~風に吹かれて~ by ポー(paw)

-人の中に 人の創り出した物の中に 動植物の中に 地球や宇宙の中に 魂の琴線にふれ 愛を感じながら 生き込みたい-

小被(おぶすま)神社(埼玉県寄居町)

2018-04-07 19:05:35 | ・神社・お寺

2018.3 またまた埼玉の神社を訪れました。出雲乃伊波比神社を訪れた後、道路一本で結ばれている「延喜式内社・
小被神社」へ詣でました。延喜式内社がこんなに近くに二社もあるという事は、昔はずいぶんと繁栄していたのでしょうか。

境内入り口

小被神社 略誌

鎮座地  埼玉県大里郡6寄居町大字富田字宮田1508番地
御祭神  主神 瓊瓊杵尊
      相殿 木花咲耶姫命
      相殿 彦火火出見尊
由  緒  
・ 富田邑は、第27代安閑天皇の朝.1470年前郡家郷富田鹿、塚越に居住せしに始り、富川鹿が郡内鎮護のため創祀せり
  と、伝承。
・ 延喜式内社 第60代醍醐天皇延長5年平安時代中期に編纂された有名な書物に登載されて居ると云事。本年より数えて
  1081年前。

・ 男衾郡総鎮守
・ 旧村社
御神徳  
・ 瓊瓊杵尊は皇祖天照大神の御孫にて豊葦原の瑞穂国を最初に治められた神、農耕殖産興業等日常生活を営む上に欠くことの
  出来ぬ御神徳を有する神様。
・ 相殿 木花咲耶姫命、主祭神の奥方、燃ゆる火のなかでお産をなされた故事にあやかりてお産の神様。また美麗なる神様。
  富士浅間神社の御祭神。
・ 相殿 彦火火出見尊、彦は男子の美称、火火は稲の穂の豊かな形容詞、主神瓊瓊杵尊の御子神様で御父神様の後を継ぎ、
  国土経営をなされた神様。
祭  日 
・ 1月1日       新年祭 年頭にあたり幸先を祈念し,氏子社に互礼を交す。
・ 4月第二日曜日  春祭 神社本庁より幣饌料供進、祈年祭を併せ行う。五穀豊穣諸産業隆盛氏子豊楽入学児童の安全を
  祈願する。
・ 10月第二日曜日  秋祭 以前の新嘗祭を併せ行う。本年中の生業の安泰を感謝する祭典。
・ 12月31日       大祓 年間思はずも積ったてあらふつみ汚を祓い消め清潔な心身にて新年を迎える神事。
                             平成18年10月吉日   小被神社社務所  案内板より引用

拝殿

社号額には何もなく・・・老朽化して無くなったのでしょうか?・・・・・この答えは最後に分かります。

富士浅間大社の陽

境内 手水舎と左側にずらりと境内社

http://www.buccyake-kojiki.com/archives/1062132614.html 様によると、

・『延喜式』巻9・10神名帳 東海道神 武蔵国 男衾郡「小被神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では村社。

・社伝によると、第27代安閑天皇の時代、当地の豪族であった富田鹿が郡の地主神である小被神を祀り、一社を建立したのが
 当社の始まり。

・現在までに、主神は瓊々杵尊。その妻である木花開耶姫命と、子である彦火火出見尊を相殿に祀る。

・富田鹿については不詳だが、当社祭祀に関与した氏族として、男衾郡に置かれた壬生部の管掌者として入植した渡来系氏族で
 ある壬生吉志氏がいる。

・『類聚三代格』『続日本後紀』などによれば、男衾郡大領(郡の長官)の壬生吉志福正は、承和8年(841年)、自らの子供の
 生涯の調庸を全納。 承和12年(845年)には焼失した武蔵国分寺七層塔を独力で再建した。男衾郡総鎮守である当社に対しても、
 壬生吉志氏が関与していた可能性があるという。壬生吉志氏に関しては、稲乃比売神社や、滑川町伊古の伊古乃速御玉比売神社
 との関連も指摘される。

・鎌倉時代になると、当社は武蔵七党の猪俣党に属する男衾氏の崇敬を受けた。 『武蔵七党系図』によると、猪俣時範の子、
 重任が当郡富田に移任し、男衾五郎と称した。また、その子の太郎もやはり富田に居住して无動寺氏と名乗った。

・両氏の館跡については、男衾氏が字堀の内、无動寺氏が字前塚越の現在の不動寺境内であると伝える。 この不動寺境内の
 「大明神御下屋敷」と呼ばれる地が、当社の旧鎮座地だったという。 移転については、天正年間(1573年-1592年)の荒川の
 洪水により右岸にあった赤浜村が対岸に移住したことにより、富田村との境界争いになった。 この赤浜村の洪水については、
 町内赤浜の出雲乃伊波比神社に関連伝承が残る。富田村民は江戸時代初期、当社を村境に移転し、境界争いを解決した。

・『新編武蔵風土記稿』によれば、当社の別当は京都智積院の末寺である大聖山真言院不動寺。

・明治になると、神仏分離により不動寺は当社から分離、明治2年(1869年)、不動寺住僧弟子恵隆が還俗し、大富主殿と改名して
 当社の神職となった。 明治40年(1907年)、堂ノ入と叺ヶ谷戸の山神社二社、大久保の愛宕社・原の内宮社・塚越の稲荷社・
 鳥羽の白山社・鷲丸の浅間社を合祀。 境内には今も、中郷愛宕神社、谷津白山神社、塚越稲荷神社、下郷内の宮社、牛頭天王宮など
 の社や、石祠、富士浅間大神などがある。

・現在、当社内陣には狼の頭骨が納められているが、これは合祀した山神社の信仰にかかわった奉納品であろうとされる。

・当地の文化財として、明治維新に活躍した山岡鉄舟揮毫の社号額と軸が社務所にある。いずれも肉太で豪胆な筆勢をもって書かれた
 もの。 このうち、社号額は、当時、鉄舟に誤って「男衾」と依頼してしまったとの逸話を持つもので、このためにいまだに拝殿に
 掛けられず、社務所内に掛けてあるという。

なんと社号額が無かったのは、このような理由だったとは・・・・それにしてもずいぶんと月日が流れているのですから、
何とかならないんですかねえ。

男衾(おぶすま)郡は、現在の熊谷市・深谷市・寄居町・小川町辺りのようですが、古墳群が多い北武蔵でも特に多く、延喜式
神名帳に3社(小被、出雲乃伊波比、稲乃賣神社)記されているなど、人口も多かったようですよ。


出雲乃伊波比神社(埼玉県寄居町)

2018-04-06 07:24:52 | ・神社・お寺

2018.3 またまた埼玉の神社を訪れました。まずは、出雲乃伊波比神社(埼玉県寄居町)。

埼玉県で出雲いわい系の神社は、今までに

・出雲伊波比神社(毛呂山町)・・・延喜式神名帳では入間郡鎮座5社の筆頭

・毛呂神社(鳩山町)・・・ 入間郡毛呂の臥龍山に鎮座する出雲伊波比神社の祭神大己貴命と天之穂日命を勧請

・出雲祝神社(入間市)・・・平安時代編纂の『延喜式』神名帳記載の入間郡「出雲伊波比神社」に比定。

を詣でています。

立派な鳥居です。

境内側から 右側は境内社

これを読むと、延喜式内社・出雲乃伊波比神社と呼ばれるようになったのは明治維新後のようですね。
それまでの直近の400年は「白幡八幡社」、今でも八幡様と呼ばれているようです。

拝殿

本殿

出雲乃伊波比神社は埼玉県に熊谷とここ寄居町の二社があるそうです。寄居町のこの社は「延喜式内社・小被神社」に非常に
近く200mくらい、道路一本で結ばれています。延喜式内社がこんなに近くに二社もあるという事は、昔はずいぶんと繁栄していた
のでしょうか。

御祭神:須佐之男命で、三穗津姫命、誉田別命、天児屋根命、天太玉命、天穗日命が配祀され、天照皇大神、軻遇突智命が合祀。

拝殿脇から 左奥は「妙見社」

赤浜地区の妙見社は、天正年間(西暦一五七三年~一五九一年)以前の遠い昔より妙見講を組織して、厚く信心して、今日なお
「妙見様」の通称で親しまれていました。近年まで十二月三日の例祭日には、講中の家を順番に祭礼の準備やお祝の宿として
集まり、幟が立ち先達様の祈願が終ると団子を配り、にぎやかな社頭となりました。 諸般の事情により昭和五十年(一九七五年)
三月三日を以って一時中止することになりました。長い年月で社殿の傷みも進み、倒壊寸前となり平成三年(一九九一年)
二月十六日講中一同相談の結果、改築することに決定しました。四月三日仮殿遷座祭を斎行し社殿を解体したところ束木に
「嘉永六年(一八五三年)癸丒孟春(みすのと丑年旧暦正月)奉造立講中為安全也」裏面には「大工 浅次良 又八」の二名が記録
されていました。壁面の横板には「妙見宮殿修繕寄付連名及紀元二千五百五十五年 明治二十八年(一八九五年)と記されていました。
平成三年四月十二日 上棟 六月二日 本殿遷座祭を斎行しました。


中世以降は秩父大宮妙見宮・秩父妙見宮として北辰(北極星)・北斗(七星)の妙見信仰で栄えた。明治の神仏分離により仏教の
「妙見菩薩」をお祀りできなくなったため、同一とみなされる神道の「天之御中主神」をお祀りしている。

妙見(ミョウケン)信仰

一般には仏教でいう北辰妙見菩薩(ホクシンミョウケンボサツ)に対する信仰をいうが、その原姿は、道教における星辰信仰、特に
北極星・北斗七星に対する信仰である。
道教では、北天にあって動かない北極星(北辰ともいう)を宇宙の全てを支配する最高神・天帝(太一神ともいう)として崇め、その
傍らで天帝の乗り物ともされる北斗七星は、天帝からの委託を受けて人々の行状を監視し、その生死禍福を支配するとされた。
この北辰・北斗を神格化したのが『鎮宅霊符神』(チンタクレイフシン)で、それが仏教に入って『北辰妙見菩薩』と変じ、神道では
『天御中主神』(アメノミナカヌシ)と習合したという。
この北辰・北斗信仰がわが国に入ったのは推古天皇のころというが、その真偽は不明。奈良時代に知られていたのは確かである。


増形白山神社(埼玉県川越市)

2018-04-02 13:46:08 | ・神社・お寺

2018.3 川越郊外の神社を訪れました。

神社入り口

写真を撮っていたら、こんな不思議な写真が・・・・・。
な~んて、ちょうどiphoneで撮っていた時に着信があったので携帯電波障害と思われます^^

右側・・・かなりの巨木の御神木です。幹の下方に穴があるのですが、「まぶたを閉じてこの幹の周りを回ると
(何周するかは不明)この穴から白蛇が出てくるといわれている」との事。
https://blogs.yahoo.co.jp/maki57562000/22306021.html 様より。

一の鳥居 拝殿正面

拝殿

境内社 愛宕社

当社は石川県石川郡鶴来町鎮座の白山比咩 神社の分祀であると伝えられる。創立年月は 不詳であるが、明暦三年当社の
別当、増形山 本明寺祐純法印が、旧字、葛茂川より現在地 に移転するという。明治五年村社に列し、明 治四十一年増形
字一本榎八坂神社、同、字泥 辺厳島神社の二社を合祀する。明治四十二年 神撰幣帛料供進神社に指定される。
昭和二十 八年六月五日、宗教法人となる。 旧拝殿は天保四年の改築で、大正七年草葺 屋根を瓦葺とする。老朽化が進み、
拝殿の改 築が、昭和六十二年一月十八日、氏子の総意 により決起される。改築委員会が結成され、 氏子のみならず崇敬
者各位からも、多額のご 芳志が寄せられる。改築委員を中心に総力を あげて、この大事業に取り組み、三年有余の 歳月を
費して、ついに完成される。 はからずも、御大典奉祀の時、氏子崇敬者 各位の功績を永く久しく伝えるものである。
平成二年五月二十日 白山神社宮司 関山教純 拝殿改築記念碑より。

白 山 神 社

御祭神 主祭神:菊理姫命 伊弉諾命 伊弉冉命

周りの景色に溶け込んだまさに氏神様という感じの空気・空間でしたよ。


大袋白髭神社(埼玉県川越市)

2018-04-02 13:27:59 | ・神社・お寺

2018.3

川越郊外の神社を訪れました。

良い天気です^^

一の鳥居

二の鳥居

拝殿

本殿の彫刻

力石を持ち上げていますね^^

祭神:猿田彦命・清寧天皇

境内社:稲荷社、八坂社、薬師、庚申

たくさんの力石

境内全景 拝殿前には土俵がありました。昭和30年頃まで白髭神社の神事で相撲の巡業があり、ここで相撲が行われて
いたそうですよ。

春ですねー。ホトケノザがたくさん咲き始めていました。

白髭神社に関しては、以前投稿しています↓

奈良時代の創建と伝えられ、武蔵国を開拓するためにこの地に居住し高麗郡をつくった高句麗人たちが築いた神社とされて
いる。高句麗人は高麗郡に26の神社を創建し、それぞれを村の鎮守として崇敬したという(高麗郡における高句麗人の創建

した神社として日高市の高麗神社が有名)。江戸時代頃までは和田、高倉、大六道(上新田)、小六道(中新田)、
太田ヶ谷、針うり、脚折の7村(現在全て鶴ヶ島市)の総鎮守として崇拝され、明治時代以降は村社として存在していた。
by wikipedia

・白鬚神社(しらひげじんじゃ)は、の総本社は、滋賀県高島市鵜川にある。

・高島の白鬚神社は、沖島を背景として琵琶湖畔に鳥居を浮かべることから、「近江の厳島」とも称される。

・祭神は猿田彦命 (さるたひこのみこと、猿田彦大神)

・国史に「比良神」と見える神名が当社を指すとされており、元々の祭神は比良山の神であるともいわれる。人格神が
 猿田彦命とされた由来は不詳であるが、猿田彦命は水尾神社(高島市拝戸)の縁起『三尾神社本土記』にも見えること
 から、両社の密接な関係が指摘される。

 ・社伝では、垂仁天皇(第11代)25年に倭姫命によって社殿が建てられたのが当社の創建であるという。また白鳳2年
 (674年)には、天武天皇の勅旨により「比良明神」の号を賜ったとも伝える。

 ・後述の国史に見える神名「比良神」から、当社の元々の祭祀は比良山に対するものであったとする説がある一方で
 白鬚信仰の多く分布する武蔵国北部や近江・筑前には渡来人が多いことから、それら渡来人が祖神を祀ったことに
 始まるという説もある。by wikipedia

「白ひげさん伝説」

http://www.rekitan.co.jp/styled-2/styled-25/index.html

こちら様によると(抜粋)

・埼玉県の日高市を中心として、川越市、狭山市、入間市、飯能市、鶴ヶ島市には、約30社もの白髭神社が点在している。

・埼玉の白髭神社は村社が多く、人々に慕われ、愛されてきた場所である。

・高句麗の人々の痕跡は、地名や遺跡で知ることができる。甲斐の国~巨摩郡。相模~高麗山。東京~狛江市。こうして、
 分散され住まわされた人々を一箇所にまとめて作ったのが、高麗郡。

高麗郡がおかれた場所は、いわゆる空閑地。弥生時代、古墳時代の集落の跡は発見されていない。この原野を開拓し、
 田や畑を作り、窯の跡、製鉄の跡等も発見されている。集まった1799人が、短期間のうちに高度な文化的生活を送る

 ようになった。それを実現するための強力な指導者が高麗若光であったと考えられる。

・日本書記には、666年(唐と新羅からの挟み撃ちに合いながら、必死で戦っている時)、高句麗からの使いが日本に
 やって来たと書かれている。その中の一人に玄武若光の名前がある。そして、続日本紀によると703年、

 「従五位下高麗若光に王(こきし)の姓を賜う」との記載が登場する。この段階での王の姓の授与は、既に高句麗からの
 渡来人を組織し、ある土地で名をなした首長になりつつあったことを意味する。この地とは、神奈川県の大磯であったと
 思われる。高麗山の下にある高来神社が、その伝承を伝えている。

高麗神社も昔は「白髭神社」と呼ばれていた。高麗神社は、高麗若光を祀るとともに、代々直系の子孫が宮司職を継いで
 おられる。「白髭神社」は、いつしか、高麗若光のイメージと重なり、本物の「白鬚」をはやした若光を祀る神社へと

 変遷していったのではないだろうか。この地で言われる「白髭明神」とは、高麗若光に他なりません。

・四神の考え・・若光は玄武、すなわち、北の守り神。青龍の地が上総、大磯に朱雀、甲斐に白虎であったのではないか。

・夏至の頃の星座・・北極五星のひとつこぐま座のβ星コカブ、右側の、北斗七星、そして左斜め上には現在の北極星
 こぐま座のα星ポラリスの位置関係が、高麗神社と白髭神社の分布と同じである。玄武若光は、玄武(北)の空の

 不動の星となり、それを囲むように白髭神社が作られた。


南大塚菅原神社(埼玉県川越市)

2018-04-02 13:01:16 | ・神社・お寺

2018.3

川越郊外の神社を訪れました。まずは菅原神社。

参道 国道16号、川越市南大塚の交差点の歩道橋の上より。

参道入り口

一の鳥居

境内は梅が綺麗でした。

拝殿

拝殿内

一間社流造の本殿は万延元年(1860)4月の造営で、地元の大工・瀧嶋秀五郎の手によるものです。拝殿と本殿とは
反橋で結ばれるという珍しい社殿構成。う~素晴らしいです。

・社伝によれば南北朝期の創建で、慶長十一年(一六〇六)この地を開発した藤倉大膳が信仰したと伝わります。
・江戸中期は西福寺が別当をつとめていました。
・本殿は、小型の一間社流造で、屋根は木瓦葺とし、千鳥破風、軒唐破風を付けています。身舎の架構は複雑で、かつ
 彫刻も多用しますが、江戸末期に川越に流行する江戸彫をふんだんに用いた本殿のように、壁一面に彫刻をはめ込む
 ようなことはありません。また、本殿の前に入母屋造り、桟瓦葺の拝殿がありますが、これも本殿も同時期の造営です。
拝殿と本殿とは反橋で結ばれており、連続する空間を形成するという珍しい社殿構成となっています。また、当社には、
 建地割図一枚、「天満宮御普請着帳」「天満宮木割覚帳」の造営関係文書二点が残されています。これらの史料から、
 現社殿は万延元年四月の造営で、当村の大工瀧嶋秀五郎注暉の手になるものとわかります。棟札も二枚残されており、
 造営関係史料が豊富に残っていることも貴重です。(川越市教育委員会掲示より)

境内社は、稲荷社、牛頭天王社、御嶽社。

拝殿内には、拝殿から本殿への橋があって、不思議な空間をかもしだしていました。国道16号の脇ですし、お隣は麺工場で
白い煙がもくもく出ていましたが、良好にお手入れされている空間でした。

帰って調べて分かったのですが、社殿は「菅原神社東古墳」(「南大塚古墳群」の1つで直径20mほど)の上に建てられて
いるそうです。