◆ 障害者差別と天皇制ナショナリズム
-処分撤回と明日への希望を共に語るため-
Ⅰ フロア形式から壇上形式への変化
特別支援学校の卒業式・入学式で君が代斉唱の時、起立が困難な「障害」のある子どもたちに、起立斉唱を強要してきている。東京ではフロア形式をやめ、正面壇上にまでスロープを付けて車いすで登らせて、卒業証書を受け取らす為、13メートルのスロープを60万円かけて作ったと伝えられている。
Ⅱ 特別支援学校の君が代斉唱は、国家あっての個人の観念のスリコミの典型を示す
フロア形式は、こどもたちと保護者、教職員、校長らが同一の高さに並んでいて、対等平等の関係で協働して参加の責務を実践し、子どもの成長に力を寄せ合ってきた姿を具体的に形象化した物である。保護者は子どもと対面し、卒業に際し成長した姿を友人・仲間の晴れやかな顔と共に見ることができる。
それは卒業が「賭け事はもう卒業」というように「終り」を意味するのでなく、英語で卒業をグラディエーション(graduation)というように、段々と色が変わる即ち次の段階への出発、ステップともいうべきものである。
また卒業式をコメンスメント(commencement)ともいうように「始まり」の意味である。
だが壇上で卒業証書を校長から受け取るということは「卒業証書授与式」というように、上からの目線で教育が国家権力によって施され、子どもは受身に客体化されていることを意味している。
教育の主体は国家で、国家により学業の達成度を認定されるという構図が、「日の丸」(国旗)の下で行なわれる形に表れている。保護者らは子どもたちの背中を見るだけで、表情を通じての人間的共感がない。
Ⅲ 国に役立たない「障害」者は「非国民」…排除のナショナリズム
ハンディのある身体で無理をして「君が代」を起立し斉唱させるのは、国家、天皇への敬意表明の強要である。「国家により恩恵を受けたので感謝せよ」というメッセージ性をもった行為である。
起つのが当たり前、起たない者は国民ではない、非国民で一人前でないという差別観の表れである。それは戦争中、「障害」者を戦闘能力のない者として排除してきた「障害」者差別に通じるものである。
かつてドイツのナチス・ファシズムが「障害」者を劣等種と見なして、ユダヤ人より先に虐殺していった「優生学思想」に通じる思想的退廃を意味している。
Ⅳ 「見えない目で、見えない敵を破れ」…同化のナショナリズム
戦時中、「障害」者は排除されただけでなく、逆に利用されてきた。眼が見えない視力障害者は、他の感覚が発達するとして、聴覚能力を利用し、夜間、爆音を聞いて敵の機種と来る方向をあてるという訓練をさせられ、実戦に動員された。
その時のスローガンは「見えない目で、見えない敵を破れ」であった。
また潜在勤労力の発揮だとして、聴覚障害者は騒音を気にしないからと旋盤工にされた。
「戦争は発明の母、創造の父」「決戦を心のまなこは鉄壁だ」のスローガンが喧伝された。障害者はハンディをもっていても頑張っている、健常者のお前らはもっとお国の為に頑張れ」と戦意高揚に障害者は利用されたのである。
Ⅴ 教育とは「囚われの聴衆」に対する、ガバメント・スピーチに対する美称
「君が代」不起立への減給処分撤回の裁判を闘っている府立支援学校の奥野泰孝さんは次のように述べている。
「校長は粛々と卒業式をしたいという。だが子どもたちは『ああ一』とか『おお一』と言ったり、立ち上ったりする。だが教師は子どもたちを別室に連れていきはしない。」と。
生徒の自然な自己表現と個人の尊厳性を守るのが教師の努めだからである。だが校長は「粛々と」ということでこの子どもたちの行動を一糸乱れぬビシッとした統一行動で抑圧しようとする。
その根拠は何か。中学校学習指導要領解説(文部科学省平成20年9月)に、国旗掲揚、国歌斉唱の目的を「入学式や卒業式は…厳粛かつ清新な雰囲気の中で…国家など集団への所属感を深める上でのよい機会となるものである。」とのべている。
英語で「わかる」ということをunderstandという。「下に立つ」即ち、最も下に押し込められた人々、虐げられている人々の立場に立つことによって、物事の本質が一番よく解るということである。
命に関わる障害を持つ子どもへの行動を放棄して教師は「君が代」を起立斉唱し、且つ子どもたちに起立斉唱を「指導」の名において強制するのは、厳粛な雰囲気の中での国家への所属感の育成にある本質をよく表している。
大阪府教育委員会中原教育長の卒・入学式における教職員への君が代起立斉唱の職務命令は、「教育委員会の教職員の服務の監督に関する権限」においてなされた「服務規律の厳格化」のために出されたものであり、「教育内容、教育方法に関して発せられたものではない。」という。
だがこの教育長通知の元になっている大阪府君が代強制条例は「教職員による国歌の斉唱を定めることにより、府民、とりわけ次代を担う子ども(の)…我が国と郷土を愛する意識の高揚に資する…」とあるように、明確に教師らを起たせるという方法によって、子どもたちに国を愛する心を高揚させるという教育方法と、「日の丸」を正面に仰ぎ見て、天皇の治世の永続性を願う「君が代」を一斉に歌うという教育内容を強要しているのである。
明らかに教育への政治介入である。
荘重な曲と咳をすることすら憚る同調行動への圧力感、緊張感が、天皇へのカリスマ性を通しての国家権力の絶対性を皮膚感覚で体得さそうとするものである。
これは戦時中、国家神道により現人神としての天皇への忠誠表明、信仰告白としての「君が代」斉唱という宗教性を引きずったものである。
ドイツの神学者シュライエルマッハーは「宗教の本質は教義にあるのではなく、儀式によって引き起こされる感情である」との趣旨をのべている。
それに加えて、不起立者を処罰することで「君が代」を唱わない人は悪い人、「非国民」という誤った認識を植えつけていく。
最高裁1976年5月21日の旭川学テ判決では「殊に個人の基本的自由を認め、その人格の独立を国政上尊重すべきものであるとしている憲法の下においては、子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような国家介入、例えば誤った認識や一方的な観念を子どもに植え付けるような内容の教育を施すことを強制するようなことは憲法26条、13条の規定からも許されない。」と判示している。国家は価値中立的でなければならないのだ。
だが現実はそうではない。アメリカの連邦裁判官のラグラスの言葉を借りれば、子どもも教師も学校、そして卒・入学式会場という逃げるに逃げられない閉鎖空間に閉じこめられた「囚われた聴衆」(Captive Audience)にされているといえる。
彼はのべている。「教育とは『囚われの聴衆』に宛てたガバメント・スピーチ(Government Speech)に対する政府が冠した美称である」と。
Ⅵ 明日の希望のために、勝利の記憶を広めよう
「日の丸の赤は、じんみんの血 日の丸の白は、じんみんの骨」(栗原貞子)といわれる。人殺しの侵略戦争の加害のシンボルである「日の丸・君が代」は、天皇制の戦争責任に関わるものである。
だから今の日本国や日本国民統合の象徴として認めるか否かは、各自の歴史観・世界観に関わるものである。各自の思想・良心の自由に関わってくる。
2009年9月の大阪高裁確定判決は「国歌がになってきた戦前からの歴史的役割に対する認識や歌詞の内容から君が代に対し負のイデオロギーないし抵抗をもつ者が、その斉唱を強制されることを思想信条の自由に対する侵害であると考えることには一理ある。とりわけ、『唄う』という行為は、個々人にとって情感を伴わざるを得ない積極的身体的行為であるから、これを強制されることは、内心の自由に対する侵害となる危険性が高い。したがって、君が代を斉唱しない自由も尊重されるべきである。」と判示している。
この判決は2002年2月の大阪府立東豊中高校の卒業式で、生徒たちに「本校職員会議で君が代は実施しないことが決議されています。言うまでもありませんが、歌う、歌わない、退出するしないは、皆さんの良心に従って判断してください。」と「内心の自由」の権利があることを告知した教師が戒告処分を受けた件での撤回要求の裁判闘争で私たちが勝ち取ってきたものである。
「人間の権力への闘いは、忘却に対する記憶の闘いに他ならない。」(ミラン・クンデラ)
記憶の暗殺者たる権力を撃つためには、私たちの闘ってきた記憶を広め、「大衆が思想を把むと物質的な力になる」(レーニン)ような状況をつくり出すとき、権力の厚い壁を打ち破ることができるのだ。
共に明日への希望を語り合いながら、友よ、肩を組んで進もうではないか!
『支援学校の君が代不起立 応援団通信 No.5』(2014/8/18)
-処分撤回と明日への希望を共に語るため-
黒田伊彦(くろだよしひろ)「日の丸・君が代」強制反対大阪ネット・代表
Ⅰ フロア形式から壇上形式への変化
特別支援学校の卒業式・入学式で君が代斉唱の時、起立が困難な「障害」のある子どもたちに、起立斉唱を強要してきている。東京ではフロア形式をやめ、正面壇上にまでスロープを付けて車いすで登らせて、卒業証書を受け取らす為、13メートルのスロープを60万円かけて作ったと伝えられている。
Ⅱ 特別支援学校の君が代斉唱は、国家あっての個人の観念のスリコミの典型を示す
フロア形式は、こどもたちと保護者、教職員、校長らが同一の高さに並んでいて、対等平等の関係で協働して参加の責務を実践し、子どもの成長に力を寄せ合ってきた姿を具体的に形象化した物である。保護者は子どもと対面し、卒業に際し成長した姿を友人・仲間の晴れやかな顔と共に見ることができる。
それは卒業が「賭け事はもう卒業」というように「終り」を意味するのでなく、英語で卒業をグラディエーション(graduation)というように、段々と色が変わる即ち次の段階への出発、ステップともいうべきものである。
また卒業式をコメンスメント(commencement)ともいうように「始まり」の意味である。
だが壇上で卒業証書を校長から受け取るということは「卒業証書授与式」というように、上からの目線で教育が国家権力によって施され、子どもは受身に客体化されていることを意味している。
教育の主体は国家で、国家により学業の達成度を認定されるという構図が、「日の丸」(国旗)の下で行なわれる形に表れている。保護者らは子どもたちの背中を見るだけで、表情を通じての人間的共感がない。
Ⅲ 国に役立たない「障害」者は「非国民」…排除のナショナリズム
ハンディのある身体で無理をして「君が代」を起立し斉唱させるのは、国家、天皇への敬意表明の強要である。「国家により恩恵を受けたので感謝せよ」というメッセージ性をもった行為である。
起つのが当たり前、起たない者は国民ではない、非国民で一人前でないという差別観の表れである。それは戦争中、「障害」者を戦闘能力のない者として排除してきた「障害」者差別に通じるものである。
かつてドイツのナチス・ファシズムが「障害」者を劣等種と見なして、ユダヤ人より先に虐殺していった「優生学思想」に通じる思想的退廃を意味している。
Ⅳ 「見えない目で、見えない敵を破れ」…同化のナショナリズム
戦時中、「障害」者は排除されただけでなく、逆に利用されてきた。眼が見えない視力障害者は、他の感覚が発達するとして、聴覚能力を利用し、夜間、爆音を聞いて敵の機種と来る方向をあてるという訓練をさせられ、実戦に動員された。
その時のスローガンは「見えない目で、見えない敵を破れ」であった。
また潜在勤労力の発揮だとして、聴覚障害者は騒音を気にしないからと旋盤工にされた。
「戦争は発明の母、創造の父」「決戦を心のまなこは鉄壁だ」のスローガンが喧伝された。障害者はハンディをもっていても頑張っている、健常者のお前らはもっとお国の為に頑張れ」と戦意高揚に障害者は利用されたのである。
Ⅴ 教育とは「囚われの聴衆」に対する、ガバメント・スピーチに対する美称
「君が代」不起立への減給処分撤回の裁判を闘っている府立支援学校の奥野泰孝さんは次のように述べている。
「校長は粛々と卒業式をしたいという。だが子どもたちは『ああ一』とか『おお一』と言ったり、立ち上ったりする。だが教師は子どもたちを別室に連れていきはしない。」と。
生徒の自然な自己表現と個人の尊厳性を守るのが教師の努めだからである。だが校長は「粛々と」ということでこの子どもたちの行動を一糸乱れぬビシッとした統一行動で抑圧しようとする。
その根拠は何か。中学校学習指導要領解説(文部科学省平成20年9月)に、国旗掲揚、国歌斉唱の目的を「入学式や卒業式は…厳粛かつ清新な雰囲気の中で…国家など集団への所属感を深める上でのよい機会となるものである。」とのべている。
英語で「わかる」ということをunderstandという。「下に立つ」即ち、最も下に押し込められた人々、虐げられている人々の立場に立つことによって、物事の本質が一番よく解るということである。
命に関わる障害を持つ子どもへの行動を放棄して教師は「君が代」を起立斉唱し、且つ子どもたちに起立斉唱を「指導」の名において強制するのは、厳粛な雰囲気の中での国家への所属感の育成にある本質をよく表している。
大阪府教育委員会中原教育長の卒・入学式における教職員への君が代起立斉唱の職務命令は、「教育委員会の教職員の服務の監督に関する権限」においてなされた「服務規律の厳格化」のために出されたものであり、「教育内容、教育方法に関して発せられたものではない。」という。
だがこの教育長通知の元になっている大阪府君が代強制条例は「教職員による国歌の斉唱を定めることにより、府民、とりわけ次代を担う子ども(の)…我が国と郷土を愛する意識の高揚に資する…」とあるように、明確に教師らを起たせるという方法によって、子どもたちに国を愛する心を高揚させるという教育方法と、「日の丸」を正面に仰ぎ見て、天皇の治世の永続性を願う「君が代」を一斉に歌うという教育内容を強要しているのである。
明らかに教育への政治介入である。
荘重な曲と咳をすることすら憚る同調行動への圧力感、緊張感が、天皇へのカリスマ性を通しての国家権力の絶対性を皮膚感覚で体得さそうとするものである。
これは戦時中、国家神道により現人神としての天皇への忠誠表明、信仰告白としての「君が代」斉唱という宗教性を引きずったものである。
ドイツの神学者シュライエルマッハーは「宗教の本質は教義にあるのではなく、儀式によって引き起こされる感情である」との趣旨をのべている。
それに加えて、不起立者を処罰することで「君が代」を唱わない人は悪い人、「非国民」という誤った認識を植えつけていく。
最高裁1976年5月21日の旭川学テ判決では「殊に個人の基本的自由を認め、その人格の独立を国政上尊重すべきものであるとしている憲法の下においては、子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような国家介入、例えば誤った認識や一方的な観念を子どもに植え付けるような内容の教育を施すことを強制するようなことは憲法26条、13条の規定からも許されない。」と判示している。国家は価値中立的でなければならないのだ。
だが現実はそうではない。アメリカの連邦裁判官のラグラスの言葉を借りれば、子どもも教師も学校、そして卒・入学式会場という逃げるに逃げられない閉鎖空間に閉じこめられた「囚われた聴衆」(Captive Audience)にされているといえる。
彼はのべている。「教育とは『囚われの聴衆』に宛てたガバメント・スピーチ(Government Speech)に対する政府が冠した美称である」と。
Ⅵ 明日の希望のために、勝利の記憶を広めよう
「日の丸の赤は、じんみんの血 日の丸の白は、じんみんの骨」(栗原貞子)といわれる。人殺しの侵略戦争の加害のシンボルである「日の丸・君が代」は、天皇制の戦争責任に関わるものである。
だから今の日本国や日本国民統合の象徴として認めるか否かは、各自の歴史観・世界観に関わるものである。各自の思想・良心の自由に関わってくる。
2009年9月の大阪高裁確定判決は「国歌がになってきた戦前からの歴史的役割に対する認識や歌詞の内容から君が代に対し負のイデオロギーないし抵抗をもつ者が、その斉唱を強制されることを思想信条の自由に対する侵害であると考えることには一理ある。とりわけ、『唄う』という行為は、個々人にとって情感を伴わざるを得ない積極的身体的行為であるから、これを強制されることは、内心の自由に対する侵害となる危険性が高い。したがって、君が代を斉唱しない自由も尊重されるべきである。」と判示している。
この判決は2002年2月の大阪府立東豊中高校の卒業式で、生徒たちに「本校職員会議で君が代は実施しないことが決議されています。言うまでもありませんが、歌う、歌わない、退出するしないは、皆さんの良心に従って判断してください。」と「内心の自由」の権利があることを告知した教師が戒告処分を受けた件での撤回要求の裁判闘争で私たちが勝ち取ってきたものである。
「人間の権力への闘いは、忘却に対する記憶の闘いに他ならない。」(ミラン・クンデラ)
記憶の暗殺者たる権力を撃つためには、私たちの闘ってきた記憶を広め、「大衆が思想を把むと物質的な力になる」(レーニン)ような状況をつくり出すとき、権力の厚い壁を打ち破ることができるのだ。
共に明日への希望を語り合いながら、友よ、肩を組んで進もうではないか!
『支援学校の君が代不起立 応援団通信 No.5』(2014/8/18)
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