受けるので、多方向から照射して出来るだけ正常細胞に
 ダメージを与えずにがん病巣をやっつけるように照射します。

・②は体内に入っても表面近くではエネルギーを放出せず、停止する寸前にエネルギー
 を放出してように設計できます。要するに正常細胞へのダメージは少なく、がん病巣で
 エネルギーが最大となってやっつけるわけです。

・サイバーナイフは保険適用、陽子線治療は保険適用外と聞いていましたが、おばさんは、
 高額の治療費を出しても適切な治療がしたいとの要望でした(結局は保険が適用されたようです)。

・そこで、おばさんの主治医に家からもっとも近い陽子線治療ができる千葉県柏市の「国立がん
 研究センター東病院」への紹介状を書いて頂き、治療することになりました。サイバーナイフは
 結構普及しているが、粒子線治療のできる病院は日本に17個所しかありません。(2018.3現在)

・ガンマナイフ設置病院一覧
 http://www.gamma-knife.jp/gammaknife/hospitallist.html

・粒子線治療施設一覧
 http://www.gamma-knife.jp/gammaknife/hospitallist.html

・二週間ほどの入院でした。お見舞いと退院時に付き添いましたが、沢山の患者さんが居られて
 ホントに驚きました。また地方からも沢山の方が治療に来られているようです。入院の必要が
 無く、集中的に治療される方は、この病院の近くに宿泊したり、ウィークリーマンションを
 借りたりして通われているようです。

・1/22入院、2/7退院、退院後一か月経っていますが、予後は良好のようです。

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八坂神社(東京都東村山市)

2018-03-09 14:35:44 | ・神社・お寺

2018.2 久米川の熊野神社参拝後に八坂神社へ。近くの西武多摩湖線の駅は「八坂」駅です。

一の鳥居 境内入り口 大きな神社です。

境内

力石

拝殿

八坂神社の由緒は寛文二年(1662年)三月二十六日の火災をはじめ、数回の火災にあってしまい創建年月は、
残念ながらわかりません。
しかし昔は「天王宮」、「祇園社」、「野口村の牛頭天王(ごずてんのう)さま」などとよばれ、「八雲神社」
といわれたこともありました。
近くの臨済宗正福寺が別当でしたが、この正福寺が上記の火災にあった際に八坂神社の大切な記録も燃えて
しまいました。
しかし本地垂迹説によりますと、「素盞嗚命(すさのおのみこと)」は「牛頭天王(ごずてんのう)」と同神とされ
「牛頭天王」は寺院の守護神ですから、弘安元年(一二七二年)の正福寺建立の際、または応永十四年(1407年)の
同寺「国宝」千体地蔵堂建立の際、以降間もなく守護神として奉斎され、のちに旧鎌倉街道沿いの現在地に社殿を
建立されたと思われます。
明治二年には社号を「天王宮」より「八坂神社」と改め、同じ年に村社に列せられました。
https://www.higasimurayama-yasakajinja.jpより。

旧社号は「武蔵野牛頭天王」

本殿

立派な拝殿・本殿です。

境内社

例大祭は毎年7月15日の直前の土曜・日曜日に行われるそうで、相当な賑わいのようですよ。

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熊野神社(東京都東村山市久米川)

2018-03-09 14:07:08 | ・神社・お寺

2018.2 東村山久米川の熊野神社へ詣でました。西武新宿線沿いの熊野公園の脇にあります。公園は地元の方々の
憩いの場所のようなとても良い公園でしたよ。

一の鳥居 境内入り口

熊野神社の創建年代は不詳ですが、元弘年間(1331~1334)久米川の合戦の時に新田義貞が後詰を置いた所といい、
久米川村の鎮守として崇敬を集めました。

拝殿 手前右は手水社。手水社の屋根が立派です。

本殿 立派な本殿です。

本殿正面

境内社には稲荷神社、伊勢神宮、御嶽社、神明宮がありました。更に小高い丘があったので調べると、

「久米川の富士塚」がありました。

霊峰富士は、山岳信仰の神体として昔からその信奉がはじまり、室町期に入り、行者、修験者を中心とした富士登山が多く、
江戸時代になり富士浅間信仰は町民農民の間に拡がり、富士講がつくられ、江戸府内八百八講と呼ばれるほどとなった。
江戸後期、行衣の富士登山は幕府によって慎まざるを得なくなったが、代わりとして御師や先達によって運ばれた富士溶岩を
据えた富士を模した塚が各地に築造され、そこを登拝し、信仰を守り続けた。
講はひと村だけではなく各村にまたがり盛行した。
久米川富士塚は、日立講中らにより明治21年(1888)築かれた。
塚の頂上には富士浅間社の石祠があり「日立講、明治21年4月、入間川先達富山常行」と銘があり、ほかに日立講の碑が
2基建立されている。
さらに、同年4月南秋津村、北秋津村講中官位講の石碑がある。
富士塚は、江戸後期から明治期に特に盛んになった富士浅間を信奉する富士講の偉大なる所産で、近世、近代の信仰を
物語るものである。
戦前は、講員が7月登山し、お山で請けた神札を講中に配るなどしたが、戦後は、市域には見られない。東村山市hpより

富士塚の上にはそびえたつような巨樹が鎮座していました。

富士塚山頂より 思いのほか眺めがよいです。
山頂の祠を探しましたが見つかりませんでした。

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川勾(かわわ)神社(神奈川県二宮町)

2018-03-06 17:23:28 | ・神社・お寺

2018.2 大磯町方面へ神社参拝に行きました。春霞、暖かな一日でした。

高来神社、六所神社参拝後に川勾神社へ向かいました。グーグルマップの航空写真地図を見ると、高麗山や二宮町の隣の
吾妻山などは太古の時代、島だったように見えますね。

延喜式式内社・相模国二之宮 川勾神社 境内入り口

川勾神社は、神奈川県中郡二宮町山西に鎮座する神社。『延喜式神名帳』に小社と記載された相模国の延喜式内社
十三社の内の一社で、同国二宮ともされる。「二宮町」の名は二宮である当社にちなみ、古くより「二宮大明神」、
「二宮明神社」とも称される。by wikipedia

一の鳥居

隋神門 藁ぶき屋根で古めかしく良い感じですね。

むむ・・・ここの隋神像、かなりの年季が入っています。ガラスの反射でうまく写真が撮れなくて残念。。

櫛磐間戸命(くしいわまどのみこと)と豊磐間戸命(とよいわまどのみこと)の像

川勾神社隋神像について上記のような掲示がありました。
なんと、神奈川県下における現在最古の隋神像との事。制作時期はその特徴から12世紀と考察されるそうです。
スゴイですね^^

広々とした境内です。

拝殿

延長5年(927年)に『延喜式神名帳』により式内社、小社へ列格された。
・前九年の役と後三年の役の折には源義家の奉幣祈願があったとされる。
・『吾妻鏡』建久3年(1192年)8月9日の条に源頼朝が北条政子の安産を「二宮河匂大明神」に祈願し、神馬が奉納した
 とある。また、源頼朝は同じ建久年間に、社殿造営と若干の社領寄進を行った。
・ 建長4年(1252年)に宗尊親王が鎌倉に下向された際は将軍事始の儀として当社に奉幣神馬を奉納したと言われ、
  鶴岡八幡宮以下の大社に神馬を奉納したとの記事がある。 

・『川勾神社誌』によれば応永年間(1394年 - 1427年)の兵火により社殿宝物など焼失し、随神の木造だけが残された
 のだと言う。
・永禄4年(1561年)上杉謙信の小田原城遠征の兵火により社殿が焼失したが、その後の元亀年間(1570年 - 1573年)
 に後北条氏によって再建されている。
・『川勾神社誌』によれば、当社は小田原城の丑寅の方角に当り、鬼門守護神として後北条氏から格別の崇敬を受けた
 のだと言う。

・天正19年(1591年)徳川家康が朝鮮出兵のため九州名護屋に出陣する際、当社に祈祷札を献上し、御朱印地50石を
 寄進した。以後、徳川家の崇敬を受け、江戸時代に入ると毎年正月に江戸城へ登城して神札を献ずるのが例となり、
 これが幕末まで続いた。
・安永9年(1780年)暴風雨によって社殿が著しく破損するも、天明7年(1787年)に神主二見氏が再建、この社殿が
 昭和初期まで至っている。by wikipedia

本殿

主祭神:大名貴命 大物忌命 級長津彦命 級長津姫命 衣通姫命

石鳥居 何処に建てられていたのでしょうね。

東五社御祭神

西五社御社殿

どちらも新しい末社です。境内西側、東側にありました。そもそもあった境内社を綺麗に建て直したのでしょうか。

社務所正面の神輿殿

社務所前ではお茶やミカンを「ご自由にどうぞ」と^^

近くに臨時駐車場がありましたので時期には相当な人手になるのでしょうが、この日は数人しか参拝者がおられず、
とても静かな境内でした。とても綺麗にされている境内でしたが深い歴史を蓄積している地場は感じましたよ。

神社のhp  http://kawawajinja.com/ 動画満載の素晴らしいhpです。

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六所神社(神奈川県大磯町)

2018-03-02 17:35:04 | ・神社・お寺

2018.2 大磯町方面へ神社参拝に行きました。春霞、暖かな一日でした。

高来神社参拝後、相模國総社 六所神社へ向かいました。

境内に隣接する駐車場へ向かう途中の大ケヤキ

こちらは国道一号線から続く参道沿いの大ケヤキ(樹齢600年)

こちらも大ケヤキ どの大ケヤキもコブコブで個性的です。

境内正面

何で鳥居がないの??神主さんへお聞きしたら、東海道本線で分断(実際はトンネルで繋がっている)された国道一号線
沿いにあるそうです。(参拝後に発見しました)でも、これだけの神社ならばこの境内正面に二の鳥居があっても良さそう
な気がするんですけど・・・。

拝殿

・第十代崇神天皇の頃、出雲地方よりこの地に氏族が移住せられ、この地を『柳田郷』と名付け、氏族の祖神たる
 櫛稲田姫命を守護神とし『柳田大神』と称しました、御創建は崇神天皇甲申の歳と伝えられております。
・大化改新後、奉遷歴勅を以て相模国八郡神祇の中心たる、相模国の総社として現鎮座地に遷座いたしました。 その時より、
 柳田大神に、一之宮寒川神社、二之宮川勾神社、三之宮比々多神社、四之宮前鳥神社、平塚八幡宮の分霊を合わせ祀り
 相模国総社六所神社と称されるようになりました。
・鎌倉時代には、源頼朝公の崇敬誠に篤く、治承四年富士川の合戦の戦勝祈願を始め、奥方の北条政子の安産祈願
 たくさんの記録があります。
・戦国時代には、戦国大名の小田原北条家の崇敬も大変厚く、また、後に関東を支配した徳川家康も此に倣い、
 六所領五十石(相模国では2番目の大きさ)寄進の御朱印状をよせ、以後歴代の徳川将軍も同様に五十石を寄進し
 明治に至っております。 尚、現在の御本殿と社殿を支える石垣は、戦国大名北条家造営のものです。
 (西暦1500年代前半)http://www.rokusho.jp/history/history.htmlより

扁額には「惣社六所大明神」 立派なしめ縄ですね。出雲で作られているそうです。

立派なお神輿です。

神輿は神社を模したものです。その証拠に必ず鳥居が付けられています。神輿の起源は、高貴な人が乗った輿(こし)と
言う乗り物にさかのぼります。奈良時代、格式ある神社から神様を分霊する際、輿を用いたことから、こうした輿を、神の輿、
「神輿」と呼ぶようにになったそうですよ。

本殿

境内の隅に置かれていたお狐さん。会話が聞こえそうでした。

境内社 稲荷神社

水神社 境内入り口付近には神池があります。

こちらは「龍神大神社」

二千年以上前、出雲の国より櫛稲田姫命様をこの地にお祀りした時、櫛稲田姫命がこの龍神様を連れてこられたそうです。

こちらは「弁天社」

境内より参道方向

手水舎

国道一号線沿いの大鳥居。参道側より。

国府(こくふ、こう)は、日本の奈良時代から平安時代に、令制国の国司が政務を執る施設(国庁)が置かれた都市。
国府付近には国庁のほかにも国分寺・国分尼寺、総社(惣社)が設置され、各国における政治的中心都市であるとともに
司法・軍事・宗教の中心部であった。by wikipedia

というわけで、とても古い歴史を携えた神社でした。

大磯は、高句麗(現在の中国東北部から朝鮮半島北部にわたる地域に存在した古代国家)からの渡来人が移り住んだという
歴史があり、中世には相模国の国府の一つが置かれていたようですし、江戸時代には東海道の宿場町として栄えたようです。
近代以降は、温暖な気候により保養地として注目され日本の海水浴の発祥とする説もあります。また大磯町は明治時代から
避暑地・避寒地として知られ、8人の首相が邸宅や別荘を構えました。いや~、古代から現代まで盛りだくさんの町でした。

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